本欄(HP)には、三つの桜井淳事務所(水戸、サンフランシスコ、アルバーニィ)の(1)業務内容、(2)桜井淳の経歴・著書・学術業績、(3)日米大学での作業内容、(4)学術セミナー開催案内などが記されています。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-桜井淳著書1 桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-桜井淳著書2
桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-桜井淳著書3 桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-桜井淳著書4
桜井淳の著書・共著・編著・編集・監修・翻訳47冊及び学会論文誌掲載論文32編・国際会

議論文50編(国会図書館で閲覧可能)。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-原発のどこが危険か

「原発のどこが危険か」(朝日新聞社、1995)。

旧ソ連製原発の学術的情報を最初に記した

歴史的書。電源信頼性の問題提起、福島

一原発事故の予言(2011.4新版緊急出版)。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-原発事故の科学

「原発事故の科学」(日本評論社、1992)。原

発事故分析の学術書として他に例のない論

理構成と記載内容。2011.4緊急増刷。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-原発システム安全論
「原発システム安全論」(日刊工業新聞社、19

94)。NUREG-1150(1990)などのPSAによる

酷炉心損傷事故発生確率の評価法と結果を

まとめた他に例のない論理構成と記載内容の

学術書。


桜井淳カリフォルニア事務所-新幹線安全神話が壊れる日
「新幹線「安全神話」が崩れる日」(講談社、19

93)。日本で最初の工学理論に則った本格的

な「新幹線技術論」。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-崩壊する巨大システム
「崩壊する巨大システム」(時事通信社、1992)。

大型航空機・新幹線・原発の事故分析。福島

第一原発事故の予言。


$桜井淳カリフォルニア事務所

「原発のどこが危険か」(朝日選書、新版、緊

出版2011.4.8、朝日新聞出版、(2011))。

原子力事故自衛マニュアル」(青春新書改

版、緊急出版2011.4.7、青春出版社、(2011

))。両書ともベストセラー達成。


監修「放射能から身を守るQ&A100」(学研(20

11))。


「原発安全神話の崩壊」(電子書籍、日経BP社

(2011))。


$桜井淳カリフォルニア事務所

「福島第一原発事故を検証する-人災はどの

ようにしておきたか-」(日本評論社(2011))。

事故原因は過去半世紀の原子力開発の矛盾

の積み重ねであることを論証した学術書。


$桜井淳カリフォルニア事務所
「原発裁判」(潮出版社(2011))。原発に対す

る35年間の問題意識を整理し、本音で語った

不条理な世界。日本の未来を示す。


近刊1冊(12月5日発売、人とその仕事シリ

ズ2「原子力発電は安全ですか?」に答える)。


執筆中2冊(2012年2月と3月に出版予定)。


【無限修行テーマ1】トレッキングとは「山麓歩きや小登山」のことです。しかし、ここでは、垂直壁ロッククライミングやエベレスト登頂まで含めます。バックナンバー写真集は桜井淳の登頂記録(男体山、高山(家族同行)、外山、前白根山、白根山、谷川岳、八方尾根(家族同行、2回)、白馬岳、乗鞍岳、北横岳(夏山1回、雪山1回)、北岳、富士山、立山、槍ヶ岳、穂高岳、御嶽山、加波山、鳴虫山(家族同行)、半月山(家族同行)、社山、黒檜山、山王帽子山、吾国山、難台山、愛宕山・団子山・大福山・難台山・吾国山の縦走(4回)、硫黄岳・横岳・赤岳の縦走、金精山・五色山・坐禅山・白根山・前白根山の縦走、山王帽子山・小太郎山・太郎山の縦走、半月山・社山・黒檜岳の縦走、小丸山・丸山・赤薙山・女蜂山・小真名子山・大真名子山・男体山の縦走、メンヒ、モンブラン、ユングフラウ(調査登山済み)、アイガー/ミッテルレギー稜(調査登山済み)、マッターホルン/ヘルンリ稜(調査登山済み)、ブライトホルン、ピラトゥス、ティトリス、世界8000m級14座(エベレスト、K2、カンチェンジュンガ、ローツェ、マカルー、チョー・オユー、ダウラギリⅠ峰、マナスル、ナンガ・パルバット、アンナプルナⅠ峰、ガッシャーブルムⅠ峰、ブロード・ピーク、ガッシャーブルムⅡ峰、シシャパンマ))です(未完)。完遂後、著書にまとめます。


