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平成21年12月18日 神田雑学大学定例講座No.486


表題




目次

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はじめに
1.チベット08暴動
1−1.チベット自治区の現状
1−2.チベットの歴史
1−3.中華人民共和国のチベット侵攻
1−4.08暴動
2.ウィグル09暴動
2ー1.新彊ウィグル自治区の現状
2ー2.攻防の歴史
2−3.09ウィグル暴動の背景と経過
3.中国の少数民族



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塩崎哲也講師講師プロフィール

神田雑学大学で講座テーマ選定を担当しています吉田です。
塩崎さんは帝人の技術者だったそうですが、定年退社後、ご経験買われ、中国国内の会社に頼まれ、つい最近まで10年間も現地でお仕事をなさっていた方だそうです。
その間日本のお客様や友人に、変わり行く中国の変化を塩崎レポートとして作成し送り続けて、いまやその蓄積が大きなデータベスになっています。
そして塩崎さんがお辞めになったあとも、塩崎さんを慕う中国の元部下の方々が、中国のホットニュースを届け続けてくれているそうで、このデータベースはますます増強されているのであります。
神田雑学大学は塩崎講師を得て、これから中国を丸裸にしていこうと思っています。
今回は6回目になるのですが「チベット・ウィグル暴動とその背景」」というタイトルで、お願いしています。
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はじめに

本年09年7月、ウルムチ地区での暴動を伝えるニュースで、死者が156人とのニュースを聞いた時、いつもの先入観から、死者のほとんどは人民軍による射殺によるものと思い込んでしまった。
  中国地図 今回、この総括を纏めるに従って、そんな単純なものではなく、抜差しならない民族闘争が背景にあり、加えて日頃の漢民族の搾取、横暴にウイグル族の不満が爆発し、漢民族を襲撃したことによる死者のようである。
  もちろん、人民軍・武装警官による過激デモ鎮圧のための発砲による死者もあるようではあるが。
  中国政府は、その真偽はともかく、死者の民族別内訳を発表しているのに対し、世界ウイグル会議の抗議発表では死者は800名を超えているとしているが、そのうちウイグル族の死者は幾人とは言っていない・・・・・・。
  以下、世界各メディアによる報道を下に、可能な限り公平な目で本暴動の総括を試みる。
 
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1.チベット08暴動

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1−1.チベット自治区の現状

チベットの最も華やかな時代は、7世紀のツォンツェン・ガンポの時代で、この時期、統一王国ができた。
  ツォンツェン・ガンポは唐から事実上の人質として、2代皇帝太宗の娘・文成公主を、また、ネパールからはティツン王女を娶るほどであったし、唐朝中期には1次首都長安を占領し、唐から朝貢を受けるほどの隆盛を見た。
  後代、元の侵略に苦しみ、清朝時には事実上の属国となった。清の滅亡の前後、独立を果たす好機であったが、国民党・中華民国はチベットの主権を認めず、加えて、当時インドを支配していたイギリスがチベットへの侵攻を図ったことで、苦境に立たされた。その後、国共内戦に勝利した中国共産党・中華人民共和国が、1950年、イギリスの進入を契機に人民解放軍を侵攻させ、チベット全土を軍事制圧した。
  1955〜59年、中国全土で数千万の死者を出した大躍進政策の時期、農業改革の失敗を契機に、中国政府による併合に抗議する騒乱(世に言うラサ決起59,3,10)が発生。ダライ・ラマがインドに亡命し、亡命政府を樹立した。
  チベット人口構成 中国政府はチベット自治区を設置、対チベット政策は苛烈に転じた。その後の文化大革命でもチベットは大きな痛手を被った。
  亡命政府は、この時期、中国が夥しいチベット文化の破壊・略奪と、チベット民族120万人の虐殺を行なったと主張。その後、独立運動は激しさを増すが、米中国交回復以後、米国の支援が打ち切られ、過激さは下火となった。
  現在、チベット族の人口は中国全土で450万人程度、その内260万人が自治区内に住んでいる。また、自治区内の公表された人口構成は右表の通りである。
 
  ◆経済と貧困対策
  旧チベット経済は、1960年当時、中国政府が奴隷社会経済と主張しているように、相当遅れており、交通は不便で、近代工業はなく、ただ牧畜業とわずかの農業、手工業のみであった。
  1978年の「改革・開放」の実施以来、近代工業の建設だけでなく、交通・通信業や、以前からの農業、牧畜業、商業も長足の発展をみた
農業:土地が農民個人で使用でき、自主経営が可能となった(農奴解放)。
  牧畜:家畜は個人に属し、個人で繁殖させ、自主経営が可能となった。
  結果、現在では;
  農民・牧畜民の平均収入: 08年、3176元/人(全国平均4761元)で、1978の18倍。
  福祉:持家、民主改革前90%の人々持家なし→ 農・牧畜民100万人快適な新築住居取得。
  最低生活費保障:年収800元以下の農・牧畜民には、800元保障。
 
  ◆平均収入
 

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

中国各地域での平均収入 我々日本人にとってチベット民族とは経済的に貧しく、風呂に入らないので垢にまみれた肌・身なりをしている人たちとのイメージがあるが、各種経済統計をみると“あれ!”と感じさせられることが多々ある。
  たとえば、住民一人当たりの可処分所得は、産業の近代化が遅れており、その分域内GDPが低い。当然1人当りの収入も低いと推定できる。
  ところが実情は上表の通りで、一人当たりのGDPは全国31地域中25位(人口が極端に少ないためこの程度で済んでいる)と低位経済圏に属するが、1人当りの可処分所得は全国10位と、豊かとは言えないまでも、そこそこのレベルにある。
  これは「富の分配(所得の配分)」が優遇されていることの現れであろう。
  サラリーマンの平均給料を地域別に比較したデータも人民日報にあったが、チベット自治区は北京、上海に次ぐ、堂々の第3位である。
 
