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はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記

2011-10-06 ジョブズとぼくらは勝ったのか? このエントリーを含むブックマーク

アップル社のスティーブといえば、いまだとジョブズだが、30年以上前、アップル社の最初のヒット作品であるAPPLE IIの時代には、もうひとりいた。スティーブ・ウォズニアックだ。APPLE IIを設計した天才エンジニアであるウォズニアックはウォズの魔法使いとか呼ばれて、パソコンマニアの中では、もっとも尊敬される人物のひとりだった。だから、当時のアップルファンにはスティーブといえば、ジョブズが好きか、ウォズニアックが好きかという定番の話題があったのだ。


もちろん、ウォズニアック派がほとんどだった。ジョブズは天才エンジニアのウォズニアックをうまくつかまえて大儲けをしたビジネスのひとだと思われていたから人気がなかった。


第一次パソコンブームの当時、日本でもそういう天才プログラマをうまくつかって大ヒットソフトをつくって大儲けするビジネスマンや大人たちといった構図はあちこちで見られたから、まあ、ジョブズはそっち側の人間と思われていた。金に汚いやり手のビジネスマンという評判は太平洋を越えた日本にも伝わってきていたのだ。


だから、彼がMacintoshをつくった最初、画期的だといわれながらもまったく売れなかった時代に、もういちどウォズニアックが設計したAPPLE IIの後継機種をつくってくれれば、アップル社は復活するのにとか思っていたアップルファンは多かった。ウォズニアックが本当のクリエイターなのに、ジョブズは自分に才能があると勘違いして趣味みたいなパソコンをつくったから失敗したのだと思っていた。


だいたい、あのMacとかいうのはなんなんだ。いまどき白黒モニタだし、メモリが少ない。というか、別にそれほどメモリも当時の感覚では少ないってほどではなかったのだが、無駄に重いUIOSのせちゃったから、全然、メモリが足らなくなってしまった失敗作だ、というのが、当時のパソコンファンの一般的な認識だった。まだMacファンなんて本当に少数派だったのだ。アップルファンですら、APPLE IIの真の後継機を期待していたのだ。


だから、ジョブズがジョン・スカリーによって追放された事件もざまあみろと思った人が少なくなかったはずだ。みんな、もうこれでジョブズは終わったと思っていたし、いったん、失敗してから復活したパソコン界の伝説のひとなんて見たことなかった。


ジョブズが日本でもカリスマを獲得していくのは皮肉にも、この追放劇のあとのマイクロソフトウインドウズの大成功である。スティーブジョブズといえばWindowsはMacのパクリ発言をあちこちでやっているイメージがあるが、その多くはアップル社のCEOとしてではなく、アップル社を追放されたもはや無関係の第三者の時代のものだ。ある意味、昔に捨てられた女のことを忘れられずにいつまでも自分の女みたいにいいつづける男みたいで見苦しい光景だ。しかし、Macintoshの先進性と素晴らしさがWindowsの大ブームによって商業的にも証明されたことはMacの評判をあげると同時に、Windowsにシェアでは勝てないMacにファンはアップル社へのいらだちとビルゲイツへの憎悪を生んだ。そしてMacをもともとつくったジョブズ復帰の待望論がはじまったのだ。ぼくはジョブズがアップル社へ復帰できた要因として、ビルゲイツとWindowsの悪口をいいまくったことはとても大きかったと思う。


さて、ジョブズはMacintoshを超えるコンピュータをつくろうとNext Computerとピクサーをつくったのだが、結局、どっちも失敗したことはいまでは忘れられている。なのになぜアップル社に復帰できたのかとかというと、ピクサーはコンピュータ会社としては失敗したのだが、アニメ会社として大成功したことで、ジョブズの経営者としての株があがったからだ。ピクサーの立ち上げスタッフの中にコンピュータをつくることに関心のない人間がひとりだけいた。ジョブズは彼を気に入り、CGアニメをコンピュータの宣伝用につくることを認めた。それが後にトイストーリーを作ったジョン・ラセターだという。ピクサーはコンピュータメーカーではなく、CGアニメ制作会社として大成功して上場をはたす。このピクサーがあって、ジョブズはビジネスの世界の表舞台にもどれたのだ。だからトイストーリーがなければジョブズはアップルに戻ることはなかっただろうし、そうするとiPodiPhoneも世の中に存在しなかったことになる。


さて、ジョブズ復帰以前のコンピュータファンの間で議論されていたテーマがあった。なぜ、MacはWindowsにやぶれたかということだ。それはWindowsのオープン戦略とMacのクローズ戦略の差であるというのが一般的な理解だった。ビルゲイツ自身がMac OSが外部にライセンスされていたらWindowsはなかったとかいっていたとかいう話もよく喧伝されていた。だから、Windowsに負けていることが悔しいアップルファンはアップル社以外でもMacがつくられるようになったら、Windowsに勝てるのにとか言っていた人間が多かった。そういう世間の声に押されてか、Power Computingと他数社からMac互換機が実験的に発売された。あと、いわれていたのはアップル社の流通に対する傲慢な態度である。もっと販売店を大事にして流通ルートを広げないとMacはPCに勝てないといわれていた。そんな時期にジョブズはアップル社にもどってきたのである。


そしてジョブズがアップル社にもどって最初にやったのが、そういうアップル社の改革路線をすべてストップして逆回転させることだったのだ。互換機ビジネスは中止。Macはアップル社のみで発売。そして流通網は選別して大幅に縮小するばかりか、直営のアップルストアとかを各地につくって、ネットで直販を開始したのだ。みんなが指摘するアップルの問題点と改革について、まったく逆のことをやって成功させたのだ。ぼくがジョブズをやっと尊敬しはじめたのはこのあたりからだ。


さて、ジョブズの復帰後もアップルファンの誇りはなかなか回復しなかった。みんなの憎悪の対象のマイクロソフトから出資を受けて救済してもらったことにも当時のアップルファンは非常なショックと敗北感を感じた。iMacは素敵なデザインだったが、それだけだった。もはやコンピュータの未来をつくっていたアップルの力はないということをみんな再確認した。アップル社の倒産の危機はなくなったものの、Windowsとのシェアの差は一向に縮まらなかった。むしろ、Macがなくなったら、マイクロソフトが独占禁止法適用されて困るので、アップル社を潰さないのだとかいう話もまことしとやかに流されて、うれしいんだか、情けないんだか、複雑な気持ちを抱かされた。


iPodの登場。ひさびさの大型新製品だった。でも、もうアップルはパソコンの世界では勝てないんだな、隙間ビジネスを狙っていくしかないんだなという寂しさをアップルファンは感じていた。


それが気がついたらiPodが売れに売れて、iPhoneがでて、なんかよくわからないうちにアップル社はIT企業としてマイクロソフト社を抜いて世界一時価総額の企業になっていたのだ。じゃあ、アップルはついにマイクロソフトとの戦いに勝ったのかというと、それもなんか違う。いまのアップルのライバルグーグルとかアマゾンというらしい。アップルの永遠のライバルであるマイクロソフトはビルゲイツがとっくに引退していて、グーグルとの覇権争いにも敗れていた。


そして今日スティーブ・ジョブズが死んだというニュースが流れた。APPLE IIが発売されたのはぼくが小学生のころだ。それから今日までずっとITの世界に生きてきてジョブズはずっと中心人物のひとりだった。


彼の生涯をふりかえるとまあ世間の評判なんてあてにならないということがよくわかる。彼は嫌われ者だったし、クリエイターとして能力あるとも思われてなかった。ビジネスマンとしてもしょせん運がいいだけの青二才とみなされていたのだ。


ジョブズは偉大だった事実と、ジョブズが世間から偉大だと思われている事実は、たまたま幸運にも重なり合っただけの偶然の産物だ。


MacもNextも素晴らしい製品だと一部のひとに思われていたが、本当にすごいと世間が認めたのはMacの真似をしたWindowsが大成功したからだし、ジョブズがやっぱりすごいと再評価されたのはCGアニメをつくる会社を成功させたからだ。そしてアップルファンの心をつかんだのはビルゲイツとWindowsへの悪口だった。最終的には時価総額でマイクロソフトもグーグルも抜いて、やっとジョブズはだれもが認める伝説となったのだ。そしてそれは真に素晴らしいコンピュータであるMacの成功が原因なのではなく、音楽プレイヤー携帯電話をつくったことだった。


いったい、アップルの戦いとはなんだったのだろう。アップル信者は本当に勝ったのだろうか。ぼくらはついにビルゲイツ率いる悪の帝国を打ち破ったと思っていいのだろうか。


Windowsが勝利をおさめたとき、22世紀の未来にこの時代をふりかえったら、残っている名前はビルゲイツだけだろうなと思った。スティーブジョブズは知る人ぞ知る名前でしか残らないだろうと思った。いまとなっては現実はたぶん逆になるだろう。


