守りたいとそう思って、
でも自分の力が信じ切れない時、
心にのしかかる重みをどうすればいいのか──
違和感に、彼は目を覚ました。
まだ目の辺りに野暮ったい感じがするが、真っ暗な闇の中で何度かまばたきをすれば視界もハッキリしてくる。
同時、寝呆けた頭にも直ぐに電気信号と血液が忙しなく駆け巡り始め、複雑な思考が出来るようになった。
起きた頭でまず考えることは、
……さて、俺は今何を……。
寝ていた。
そう答えは直後に出るが、答えはまだ続く。
確かに寝ていたことには寝ていたが、
……朝のHR前に、疲れてて……。
机に両腕と上半身を押し付け、崩した腕組み状態の腕を頭部の支えに寝た。そこまで思い出した。
そして思い出した通り、自分の腕は額の下にあり、視界は腕が顔の周りを囲んで居るため光が入らず真っ暗。辛うじて机の木目が認識出来るぐらいだ。
己の状態を、今だ目が覚めてから微動だにしないまま感覚だけで確認して、
……というか身体の節々が無駄に痛いんだが……!? あのアホの所為か!
今日の早朝のことが頭に浮かぶ。
一応中学時代から友人となっている身体が無駄にデカイアホ野郎と模擬戦をしたのだが、結界があるとはいえ環境破壊上等な攻撃を数百単位で放って来るのだからもう始末に終えない。模擬術式を使用してても痛いものは痛いし、死ぬ時は死ぬというのがあのアホは分かってないんじゃないかと思う。後、模擬戦という自覚があるのかと。
普通の人間なら万回くらい死んでるんじゃないかという猛攻に、なんとか生き延びるという意味で耐え切ったが、代償は肉体の隅から隅まで駆け抜ける打撲の痛みだ。
あの野郎今日の昼『エターナル飲料研究会』考案の『黒焦げのナニカジュース』を一気飲みさせてやると、復讐を密かに考えつつ、
……じゃなくて! あのアホのことはどうでもいいんだよ!
思考が一足飛びで過去へとぶっ飛んだのに気がつき、慌てて思考を戻す。
問題なのは身体の痛みや早朝の出来事ではない。
問題は、
……今、何で俺は起きたか、だ。
結論し、彼は耳をひそめる。
魔法は使っていない、素の聴力だが、それでもたかだか六、七メートル四方の教室内における音を聞くには充分だ。
耳の鼓膜に届く音は、殆ど無い。沈黙の音とも言えるシーンとした無音が耳に届くだけ。
朝のHR前、先生からの話を聞くための沈黙だと考えれば普通ならおかしくはないが、
……このクラスの奴等が、素直に静かになる筈がねぇ……!
過去から現在までの記憶が、頭の中を高速で流れて行く。
去年八月に試験があり、約半年程準備期間としてこの学園に関する規則や自分達が持つ権利を学んだり、生徒会及び委員会のメンバーを決める選挙会などがあったが、その間にクラスメイト達との交流もあった。
その際、彼は特に誰と話した訳ではないが、それでもこの226クラスにアホの友人含む少々頭のネジが五本程抜けてるどころか宇宙人辺りに入れ替えられてないかと思うような人物が大量に居るということは、教室の後方から眺めるだけでも良く分かる。
四六時中本を読んでたり、ヘッドホンで音楽を聞いたりする者が居て、かと思えばパソコンを扱いながら意味分からない言動をする奴が居たり、何やら漫画を描いてる女子も居るし、教室の中なのにサングラスをかけてたりゴーグルつけてたりスカーフ巻いてたりする者、明らかに小学生にしか見えない少女に飛びつこうとする変態男、他様々な常識的に見ておかしい者達がこのクラスの大半を占めていた。
……今ザッと挙げてみたけど、本当にこのクラスおかしいぞ!?
そんな、直球に言って頭がイかれてるとしか考えられない者達が居る自分のクラスで、完全な沈黙などあり得ない。
精々黙ることはあっても、本やらヘッドホンやらパソコンやらを扱う者が絶対に居るので、何らかの物音がするのは間違いないだろう。
しかし今どれだけ耳の感覚を鋭敏にしても、物音一つ聞こえることはなかった。
……どういう、ことなんだ?
