『神話のような光景だった。
否。神話すら霞み果てる光景だった――
by:■■■■』
そこは玉座の間であった。天井は高く、間取りは広い。
大勢の賓客を招いて盛大な舞踏会すら開ける程に広大な部屋だ。
床には不純物の一切無い漆黒の石畳が敷き詰められ、中央には純白の絨毯が黒を引き裂くかのように伸びている。
両面の壁と天井は黒と白のチェック柄で統一され、余計な装飾は無い。場を盛り立てる調度品すら、何一つ飾られてはいなかった。楕円形の階段が十数段と連なる部屋の最奥には○の中に×を組み込んだ刻印が大きく掘られ、その真下には玉座が一つ置かれている。既存の物質に当て嵌まらない不思議な光沢を放つ玉座は、この慎ましい部屋の中で唯一、華美な装飾が施されていた。
「こちらへ――」
不意に声が響いた。
声変わり前の幼く高い男の子の声音は、厳格な場に相応しい瀟洒な空気を纏っている。
玉座の傍ら。恭しく一礼する少年こそが、声の主であった。
歳の頃は、背格好から十代前半ぐらいだろうか。肌は白く、銀色の髪が肩口で揺れている。服装はラフな燕尾服に純白のフリルが大仰に取り付けられた奇天烈なものだ。恐ろしい程に端正な貌は幼いながらも妖艶な魅力で溢れ、薄く開かれた黄金の瞳は情欲に濡れているようにも見えた。
「――――――――――」
少年の声に引かれ、無言で進み出たのは黒髪黒目の男だ。
背丈は低く、顔立ちは良く言って美醜の狭間。集団の中では埋没してしまいそうな取り留めて特徴の無い男である。そんな男が妙な雰囲気を放つ漆黒のマントを羽織り、細々とした装飾が丁寧に施された純白の服を着込んでいる。凡そ平凡な男には似つかわしくない格好は違和感の塊でしかなかったが、側に控える少年は当然のように男を受け入れていた。
やがて男は玉座の前で立ち止まると、僅かに瞳を揺らがせる。
けれど、それも一瞬のことだ。男は何かを振り払うかのように浅く深呼吸をすると、おもむろに玉座へ深く腰かけた。
そして男は直視する。その玉座から、段下に広がる光景を。
――英雄がいた。魔王がいた。神々がいた。
人にして人を超えし者達が。あらゆる魔を統べる者達が。神秘と奇跡を綾取る者達が。
其処にはいた。
身の丈ほどもある剣を背負う者がいた。
――野獣の如き気配を漂わせる男がいた。
――――あらゆるものに愛される聖女がいた。
巨大な両翼を誇る四本腕の怪物がいた。
――特定の形状が無い無貌の存在がいた。
――――鋭利な牙と爪を誇示する魔獣がいた。
壮麗な気配に身を包む光の化身がいた。
――甲冑を身に着ける巨大な彫像がいた。
――――飽くなき探求心を内包する龍がいた。
玉座の間は、そうした存在で溢れていた。
その全てが数多の世界で伝説を残した者達であり、これから伝説を創る者達だ。
彼等は一様に列を成して佇みながら、物音一つ立てずに玉座へ座る男を一心に見ていた。
「――――――――」
その圧倒的な光景を一瞥した後、男は気だるそうに天井を見上げる。
まるでチャス盤のような天井を胡乱な瞳で眺める男の胸中は、何とも言えない心持ちで一杯であった。
(どうしてこうなった……)
つまるところ、男は――早坂宏平(はやさか こうへい)は、現状を大いに嘆いていたのである。
運命の転機は唐突に訪れた。
その日、昼を少し過ぎた頃に大学から帰宅した早坂宏平は、真っ直ぐに自室へと向かっていた。
早坂とて、大学に入学する前は一人暮らしに憧れたものだが、二年も過ぎれば当時の憧憬も随分と薄れている。
やはり物心つく前から住み慣れた一軒家は掛け替えのない空間なのだろう。社交的な友人達に色々な場所――それこそ冗談では済まされないような場所も含めて、連れ回される事が多い早坂だが、居るだけで心が落ち着く空間は今のところ自宅だけだ。もちろん、その中でも自室が別格なのは、あえて触れるまでもあるまい。
軽い足取りで早坂は階段を上り切ると、直ぐ手前の扉を開ける。
