ID:

パスワード:

前の記事| |次の記事

文士が必ず逢着する難問

★文士が必ず逢着する難問★


 何度も芥川賞候補となりながら原稿料だけでは生計が成り立たなかった昭和三八年の吉村昭氏は、毎月一〇万円くれるという週刊誌からの依頼を断り、書きたい作品のみを書きなおかつ生活基盤を築くために、月給四万円のサラリーマンになる道を選びます。ちなみに吉村氏の妻は、芥川賞作家の津村節子氏です。


《つつましい生活に慣れていたので出費は少く、妻と二人の原稿料収入だけでなんとか生活を維持することができるだろう、と予想していた。しかし、前年の七月号に『鷲』が「文学界」に掲載されて以来、原稿依頼は途絶えていた。妻も、家計費を捻出するため少女小説の執筆に時間の大半を費し、自分の小説は書けぬことに苛立っていた。私がほとんど無収入であることを責めるような言葉も妻は口にするようになり、私たちはしばしば諍(いさか)いをした。
〔中略〕
 家族の生活をかえりみず小説を書くなどという、甘えた考え方は最も唾棄(だき)すべきで、そのような生き方からは勁(つよ)い文学が生まれるはずはない。夫として子の父として、妻子に生活の資(かて)をあたえ、自分に残された時間を小説の執筆に傾注すべきであった。
 安定した生活費を得るには、さしずめ勤めに出る以外にない。私は、今までほとんど関心もなかった新聞の求人広告に視線を据えるようになった。》
                      (吉村昭『私の文学漂流』)


 こうして吉村氏は結局、実兄が社長をつとめる会社に雇い入れられます。二足の草鞋(わらじ)を履き始めたものの、書評の依頼が一本あっただけで、まったく注文はきません。吉村氏は四度目の芥川賞落選の憂き目にあい、直木賞候補三回の妻の新作が芥川賞を受賞してしまいます。この受賞を機に(もちろん妻の)収入が増えるだろうとの見通しのもとに、夫に会社を辞めたらどうかと妻は提案し、それを受け入れて氏は執筆に専念することになるのでした。
 その翌年『星への旅』で吉村氏は太宰治賞を受賞し、のちに『戦艦武蔵』(菊池寛賞)や『破獄』(読売文学賞)などの名作をものにしてゆきます。


 めでたしめでたし、と言いたいところですが、「受賞前の貧乏時代」も実はちょっと曲者です。最も苦しかったはずの昭和三四年に、この夫妻は都内に五〇坪の土地を買い、平屋の家を建てているのですから。このときも吉村氏は兄の一人から援助を得ているのですが、そのあたりのぼんぼんぶりはここでは措くとして、昭和三〇年代には、ろくに注文のない貧乏文士でも都内に家が建てられた、という点に注目しておくことにしましょう。地代が安かったからです。


 昭和三四年には、郊外なら五〇坪の土地が五〇万円で買えました。吉村氏が中途で雇われた月収が四万円だったのですから、これはわずかに一年分です。


★組合の力で原稿料を数十倍に?★


 明治から昭和に至るまで、文士が生きてゆくためには、給与生活者を兼ねるのがむしろ主流でした。しかし、家計のやりくりにエネルギーを削がれず、文士が思うまま執筆に専念できるための処方としては、スポンサーを見つけるか、恒常的に印税収入が原稿料を上回るようになるかしかありませんでした。インターネットが普通に使われる二一世紀に入ってからは、上記三例のいずれに相当せずとも有料メールマガジンで執筆基盤を安定させる道が開かれていくはずですが、残念ながらまだそれは例外的としか見なされていません。


 小説家に限らず、記者や評論家や学者やジャーナリストの世界も同様です。
 産経新聞記者と日本証券経済研究所研究員を経て五三歳から龍谷大学教授になり、定年期を過ぎてから経済評論家として独立した奥村宏氏は、こんな提案をしています。マジでしょうか。


《私は新聞記者が独立したジャーナリストになることをすすめるし、そのための条件整備をすることを提案している。
 その場合、当然のことながら独立したジャーナリストの原稿料を相当高くしなければならない。新聞社には年俸二〇〇〇万円ももらって、年に何本か論説を書くだけという人もいるそうだが、一文字当りの原稿料に換算したら大変高いものになる。そこまでとは言わないが、内部の人間が独立して人員が減るなら、外部の執筆者に払っている今の原稿料の数倍、あるいは数十倍にしても新聞社は採算がとれるのではないか。〔中略〕
 私は記者クラブは廃止し、それに代わって独立したジャーナリストたちによる組合を作ってはどうかと提案している。そこでみなで協力して、まず原稿料の引上げを新聞社と交渉する。》
                         (奥村宏『判断力』)


