漱石は、『坊つちやん』の舞台となる松山中学には明治28年4月から翌29年4月まで勤め、第五高等学校講師として熊本に赴任した直後(明治29年6月)に中根鏡子と結婚、その直後(同年7月)には五高教授に就任しました。
明治33年9月から2年余りの英国留学をしてくるわけですが、国費で行った留学経費の返還免除のため、帰国した明治36年1月から4カ年は公務員でいなければなりません。その4年間を無事すごした漱石が、教官の職を辞して新聞社からの招聘に応じた経過を、妻の鏡子はこう回顧しています。
《この年〔明治四十年〕の三月初めのことだったと覚えて居りますが、〔東京帝国〕大学の大塚博士から、英文学の講座を担任して教授になってはどうかというお話がありました〔漱石は明治三十六年四月から一高と東京帝大英文科の講師を勤めていたので、昇進の話がもちこまれたわけである〕。その頃の教師から得る定収入というものは、先き程申したとおり大学が年八百円、一高が年七百円、それに明治大学の方が漸く月三十円位の見当でしたが、専任教授になると月百五十円呉(く)れるとかいう話でした。しかし家(うち)では月どうしても二百円はかかる。
幸い〔明治三十八年一月から連載を始めた『我輩は猫である』などの〕原稿料が入ったり小説の印税が入ったりするようになったので家計も立って行くのであるが、教授になった、その代りには内職はまかりならぬとあっては、第一あがきがつかない。それにいつまで教師になっていても仕方がない。そういう肚(はら)もあって迷っていたところへ、折よく「朝日新聞社」の方から、うちの新聞へ入って小説を書く気はないかという話を持ち込まれたのです。
渡りに舟のわけなのですが、ここは謂(い)はば一生の道の岐(わか)れ目なのですから、夏目も大事を取って慎重に考えたようです。大学は元々好かないので、此(こ)の先きともに長く居りたくはない。けれども教授となれば、假令(たとい)収入は少なくとも、一箇独立の地位安全な人間で、滅多に他から動かされる心配もない。又こうやってずっと末長く勤めて居れば、恩給もつけば月給も上がる。そういうことも家族のものの為(た)めには考えなければならない。そこへ行くと新聞社は結局一つの商売だ。いつ何時どういう変動がないとも限らない。主筆が呑み込んで居ても、社主の気がどうだかわからない。
いろいろ考えた挙句、ともかく大学で教わって識(し)ってるからとあって使者に立って来られた今の能楽批評の坂本雪鳥さん、その頃の白仁三郎さんに自分の希望を腹蔵なく申し上げて、「朝日」の方へ伝えて貰ったようです。主筆が池邊三山居士(こじ)で、夏目は池邊さんを非常に信頼して居りましたので、一、二度話をした後はともかく入社の決心をしたようでありました。
その時の条件が、月給二百円、恩給は今まで社に其(その)規則がないというので、其代り賞与を少しずつ余分に出そうというようなことでした。夏目の責任と申しますか義務と申しますか、ともかく「朝日」へ尽くすべきことは、毎年長編一編、其外新聞にのせて差支(さしつかえ)のない文章をのせる、他へは殆(ほとん)ど書かないといったようなことだったかと覚えて居りますが、つまりはどちらも信じあっての紳士協定といったようなものでございましたようです。
丁度この四月は、洋行期間二箇年の義務年限四箇年を果たしたところなので、ともかくこれで漸(ようや)く義務を果たしたとかいって、晴々した気持で大学の玄関を出て来たそうですが、すぐに辞職の手続きを取って、愈々(いよいよ)朝日入社ということになりました。》
(夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思ひ出』岩波書店、昭和三年刊)
安定と自由との二者択一で苦悩したというより、高収入が得られる自由の道があるならそれを切り開きたい、と漱石は考えたのですね。
日本人は、よき大先輩をもちえたものだと思います。
「ガッキィファイター」2004年11月04日号に掲載