◆住宅保有率
チベットでの農牧民のための住宅 私は、07年9月チベットを旅行した際、ラサから遠く離れた農村で、バスの車窓から、あちらこちらに新築の1戸建ての家、それも複数戸かたまって見られたので、ガイドに質問すると、東部沿岸工業地帯の多数の篤志家の好意を受け、農村の住宅改造が進んでいるとの答えであった。
  その時は意味が分からなかったが、篤志家の援助とは中央政府のことのようである。
農牧民の住宅問題を解決するため、チベット政府は、06年から関連住宅プロジェクトを実施し、07年までの2年間、12万世帯(57万人)の農牧民が新築に引っ越している。さらに、08年に入ってからも、5万2000世帯の農牧民のための新しい住宅が建設中である。
ラサの近郊の農村部で暮らしているチベット族のベンバさんは、「わたしの住宅も、政府から2万4千元の支援金があった。自分もすこしお金を足して、自宅を建てることができた。マイホームは明るくて広い。年老いた父をこういう住宅に住まわせることができて、とてもうれしい」と。
  ベンバさんによると、「住宅プロジェクトのほか、政府はいろんな面から支援してくれており、村人たちの生活には大きな変化が起きた。
 たとえば住宅や、農家と牧畜民への補助金、低所得家庭への補助金など。また、毎年、耕地面積の広さに応じて、農家に補助金を配っている。
  このほか、農産品の質を向上させるため科学的な農業指導をする養成班も来てくれる。自動車修理の講習会もあった。村人は技術を身につけて、副業もできるようになった」。
  自治区政府の統計によると、チベット住民の一人当たりの住宅面積は、都市部では25.5平方メートル、農村部では農牧民が36.4平方メートルとなっている(中国中央政府の重要政策、「小康社会」の2020年目標値は27平方メートル)。
 
  ◆家電機器保有率
 

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

地域別家電製品保有率(05年) 右表は家電機器の保有率である。
チベットの人たちの余裕さが見てとれるが、これには可処分所得が多いだけでなく、購入に際しての政府の手厚い援助があるようである。
上述のベンバさんは、「以前は貧しく、お正月といっても、いつも通りジャガイモや大根しか食べられなかった。冷蔵庫もなかったため、食べものの貯蔵もできなかった。いまは冷蔵庫があるから、食べものを何日分もまとめて買えるようになった。家具もほとんど買い揃えた。
また、以前は、白黒のテレビでも持っている家は少なかったが、今は、全ての家庭にカラーテレビがある。ケーブルテレビで多くのチャンネルを見ることができる」と。
また、10歳のベンバさんの末っ子のダムツンワォデゥ君は、「新しい家にはテレビが2台もあるよ。家具もきれいで、とてもうれしい」と話していた。

◆医療保険
旅行中、知り得たことに政府管掌医療保険の優遇制度がある;

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

チベットの医療保険制度 右3つの表は、「西蔵商報」に掲載された、ラサ市の07年10月1日施行の一般住民医療保険の詳細である。
本保険に加入できる要件は、ラサ市の戸籍を有するラサ市民で、公務員、企業従業員が加入している職工基本医療保険、及び農業・牧畜の農牧区医療保険対象者以外の市民である。
保険料は、1人当り全保険料が200元/年で、その内、個人負担は60元、残り140元は自治区、市、県、鎮が財政負担してくれる。
更に、補償してくれる医療費は、支払った医療費により異なるが、最も件数が多いと推定される医療費2000元以下では65%で、手術、長期入院の場合の高額医療費の場合は80〜85%負担してくれるという、ばら色の医療保険である(負担保険料は中国本土都市部の1/10、保証額は数倍)。
この要件をみると、実施後、日を置かずして破綻するのではと心配されるし、また、他地域の住民から見れば、全国最低のGDPであるチベット自治区が、これほど多額の負担ができるのも納得いかないと思うのであるが。

◆地域別財政支出

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

地域別一人当たりの財政支出とGDP 赤丸で示した少数民族が多数居住する自治区では、例えばチベットは一人当たり財政支出が非常に高くなっている。
中国政府は建国以来、西部の低開発に加え小数民族の統治に悩んできた。これらの地域では中央政府から戦略的な手厚い財政補助が行われてきた。
その他の地域は傾向線が示しているように、明らかに豊かな地域ほど一人当たり財政支出も多くなっている。
例えば一人当たり財政支出の最も高い上海市は02年時点で4387元/人で、これに対し最も低い地域の河南省の532元/人で、格差は8倍を超えている。 
また、一人当たり財政支出の多い地域は東部沿海部、低い地域は内陸部という構図になっている。

◆ダライ・ラマの評価
チベット仏教の指導者、ダライ・ラマ14世は記者会見で、06年7月に青蔵鉄道が開通し、チベット自治区のラサと上海、北京など大都市を結ぶことで、「チベットの経済発展が一層促進されるであろう」と述べるとともに、「これまでも同自治区の経済開発は順調に推移している」と一定の評価を示した。
ダライ・ラマは歴代の中国共産党指導者の中で、トウ小平氏について触れ、「中国の改革・開放を推進し、現在の経済繁栄の基礎を築いた」などと語り、その経済運営の手腕を高く評価した。ダライ・ラマが中国の経済発展を肯定的に評価するのは異例のことである。
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1−2.チベットの歴史

