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生まれて初めての原稿料体験

 私が生まれて初めて文章の対価、というものを手にしたのは学生のときです。
「東北大学新聞」に「マルクスへの疑問」という連載を頼まれて書きました。 400字詰め原稿用紙換算で毎回8枚程度の駄文です。
 ただし、もらったのは原稿料ではなく、映画館の招待券(タダ券)でした。


 私は1年生の(1977年)4月から大学生協の学生組織部というところに所属し、学生と理事会とのパイプ役や様々なイベントの企画運営に携わり、生協からは手当てとして毎月それなりの額をもらっていました。20人ほどの所帯で、後年ノーベル賞に輝く田中耕一くんも同じ組織部のメンバーです。


 あるとき、評論家を講師に招いた講演会があり、担当者が風邪かなにかで休んだため、急に私が接待役をすることになりました。その講師のことを18歳の私はほとんど知らず、生協の喫茶店で初老の評論家と向かい合って話でもしなければならない雰囲気だったので、単刀直入にこう訊きました。
「原稿料というのは、どのくらいもらえるものなのですか?」
 松浦総三さんは笑いながら、こう答えました。
「1枚3,000円くらいです」
「そんなに!」
 私は驚きました。


 学生の時給は当時500円が相場でした。8時間働いて4,000円です。ところが1時間に5枚のペースで8時間も書けば、それだけで12万円にもなる!
 老人は目を細めてこう言いました。
「ぼくは左翼系の評論家でね、そうたくさんはもらえないんだよ」


 松浦総三さんは、当時「噂」という月刊誌で、まさにズバリ「原稿料の研究」という連載を書いておられ、それを単行本にまとめる直前だった、ということなど知る由もありません。残念ながらその本(1978年刊)でなされていた引用や中身が間違いだらけであると知ったのも、ごく最近のことです。


 ともかくそのような次第で、私の率直にすぎる質問は意外にもベテラン評論家の関心事のど真ん中に入ったらしく、講演が始まるまで松浦さんはいろいろ興味深い話を個人的にレクチャーしてくださったのでした。


 社会に出てから1987年に3度目の失業をし、当時は好景気ではありましたが、私は単独で不景気に沈んでおり、なかなか再就職先は見つからず、次第に面倒くさくなって、しばらく失業手当でぶらぶらしようかと思い始めていましたら、手続きをしていなかったため、給与の6割程度が振り込まれるのが3カ月も先だということが判明し、かなりあせりました。


 あとから聞いたところによると、妻は敢えて働きに出なかったそうです。「この人は(←俺のこと)、もし私(←妻)が充分なお給料をとってきたら、きっとまともに働かないだろう」
 確かに、誰かの収入で家族が暮らしていけばそれで充分なのではないのか、とは私も思いました。


 断崖絶壁に立たされたため、テープ起こしやら年賀状の宛名書きやらもして、日銭を稼ぐほかありませんでした。信濃毎日で新聞記者をしていた親しい友人が、あまりの苦しさを見かねたのか、「信毎の夕刊には読者投稿による書評欄があって、(投稿欄としては)けっこういい原稿料を出している」と教えてくれました。


 私は帰宅後さっそく、前日に出たばかりの『サラダ記念日』という新刊の書評を600字にまとめてその日のうちに速達で投函し、それは翌週の新聞に掲載されます。掲載されたことより、すぐに原稿料(5,000円分の郵便為替)が送られてきたことに、私たち一家は安堵いたしました。


 これに味をしめ、お金がいただけるなら毎日でも書きたいところですが、同じ新聞にばかり投稿するわけにもゆきません。ある程度の間を置かないといけない(続けて同一人の投稿は掲載しにくい)でしょうから、「私の読後感」というその欄へは、ちょうど4週間ごとに投稿することにしましたら、まんまとすべて掲載されました。


 ほかにもお金になる読者投稿欄のある新聞や雑誌を探し、その媒体にあわせていろいろ書いては送り、そうやって得た臨時稿料で5人家族の糊口をしのぐことになります。
 幸いにも、送った原稿が没になることは1度もありませんでした。


 こうして1家5人が私の臨時的原稿料で飢えをしのぐ、という生活が始まることになったのであります。
                              (この項つづく)

「ガッキィファイター」2004年09月17日号に掲載

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