【無限修行テーマ2】桜井淳は、2009年4月より、東大大学院人文社会系研究科で「ユダヤ思想」の研究を開始し、比較宗教学(ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教、キリスト教、イスラーム教、日本神道)の視点から、独自の研究視点を基に、京都・奈良・鎌倉・北鎌倉のみならず、国内外の寺・神社・教会・シナゴーグを対象とした「千寺巡礼」を開始しました。バックナンバー写真集には暫定的に外観写真が掲載してあります。完遂後、著書にまとめます。


【無限修行テーマ3】桜井淳は、バックナンバー写真集に示すとおり、2010年9月1日から、比較宗教学の視点から、曹洞宗禅寺で、月3回の割合で、仏教と坐禅の修業中です。完遂後、著書にまとめます。


【無限修行テーマ4】桜井淳は、2009年4月より、国内外で、哲学修行中です。完遂後、著書にまとめます。

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Sun, November 20, 2011 stanford2008の投稿

【事務所報告】桜井淳の飯田哲也「1億3000万人の自然エネルギー」の感想

テーマ:ブログ

新聞の広告で見た「初の教科書」に魅かれ、素直に期待し、注文しましたが、届いた本を読み、「まったく違う、これは小学生を対象とした絵本だ」と感じました。125ページで1200円ですか?、とても、受け入れられません。本屋で内容を確認していたら、購入したいとも思いませんでした。


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
飯田哲也「1億3000万人の自然エネルギー」

(講談社、2011)


飯田さんには、すでに、「北欧のエネルギーデモクラシー」(新評社)や「自然エネルギー市場」(築地書館)という作品があるわけですから、その先の展開を期待していたのですが、いくら、脱「原発依存社会」だからと言って、絵本でそのような未来を語ることもないでしょう。


自然エネルギーの議論は、もはや、考え方や方針の段階ではなく、確実な工学とエネルギー政策の段階に達しています。飯田さんにはなぜそれが論じられないのでしょうか。それは私の仕事でしょうか。

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Sun, November 20, 2011 stanford2008の投稿

【事務所報告】桜井淳の四半世紀のサンフランシスコとバークレーとパルアルトの感想

テーマ:ブログ

これまでの渡航回数は年齢の数くらいに達します。ちょうどその数に一致するということではなく、おおよそ、そのくらいになるという意味です。


最初は、33年前、欧州10日間の旅でした。仕事ではありませんでした。2回目は、27年前、仕事での米国出張でした。その後、23年前から、仕事やTV取材協力や単独調査など、50回くらいに達します。最初の1回以外はすべて仕事でした。最初と単独調査3回とスイス・フランス登山以外の渡航費と滞在費はすべて依頼者側の負担でした。50回のうち40回は最近11年間に集中しています。結局、渡航費の個人負担は、5回だけでした。


いちばん多い移動経路は、成田→サンフランシスコ国際空港→サンフランシスコ市街地→バークレー、サンフランシスコ国際空港→パルアルトでした。


23年前、サンフランシスコ市街地のホテルに宿泊した時、空港から同行者とタクシーで市街地まで向かいました。空港からフリーウエイで約10分、目前に突然、高層ビル群が出現し、当時としては、驚くほど大きく感じました。しかし、回を重ねるにつれ、だんだん小さく感じ、今では何も感じません。


当時、空港から市街地までのバートは、ありませんでした。市街地から空港、空港からミルブレーまで延びたのは、2003年からです。サンフランシスコ市街地からバークレーまでバート、ミルブレーからパルアルトまでカルトレインが利用できます。空港からバークレーまで約12ドル、パルアルトまで約8ドルです。タクシーの約4分の1です。


移動経路の光景は、四半世紀経っても、何も変わりません。サンフランシスコ市街地も何も変わりません。サンフランシスコは、東京のような大都市ではなく、4時間歩けば一周できるくらいの中規模の都市です。最初にサンフランシスコを訪れた時、背広と革靴のまま、都市の外周を黙々と歩いてみました。4時間では、市街地外れのゴールデンブリッジまではとても行けませんでしたが、おもな街並みは、歩くことができました。その後、4時間も歩き続けたことは、ありませんでした。せいぜい2時間です。