しかし、ジョブズは死にビルゲイツはまだ生きている。ぼくらもまだ生きていて、きっといままで伝説の世界に住んでいて神話の時代に立ち会っていたんだなと思うのだ。

slowhandnmslowhandnm 2011/10/11 18:11 この低能の極みでしかない経営者もどきが,少し
は,人間として殊勝なブログが書けるように
なった。これは,スティーブ・ジョブズの死生観を
述べたスタンフォード大学のスピーチの功績と
言えるんだろうなぁ〜。

2011-09-17 ネット時代のコンテンツの文法 このエントリーを含むブックマーク

ネット時代にコンテンツ業界がどう対応するかは、映画アニメゲーム音楽書籍マンガなど、いずれのコンテンツの世界であっても課題になっている。


課題というのはおもにどうやってネット時代に収益をあげるかをみんな悩んでいるわけだが、そもそもネット時代にはコンテンツのフォーマットそのものも見直す必要があるのではないか、こんなあたりまえのことをあたりまえにいってくれたのが大塚英志敬称略)だ。


技術者であってもネットサービスの開発に携わるのであればマーケティング的な能力は問われるから、人文書を読むべきだと最近主張している僕だが、とりわけ大塚英志はおすすめ批評家だ。


批評家の書く本がビジネスに役に立つとして、その効用はふたつある。ひとつは世の中に起きている現象をどうやって理解すればいいかを整理できること。もうひとつは世の中で起きている現象をどうやってコントロールすればいいかのヒントをくれることである。多くの批評家はおもに前者であり、起きた出来事を整理して教えてくれるのが得意だ。しかし大塚英志の場合はたんなる批評にとどまらずにじゃあこれからどうやっていけばいいかの示唆実用的なのでとても素晴らしい。これは彼が批評だけではなく、マンガの原作者などクリエイターとしての顔もあることと無縁ではないだろう。大塚英志はコンテンツとはそもそもなにかという幾分哲学的な問いに対してクリエイターの視点から解を教えてくれる希有な批評家だとぼくは思っている。あるコンテンツを批評するとして大塚英志の場合は工学的に解説をしてくれる。読書感想文的な要素がまったくないのが好ましい。


そういう大塚英志のたぶん最新の仕事だろう「手塚治虫が生きていたら電子コミックをどう描いていただろう」の序章の文章がとにかく素晴らしい。この本ははっきりいってタイトルで損をしている。このタイトルを見て読みたいと思う人間はかなり少ないのではないかと思う。大塚英志本の信者であるぼくですら、この本はスルーしようかと思って2日前まで読んでなかったぐらいだ。しかし、いちど読んでしまえば、このタイトルも大塚英志がいいたいことを見事にひとことでいいあらわした素晴らしいものに見えてくるから不思議だ。


どういうことか?

この本は電子書籍時代にマンガはどのような表現方法進化がありえるか、また、進化しなければならないかを、そもそも大昔に”マンガというフォーマット”をつくった先人たちの過去試行錯誤を紹介しながら解説しているのだ。そしてタイトルの手塚治虫はマンガというフォーマットをつくった過去の挑戦者たちの象徴なのである。


大塚英志がいうには、手塚治虫もデビュー当時は、お前の描いているやつはマンガじゃない、とか悪口をいわれたし、手塚自身でもいままでのマンガじゃないものを描いているんだと宣言しながら、新しいマンガの文法をつくっていった。なのにその後継者のコミック業界のひとたちが、電子書籍時代がやってきたというのに、新しいマンガの表現方法を開拓しようなんてせずに従来のマンガを守ることばかり考えている。それはおかしいんじゃないの?手塚治虫だったら、電子書籍にあった新しいマンガの文法を編み出そうと努力したんじゃないのと、そう「手塚治虫が生きていたら電子コミックをどう描いていただろう」というタイトルで大塚英志は問いかけているのだ。


そのあたりの問題提起を序章で書いているのだが、その大塚英志の文章がとにかく面白い。主旨は上記のようなことなのだが、その説明の合間合間に、自分アナログ人間だという不要なアピールがはいるのだ。自分の原稿は手書きだとか、ネットは見ないだとか、携帯電話メールだって嫌いだとかいう話にはじまって、あげくのはてには今後は電子書籍とか流行るんだろうけど、ぼくは紙とともに滅んでいく旧世代の人間だし、一生かかっても読み切れない自宅の大量の書物に埋もれて暮らすのが好きなんだとかいいだして、電子コミックの時代の新しいマンガの表現方法というこの本のテーマはどっかへいってしまう。最終的に、ぼくはいいけど、きみたち若い人間まで電子書籍に後ろ向きなのはおかしいとか言いがかりをつけはじめて、やっと、この本のテーマに戻ってくるのだ。


まったくもって大塚英志は素晴らしい。別にアナログ人間だろうが電子コミックについて語って構わないと思うのだが、どうしても自分の生き方論理的な一貫性を求める大塚英志の生真面目さと、自分の主張をそのまま書けばいいだけなのに、定期的になにかへの嫌みだか呪詛だかをひとくさり混ぜないと文章をすすめることができないというのがとても人間的で好ましい。むしろ本当に書きたいのはその嫌みのほうじゃないか、主題は嫌みを読んでもらうためにしょうがなくつけた演出じゃないかと想像してしまう。ちなみにぼくのブログはだいたいそのパターンで、本当に書きたいのはそのときの記事エントリの本筋とはほとんど関係ないしょうもないことで、それを無理矢理読ませるために本筋をつけている。だから大塚英志の文章にはとても共感を覚えてしまうのだ。


話がずれてしまった。(こういうときは、つまり、ぼくの書きたいことは終わったということだ)


ということで本題という名のおまけに戻る。なにか一見ためになりそうなことでも書いてみよう。


大塚英志がいうまでもなく、コンテンツのフォーマットは時代の進化とともに移り変わっていき、新しいコンテンツフォーマットには、新しいコンテンツフォーマットにふさわしいコンテンツの文法みたいなものが存在するものだ。ところがコンテンツ側の人間はだいたい保守的であたらしいフォーマット上でも新しいコンテンツの文法をつくりだすチャレンジは嫌がるのが常だ。コンテンツのデジタル化の際にデジタルらしい特徴をコンテンツに盛り込みたがるのはだいたいIT側の人間で、コンテンツ側はできるだけアナログの忠実な再現を望んできたのがこれまでの歴史だ。ところが、本来はデジタル化やネット化によって、コンテンツの表現できる範囲は広がっているはずなので、それでは潜在的なコンテンツの可能性を殺していることになる。


このことを例えると、そうだ、少し抽象的な説明をしてみるか。ちょっと前に宇野常寛の「リトルピープルの時代」の感想の記事をブログに書いたところ、だれからか、ぼくが文系の高度に抽象的な議論に慣れていないという批判コメントをいただいた。抽象的な議論というのは、大概、自分自身にも理解できているとは思えない寝言をいっているか言葉が指し示す内容が一意に定まらないどうとでも解釈可能なポエムもどきを披露しているものだと信じていた僕には新鮮な批判だった。なるほど抽象的な議論が高級だと思っている人間が世の中にはいるらしい。ということで、今回のエントリでは、ちょっと文系ぽく高度に抽象的な議論に挑戦してみることにする。


あるひとつのコンテンツというものがN次元空間上の点集合で構成されていると考えると、コンテンツのマルチメディア展開とは、それぞれ決まった次元数をもついろいろなメディア空間へ、コンテンツの写像をつくることであるとみなしてもいいだろう。


なんか、書いててちょっと面白く思えてきたw


コンテンツの次元とはなんだろうか。たとえば文章とか言葉というものは一次元のコンテンツだ。絵画や書籍は二次元のコンテンツといっていいだろう。


三次元のコンテンツとはどんなのがあるだろうか。彫刻フィギアなんかがそうだろう。しかし、時間も次元のひとつとして考えると二次元のコンテンツが時間軸方向に連続したものも三次元のコンテンツとも考えられる。そうすると映画やアニメは三次元だ。また、同様に考えると三次元の表現が連続する演劇なんかは四次元のコンテンツになる。また、映像についてもデバイス上は二次元+時間であっても実際には3Dでモデリングした世界を二次元に投影しているようなものは三次元+時間の四次元であると考えてもいいかもしれない。


現実の世界では時間は一方向に流れないので空間の次元のひとつとして等価に考えるのはやや抵抗があるが、コンテンツの場合は早送り巻き戻しなど、時間軸を自由に行き来することが可能なので、時間をひとつの次元として扱かうことは現実以上に正当性がある。


