――――多くを望んだことはない。僕はただ、普通の夢を持っていて、それを叶えたかった。
そして、他の人と同じように生きていたかった。
特別なんて望んじゃいない。ただ、同じ空の下で、同じ者として其処に在りたかった。
このリーゼ・マクシアに広がる空の下で、両親と同じように、ただの医者として。
でもそれは叶わなかった。原因も分からず、機会だけが奪われた。
その原因を特定しようにも叶わず、ただ日々だけが過ぎていった。
ただ、心を探していただけなのに。
焦がれる程の想いを。
譲れない、信念を。
知った上で、それを持てるだけの術が欲しかっただけなのに。
だけどあの日僕は、諦めてしまった。
でも諦めてしまった先にも、道があったて。
あの人―――師匠に出会わなければ、僕はそこで死んでいたに違いない。
ここ、イル・ファンに来る前。
ハウス教授の助手になる前に聞いたあの言葉は、今もこの胸の中の奥に残っている。
僕を導いてくれた師匠。僕を初めて認めてくれた人。
実の母と同じ、いやそれ以上に尊敬している人。
『イル・ファンに行くんだってね? そんな顔をしなさんな、アタシは止めないさ。その資格もない。
また夢に向かって走りだすんだろ? 止めないさ。
だけど一つだけ………アンタの師匠として言わせてもらおうかね』
拳法の師匠は。いや僕という存在、全てにおいての師匠ともいえるあの人は、僕にこう告げた。
『誰が相手であれ、何が立ちふさがっても、ぜっったいに自分からイモ引くんじゃないよ。
あんたは頑張れた。アタシのあの修行を耐え切った。それは誇っていいことだ。
そうして頑張れるあんたは、何にだってなれる素質がある。
努力を積み重ねれば形になる才能もあるんだ。それに溺れない心も。
―――だからアンタ自身がそれを疑うんじゃない。決して疑うな。アンタは本当に優しい、いい子だ。
だから、信じなさい。信じていれば、道は開ける。
………医者がどうしたってんだい。アンタが胸を張って突っ走れば出来無いことはないさ!』
嬉しかった。あの言葉は、胸のなかに燦々と輝いている。
『だから笑いな。そして自分が――――自分が成りたい自分になれるように、笑って生きな』
(絶対に忘れることはない。そう、決して――――「おい、聞いてんのかジュード!」)
思考が声に中断される。その声を発したのは、目の前の人物―――ハスキーがかった、少女の声だ。
美しい銀の髪。白が大半をしめる眼の中心は、紅蓮に染まっている。
でも、眼つきが悪い。そばかすも広がっている。一方で、髪の毛の方は無駄に整えられている。
そばかすに関しては栄養不足と無精がたたってこうなったんだ、と彼女ぶっきらぼうに説明していたが、それは嘘だろう。
どう考えても心因性のものである。お人好しの店長でさえ同意していた。
初めて会った時の事を思い出す。この少女、なぜか街道の真ん中で炎を纏わせた剣をぶん回していたのだ。
薄暗いイル・ファン近くの街道で突如襲ってきた火の玉群をジュードは決して忘れはしない。
だが、彼は我慢強い男である。それに少女にも悪いところばかりではない、良いところがあることを知っている。
だから黒髪の少年、ジュード・マティスは笑顔で返した。
「ぴーちくぱーちく騒ぐな色白ソバカス。たった数秒も待つことができねーのか、この銀の犬ッコロが」
童顔で割りとハンサムな店員が発するチンピラ言葉に、店の中が凍りついた。
でもすぐに溶けた。皆が皿を持って顔を見合わせる。懐から何やら用紙を取り出す者も居た。
「ぶ、ぶち殺すよこの野郎!? つーかそれが客に言う言葉か!」
「あーあーすみませんおきゃくさまごちゅうもんをどうぞ」
「聞けよエセ童顔!」
怒る銀髪の少女。その怒気は、並の者なら腰を抜かしそうなほどに鋭い。
だが目の前に居る少年店員は、心底めんどくさそうな顔をするだけだ。
「んで、何を食らうって?」
「くっ………とりあえず串10本だよ。とっとと持ってきな」
「はい、分かりました! それよりもサラダを食べたらどうでしょうか、野菜が足りてない風味の、いかにもな顔してるしね!うん、栄養たっぷりなんで色々と元気になること間違い無し! 僕アイデアの店長アレンジした逸品から美味しいし!
