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2011-10-22

なぜデモは反社会的なのか/クチばかりで行動しない人たち

| 01:06 | なぜデモは反社会的なのか/クチばかりで行動しない人たちを含むブックマーク なぜデモは反社会的なのか/クチばかりで行動しない人たちのブックマークコメント






「なぜ日本の若者はデモをしないのか」という考察をたくさんの人がしている。いわく、学校教育と受験戦争で去勢されてしまっているから、とか。デモを先導しているのが反社会的勢力だから、とか。これらの指摘には一片の真実があるものの、本質を見抜けていない。つーか、みんな難しく考えすぎ。

日本の若者がデモをしない理由は、もっとずっとシンプル:みんなの興味がないからだ。

たとえば若者のテレビ離れの原因は、魅力的な番組がないからだ。小学校の情報教育のせいではないし、テレビ局が反社会的勢力に乗っ取られているからでもない。視聴者の嗜好をつかめる番組が減っているからにすぎない。

デモも同じだ。社会・経済・政治。これらのトピックに興味を引かれる人間は少ない。若者に限らず、圧倒的多数の人が「できれば考えたくないなぁ」と思っている。野球の結果と芸能人のスキャンダルだけを考えて生きていきたいと願っている。毎朝ニュースを読み漁ってブログを書くはてな民のような人々は、世の「ふつう」の基準から大きく外れた奇人変人のたぐいだ。

では、なぜ興味を持たないのだろう。

社会問題にせよ経済にせよ、私たちの生活に直結している。私たちがどんな舞台装置のうえで日常を演じているのか、なぜ無関心でいられるのだろう。次の二つの記事では、そんな現代日本人の「気分」をうまく分析していた。



青年のいなくなった日本と欧米のデモ

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20111020/223341/?rt=nocnt

いつもながら人間の“気分”に対する小田嶋さんの洞察は鋭い。

そもそもデモを起こすような人間は、社会から「大人」として認められるだけ成熟していながら、かつ、組織に属さず、既存の「社会」の外側にいる人――つまり、青年だ。

ところがこの「青年」という概念はそもそも明治期に欧米から輸入されたものであって、現代の日本では絶滅の危機に瀕している。いつまでも大人になれない「子供」と、企業などの組織に帰依した「おっさん」しかいない。そんな現代日本でデモなんて起こるわけないよね、と小田嶋さんは指摘している。



いち若者の立場から、若者が何も主張しない理由を主張してみる。

http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20111020/1319108480

現代の日本を「児童虐待のあった家庭」になぞらえて考察したエントリー。現代の若者が(デモを含め)目立った主張をしないのは「言ってもムダだと思っているから」だ。被虐待児のように大人の顔色をうかがいながら、“大人に怒られないこと”を何よりも優先して行動する。当然、自分の意見を「社会」に向かって主張することなどできず、ただ口をつぐんでしまう。――という要旨なのだけど、私の要約だとなんだか説得力がないな。文章力不足。ぜひ原文を読んでみてください。うなずける点がたくさんあると思う。



     ◆



つまり、日本の若者が社会・経済・政治に興味を持たないのは次の二つの理由からだ。

「(1)興味を持つ“青年”的な層がいない」

「(2)興味を持っても無駄だという空気に支配されている」

このような状況下で、はてな民のような奇人変人は強烈な認知不協和を抱えることになる。

認知的不協和とは、「たばこをやめられない人」の例を使って説明されることが多い。「たばこは体に悪い」という情報を知った喫煙者は、「たばこを吸っている自分」に矛盾を感じる。この矛盾が、認知的不協和だ。人はこういう自己矛盾を解消し、認知的不協和を低減させようとする。喫煙者の場合なら「たばこをやめる」のが根本的な解決策なのだが、しかし禁煙には厳しいストレスがともなう。そこで「たばこはアルツハイマーの発症率を下げる」とか「たばこが体に悪い、というのはガセ」だとか、「喫煙(している自分)を肯定してくれる情報」に人は飛びつく。/他にもイソップ物語の『キツネとすっぱいブドウ』の話が典型的な認知的不協和の例だ――とWikipediaに書いてあった。

社会問題でも同じだ。

社会の動勢にビンカンな人ほど、「問題を知りながら何もできない自分」に自己矛盾を感じてしまう。「俺はこれが問題だと知っている」→「だけど言っても無駄でしょう?」「デモなんかじゃ世の中は変わらないでしょう?」問題を深刻に考える人ほど、この認知的不協和は大きくなる。

では、この自己矛盾をどうやって解消すればいいだろう。



     ◆



反デモを唱える若者がいる。

デモなんてウヨク・サヨクの趣味だろう、やっても無駄だし、反社会的な行為でしかないだろう、もっと他にやるべきことがあるはずだ――なんて意見をそこらじゅうで目にする。

たとえば社会問題に無関心で、いま自分が楽しければそれでいい、そういう若者が反デモを訴えるのなら理解できる。そういう若者はおそらく、今ここにある社会に満足しているはずで、余計な変化を望んでいないだろうからだ。

