フジテレビの放送番組についてチェックする自己検証番組。フジテレビの番組とその内容、テレビ界全体に対する意見、質問に答えます。又、スタジオで有識者に話を聞きます。

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”ネトウヨ心理”とテレビ


2011年11月12日(土)放送

"ネトウヨ"の定義について、濱野氏は「定義としては、『ネット右翼』という言葉の略で、ネット上で右翼的。つまり愛国主義的、ナショナリズム的な発言をしたり、排外主義的な言論を強く打ち出す集団をさす。日本では、だいたい2000年代初頭から主に匿名掲示板の『2ちゃんねる』の隆盛と共に増えて来た人たちで、日韓ワールドカップサッカーの共催があった2002年頃から結構注目され始めた人たち。別のいい方では、『嫌韓』とか、『嫌中』といった、韓国を嫌う、中国を嫌うという言い方をする。2005年には漫画『嫌韓流』が結構売れたことで、対外的にも知られるようになったのが"ネトウヨ"の人たちになる。『ネット右翼』の人たちは、デモを行ったり手法的には結構左派的な人たち、庶民派的な人たちと同じようなアプローチをとる人もいて、従来的な右翼のイメージの延長にあると思わないほうがいい。全く知らない人は、ネットの人がみんな右翼かと思ってしまうかもしれないが、そんなことは全くなくて、私の場合、重度の『2ちゃんねらー』で、『2ちゃんねる』が凄く大好きな人間だが、『2ちゃんねらー』でも"ネトウヨ"ではない、という風な感じで、全員が全員ではないということ。」と語った。

 憂国的な発言が増えていることについて、濱野氏は「この問題はここ10年ぐらいのスパンでとらえた方がいい。直接のきっかけは1998年に漫画家の小林よしのり氏が書いた『戦争論』の中で主張をしていたのが、日本の知識人やメディアは基本的に左派的な傾向が強くて、自虐史観、日本は侵略戦争で韓国や中国に悪いことをしたというスタンスをとっている。メディアはそれを鵜呑みにして日本は自虐史観をずっと日本国民に押し付けてしまっている。それは小林氏の考えではよくないし、そんなことをやったら国を愛せなくなる。それで日本を愛せるようになるには、メディアのねつ造ややらせを批判していかなければいけないということを主張した。小林氏本人は直接影響を与えているのは認めてないが、『2ちゃんねらー』の特に"ネトウヨ"の人たちというのは、特にメディアを疑う。メディアが何か反日的なことを作っているという図式を継承していて、それを軸にマスコミの批判をしていく。これはもう10年ぐらい続いている現象、思想的傾向なので、ネットのカルチャーは特に変化が早いことで有名だが、結構検証に値するものだと思う。社会背景、社会思想的に言うと、冷戦が崩壊して、もう左翼的なものが若者の世直し気分で回収できなくなった。そこで資本主義対共産主義の変わりに出て来たものが、小林よしのり氏の国民の歴史みたいな『大きな物語』、一応みんなが共有できるストーリーみたいなものになった。そして、世の中を変えたいとなったときには、共通の敵、打倒しなければいけないものというのが必要で、今年起きている中東の革命であれば『独裁政権を倒そう!』とみんなが集まれるし、今ウォール街占拠デモという形で特にアメリカのニューヨークを中心に運動が起きているが、あれだったら『1%の金持ちがいけない』という感じで、結構敵がはっきり見えるが、日本の場合はマスメディアというのが倒すべき敵で、俺たちの空間をねじ曲げている奴だという風に意識されている、というところがポイント。これが今の現状だ。」と話した。

 津田氏は「メディアに対する不信がずっと続いていることはある。情報の流れ方が変わってきた。テレビや新聞という一部のマスコミだけが情報を独占している時代ではなくなったし、逆にネット側から見ると、政府や民主党とマスコミがタッグを組んで何かしらやっているのではないか。マスコミ自体が権力の批判装置とは言っても実は権力化しているのではないかと見なされている部分がある。それは情報が作為的に編集されているとか、不自然にいろんなことを横並びに報道しているというところに何らかの意図があるのではないかという所も含めて、そういう不満はネットでずっと繰り返されてきた。ここ1年ぐらいで具体的な行動にまで移るようになって、フジテレビで言えば最近、反対や抗議するデモも起きている。その辺りは少しずつやっぱり変わってきているという気がする。」と語った。

 震災によってネットユーザーの人に変化はあったのかということについて、濱野氏は、「それは間違いなくあった。ネットに限らず、日本社会全体の空気が大きく変わった。日本社会も『このままじゃまずい』と誰もが思うような災害であって、ネット上でも、現地の人たちを助けにいかなきゃとボランティアに目覚める人もいれば、原発事故の問題があって政府は情報を隠しているのではないか、メディアは政府と結託して情報を隠してるんじゃないかと、そういう疑問、批判意識を持つのはむしろ普通に自然な流れとしてあって、それと平行した流れとして"ネトウヨ"的な、マスメディアを批判するような人たちが出てきているのがあると思う。実際には "ネトウヨ的"な人たちは、基本的には結構まじめで批判意識もっている感じの人たちが多い。それがいくつか寄り集まると過激な発言に見えてしまうことがあるが、形式だけ見るとメディアをまじめに批判してメディアの言っていることをきちんと検証しようという人たちの集まりだとみなすことができると思う。実際に、欧米諸国、特にアメリカが盛んだが、メディアは『第4の権力』という言い方もあり、そのマスメディアが権力ならば、市民の側が監視するという形で『パブリックジャーナリズム』、オンブズマン的な市民がメディアを監視するという動きは向こうではネット上を中心に起こっている。日本でも、ある意味そういうふうに評価できる、"ネトウヨ的"な人がいることは、ある種日本のメディアを巡る民主主義的な状況はむしろ健全と言えなくもない。だから、右翼だから聞かなくてもいいという感じで無視するようなレッテル張りはそろそろもう限界で、やめた方がいい。」と語った。