チベットと中国との関係を歴史年表風にまとめると次の通り;
チベットと中国との関係を歴史年表風にまとめると
ツォンツェン・ガンポが諸部族を平定し統一チベット(吐蕃国)の王として即位したのが630年で、その版図は現在の青海省、四川省西部にまで広がり、ネパールまで政治的影響を及ぼすほどの広域に亘った。
641年、唐の第2代皇帝・太宗の皇女である文成公主を第2皇后に迎え、643年にはネパールからティツン王女を娶るほどの繁栄であった。
763年、唐朝は安史の乱で疲弊していたとはいえ、首都長安を占領し、唐から朝貢を受ける隆盛を見た。
後代、元が中国の覇者となり、チベットも元の幾度かの侵略を受け、政治的圧迫に苦しめられた。
やがて中華では元が駆逐され、明の時代となるが、西域はいまだ元(モンゴル)の勢力下にあり、チベットも引続きモンゴルの影響下にあった。
1578年、チベットの1族長ソナム・ギャンツォがモンゴルのアルタ・カンから「ダライ・ラマ」という称号を贈られた。これが「ダライ・ラマ」の始まりである。
その後、権力の空白、優れた指導者の不在などが続き、チベットは徐々に清朝の介入を受けるようになる。
13歳で王座を継承したダライ・ラマ6世は民衆からは慕われたが、清朝やモンゴルからの圧力によって退位させられ、北京に送られる途中に謎の死を遂げる。
その後、100年以上の間、政府内部や有力な一族の間で陰謀が繰り返されるようになる。
ダライ・ラマ8世は政治に無関心で、9世から12世までは夭折した。
1751年、清朝の乾隆帝は政治権力を完全にダライ・ラマに交付して、本格的な政教一致の制度を形成した。
1793年、清朝は「チベット問題処理章程二十九条」を制定し、清朝がチベットの辺境防衛と外交を行うこと、ダライ・ラマ、パンツェン・ラマと清朝のチベット駐在大臣が共同で政権を運営することなどが定めた。
西洋列強の進出によって清朝は弱体化し、次第にチベットへの影響力は弱まっていった。
19世紀末、イギリスが貿易目的のためにチベットに入国することを希望したが、チベット政府はこれを拒否。
講座風景
1888年、イギリスは英領インド総督府の軍隊をチベットに進出させ、清朝政府とカルカッタ条約を結び、チベットの通商権を得た。
1903年、英領インド総督府は、武装使節団をチベットに派遣し、ラサを占領、チベット・インド条約(ラサ条約)を結び、チベットをイギリスの影響下に入れた。
ダライ・ラマ13世はモンゴルに亡命。1905年以降、既に清朝の支配下にあった東チベットで連続して反乱が起きるようになり、清朝は凄惨な鎮圧を行い、東チベットを削って清の直轄地とした。
1911年、辛亥革命により、清朝が崩壊。
1913年にダライ・ラマ13世はラサへ戻り、ラサを占拠していた清朝軍を激しい市街戦の末に駆逐し、チベットの実権を取り戻した。
中華民国は、清朝崩壊後もチベットを「中国の一部分」であると主張したが、軍閥との抗争や対日戦争への対応におわれ、独立を主張するチベットに対し、本格的に対決する力はなかった。
ダライ・ラマ13世は近代化のための変革を実施しようとしたが、大半を占める保守勢力の反発にあい、頓挫してしまう。
1933年にダライ・ラマ13世が没すると、中国が派遣した弔問団はそのままチベットに居座り続け、1936年にはイギリスからの使節団がチベット政府との合意でそのままラサにとどまり続けた。
1935年にアムド(青海省)で生まれたテンジン・ギャンツォが、1940年にラサでダライ・ラマ14世として即位した。

◆ダライ・ラマとパンツェン・ラマ
ダライ・ラマ14世とパンツェン・ラマ10世 1578年、モンゴル、アルタ・カンはチベットの族長ソナム・ギャンツォに「ダライ・ラマ」という称号を贈った。
この称号はソナムの二人の前世者にも付与され、ソナムは「ダライ・ラマ3世」となった。ソナムはモンゴル支配者から称号を得ることで、影響力を増大させ、対立する他派の勢力を駆逐。
ダライ・ラマは法皇となり、彼を頂点とする政教一致体制が始まった。ダライ・ラマはポタラ宮殿に住み、そこがチベット政府の所在地となった。
ライ・ラマ5世は1670〜1685年にかけて、チベット南部、カム地方、チベット西部などを次々と征服、征服した土地にはゲルク派の大僧院を建設していった。
このような領土の征服によって、ブータンを除くチベットの再統一が実現した。
ダライ・ラマ5世はパンツェン・ラマ制を創設し、タシルンポ寺の貫主をパンツェン・ラマとした。
パンツェン・ラマはダライ・ラマに次ぐチベット仏教の精神的指導者である。
また、パンツェン・ラマは、タルシンポ寺のあるチベット第二の都市ジガッツェを中心とするツァン地方の自治という形でこの地域を支配した。
このダライ・ラマとパンツェン・ラマという二つの系譜は歴代互いに師弟関係にあったが、後世、政治的に対立しあうようになる。

清朝崩壊後、変革に着手したダライ・ラマ13世は、ラサ周辺の大僧院の僧2万人を強力な官僚機構に組入れるが、その中にはパンツェン・ラマ9世をはじめ、清朝に協力してきた者も含まれていた。
そのことで、完全な独立を模索するダライ・ラマ13世と親中国的なパンツェン・ラマ9世の間に対立が生じるようになり、争いに敗れたパンツェン・ラマ9世は1323年に中国内地に逃れ、1937年に死亡した。

中国人民解放軍の侵攻を受け、1957年、ダライ・ラマ14世は、「十七ヶ条協定」は無理やり調印させられたものだとして、正式に拒否することを表明し、インドに亡命する。
ダライ・ラマとパンツェン・ラマ
1959年以降、中国で教育を受けたチベット人たちが党の要職に就き、中国の官僚機構に組み込まれていく。
チベットにのこったパンツェン・ラマ10世は1962年、毛沢東に意見書を送り、中国のチベット政策を厳しく批判。結果、1964年、公開の場で恐ろしい糾弾を受け、その後1977年まで9年以上に渡って中国で獄中生活を送った。
1995年、チベット亡命政府のダライ・ラマ14世によって、当時6歳のニマ少年がパンツェン・ラマ11世として認定されるが、数日後に行方不明となり(現在も中国政府によって軟禁されていると考えられている)、中国政府は別の子供をパンツェン・ラマとして選定した。
この問題を巡って中国政府とダライ・ラマ側は激しく対立したが、1996年に中国政府によって認定されたパンツェン・ラマ11世の受戒式が行われた。
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1−3.中華人民共和国のチベット侵攻(1949年〜1959年)