そこが、小学校の中学年頃に両親から与えられた早坂の自室であった。二階部分は家族の自室として、両親の部屋、弟の部屋、早坂の部屋、そして父親の仕事部屋がある。玄関に靴が無かったので、他の家族が外出中なのは早々に分かっていた。これから遣る事を考えれば、不躾な弟の乱入が無いのは好都合である。
「さて、と」
使い古された四角い木製テーブルの上。そこにポツンと置かれたノートパソコンの電源を入れると、早坂は手早くパスワードを入力する。以前、弟が勝手に使って面倒な事態に陥った経験から、念を入れて複雑なものを設定している。最初は面倒に思っていた早坂であるが、今ではキーを見ずとも入力できた。慣れとは、そういうものだ。
ノートパソコンが立ち上がるまでの時間を利用して、早坂は手早く大学の荷物を片付けると、一階のリビングから紙パックの麦茶とコップを持って来る。コップに並々と注いだ麦茶を飲み干す頃には、ノートパソコンの起動は完了していた。座椅子に腰かけて脚を伸ばし、有線マウスを握る。そして迷わず、デスクトップの左端の天辺にあるアイコンをダブルクリックした。
暫しの間を置いて立ち上がったシステム表示は、複雑な記号を次々に流していく。
数秒後、ディスプレイは唐突に黒で覆われ、直ぐに別の画面が表示された。画面中央には『create system Ⅳ(クリエイトシステムⅣ)』という無骨なタイトルロゴが浮かんでいる。幾つもの選択項目が画面下に並ぶソレは、紛れも無くゲームのスタートメニューであった。早坂は慣れた様子で項目の一つ、『設定の続き』にカーソルを合わせてクリックする。途端、幾つもの分割メニューがディスプレイを埋め尽くした。
「後少しなんだよなぁ」
カチカチとマウスを操りながら、様々な項目をチェックしていく早坂は、隠し切れない愉悦に口元を綻ばせる。
それも当然だろう。何せ早坂は、この『クリエイトシステムⅣ』の設定だけで、一カ月半以上もの時間を掛けているのだから。
切っ掛けは、二ヶ月半前に見つけた一通のメールだった。
ノートパソコンのメールボックスを何気なく開いてみたら、宛先不明のメールが受信されていた。
そもそもパソコンのメール機能をほとんど使わない早坂に覚えがある筈も無く、即座に迷惑メールの類だと判断して削除しようとしたのだが、何故か削除できず、それどころか勝手にメールが開かれると、添付されたシステムをダウンロードし始めた。
予想外の事態に慌てた早坂は、ノートパソコンの強制終了も含めたありとあらゆる手段で阻止しようとしたのだが、結局は無駄に終わった。さらには謎のシステムのインストールまで自動で行われる始末。この時点で早坂はノートパソコンの買い替えを真剣に検討し始めていたのだが、インストールが終了してから恐る恐るパソコンを操作しても不具合は見つからない。
念の為に有料のウイルスソフトによるシステム探索も行ってみたが、やはり問題点は見つからなかった。
ただ、デスクトップに表示された見慣れぬアイコンが、削除を受け付けずに左端の天辺を陣取っているのを除いて。
不安を抱きながらも問題無く使用できるノートパソコンを手放す踏ん切りもつかず、ズルズルと一ヵ月が過ぎた頃。
不意に早坂は操作を誤って件のアイコンをクリックしてしまった。思わず「あっ」と声を漏らすが、もう遅い。
起動し始めるシステム画面を見て、今度こそ買い替えかと早坂が悲壮な覚悟を決めた時――その画面は表示された。
それが、後に早坂宏平の人生を大いに狂わせる【彼等】の創造機、『クリエイトシステムⅣ』との出会いだった。
予想外のゲーム画面に当時の早坂は一瞬、思考を停止させた。
この一ヶ月間、常に思い悩んでいた諸悪の根源が、まさか唯のゲームであるとは思ってもいなかったのだ。
憤懣遣る方無い、とまでは言わないが、多大な不満を胸中に抱いていた早坂は、何となくログインのアイコンを押してみた。けれど、それは『設定が完了していません』の表示と共に拒否される。何の事かと訝しみながら、戻されたタイトル画面のメニューを確認すると、早坂は右下の方に『設定の入力』という項目を見つけた。
