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シリーズ 原発の深層 第3部 差別と抑圧超えて③ 労組をパートナーに
「しんぶん赤旗」 2011.11.01 日刊紙 1面
東京電力の専制的な職場支配と、無謀な原発推進に労働組合はどうしていたのか―。
東京電力労働組合(1951年発足)の前身となったのは、全国単一組織の日本電気産業労働組合(電産)から分裂し結成された関東配電労働組合です。
電産は、戦後のインフレ時に生活給に基づく賃金体系を勝ちとるなど、当時の労働運動の先頭に立っていました。しかし、レッドパージ(50年)、9電力体制への分断(51年)を受けて後退を余儀なくされます。
たたかい排除
当初、経営合理化に反対していた東電労組は、60年に「経営対策活動を充実」するとして協力方針へ転換。「電源開発の促進」「コスト削減」を掲げる労資協調路線へ踏み出しました。
「運命共同体としての労使」「人間尊重の経営」を掲げたのは、弟4代社長の木川田一隆氏。労務部長として電産と対決した人物です。
実態は「よきパートナー」を育成するための、労組への介入でした。役員選挙では、特定候捕者への投票工作などあらゆる手段を使って、日本共産党員をはじめ、たたかう労働者を排除しました。
66年に労組は、旧民社党支持を決定。国政に電力業界の利益を代弁する議員を、一党締めつけと「ぐるみ選挙」で連綿と送り出してきました。
スリーマイル島原発事故〔79年)直接にこう発言し、安全性を問うどころか、政府に原発推進をあおったのは東電労組出身の中村利次議員(旧民社党)でした(参院科学技術振興対策特別委員会)。
労組は、組合員に旧民社党(現在は民主党)支持を押しつける一方で、会社の思想差別を提訴してたたかう組合員のビラ配布を「特定政党の組織介入による反組織行為」とし、抑圧を一層強めました。
事故のたびに
労組は、過酷事故のたびに原発推進の会社を後押ししてきました。
スリーマイル島事故後には関係業界の労組とともに「見解」を発表。「日本の原子炉には、(略)起こり得ないという実感を持たざるを得ない。不幸な出来事の中での満足感がある」とし、会社を逆に叱咤激励しました。
チェルノブイリ原発事故(86年)後も「自身をもって!! 原子力/反対運動恐れるな」と機関紙で訴えました。
福島原発事故後の、今年5月の大会で掲げられた運動方針では「東電労組として原子力発電の必要性や推進していく考えに変わりはありません」と、原発推進の一翼を担ってきたとの反省はみられません。
(つづく)