 津田氏は「どちらかというと、新聞やテレビはTPP推進の論調が多いが、今ではテレビの議論とTPPのネットを通じた検証が全く違う。TPPに関しては、メディア不信という意味で繋がっている。TPPでアメリカはものすごくちゃんと利益を出している。自国にとってどれだけメリットがあるかをアメリカのUSTR(通商代表部)のサイトが書いている。そういう情報を提供した上で『みなさん判断して下さい』ということを政府がやっている。ところが日本の政府ほとんどやってない。よくわからない文章が、PDF形式で政府のサイトに置かれていて、本当だったらちゃんと検証・解説するのがメディアの役目だと思うが、十分にやれているメディアが新聞もテレビもなかなかないので、その手間がかかる作業をいまネットの人たちがやり始めている。そういう意味でTPPは、メディアを共有している人たちと消費者との意識の乖離というのをすごく象徴的に現していて、分断していると感じる。」と話した。

 濱野氏は、「これはメディアに限らず、企業組織対ネットの問題というのがあって、『炎上』という状態が全体に共通する問題だが、ネットは個人のメディアリテラシーが高いような人たちがお互い情報発信し議論し検証するという流れだが、企業では企業組織の中で持ち帰って検証します、となるので、自由に対話するといっても結局一担当者に企業の意見を全部任せるわけにはいかない。
単純に思想内容の違いというよりは、企業という立場でものを言わなくてはいけない人たちとネットで自由に発言できる人たちの関係性をどう築くかっていうのは、メディアに限らずネット社会全般における問題だと言える。」と語った。

 津田氏は、「だから難しい。ただ一口に"ネトウヨ"と言ってもすごくいろんな人たちがいて、多分リアルの右翼の延長の感じの人もいれば、あとは中国や韓国が日本に対していろいろ言っていることに対して、自分たちもむかつくので、排外主義的になる人もいる。あとはメディアが嫌いだとか、左翼的なある意味エリート主義みたいなものに対する反発とかいろんな人がいろんな要素をもってすごいグラデーションがある。でも、そういう人たちがネットで繋がっている。今まではネット上で繋がっていたものがリアルでも繋がり始めたというところがここ数年みられるようになった現象。だからなかなかこういうことは、"ネトウヨ"ということを番組で取り上げる自体すごく意義があるけれども、これだけで伝えられることというのはなかなかないので、これを議論の契機にして、なぜそういうメディア不信が起きているのかというところで、メディアとネットユーザーの対話のチャンネルを作らないと、よりエスカレートして対立が深まると感じる。」と語った。

 テレビへの提言として、濱野氏は「"ネトウヨ"というレッテル張りをするなということ。逆に言うと、"ネトウヨ"の人たちにも言いたいのは、どうしても"ネトウヨ"の人たちはメディアのレッテル張りのスキルを使って、メディアに対してレッテル張りをしてお互いに張り合っている。これでは対話どころではない。もちろん言い分はあると思うが、なるべくレッテル張りから離れて、冷静に議論できる場をどんどん作っていくのが重要だと思う。」と話した。
濱野 智史(はまのさとし)批評家
■プロフィール
1980年千葉県生まれ。批評家。株式会社日本技芸リサーチャー。
慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。
専門は情報社会論・メディア論。
著書に『アーキテクチャの生態系』(NTT出版)、共著に『日本的ソーシャルメディアの未来』(技術評論社)など