さて、時間軸のつぎに、コンピュータ上でデジタル化されたコンテンツというものもなにか次元数は増えるのだろうかということを考えてみる。


コンピュータ上でコンテンツをつくるときに従来のコンテンツと根本的に違う特徴はなにがあるだろうか?それはコンテンツの双方向性だ。ユーザ入力に応じてインタラクティブに反応するコンテンツをつくることができるのが、コンピュータをつかったコンテンツの最大の特徴だ。これは相互に移動可能な複数の時間軸がある世界をイメージすればいいだろう。条件分岐するインタラクティブムービーなどがもっとも単純な例だが、もっと複雑に別の時間軸の任意の時刻へジャンプしてもいいしループしてもいい。複数の時間軸が平面上にずらっとならんでいるのが双方向性をもったコンテンツの正体である。コンテンツを双方向にするということは、さらにそれによって一次元増えると考えていいだろう。


同様にネットのコンテンツというのも次元は増えるのか?増えるとしたらどれだけ増えるのかを考えてみよう。ネットのコンテンツというのはコンテンツを利用するひとが複数いるということである。コンテンツの自由度だけみるとコンテンツの次元数*利用人数=ネットコンテンツの次元数になりそうで、いやになるが、実際には複数人だろうが、配布するコンテンツは同じものだ。各ユーザの状態が異なっているだけの話だ。ネットコンテンツとは基本的には同一のコンテンツを複数のひとが異なる状態で利用していて相互作用しあっているものと定義すればいいだろう。コンテンツはネットワーク化されることによってさらに一次元増える。


つまりネットで現実的に可能となるコンテンツの最大の次元数は、3D+時間+双方向性+ネットワーク化=6である。ネットは六次元のメディア空間なのだ。


さて、そのなかでコンテンツをマルチメディア展開するということはどういうことだろうか?単純な例として書籍の場合で考えてみよう。文章というのは文字列としては一次元のデータだが、紙という二次元のメディアに写像されると、フォントを経由して二次元の画像データに変化される。だが、まあ、本質的情報としては一次元の文字列のままだ。だが、これにレイアウトなんかがはいってくると二次元部分の情報が付加されてくる。図表や挿絵が追加されるとだんだん二次元の情報っぽくなってくる。コミックなんかになるともはや二次元の絵に一次元の文字列が従属して貼付けられいるだけだから、完全に二次元のデータになってしまう。また、高価そうに見せるために表紙を立派にしたり革製にしたりして背表紙なんかつけたりするとこんどは三次元的な置物としての価値が生まれてきたりする。これは過去に低次元のコンテンツが高次元のメディアに写像として実体化する時になにが起こるかを示唆してくれるよいサンプルだ。


ひとついえるのはメディアが何次元の空間だろうが、全部の次元を使い切らなくてもコンテンツは成立するという事実だ。挿絵や表紙は販促になるかもしれないがあくまでコンテンツにとっては付加的なものでしかなく、書籍にとっては文章という一次元データがあくまでコンテンツの本質的な価値である。ついでにいうと、ネット版NY Timesが記事についている写真動画になるとかいう試みとかをやったりしていたが、同様にコンテンツのネット化においてはそんなのはプロモーションのひとつにはなってもコンテンツの本質的な価値を生み出すものではないと僕は思っている。だから新しいメディアで増える次元を利用して従来のコンテンツが進化するとしたら、まったく違うものが誕生するのだろう。そういう意味では書籍というメディアの場合は、絵本だったりコミックというものが新しいコンテンツとして誕生したといえる。


では、従来のコンテンツは新しい高次元のメディアでもなにもしなくてもいいのか?電子書籍だったら従来の書籍の単純な電子化ということでかまわないのかというとそれも違ってくる。次元は変わらなくても同じコンテンツであっても、違うメディアには従来とは違ったよりふさわしい表現形式が存在するはずだろうからだ。


新聞だったら、ネット版では動画とか音声をおまけで貼付けるのではなく、まずネットにあった文章とはなにかを模索して書き直せということだ。ネットニュースで必要とされる文体は紙の新聞とは間違いなく違うものになる。


コミックであれば書籍という物理的な媒体の制限により生まれた見開きとかコマ割とかの概念をいったん捨ててもいいんじゃないか、そうしたときに考えられる表現方法というのはなにがあるのだろうか?そもそもいま使われているマンガの文法とはだれがどのようにしてつくったものだったのかというのが最初に紹介した本で大塚英志が展開しているテーマだ。


このような視点はネット時代にコンテンツに関わるすべての人間が持つべきものだと僕は思う。そしてほとんどのコンテンツ業界のひとはこの問いから目を背けつづけているのだ。

sadan999sadan999 2011/09/17 22:17 はじめまして。

今日kawangoさんが出演されている番組を拝見し、この日記に辿り着きました。ちなみに、私はdwangoを利用したことがなく、「スタジオジブリの見習い」という立場に食いついた人間です。すみません。

さて、今日の日記ですが、最後あたりのところはなるほどと思いながら読ませていただきました。「マンガ」という既存のものをどうネットに載せるかを考えるのだと枠が狭まってしまうけれども、マンガ」を情報と捉えて、その情報内容をどうネットに載せようかって考えると様々な可能性が産まれそうですね。コミックとか新聞とか今定着しているあの物理的な”モノ”から離れて自由に発想する、という発想。
その考え方はとてもおもしろいと思いました。

ただ、途中にあった抽象的な議論はよく分かりませんでしたが。。。
一概に文系とか理系とかでくくらなくとも、相手に伝わる文章や表現であるかどうかということの方が大事なような気がしました。抽象的すぎると、そもそも各々の使うその言葉の定義から始めなきゃいけないし、自分の難解な説明に酔いしれて結局自分がどこに辿り着きたいのか見失ってしまう場合が多く、議論の時間がもったいないです。そもそも、相手の反論や挑発にすべて対応する必要もないかと思います。

ところで、このページのレイアウトかわいいですね。kawangoさんが長文を書けば書くほど穴がどんどん深くなってネコちゃん救出に時間がかかってしまう構造なんですね^-^

wanda002wanda002 2011/09/18 12:44 「コミックであれば書籍という物理的な媒体の制限により生まれた見開きとかコマ割とかの概念をいったん捨ててもいいんじゃないか、そうしたときに考えられる表現方法というのはなにがあるのだろうか?」

この部分を読んで、インターネットブラウザー独自の表現方法としてある「スクロール描写」を思い出しました。「スクロール描写」は、WEBコミックで使われる表現方法です。一枚の縦長の画像を上や下から読者にスクロールさせることで、スクロール中の画像の変化を読者に見せます。

WEB漫画『THE PENISMAN』(http://kyoharasoto.web.fc2.com/index2.html)にある8枚目の画像(下のリンク)や
http://kyoharasoto.web.fc2.com/23.html

WEB漫画『妄想少年』(http://sasanohaan.web.fc2.com/mousou/frame-m.html)のこのページ(下のリンク)の表現がスクロール描写の例です(どちらも、クライマックスでの描写なのでネタバレに注意)。
http://atelier-panda.com/mousou/mousou17-2.html#17-2

スクロール描写は、ブラウザー独自の表現方法として私が面白いと思っているものです。
ただ、出版社がFlashを使ってWEBマンガを見せる場合(「ガンガンオンライン」など)は、こういう表現方法が制限されている場合が多いです。

2011-08-19 理系だけど「リトルピープルの時代」を批判してみた このエントリーを含むブックマーク

前回の続きだ。最後に書いたようにぼくが宇野常寛氏(以下敬称略)の新作「リトルピープルの時代」での疑問点は3つある。


(1) グローバル資本主義というシステムと小さなビッグブラザーである個人が一体になって新しい”壁”をつくっていると主張しているように本書は読み取れるが、その両者を区別せずにリトルピープルという言葉で扱うのは、本書の議論上では妥当とは思えない。


(2) (1)による混乱からの帰結として、拡張現実が新しい”壁”への対抗法という結論になってしまっているとぼくは考える。これはシステムが生み出す現実からの逃避をたんにいいかえているだけではないか?