何も知らない頃の好奇心が最も野心的でした。いまでは何も感じません。市街地や大学の写真を撮ったのは最初の1年でした。いまでは撮ろうともしません。


東大や米大学での作業でも何も感じません。ごく普通の光景です。

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Sun, November 20, 2011 stanford2008の投稿

【事務所報告】桜井淳の最近の教会通い-比較宗教学の視点から「聖書」の教えの教育法を学ぶ-

テーマ:ブログ

東大で、2009年4月から、学問としてのユダヤ教、特に、「中世ユダヤ思想」の研究を行っています。


ユダヤ教の聖典は、「旧約聖書」のみで、「新約聖書」を聖典とするキリスト教を認めていません。しかし、ユダヤ教のみならず、比較宗教学の視点から、ヒンドゥー教、仏教、キリスト教、イスラーム教、日本神道の基本的な文献を熟読し、国内外の宗教施設を訪ね、歴史や文化や現在の社会的位置づけなど、積極的に学びました。


バックナンバーの「千寺巡礼」はその成果です。


ユダヤ教の研究だから、ユダヤ教しか知らないということは、ありません。ユダヤ教以外の文献解読や施設を訪れることは、決して、矛盾ではありません。比較宗教学の視点からすれば当然なことです。


キリスト教の信者ではありませんが、日曜日には、不定期に、教会に通っています。牧師さんには、目的をお伝えし、了解をいただいています。


目的とは信者への「聖書」の教育法です。


日本の宗教施設は、政教分離のため、独立採算制で運営されています。お寺ならば檀家からのきまりきった年間費やお布施など、神社ならば祀られている人たちの家族からの寄付など、教会ならば信者からの献金などです。


通っている教会は、地方によくある中規模の施設であり、日曜日のお祈りの参加者は、20名くらいです。どこの教会でもそうですが、若者は少なく、高齢者ばかりです。


日本は、歴史的に見ても、社会政策のため、キリスト教が浸透しませんでした。そして、いまでも、先進国の中でも、異常なほどの少数派です。教会の運営はお寺や神社以上に大変だろうと感じました。


仏教では、どの宗派でも、お経を読むには、リズムが必要です。木魚を叩くのはそのためです。教会でも同様です。聖書の言葉の教えの過程でも、強調や反復だけでなく、その後での賛美歌の合唱など、全体的には、躍動的なリズムが感じられました。


聖書の言葉は史実と一致していません。聖書は、歴史学の世界ではなく、神学の世界です。「旧約聖書」の「出エジプト記」は史実と一致していません。神学としての哲学の世界です。


33年前、欧州各国の多くのカテドラルを訪れました。しかし、単なる観光客の立場でした。四半世紀前、マンションの道路を挟んで合い向かいに、サレジオ教会(東京都目黒区碑文谷)がありました。せっかくのよい機会でしたが、その一画のジョギングだけで、教会の中に入ることは、一度もありませんでした。


「聖書」を熟読し、特に、ユダヤ教の聖典の「旧約聖書」、その中でも特に、モーゼ五書「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」を熟読し、自宅近くの教会に通うようになったのは、最近のことです。


自宅近くの護国寺も訪れ、神主さんや巫女さんとも話します。メカニズムの解明をしてみたいと考えています。昨年は、八重桜の苗木を1本、献木しました。


これにより、これまでの禅寺に加え、教会と神社も、定点観測の研究対象に入りました。

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Thu, November 17, 2011 stanford2008の投稿

【事務所報告】桜井淳のスイスとフランスの登山の旅で感じた自然についての感想

テーマ:ブログ

スイスとフランスの登山については、すでに、バックナンバーに、写真を掲載してありますが、改めて、ここで、感じたままに記してみます。


空港を初めどこでも分かりやすい英語、高速鉄道移動の快適さ、景色のすばらしさ、食事のおいしさ、ホテルの快適さなど、何をとっても、申し分ありませんでした。


何度でも訪れたいと感じました。


スケジュールの関係で、グリンデルワルトに到着したのは、深夜でした。暗くて周囲のことは何も分かりませんでしたが、翌朝、「ホテルユングフラウロッジ」のレストランで朝食をしようとしたところ、目の前に、憧れのアイガー北壁がそびえていました。本当に感動しました。