◆経過
清の滅亡の前後、チベットは独立を果たす好機であったが、国民党率いる中華民国がチベットの主権を認めず、それに加えて、当時インドを支配していたイギリスがチベットへの侵攻を図ったことで、独立を果たせなかった。
その後、国共内戦に勝利した中国共産党率いる中華人民共和国は、1950年のイギリスの進入を契機に人民解放軍を侵攻させ、チベット全土を軍事制圧した。
1955〜59年、中国全土で数千万の死者を出した大躍進政策の時期、農業改革の失敗により中国政府による併合に抗議する騒乱(世に言うラサ決起59,3,10)が起こり、ダライ・ラマがインドに亡命し、亡命政府を樹立した。

◆占領政策
ダライ・ラマ14世側は、この戦闘におけるチベット軍の戦死者を4000人以上としている。
その上、戦後、反目しあっていた部族間で略奪や殺戮が始まり、町は地獄と化した。
1950年10月25日、中国政府は人民解放軍のチベットへの進駐を宣言。インド政府はこれを「侵略行為」として非難の政府声明を発表、イギリス政府もこれを支持。しかし、両国共チベットへの軍事支援を行わなかった。
1951年、ダライ・ラマは側近のアボ他数名を、中国側にチベットの意志を伝えるために北京に派遣。アボらが勝手に中国側と協定類を結んだりしないよう、ダライ・ラマは国璽を持たせず派遣した。
中国側はアボらを脅迫・恫喝し、最後通牒の形で、「十七ヶ条協定」を一方的に提示、代わりの国璽を急遽作成し、強引に署名させた。
アメリカはダライ・ラマ14世に対し、亡命して協定の無効を訴えるよう呼びかけたが、多くの僧侶がダライ・ラマ14世のラサ残留を望んだため、ラサにて協定に基づき改革を始めるた。
1951年9月6日、ダライ・ラマ14世は9ヶ月振りにラサに戻り、同時に3000人の人民解放軍がラサに進駐。
チベット政府内では協定の承認について、激しい議論が戦わされたが、ラサの3大僧院長の強い意向により、9月末、議会で承認された。
1951年10月24日、ダライ・ラマ14世、「協定を承認し中国人民解放軍の進駐を支持する」旨の書簡を毛沢東に送った。
この書簡が、その後、中国政府が正当性を主張するのに大いに利用された。

◆「十七ヶ条協定」
第1条:チベット人民は団結して、帝国主義侵略勢力をチベットから駆逐し、チベット人民は中華人民共和国の祖国の大家族の中に戻
第2条:チベット地方政府は、人民解放軍がチベットに進駐して、国防を強化することに積極的に協力援助する。
第3条:中国政府の民族政策に基づき、中央政府の統一的指導のもと、チベット人民は民族区域自治を実行する権利を有する。
第4条:チベットの現行政治制度に対し、中央は変更を加えない。ダライ・ラマの固有の地位および職権にも変更を加えない。各級官吏は 従来どおりの職に就く。
第5条:パンチェン・ラマの固有の地位および職権は維持されるべきである。
第6条:ダライ・ラマ、およびパンチェン・ラマの固有の地位および職権とは、13世ダライ・ラマ及び九世パンチェン・ラマが互いに友好 関係にあった時期の地位および職権を指す。
第7条: 中国政治協商綱領が規定する宗教信仰自由の政策を実行し、チベット人民の宗教信仰と風俗習慣尊重し、ラマ寺廟を保護する。寺廟の収入には中央は変更を加えない。
第8条:チベット軍は逐次人民解放軍に改編し、中国国防武装兵力の一部とする。
第9条:チベットの実際状況に基づき、チベット民族の言語、文字、学校教育を逐次発展させる。
第10条:チベットの実際状況に基づき、チベットの農・牧畜・商工業を逐次発展させ、人民の生活を改善する。
第11条 :チベットに関する各種の改革は、中央は強制しない。チベット地方政府はみずから進んで改革を進め、人民が改革の要求を提出した場合、チベットの指導者と協議する方法によってこれを解決する。
第12条:過去において帝国主義と親しかった官吏および国民党と親しかった官吏は、帝国主義および国民党との関係を断固離脱し、破壊と反抗を行わない限り、そのまま職にあってよく、過去は問わない。
第13条:チベットに進駐する人民解放軍は、前記各項の政策を遵守する。同時に取引きは公正にし、人民の所有物を略奪しない。
第14条:中央人民政府は、チベット地区の一切の渉外事項を統一して処理し、かつ平等、互恵、およぴ領土主権の相互尊重という基礎の上に隣邦と平和な関係を保ち、公平な通商貿易関係を樹立発展させる。
第15条:本協約の施行を保証するため、中央人民政府はチベットに軍政委員会および軍区司令部を設立する。
第16条:軍政委員会、軍区司令部、およびチベット進駐人民解放軍の所要経費は、中央人民政府が支給する。チベット人民政府は、人民解放軍の食糧およびその他、日用品の購買と運輸に協力するものとする。
第17条:本協約は署名捺印ののち、直ちに効力を発する。