(3) 本筋ではないと思うが、村上春樹への批判は想像力の欠如ではなく、倫理的にやってほしいという、これはぼくの個人的な希望である。


(1)についてだが、宇野常寛はだれしもが小さなビッグブラザー=リトルピープルとなるのが現代だといいつつ、しばしば”壁”としてのシステム自体に対してもリトルピープルという呼称を用いているようだ。どうもリトルピープルとは小さなビッグブラザーであるだけではリトルピープルではなく、グローバル資本主義つまり貨幣情報ネットワークに”つながっている状態でいる”小さなビッグブラザーというニュアンスを宇野常寛は強調したいようだ。つまりリトルピープルは個人でもありシステムでもある。これは序章で壁とは個人の外側ではなく内側に存在するものだと述べられていることからも、リトルピープルの両義的な定義意図的だろう。


確かに、現在人間は貨幣と情報のネットワークにつながらずに生きることはほとんど不可能だ。また、貨幣と情報のネットワークも究極的にはひとりひとりの人間の関わりを素子とした集合体として成立していることも事実だ。だから、リトルピープルの時代の”壁”は外部の敵としては描けない。ぼくら自身が”壁”なんだ。ざっくりいうとそういう理屈を主張しているように見えるが、ぼくはやはり個人と敵にもなりうる”壁”とは、たとえ、個人がその”壁”の一部であったとしても分けて考えないとおかしなことになると思う。


考えてもほしいが、個人対その個人自身も含まれる集合という構造自体は人類歴史が始まって以来の個人と社会の関係とそのまま同じ話だ。そして宇野氏のいうリトルピープルの時代とは、社会が非人間的なシステムから構成されて目に見えにくくなっているわけだから、個人と社会との関係で考えればこれほど個人と社会を別物とあつかうほうがふさわしい時代はない。そこであえていっしょくたに議論しようとするからいろいろとややこしいことになるのではないか。ビッグブラザー=国家に変わる悪の象徴としてシステムを持ってきた場合に、システムから必然的に生み出されるものもシステムの一部だというのは正論のようにみえるが、よくよく考えると論理が主客転倒してはいないか?


宇野常寛の定義するリトルピープルとはいったいなんなのか?たんなるちいさなビッグブラザーだというならあまり矛盾はおこらないが主張としてはすでにだれもがこれまでもいっている陳腐なものだ。現代の価値観はほんと多様化してますよね、のひとことですむ。やはり宇野常寛のリトルピープルというのは小さなビッグブラザーが社会にはりめぐらされたシステムの影響下にあるという特徴を重要視して、それがリトルピープルという定義にもシステムがふくまれているんだという意味をこめたいのであろう。そうであるから、リトルピープルの時代にシステムが必然的に生み出した悪として、9.11やオウム真理教地下鉄サリン事件がでてくるのだ。宇野氏の世界観ではシステムが生み出す悪と戦うリトルピープルの時代とはシステムの先兵みたいなリトルピープルと戦えばいいということになる。じゃあ、それだと世界的な金融危機環境問題とかはどう説明するのか?システムもリトルピープルに含まれるという定義だからどっちもシステムの悪ということで問題ないという解釈なのかな?いや、でも、それじゃ定義が広すぎるだろう。やっぱりこのふたつは全然性質の違う別の問題として区別して扱うべきものだ。


ちなみに、ぼくの見解では9.11やオウム真理教の原因は、ビッグブラザーでもリトルピープルでもどっちでもいいが、とどのつまりは人間が起こした事件である。人格を持たないシステムが起こした事件ではない。リトルピープルの時代はむしろ個々の人間はもちろんこと、大きな物語を用いてすら、もはや人間には全体のシステムをコントロールすることが難しくなってきた時代だと考えるべきだと思う。システムが人間の手を離れて自律的に進化しはじめている時代なのだ。9.11やオウム真理教は倫理的な是非はひとまずおいといて、歴史の主導権をシステムに奪われはじめた人間側からの必死の抵抗だと位置づけてもいいぐらいだと思う。


(2)であるが、上の議論ともつながるが、自分のまわりだけを見つめて、そこの世界を豊かにしていくというのを、壁へ対抗する想像力と位置づけるのはいろいろ矛盾しているんじゃないかということだ。それってたんに現実を受け入れてあきらめているだけじゃないか?ようするにシステムの存在については受け入れて抵抗しない。そして自分もシステムのパーツであるとしてシステムにコミットするわけだ。しかし、それを宇野氏は壁への抵抗をあきらめたこととはみなしていない。上述したようにシステムとリトルピープルは一体であるとみなしているので、他のリトルピープルとの干渉の中で壁へは抵抗できるということにしているからだが、これは欺瞞ではないか?


思うに社会を支配するシステムを自分には関係ないとものと、とりあえずおいといて自分のまわりだけしか認識しない生き方というのはなにもリトルピープルの時代と名付けなくても日本ではむしろ江戸時代からつづく本来の生き方ではないかと思う。ようするに「お上」という概念ってそういうことではないのかと思う。「お上」は別世界と認識して日々の日常を生きることに集中する。それだったら、まさしくただの本書で村上春樹がいうところのデタッチメントとしての態度だ。その日常を仮想現実化して充実させる方向へつきつめれば、お上へ対抗したことにはたしてなるのか?お上はお上、うちらはうちらで楽しくやる。楽しんだが勝ち。主張したいのはそういうことなのか?


(3)は、上のふたつにくらべればどうでもいい話だが、絶対的な正義のない世の中において、主人公がデタッチントなんだかニヒリズムなんだかを貫きながらも、それでも正義にコミットメントする方法模索した村上春樹の試みについて宇野氏は責任転嫁モデルと評している。夢の中で殺した相手を、ヒロインが現実でかわりに手を汚して殺してくれるというプロットってなんなんだと、ぼくも思ったから、とても妥当な命名だと思う。ついでに倫理的な批判ではないと何度も宇野氏は主張しているのだが、村上春樹はナルシスズムに溢れた主人公になぜかヒロインが勝手に惚れてくれて無条件の承認を与えてくれるという設定を多用することに関して、レイプファンタジー構造というどうみても倫理的に批判しているとしか思えない名前で呼んでいる。また、ライトノベルとかにもよくある構造だということも同時に指摘している。


なににもかかわらず、倫理的な問題で批判するのになんの意味があるのか、そんなことよりも想像力が足らないことのほうが問題なのである、として批判しているんだが、いや、むしろそこは倫理的に批判しろよと思った。だって自分勝手な主人公がなにもしていないのに、なぜか女の子がよってきてやさしいやさしいとかいって誉めるって、ようするにライトノベルとか深夜アニメに多用されている設定の原形を村上春樹は何十年も前からやっていたってことじゃん。


村上春樹・・・おまえか、そもそもの元凶は・・・、とぼくは思った。(タグ:おまわりさんこっちです)


あんなひどい設定をよく堂々とみんな使うなと思っていたが、広義の純文学ジャンルにも分類されている大ベストセラー作家がつかっているんじゃ、しょうがない。みんな真似するわ。そして、なにもしなくても勝手に女の子がよってくるんだから、レイプファンタジーというよりは和姦ファンタジーとでも呼んで非難したほうが適切なんじゃないかと思った。まあ、これは本筋とは関係ないどうでもいい文句だ。本書中にも引用されていたが、実はぼくがしらないだけでいままで、いろんなひとがさんざん指摘してきたことなんだろう。きっと。でも、とりあえずぼくはしらなかったので、村上春樹がライトノベルや深夜アニメに与えた悪影響というのは相当あるんじゃないかと思ったし、そのあたりのことをもっと知りたいと思った。




最後にぼくが主張したいことを書くと、非人格的に自律進化をつづけるシステム、とりあえずは貨幣と情報のネットワークとしてのグローバル資本主義ということにして、それとどう人間が向き合うべきかというのが、リトルピープルの時代の人類のテーマなんだと思う。そこでは、自律進化するシステムが今後どういうふうになっていき人間にどういう影響を及ぼすかを研究し分析することが学問の本筋じゃないかと思う。人間の文化が現在の環境でどうなるっているかの分析ぐらいなら、まだ成立するかもしれないが、それだったら分析にとどまるべきで、その結果を肯定して、これから人間の生きる道の指針はこれだという結論にもっていくのは根本的に間違っていると思う。


それよりもぼくがこの本を読んで気になったのは、人間が貨幣と情報のネットワークとの直接対峙を避けて拡張現実のほうへいったとしてその舞台となるネットとは、いまいちばん自律進化したシステムが大量発生している現場だ。今後の人間社会にしろ文化を論じるときシステムやネットをブラックボックスではなく、きちんと理解して議論することが圧倒的にいまの日本に足らないのではないかと僕は思う