――仮に。早坂がココで興味を失っていれば、話は全て終わっていたかもしれない。
けれど、早坂は然して何も考えずにクリックしてしまった。
パッと表示されたのは、項目に示されていた通り、設定の入力画面であった。
尤も、それは通常のゲームのように簡易的なモノではない。文字通り、ありとあらゆるモノをゼロの状態から入力していく、そんな入力画面であった。唯一、指標として定められているのは何らかの組織を創設する事と、拠点・設備・人員・財宝などの各大項目ごとに設けられた上限数値の範囲内で設定を行う事のみ。後はゲーム内のデータバンクから好きな情報を選択して、入力できる仕組みであった。
この時点で早坂は、『クリエイトシステムⅣ』に並々ならぬ興味を抱いた。
元々、戦略シミュレーションゲームや都市育成ゲームなど、手間暇を掛けるゲームを好んでいた早坂にとって、こうまで自由度が高いゲームは垂涎ものであった。何より、選択できる世界観設定がファンタジーなのが気に入った。現実を舞台にするゲーム設定には食傷気味だったのだ。
色々と設定項目を覗いて見ると、写真と見間違うリアリティの参考画像が用意されているのに気付く。それも調べれば調べるだけ、まるで無限に収録されているかのように入力できるデータが出てくるのだ。唯一の難点は一度入力した情報が削除できない事だろう。試しに『魔王デスピア』というキャラを入力して判明した事だ。十分以上に高スペックなキャラの為、大して痛手にならなかったのが不幸中の幸いであった。
ともあれ、これだけの高度な設定が可能なゲームに、友人達から凝り性と称される早坂が惹かれるのは時間の問題であった。
まず一週間かけて基本項目の把握に努めた早坂は、さらに一週間の期間を経て設立する組織の方向性を定めると、一ヵ月以上の時間を注ぎ込んで着々と組織を創設していった。そして今日。最後の設定――拠点:『カバラの樹皮』の内装が完了した。
「ようやく……終わったかぁ」
感慨深げに画面を見やっていた早坂は伸び伸びと背伸びして、そのまま座椅子に深く寄り掛かる。
掛かった期間は一ヶ月半。早坂とて、唯の設定に時間を掛け過ぎているという思いが無い訳ではなかったが、その分だけ満足できる組織に仕上がった。各大項目ごとに設定された一〇〇万単位のポイントを、一ポイントすら無駄にせずに全て使い切ったのだから、その執念は病的とさえ言えるだろう。
「――ああ、いや。違うな」
不意に。早坂は身を起こすと画面に向き直る。
「まだ始まってすらいなかったんだ」
設定に集中するあまり忘れていたが、これからゲーム本編をスタートするのだ。
目的と過程が盛大に入れ替わっていた事に今さら気付いて、思わず早坂は苦笑する。
マウスを握り、カーソルを動かす。設定画面から出ると、直ぐにログインの項目にカーソルを移動させた。
ドクンと。いつもよりも高く心臓が脈打つのを早坂は自覚した。
あの手この手で早坂は『クリエイトシステムⅣ』の情報を集めたが、該当は一切無し。少なくとも通常の販売経路から発売された経緯は無く、メールに添付されているゲームという情報からも見つからなかった。つまり、これは内容もクリア条件も分からない、未知のゲームなのだ。
「――ふぅ。バカらしいな。ゲームだぞ、コレ」
緊張している自分が滑稽で、早坂は自嘲する。
それで吹っ切れたのか、迷わずログインをクリックした。
以前は門前払いされたが、今回はスムーズに起動画面が現れる。そこでは入力設定が表示され、ユーザーによる最終確認を促していた。とりあえず、早坂は最重要な拠点・人員・財宝の項目を流し見て、最後に配下の忠誠度を確認する。一通り問題が無い事を確認すると、スタートを選択した。ポンっと。軽いポップオンの後、短いシステム表示が画面中央に現れる。