せめて先生からの話ぐらい聞こえてもいいのに、本当に何も聞こえない。たとえ耳を塞いだとしても、ここまで見事に何も聞こえないというのはそうそう無いだろう。まるで一人残らず自分の周りから人が消えたかのようだが、肌が感じる幾つもの気配がそれを否定する。
そして、肌で感じる物がもう一つある。
視線だ。
街中で目立つ格好や物を持っていた際に集まる視線の圧力が、此方へと向けられている。
身を圧迫するような、急かすような、身体を震わせるような視線。
……いや、違うか。
圧力を身に感じて、しかし彼は違うと思った。
感じる圧力の焦点、視線が見てるものが違う、と。確かに視線は自分の近くを見ては居るが、自分を見てはいない。
ここまで考えて、何故起きたのかということに対する結論が、ようやく出た。
……俺の近くに全員を沈黙させて注目を集める程の『何か』があって、俺はその『何か』に向けられた視線の所為で起きたってことか。
これだけの無音の圧力をかけられたら、どれだけ徹夜をした後の爆睡中でも起きる自信がある。
机にうつ伏せのまま彼は思って、
……起きるか?
そろそろ狸寝入りを止めるべきだろうかと考える。
いい加減感じる視線が鬱陶しくなって来たし、眠気ももう既に掻き消えてしまった。今からもう一度寝るのは肉体的にも状況的にも難しい。
本音を言うと何となくこのままスルーしてしまいたかったが、この視線の重圧を無視して平然と出来る程、彼は心が強くはなく、馬鹿でも無かった。
だから、顔を上げる。
うつ伏せの状態から身を起こせば、視界は天変部分から白く染まって、光に馴れた目が色を捉えてゆく。見えるのは、三日前から正式に通うこととなったベージュ色を中心に構成された教室の姿だ。付属するように、机や椅子、黒板などの物体も認識。
教室の風景が徐々にはっきりと、瞳から脳へと入り込み、
「………………………………は?」
驚愕した。
唖然とした、と言ってもいい。十五年間の人生でも、ベスト十入り出来るレベルの驚きだった。
彼は前方を凝視したまま口を魚のようにぽかんと開き、目を見開き、自分に出来る限りの方法で驚きの感情を見せている。
周りでは同じように、驚きに差はあれど、感情で言う衝撃の表情をしたクラスメイトや先生の視線が彼と同じ方向を見ていた。
だが彼の視界にそんなクラスメイトの姿は入らない。いや、入ってはいるのだろうが、気にするだけの余裕が彼に存在しなかった。
驚きの原因に目を捉えられ、それ以外を見たり理解したりする脳の処理能力が残っていない彼は、その驚きの原因を今一度よく見る。
どう見ても十歳程度にしか見えない少女が、其処に居た。
年齢は十歳程だろうか。全体が小柄で、百七十五センチある此方の三十センチぐらい下、百四十センチ程しか身長が無かった。
両腕は腰に当てられ、身に纏うは学校指定のブレザー型制服。ピッタリサイズなのであろう藍色の上着と赤のリボン、灰色のミニスカートで構成されたそれらは、彼女の身体を外の目から完全に守っている。大きく露出しているのはミニスカートから覗く細長く白い足くらいだ。
肩の上で切り揃えられた髪は輝きながらも柔らかそうで、美しいというよりも若々しさというものを感じさせる。色は世界何処でも発生すると言われている茶色で、アジアでよく見られる黒髪には無い明るさを持っていた。
対して瞳の色は緑。これもまた髪に劣らない輝きをしていて、さながら宝石のように煌めき、星のように優しげな光を持っている。ただ瞳は多少細められ、注視という形で此方を見ていた。
雪のような白い肌で大部分を構成された表情も、やはり多少顰めるように力が入っていて、桃のような水っ気を持つ薄いピンクの唇も、何かを堪えるように引き結ばれている。
そんな、冷淡な顔ではなく笑顔でさえ居れば写真集のモデルどころか子供アイドルとしてデビューしていてもおかしくはない、茶色と緑の美少女が自分の目の前、五十センチと離れてない場所に居る。
と、ここまで眼前に仁王立ちした少女を観察して思い、
……誰だコイツ!?
