3.11(金)は、いつものように、午前中に水戸事務所で業務をこなし、午後から自宅で原稿を書いていました。その日は、いつもとちがい、どんよりした暗い曇り空でした。まだ3時にはなっていませんでしたが、突然、地震の揺れを感じました。
水戸市は、年間平均60回(週平均1回、気象庁水戸支所に確認)の体感できる地震が発生しているため、いつものことかと思い、そのまま様子を見ることにしました。
いつもと揺れがちがうため、危険を感じ、スリッパのまま、テラスから庭に出ました。すでに、かつて経験したことがないくらい揺れが大きくなり、近くの通路が波打ち、塀が前後に揺れ、周囲の家屋が倒壊するのではないかと思えるくらい激しく揺れていました。
大地が割れ、奈落の底に吸い込まれて死ぬのではないかとさえ感じました。人生最悪の恐怖の出来事でした。激しい揺れは60秒くらいで収まりました。
すぐに、室内の点検をしました。停電・断水・電話不通になっていました。食器棚から数枚落下して粉々になっていました。書斎の本棚の半数くらいが落下し、足の踏み場がないくらい乱雑になっていました。揺れの割には被害が少ないと感じました。
携帯電話で震源と地震の規模を確認しました。水戸市は震度6でした。事務所の被害状況も確認しました。「本棚と資料棚から数千冊落下して足の踏み場もないくらい」との報告を受けました。商売道具の携帯電話のバッテリーがへばっていることに気づきました。
まず、残圧でわずかに出る水道水をできるだけ多く確保するように心がけました。そして、すぐに室内の片付けを始めました。
すでに、地震発生から1時間経っていました。マスコミ各社から、「福島第一原発が津波のため、非常用ディーゼル発電機が機能喪失した」との電話があり、驚きました。「どうなるのか」との質問に、「WASH-1400(1975)とNUREG-1150(1991)から判断すれば、すぐに回復できなければ、炉心は、2-3時間後に溶融し、使用済み燃料プールの燃料も溶融し、最悪の場合には、3基の放射能からして、チェルノブイリの2倍くらいの災害になります」と答えました。
つぎに、福島第一原発と水戸市の距離が約200kmであることを確認しました。
WASH-1400(1975)とNUREG-1150(1991)から、半径20km圏内が致命的な被害を受けると思いました。その後も、非常用ディーゼル発電機は、回復できず、最悪の事故が進展中であることに気づきました。
私の頭の中にあることは、当事者の東電のエンジニア、東大や原研の軽水炉安全性研究者、経産省技術顧問、政府技術顧問も認識していると思いました。政府は問題を把握していると思いました。そのため、要請があるまで、でしゃばらずに、ことの推移を見守ることにしました。
夕刻、一旦休憩し、緊張と疲れをほぐすため、ウイスキーをすすりました。すでに、暗くなっており、作業を継続すべきか否か、迷いましたが、登山用ヘッドランプが利用できることに気づき、夜どおし、自宅と事務所の片付けをしていました。
事務所の本棚と資料棚には、柱との間に固定金具をかませ、ある程度の耐震対策を施していましたが、揺れが大きかったため、固定金具がすべて大きく変形していました。しかし、機能を発揮していたため、転倒したり、大きな被害はありませんでした。
徹夜での作業であったため、早朝、自宅に戻り、仮眠しました。
翌日の12日午後、自宅は停電でしたが、事務所の地区が回復していることが分かり、携帯電話のバッテリーを充電し、マスコミと連絡できるようになりました。数件のインタービューに答えました。後で気づいたのですが、たとえ、自宅や事務所の電話が不通であっても、災害時、公衆電話は、機能しており、無料で利用できます。投入したおカネが戻ってきてはじめて気づきました。12日の昼頃、マスコミとのやり取りには、公衆電話を利用していました。
テレビ朝日から、「すぐに東京に来てください」との要請がありました。常磐線と常磐高速道は、不通になっており、利用できる移動手段は、タクシーで6号国道を利用するしかありませんでした。翌日早朝の特別番組のため、夜10時に自宅を出発し、夜中の2時に六本木に到着しました。深夜であったにもかかわらず、担当者が出迎えてくれました。その時間帯にもし常磐高速道が利用できたならば、1時間半しかかかりませんが、6号国道を利用すると、地震で道路が崩れている箇所があったため、予想以上に時間がかかりました。疲れました。
3月中旬、しばらくの間、国道6号でしたが、テレビ局の用意したタクシーで水戸と東京を頻繁に往復していました。余震で、六本木の宿泊ホテルが何度も大きく揺れ、恐怖を感じ、「すぐに水戸に戻らねば」と思いつつ過ごしました。
3月15日の夜8時20分からのFM放送からのリアルタイム放送のインタビューを受け、まだ、世の中でチェルノブイリ並みという認識がなかった頃、WASH-1400(1975)とNUREG-1150(1991)を基に、進行しつつある原発災害の危機を語りました。放送担当者から数多くの賛否両論が寄せられたと聞きました。何も知らないで軽い反論をしている人たちが哀れでなりませんでした。
これまで、体感できる余震回数は、数百回にもおよび、わずかな揺れでも、恐怖感を覚えるほどの「トラウマ」に陥りました。携帯電話のくり返される地震速報の警報音も「トラウマ」の原因のひとつでした。それでもマスコミ対応を続けました。あまりの数の多さに、疲れ、苛立ち、怒りさえ感じました。
福島第一原発事故後、300回弱のインタビューに答えました。テレビ出演30回、特集論文20編、著書出版10冊でした。インタビュー件数は、いつもと変わりありませんでしたが、今回の際立った特徴は、著書などの依頼が多かったことでした。普段ならば、1冊あるかないかでした。すでに10冊すべてこなしました。気力も体力も衰えていないことに気づきました。すでに7冊刊行され、来年3月までに、あと、3冊刊行されます。
時々、何も考えずに、日本アルプスや奥日光の2000-3000m級の山々に登頂していました。8月上旬の10日間、フランスのモンブラン(4807m)とスイスのメンヒ(4107m)に登頂し、さらに、来夏の登頂を目指して、スイスのユングフラウ(4158m)、アイガー(3970m)のミッテルレギー稜、マッターホルン(4478m)のヘルンリ稜の途中までの調査登山も済ませました。4000m級の山々は生きるか死ぬかの世界です。メンヒでは風速20mの吹雪に遭いました。スイスを卒業したら、そのつぎは、ヒマラヤの世界8000m級14座の登頂です。
自伝を書き始めました。生存中に出版するつもりはありません。もしもの時の心構えです。
ヒマラヤを卒業したら、これまでの仕事(主に著書)の現象論的研究を全体的に再考察し、本質論的な哲学のまとめに入ります。
福島第一原発事故は私のすべての価値観を覆しました。これまでにかかわった東大工学分野や原研の研究者との信頼関係は完全に崩壊しました。彼らはすべて無能者でした。安全性研究にもなっていませんでした。その程度ではなく、私の技術論や安全論も、より厳しい内容に再構築しなければならないと感じました。世界的に考えても悪い意味で歴史的な出来事でした。
福島第一原発事故ではすべてが敗者でした。日本人すべてが無能でした。