そしてもうひとつだけいおう。この本が3.11の震災後の最初の言論の書であるとするのであれば、3.11とは社会を支配する非人格的なシステムが突然崩壊することもありうるということを示したイベントであると定義できると思う。宇野氏がビックブラザー解体時の80年代後半からブームとなったと指摘した世界終末後を描いたファンタジーの物語が現実味をおびはじめたということだ。システム自体の崩壊の危機をうっすらとでもひとびとが予感しはじめた震災後のひとびとの想像力の結論が仮想現実への逃避ということで本当でいいのか、と思うのだ。

noborinnnnoborinnn 2011/08/19 19:25 人間の生体組織とシステムのネットワークというのが同列で人間の行為自体もシステムと同化反復できるみたいなことでは

truehirotruehiro 2011/08/19 21:43 抽象的な思考・議論が苦手である・慣れていない、
あるいはそもそもその有用性を認めていない。
こういったタイプの人間が、人文系の本に対する
反応・批判は概ねパターン化されて
1)そもそも抽象的すぎて理解できない
2)昔からいわれてたよね系
3)書かれるまでもなく知ってたし系
4)それってなんか実際に役に立つの?系
5)途中で投げて寝る
6)そもそも読んでいない
と様々なバリーションがある。
4)と関連して、それってなんか意味あるの?
とでもいおうものなら、著者からじゃあお前
はなんか意味あんのかよとキレられること請け合い
であるw。とまぁ前置きはこれくらいにして
本稿の批判には、宇野常寛もいささか閉口したかと
思う。ちゃんと読んでくれたのかよっと。
誤読の権利は常に読者にあり、その本を読んで
どういった感想を持とうが、無論その人の勝手
自由であるし、
何人も誤読してはならないという法はない。
むしろ誤読することで、新しい着想が生まれること
も多分にあるのだ。理系的な言葉でいえば
セレンディピディと似たようなもんかw
そもそも多くの人文系の本がわかりにくく書かれている
のは自明のことだが、これはある種確信犯的な所がある
なぜといって、ジャックラカンという
20世紀で最も頭のよかった人がぶっちゃけている
からである。有難みが増すようにあえて難しく
書いているんだとww。ここで多くの人がまじ
性格悪っと思うかもしれない。
しかしよく考えてみれば
人が何年もかけて考えたものを数時間程度で理解
できるはずというそのスタンスは非常に浅ましいのでは
ないかと個人的には思う。
と話が脱線しすぎてしまったわけだが、
川上さんにいいたいことはひとつで、
読んで速攻役立つとか、具体的な解決策を
この種の本に求めるなよwということである。

(本文まま)
そこでは、自律進化するシステムが今後どういうふうになっていき人間にどういう影響を及ぼすかを研究し分析することが学問の本筋じゃないかと思う。人間の文化が現在の環境でどうなるっているかの分析ぐらいなら、まだ成立するかもしれないが、それだったら分析にとどまるべきで、その結果を肯定して、これから人間の生きる道の指針はこれだという結論にもっていくのは根本的に間違っていると思う。
>といっているが、根本的に間違っているのはむしろ
川上さんのほうで、批評はそもそも学問ではない。
批評は常に冷静な観察であるとともに
情熱ある創造だ。だからある種の独断というもの
を必要とする。理系からみれば、思考の飛躍も
多々あるだろう。しかし、そういうものがなければ
表現できないものもこの世にはあるのだということを
わかって欲しい(いや別にわからなくてもいいけどw)
もし学問的な意味で、システムの統合と社会の統合
が連動しなくなっている過程とその影響を知りたければ
ハーバーマスの『公共性の構造転換』を読むことを
おすすめする。

村上春樹がライトノベルや深夜アニメに与えた悪影響というのは相当あるんじゃないかと思ったし、そのあたりのことをもっと知りたいと思った
>このあたりについては、東浩紀 村上春樹で
ぐぐれば、解説したものがみれると思う。

今後の人間社会にしろ文化を論じるときシステムやネットをブラックボックスではなく、きちんと理解して議論することが圧倒的にいまの日本に足らないのではないかと僕は思う。
>これについてはその通りだろうと思った。

いいたいことは山ほどあるが、具体的な反論は
著者自身に譲ることにしよう。
長文失礼しました。

jyrmsjyrms 2011/08/24 22:46 理系も文系の本を読みなさいとうことについてひとつ。
文系の論評の多くはほとんど、過去に誰かが唱えた論のやき回しです。
完全に論者のオリジナルであってもたいてい過去の書物を当たれば同じ事を書いている人がいる。
文系の本を読むなら、そういう意味で、現代の日本人の本を読むよりは、古典を読んだほうがいい。

わたしは理系の必須科目が数学なら、文系の必須科目は歴史だと思っている。
文系学問の論理は、たいてい歴史的理由をその根拠にもつからだ。

中でも理系にとっつきやすいのは産業革命前後だと思う。
この時期に多くの科学的発明と発見が立て続けにおこなわれている。
1800年代後半はとくにすさまじい。
細菌がやっと学問の対象になりワクチンの原理が発見されたのものこのころだし、
ノーベルがダイナマイトを作ったのも、エジソンが電球をつくったのも、フォードが自動車を開発し、電話が発明され、100年以上続く産業や会社や製品が産まれた頃だ。
放射線というものが発見され、相対性原理ができたのも少しずれるがこのころだ。
大きな発明、発見がなされた年代を記入した年表を見るとおもしろい。紀元前後から1700年くらいまではポツポツとしか記述がない。
基礎的な数学と物理の理論(ニュートン前後)の発見のあと、産業革命前後になると、爆発的に発明発見の数がふえる。
それはなぜなのだろうかという疑問には多くの仮説があるのだが、それを自分なりに考えるのがおもしろい。
私は宗教と絶対権力の弱体化とそれに伴う、言論統制の緩みと、宗教時代のエリートコースで、天才の才能のブラックホール的性質をもっていた神学の魅力の低下にも要因はあったとおもっている。
アインシュタイン級の科学者がみな神学に没頭して、聖書の解釈の研究に人生を捧げていたとおもうとぞっとするが実際そういう時代だった。
ニュートンも神学という答えのない学問にのめりこんだ人間のひとりだ。

このころ大きな偉業をのこした理系偉人の伝記を見ると面白い。
変人タイプでなく、意外と優等生タイプも多いものだ。ただ、そういうひとたちはほとんど、基地外じみた研究熱をもっている。
そして当然、研究対象と結果は、人より早いが時代の先を行き過ぎていなかったという点だ。

現代の日本人の軽い論評をよむよりは、もっといい発見をえられるd読書対象があるだろうという話でした。

makubemakube 2011/08/25 00:56 jyrms様へ
×「焼き回し」
○「焼き直し」

「使い回し」と混同されているんですかね?

2011-08-18 理系でも分かる!宇野常寛氏の新刊を読んでみた このエントリーを含むブックマーク

最近理系も人文系の本を読もう運動提唱している僕ですが、とはいっても自分自身もここ数年で大塚英志氏と東浩紀氏の本の何冊かをちょっと読んだというぐらいだから、語る資格は本来ない。


とはいえ似た境遇にある理系的な人間の人文書アレルギーを多少は解消する助けになることは書けるかもしれないと思い、最近、話題になっているらしい宇野常寛氏(以下敬称略)の新刊「リトル・ピープルの時代」の感想などを理系人間的に試みてみたい。


最初に断っておくが、この本は数年前の僕だと読めなかった類のものだ。しかし、慣れたのか、いまはなんとなく内容が理解できる気がする。実はこの本は献本されたらしく、ある朝、ひさしぶりに会社に来たら机の上に置いてあった。筆者なのか出版社なのかわからないが、僕なんかに読ませてどうしようというのか。だいたい、貰わなくても自分で買うつもりだったから売上げを一冊減らしていることになる。申し訳ないから裁断用にもう一冊買うことにしよう。


さて、内容を紹介する前に著者の宇野常寛とはどういうひとか知っておいたほうがいいだろうから、ぼくの断片的な知識で説明する。宇野常寛は批評家で年齢は32歳と若い。どれくらい若いかというと、日本の若手批評家の代表格である東浩紀が40歳だから、それよりも若い世代の批評家だということになる。彼の以前の作品は読んだことはないのだが、ぼくでも名前だけ知っている代表作はAZM48という東浩紀周辺の人間が総出演するらしいパロディ小説だ。ネーミングを聞いただけでも内輪受けしかしなさそうな悪ふざけだが、東浩紀本人も出演するショートムービー制作されたから、東浩紀も喜んでやっているのかと思いきや、これが原因で宇野常寛は東浩紀の怒りを買い破門されたらしい。


・・・理系人間はこんなどうでもいいエピソードを聞かされると、もはや、真面目に彼の論考など読みたくなくなるかもしれないが、まあまあまあ、理系の天才のほうがよっぽどキチガイ度が高いひとが多いことを思いだそう。この一見くだらなそうなエピソードも彼の天才性を暗示するものかもしれない。


■ この本のテーマ


とりあえずは著者の素性も完全に理解できたところで、この本のテーマというのをひとことで僕がいいきってみせよう。それは、


ぼくらの前にたちはだかる新しい”壁”への”想像力”をどう持つべきか」


ということだ。


理系にはちょっと抽象的すぎる?この文はこの本中の表現をできるだけ使いながらぼくが書いたものだ。人文系の評論はすぐに一般名詞専門用語化する傾向がある。しかも、その本だけでしか通用しない専門用語をすぐにつくっちゃうのだ。”壁_temp”とか、”想像力_temp”とかいう名前にしてくれればわかりやすいのだが、我慢して慣れてみよう。"壁"と"想像力"とはそれぞれどういう意味で使っている言葉だろうか?