一番に湧き上がった疑問がこれだ。
美少女か少女かどうかは対した問題では無いのでこの際捨て置くが、目が覚めたら目の前に女の子が居て此方を見つめてましたなど、一体どれだけ漫画やライトノベルで使い古された展開だよと叫びたくなる。今でもまだ安定して使われる王道の展開だとは認めるが、『魔神少女カタストロフ・インパクト』という漫画のように導入部分でヒロインがいきなり地球を破壊するくらいのインパクトが欲しいと思う。いや、現実でそんなことがあっても困るが。
……ってダメだダメだ。現実逃避はダメだ俺。
冷静に落ち着いて状況を把握すべきだと、改めて少女の姿を眺める。
彼女の服はどう見てもこの学園の制服だ。高等学校という、十五歳以上の年齢である者達が通う学園に十歳程度の少女が居るというのは明らかにおかしい。故に慌てたし、驚愕もした。
が、
……十歳だからって、別にこの学園じゃおかしくないか。
落ち着いて考えてみると、何ら不思議では無い。
普通の高等学校ならば直ぐに職員室か校長室に連行されて保護者を呼ばれてもおかしくはないが、この学園においては話が別だ。
しかもよくよく見ると、教室前方、黒板には白と何処から持ち出したのか分からない虹色のチョークで『転入生』と無駄に大きく書かれて居た。
その文字と、今までの知識と経験から推測出来るのは二つ。
1:『特別生』の資格を持っていて、わざわざ飛び級で入学して来た。
2:見た目はあれな少女だが、実年齢が実は十五歳。
可能性が高いのは前者だ。
国から十五歳以下で戦闘系魔法を学ぶのを認められている『特別生』の資格持ちは、学力さえ高ければ日本国内において飛び級することも許可されている。
なのでこの学園に飛び級で入って来たとしても、それはなんらおかしいことではない。比較的稀、というだけだ。
しかし、だとすれば彼女は、
……相当な天才ってことだぞ……。
普通十五歳で入学し、しかも日本に七つしか無い魔法生徒育成国立高等学校に飛び級で入学するなど、並大抵の事ではない。
しかも、転入生というならば、去年の内に行われた入学試験ではなく転入試験の方を受けたということだ。三万人中約九千人しか合格しない入学試験の、更に数十倍の難易度と言われる転入試験に、五年程の差がある者が合格するなど尋常ではない。
そう、思っていたら、
「……アンタが高城(たかしろ)堅二(けんじ)でいいのよね?」
「っ、そうだけど?」
……いきなりアンタ呼びかよオイ。
ずっと思考の渦にはまっていたためか、痺れを切らしたように沈黙していた少女から声をかけられる。
なので彼、高城堅二も不躾な第一声に眉を寄せつつそうだと返答した。
己のボサボサ鳥頭となっている黒髪を掻きつつ、自然と不機嫌になった目で彼女の顔を正面から直視する。
対する少女は、
「…………」
何故か黙ったまま、此方へと向ける視線を強めた。
その小さな身体から放たれる剣のような鋭い視線に、何か怒らせるようなことしたかと堅二は首を傾げる。
周りからの好奇の視線が強まる中、やがて少女は口を開いた。
小さな唇から紡ぎ出されるのは、
「福岡県魔法生徒育成国立高等学校、空峰学園(そらみねがくえん)一年226クラスに在学する高城(たかしろ)堅二(けんじ)」
「あ、あぁ。それがどうし──」
「男、十五歳」
「──?」
まるで此方の言葉を聞いてないように遮られ、あれ? と堅二は思う。
茶髪の少女は今、此方を見つつ口を動かしている訳だが、何故かその姿を見て、壮絶に嫌な予感を感じた。
ぶわっと気持ち悪い汗が吹き出し、肌の上を通過していく。
ベタベタした冷や汗という名の汗が堅二の顎へと垂れている内に、少女は更に視線を強めて、
「今年の八月三十日に誕生日を迎え、十六歳となる。よって誕生日は十六年前の西暦一九九五年八月三十日、乙女座。身長百七十五センチ、体重七十キロ。血液型はA型、特にアレルギーや持病などは無し。好きな食べ物はスイカで、嫌いな食べ物はゴーヤ。趣味は特に無し。好きな事は頭を余り使わないスポーツ、嫌いな事は頭と手が疲れる単純な作業。得意科目は現代国語、苦手科目は英語を始めとする外来語。得意魔法は強化系で、苦手魔法は儀式系。特に儀式系は殆ど適性が無し。戦闘スタイルは典型的な近接魔法剣士、接近戦タイプ。尚、ある程度のレベルに達している放出系魔法を使えるため、中距離戦にも接近戦の補助レベルで対応可能。戦闘ランクはB−、十五歳にしては高く、『特別生』であることを垣間見せる。それ以外の公式ランクは習得していない。性格は普通、だが最近の若者らしい不良要素あり。問題視する程では無い。家族関係は兄が一人に両親が健在だが余り良い間柄では無い。友人関係も親友二人に話すだけの知り合いレベルの友人が多数存在するなどと、それなりに良い。学園まで電車で約十分という場所にあるマンションの一つに一人で住んでいる。一人暮らしな所為か──」
……うぇぇえええええええええええええええ──!?
