「どうも、どうも」と私は無様に頭を下げる。いきなり、よそ様の居間兼寝室に入ってしまった。
この和室1部屋に、渡辺さん夫婦と、3月に高校を卒業した次女、中2の長男、小4の次男の5人が暮らしているのだ。
夜くつろぎの時間に、手土産も持たずに現れた私を、奥さんも息子さんたちも、嫌な顔ひとつせず迎えてくれる。お茶を入れ、お菓子を出してくれる。息子さんたちは自慢の野球グラブや写真を見せてくれる。そのうちに娘さんまでぬれた髪をタオルでふきながら部屋に戻ってきた。にっこり笑って「いらっしゃい」と言ってくれたのでドキドキする。人見知りするわけでもなく、モジモジするわけでもない。みんな礼儀正しくて気持ちがいい。なるほど、大人のお客に慣れているのだ。
放射能汚染されたグラウンドで野球はできない
渡辺一家が来客慣れしているのには理由があった。渡辺さんは子供たちの成長に合わせてずっと、南相馬市で子供たちのバレーボールや野球チームでコーチ、監督を務めているのだ。長年の間に、子供たちや親とつながりが多数できた。渡辺さん夫婦は、そんなスポーツを通じたネットワークの中心にいる。
そんな渡辺さんにとって、南相馬は何より大切な場所だ。そこは、大好きな子どもたち、教え子たちやその家族が暮らし、美しい思い出が詰まった場所だった。
長女は大学に入り、下宿生活をしている。次女は高校を卒業して就職が決まった。野球が得意な長男は高校へスポーツ進学できそうだ。次男も学童野球で活躍している。子供好きな渡辺さん夫婦にとって、幸せな毎日だった。
「私は故郷を愛しています。何より故郷が大事だ。しかし、それも時と場合によります」
3月12日。最初の水素爆発が起きた日、すべては変わった。ある原発に務める親戚に電話すると「県外に逃げろ。次にどの原子炉が爆発してもおかしくない」と言われた。夕方6時前、自動車を運転して一家で南相馬を後にした。避難所の指定もないまま、山形県東根市の体育館にたどり着いた。借家の自宅は家賃を払い続けたまま帰れない。
一度、南相馬市に戻ったついでに、奥さんと2人で自宅に行ってみた。玄関前で線量を測ったら、毎時2.7マイクロシーベルトもあった。年間に直すと23.65ミリシーベルトだ。小学校のグラウンドでも毎時2.5マイクロシーベルトだった。
内部被曝したら? 万一娘ががんになったら? 放射能を帯びたチリを吸ったら? そう思うと、心が乱れる。そこで子どもを育てる気にとてもなれない。
-
フィナンシャル・タイムズと日経が語る新聞の将来 (2011.11.14)
-
アディダスの失敗に学ぶソーシャルメディア活用 (2011.11.11)
-
スマホ普及でO2Oは「オフライン・ツー・オンライン」へ (2011.11.10)
-
ネット技術は広告会社を「無用の長物」にしたか (2011.11.09)
-
モバイル端末は「道具」から「器官」へと変化する (2011.11.09)
-
ソーシャルかソーシャルでないか、それが問題だ (2011.11.08)
-
「どこへ行っても、結局地元とは違うんだよ」 (2011.11.04)
-
放射能に劣らず村人が恐れているもの (2011.10.20)
-
変わる広告主、メディアも消費者を知り変化の努力を (2011.10.20)