◆反乱開始
チベット族とウィグル族の主な居住地域 中国政府は、「十七か条協定」は旧チベット内でのみ施行されるもので、中国の行政区分である西康省や青海省では、他の行政区と同じように扱い、土地の再分配を完全実施した。
また、中国政府はチベットの宗教を「有害」と見做し、「一切の寺院と僧侶を除去すること、そしてあらゆる神が搾取の道具だ」と宣言。
その結果、1956年6月、アムドやカム東部で多くの成人男性が山岳地帯のゲリラ組織「チュシ・ガンドゥク」に加わり、反乱に参加した。
この反乱は、アメリカ中央情報局が軍事兵站や軍事教育などで支援しており(セイント・サーカス作戦)、選抜され、渡米したチベット人が訓練所で戦闘教育を受け、1950年代に日本の嘉手納基地を経由してチベットにパラシュート降下で潜入させた。

◆米ニクソン大統領の訪中
1971年、冷戦下でソビエトとの対立を深めていたアメリカのニクソン大統領は、同じくソ連との関係が悪化していた中国との関係の改善を進めるために訪中し、中国によるチベット侵略と併合を黙認。
その結果チベットは人民解放軍によって完全に占領され、反乱勢力は鎮圧されてしまった。以後、チベットは反乱活動を独自に継続せざるをえなくなった。

◆死傷者統計
チベット3洲での死者数 チベット亡命政府および西側政府は、侵略後、1979年までに120万人のチベット人が失踪したと、中国政府の恐怖政治を告発したが、中国はこれを強く否定している。
1953年のチベットの公式国勢調査では、総人口は127万人と記録されており、上記の数字の信憑性について、学者たちも疑問視している。

◆文化大革命と移住政策
1966年に文化大革命が始まり、チベット人を含む紅衛兵たちは、僧院、城館、書物、仏像、絵画、チョルテンなどを破壊し尽くし、何年にもわたって密告、拷問、処刑が繰り返された。
1959年以前にはチベット全土に約6千の寺院や僧院が存在していたが、1976年の時点ではほとんど何も残っていなかった。
1969年以降、人民公社が作られ、1975年には集団所有制が実施された。
これにより個人が生産手段を所有することはなくなり、伝統的な大麦の栽培は小麦に切り換えられ、収穫は年に一度と定められた。
しかし、収穫された穀物は軍隊に優先的に配分されたため、庶民の間では飢饉が起こった。
共産中国下のチベット 中国政府は1975年から本土の漢族を中央チベットに移住させる政策を始めた。
1982年以降、軍人を除いて96,000人の中国人が中央チベットに移住した。
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1−4.08暴動

08チベット暴動は、2008年3月10日に中国チベット自治区ラサ市において、チベット独立を求めるデモをきっかけとして発生した。
ラサ市内での暴動は16日までに鎮圧されたが、チベット民族が居住する四川省・青海省・甘粛省に暴動が飛び火し、欧米や日本、インド等でもチベット難民とその支援者達による中国への抗議活動が繰り広げられた。

◆ラサ市内での暴動
デモはチベット自治区のラサ市で、1959年のチベット蜂起から49年目に当たる2008年3月10日に合わせて開始された。
英エコノミスト紙マイルズ記者の「私がラサで見たのは、計画的で特定の民族グループを標的とした暴力であり、対象とされた民族グループは、ラサで最も人口の多い漢族と、少数派の回族だった」との証言のように、3月14日に漢族・回族を標的とする暴動へ転化したとものであろう。
暴徒達は長剣やナイフで武装し、銀行、漢族や回族の商店を襲撃して略奪・放火・暴行を行い、その様子はCCTVを通じて世界中に配信され、中国側の鎮圧行動の説明に利用された。
当初チベット亡命政府は、ラサ市で行われたのは平和的なデモだったと主張、ダライ・ラマ14世もこれに同調する声明を出した。
また、チベット運動家は「暴徒は中国兵が僧侶に変装したもの」と主張し、その証拠写真を示した。
ところが、この写真は“中国軍兵士が僧侶役のエキストラとして参加した映画撮影用の写真”であることが判明。
また、第3者である英マイルズ記者らの証言から、亡命政府側も「無関係な写真」であったと訂正した。
チベット亡命政府から正確な情報が伝えられていなかった事に気付いたダライ・ラマ14世は、米シアトルの新聞社とのインタビューで、「今回の暴動はチベット亡命政府内の“若者達”が、ダライ・ラマ政権が進める[中道路線]に不満を持ち、これが暴走した結果」という見解を示し、中国側の発表した暴動とチベット青年会議との関係を暗に認め、暴力に反対する意向を示した。
暴動の一層の過激化を防ぐため、3月16日までに武警・公安部隊が催涙ガスやゴム弾など非致死性兵器を使用して暴徒を解散させた。
中国政府は、暴徒が多数の僧侶に扇動されていると考え、ラサ市内にある3ヶ所の大僧院を封鎖し僧侶達を幽閉。3月17日には街頭スピーカーで暴動参加者へ対する、自首による罪の減免措置が通告され、多くの者はこれに応じて自主的に公安局へ出頭し、暴動は市街の多くを破壊して終焉した。

◆四川省での暴動
3月16日、四川省アバ州において、ラサ市内でチベット人が回族を襲撃した事への危機感と、回族犠牲者に与えられた残虐行為の噂が回族住民の怒りに火を付け、独立派チベット族の開いていた集会を襲撃した事に始まり、銃撃を含む衝突が発生した。

◆犠牲者数
中国当局はこの暴動全体での死者数を23人と発表。死者の民族別内訳には触れていない。
チベット亡命政府は死者数203人、負傷者は1000人以上、5715人以上が拘束されていると発表した。
死者数については、亡命政府は、独自の集計に加え、NGOチベット人権民主化センターの発表(死者数114人)、中国国営メディア(死者数23人)、米政府系のラジオ・フリー・アジアの発表(死者数237人)などの5団体の内容を照らし合わせて死者数を確定したと伝えている。