なんか、言葉の濁流を叩きつけられた。
少女の口からつらつらと上げて行かれるそれは、全て自分に関することだ。
心中で気持ち悪い悲鳴を上げる堅二は、完全に頬を引き攣らせて身体も思考も固まらせてしまう。どんな言葉が飛び出るのかと思えば、自分が履歴書に書くようなプロフィールを列挙されたのだ。引かない方がおかしい。
一方で、教室の沈黙を破った少女は、目を閉じることさえせずスラスラと続けて、
「──ある程度の調理や家事が行え、サバイバル能力も訓練により習得している。小学生での成績は国語5、算数4、理科3、社会3。中学生での成績は国語5、数学4、理科4、社会3、英語2。その他の科目に関しては体育が5で、他は全てオール4。小学生の時作文で面倒だったのか『《全略》』と書いたことがあり、担任教師を本気で怒らせた経験がある。中学生の時に後に犯罪者とされた者五名を事故で病院送りにし、警察に拘束されたこともある。五歳の頃、瀕死の重傷を負い死にかけるも無事。それ以後、生死に関わるようなことはあっていない。ただ中学の修学旅行の際に間違えて酒を飲み、酔った勢いのまま全裸で清水の舞台からノーロープバンジージャンプをしてしまったことも。過去、恋愛経験は無し」
……なんでそんなことを知ってる……っ!?
当事者でももう記憶が薄れかけている過去の失敗談を、どうしてこの少女が知っているのか。
周囲からの好奇の視線が堅二に強く集まり、今度は別の意味で冷や汗が噴出し始めた。今、教室内に満ちる声は、原稿を読み上げるアナウンサーのような少女の声だけで、それ以外には音というものがない。
つまりそれは、少女の声が遮られることなく周囲に筒抜けということで、
……隣のクラスまで聞こえてねぇよな……?