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ラジオの役割とテレビの未来


2011年11月05日(土)放送

ラジオの現状について、ニッポン放送会長の重村氏は、「東日本大震災で、ラジオの存在価値を認められるのは、非常に光栄だが、現実に当事者になってみると、今ラジオ業界が抱えている問題点は非常にたくさんある。特に今度の震災ではっきりしたのは、公共的な役割と営利企業としてのラジオ事業をどうやってバランスをとるか、ということが非常に大きな難問。今例えば臨時災害FMの話、コミュニティFMの話も今の震災の時期は非常に認められているが、いざ平時に戻った時にどうするのか、という問題に対して解決策がない。
ラジオは、やはり高齢者とか生活弱者にとって非常に重要なメディア。だから、いま日本が進んでいる道においては欠かせない存在になりつつあるが、一方で民間放送は広告をメインにやっているから、ターゲットとして視聴者、ラジオで言うリスナーと、お金をもらうクライアントのニーズとの間に完全なミスマッチを起こしている。そういうミスマッチ企業の典型。そこをどういう形で乗り越えていくかは、テレビ業界もこれから必ず出てくる。僕は、1997年にCSのプラットホームを立ち上げ、10年やったが、出した赤字は750億円。ただあの頃はITバブルだったから、結果的に上場して今のスカパーがあるわけだが、今新しいものにチャレンジしていく時に、ああいう神風が吹くかというと吹かない。かつて小泉政権の頃、「放送と通信の融合」ということが盛んに言われた。いまや当たり前になっているが、逆にインターネットの世界の部分に関して言えば一番オールドメディアである、ラジオが先行してもっとその中に入っていかなくてはいけなかったと思う。今までこの業界の中では、伝送路を主体にして物を考えている。テレビやラジオは、テレビやラジオとネットを分けて考える。そういうことよりも、伝えるべきコンテンツに関しては、伝送路は全てオープンにするべき。『ラジコ』は商売上でいうと問題点がある。例えばアクセス数が増えるとサーバ代がかかる。通信に比べて放送が優れているのは1:nで展開すること。通信はアクセス数が増えると1:1でどんどんサーバ代が高くなるという問題がある。その『ラジコ』に関しては、エリア制限をかけている。こう言うと問題になるかもしれないが、僕は反対。例えばラジオは、参加型メディアであると同時に地域密着型のメディア。今の、特に若い人は、旅を好み、いろいろな地方の知らない事象を好みたい。だから若い女性たちはどんどん旅をする。放送のうえで旅が出来るっていうのが『ラジコ』。例えば、今大阪の放送業界は加熱している。ご存知の通り、橋下徹さんと平松邦夫さんの大阪市長選の戦い。それに関する話題をガンガン、ラジオでやっている。それは東京にいる人間も聞いてみたい。あるいは、例えば沖縄の放送であるとか、自分の出身地の放送など。みんな認識して欲しいが、ラジオはテレビと違って自主制作率は80%。だから必ず地元の放送をやっている。それは、ラジオは一方的に制作者側だけの意思ではできなくて、メールであるとか、インタラクティブ性を持ちながら地元の声を聞きながらそれをネタにして番組が作られている。東京から地方の話を聞くことができれば、ある意味で旅をすることに繋がるし、世の中の世論の動向も違う。だから例えばTPPの問題では、農業をやっている人がどう考えているかは、例えば評論家が語ることでは、なかなかこの問題を解決するのは難しいところがある。農業県の放送や投書ややりとりを聞いている方がはるかに分かる。そういう意味でいえば、ラジオが自立的に全国ネットのテレビを越えられる。全国ネットのテレビは、いわゆるキー局がネットワークで地方に流しているが、『ラジコ』はオンデマンドだから、個人が自ら全国ネットの環境を作っていくことができるということ。」と語った。

江川氏は「ツイッターでラジオに対する要望を聞いてみたが、『引っ越しした後に、前の地域の番組を聞きたい』とか、あるいは『(自分のエリアではなく)他所の番組を聞きたい』という人たちも結構いる。その地域の枠を取り払ってほしいし、あるいは海外に行っている人が『日本の番組を見たいがリアルタイムでやってない。だから、どんどん海外でも聞けるようにしてほしい』という声は結構きていた。」と話した。

