宇野常寛・中森明夫=対談「危機の時代の批評」

宇野常寛・中森明夫=対談「危機の時代の批評」―『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)刊行を機に
初出:週刊読書人 2011年9月2日号 (クリックで購入可能)

評論家の宇野常寛氏が、『ゼロ年代の想像力』以来3年ぶりに、単著の評論『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)を上梓した。2001年以降の世界を、表題にある「リトル・ピープルの時代」と位置づけ、それ以前の「ビック・ブラザーの時代」と峻別し、現代における想像力について、鋭く考察した注目の書である。村上春樹作品の分析にはじまり、日本のサブカルチャー分析を通して、これからの社会を変革するビジョンを構想する。刊行以来、インターネット上では既に大きな反響を呼んでいるが、宇野氏と、評論家の中森明夫氏に対談をしてもらった。 (「読書人」編集部)

 
「01年以降の想像力」

 中森 宇野さんとは、3年前の夏、『ゼロ年代の想像力』(以下『ゼロ想』と略)が出た時に、青山ブックセンターで公開の対話をしたんですよね。評論の単著としては『リトル・ピープルの時代』が2冊目で、今度の本に3年間を費やした経緯から、お話しいただけますか。 

 宇野 まず2007年の末、『ゼロ想』を連載中に、幻冬舎の穂原俊二さんから、本を書かないかっていう依頼があったんですね。その時は、ニューアカ以降の日本の思想を総括するようなものを、お互い考えていました。でも『ゼロ想』を出版したり、『思想地図』に参加したりする中で、状況総括的なものじゃなくて、もっと射程の長いものを書かなければいけないと、考えが変わってきたんです。『ゼロ想』はバブル崩壊、小泉改革、インターネットとその前の10年で大きく変化した日本社会と文化を、とにかく言葉にして発信することが大事だと思って書いたわけです。けれど『リトル・ピープルの時代』は違う。中心的なテーマをひと言で言えば、世界的に68年から始まるひとつの時代が終わり、まったく新しい時代、新しい「政治と文学」の関係が支配する時代が訪れたということですね。68年から続いていた近代的なものが緩やかに解体していく時代、たとえば「政から性へ」といった言葉で象徴されるような時代は、僕の感覚では21世紀に入った頃、具体的にはグローバル化とネットワーク化で完全に終わったんです。そのことを説得的に、しかも文化批評の言葉で書きたかった。そうすると40年間を貫く素材で、なるべく大きな名前を使わなければいけない。そこで真っ先に村上春樹という作家を思いついたんですね。村上春樹は68年の記憶から出発した作家であり、今でも現役であって、世界文学であると言っていい。ただ本にも書いた通り、村上春樹は、あくまでも68年的な問題意識の中にあって、21世紀的な世界に想像力が追い付いていない。象徴的なのが『1Q84』に登場する現代的な「悪」のイメージがいまだに新左翼やオウム真理教に依拠していることです。どちらも68年以降的な「革命を失った僕たち」という自意識を持て余した若者の自分探しの生む暴力ですね。けれど、9・11が突きつけた21世紀的現実とはグローバル化自体への反作用としての新しい暴力のイメージだと思うんですよ。そこには「革命を失った僕たち」的な自意識の問題とはまったく別のレイヤーで問題が渦巻いている

 ではそんな21世紀的な現実に批判力をもちえる想像力はどこにあるのか。それは現代日本のポップカルチャーであるというのが僕の回答です。春樹レベルの作家の自意識よりも、市場の無意識のほうがより豊かな想像力を産んでいるというのが僕の判断です。そこで、春樹と並置、対比して約40年の歴史を語ることができる固有名詞をポップカルチャーに求めた。作家名としては宮崎駿が相応しいのだけど、ガジェット的に、春樹と比べるのに向いていなかった。市場規模から言えば『ガンダム』がいいのだけど、それでは80年代から現代までしか語れない。そこで60年代から続いているものとして、特撮ヒーローものに行き着いたわけです。春樹という射程の長いものを使いながら、自分が一番強い、特撮ヒーローについて語る。そう考えるようになったのが、2009年後半ぐらいです。