己のプロフィールやら恥ずかしい過去やらを上げられる堅二としては、全力で祈る他無い。というかこれ人権侵害じゃないだろうか。訴えたら勝てないだろうか。
平然と読み上げて行く少女に対し、殺意にも似た気持ちが湧き上がるが、
「好きな女のタイプは、裸エプ──」
「おおおおおおおおっ!?」
「ムゴッ!?」
『好きな女』の部分で腰を浮かせ、『裸エ』の部分に至った時には絶叫を上げながら少女の口を塞いでいた。
過去最高と言っていいスピードで突き出された堅二の右手は、茶髪の少女の口を完全に塞ぎ、形ある声を発っせなくする。息がし辛いのか、「ムームー!」と呻きながら手を剥がそうともがいているが、堅二には知ったことではない。
彼は周りに目をやって、大部分のクラスメイトがクエスチョンマークの?を頭上に浮かべてるのを見て、ホッと一息つき、
「あのなぁお前! 何処の誰だか知らねぇけど、一体なに言ってやがる!? 明日から俺のあだ名を『裸エプロン』にするつもりか!?」
盛大に自爆した。
右手を剥がそうともがく少女に怒鳴って、数秒してから、
「……あ」
再度静かになった教室の空気と、自分の発言の失敗に気がつき、堅二はもう一度辺りを見渡す。
何人かは今だに訳が分からないのか首を捻るなどのリアクションをしており、
「やぁ、裸エプロン君」
「よォ、自分も全裸の裸エプロン」
「今日も元気か? 裸エプロン」
「『クラスメイトが裸エプロン好きだった件』……よし、スレ立て完了」
「裸エプロンか……、いや、否定する気は無いんだが、やはり性的興奮を一番促すのは女性の裸自体だと──」
単語の意味が分かる者達の半分が、ニヤニヤ顔で此方を見たり挑発して来たりした。ムカつくことこの上ない。そして他半分程、主に女性陣が顔を赤らめて此方から逸らしたりしている。
先程までの沈黙が嘘かのようなざわめきと声が、教室を満たし始めていて、内容はもちろん堅二の爆弾発言についてだ。
そんな周囲の反応に堅二は慌てて、
「ま、待て! ちょっと待てお前ら! 俺の話を……って何そこメモとってる!? そっちの焦げ茶髪は何録音魔法機取り出してんだオイ!? 何に使うつもりだお前ら!」
叫ぶのだが、一向に効果が無い。一応当事者なのに、誰も此方を見ていなかった。
……水を得た魚っていうのはこういう事を言うのか畜生!
誰か話を聞いてくれないかと堅二の視線がさまよい、行き着く先は教壇。
其処には一人の女性、226クラスの担任である先生が居て、
「せ、先生、エッチなのはダメだと思います! そ、そういうのはもっと大人になってから……はうっ」
「先生ぇぇええええええっ!?」
顔を真っ赤に染め上げてよろめくように膝をつく担任教師(二十五歳)の姿に、堅二は叫ぶ。使えねぇと。
今ほど先生がもっとしっかりした人であって欲しいと思った事はなかった。
そうこうしている内に、辺りのざわめきはドンドン大きくなっていって──、
「待てよ、テメェ等」
野太い声が一つ、ざわめきを切り裂いて木霊した。
ふとざわめきが消え、皆の興味と目は声の主へと向かう。
声を放ったのは、堅二ではない。
教室左斜め前方の席に座る、身長百九十センチはありそうな、大柄な少年。青白い髪と、赤い瞳が特徴的だった。
彼は椅子から鈍い音を上げて立ち上がり、
「ちょっと堅二のことで勘違いしてるみたいだから言っとくが、コイツは裸エプロンなんざ好きじゃねぇぜ」
「か、神原(かみはら)……!」
神原と呼んだ少年の言葉に、堅二は思わず腕や足に力を入れる。今朝の模擬戦ではっちゃけやがったアホの友人だったが、まさかこんな所でフォローしてくれるとは思わなかった。やはり持つべきは友達だ。
何やら右手の先からくぐもった悲鳴が上がったが堅二は無視しつつ、願うように皆の注目を集める神原を見る。
……頼むぞ神原!
そんな堅二の内心を知るように、神原はうんうんと頷く。分かっている、分かっているぞと言わんばかりに。
そして彼の口が大きく開けられ、
「堅二はなぁ、──裸白衣好きだ」
今ほど殺意だけで人が殺せたらと願った事はなかった。
心臓の弱い人ならそれだけでショック死してしまいそうな、殺意を大量に込めた魔力を発するのだが、神原は俺の役目は終わったとばかりに清々しい笑顔で席に座り直すだけだ。
教室のざわめきは一層強くなり、
「裸白衣、だと……!? なるほど、そういうのもあるのね……!」
「さっきから裸エプロンだの裸白衣だのなんだ? なんか美味いもんのことか?」
「はっはっはっ! 自分は断然、水着派だけどね!」
「あぁ……、あの人は常識人だと思ってたのに……」
「金だ! これは金になる! ククク、ビジネスの準備だ……!」
「堅二って、何時の間にそんな性癖に……、私一応幼馴染なのに、全然知らなかった……」
「裸白衣かぁ……、ゴーグル属性とかも世の中にあったりするのかなぁ? そこら辺どう!?」
「変態が急増されて、いや、オープンじゃないから変態じゃないのかな? なんだか定義がよく分からなく……」
……なんか色々ツッコミてぇぇえええええええええええっ!!