お年寄りが『ラジコ』などの媒体を通してラジオを聞くのが難しいという問題については、重村氏は「野球中継において、地上波とペイテレビであるCSや全国一律放送のBSは欠かせない存在になって、多様化している。だから、テレビというメディア全体は活きていくし、元々ベースはコンテンツだから、そのコンテンツそのものを特徴にあった伝送路を通して出していくのは我々放送人にとっては一番期待するところ。ところがラジオに関しては、いま伝送路を限定してしまっているのも問題があるし、なぜできないかというと、ラジオはアナログだから。僕はデジタル化をすべきだと思っている。別に、デジタルだからお年寄りが難しいわけではなく、テレビでもデジタルになってもリモコンはお年寄りでも同じ。デジタルになると何ができるかとていうと、多チャンネル化ができる。多チャンネル化ができる形になれば、お年寄り向けの放送と若者向けの放送、両方を出すことができる。僕らはそれをやりたい。」と話した。

ラジオの今後の展開について、重村氏は「ニッポン放送に来た時に一番驚いたことは、自分の会社の中で自分の放送が聞けないこと。これは、特にAMに関して言うと、マンションの中とかコンクリート建造物の中では聴けない。ニッポン放送の人間は、社内で放送を流しているから気がつかないが、受信機を社内に置いてみても聞けない。テレビなら、例えばビルが建って難視聴地域ができたら、その作ったビル会社がケーブルテレビや、難視聴対策をやることが法的にもなされているが、ラジオは難聴の問題が放置されている。少なくとも一戸建ての家はラジオは聞けるが、マンションは中に入ったらほとんど聞けない。この問題を国は全く放置している。もし今震災が起きたら、今までのケースでいうと東北や中越など割とマンションは多くない地域で起きているから、ラジオそのものの難聴問題が大きくなっていないが、本当に首都圏で起きたらラジオが唯一の情報源だって言いながらラジオが聞けないという状況になる得る。それからもう一つ恐れているのは、今度は送信側の立場でいうと、これは余程のことがなければと思っているが、ラジオ、特にAMラジオは広大な送信所の土地がいる。例えばニッポン放送の送信所が木更津にあるが、1万2千坪必要。AM電波の特性で、アースの長さが重要になってくる。アースの長さで周波数が出てくるので、ほとんどが河川敷にある。よく考えてもらえれば分かると思うが、東京の局はみんな河川敷にある。TBSは戸田で、文化放送は川口、当社は木更津だが、すぐ横に川が流れている。もし津波が来た時に、送信所が停波してしまえば、首都圏のAM局は関東平野だから中継局がない。首都圏のAMラジオ局が全部止まったらいったいどうなるか、という本当に重要な問題なのに、何一つ議論がされていない。特に首都圏、それから、関西圏もそう。都市部ほど難しい。なぜそうなるかと言えば、都市部で1万坪以上の土地を買うことはもうできない。だから、デジタル化すれば連結送信が可能になり、空いた東京タワーでもスカイツリーからでも出せる。FMは出せるが、AMは出せない。この問題がほとんど議論されてないし、ある意味でそれを語ることがタブー視されている。だから、いまデジタル化の問題や、アナログの跡地問題、「V−Low・V−High」問題より、基本的に今あるメディアが災害が起きた時にどう機能するかということを議論しなければいけない。「V−Low・V−High」問題は、実質的に「V−Low」(VHFの第1〜3チャンネルの18MHz幅の帯域)にラジオの有線レーン、音声の有線レーンを作ろうと考えているが、実際にそのインフラを作ろうとしたら600億円くらいかかる。そんなことはできないから、それよりは今、テレビのデジタル化の中でたくさんある中継所を集めるといったことが行われている中に、ホワイトスペース(放送用電波で空いた隙間周波数)が出来てきている。そこに現存のラジオを移すと、これはデジタルで電波が飛んでくるし、ワンセグテレビが見られるところではラジオは確実に聞こえるようになるし、ワンセグよりも音声だけでよくなる。それからもうひとつ、ラジオが考えなくてはいけない大きい問題として、テレビの後を追っかけてはいけない。動画はどうでもいいから、音声をベースにして、そこの中にテキストデータで見比べてデータ的な保管さえできればいい。それがデジタルだったらできる。」と語った。
今のテレビ制作者に対する提言について重村氏は、「『行間』と『間』というのがある。ラジオの強さはこの『行間』と『間』。テレビは実を言うと、『行間』と『間』がなくなって説明しすぎだと思う。もう少し受け手側が考える、というふうにしないと、双方のインタラクティブ性が出てこないと思う。」と話した。