『これよりシステムをスタンバイします。よろしいですか? はい・いいえ』
早坂は、その文面に僅かな違和感を覚えた。スタンバイも何も、既に起動している筈だ。
今更な確認に内心で首を傾げながらも直ぐに『はい』をクリックして――早坂宏平は世界から消えた。
前触れも。予兆も。何もかも無く。当然のように。早坂宏平は消失した。
繰り手を失ったノートパソコンは、常に無い甲高い音を立てながら次々とシステムを立ち上げていく。
ディスプレイには見慣れぬ記号が飛び交い、不可思議な文様が席巻し、声のようなモノまで混ざり始めた。
それが一分ほど続いた後、唐突に画面がブラックアウトした。その一瞬後、白い文字が、薄らと浮かぶ。
『スタンバイが確認されました。これより「クリエイトシステムⅣ」は起動準備に入ります』
それが最後。ブツンと音を立てて文字が消え、数秒後には常と変らぬデスクトップ画面が表示される。
けれど。そこには二ヶ月半もの間、左端の天辺を陣取っていたアイコンの姿は、無かった――
――奇妙な通路だった。
光源も無く灯火が燈る空間は、上下左右が等しく白と黒の斑模様に彩られている。
連々と続く通路には何も無かった。窓も。扉も。電灯も。燭台も。出入り口すら存在しない。
始点と終点と多様性が考慮されず、まるで通路と言う概要だけを切り取って張り付けたかのような空間。
誰が。何の目的で。どうやって造ったのかさえ定かではない通路。
そこは変化とは無縁の静寂に包まれていた――その寸前までは。
ヒュウと。何処からか、風が吹き過ぎる音色が響いた。
隙間風ではない。風が迷い込める隙間なんて、この通路には端から存在しないのだから。
出入り口が無く、隙間すら無い通路のいったい何処から、この風は吹いているのだろうか。
停滞した時間が支配する通路に於いて、それは確かな異常だった。そして異常とは――兆候の別称だ。
刻一刻と異常はより明確に、何らかの兆候として形を成していく。
唯の風音に過ぎなかった風は、時が経つに連れて徐々に勢いを増し始めた。
軽風から疾風へ。疾風から強風へ。強風から暴風へ。遂には台風の域にまで風は規模を強めていく。我が物顔で吹き荒ぶ台風は通路を縦横無尽に暴れまわり、激しく渦巻かれた風は乱気流を生み出すに至っていた。このまま勢力を増し続ければ、通路そのものの損壊に繋がりかねなかったが、それは寸での処で回避される。
ピタリと。あれ程の勢力を誇っていた風が、何の前触れも無く吹き止んだのだ。
拡散して、弾け飛んだ台風の渦は斑模様の壁を荒々しく撫で上げながら、散り散りに消えていく。
結局、吹き荒んだ風は通路に何の爪痕も残す事無く、収まった。
けれど――確かに変化は起きていた。
短く刈り込まれた黒髪に胸元の無骨なネックレス、淡い青色のシャツの裾が風の余波で微かに揺れている。台風が渦巻いていた基点。まるで最初から其処にいたかのような自然さで、取り留めて特徴の無い男が佇んでいた。
背丈は低く、顔立ちは幼い。それは、早坂宏平であった。
「……………………は?」
茫然と早坂は呟いた。
ポカーンと半開きの口を閉ざす事も忘れて、白と黒の斑模様の通路に立ち尽くす。
早坂は、状況が理解できていなかった。空回りする思考は理解を遅らせ、時間だけを悪戯に奪い去っていく。やがて早坂は緩慢な動作で上下左右を意味も無く見回すと、左右の壁や床をペタペタと触り始めた。ひんやりと冷たい手触りが掌から全身に伝わると、徐々に思考が正常に巡り始める。そうして唐突に早坂は顔を蒼褪めさせた。冷や汗が溢れ、全身が震え出す。
「は、え、あ、なん、なん……」
言葉に成らない衝動に体をふらつかせた早坂は、何も無い場所でたたらを踏むと、そのまま勢い良く尻餅をついた。
「痛っつッ……!」
臀部を強打した早坂はじんわりと広がる鈍痛に呻く。
けれど、その御蔭で多少は混乱から立ち直る事ができたのか、顔色が少しだけ回復していた。
痛む個所を抑えながら、壁を支えにしてヨロヨロと立ち上がる。