一人一人の言葉に色々叫びたくはあるものの、そうするだけの時間も余裕も無いし、テンションが現在進行形上限無しで上がりまくっているクラスメイト達には言っても通じるかどうか。
段々と収拾が付き添うに無いほど騒ぎ出した教室内の魔境を見やり、怒りを通り越してもはや呆れの領域に達しかけている堅二は、どうしようかと考えて、
「ぷはぁっ!」
「んっ?」
騒ぎの原因たる少女の口を塞いでいた右手の拘束が、力づくで解かれた。
彼女自身が小顔なのと堅二自身の手の平が大きかった所為か、口どころか鼻まで塞いでいたらしい。よって少女は窒息寸前だったらしく、拘束を解かれた今何度も繰り返し深呼吸をしていた。
肩を上げ下げし、ゼーハゼーハと熱の篭った息を吐き出す姿は、まるで全力疾走した後のようで、
「ようガキ。早速だがこの状況をどうするつもりだ? どう責任とるんだ、あぁ?」
「……っ! ……っ!」
怒気を秘めた堅二の問いに、少女は直ぐに答えない。
いや、何か言おうとはしているようだが、
……呼吸を整えきれてないか。
待て、とばかりに手の平を向けて突き出された彼女の手を見て、堅二は素直に待ってやることにした。どうせ急いだ所でクラスメイト達のテンションが下がる訳でもない。上がるかもしれないがそれはもう知らない。
机を挟んで反対側に立つ少女を、彼女よりも高い位置にある目で、見下ろした。
「……すー、はー……、すー、はー……」
茶髪の少女は俯き、片手を膝につけ前屈みとなり、足りない酸素を取り入れるため深く呼吸している。
やがて。
暫く、数秒程すると少女の呼吸音も普通になって行って、肩の動きも収まって行き。
呼吸音が耳で聞き取れない程小さく、静かになった直後、
「──殺す気なのこのバカ!!」
「言わせてもらうがお前は俺を社会的に殺す気か!?」
全力で言い返すと、上体を跳ね上がらせた少女に涙目で睨まれた。
よっぽど苦しかったらしく、茶色の髪は髪形など知らないとばかりにぐちゃぐちゃになっていて、顔全体がリンゴのように赤い。興奮していて、まるで泣くのを堪える子供のようだ。
重度の犯罪者ロリコンなら速攻で「ハァハァ……、ねぇ、ちょっとおじちゃんと面白い遊びしない……?」などと言って連れ去ろうとしたり、そうで無い人であっても保護欲を刺激される姿だが、生憎と社会的死を迎えかけた、もしくは迎えようとしている堅二はそんな感想を抱かない。
緑の瞳を涙ぐませ睨む少女へと指を突きつけ、
「プロフィールはまだいい、過去の失敗談とかもな。だけど性癖はダメだろう性癖は! 男が一番知られたくない物を、よりにもよって『好きな女のタイプ』とか言うか普通!? それじゃまるで俺は裸エプロンしている女の子にしか興味ねぇみたいじゃねぇか!」
「えっ……? 違うの? 私は『あの男は裸エプロンじゃない女は女として見ていないらしい……』って聞いたんだけど」
「そんなデマ言ってた奴誰だぁ!?」
きょとん、と睨むのも忘れて訪ねてくる少女の姿に、天井を見上げ叫びを迸らせる堅二。
一体何処のどいつが自分の性癖を曲解して茶髪の少女に教えたのか。
……というか俺の性癖が何時ばれた……!?
自分は確かにそういう趣味があるが、それは最重要トップシークレットとして中学時代から延々と隠し続けて来た筈。
なのに、何故だ。何故ばれている。何故……、
「……そういえば、一つ聞きたいんだけどさ」
「!」
その声に、堅二は現実へと帰還した。
とりあえずは現実に対処しなければと、少女の言葉へ促しの返答をする。
「何をだ?」
「何でこんなにこのクラスの連中騒いでるの? 何かあった?」
「原因の半分はお前による俺のプロフィール及び性癖の暴露だよ……っ!」
……残り半分はウチのクラスメイト達が異常だからだけどな!