が、反デモを訴えるのはそういう若者ではない。むしろ社会問題にビンカンで、今のままではダメだ、なにかを変えなくてはダメだ――と切実に考えている若者だ。



反デモの典型的な論理展開はこうだ:

・まず、デモは世の中になにかを訴えるための最終手段であり、独裁国家ならともかく、平穏な先進国では“犯罪的”だ。たとえ表現の自由で認められているとしても、「人が集まり声を出して歩く」のは正義にもとる。

・したがって、なにかを主張したいのなら、もっと真っ当な手段で訴えるべきだ。

・また、デモの参加者はロクに選挙にも行ったことのない人たちだ。本当に困窮している人はデモに参加する余裕さえないに違いない。

・さらに、日本のデモの問題点は「明確な問題意識・ゴールがない」ことだ。物好きが趣味的にやっているにすぎない。

・だから日本のデモには参加すべきではない。

一見するともっともらしい意見だが、予断と偏見に満ちている。

まず、デモは「何かを訴えるための最終手段」だというが、名も無き凡人たちにとって「唯一の手段」でもある。プラカードを掲げる以外で「たくさんの人に話を聞いてもらう」には、著名人になるか政治家になるしかない。そういう特別な人にしか「表現」を許さないのなら独裁国家と同じだ。

また「真っ当な手段」で訴えるべきというが、これはおそらく選挙などの既存の制度のことを指しているのだろう。しかし、選挙は数年に一度しかない。役所の相談窓口だって所詮はお役所仕事だ。それらを待っていられないほど急を要する問題だったなら?

さらに「デモ参加者はロクに選挙にも行ったことがない」というのは完全な偏見。せめてサンプルを示そう。定性的・定量的な具体例を出すべきだ。「本当に困窮している人」についても同様。

そして「日本のデモには明確な問題意識・ゴールがない」という点。たしかに「デモをする人たち」はテレビ局の報道姿勢に目くじらを立てたり、電力会社に怒ってみたり、都知事に抗議したり、かなり無節操に騒いでいる(ように見える)。が、これらのデモは同じ参加者が実行しているわけではない。たとえばお台場デモにはかなり明確な目的・ゴールがあった(その目的の善し悪しはここでは問わない)。個々の事例に目を向ければ、問題意識もゴールの設定も充分にある。「デモをする人たち」にも、いろいろな人がいるんだよ。「デモをする人たち/しない俺たち」という二元論で考えているうちは、個々の目的が見えてこないよね。

最後に「物好きが趣味的にやっているにすぎない」と断定できるのはなぜだろう。本当に困窮している人は“絶対に”デモに参加しないと言い切れるのはどうしてだろう。想像力が足りていない。

以上のように反デモの主張は「穴だらけのロジック・余談と偏見に満ちた例証」で成り立っている。こんな意見を、新聞をよく読み、将来の日本について友人と議論するような“賢い”若者が主張するのだ。論理のマズさに気づけないはずがないのに、なぜか反デモを訴えるときはスルーしてしまう。



つまり「反デモ」の主張は、認知的不協和を埋め合わせる手段なのだ。



現代日本では、かしこい若者ほど「問題に気付いているけれど何もできない自分」に自己矛盾を感じる。強烈な認知的不協和を抱えることになる。

そんな若者が、デモという「行動を起こした人」を見た。「俺は誰よりも問題意識が高いのに行動ができない」にもかかわらず「俺よりも問題意識の低そうな人たちが行動を起こした」

もしもこの若者が、自らの知見を活かしてデモを応援すれば、認知的不協和は解消される。が、デモを肯定してしまうと「いままで何もしなかった自分」を否定することになる。自己否定は誰だってイヤだ。だから批判の矛先を「すでに行動を起こした人」に向ける――デモの参加者を批判し、反デモを主張する。

まして世界は「分かりやすいヒーローと悪役の時代」を終えて、「名も無き個々の時代」になろうとしている。名も無き凡人たちであっても、ただ集まるだけでチカラを持つ:世界はそれを証明した。「なのに、なんで自分は行動をしなかったのだろう……」賢い若者たちの認知的不協和は膨らむばかりだ。

芸能人の義援金を「偽善だ!」と笑い、被災地へのボランティアを「どうせ異性が目的だろ」と貶める。これらもみんな認知的不協和の産物である。



こういった認知的不協和は、本当に何もしてこなかった若者よりも、すでに何かちょっと行動を起こしていた若者の方が大きいだろう。

たとえば社会奉仕的なNGO・NPOに所属したり、それこそ政治家を目指したり。自分の問題意識を解決するため、すでに行動している人だ。なかでも自分のしていることに自信とプライドのある人は、デモなんて手段で問題を解決されては困る。なぜって、今までの自分の努力が水泡に帰す(ような気がする)から。

