エッセイ目次

No107
1998年3月4日発行

   
   



祖父の栄光の日々

 

   
   

 その女性がキミコ・プラン・ドウの教室に入ってきた姿を見た時、悪い予感がした。
 〈この話はニセモノだ〉とわかってしまったといってもよい。〈直感に自信を持ってはいけない。ハズレが多かったのだから〉と自分に言い聞かせても、今回のこの出会いだけは〈これはダメだ〉と思ってしまった。
 こんなことは、久々のことだ。この世の中にいる人は皆いい人だ。例え波長が合わなくても、世界観が違っていても、みんな一生懸命に生きている。そこがすばらしい。人間はやっぱり信じられると思っていたのに、今回は〈?〉だった。
 その方は日本文化振興会と名のった。
 2カ月ほど前に、私に「社会文化功労賞」を与えたいので本部へ御足労願いたい、という主旨の手紙が来ていた。その手紙には、今までの受賞者の名前や、受賞のニュースを伝える新聞記事のコピーが同封されていた。しかし、そのコピーは何度もコピーを繰り返した見づらいコピーだった。
 〈もらえるものならもらっちゃおう〉と、キミコ・プラン・ドウへ御足労願って、担当の方に来ていただくことにした。
 彼女と挨拶を交わし「このパンフレットの方が名刺よりも写真入りですし、くわしくていいと思います・・・」と、キミコ・プラン・ドウのパンフレットを渡した。
 そのパンフにある私の経歴を読んだ彼女は、突然
 「えっ、先生は芸大を出てらっしゃるんですか。すごいですね!」と、はじけるような大声をあげた。
 「私も芸大を目指して、阿佐ヶ谷に行っていたんですけど、ダメでした。スゴイですね芸大」と、ため息をついているようだった。
 〈もしかしたら、この人、私の仕事のことを何も知らない・・・?〉
 「先生のすばらしいお仕事をジャーナリストやら、当方の選考委員が推薦されて、国際芸術文化賞より社会文化功労賞ということになりました」と彼女は話し出す。
 「あのー、賞金はいただけるのですか?」と私。
 「賞金ではなく、賞状と私共の総裁、伏見の宮様の菊の御文の入った勲章です。どんな立派なパーティーでも通用する誉れ高いものです」
 「いただきっぱなしでいいんですか?」と念を押すと
 「私共は国の後ろ盾もありません。全く在野の団体です。ただ世に埋もれている優秀な方を年に2回表彰しようということです。あなたを推薦した20人の審査員の方にお礼として、タクシー代一人五万円として、最低でも百万円はかかりますわね。内祝いとして・・・。みなさん百万円は最低で四百万円出される方もあります」
 「えっ、私が百万円出さなければならないのですか?」

 

     
     

 以前にも、これと似た話があった。
 「あなたの絵画教室を取材したい」と新聞社から電話があって、電話でたくさんインタビューされた。そのあとで「五万円です」というので、「すみませんね。五万円もいただけるのですか?」と私が言ったら「はっ?」と電話の相手は驚いている。
 「あのー、取材費として、お金をいただけるのでは?」 と私。すると電話の相手は
 「新聞に載せるのはお金がかかるんですよ。広告です」と、急に弱気な声で説明してくれる。
 「えーっ、お金がかかるのならお断りです」と断った。
 私のスクールの生徒さんも同じ体験をしている。
 彼女は学校の先生なので、毎年二月に開かれる「東京都教員美術展」に出品している。
 初めて出品した時、新聞社から電話があって「あなたのすばらしい作品を批評入りで、ぜひカラー写真と共に新聞に載せたい」という。そして〈七万円〉ということだった。
 「えっ、七万円もいただけるのですか? ありがとうございます」と、うれしさの頂点で言ったら、新聞掲載料として七万円出せということだった。
 翌年は、もっと愉快なことがあったという。
 カタログにのせたタイトルの絵が出来上がらなくて、別の作品を出品したところ、やはり新聞社から電話があって「あなたの作品(カタログに載せた絵のタイトル)はすばらしい作品ですね。感動しました」と話始めた。昨年のことがあったので、彼女は落ちついて「(出品していない作品なのに)見ていただけたのでしょうか?」と聞くと、
 「えぇ、もちろん。それで感激して、ぜひ新聞に掲載したいのでぜひ・・・」。その年も七万円だったそうだ。
 三年目の今年は、なんと十四万円と言ってきたそうだ。