少女の言う通り、今や教室は隣のクラスから抗議が来てもおかしくない程ギャーギャーワーワーと騒いでいる。
今までは会話や動きから生じる雑音だけだったのに何時の間にやら悲鳴や打撃音なども響く、真の魔境と化している。
「あァ!? 何だよオマエ何様だ!?」
「貴方の方こそそのサングラスはなんですか。今日くらいは外しておけと何度も言いましたよね?」
「アダダダダダダダッ!? 待て待ってくれギブギブギャァァアアアアアアッ!?」
「人のスカート見てエロい妄想する奴の言葉なんか聞くかあああああっ!」
「ふふっ、君達は本当に仲がいいな」
「………………」
「えっ? なんですか袖引っ張って……、あっ、これ開ければいいんですね? ……私すっかり雑用係だ……」
「裸白衣! なるほど、これは真境地だね!」
「言っとくけど、女が着るからいいんであって、男が着ても意味ないからな其処の馬鹿ー」
もう誰が何を言ってるのか一人一人の音が大き過ぎて把握出来ないが、とにかくお祭り騒ぎのように各々が好き勝手に行動している。
朝のHR前の静かな時間は何処へやら。
蹴り飛ばされたであろう椅子が宙を舞うのを見つつ、
「なんか、もう帰りたくなってくるな……」
本心からそう呟いたが、周りに伝わることはない。
その事に堅二がため息をついていると、少女の方から、
「ていうか、裸白衣ってなによ? そもそも裸エプロンってのもよく分からないけど」
純真そのものの問いかけが直撃した。
堅二は見えない衝撃にぐらっとよろめきかけるものの、何とか踏ん張って堪える。
……知らずに言ってやがったのか……!? さっきのプロフィール列挙といい、変な所で無知なタイプか!
質問者である少女は、そんな堅二の態度を不思議そうに見ていて、
「? どうしたの?」
「いや、別に何でもねぇ……、それより」
堅二は強引に話を変えた。
身体を起こして真っ直ぐ立ち、
「お前、誰だ? あの黒板からして転入生っていうのは分かるが……、なんで俺のことをそんなに知ってる」
「知ってる、じゃなくて調べたんだけどね。まぁ色々あるのよ」
「調、べた……?」
……調べられるような立場の人間か? 俺。
訝しむものの、少女は此方の質問に答えきったと感じているのか、暴走するクラスメイト達に緑の瞳を向けている。
この少女は此方のことを調べたと言い直してまで言った。それは、彼女が偶然聞いたなどではなく、自分の意思で情報を集めたということだ。一学生に過ぎない高城堅二のことを。
どれだけ調べたのかは、あのプロフィール列挙を思い出せば理解出来る。
だが、そうされるだけの理由が堅二には思い浮かばない。
いや、
……一つだけあるが。
一つだけ、堅二には心当たりがある。自分という個人のことをわざわざ調べられる『理由』。思いつくそれは、生まれた時から決まっていたもの。
二、三年前からは更に注目されるようになった『理由』が、彼女が自分を調べた原因だというのなら、納得出来る。
その『理由』はそれだけ大きくて、重い。
そして、堅二は自分のものではないその『理由』が、大っ嫌いだった。
だから、尋ねる。
「なぁ、お前──」
「……はっ!? み、皆さんどうしてこんな体育祭みたいに盛り上がってるんですか!? 先生もしかして時の流れに置いていかれてます!?」
疑問を尋ねることは出来なかった。
少女に声をかけようとした瞬間に響くのは、何処か間の抜けた担任教師の声。
教壇の上で何故かオロオロしている彼女は、
「えーと、えーと、えーと……、あっ! 思い出しました! 裸エプ──」
「先生もっと前だ前!」
「えっ、あれ?」
うーん、と虚空を見上げて悩む先生の姿に、額を手で抑える堅二。
先生のおっとり姿に影響を受けたのか、騒いでいたクラスメイト達も沈静化して、今はもう自分達の席へと座って前へと向いている。
クラスメイト達の変わり身の速さに呆れる間もなく、思い悩む先生が「あぁ!」と言って手を叩き、
「そうそう、転入生さんが居るんでした! いやぁ先生すっかり忘れちゃってました。堅二君、あまり先生を困らせないでくださいね! 先生も怒っちゃいますよっ」
「いや、原因は俺じゃ……、あっ、もういいです、はい」
プンプンと擬音が付きそうな先生の姿に、堅二は弁明することを止めた。
これからの学校生活に対する得体の知れない不安が巻き起こるが、気づかなかったことにして着席する。
左斜め前方から笑いの気配を持った視線が飛んで来たが、それも気づかなかったことにした。
見れば教室内はまだ微かなざわめきがあるものの、全員が席へと座る朝のHR前の風景へと戻っている。
ただ、普段と違うのは、堅二の机の前に、茶髪の少女が立っていること。
それだけだ。
……コイツ、前に戻らなくていいのか? というか、俺が起きるまでどこまで自己紹介とかしたんだ?