………その貧相な胸も、もしかしたら育つかもな」
「てめ………最後、なに言いやがった?」
「あーあー何も言ってやおりませんよ、ナデ………ナイ………ナイチチ? 元お嬢様」
「よし斬らせろ」
一息に腰の仕込み杖を抜き放つ少女。
対するジュードも、手に持ったお盆を構える。
「はっ、そんなもんでこのアタシの一撃を防げるとでも思ってんのかぁ? くされ医者の卵モドキ類狂人科生物が。ついに脳の中までやられちまったようだねぇ」
「元からイカレテるわ、このエセ貴族が。それに、このジュード・マティスを侮ってもらっては困るね。
"あの"ソニア師匠に教えを受けた僕に、できないことがあるとでも? 」
「くっ、このマスコンが………」
ちなみにマスコンとは師匠《マスター》コンプレックス。つまり師匠馬鹿である。
一方、同じ店内に居た周囲の客は慣れた様子で、「やれやれ始まったか」と言いながら自分の皿を持って店の外に避難していた。
一部では今日はどっちが勝つかで賭けが始まっている。
「ふん、どうしてもやるってーのか?」
「今更命乞いか? っつーか僕が師匠の事を思い出していたのに――――横から話しかけたお前が悪い」
「原因それかよ! ていうか、客のアタシが店員に話しかけて何が悪い!?」
「眼つき」
「ぶっ殺ぉぉぉぉす!!」
「いいぜ来いよ、ナディア!!」
「てめ、覚えてんじゃねーか!?」
ナディアと呼ばれた少女の言葉を開始の合図に。
二人のマナが、年齢にはそぐわないほどに大きく膨れ上がった。
そのまま、真正面から激突――――
「てめえら外でやれぇぇぇーーーッ!!」
しようかという直前、店長がぶん回した光り輝く棍が二人に直撃。
小柄な身体を2つ、盛大にふっ飛ばした。
「ぷろッ?!」
「てめっ!?」
あまりにも鋭い一撃を受けた二人が石のように軽く、弧を描いて飛んでいく。
そのまま、道の向こうにある池へと落ちた。
ぽちゃんという虚しい音が響く。
「あーあーお客さんいつもすみませんねえ。え、俺に賭けた客が居るって?
そりゃアンタ嬉しいことだねえ。で、儲かったよねえ………今日入った特製肉の串盛でも注文してみるかい?」
喧騒が続く。
中央の灯火がかすかに届く薄暗い裏町の、地元では有名な店では今日も客たちが騒いでいた。
かつて、誰かが言った。
―――人の願いは精霊によって、現実のものとなり、
精霊の命は人の願いによって守られる。
故に、精霊の主マクスウェルは、全ての存在を守る者となりえる。
世に、それを脅かす悪など存在しない。
あるとすれば………それは、人の心か。
「ぷはっ、おいこら店長、前に不意打ちすんのは無しっつったろーが!」
「あーあー、不意打ち受ける方が間抜けなんですー。実戦にルールなんて無いんですー。
そんな事わからないなんてナディアちゃんはお馬鹿なんですー」
「キモイんだよクソジュード! あと、ちゃん言うな! ったくさっさと上がるぞ!」
―――ならば、精霊に見捨てられた者はどうなるのというのか。
現実をただ生きるだけで。何かを願うことすらも許されないのか。
故に、精霊の主マクスウェルは、全ての存在を守る者とはなりえない。
見捨てられたものを悪と断定するなかれ。善の定義などどこにも在ることはなく。
この世界に善と悪を分けられる明確な境界などは存在しない。
もって、守られるべきものなど、どこにも存在し得ないのだから。
あるとすれば………それは、人の心か。
「あー、冷えるぜ………弱炎舞陣」
「おお、あったかーい」
「……フレアボム!」
「熱ッッ!?」
「ははっ、ばーか」
「くそ、性格悪ぃな!」
「お前が言うな!」
これは、人の心が交差することで浮かび上がる、どこにでもあるストーリー。
――――叶わない、物語である。