◆逮捕者
新華社によると、ラサ市暴動での逮捕者は953人、うち362人が自首。116人が裁判中であり、4月29日に30人の裁判が結審し、最も軽い者で懲役3年、重い者で無期懲役が言い渡され、6月19日・20日に12人の裁判が結審し、放火、窃盗、社会秩序騒乱罪、国家機関襲撃罪など19の罪状が認定された。
08年8月、米政府系のラジオ・フリー・アジア(RFA)は、08年3月のラサ暴動以来、当局の弾圧に対する抗議行動に参加したチベット族300人以上が秘密裁判で有罪になったと伝え、このうち5人が死刑、10人が終身刑の判決を受けた。8月初めにも四川省甘孜チベット族自治州で1人が国家分裂扇動罪で懲役5年の刑を言い渡されたと伝えた。

◆報道写真から

チベット暴動報道写真
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2.ウィグル09暴動

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2ー1.新彊ウィグル自治区の現状

新彊自治区の民族構成 中華人民共和国の西端にあり、ウイグル族の民族自治区である。
その領域は、一般に、東アジアの一部、場合によっては中央アジアのトルキスタン地域東部(東トルキスタン)とみなされることもある。
ウイグル族のほか、漢族、カザフ族、キルギス族、モンゴル族(本来はオイラト族)などさまざまな民族が居住する多民族地域である。

◆経済
第一次産業は、小麦、綿花、テンサイ、ブドウ、ハミウリ、ヒツジ、イリ馬などが主要な生産物である。
特に、この地域で生産される新疆綿といわれる綿は、エジプト綿(ギザ綿)、スーピマ綿と並んで世界3大高級コットンと呼ばれ、繊維が長く、光沢があり高級品とされている。
中国四大宝石の中で最高とされる和田玉はホータン市で産出される。
新疆は石油と天然ガスの埋蔵量が豊富で、これまでに38カ所の油田、天然ガス田が発見されている。
新彊風景
新疆の油田としては塔里木(タリム)油田、準葛爾(ジュンガル)油田、吐哈(トゥハ)油田が3大油田とされ、独山子(トゥーシャンツー)、烏魯木斉(ウルムチ)、克拉瑪依(クラマイ)、庫車(クチャ)、塔里木の5大精油工場で原油精製が行われている。
新疆の04年の全省生産総額(GDP)は、2,203億人民元。石油資源の影響でウルムチは一人当たりのGDPが43221元という内陸部の割にはGDPが高く(全国中位の上)、更に、2020年には10000US$を超える(現在の北京、上海の水準)可能性が高い。
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2ー2.攻防の歴史

トルコ系の「韋?」の首長は、近隣の部族「同羅」、「僕骨」、「抜野古」などを糾合し独立した。これがウイグル族の自立の始まりである。
そして、ヤグラカル(薬羅葛)氏がその王となり、指導することとなった。
その後、ウイグル族は衆十万を超える勢力となり、プーサ(菩薩)という指導者の時、唐の太宗(李世民)と和した。
このころより、中国の史書はウイグルを「回?」と記載するようになった。
後に唐は、一方的にウイグルなどの諸部族はわが属国であると宣言し、李素立を燕然都護の職につけ、ウイグルなどの諸部族に従うように求めた。
ウイグルの指導者には、『懐化大将軍瀚海都督』の称号を与えたが従わず、ウイグル指導者は「可汗」と称し、みずから皇帝を名乗った
。唐は内通者をつくり、指導者を暗殺、内通者も殺害し、ウイグルの勢力を削ぐことを画策し、それに成功した。
結果、ウイグルの勢力は減退し、突厥が再び台頭。ウイグルは唐と協力し突厥と戦った。
しかし、またも指導者・承宗が唐によって無実の罪で捕らえられ、殺害されたことを契機に突厥に従うこととなった。
その後、英雄、クトゥルク・ボイラが指導者となると、ウイグルは突厥から離れ、バシュミル、カルルクと連合し、突厥を打倒・滅亡させ、モンゴル高原に、ウイグル・バシュミル・カルルクの三者同盟が君臨することとなった。
その後744年、ウイグルは三者同盟の同盟国であるバシュミルを討ち、カルルクをも服属させ、ついにモンゴル高原の覇者となった。
ウィグル歴史年表

755年、唐では安禄山による大反乱が発生し、唐は滅亡寸前となり、玄宗は四川を目指し逃亡するなど、唐は混乱した。
唐は皇太子を即位させ、ウイグルに救援を要請。
ウイグルは皇太子に4000の兵を与えて、反乱軍鎮圧にあたり、長安を回復し、『新店の戦い』で安禄山を暗殺した。
安禄山の後継者・安慶緒の大軍が唐軍を打ち破ろうとする直前に安慶緒軍を撃破し、安慶緒から洛陽を奪還した。
わずか4000の兵で反乱軍から長安・洛陽の両都を瞬く間に回復したウイグルの強兵に反乱軍だけでなく、唐軍も驚愕した。
反乱軍を自力で討伐することができない唐は、皇帝の息女をウイグルの皇帝の夫人(実質上の人質)に出し、反乱軍の残党討伐を願い、ウイグルはその願いを受けて、援軍を派遣したが、反乱軍は頑強で打ち破るには至らなかった。
その後、ウイグルの三代皇帝は、自ら出馬して、唐のために反乱軍を討ち果し、ついに反乱を鎮圧することに成功した。ウイグルは唐にとって最大の恩人となった。
ウイグルに天候不順が続き、弱体化したところを、唐の教唆を受けたキルギス族がウイグル族に反旗を翻し、ウイグルの王都を襲い、ウイグル帝国は瓦解した。
ウイグル族は唐の教唆による反乱であることを悟らず、唐に助けを求めたが、唐は、ウイグルをだまし、王族を虐殺し、ウイグル族の男を殺害し、女を奴隷とした。
西に逃れたウイグル族は『西ウイグル王国』、『甘州ウイグル王国』を建国し、現代のウイグル族の先祖となった。
多くのウイグル人が迫害と受難の末にたどり着いた地が、今のトルキスタンの大地である。