「ま、待った。落ち着け。冷静になれよ……絶対に取り乱すな。慌てるなよー……」
早坂は瞼を強く閉じて、声を震わせながら、自己暗示の如く口の中で何度も同じ言葉を反芻した。
そうして十回は繰り返しただろうか。ようやく早坂は現実と向き合う覚悟を決めたのか、ゆっくりと瞼を開いていく。
瞬間、視界いっぱいに飛び込んできた白と黒の斑模様にグラリと心を折られ掛けるが、自己暗示の成果か、寸での処で持ち直した。脅えた瞳で、改めて周囲を観察する。まったく見覚えの無いトンネルのような通路。前後には終わりの見えない道が続いている。白と黒の斑模様のせいだろうか。距離感や方向感覚が曖昧になって、乗り物酔いのような気持ち悪さが胸を締め付けた。
「――ココ、何処だ? なんで、こんな所に……」
早坂は弱々しく吐き出して、直前の行動を想起する。
一ヶ月半以上もの時間を掛けて、ようやく設定が完了したゲームを起動させようとしたら、次の瞬間にはココにいた――まるで意味がわからなかった。そもそも自室にいた筈なのにと思った処で、はたと靴を履いていない事に気づく。黒い靴下が、通路の斑模様を踏みつけていた。不幸中の幸いか、地面には埃すら見当たらないので汚れる心配は無さそうだ。
「……夢、じゃないよな」
一瞬、本当は転寝でもしているんじゃないかと自分自身を疑うが、未だに鈍痛を訴える臀部が否定している。
他にも誘拐、拉致、ドッキリ――様々な可能性を次々に思い浮かべるが、結局は情報が足りず、答えを保留するしかなかった。
「誰かいませんかーっ!!」
早坂は通路の奥に大声で呼び掛けるが、返って来るのは無数に反響した自分の声ばかり。
何度か繰り返して無駄と悟ったのだろう。早坂は、縋るような思いでズボンのポケットから型遅れの携帯を取り出した。
「……だよ、な。はぁ……」
液晶画面に表示されている『圏外』の二文字を前にして、早坂は沈鬱な溜め息を吐いた。
たった二文字が、人間を絶望の渦中に陥られる事を早坂は身を以って学んだ。
「どうしよう……」
最後の希望を断たれて途方に暮れる早坂の姿は、外見相応に幼く見えた。
諦観の念を抱きながら早坂は無造作に携帯を仕舞い直すと、存在しない出口を求めて歩き出そうとして――不意に携帯から流れ始めた聞き慣れないメロディに、動きを止めた。
「えっ!?」
慌てて携帯を取り出し、液晶画面を確認すると、そこには一件の新着メール通知が表示されていた。
反射的にボタンを押し込んで受信ボックスを開くと、確かに一通の未開封メールが最上段に存在している。
「なんだ、これ……?」
早坂は思わず困惑の声を漏らした。それ程までに異様なメールだった。
アドレス欄と件名には見た事の無い記号が並び、着信時間は99:99と表示されている。
極めつけはメールそのものが七色に淡く点滅を繰り返して、大袈裟に存在を主張している処だ。
「そもそも、どうやって受信したんだよ……」
電波は依然として圏外を表示している。一体このメールは何処から届いたのだろうか。
「…………」
生唾を飲み込みながら早坂は逡巡する。
わけがわからない状況の中で届いた得体の知れないメール。
関連性を疑うなと言うのが無理な話だ。問題なのは、このメールを開封するか否か。開封すれば何か突破口を得られるかもしれないが、もし更なる異常が発生したらと思うと二の足を踏んでしまう。早坂としては、本当ならじっくりと悩んだ末に結論を出したい処だが、どうやらそうも言っていられないらしい。
「考える時間すらくれないのかよ」
愚痴る早坂の視線の先には、バッテリーの残量表示があった。
受信ボックスを開いてからというもの、パーセンテージで表されるバッテリーの減りが異様に早い。一秒に一パーセントずつ減少している。既に五〇を割り込んでいる為、決断する時間は一分すら無い計算だった。迷っている時間は、無い。早坂は浅く深呼吸をして、覚悟を決めた。