 国内のヒーロー番組の歴史ほど日本的ポストモダンの様相をわかりやすく体現しているものはありません。例えばウルトラマンは戦後的なものであり、日本の近代受容とその不可能性について描いているという分析は以前からあるんですね。要するに、ウルトラマンは在日米軍であり、科学特捜隊が自衛隊である。怪獣や宇宙人はソ連や中国であり、そこで生じる不可能性を描くことによって、正義とは何かを論じる。たとえば人類は、いつまでもウルトラマンに依存していていいのか。逆に言うと、超越者であるはずのウルトラマンが、地球人類の争いに介入していいのか。国民国家というイデオロギー装置が持つ、ある種の欺瞞を扱うことによって、正義や超越について論じたのが、昭和のウルトラマンだった。ところが68年以降、消費社会化、ポストモダン化によって、そういった回路が段々弱くなっていく。そうすると、浅草東映が代表する娯楽時代劇の系譜にあるような、仮面ライダーという非政治的な表象の方が、2001年以降の世界、村上春樹の言葉で言うと、ビック・ブラザーがいなくなり、リトル・ピープルだけが残った世界においては、逆説的に政治的なものにアクセスできるのではないか。その比喩関係を思いついたわけですね。 

 中森 一見奇異に見えるけれども、仮面ライダーと村上春樹を対比させて、2001年以降の想像力について語ろうとしているわけですよね。発売以後、ネット上でも好評で、僕もこの作品を素晴らしいと思うんですが、あえて色々問いただしてみたいと思います。批評の文脈から言うと、宇野さんが今話されたのと相通ずることは、実は90年代前中盤ぐらいにもありましたよね。佐藤健志『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』や切通理作『怪獣使いと少年』であったり、『別冊宝島』などでも、赤坂憲雄らがゴジラ批評を書いていた。その痕跡は感じるんです。ただ彼らは、マルクス主義やその影響下にあった批評、あるいは民主主義的なパラダイムでもいいけれど、そこにサブカルチャーや怪獣、ヒーローものをぶつけることによって、結果的に異化効果を生んでいた。宇野さんは、それとは明らかに違う。

 宇野 佐藤さん、切通さんの本は、中高生の時にワクワクしながら読みましたけど、サブカルチャーを通してこそ、近代国家論がきちんとできるんだっていうモチーフ自体、この本でも解説しているように、大澤真幸さんのいう虚構の時代の産物であり、ある種のニューアカ批判として成立していたと思うんです。その前の80年代に、虚構の時代を代表すると言われている、架空年代記ブームがありましたよね。『機動戦士ガンダム』や『グイン・サーガ』『銀河英雄伝説』、ああいったものが、まだ大きな物語が機能するような架空の世界に消費者を誘っていた。ゴジラ語りにしてもヤマト語りにしても、それとまったく同じです。大きな物語はまだ存在する、近代は終わっていないということを、サブカルチャー批評によって延命させようとしていたのでしょう。

「村上春樹史観」

 中森 今は、それが終わったということですよね。 

 宇野 ええ。そうしたことも含めて、戦後の日本のファンタジー的な表象が負ってきた役目があるわけですね。たとえば60年代におけるゴジラは、敗戦のトラウマが生んだものであり、そのイメージ化だった。70年代、80年代になると、大きな物語を失った、革命を失った世代の自意識の逃避先として、ロボットアニメや最終戦争もの、架空年代記が生み出されていく。それがインターネットの普及以降、どう変わるのか。「仮想現実から拡張現実へ」という言葉を引いて論じているんですが、現実の世界を多様化させるために、現実のコミュニケーション空間と結託した形で、創作物が用いられていく。つまり作品として独立して作られるというよりは、ユーザーのコミュニケーションの一部としてコンテンツが消費されていく状況があって、この本では、そういう三段階の経緯を語ってみたんです。 