熱演の塩崎講師 ◆中華人民共和国の建国以降
東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区)は、1949年に中国共産党による「和平解放」を受け、1955年、民族区域自治の適用を受けて新疆ウイグル自治区となった。
この過程で起きた漢族の大量移住や、文化大革命中の政治的、文化的迫害は、新疆のテュルク系住民の間に中国政府の統治に対する潜在的不信感を醸成した。
現在でも、中国政府による人権侵害や、天然資源の収奪、環境破壊を批判する声は根強い。
中国政府は、 西部大開発に象徴される大規模な経済的梃入れを新疆に実施し、住民の生活水準を向上させることで独立機運の沈静化を図る一方、分離主義に結びつくものとして、民族主義を鼓吹する動向に対しては過剰ともとれる厳しい取締りを実施している。
1957年の反右派闘争により、ウイグル民族出身の党幹部の多くが粛清された。
1958年から始まった大躍進政策の失敗は、住民から多くの餓死者を出した。
1966年には、文化大革命が波及し、中国内地から派遣された紅衛兵により、旧文化の象徴と目されたモスクや、宗教指導者に対する迫害が行われた。
1967年には、紅衛兵同士の武装闘争に少数民族が動員され、多くの死傷者を出すなど、新疆の社会情勢は大混乱に陥った。
文化大革命終結後の1982年4月、中国政府は新疆における宗教問題と民族主義の問題を集中的に議論し、民族政策の転換を図った。
言論統制が緩和され、中国政府により、文革中に破壊されたモスクの修復や、アラビア文字を使ったウイグル語正書法の策定などの民族文化の振興支援が行われた。
また、イスラムに対する禁圧も解除され、文革中に迫害された宗教指導者が復権した。
こうした状況の中でも、ウイグル人住民の中から、民族文化の振興だけでなく、民族自治の拡大や、中華人民共和国からの独立を主張する動きが現れた。
また、1991年のソ連邦の崩壊による中央アジア諸国の独立は、ウイグル人の政治的な独立を求める機運を一層高めた。
天安門事件が起きる直前の1989年5月、ウルムチ市内でウイグル人、回族のデモ隊が政府庁舎に乱入する事件が発生したほか、1990年 4月には、新疆西部のクズルス・キルギス自治州のアクト県バリン郷にて、ウイグル人住民が郷政府庁舎を襲撃して、当局と衝突する事件が発生。
1997年、イリ・カザフ自治州のグルジャ市内にて、大規模なデモが発生、鎮圧に出動した軍隊と衝突して、多くの死傷者を出した。
08年3月、新疆南部のホータン市で、600名を超える当局への抗議デモが発生した。
09年6月、広東省韶関市の玩具工場で漢族従業員とウイグル人従業員の間で衝突が起き、死者2名、負傷者120名を出したと報じられ、翌7月には、事件に抗議する約3,000名のウイグル人と武装警察が、ウルムチ市内で衝突し、180名が死亡、800名以上が負傷した。
中国当局は、こうした民族運動の高揚を分離主義に繋がるものとして警戒し、「厳打」と呼ばれる厳しい取締りを実施している。
アムネスティ・インターナショナルが「非公式の情報源」として伝えるところによれば、グルジャ事件では事件後1,000名以上が逮捕され、30名が処刑されたとされた。また、知識人や民族エリートに対する引き締めも強化されており、1991年にはウイグル人作家トルグン・アルマスの著作『ウイグル人』が、「大ウイグル主義的」であると公的に批判され、著作が発禁処分となったほか、著者も軟禁状態に置かれた。
また、全国政治協商会議の場で中国政府の民族政策を批判した実業家のラビア・カーディルも1999年に逮捕された。
03年、これまで少数民族の固有言語の使用が公認されてきた高等教育で、漢語の使用が義務付けられた。

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

ウィグル自治区をめぐる最近の動き ウィグル各地域の民族シェア









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2−3.09ウィグル暴動の背景と経過

◆背景
漢族住民と、ウイグル人住民の間の経済的格差や、ウイグル人固有の文化的、宗教的権利が尊重されないとするウイグル人住民の不満がある。

◆経緯
09年6月末、広東省の玩具工場で漢族とウイグル人の従業員の間で大規模な乱闘事件が発生し、事件の公正な解決を求めるウイグル人3,000名が、7月5日にウルムチ市内で当局への抗議デモを始め、デモを鎮圧しようとした治安部隊との間で衝突が発生。デモ隊の一部が暴徒化し、車輌破壊、放火、漢族住民の襲撃を行った。
7月7日、棍棒や刀で武装した漢族の集団数百人が報復の示威行動を行い、一部がモスクやウイグル人の住居を破壊する事態となった。
事件はウルムチ市内だけでなく、新疆ウイグル自治区各地に波及し、ウイグル人人口の多い西部カシュガル市でも、住民と治安部隊が衝突した。
当局は、新疆全域に3万人超の軍、武装警察を投入し、治安維持に当たらせた。

◆メディアへの対応
08年のチベット騒乱で、厳しい報道管制を敷き、国際的な非難を招いたため、今回は、事件の発生時から積極的な情報開示を行った。
海外メディアに対し取材活動が認め、当局による取材ツアーやプレスセンター設置等の便宜供与も行われた。
ただし、自治区内のインターネット、携帯電話、国際電話の通信を遮断した。

◆中国当局、亡命ウイグル人組織との見解の相違
デモの発生契機、暴徒化の経緯、デモの鎮圧過程について、両者で見解が大きく異なる。
中国政府当局:海外の独立運動組織の煽動により計画的に引き起こされた「暴力犯罪」と主張。
亡命ウイグル人組織:自発的に発生した平和的デモに当局が発砲し、これに刺激されたデモ参加者の一部が暴徒化した。

