リトル・ピープルの時代(月刊「サイゾー」2011年8月号掲載)

『リトル・ピープルの時代』発売目前!
宇野から、読者の皆さまへのメッセージをお届けします。
『リトル・ピープルの時代』って、書影はすごいことになってるけど、結局どういう内容なの…?」
とお思いの方、まずは下記のエッセイを読んでみて下さい。

リトル・ピープルの時代

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7月28日に、この一年半ずっと書いてきた本がやっと出る。この連載の近況欄でもたびたび取り上げているのでご存知の方も多いだろうが、タイトルは「リトル・ピープルの時代」だ。「リトル・ピープル」というのは村上春樹の「1Q84」に登場する超自然的な存在だ。そしてこの本では春樹がこの「リトル・ピープル」という概念に込めたものを考えるところから出発して、徐々に現代日本のポップカルチャー分析を展開していく。書き下ろしで400字詰め原稿用紙で600枚以上、末尾に「補論」として採録した原稿を入れると900枚程度に及ぶ、やたらと長い本になってしまった。実は本の執筆依頼を受けたのは「ゼロ年代の想像力」がまだ「SFマガジン」に連載中だった2007年の末のことだったので、企画自体はもう4年近く続けてきたことになる。
こんな膨大な時間と枚数をかけて僕が論じたこと、それは現代日本の物語的想像力が失いつつある「巨大なもの」への想像力を取り戻す手がかりだ。
村上春樹は2009年のエルサレム賞受賞スピーチで、現代社会を「壁」と「卵」の比喩を用いて語った。「壁」とは社会の構造であり、「卵」とはそこに生きる人々の比喩だ。かつて「壁」は国民国家が代表する近代的な物語装置だった。国家は成人男性の疑似人格としてそのイメージが共有され、「彼」=ビッグ・ブラザーの語る(大きな)物語が国民のアイデンティティを記述していった。だからこそ、「卵」が「壁」の支配から自由となり、より人間らしく生きるためにはビッグ・ブラザーの語る物語を相対化し、解体する知性が重要だったのだし、「敗戦のトラウマでアメリカという父に依存したまま成熟できない永遠の〈12歳の少年〉日本は云々」といった国家を精神分析にかけるような議論も有効だったのだ、
しかし、国民国家よりも市場と情報のネットワークが上位に君臨する現代において「壁」はもはやビッグ・ブラザーという疑似人格の形は取らない。春樹いわく「もうビッグ・ブラザーの出る幕はない」。非人格的なシステムこそが現在における「壁」なのだ。そして、この新しい「壁」(リトル・ピープル)をイメージ化し、共有する想像力が今の私たちには足りない――そんな問題意識でこの本は書かれている。

実を言うと、僕は今年の春頃この本をまとめあぐねていた。原稿はほとんど出来上がっていたが、一冊を縦に貫く批評的な「物語」が弱い。そう感じてしまい、結末までたどり着けないでいた。そんな中、「あの日」が訪れた。僕はますます書けなくなった。けれど、それは思考が行き詰っていたからではなかった。震災の被害とその後の原発事故の長期化について、毎日考えている間に、今、この日本という国で起こっていることこそがこの本で僕が訴えようとしていることを証明しているように思えたからだ。
震災が何かを変えた、というよりは震災はこれまで隠蔽されてきた既存の構造を暴き、僕たちに突きつけた、というのが僕の考えた。震災について考えることが、新しい「壁」、リトル・ピープルの時代の「壁」についてかたちを与えることに、もっとも近いような気がした。
そしてある日、すべてが自分の中でつながった。僕は担当編集者を呼び出して、喫茶店で構想を語った。彼は太鼓判を押してくれた。それからひたすら、僕は当時すでに600枚以上あった原稿を最初から書き直していった。書きながら、被災地にも足を運んだ。その圧倒的な破壊の痕跡から受けた衝撃は、僕にとっては自分が今考えていることへの確信でもあった。完全に脱稿したのはつい先日のことだ。その意味においても、この本は「震災に書かされた」本だと思う。もちろん、この本が直接復興の手がかりになり、「災後」の日本の指針を示しているわけではない。しかし文化批評の立場から、この巨大な暴力がもたらしたものを精いっぱい受け止めたものにはなったはずだ。この数年間、自分が考えてきたことの集大成でもあるのでぜひ読んでいただきたい。

初出:月刊「サイゾー」2011年8月号掲載「批評のブルーオーシャン」
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