■ゲスト
重村 一(しげむら はじめ)ニッポン放送 代表取締役会長
■プロフィール
1944年神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学第一政経学部卒業後、フジテレビ入社。編成局長・取締役などを歴任後、1997年ジェイ・スカイ・ビー(現スカパーJSAT)代表取締役副社長、2003年スカイパーフェクト・コミュニケーションズ(現スカパーJSAT)代表取締役社長。
2006年ニッポン放送代表取締役会長に。他にも、東映アニメーション取締役、J-WAVE取締役、日本映画テレビプロデューサー協会副会長、国際ドラマフェスティバル実行副委員長・エグゼクティブプロデューサーなどを務める。



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欧米”経済危機”テレビの伝え方


2011年10月29日(土)放送

世界中で行われているデモについて、高橋氏は「同じデモでも性質はかなり違う。それから『反格差デモ』と言われているが、違和感を感じる。アメリカを見ると確かに若者が格差に反対しているが、アメリカはもともと格差社会。だから、今なぜデモなのかを考えるとリーマン・ショックの辺りからアメリカの景気が停滞していて、失業率が全体で9%、若者だけだと18%近い。だから職につけないということが背景にある。それからヨーロッパは、やっぱり財政緊縮で、公務員や年金などぐっと締められているので、そういう人たちの反発。これはどちらかというと、"大人のデモ"という感じが強い。いずれにしても、アメリカ、ヨーロッパ両方にあるのは「バブルの崩壊」ということ。アメリカについてはリーマン・ショック後に、ずっと景気対策、金融対策をやってきたが、経済がよくならないという状況がまだ続いている。ヨーロッパについてはEUに加盟するときに、ギリシャとかいろんな国が信用力が高まってしまったが故に、かなりユーロの資金調達をしたが、それが今全部借金になって返ってきてしまった。アメリカ、ヨーロッパのどちらを見ても、かなり構造的な問題を抱えている。それが表面的にデモという形になってきている。単に景気が悪いからデモになってるとか、格差が広がったからデモになってる、というのではないという構造的なところをどう伝えていくかというのがメディアの一つの課題ではないか。」と語った。
 ヨーロッパの経済危機が、バブル崩壊後の日本の「失われた20年」になる危険性があるのかについて、高橋氏は「『失われた20年』とまではいかないが、かなり長引いてしまう危険性はある。リーマン・ショックから3年だが、まだ全く問題の解決に至っていない。それどころか『第2のリーマン・ショック』と言われるところまできている。ヨーロッパは、ユーロが出来た時にいわゆる南欧諸国、PIGS(=ポルトガル、アイルランド、ギリシャ、スペイン)などがユーロに加盟したが、加盟したことで信用力が出てしまってどんどん借金を膨らませていった。ところがそれを今返せなくなっている。今いろいろ手を打っているが、最悪の事態を考えると、ギリシャが返せず倒れてしまう。債務不履行、デフォルトになる。そうなると他のアイルランドやポルトガルなどの国々にも波及してしまう、というドミノ倒しが起きる。これは国家債務危機。次に起こることは、そこにお金を貸しているのは誰か。ヨーロッパ中の銀行が貸しているので、今度は銀行が倒れてしまう。日本で不動産バブルが崩壊して、銀行が危うくなったのと同じことがヨーロッパで起きる。それを助けるために国がまた公的資金を注入しなければいけない、となってくる。ところがドイツ、フランスなどの大きな国ならともかく、ベルギーなどが今度公的資金を入れると、『ベルギー政府は大丈夫か?』となってしまうので大変怖い。今それを食い止めるために、ギリシャについては、昨日、包括的な合意が得られてギリシャの債務を5割カットしてあげるということをした。これで一歩前進。しかし、ギリシャの債務をカットすると、裏側で銀行の損失が出てくる。そうすると、今度は銀行を助けるという話になっていく。いずれにせよ銀行が大変不況だからお金が経済に流れない。すると経済が悪くなっていく。こういう悪循環がまだ断ち切れてない。根の深い問題で、これから先、ヨーロッパがうまく債券処理をしたとしても、多分ヨーロッパ経済は相当悪いまま。これが今好調の新興国の経済にどういう影響を与えていくか、そういったところまで含めて物事を考えていかなくてはいけない。また、ユーロ安などの形で日本にも影響が出てくる。そういうことまで踏まえた幅の広がりのあるものだと考えなくてはいけない。」と話した。