彼女はどうするのかと、堅二は問うべきか迷い、
「……後で話があるから」
そう言って少女も踵を返し、堅二に背中を見せて前の方へと歩いて行く。
歩く度に彼女の体重が軽いことが分かる軽い足音が、何度も床と彼女の上履きから鳴った。
さほど広くは無い教室内の机と机の間。狭い通路を彼女は歩き、やがて反転。
…………!
堅二は見る。
彼女の回転する動きが、とても洗練されていて、尚且つ無駄が無いものだと。
軸たる足はバランスを一瞬とて崩さず、両手は大して動かしてないというのに回転の遠心力は強く、そして回転して踏み止まる姿にブレは無い。
恐らく武器は銃だろうと、堅二は当たりをつける。あの状態で両手に銃器を持ち高速回転すれば、全方位への高速射撃になる。それも次の挙動への隙が殆ど無いものに。
それは魔法が直接的に関わる訳では無いが、戦闘系魔法を学ぶ者としては大事な動きだ。
自分以外にもその姿を見て思った者が居たのか、ほうと息をつく音や警戒の気配を放つ者が居る。
「ではでは、気を取り直して自己紹介お願いしますね~」
……まだ自己紹介してなかったのか。
虹色のチョークを先生から手渡され、不理解の表情をする少女を見て肘を机につく。
どうやら今から黒板に名前を書くらしく、黒板の上半分を完璧に支配している『転入生』の下に、チョークを持った彼女は手をやった。
……さて、どんな名前なんだ。
少女がどんな姓と名を書くのか、堅二はそれなりに注視して黒板を眺める。
彼女の小さな手に握られているためか、握られたチョークがやけに大きく見えた。
その虹色チョークが、少女の白い手に従って動き始め、文字を書き始める。
硬い物が擦れて片方が粉になって行く音が、短く何度も連続して鳴り響き、文字を作り出していく。
まず書かれたのは、カタカナの『タ』が二つ。次に移って書かれたのは縦長の『方』で、小さなカタカナの『ノ』、漢字の『一』、更に横棒と縦線を幾つか書いて漢字の『目』に似た所々突き出た字を作ってからの、カタカナの『ハ』。
これで姓は書き終えたのか、彼女の手は空間を少し開けた。
次に書かれるのは漢字の『十』、次に『目』、漢字の『一』、そしてカタカナの『ハ』。恐らく最後であろう字の最初はカタカナの『ノ』に漢字の『二』。そして終わりに漢字の『人』。
己の名たる完成した文字達を一度だけ少女は確認して、教室側へ向き直る。
小さな唇から零れるは、文字を音とする声。
「多旗(たはた)真矢(まや)。十歳、『特別生』の資格を利用した飛び級生」
そこで少女、真矢は言葉を切って、
「──よろしくね?」
何処までも自信に溢れた強気の笑顔で、そう言った。
堅二が今まで見た笑顔の中でも、それは堂々の一位に輝く程の可愛さと、美しさを兼ね備えていて。
これから、高城堅二という少年が多旗真矢という少女に関わる内に、何度も見ることになる笑顔だった。
思いは現実にはならない。
思いは行動になるだろう。