グリンデルワルトからWAB登山鉄道でクライネ・シャイデックまで行き、そこから、ユングフラウヨッホ行きのJB鉄道に乗り換えました。電車は、観光のため、アイガー氷河駅で5分停車しました。見たことのない氷河の光景に圧倒されました。決して美しいものではありませんでした。所々、薄汚れていました。電車は、観光のため、アイガー北壁駅とアイガー氷海駅でも5分間停車しました。


私は、その日、1日かけて、アイガーのミッテルレギー稜の途中まで、メンヒ登頂、ユングフラウの途中までの調査登山を済ませました。


そして、グリンデルワルトからマッターホルンの麓のツェルマット(マッターホルンの途中までの調査登山)、さらに、フランスのシャモニー・モンブラン(モンブラン登頂)に移動しました。


シャモニー・モンブランのホテルから、すぐ近くに、3000m級の山々が多く見えました。それどころか、すぐ近くに、氷河が迫っていました。日本では考えられない光景でした。


グリンデルワルトでもツェルマットでもシャモニー・モンブランでも、河は、氷河からの溶解水であふれ、透明の水ではなく、セメントを水に溶かしたような白濁色をしていました。氷河の養分が溶け出したためです。日本では見られない光景でした。


登山家にとって、グリンデルワルトやシェルマットやシャモニー・モンブランは、確かに、自然がすばらしく、魅力ある町です。何度でも訪れたいと感じました。

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Tue, November 15, 2011 stanford2008の投稿

【事務所報告/最近の講演要旨】桜井淳の3.11「人生で最悪の恐怖体験」のトラウマ

テーマ:ブログ

3.11(金)は、いつものように、午前中に水戸事務所で業務をこなし、午後から自宅で原稿を書いていました。その日は、いつもとちがい、どんよりした暗い曇り空でした。まだ3時にはなっていませんでしたが、突然、地震の揺れを感じました。


水戸市は、年間平均60回(週平均1回、気象庁水戸支所に確認)の体感できる地震が発生しているため、いつものことかと思い、そのまま様子を見ることにしました。


いつもと揺れがちがうため、危険を感じ、スリッパのまま、テラスから庭に出ました。すでに、かつて経験したことがないくらい揺れが大きくなり、近くの通路が波打ち、塀が前後に揺れ、周囲の家屋が倒壊するのではないかと思えるくらい激しく揺れていました。


大地が割れ、奈落の底に吸い込まれて死ぬのではないかとさえ感じました。人生最悪の恐怖の出来事でした。激しい揺れは60秒くらいで収まりました。


すぐに、室内の点検をしました。停電・断水・電話不通になっていました。食器棚から数枚落下して粉々になっていました。書斎の本棚の半数くらいが落下し、足の踏み場がないくらい乱雑になっていました。揺れの割には被害が少ないと感じました。


携帯電話で震源と地震の規模を確認しました。水戸市は震度6でした。事務所の被害状況も確認しました。「本棚と資料棚から数千冊落下して足の踏み場もないくらい」との報告を受けました。商売道具の携帯電話のバッテリーがへばっていることに気づきました。


まず、残圧でわずかに出る水道水をできるだけ多く確保するように心がけました。そして、すぐに室内の片付けを始めました。


すでに、地震発生から1時間経っていました。マスコミ各社から、「福島第一原発が津波のため、非常用ディーゼル発電機が機能喪失した」との電話があり、驚きました。「どうなるのか」との質問に、「WASH-1400(1975)とNUREG-1150(1991)から判断すれば、すぐに回復できなければ、炉心は、2-3時間後に溶融し、使用済み燃料プールの燃料も溶融し、最悪の場合には、3基の放射能からして、チェルノブイリの2倍くらいの災害になります」と答えました。


つぎに、福島第一原発と水戸市の距離が約200kmであることを確認しました。


WASH-1400(1975)とNUREG-1150(1991)から、半径20km圏内が致命的な被害を受けると思いました。その後も、非常用ディーゼル発電機は、回復できず、最悪の事故が進展中であることに気づきました。


私の頭の中にあることは、当事者の東電のエンジニア、東大や原研の軽水炉安全性研究者、経産省技術顧問、政府技術顧問も認識していると思いました。政府は問題を把握していると思いました。そのため、要請があるまで、でしゃばらずに、ことの推移を見守ることにしました。