 中森 『リトル・ピープルの時代』は、そういった宇野さんの世界観を共有できる若い世代が中心となって、絶賛されていると思うんですね。それが読者の世代の幅が広がっていった時に、どうなるのか。第一章「村上春樹論」、第二章「仮面ライダー論」、第三章「拡張現実論」、この構成を生理的に受け入れられるかどうかで評価が分かれるんじゃないか。特に村上春樹という存在で、現代の文学を代表させてしまっていいものなのか。「俺たちの68年を、村上春樹に象徴させられてたまるか」みたいな、上の世代からの批判も予想されると思うんですね。 

 宇野 そういう化石みたいな人たちを相手にするのは、もういいんじゃないですか(笑)。 

 中森 いや、化石というよりは、彼らの世代の心情からして、そんな意見が出てくるんじゃないかということ。この本は良くも悪くも、村上春樹史観、村上春樹が持っているすごさと弱点を分析することから始められていて、春樹を前提としていいのかという抵抗は出てくると思うんです。もうひとつ、『ゼロ想』と関連した話をすると、『リトル・ピープルの時代』を読んで思ったのは、明解さとキャッチーさっていうことなんですね。『ゼロ想』の時にも、いきなり「セカイ系から決断主義へ」と言い切った。それこそが宇野常寛の批評家としての才能であると。これと比べると東浩紀の「動物化するポストモダン」でさえ、ちょっとわかりにくい。ただ一方で、その巻頭宣言があまりに鮮烈であるがゆえに、決断主義を肯定しているという誤解も生む。今回の本も、「リトル・ピープルの時代を称揚しているのか」という意見が出てくるんじゃないか。 

 宇野 称揚しているんじゃなくて、リトル・ピープルの時代というのは、こういうものだと言っているだけなんですけどね。 

 中森 もちろん、それが批評だと思いますよ。 

 宇野 ポストモダンでも後期近代でもいいんですけれど、結局「大きな物語」以降の世界像のモデルをどうするのかという問題がずっとあるわけですよね。それがグローバル化の浸透とインターネットの登場で、ようやくはっきりと見えてきたのがこの10年だったと思うんです。たとえば日本では東浩紀さんやその弟子の濱野智史くん、北田暁大さんたち、団塊ジュニア以降の研究者は、そういうモチーフを共有している。それを文化批評の言葉で捉え直してみたかった。言い換えると「大きな物語」以降の「政治と文学」の関係性をどう記述するか、という問題ですよね。この本では、トレーディング・カードゲームの比喩とかを使って論じているんですけれど、大きな物語ではなくて、大きなゲームとして世界の構造を記述できるんじゃないかと考えているんですね。要するに近代は男性の疑似人格で比喩できた。たとえば国民国家について、オーウェルはビック・ブラザーと喩えた。2001年以降の世界(=リトル・ピープルの時代)は、非人格なシステムがあり、この構造について考えなければならない。その時に、ゲームの比喩で記述することができると思ったんですね。このイメージの展開を、第二章から三章にかけてじっくりと論じています。ヒーロー番組の分析から拡張現実論に至る流れですね。

「なぜ『父』としたのか」

 中森 そこで宇野さんは、あえて擬似男性的な比喩を使って、リトル・ピープル(小さな「父」)と言っていますよね。そこがこれまでのポストモダン論とは違う、宇野さんのオリジナルだと思う。なぜ「父」としたのか。古い世代にとっては、ここが評価のポイントになってくると思うんです。「父」というのが、果たしてジェンダーの比喩なのか、世代の比喩なのか。  宇野 大きな物語以降のイメージとして、90年代以降は、小さな物語に回帰したわけですよね。カルスタやポスコロ、新しい歴史教科書をつくる会とか。そうした小さな物語に回帰したプレーヤが溢れるイメージは、90年代に既に出来上がっていた。それを小さな「父」と言い換えることに、そんなに違和感があると思わないんです。今は小さな「父」が乱立しているようなものだと考えればいい。そして、その小さな「父」は決定者であり、コミットメントする主体なんだけれど、歴史的価値や社会的価値には支えられていないということですね。