 テレビの経済報道の伝え方については、高橋氏は「最近は、例えばフジでは『新報道2001』やNHKのニュース番組でも、相当突っ込んで解説している。ただそれでもニュースだから、基本は短いものをたくさん伝えていくので、そこに限界があると思う。もう一つは、例えばデモがあった時にギリシャのデモが伝えられるが、あれはギリシャの財政緊縮に反対して、みんながデモをしているもの。だけど一方でこの問題については、今度はドイツやフランスが国民のお金を使ってシェアしている。だから、ドイツ国内でも相当反対論がある。物事は一面ではなくて、ギリシャのデモを伝えるのであれば、ドイツやフランスの中でどういう意見になっているのか、あるいはどういう反対が起きているのか、多面的に伝えていくことが必要なのではないか。」と語った。
 松野氏は「報道する中で一番難しいのはやっぱり経済問題。なかなか絵がないとよく言われるが。絵があるとすれば、若者の暴動。実際になぜ若者がデモ行進をしたり、暴動を起こしているのかと、ギリシャが借りすぎて今ほとんど破綻状態だということがなかなか結びつかない。あるいは、雇用の問題が結びつかない。そこの真ん中を分かりやすく説明する工夫が必要。」と話した。
 経済危機の報道で必要な視点について、高橋氏は「経済・金融はすごく絵にするのが難しい。金融問題だと、いつもお札か日銀の映像しか出てこない。でも本当のお金の流れは全然違うところにあるので、やっぱりそういうところを絵にしてもらいたいが、やっぱり難しい。だから、何かに例えるということをやったらいいのではないか。例えば、財務省は財政の問題を伝える時に一家の家計になぞらえて言う。お父さんの収入がこれだけなのに、借金がこれだけ積み上がっている、などと言われると、なるほどと身近なことと感じて分かる。とは言っても、比喩をして単純化するには限界があるので、解説を丁寧にしていくことが必要。最近感心するのは、BS放送が相当時間をかけてやっている。例えばBSフジでは『プライムニュース』が2時間かけてじっくり議論しているので、むしろ本当に関心のある人はそこで見ている。地上波とBSで役割分担をしてみるのもいいのではないか。それから、やっぱり日々の積み上げだと思う。単発的なニュースだけを伝えると世の中が分からないので、同じニュースを伝える時でもちょっとずつ解説を挟んでいって、一週間トータルで見ると何となくヨーロッパのことが分かるとか、そういう積み上げていく意識でやっていくといいのではないか。」と話した。
 松野氏は「やはり、地上波とBS、最近ではインターネット。ある意味、放送の制作者の方がマルチ展開というか、テレビで不十分だったところはネットにも載せるということもこれからできるのではないか。」と話した。
 インターネットが経済報道に与える影響については、高橋氏は「ひとつの問題点は、『世論が何か』というようなことについてのインターネットの影響力が強すぎるのではないか。例えば、議論が一方的に偏ったり、極端な意見がみんなの意見であるかのように作られてしまうという危険があるので、そういう時に誰も制御できなくなる。インターネットは良い面と悪い面両方あって、悪い面をどう是正していくかがこれからの課題だと思う。ネットだけに頼ると極論になるので、健全な意識を持ってもらうために、テレビで『ここがポイント』だと少しずつ押さえていく、そういう社会を下から支えていくような役割は必要だ。」と語った。
 松野氏は「最終的には自分の生活にどう影響するか、近所の商店街、あるいは中小企業など、目に見える形で表現していくというところに一番分かりやすさがあるのではないか。」と話した。
 高橋氏は「いろんな伝え方が多様化していく。その中でどういうバランスをとっていくかがテレビ局としても考えていくことが必要になると思う。TPPについては、賛成論と反対論が分かれて、両方が出てきて『賛成だ、反対だ』と言い合うことに意味があるかのように言われるが、そうではない。例えば、賛成の人は製造業のことを見て賛成だが『では農業をどうするのか』ということについて語ってもらいたいし、逆に反対論の人は『農業を守らなくては』と言うが、過去日本の農業は守られてきた結果、良かったのかといえばむしろ悪くなっている。では『農業を再生するためには何が必要なのか』ということで、両者から歩み寄っていくような議論の仕方をしないといつになっても問題は解決しない。そういう意味で、単に対立を煽るだけの番組作りではなく、お互いの主張がどこで擦り合うのか、どこで合ってないのか、そういうことが滲み出てくるような討論番組なり、キャスターの誘導がほしい。そうすると、見ている人が終わった後『この問題はここにポイントがあるんだ』と分かると思う。物事を賛成、反対と片付けてしまうのではなくて、自分でどう考えていったらいいのかについて、いろんな分野で答えを出してくれる番組作りを積み上げていくことで、テレビを見ながらどんどん賢くなっていく。そして自分の判断基準が出来ていくような番組を作ってほしい。」と語った。