 実に莫迦げた提案です。この程度の「判断力」でこのようなタイトルの本を書いてしまえる度胸だけは大したものだと思います。この本のなかで「判断力のない人々」をこきおろす奥村氏ご自身は、九五年一一月に「大和銀行と住友銀行が合併する」というニュースを即座に誤報だと見抜いたことを自画自賛しておられるのですが、それ以外の「判断力」は陳腐で、原稿料と組合に関しての「判断」も例外ではありません。


 まず、《新聞社には年俸二〇〇〇万円ももらって、年に何本か論説を書くだけ》とありますが、仮に八〇〇字の論説記事を一〇本ほど書くとすれば、四〇〇字あたりの単価は一〇〇万円になってしまいます。日本で最も判断力のあるエコノミストを自認する奥村氏は、ちょっと計算しかけて、さすがにこのような単価を部外者に払うことはありえないと気づいたのか、あわてて《そこまでとは言わないが》と火傷しそうになった手を引っ込めます。


 が、勢いあまって結局、《外部の執筆者に払っている今の原稿料の数倍、あるいは数十倍にしても新聞社は採算がとれるのではないか》と言い放ってしまうのです。
 数十倍?
 経済オンチぶりも、ほどほどにしてもらいたいと思います。


★単価は受容と供給のバランスで決まる★


 たまたま私ですら、数十の新聞社から総計数百回は原稿料をもらった経験があります。平均すれば、四〇〇字あたり一万五〇〇〇円くらいの単価でした。短いコラムでは、もっとあったように思います。その《数倍、あるいは数十倍》をフリーに払ってもいいはずだと言うのですから、三〇倍とすれば一枚あたり四五万円ですし、六〇倍とすれば八〇万円です。四枚の論説やエッセイを書けば三二〇万円になります。


 私が、奥村氏の判断力がヤバいと指摘せざるをえないのは、額に関する非現実性だけではありません。


 原稿料についても、媒体発行の必要経費の一つとしてその予算が決まってくるのであって、《外部の執筆者に払っている今の原稿料の数倍、あるいは数十倍にしても新聞社は採算がとれる》かどうかで決まるのではありません。経常黒字を二〇億円出した企業が、《採算がとれる》はずだからと言って、それまで八五〇円だったアルバイトの時給を五万円に値上げなどしないのと同様の理屈です。


 明治以来の歴史を振り返ってみれば、原稿料が急激に跳ね上がったのは、媒体と読者が急増したときだけだということがわかります。奥村氏は過去の歴史に強くなれと何度も言っているのですから、ご自身もそうあってほしい願わざるをえません。経済学のイロハをもちだすまでもなく、単価は原則として供給と需要のバランスで決まります。そんなのはあたりまえでしょう。


 さらにまた、《独立したジャーナリストたちによる組合を作ってはどうかと提案している。そこでみなで協力して、まず原稿料の引上げを新聞社と交渉する》についても、その陳腐な判断力には恐れ入るほかありません。


 そもそも、なぜ組織に頼らなければならない人が《独立したジャーナリスト》などと言えるのでしょうか。


 百歩譲って、組合を作れば《原稿料の引上げを新聞社と交渉》できるとしても、交渉だけで終わるのは必然的です。《外部の執筆者に払っている今の原稿料の数倍、あるいは数十倍》の原稿料を実現することなど、断じて不可能です。
 奥村氏には組合というものに対する無根拠な幻想があるのでしょう。


 現実はそう甘くない、などと言いたいのではありません。単価は、組合的圧力で何倍にも何十倍にも跳ね上がるものではない、という経済学のイロハくらいこの経済学者にも知っていただきたいだけです。


 では、どうすればいいのか。
 これだけの原稿料を払ってでも載せたい、という原稿を書いていくほかないのではないでしょうか。あるいは(採用される質を前提として)量をこなすか、単行本にして印税を上乗せし実質的単価を上昇させてゆく、という方法もあります。それらはみな組合による圧力の問題ではなく、個人の努力の問題にほかなりません。


 なお、『判断力』の著者は、ご自身の過去をこう回顧しておられます。


《私には独立して食っていけるだけの自信はとてもなかった。そこで研究所に転職したのだが、もし私に
多少の蓄えと勇気があったなら、その時、独立していただろうと思う。そのかわり家族は大変な犠牲を蒙っただろうし、なにより私自身が「職業としてのジャーナリスト」になれたかどうかわからない。》


 ここにも、「お金か自由か」の問題が横たわっていることは、容易に見てとれるでしょう。

「ガッキィファイター」2004年12月27日号に掲載

前の記事| |次の記事

 

ページ先頭に戻る