夕刻、一旦休憩し、緊張と疲れをほぐすため、ウイスキーをすすりました。すでに、暗くなっており、作業を継続すべきか否か、迷いましたが、登山用ヘッドランプが利用できることに気づき、夜どおし、自宅と事務所の片付けをしていました。


事務所の本棚と資料棚には、柱との間に固定金具をかませ、ある程度の耐震対策を施していましたが、揺れが大きかったため、固定金具がすべて大きく変形していました。しかし、機能を発揮していたため、転倒したり、大きな被害はありませんでした。


徹夜での作業であったため、早朝、自宅に戻り、仮眠しました。


翌日の12日午後、自宅は停電でしたが、事務所の地区が回復していることが分かり、携帯電話のバッテリーを充電し、マスコミと連絡できるようになりました。数件のインタービューに答えました。後で気づいたのですが、たとえ、自宅や事務所の電話が不通であっても、災害時、公衆電話は、機能しており、無料で利用できます。投入したおカネが戻ってきてはじめて気づきました。12日の昼頃、マスコミとのやり取りには、公衆電話を利用していました。


テレビ朝日から、「すぐに東京に来てください」との要請がありました。常磐線と常磐高速道は、不通になっており、利用できる移動手段は、タクシーで6号国道を利用するしかありませんでした。翌日早朝の特別番組のため、夜10時に自宅を出発し、夜中の2時に六本木に到着しました。深夜であったにもかかわらず、担当者が出迎えてくれました。その時間帯にもし常磐高速道が利用できたならば、1時間半しかかかりませんが、6号国道を利用すると、地震で道路が崩れている箇所があったため、予想以上に時間がかかりました。疲れました。


3月中旬、しばらくの間、国道6号でしたが、テレビ局の用意したタクシーで水戸と東京を頻繁に往復していました。余震で、六本木の宿泊ホテルが何度も大きく揺れ、恐怖を感じ、「すぐに水戸に戻らねば」と思いつつ過ごしました。


3月15日の夜8時20分からのFM放送からのリアルタイム放送のインタビューを受け、まだ、世の中でチェルノブイリ並みという認識がなかった頃、WASH-1400(1975)とNUREG-1150(1991)を基に、進行しつつある原発災害の危機を語りました。放送担当者から数多くの賛否両論が寄せられたと聞きました。何も知らないで軽い反論をしている人たちが哀れでなりませんでした。


これまで、体感できる余震回数は、数百回にもおよび、わずかな揺れでも、恐怖感を覚えるほどの「トラウマ」に陥りました。携帯電話のくり返される地震速報の警報音も「トラウマ」の原因のひとつでした。それでもマスコミ対応を続けました。あまりの数の多さに、疲れ、苛立ち、怒りさえ感じました。


福島第一原発事故後、300回弱のインタビューに答えました。テレビ出演30回、特集論文20編、著書出版10冊でした。インタビュー件数は、いつもと変わりありませんでしたが、今回の際立った特徴は、著書などの依頼が多かったことでした。普段ならば、1冊あるかないかでした。すでに10冊すべてこなしました。気力も体力も衰えていないことに気づきました。すでに7冊刊行され、来年3月までに、あと、3冊刊行されます。


時々、何も考えずに、日本アルプスや奥日光の2000-3000m級の山々に登頂していました。8月上旬の10日間、フランスのモンブラン(4807m)とスイスのメンヒ(4107m)に登頂し、さらに、来夏の登頂を目指して、スイスのユングフラウ(4158m)、アイガー(3970m)のミッテルレギー稜、マッターホルン(4478m)のヘルンリ稜の途中までの調査登山も済ませました。4000m級の山々は生きるか死ぬかの世界です。メンヒでは風速20mの吹雪に遭いました。スイスを卒業したら、そのつぎは、ヒマラヤの世界8000m級14座の登頂です。