高橋進(たかはし すすむ)
日本総合研究所理事長
-プロフィール-
1953年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業後、住友銀行入行。1990年住友銀行のシンクタンクである日本総合研究所調査部に出向。調査部長、
チーフエコノミスト、理事などを歴任。2005年から内閣府政策統括官(経済財政分析担当)に就任し、政策運営に携わる。2007年日本総合研究所に副理事長として復帰。今年6月に理事長に就任。民主党の事業仕分けメンバー。


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”AKB48人気”とテレビの関係


2011年10月22日(土)放送

AKB48人気の理由について、宇野氏は「お笑いに置き換えると分かりやすい。例えば、松本人志さん以降カリスマ芸人はいない。若い人が出てきてない。『Mー1』や『アメトーーク』など個性的なルールを持っているゲームのような番組があって、そこに例えば笑い飯やNONSTYLEなどの芸人が参加すると、潜在能力が引き出されて魅力的に見える。AKB48も同じだと思う。かつての松田聖子さんなどの80年代アイドル、あるいはそれ以前の山口百恵さんのような70年代アイドルに比べれば、1人ではカリスマ性はないかもしれない。けれど、AKB48は『総選挙』や『選抜システム』など、とてもユニークなルールを持っているゲームみたいなもので、それをプレイヤーとしてアイドルたちが何かをする。それを一生懸命やると潜在力が引き出されてすごく面白い。だから、AKB48という"場の力"。これが今アイドルに限らずいろんな分野に当てはまっていて、それを最も面白く洗練されてやっているのがAKB48。個々の前田敦子さんや大島優子さんも素晴らしいが、彼女らのポテンシャルを引き出すあのシステムが本当に素晴らしい。」と語った。
 稲増氏は、「プレイヤーとしてAKB48がゲームに参加しているだけでなく、ファンたちも参加している。そのシステムを作り上げたところが秋元康さんのすごいところで、あの『おニャン子クラブ』も、『夕やけニャンニャン』の中に『君こそスターだ!』というコーナーがあって、そこから投票で『おニャン子』のメンバーが選ばれた。ファンが参加する第一歩がそこにあり、更に進化している。」と話した。
 宇野氏は「『おニャン子』の時とではメディア環境も違うし、インターネットもあるし、若者のメンタリティもだいぶ変わっている。それを秋元さんは、実によくファンとのやりとりの中で5、6年間で洗練させていっていると思う。」と話した。
秋元康さんがプロデューサーをしていた「おニャン子クラブ」とAKB48。そのプロデュースの仕方の違いについて、宇野氏は、「『おニャン子』の魅力は『素人の魅力』。自分のクラスメイトにもいそうな女の子がいっぱいいて、その中から好きな子を選べるというリアリティだった。そのリアリティもテレビを通すと、どうしても嘘臭くなってしまう。だが秋元さんは逆にそこに目をつけ、『おニャン子』はテレビでオーディションの過程を見せて、"楽屋を半分見せる"ことによって、『これは本物です』というリアリティを確保していた。この時期のメディア、特にテレビでよくやられていた手法で、それをもっともラジカルに実践していたのが『おニャン子』だった。ところが、AKB48の特徴は、2009年、10年にブレイクするまでは、テレビを切っていたということ。あれだけ大掛かりなプロジェクトであるにも関わらず、テレビへの露出がすごく少なかったというのがポイントだと思う。その代わりが劇場とネット。『会いに行けるアイドル』というコンセプトで毎日秋葉原で公演をしている。そこにファンがいっぱいやってきて、そのファンがいろんな言葉をインターネットに吐き出す。『前田敦子はこういうキャラだ』とか、『大島優子がこんなこと言った』とか。『ウィキペディア』を見ると、まさにファンたちがこの数年間の間に自分たちが発見した彼女たちのキャラクターを積み重ねていき、『集合知』的に彼女たちのキャラクターを立てていって、そこにリアリティを感じていく。だからインターネットの『ニコニコ生放送』や『Ustream』と同じような『ダダ漏れ』のリアリティが新しいのだと思う。まさにファンが参加してキャラクターを作っていける。彼女らのキャラクターを発見していけるような仕組みになっていた。」と語った。
 稲増氏は、「普通、『アイドルは怪しいのではないか』と思っている受け手たちの思いを先取りして、『自分たちは詐欺をやっていますよ』と。そこに『みんな入って一緒にやろう』という"共犯関係"を作った。これが、秋元さんの発見した素晴らしいシステムだと思う。あれは、80年代の時点ですごく画期的だった。」と語った。
 90年代後半から一世を風靡したモーニング娘。をはじめとする『ハロー!プロジェクト』について、宇野氏は「『ハロプロ』は『おニャン子』の極めてストレートなアップデート。同じように"楽屋を半分見せる"ことによってリアリティを確保していくという手法はほぼ踏襲されている。それに対して『ハロプロ』の特徴は、曲にすごくイデオロギーがあった。それも"アンチJ−POP"で、日本的な歌謡曲をつんく♂さんの本業である作詞・作曲でアップデートすることで、楽曲の魅力をもっと思い切り使う、プラスおニャン子的な"楽屋を半分見せる"リアリティというのがすごく強かった。」と話した。
 稲増氏は「秋元さんは、基本的に『おニャン子』であんなに成功するとは思わなかったのだと思う。秋元さんは最初始めた時に『宝塚みたいに永遠のシステムにしたい』と言っていた。それがわずか2年で辞めたのは、結局ピークになって人気が下がると、テレビだともう消費されてしまう。そうすると格好悪いからやっぱり解散せざるを得ないという。AKB48はそうしないために、まさに劇場からスタートするという、いわば"アンチテレビ"の手法を取り入れた。」と話した。
 テレビとアイドルはどう付き合っていくべきかについて、宇野氏は「AKB48の成功例が示すのは、テレビはある程度の規模を作った後のブースター、増幅器としてしか使えない。逆に増幅器としてはまだかなり使えるということを証明すると思う。テレビはコントロール力が強すぎる。それをファンが参加する形でキャラクターを作り上げて足場を固め、システムを作り上げた後にテレビに増幅するという形が、結果的にAKB48にはすごくハマったと思う。秋元さんが今狙っているのは宝塚的な、アジア的な芸能のシステム。宝塚はおばあちゃんもお母さんも娘さんも三代続けて宝塚ファンという家族もいる。だから、世代の強固なシステムを作って世代を重ねていくことをやりたいし、更にそれを輸出して、アジアを中心にファンコミュニティと"共犯関係"を結んでいるような、アジア的な芸能システムが果たして世代を越えられるのか、そしてそれを輸出できるのかということに挑戦する、だからアジアなんだと思う。
AKB48の本質はあのシステムにある。しかしそのシステムは"マーケットのお金儲けの話"と思いがちだが違う。あのシステムがあるから女の子たちの魅力が引き出されて、みんなハマっているわけで、どちらかというと想像力や文化の問題。しかも極めてアジア的な文化の問題。」と語った。
 稲増氏は「その昔、アイドルに対しての批判というのは『こんな低レベルな音楽を聞いてるやつは頭が悪いんじゃないか』と言われた。でもそうではない。音楽の大系の中で『プロフェッショナルな音楽』というのがある。ジャズとかそういう音楽と比べるのではなく、別次元のエンターテインメントだと。それが80年代から流れとして出て来た。」と話した。
 宇野氏は「アイドルというキャラクターを体験する時に、すごいベタで単純な音楽の方がよく歌謡曲的だと言われるが、歌謡曲的なメロディーの方が有効かもしれない。だから、総合芸術としては歌謡曲的なメロディーが使われていることがむしろ重要かもしれない。そういう見方をしていくと、アイドルの面白さがまた変わっていくと思う。」と語った。
今後テレビにとってアイドルはどういうものになっていくのかについて、宇野氏は「まさにこのAKB48の成功は、広告の見方と同じだと思う。今テレビCMもどんどん威力が落ちていると言われている。だから『これはおもしろいんだ』とか、『これが流行ってるんだ』という風に押し付けるとか、首根っこを捕まえて引っ張ってくるようなものはダメ。そうではなくて、ユーザーに発見してもらう、見ている人間に発見してもらう。まさにAKB48がとった商法。だから、テレビというのも、こっちが『これがスタンダードだ』と流すことなく、見ている人間に発見してもらうというところを、アイドルから学んでいくといいんじゃないか。」と語った。