しかし、だ。

デモをするのは弱い人間だ。デモ以外に主張の方法を持たない、社会的影響力が皆無な人々だ。

社会奉仕的な組織に属したり、著名人・政治家を目指したり。それは無駄ではないし、すばらしいことだ。そして、誰にでもできることではない。そういう形で社会的影響力を持てるのは、すさまじくパワフルなことなのだ。



能力のある人ほど「誰でも自分と一緒」だと思いがちだ。自分の優秀さに無自覚で、チカラのない人への想像力を欠いてしまう。

どうか自分の特別さに気付いてほしい。認知的不協和に負けず、行動を起こせなかった「過去の自分」を許してあげてほしい。名も無き凡人の群れについて想像力豊かであってほしい。

問題の本質は「日本でのデモがバカげているか否か」ではない。「どうしてみんな社会に興味を持たないのか」だ。せっかく賢く生まれたのなら、興味を持ってもらうための方策を考えることに頭脳を活かしてほしい。

どうか、自己愛のためにその目を曇らせないで。








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DazzDazz 2011/10/24 19:50 デモを忌避しているわけではないですが、参加する手段がない。方法が分からないというのがあるのではないでしょうか。
一般にデモに参加したことがある人がどれほどいるでしょうか。大半の人はデモには一度も参加したことがないというのが普通だと思います。
そんな人たちはどうやってデモに参加して良いのか分からないし、デモがいつ行われるのかという情報にも普段から接していない。なので、多少は興味はあるけど、傍観している状態な人も多いのではないでしょうか。
まぁ、一番の問題は、デモに参加するコスト・労力に比べて、リターンが低過ぎるということにあると思いますが。
デモに参加して休日を潰してしまうより、友人と恋人とかと過ごした方がずっと有意義に思えますから。

ryu-tenryu-ten 2011/10/24 22:51 その昔、学生運動をやってたおっさん連中の顛末を知っていればデモがいかに無意味かわかるよ。そもそも、社会に対して言いたいことはテレビのコメンテーターが朝から晩まで代弁していて世論として広く認知されちゃっているからデモでことさら重複して言う必要なんてあるのかな?唯一デモをする必要があるとしたら今回のフジテレビのようにマスコミがスルーしている問題だけでしょ。つまりデモなどという原始的で非効率な手段を使うのはマスコミが機能不全を起こしている時に限られるのではないのか? それに今デモをすべきなのは我々若者じゃないよ。東北地方で津波被害に会われたかたや福島第一原発に苦しむ人たちだよ。彼らが我慢を強いられているのに、デモで若者の税金安くしろとかなんで言えるの ? バカなの?そんで福島の人がデモをしないのはデモをしても現状変わらないことがわかってるからじゃないの?やっても無駄なことに若者の貴重な時間を奪おうとしているデモ推進論者は若者から搾取しようとしている老害となんも変わらんわけで。デモ以外に世の中を変える方法がいろいろあるのに最近の若者はデモもせんとわけのわからないことを言う人がいるのには正直うんざりです。

月太郎月太郎 2011/10/28 13:40 デモをすることによって、周囲の人にその問題をPRする力はあるでしょう。ネットで愚痴を書きこむより、ずっとPR効果があります。「デモが起こるほどの」問題なんだと認知してもらえます。
私も大学生の就活のシステムを批判するデモを企画しています。
今の問題ありまくりの就活システムに対して、当事者である学生や周囲の関心が薄く、自己責任論に傾倒しています。構造的な問題として認識されず、「学生はもっと頑張れ」論しか無く、根本的な、建設的な議論ができません。自己責任論に傾倒しているゆえ、学生の素朴な疑問や違和感は「わがまま」として切り捨てられ、声を発する前から無力感に満ちているという閉塞的な現状もあります。なので、閉塞感を打開し、議論の下地(問題意識)を形成するため、就活を構造的な問題としてPRする必要があると思い、デモの企画を決めました。
当然、デモっていうスタイルが受け付けない人もいますよね。(なので、デモに限らずその他トークイベントや陳情なども予定しています。トークイベントの開催に対しては、何故か批判はゼロです。)
やはり、「無意味だ」とか「個人が頑張るしかないんだ」という批判をよく受けます。
しかし、無意味だというなら放っておいてほしいという思いもあります。また、個人が頑張るのが正解なら、それを人に押し付けたりせず、それこそひとりで勝手に頑張ればいいと思います。それはそれで立派なことです。
自分の利害に関わることでもないのに、なぜそんなに必死になって叩いてくるのか?というのが疑問でしたが、「認知的不協和」という単語を聞いて少し腑に落ちました。

そもそも、デモってそんな大層なことなんでしょうか?(企画側が言うのも何ですが…)
「思い」が、目に見える・耳に聞こえる形で表面化するってだけだと思います。
デモで何が変わるのだとか、皆我慢してるんだからお前も我慢しろとか(それぞれ抱えている課題が違うのに)、デモをすべきとかすべきじゃないという話しはおかど違いのように思います。
やりたい人がやりたいときにやればいい。
声をあげるってそういうことじゃないかと思います。