自伝を書き始めました。生存中に出版するつもりはありません。もしもの時の心構えです。


ヒマラヤを卒業したら、これまでの仕事(主に著書)の現象論的研究を全体的に再考察し、本質論的な哲学のまとめに入ります。


福島第一原発事故は私のすべての価値観を覆しました。これまでにかかわった東大工学分野や原研の研究者との信頼関係は完全に崩壊しました。彼らはすべて無能者でした。安全性研究にもなっていませんでした。その程度ではなく、私の技術論や安全論も、より厳しい内容に再構築しなければならないと感じました。世界的に考えても悪い意味で歴史的な出来事でした。


福島第一原発事故ではすべてが敗者でした。日本人すべてが無能でした。

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Mon, November 14, 2011 stanford2008の投稿

【事務所報告】桜井淳の「アイガー北壁最速登頂記録達成映像」の感想

テーマ:ブログ

私は、8月4日、スイス登山のため、成田発10:00のスイスエアラインズLX160便に搭乗し、チューリッヒ空港を目指していました。


離陸後、新田次郎「アルプスの谷/アルプスの村」(新潮文庫)を読み直していました。大変参考になりました。なにげなしに、機内テレビ映像を観ると、「アイガー北壁最速登頂記録達成映像」が放映されていました。2時間40分の驚異的な速さです。本当に驚きました。


アイガー北壁の登頂には、普通の方法では、数日間かかります。普通の方法とは、信頼できるふたりが一組となり、リードがハーケンを打ち込み、それにカラビナを介して、ザイルをとおし、支点を確保しつつ、それを繰り返し、登り、もうひとりの確保者は、リードが足を滑らせて滑落しても、わずかの落下距離で留まるように、常に、下で、ザイルをのばしたり、引っ張ったりして、ザイルの長さ調整し、リードが登りやすく支援します。


リードがザイルの長さで決まる高さまで登ると(普通、一ピッチ20m)、リードは、確保点とビデイループを結び、滑落しないようにしてから、下の確保者が、ハーケンを抜きつつ、登るのを支援します。そして、確保者が、リードと同じ高度に達したら、今度は、確保者がリードとなり、ハーケンを打ち込みつつ、登り、リードと確保者は、その繰り返しを行い、登頂します。その方法は、常に、生命保証の確保点が設けられての登頂です。


ただし、時間が数倍かかりますが、ひとりで、そのようなふたり分の作業を実施して、登頂した例もあります。それを最初に実現したのは日本人でした。世界から絶賛されました。しかし、アイガー北壁最速登頂記録は、確保点を設け、生命保証を得てからのクライミングではなく、両手にアックス、両足に12本歯アイゼンを装着し、アックスで支点を確保し、アイゼンの先端2本の歯を岩に打ち込み、その繰り返しで、命綱なしでのスパイダーマンのような垂直壁登攀です。死を覚悟しての登攀です。


その登攀者は、最初から無茶なことはせず、注意深い準備をしたのでしょう。最初に、通常の方法で登頂し、つぎに、単独で、アックスとアイゼンだけで、時間をかけて、垂直壁を登攀し、つぎに、登攀速度を速くし、その繰り返しで、登攀速度を世界一にしてから、正式な記録挑戦に挑んだものと推定されます。


すべては、アックスとアイゼンの効きにかかっており、それらの支点が弱かったり、脆かったりしたら、支点を失い、生命を失います。それを覚悟のクライミングです。2時間40分には、誰ひとり真似できない、狂気の世界が読み取れました。ウイスキーをすすりながら、しばらく、考え込んでしまいました。

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Sun, November 13, 2011 stanford2008の投稿

【事務所報告】桜井淳の斉藤優「技術開発論」の感想

テーマ:ブログ

私は、科学技術社会論学会論文誌「科学技術社会論研究」に、動燃の国産動力炉開発の構造分析を行った「プロジェクト論」や「技術開発論」の原著論文を投稿しています。そのため、国内外の基本的な文献を熟読しています。学術書の斉藤優「技術開発論」(文眞堂、1988)もそのうちのひとつです。


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
斉藤優「技術開発論」(文眞堂、1988)


本書は、日本の企業の製品開発にかかわる技術開発のニーズと資源について、社会科学研究の基本的な手法であるアンケート調査や聞き取り調査を基に、高度経済成長期から1988年までの構造分析を行ったものです。一般論のバックグラウンドの蓄積のためには、参考になるものの、私の目的からすれば、やや異なっていました。