 

   
   

 その女性と話をしていて、自分がなさけなくなった。でも、もし「日の丸」「君が代」が大好きな祖父が生きていれば、宮様の菊の紋章入りの勲章に感激して、百万円出したかもしれないと思った。
 祖父と祖母は恋愛結婚だった。祖母は士族の出とかで、家事や育児は全くしない人だった。私の記憶では、いつも着物を着て、正座して、鏡に向かって椿油をぬっている人。
 物置で見つけた大正琴は、祖母のものらしいが、一度も彼女が演奏しているのを聞いたことがない。
 祖母は、幼児の不潔さと騒がしさが大嫌いだった。だから、私は嫌われていた。私が行くと、着飾らせられて、祖母と二人で、たぶん毎月お寺に行ったのだが、「お行儀良くしなさい」と叱られた印象しかない。
 家の中の掃除をするのは、百姓の出の祖父だった。
 祖父は三時には、お風呂に入り、着替えておいしいお茶を入れる。それから新聞を読み、碁を打つ。
 私達孫は、祖父に教育されたと言ってもよい。兄たちは、読み書き・ソロバンを習った。小学生で新聞に載っている文字はほとんど読めたし、兄たちはソロバンの引き算やかけ算も教わったそうだ。博覧会やスポーツ大会を見に札幌や旭川までつれて行ってもらった。
 家族の遊びは、百人一首や俳句づくりだった。そして祖父のお話を聞くのが大好きだった。昔話ではなくて、祖父が日本中を徒歩で3回ぐらい旅した時の珍道中の話や、ヤマ師(実業家)としての成功と失敗の話だった。それはまるで冒険小説のようだった。
 成功した時は、国に大金を寄付したり、学校を建てたり、オルガンを寄付したそうだし、山火事を3回おこして文無しになったそうだ。
 孫の私は祖父の栄光の日々を信じていなかった。今はただ、三時のお茶を楽しむ人だ。午前中は薪を作ったり、臼や杵を作ったりの単なる貧乏な老人だった。

 

     
   

 私が小学生だった頃だろうか。ある日、私の通っていた小学校から「開校○周年記念日に祖父を表彰したい」という手紙がきた。
 「まったく笑っちゃうよね」と、忙しさにまかせて、家族はその手紙をそのままにして忘れていた。
 表彰式の当日、胸に花をつけた黒服の大人たち三人程が、うやうやしく祖父を迎えに来た。家には、私と弟しかいない。祖父は寝間着のようなボロ着物を着ていた。
 黒服の人は私に説明する。
 「学校の歴史をひもときましたら、あなたのおじいさんが校舎を提供してくださったことがわかったんですよ。それにオルガンも・・・」
 〈えーっ あの祖父の作り話はホントだったの? 大変だ、祖父が表彰式に着ていく洋服がない〉
 部屋の壁には、おしゃれな兄の紫色のビロードのシャツと黒ズボンがハンガーにかかっている。
 「はいっおじいちゃん、これに着替えて・・・」と、無理矢理、70代の老人に20代の服を着せる。
 うやうやしく玄関で待っていた黒服の人が両脇から抱えるように祖父と、出かけたときはドッと疲れた。今でも冷や汗ものだ。
 日本文化振興会の人のおかげで、祖父の事を思い出せた。どの人もやっぱりありがたい。

 

   

     

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