「どうせ、今だって意味が分からないんだ。これ以上、どうなっても今更だよな」
緊張に相貌を強張らせながら、早坂は震える指でメールを開封する。
最悪、爆発さえ覚悟していた早坂の決意とは裏腹に、そこには日本語で、短い文章が記述されているだけだった。
『システムがスタンバイされました。
下記ワードの音声認証がクリアされ次第、システムを起動します』
開封と同時にバッテリーの減少は止まったが、端的な文章からは状況を打開するヒントは見つからない。
それに気落ちしながらも、とりあえず早坂は指定された部分を読み上げる事にした。カチカチと本文を下げ、件の文章に目を通す。
「え? これって……」
メールが指示する下記ワードとやらに表示されている文章――単語は、早坂にとって見慣れたものであった。
何せ最近は毎日、とあるゲームのタイトル画面に表示されるソレを目にしていたのだから。
「【create system Ⅳ(クリエイト、システムⅣ)】……? どうして……」
ゆっくりと。半ば茫然と紡がれた早坂の言葉に反応してか、メール本文の文章が変化する。
『音声認証がクリアされました。
これより【クリエイト・システムⅣ】を起動します』
その一瞬後。グニャリと視界が脈動した。
「なっ……!?」
否。視界ではない。上下左右の壁を彩る白と黒の斑模様が急速に変化し始めたのだ。
分離した白と黒は次々に正方形を形成すると、まるでチェス盤を形作るかのように整列していく。
周辺が全てチェックの柄で統一された瞬間、それが一切に裏返り――気が付けば、早坂は広大な空間に立っていた。
「……ッ!? またかよッ!」
二度目と言う事もあってか、早坂が気を取り直すのは早かった。
すぐさま周辺を見回して、先程まで居た空間との違いに愕然とする。
周辺には何も無かった。凹凸の無い真っ平らな地面が遥か彼方の地平線まで続いている。
これまで天井があった頭上は、夜空よりも黒い漆黒の空に覆われ、足元には降り積もった初雪よりも白い純白が広がっていた。
「――すげぇ」
暫し陥っている状況も忘れて、早坂は感嘆の声をあげた。
自然では絶対にありえない幻想的な光景に早坂の心は瞬く間に奪われる。地平線で重なり合う完全な白と黒は、まるで世界の境界を描いているかのようだ。二〇年の人生の中で、純粋に何かを美しいと思えたのは早坂にとって初めての経験だった。
仮に、これが最初に遭遇した異常ならば、ここまで素直に感動できなかっただろう。
謎の通路という異常の前例があるからこそ、忌避無く目の前の光景に見惚れる余裕が生まれたのだ。
「……ん?」
暫し景観に見惚れていた早坂だが、不意に携帯が震えた気がして液晶画面を見やる。
また、メールの本文が変化していた。
『システムの起動を確認。起動者の名称を音声入力してください』
早坂は眉根を顰めた。
現代人として、こんな異常な場所で個人情報を開示する警戒感は少なくない。けれど、指示に従わなければ状況が進展しそうにないのは、これまでの事態から悟っていた。そもそも今さら個人情報の一つや二つ、明かした処でどうだと言うのだ。
「早坂宏平」
半ば投げ遣り気味に早坂が名乗った瞬間、俄かに空間が鳴動した。
今度は何だと丹田に力を入れて気を張っていると、その眼前に突如、純白の何かが現れた。
「うわっ!?」
思わず早坂は大きく仰け反るが、気を張っていたからだろう。
何とか踏ん張って、再び尻餅をつく事態は回避した。それに安堵の吐息を一つ漏らして、早坂は正面に向き直る。そこには相変わらず純白の何かがあった。いい加減、異常にも慣れてきたので唐突に現れたという事実はスルーする。気にするだけ無駄だと自分を納得させていた。重要なのは、眼前の物体の正体だ。
「何なんだ、これ」
純白のソレは一見して機械のように見えた。格闘ゲームの筺体が近いだろうか。