◆目撃者の証言
ニューヨーク・タイムズ他の外国メディアは、目撃証言として:
デモ隊と警察が対峙し、デモ隊と警察の衝突により、各地で放火、車輌破壊が発生した。
暴動発生時には、少なくとも1,000名が暴動に加わっており、その後、参加者の数は約3,000名に膨れ上がった。デモ隊の中には棍棒やナイフで武装している者もいた。
スタンガンと武器で武装した約1,000名の警官隊が配備され、群衆への警告のために威嚇射撃を行った。
デモ隊が人民広場に到達したときに、武装警察が電気ショックを与える武器を使用してデモ隊を制圧し、その後、他のデモ隊がウイグル人居住地区で暴徒化した、としている。

◆犠牲者と被害

ウィグル暴動の死者 自治区政府の李春陽報道官は、死亡者が184名に達し、うち137名が漢族、46名がウイグル族、1名が回族と発表。
自治区政府のヌル・ベクリ主席は、7月12日までに負傷者数は1,680名に登り、930名の入院患者のうちで、216名が重傷、74名は危篤状態であり、被害を受けた車輌数は627台、建物は633件に上ると発表した。
自治区人民医院同医院の副院長は、初日の搬送者のうち、少なくとも5名に銃弾による傷があることを確認したとしている。
また、公式の発表によれば、市民を襲撃していた暴動参加者のうち12名が警察に射殺されている。

◆各国の公式反応
・オーストラリア:ラッド首相は、平和的な問題解決のために、中国に自制を求めた。
・カナダ:カノン外相は、「不満を解決し、事態の更なる悪化を防ぐ助けとするために、対話と善意が求められている」と語った。
・フランス:外務省のシュヴァリエ報道官は、事件に対する懸念を表明した。
・イラン:モッタキー外相は、事件に対する憂慮をトルコ、イスラム諸国会議機構と共有し、新疆におけるムスリム住民の権利を尊重するよう中国政府に要請したと表明した。
・日本:外務省の薮中事務次官は、記者会見で「極めて多数の死傷者が出ているということで日本政府としても懸念している。今後の事態を注視していきたい」と述べた。
また、河村建夫官房長官は、7月7日の記者会見で、「市民と当局の衝突で多数の死傷者が出ており非常に遺憾だ。状況を懸念している。事態の推移を注視している」と述べた
。 ・ロシア:ラヴロフ外相は、事件が中国の内政問題であるとした上で、「分離主義的スローガンを掲げて、民族間の不寛容を煽りながら、暴動の計画者たちは、市民を攻撃し、車輌を破壊し、略奪した店舗や建物、車輌に放火した」と付け加えた。
・アメリカ:ホワイトハウスのギブズ報道官は、米国は新疆で人命が失われたことに遺憾の意を表明し、事態を深く憂慮しており、全ての当事者に暴力を控えるよう要請する、国務長官のヒラリー・クリントンも、記者会見で「事態を深く懸念しており、多くの死傷者が出ていることは残念」と語り、中国当局とウイグル側双方の自制を求めるコメントを発表した。

◆ウイグル問題の今後
中央大の梅村坦教授:「現在、ウイグル現地では三重の不満を抱えており、これをどのように軽減・解消していくかが鍵である」
愛知大の加々美教授:「チベットは厳しい締め付けで静かになった。だが、ウイグルは中央アジアや中東につながるネットワークもあり、制圧しきれていない。
ビッグイベントを控え、当局が一気に鎮圧に乗り出した可能性がある」。
「穏健派のダライ・ラマがいるチベットと違い、ウイグルには穏健派はいない。このままだと正面衝突が増え、状態は更に悪化していく」

◆首謀者の裁判結果
09年10月、ウルムチ市中級人民法院は、ウイグル暴動に関する裁判3件の判決を下した。
ウイグル族の被告のうち6人が死刑、1人が無期懲役となった。
09年10月10日、広東省韶関市中級人民法院は、09年6月に同市の玩具工場・旭日国際有限公司で起きた傷害致死、乱闘事件に関する判決を下した。
同事件は2人が死亡、118人が負傷する惨事となり、肖建華(漢族)は他の従業員を率いてウイグル族従業員をリンチ、2人を死亡させ9人に重軽傷を負わせた。
人民法院は傷害致死と認定、肖に死刑判決を下した。
このほか事件に関与した漢族1人に無期懲役、3人に懲役7〜8年の刑を、ウイグル族3人に懲役5〜7年の判決を下した。

◆報道写真より

ウィグル暴動報道写真
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3.中国の少数民族

少数民族の人口 中国は56の多民族国家であり、うち漢民族は約12億人超で92%を占め、他の55の少数民族は約1億人、8%である。
中国政府の少数民族政策は、一貫した少数民族を保護し、種々の特権を与えるなどの政策によって、人口は急増の一途を辿っている。
90年、2000年の2回の全国国政大調査の結果を分析すると、漢民族は10年間で11.2%(11,692万人)の増加であるのに対し、少数民族は16.7%(1523万人)増である。
増加の第一の要因は、一人っ子政策で、漢民族には、その遵守を厳しく求めたが、少数民族には優遇措置を設けたことである。
具体的な主な少数民族優遇策は:
・計画出産規制(一人っ子政策)の緩和。第2子(少数民 族の農村地域では3子)の出産を認める。
・高校以上の上級学校への進学は漢族より有利な条件 (低い合格点数、宿舎費の免除、奨学金の支給他)を与える。
・少数民族家庭の一人っ子手当は漢民族の2倍を支給する。
・政治的にも優遇され、幹部に優先登用する。
このような優遇政策により、少数民族は政治的、社会的、経済的地位は大きく向上したとは言え、実際には、進学優遇策にもかかわらず、下記の各少数民族の学歴比率にも矛盾が現れている。
少数民族総人口に於ける学歴比率








本日はご清聴いただき、まことに有難うございました。


文責:塩崎哲也
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:臼井良雄


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