私のこれまでとこれからの研究テーマのひとつは、日本の「新幹線開発」「ロケット技術開発」「国産動力炉開発」などの大型の「プロジェクト論」や「技術開発論」です。これまでに公開されている資料や学術書の記載内容は、企業の短期的な商品開発の例ばかりで、ほとんど、役に立たないということに気づきました。しかし、基礎論として、身につけておかねばならない内容です。


原研や動燃には、プロジェクトや技術開発の指導者・開発担当者が数名おり、彼らが論理構成を決めて経験から蓄積された成果を分担執筆すれば、貴重な学術書が完成しますが、なぜか、そのようなことが実現していません。原研や動燃の研究者は、大学と異なり、原著論文(原研)や技術開発報告書(動燃)の執筆に重きを置き、著書については、守備範囲外のことと認識しているように思えます。私は文献調査と考察だけでそのような学術書をまとめる気になれません。


原子力開発の半世紀は失敗の連続でした。欧米の技術の導入と研究内容の吸収と部分的改善の半世紀でした。なぜ、失敗したのか、その組織と人材と運営についての詳細な構造分析をすることなしに、新たな方向は見出せません。社会の脱「原発依存社会」への方向は、単純に、福島第一原発事故だけに起因するのではなく、過去半世紀の原子力開発への不信感の表れです。東大や原研などのの研究者にとっては、偶然による不運ではなく、身から出たさびです。

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Sat, November 12, 2011 stanford2008の投稿

【事務所報告】桜井淳&水戸スタッフによる被災地調査と巡礼(1)-仙台・名取・多賀城・東松島編-

テーマ:ブログ

以下に、5月9日(月)に実施した桜井淳&水戸スタッフによる被災地調査と巡礼(1)-仙台・名取・多賀城・東松島編-の写真を掲載します。ここでの巡礼とは、厳密な宗教用語ではなく、「津波犠牲者の眠る聖地」での霊を慰める儀式と解釈してください。写真は、30枚ほど撮影しましたが、どれも気がめいるくらい被害状況がひどいため、そして、第三者の住宅の損壊状況を掲載するのは、倫理に反するように思えるため、できるだけ穏やかに見られる8枚のみ掲載します。


被災から2ヵ月経過していたため、自衛隊によって、道路の瓦礫や遺体は、搬出されていました。田畑には、津波で流された漁船や乗用車が数多く放置されていました。生活条件・産業・農業の復興には10年くらいかかると思いました。


なお、順次掲載する写真は、(2)-石巻・女川・気仙沼・釜石・宮古編-、(3)-白河・郡山・福島・いわき編-です。


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
仙台空港近くの海岸防風林内側(海水浸水

による樹木枯れ)


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
仙台空港近くの海岸から200m内側(家が津

波で押し流されて基礎コンクリート部しか残

っていない)


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
仙台空港と附近の住宅の損壊状況(背景は

仙台空港)


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
桜井による名取海岸線での読経と巡礼(桜井

の左手に登山用万能時計(時刻・温度・気圧・

方位・高度など表示))と曹洞宗修行での数珠


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
名取住宅街(津波により住宅が押し流されて

基礎コンクリートしか残っていない)


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
名取海岸線(津波ですべて押し流されて基礎

コンクリートしか残っていない)


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
仙台火力発電所附近の被害状況


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
多賀城海岸付近の被害状況(いくつかの乗用

車が押し流されて放置されている)

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Wed, November 09, 2011 stanford2008の投稿

【事務所報告/最近の講演要旨】桜井淳の過去10年間にわたる福島県へのこだわり

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私は、2002年2月12日に、福島県開催の「第13回福島県エネルギー政策検討会」の講師として招待講演を行いました。その約1年後に福島県議会主催の講演会でも招待講演を行いました。


前者では、佐藤栄佐久知事と、きびしいやり取りがありました。議事録は、公開されていますが、そのやり取りについては、主催者にとって「不都合な真実」であったため、意図的に削除されています。