宇野常寛(うの つねひろ) 評論家
-プロフィール-
1978年生まれ。批評家、編集者。文学、サブカルチャー、社会時評、コミュニケーション論など幅広く評論活動を行う。批評誌『PLANETS』編集長。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、更科修一郎との時評対談集『批評のジェノサイズ』(サイゾー)、最新刊に『リトル・ピープルの時代』などがある。


クリティックトーク
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『「フクシマ」論』から見たテレビが伝えない原発報道


2011年10月15日(土)放送

『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』の著書が注目を集める東京大学大学院生で社会学者の開沼博氏(27歳)。もともと修士論文として震災の前に書いたもので、この論文を書こうとした理由については、「論文の元になる研究を2006年から始め、たまたま青森の六ヶ所村に行く機会があって、私のイメージでは原発を持っていておびえているんじゃないか、みんな反対してるのではという先入観があった。ところが行ってみると、『いや原子力関連施設があってありがたい』とか、『そのおかげで私たちの生活が成り立っている』とか、予想と違った反応があった。そこで思ったのは、この不思議な状況、奇妙な状況は何なのかを考えることによって日本の戦後社会というような大きな事に迫っていけるのではないかと思った。」と語った。
その調査・取材の仕方については、「テレビの人がやるような取材と極めて似ていると思う。もう徹底的に人の話を聞く。あるいは、現地を歩いてみるということが中心。農作業している高齢の方や、前の福島県知事に話を聞くということを続けてきた。」と話した。 
開沼氏が著書の中でも言及している「原発が立地している原子力ムラでは『自動的かつ自発的な服従』」については、「言葉自体は難しいが、やっぱり原発を立地している自治体が、こういった事故を経てもまだ原発を求めてしまう。それは、自分たちではこういった危ないことになる可能性があるということを勿論分かりながら、それでも原発を求めてしまうということは何なのか?ということ。自分たちから原発が欲しいと言わせるような構造が出来てしまうところが、この『自動的かつ自発的な服従』という言葉に込められた意味。例えば、まずはお金の問題が非常に大きい。原発を置くことによって補助金が入るとか。みんな原発を推進する立場をとるような状況が出来てしまう。ただそれだけではなくて、根深いのは、経済的政治的なものでなく、文化的なところまで含めて原発を求めてしまうような状況があるということ。原発がある地域に行くと、『ふれあいフェスタ』というイベントだが、あの中国雑技団みたいなもので、その来ているところがどこかと言うと、原発のPRセンター。大きなインフラを持っているところが、地方には電力会社しかないという状況がある。その中で地元で文化を作るというのも原発であるというような状況。そして、富岡町の国道沿いには、『回転寿司アトム』というのがあって、東京の人から見たら、奇妙なものに見えてしまうかもしれない。回転寿司屋さんが原子力ブランドと言えるようなものを持っている。あるいは、『原子力最中』。これは地元のお土産物として駅のショーウィンドウの中に入っているようなもの。これを見ても、誰かが押し付けて、誰かが押し付けれられているという捉え方では捉えにくい状況が今の私たちの状況。原発の立地自体が原発を支持してしまう状況の背景にあるという風に思っている。私自身は『ポスト成長社会』という風に今の状況を見ていて、経済成長が右肩上がりで、イケイケドンドンだった時には問われなかった問題があったが、今の経済が縮小してしまう中で、とりあえず原発を無意識的にみんないいんじゃないかって思ってしまったというのが3・11直前までの状況だったと思っている。誰かが凄い陰謀を持って、原発を誰かに押し付けようとか、受け入れる側も『お金が欲しいから』という話ではなく、むしろ『原発の文化』と呼ぶようなもので分かるように、原発と手を取り合って、自分たちの町が、孫が残っていけるような町にしたい、過疎化といったものを避けたいといった思いの中で原発というのが40年、50年に渡って、今日まで維持されてきてしまったという背景を抑えないとなかなかこの状況は見えてこないと思う。」と語った。
 松野氏は、「朝日新聞の記者時代に東海村をずっと取材してたが、この本に書かれていることの断片的な情報は取材をしていて分かるが、その根っこに何があるのかというのがなかなか見えなかったのだが、これを読んで、非常に構造的なものが見えて『目からウロコ』だった。あと今ちょうどこの福島とか地震についての授業もやっているが、その中で原発がある町から来た学生と、いわゆる東京から来た学生との温度というか、見方が全然違っていて、柏崎や東海村に住んでる学生は非常に肯定的に捉えている。だから、おじいちゃんたちが残してくれた安全なものだったものが、今こういう事故が起きて問題になって、みんなが逆に動揺しているという状態だったり、ということが、この本読むとバックグラウンドがよくわかった。」と話した。
原発事故に関する報道について、開沼氏は「もちろん、国が悪いとか東電のこういうところが悪いという話がされるべきだし、これからも報道を続けていくのは必要なことだが、それだけだと、悪い人がいて、その人を取り替えれば、その人がいなくなれば全て解決するという問題ではないということをまず押さえなければならないのでは、という風に思っている。メディアの報道については、象徴的なエピソードで、ある双葉町住民の避難所にいる方が、住民が集団で避難所に入るところをテレビカメラが取材に来ていると。そのテレビカメラの映像で使ったのは、『原発についてどう思っているか?』ということについて
ある高齢者に聞いたら、『すごく怒っている』ということを言っていたと。その映像が何度も何度も使われていたが、その裏では何があったかというと、住民の方々は『原発をどう思っているか』と聞かれてもなかなか答えられない状況がある。それは原発に頼らなければその地域の人たちは生活ができないという状況があり、それは今に始まったことではなく、何十年という単位で行われていること。そういった中で、みんな口をつぐんでしまっている状況なので、そのことを押さえないとダメなのにも関わらず、その高齢者は比較的原発と利害関係がないから『怒っている』と言えた。でもその裏では、その何十倍という人が口をつぐんでいる状況があったはず。でも、メディアでは喜怒哀楽というか、怒っている映像が一番わかりやすい映像として、これが地元の声だと捉えてしまう。そこで地元の思いがどうなのかということと、見ている側の認識にズレが生じて問題の根底が見えなくなってくる。」と話した。
 松野氏は、「こういう事故が起きると、否定的なものを撮りたいと思うから、撮れないとジレンマがある。実はもっと根っこのところに、別の問題があるということが、取材している時には気がつかないということもある。テレビはそういう怒っているところを撮れば番組には合うということよりも、さらにもっと深い問題があって、答えられない状況があるということを理解しないとダメだと思う。」と語った。
開沼氏は、「日常が重要。そこにこそ真実があるのではないか、と本でも言っている。どうしても葛藤が起こっているところ、喧嘩しているところ、泣き叫んでいるところを取り上げてしまいたい。それはメディアを見ている側も求めてしまう。『そこにないものは何か』ということを常に想像することが求められているという気がする。」と話した。
今後の原発報道で大切なことについては、開沼氏は「忘却をいかに避けるかが今求められていること。一番象徴的な例では、原発報道を今年の春からずっとやっているが、その前一年前に何をやっていたかという話で、一年前の新聞を見てみると、連日沖縄の普天間の基地の問題を報じていた。政権が完全にマニフェストを反古にしたことについて、『民主主義の崩壊』とか、『全て終わりだ』とかを言っていたにも関わらず一年経ったらすべて忘れている。原発の問題についても、『これはひどい』『すべて変えなくちゃならない』と、みんな動いているし、メディアもそういう報じ方をしているが、では半年経ってから、半年前と比べてどうだとか、これから半年後どうなってるかということを常に想像しながら、やはり忘却してしまうことが一番この問題の解決から遠ざかることだと思っている。そのためには、この問題が単純な問題ではないんだと、問題の根本に何があるのか?それをどういう風に見て行くのかということを考えない限りなかなか状況は変わらないのではないかと考えている。」と語った。

開沼博(かいぬま・ひろし)
-プロフィール-
1984年福島県いわき市生まれ。2009年東京大学文学部卒業。2011年東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。専攻は社会学。
修士論文を元にした「『フクシマ』論 原子力ムラはなぜ生まれたのか」を2011年6月に出版。


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