正面には正方形のディスプレイが備わっている。触れる事も憚れ、かといって視線を逸らす事もできずに持て余していると、不意に映像が浮かび始めた。ディスプレイには意味不明な記号が次々に表示されていき、最終的に短い文章だけが残される。
『第二マスター認証を【早坂宏平】で登録。設定完了。
質問がなければシステムを承認してください』
相変わらず意味がわからない。
早坂は頭を抱えるが、質問の二文字に縋る様な心持で声を絞り出した。
「ここは何処なんだ? さっきから何が起こってるんだっ!?」
最後は叫ぶように早坂は眼前のディスプレイを睨み付ける。返答は、簡潔だった。
『第二マスター権限では参照できません』
淡々とした文面に向けて早坂は拳を叩き込みたい衝動に駆られるが、寸での処で自制する。
ここでディスプレイを壊したら唯一の道標が失われてしまう。早坂はグツグツと煮え立つ憤懣を必死に飲み干した。
「俺が何を言ってるのか分かるなら、答えられる範囲でいい。少しでもいいから俺が巻き込まれてる状況を教えてくれ。本当に、頭がどうにかなりそうなんだ。『クリエイトシステムⅣ』ってあのゲームの事だよな? もしかして、アレが原因なのか?」
早坂は限界だった。これまでは超常現象に流される事で心の安定を保っていたに過ぎない。
それが【質問ができる立場】に一転して立たされた事で、現状に対する不安や恐怖、困惑が堰を切ったように溢れだしていた。
『第二マスター権限では参照できません』
けれど早坂の願いも空しく、ディスプレイは同じ文面を繰り返す。
それからは無意味な押し問答だった。自制も空しくタガが外れ、興奮した様子で早坂が何を喚き散らしてもディスプレイは同じ文章を返すだけ。数時間が過ぎて、先に折れたのは早坂だった。純白の地面に座り込み、荒く息を吐く早坂の表情は優れない。興奮するままに喚き散らしたのだ。元々の体力が平均以下の早坂の体調が崩れるのは当然であった。
けれど、体力に反して内面は落ち着きを取り戻していた。溜まりに溜まった文句を吐き出した事で、多少はストレスが発散されたからだろう。息を整え終えた早坂は、改めてディスプレイを見上げる。
『質問がなければシステムを承認してください』
そこには最初に表示されていた文章が再び浮かんでいた。
未だに疑問や文句が尽きない早坂だったが、喚いたところで進展が無いのは実証された。
なら、理不尽を踏み締めて前に進むしかない。決意を固めた早坂は、けれど最後に一縷の望みを掛けて尋ねる。
「……元の場所に戻る方法は?」
『第二マスター権限では参照できません』
「……はぁ」
即答に、早坂は思わず溜め息を漏らした。
質問は無いかと聞いておいて、これでは詐欺では無いかと思う反面、これ以上に何を言っても無駄だろうなという諦観が胸中を占める。グルリと周辺を見回すが、やはり目の前の筺体以外には何も無かった。
「……覚悟、決めるか」
物凄く嫌そうに吐き捨てながら、早坂は立ち上がる。
「わかった。システムを承認する。これで良いんだろう?」
話が先に進まない以上は相手の要求に答えるしかない。それが融通の効かない機械ならば尚更だ。
早坂の判断は間違ってはいない。間違ってはいないが、もう少し考えるべきであった。先程の『クリエイトシステムⅣ』という言葉の意味を。そうすれば、本当の意味での覚悟ぐらいは固められたかもしれない。尤も、既に意味の無い事ではあるが。
『システムの承認を確認。入力設定をランダム選択された現実世界に反映。
これより多次元観測型多重位相転移装置四号【クリエイトシステムⅣ】を起動します』
その文章を読み取った瞬間、再び早坂は世界から消えた。
二度目の消失であった。残された純白の筺体は、新たな文章を浮かべていく。
『起動完了。【早坂宏平】から第二マスター権限を剥奪。
該当人物の記録世界からの抹消をスタートします――完了。
入力設定を最適化しています――完了。早坂宏平をインポートします――――』
誰もいない空間で行われる純白の筺体による何か。
その答えを知る者は、まだ誰もいない。