まず”壁”について説明しようか。


”壁”とはぼくらの運命をぼくらの意志と関係なく決定してしまう力を持つ巨大な存在を象徴した言葉だ。昔だったら、そういう”壁”の典型は日本という国家だったりした。現在では国家よりも上位の存在としてグローバル資本主義というものができていて、それが国家に変わる新しい”壁”になっている、というふうにまずは理解してもらえばいいだろう。


次に”想像力”であるが、まあ文字通り想像力という意味だ。とにかく宇野常寛といえば”想像力”であり、”想像力”とかもってまわったいいかたをしていれば宇野常寛だととりあえず思っておけばいい。宇野常寛にとって想像力を持つというのはすごく大事なテーマで、ようするにいろいろな世の中の新しい概念にたいしてきちんと適切なイメージを持ちましょうということだとぐらいに解釈しよう。つまり、この場合は「”壁”というものをどうイメージすればいいのか?」というだけの意味だ。


さて、では”壁”というものは、どうイメージすればいいと宇野常寛はいっているのだろう?まずは簡単な昔の”壁”について説明しよう。昔の”壁”とは国家とかのことだった。ジョージ・オーウェルの有名な小説”1984”では独裁国家を”ビッグブラザー”として擬人化して扱っていた。そう昔のタイプの”壁”の大きな特徴は擬人化できることだ。ちなみに1984にちなんで宇野常寛はそういう擬人化できる旧来型の”壁”を”ビッグブラザー”と呼んでいる。


ここで擬人化できるということはどういうことかを考えてみたい。擬人化できるということはみんなで共通のイメージを共有できる、しやすいということだ。たとえば日本という国を擬人化して考えた場合に日本さんという疑似人格がなにを目指していたり、なにを正義だと思っているかということを、国民が共有することができるということだ。この共有されるイメージのことを共同幻想と呼んだり”大きな物語”と呼んだりする。大きな物語というのは詩的な表現に見えるが、これも専門用語だ。これはあちこちで使われる汎用の専門用語なので、覚えておいても損はない。


そして一方では擬人化できない”壁”も存在する。というか、近年はそっちの”壁”が主流だというのである。擬人化できない壁とはグローバル資本主義とか呼ばれる貨幣情報ネットワークのようなものだ。国家なんかとちがって、こういうシステムはぼくらをとりまく環境のようなもので、深く世界中にはりめぐらされている。それを敵だと思おうとしても、自分自身も貨幣と情報のネットワークの一部になっているから、自分の内部に敵がいるようなものでとらえどころがない。こういう非人間的で無機質なシステムが新しい”壁”となって、従来の人格をもつと仮定できた国家とかの上位構造になっているというのだ。


ここで理系のオタクは、グローバル資本主義だろうが、なんだろうが、世の中のあらゆるものは萌えキャラに擬人化可能であるという独特の理論をふりかざして異をとなえるかもしれないが、議論がまったく進まなくなるので無視をすることにする。


で、だいぶ時間がかかったが、そろそろ宇野常寛のこの本で書こうとした目標がなんとなくわかってきたはずだ。


簡単に超訳すると、昔だったら例えば、擬人化した日本という国を敵ビッグブラザーであると決めつけて、学生運動したりしてそれと戦えばよかったが、現代の敵はいったいなんなのかはっきりしない。この世の中はどういうふうに構造になっていて敵はどんなものだと想像すればいいのか、わかりやすいモデルを私が提示してあげましょう、というのが、宇野常寛のこの本でのテーマなのである。


筆者がなにを書こうとしたかの説明だけでめちゃくちゃ長くなってしまった。こんな調子で、この本のあらすじを説明するのにどれだけかかるか不安になったひともいるかもしれないが、安心されたい。理系の人間にとって人文系の本を読もうとした場合に、一番、たいへんで苦痛なのは、この作者はなにをいいたいのかを理解するところまでのハードルだ。一番、たいへんな部分はもう終わったのである。目的と用語のいくつかさえ把握すれば、いっていることはさほど難しくない。理系の論理的な能力があれば十分以上に理解できるはずだ。次はどのようにして宇野常寛がそのテーマを実現しようとしたかについて説明する。


■ テーマの実現方法


宇野常寛が本書で提唱したのは、「リトルピープル」という新しい概念である。リトルピープルはさっき紹介したオーウェルの有名な小説1984にでてくる敵であるビッグブラザーをもじったものであるというのはみればわかると思う。なんか、ベンサムの有名な「最大多数の最大幸福」に対して「最小不幸社会」という概念を提唱した菅総理を思い出して、だいじょうぶか宇野常寛と心配になるところだが、このことばをつくったのは実は宇野常寛ではない。村上春樹だ。


じつは上述の新しい”壁”との対決が必要だみたいテーマをいったのは村上春樹で、宇野常寛は村上春樹は失敗したみたいだから、かわりに僕が説明してあげましょう、というのがこの本の書かれ方なのだ。リトルピープルは村上春樹の最新作1Q84に登場する悪い敵の名前だ。1Q84は、もちろんオーウェルの1984の題名をもじったタイトルで、村上春樹はそこでビッグブラザーに変わる新しい現代の敵はこんなやつだーというぐらいの気持ちでリトルピープルというのをつくったのだろう。宇野常寛はそのリトルピープルという名前を借りて、いやいや村上春樹さん、あなたの書いているリトルピープルのイメージは間違っています。それはこんなやつのはずではありませんか?ということで本書「リトルピープルの時代」というのを書いたのだ。


宇野常寛が主張するよりリトルピープル的なリトルピープルとは仮面ライダーである。また、ビッグブラザーとはウルトラマンのことだとついでにいう。このあたりの比喩例証はかなり面白く説得力もあるのでぜひ本書の第2章を読んで欲しい。ここでは宇野常寛が構築しようとしたビッグブラザー vs.リトルピープルの世界観だけ紹介しよう。


まず、宇野常寛が提唱する時代区分について説明すると、1968年以前の日本を「ビッグブラザーの時代」と定義し、1968年から1995年までを「ビッグブラザーの解体期」、1995年から現在にいたるまでを「リトルピープルの時代」と位置づけている。ビッグブラザーの時代とは人々が「大きな物語」を信じていた時代だ。この場合は日本とか言う国家だったり、共産主義とか資本主義とかいうイデオロギーだったりを指すと思えばいい。ビッグブラザーの時代とは、国民の多くが日本という国のことを自分の問題であるかのように感情移入していた時代であり、また、学生運動のように、理想社会や正義があると信じて行動していた個人がたくさんいた時代だというような理解でいいだろう。ビッグブラザーの解体期とはひとびとがそういう共通の正義に失望し、信じられなくなった時代だ。そしてリトルピープルの時代とは個人のひとりひとりが小さなビッグブラザー=リトルピープルとなってお互いに干渉し合う時代だと考えようというのが宇野常寛の提案だ。


そして村上春樹氏の40年間の著作とウルトラマン、仮面ライダーの40年間を重ねてふりかえりながらこれらの時代を考察するというスタイルをこの本はとっている。だいたい1968年ぐらいからビッグブラザーの解体期がはじまったのだろうと仮定しているのだが、そこでなにがおこったかというと、「大きな物語」が虚構の世界への逃避したということを指摘している。現実の世界にある国家や正義とかいうのが信じられなくなったひとびとは虚構の世界にそれを求めたという。だからガンダムなどに代表される架空の世界で架空のひとびとが国家や正義のために戦う物語をひとびとは支持した。そしてその架空の世界の「大きな物語」すら信じられなくなったのが「リトルピープルの時代」だというのだ。転換期の事件としては1995年のオウム真理教地下鉄サリン事件をあげている。これは虚構の世界で生き延びてきた「大きな物語」が、現実に(悪い形で)飛び出してきたものだと考えられるからだ。もはや虚構の世界ですら「大きな物語」を信じられなくなり、「リトルピープルの時代」がはじまったのだという。そしてリトルピープルの時代を象徴する事件としては、9.11テロ事件とそれに続く米国イラク戦争を挙げて、世の中に絶対の正義などなく複数の正義があって争っているのがいまの時代なのだというのが、宇野常寛がリトルピープルという概念を用いて説明しようとした世界観だ。