削除された内容はつぎのとおりです。


「第一原発と第二原発から約50kmも離れた福島市でこのような検討会を開いても、日常業務を福島市の県庁で実施しても、安全圏に身を置いての日常では、何のリアリティもありません。私は、原研大洗研で材料試験炉の炉心計算を担当した8年間、居室の数m前が原子炉格納容器でした。原研東海研で軽水炉安全性研究に携わった10年間は、数百m北には、日本原電の東海第二原発がありました。そのような場で生きるか死ぬかの人生を送ってきました。それに対して、みなさんは、原発から約50kmも離れた福島市で生きています。それで福島県民が感じている原発への不安が理解できますか。県庁を第一原発か第二原発の隣接地に建設し、常に、そこで業務に励んだならば、原発とは、安全とは、ということが、的確に理解できるでのではないでしょうか。みなさんはまったく理解できていません。放射能の海で溺れてから気づいても遅いのです。」


後者の講演会の最中、私の軽水炉安全性への懸念に対し、自民党右の議員らしき人物から、「それは問題発言だ。東大の先生は、そのようなことは言っていなかった」とヤジが入り、私は、「スリーマイル、チェルノブイリ、東海村に、特別な意味があったわけではありませんでしたが、ある日、突然、特別な意味を持つ固有名詞になりました。東大の先生は東海村でJCO臨界事故が起こる前に安全を懸念していましたか、そうではなかったはずです。みなさんが、放射能の海で溺れながら、こんなはずではなかったと気づいても、遅いのです。そうならないような社会にしなければならないのです」と反論しました。


両者に対し、力不足から、福島県民を救えなかったことに対し、深く反省しています。私や故・高木仁三郎さんは、大きな河に流されている小さな笹舟にすぎません。残念ながら、流れに逆らえぞ、流れを変えるほどの力を持ち合わせていませんでした。小さな小さな笹舟でした。現状分析して、みなさんにお伝えするだけで、それをどのように受け止めるかは、みなさんの能力です。


佐藤栄佐久知事と福島県議会にはそのような能力がありませんでした。彼らは無能でした。そのため、原発災害に遭遇してしまいました。人間は、愚かなもので、起こった後でないと、それまでの出来事の重大性に気づきません。

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Wed, November 09, 2011 stanford2008の投稿

【事務所報告】桜井淳による加藤尚武「災害論-安全性工学への疑問-」の感想

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私よりも年齢がひとまわり多い哲学者の加藤尚武さんの著書は、これまで、仕事との関係が薄かったため、一冊も読みませんでした。しかし、加藤さんが福島第一原発事故を題材に、哲学の立場から考察していることに興味を持ち、「災害論-安全性工学への疑問-」(世界思想社、2011)を熟読してみました。


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)


加藤さんは、事実関係をよく調査しており、哲学者らしい論理展開と結論に、学ぶべきことが多いと感じました。意外にも、私の主張内容についても、論じています。


この本の大きな流れは、加藤さんがカリフォルニア大学ルイス教授の安全論に、終始、否定的な立場から批判的に検討していることです。ルイス教授の安全論は、確率論的安全評価手法により、発生確率の低い事象に対する「すそ切り」の根拠を示したもので、エンジニアなら受け入れ、それどころか、日常的な設計の基礎となっている判断基準です。たとえば、原子炉格納容器の設計では、大型航空機の墜落を想定していませんが、その根拠は、発生確率が年間1000万分の1以下であるためです。


世の中のあらゆる構造物は安全性と経済性の妥協できる条件で設計されています。設計では発生確率が年間1000万分の1以下の事象は考慮されていません。そのような「すそ切り」をしないと経済性が成立しないためです。


加藤さんは、大きく言えば、ルイス批判をとおして、そのような「現代技術の方法」を否定的にとらえています。福島第一原発事故に遭遇し、たとえ、後づけであるとしても、そのようにとらえるのは、常識的でしょう。しかし、そのような加藤さんの主張は、これまで、誰の脳裏にもあったことであり、決して、加藤さんのオリジナルなものではありません。エンジニアは、自身の設計に対し、常に、トラウマ的に、死ぬまで、そのようなディレンマを抱えています。


私の「桜井淳著作集第5巻安全とは何か」(論創社、2005)における安全論の基本的な哲学は「たとえ、発生確率が低くても、大きな社会リスクを有する技術に対しては、十分な安全対策を施しておかなければならない」というものでした。私のこの主張は、大きく言えば、「現代技術の方法」の部分的否定であり、根底には、原発災害リスクがありました。


加藤さんと私の主張内容は、表現法がやや異なるものの、論理構成や結論は、ほぼ、同じと考えられます。

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