ここで宇野常寛のリトルピープルという概念がどういうものなのか、もうすこし説明しよう。宇野常寛のいうリトルピープルはたんにビッグブラザーが小さく個人レベルまでたくさんに分裂しただけというようなものともちょっと違うようだ。リトルピープルは新しい”壁”の象徴でもあるということは、グローバル資本主義=貨幣と情報のネットワークをその中に含まれている。つまりちいさなビッグブラザー的なリトルピープルというのは貨幣と情報のネットワークにつながっていて、さらにはそのネットワークの一部分でもあるという意味まで含んでいる。宇野常寛のいうリトルピープルはその一部分であるちいさなビッグブラザーである個人を指すこともあれば、”壁”そのものをさすこともあるのはそういう理解でないと説明がつかない。リトルピープルは個人でありながらシステムの一部であるという両方の状態をあわせもった意味として使われている。ちょっとややこしいが、量子力学みたいなもんなのかなと思えば理解は可能だろう。


■ 宇野常寛の結論


さて、これで、ほとんど、この本のだいたいの枠組みは説明した。これらを前提として、結局、宇野常寛はなにを主張しているのだろか?おおきく3つあるだろう。


ひとつは村上春樹論についてだ。宇野常寛は村上春樹がかくも大勢のひとに支持され、とりわけ海外でも評価が高い根源的な理由をビッグブラザーの解体期において、すでにリトルピープルの時代を先取りした想像力でもって小説を書いていたことをあげている。そしてその先進的な想像力はいまや時代においつかれてしまったということを主張している。これが第1章だ。

もうひとつは仮面ライダーが村上春樹が到達できなかった想像力を発揮していると具体例をあげて論証している。これは第2章になる。

そして第3章の結論として、リトルピープルの時代とは人間の内面を深くほりさげていくのが”壁”と対決していくための方向であり、そのためには虚構の世界を現実の世界とは別につくるのではなく、虚構の世界を現実の世界に重ねて現実の世界を豊かにしていく拡張現実にこそ未来があり、現にそうなりつつあるとしている。(拡張現実の例としてはネットによる2次創作アニメ舞台土地への聖地巡礼などの現象をあげているが、詳しくは本書を読んでほしい)


・・・・・・・・


さて、以上でぼくの理解した「リトルピープルの時代」の概要の説明を終わる。理系の人間や、自称頭の良くない永井美智子女史でも理解できるようにだいぶかみくだいたつもりだが、どうだろうか?興味をもっていただければ幸いだ。


さて、長くなったのでいったんここまで終わることにする。

次回はこの本で僕が思った疑問点を書こうと思う。疑問点はつぎの3つだ。


(1) グローバル資本主義というシステムと小さなビッグブラザーである個人が一体になって新しい”壁”をつくっていると主張しているように本書は読み取れるが、その両者を区別せずにリトルピープルという言葉で扱うのは、本書の議論上では妥当とは思えない。


(2) (1)による混乱からの帰結として、拡張現実が新しい”壁”への対抗法という結論になってしまっているとぼくは考える。これはシステムが生み出す現実からの逃避をたんにいいかえているだけではないか?


(3) 本筋ではないと思うが、村上春樹への批判は想像力の欠如ではなく、倫理的にやってほしいという、これはぼくの個人的な希望である。


以上


(次回へつづく)

truehirotruehiro 2011/08/18 19:52 理系で、これ最後まで読んだひと
どれくらいいるんだろうww

shige111shige111 2011/08/18 21:08 宇野さんちょっと思い込み激しそう

2011-08-14 いま大学生だったら、どういう人生を選ぶか? このエントリーを含むブックマーク

人間とは悲しいもの自分こそが人生で困難な状況に置かれているひとほど親身に他人の世話をしたりするものだ。遠く日本を離れた異国の地で自分の婚活をどうしようと思い悩みながらネットサーフィンしていたら、自分の悩みより就活どうしようと苦悩する日本の若者の人生に横から口を挟んで茶々いれることのほうが重要な気がしてきた。崇高な自己犠牲精神がふつふつと沸き起こってきたのだ。


というわけで、自分がいま就活をしている、あるいは数年後就活をしなければならないとしたら、どうするかというのを考えてみた。しかし、いまの就活はぼくの頃よりもずいぶんと難しい。なにを基準に考えていいかがはっきりしないのだ。大企業にいってもつぶれそうな気がするし、ベンチャーはベンチャーで信用ならないし、唯一の安全パイに見える公務員すら、国も地方財政破綻目前なのだから、どうなるかまったく安心ならない。ようするに日本全体がいまやばいかんじなので、どこいってもやばさから逃れられる気がしないというのが、現実なのだ。うわーどこにいけば安心かまったくアドバイスできないわ、俺が就活してたとしてもまったく読めねえ。しいて一番安全そうな職業を考えると百姓か、漁師なんじゃないかなあ。


いや、まったく安全な就職なんてほぼ見当たらないわ。就職はただの1ステップだという前提に人生をいろいろ考えたほうがよさそうだ。なので、もっと抽象的で、就活生にとっては一般的な命題をいくつか考えてみよう。


・ (選べるひとの場合)大企業とベンチャーはどちらがいいか?


まあ、一般的には大企業だろうがベンチャーだろうが会社によるよという答えなんだろうし、それはある程度正しい。が、もし、ぼくだったら、大企業は選択肢にははいらないように思う。それはなんだかんだいってやっぱり大企業には優秀な学生がいくからだ。歴史をみても学生の就職人気企業ランキング上位はつねにそのあと衰退しているので、学生の企業を見る目のなさは統計的にも明らかだ。競争率が高いわりには将来性も期待できないところを選ぶ理由はない。同期も優秀だし、上司も優秀なのが上につっかえている。そこで這い上がっていくのは大変だ。もし、大企業で選ぶとしたら、外資系やちょっとブラック臭のするけれども勢いのある企業、ようするに人材流動性が高い派手目なところだろう。業績はいいんだけど、ひとがたくさんはいってたくさんやめるところだ。

ひるがえってベンチャー企業の場合はどうか?ベンチャーの場合はそもそも人材の流動性が高い。2年ぐらいで全社員がいれかわるところもざらだ。にもかかわらずベンチャーはベンチャーで選ぶのが難しい。ほとんどがクソ企業だからだ。正解よりも地雷のほうが多いクジをひくことになる。やっぱり将来性ありそうな業種で、ある程度ビジネス成功しているところを選ぶという大企業指向の強い人間の発想みたいな選択になってしまう。

なんか、会社の選び方については歯切れの悪いアドバイスになるのだが、要するにぼくもそれほどは正しく判断できる気がしないというのが結論だ。つまり会社の選び方はそれほど重要ではないというか失敗する可能性が高い。だったら就職先選びはどうせ失敗すると決めつけておいて、そのつぎに転職しやすいかどうかを優先して考えた方がいい。そうなると、会社を辞めたあと自分に残るものを最大化するのが正しいだろう。なにが自分に残るのか?人脈とキャリア能力の3つだ。ちなみに転職時の優先度もこの順番になる。能力を高めることが一番大事な基本じゃないかと思うひとがいるだろうが、能力は他人に認められてはじめて発揮するチャンスが与えられる。能力なんてあってあたりまえ。むしろ能力の多少の優劣よりも人脈とかキャリアが転職のときには優先される。で、キャリアのほうだが、これが、XX社でどういう仕事をしていたか、という事実だけしかどうせ評価の対象にならなくて、中身は判断されない。だから、結局は人脈が転職の運命を決めるもっとも重要な要素になる。

転職の王道は紹介なのだ。そういう手段のない人間が中途採用に応募したり、人材紹介会社に登録するということだ。キャリアと能力は自分の持つ人脈に評価してもらうための手段として大事なのだ。そして自分の人脈なんて最初は就職した会社でつくるしかないのだから、最初の転職先は同僚や先輩の転職先ということになる。人材の流動性が高い会社で就職したほうがいいというのはそういう意味だ。

だから大企業かベンチャーかを問わず入社してすぐにある程度の仕事をさせてもらえる会社で、ひとの入れ替わりは多い会社というのが、最初の就職の際の基本じゃないかと思う。

ただ、ぼくだったらどうするかというと、人脈つくるのめんどくさいというか人付き合い苦手で要領悪いから自信ないので、そっちでの勝負はしないかなあ。で、優秀な人間がいそうな人気企業も避ける。すると業界2番手、3番手とか中堅どころで選ぶことになるが、そんな位置でブラックやっている企業なんて、ろくでもないことが多いから、人材の流動性もあまりないぬるい会社を選ぶと思う。そこで仕事のチャンスだけもらってキャリアに関しては抜きんでた実績を上げるという難しい道に挑戦するというかんじかなあ。


・ (選べるひとの場合)いい待遇とやりたい仕事とどちらを大事にすべきか?


この問題は仕事とプライベートとどちらが大事かという問題につながる。ところが金銭面に関しては金を稼ぐための出世コースを選んだとするとプライベートのための金銭を選ぶためにプライベートを犠牲にするという矛盾が発生する。かといってプライベートを優先して出世をあきらめてもリストラの対象になって職を失えば結局はプライベートも崩壊してしまう。ぼくはやはりプライベートと仕事はできるだけ一致させる方が結局は幸せになれるんじゃないかと思う。そうすると、できるならやりたい仕事、いまは好きでなくても好きになれそうな仕事を選んで、一生懸命に自分の仕事を好きになったほうがいいと思う。表面的な待遇はそれほど重要じゃない。どうせ待遇なんて変わる。勝負はあと30年か40年続くのだ。自分の人生を長期的にどういう環境で仕事できるかのほうが大事だ。そして仕事の環境というのは与えられるものではなくつくるものだと思う。一番いい仕事人生とは、自分の力量と立場をみきわめ、どこまできちんと働かずに好きなことをやれるかというゲームにしてしまうことだと思う。そのためには時々はやっぱりちゃんと働いて結果を出す時期も必要だけれども、基本は仕事で自分が楽しいと思えることをやるのが一番充実した人生をおくれると思う。なんだかんだいって寝る以外の人生のほとんどの時間は仕事をしているのだ。


・ (選べないひとの場合)そもそも選べる選択肢がねえよ。バカ。


これは本当にそうだと思う。本当に難しい問題だ。学歴もなにか特別な資格ももってなくて就職できる先なんてほんとうに少ない。だれでも採用してくれる仕事というと、ほとんどノルマがきついか歩合制の営業職になる。販売するのも怪しい商品とかが多くて、飛び込み営業やリスト無差別電話をかけていっては、迷惑がられたり怒られる毎日普通価値観をもっていたら、すぐに精神がおかしくなってしまうような仕事だ。それだったらフリーターやっているほうがましだとはきっと僕が同じ立場でも思うだろう。30歳とか40歳になってもフリーターやってられるわけないだろといわれても、他に方法がないのだからしょうがない。じゃあ、30歳になるまでフリーターしながら趣味世界にひきこもって、そういう生活すら駄目になったら自殺するという人生のほうがまだ足掻く人生よりも幸せだという理屈に反論するのはぼくにはできない。有効な代案を思いつけない。

ひとつだけあるとしたらどんな趣味にひきこもるにせよ、ネットはやっておけということだ。これからの時代は世の中に存在するあらゆる世界はネットにつながる。ネットのノウハウをもっている人間は、当分の間は重宝される可能性が常にあるということだ。学歴も職歴もない人間の雇用を吸収できる最大の場所はやっぱりネット周辺だ。ネットであればひきこもる人間のすべては救われなくても一部は救われる可能性がある。たとえ遊んでいるだけのひとですら一部は救われるような時代になると僕は思う


・ どういう勉強をしておくべきか。


若いときに勉強しておいたほうがよかったというひとは多い。だが、まあ、はっきりいって実際に勉強しなかったひとの後悔なんて、勉強しないと後悔したということの証明にはなっても、勉強してたらどうなっていたかについてはどこまで参考になるか疑問だ。ぼくは高校生の時、いままで一切自宅で勉強したことがなく、宿題も絶対に提出しなかったことが内心自慢だった。で、成績なんて勉強すればあがると思っていたのだが、高校3年の秋からはじめて受験勉強というものに着手し、半年間だけ死にものぐらいで勉強したところ、成績はびた1文あがらず、勉強する前の夏休み模試でA判定だった大学以外は合格しなかった。最後の模試でも偏差値は半年前と1すら変わらなかったのだ。

思うにみんなが努力している分野での努力は非常に効率が悪い。競争がはげしすぎる。だれもやってないような分野での努力こそ希少性があって他人に評価されやすい。人間は分からないジャンルで能力を持つ人を高く評価してしまう傾向があるからだ。

だから、文系だったら数学やITを勉強すべきだし、理系だったら本を読むべきだ。経済学とか心理学の勉強もいい。でも、基本はやりたくない勉強なんてしないほうがいいのだ。どうせ身につかない。人生で勝負のネタにできる知識は中途半端な付け焼き刃ではなかなか通用しないものだ。興味があることがないときはどうすればいいか。そのときは環境を利用するしかない。バイトをしてバイトしている仕事のことを勉強するとか、好きな人や自分の友達が興味をもつことを覚えるか、そうでなくばネットの中とかであたらしい人間関係をつくりにいく。人間はつきあっている人間でどうなるかが決まる。自分の所属する人間関係と独立して成長するのは非常に困難なのだ。

ぼくはいま大学にもどったとしてもやはり大学の勉強はこれっぽちもやる気はない。前世と同じく劣等生で上等だ。ただ、興味あること、調べたいことはたくさんあるし、さらに見つけたいと思う。


・ 起業するにはどうすればいいか?


最後に起業という選択肢について考えてみたいと思う。ぼくなら絶対に学生あるいは卒業してすぐに起業しようなんておもわない。だってネタがないんだもの。起業は自己目的におこなってもいい結果なんてでるわけもなくまわりに迷惑をかけるだけだ。

起業はやるべきときがくれば自然決断を迫られるものだと思う。自分から探しにいくものではない。

ただ、将来、起業するチャンスが欲しいなら、就職してやるべきは、なんかのプロジェクトマネージャーだったり新規事業の企画者だろう。こういうタイプの仕事は起業に必要なスキルをほぼすべて身につけられる大チャンスだ。それを会社のお金リスクでできるのだから素晴らしいことこの上ないのだが、なぜか、そういう冒険ふつうサラリーマンはかかわりたがらないというメリットがあるから二重に美味しい。こういう経験を踏んで起業するのと学生でいきなり起業するのとではビジネス自体のスケールが大きく変わってくる。起業するためにはいったん社畜になるのがおすすめだ。雇用される側の気持ちもわかるしね。


以上よくあるテーマについてぼくの考えを書いた。全体的に若い人をみて思うのはプライドの持ち方がバランスがよくないなということだ。若いと身の程知らずで高慢ちきであたりまえで、それの鼻をへしおるのは年取った人間のつとめだと思う。だが、なんか、すでにへしおられたのか小さくまとまっている人間が多いよね。ものわかりが良すぎて、ちょっと卑屈にも見える。それが変なところにプライドがある原因だと思う。小さな世界をつくって自分を守っているのだ。そういえばぼくの婚活を妨げているのもプライドだ。ぼくの中ではこの腹回りをすっきりさせないことに婚活を開始するわけにはいかないという切実なプライドがある。冷静に考えると別にそんなのは無視するか、どうしてもこだわるなら本気でダイエットをやりやがれという結論になるのだが、どうもそうもなかなかいかずに時間だけ過ぎていくというのが人生というものだ。前向きな努力に結びつかないプライドなんて捨てた方がいい。まあ、ということで話がずれたが、無理矢理、締めにはいることにする。


いまの若い人は会社のために働くということに価値観を見いだせないひとが多い。ということは、いまの世の中で希少価値が高いのは社畜だということだ。プライドをもった社畜としてプライベートも含めて仕事に捧げるという生き方が競争相手が少なくていいように思う。なまけるのはみんな頑張っているときがいいのだ。奴隷とちがって社畜はいやならいつでも辞めていい。もしくはサボる社畜になればいいだけなのだから。

high_awardhigh_award 2011/08/15 01:13 ネタに困らないのが純粋にスゴイ。。。

aruhi00aruhi00 2011/08/15 09:57 若い人には、結婚して子供を持つことに、もっと前向きになって欲しいと本気で思ったり。
就活を人生設計の一環だと捉えるなら。

相手がいない?
現実にいなくても、夢のなかにはいつも居させるもんです。

totoronokitotoronoki 2011/08/15 12:33 >小さくまとまっている人間が多い
>ものわかりが良すぎて、ちょっと卑屈にも見える。

確かにそのとおりです。
どうしてこういった傾向なんでしょうね。
やはり社会的な問題が根っこだとは思うんですが。
しばらく思案してみましたが、原因と思われるものがアレコレ出てきてどうにもまとまらず。

tkggk471tkggk471 2011/08/15 15:02 ある種、こういうサイトにものを書く人の特性に偏った文章ですね。
こういう人たちって、自分と自分の周りに居る人が、人類すべてのスタンダードだと勘違いしている。

jyonkosanjyonkosan 2011/08/15 18:07 現代の若者は豊かな環境で育てられ社会に対する野心的な不平不満というものがなく
与えられた課題を与えられた解法でクリアして成功してきたので
「これをやってればいいんでしょ?」
という受動的でスケール小さいのに変なプライドこじらせた感じになっているのだと思います