 中森 みんなが小さな「父」であることを引き受けざるを得ない。 

 宇野 コミットしようと思ってコミットするんじゃなくて、我々は自動的にコミットさせられてしまう。それがグローバル化、ネットワーク化の時代だということですね。 

 中森 この本の良さは多くの人が語ってくれると思うから、古い世代として、あえて弱点を言っておきたいと思います。ものすごく鮮明であると同時に、わかりにくいところもある。第三章「拡張現実の時代」の最後で、宇野さんはこう言っていますよね。「この世界は終わらないし、外側も存在しない。しかし、それは想像力が働く余地が世界から消えたことを意味しない。私たちは<いま、ここ>に留まったまま、世界を掘り下げ、どこまでも潜り、そして多重化し、拡大することができる。そうすることで世界を変えていくことができる」。

 普通は、外部に越境していく時に拡張するイメージが出てくる。下に潜ることは拡張することと繋がらない。でも、そこではインターネットによって繋がれるということですよね。たとえ家にいて引きこもっているように見えても、インターネットによって世界と繋がっている。村上春樹における「井戸」がインターネットだと書いている。実際にインターネットが出てきた時に、春樹の「井戸」をイメージできたと。そこが危ういと思っているんです。その危うさとは何か。村上春樹は、ほとんど批評家と対談することがないんだけど、例外的に河合隼雄とは対話集を出版しています。何故か。端的に言って、ユング研究者だからでしょう。ユングの評価は様々あるが、宇野さんが言っていることをさらに進めると、村上春樹の「井戸」は集合的無意識っていうことになる。ただ、インターネットを集合的無意識の比喩で語れば、それは当人たちだけが拡張していると錯覚するナルシシズム、いわばテクノナルシシズムの中に閉じこもってしまうことにならないか。 

 宇野 それは僕と中森さんのインターネット観の決定的な違いですね。 

 中森 誰かが絶対に指摘すると思ったから、あえて頑迷に聞いてみたかったんです。 

 宇野 その疑問には「仮想現実から拡張現実へ」という言葉が示すデジタル技術のトレンドの変化であり、この本の中心的なテーマが答えていると思います。端的に述べれば、90年代はデジタル技術、仮想現実的な空間に人間を閉じ込め、インターネットこそが究極の物語回帰の支援装置、テクノナルシシズムの器だと思われていた。しかし21世紀に入るとインターネットは全く異なる方向に進化していった。ソーシャルメディアの肥大がまさにそうですが、拡張現実的に現実の人間関係に寄生してそれを可視化させ、拡張する方向に進化していった。むしろ過剰なコミュニケーションでテクノナルシシズムを攪乱し、現実の社会関係を書き換えていくダイナミズムの追求に変化していったわけです。それは、この本で扱った日本のポップカルチャー、仮面ライダーやAKB48、ニコニコ動画などを分析していると非常にクリアに見えてきます。

 中森 『リトル・ピープルの時代』が面白いのは、文芸評論の中で閉じて完結していないところだと思うんです。仮面ライダーにもいくし、インターネットにもいく。一方で、賛否両論を呼ぶ点のひとつは、政治的な問題とリンクしていることだと思うんですね。この本自体、エルサレム賞を受賞した時の村上春樹の言葉、「壁」と「卵」の比喩の論考から始まっている。あの二項対立の比喩に、宇野さんは違和感を感じた。 

 宇野 80年代から春樹は、「壁」と「卵」が区別できなくなっていく世界を描いていたはずなんですよ。にも関わらず、あそこで「壁」と「卵」がはっきりと分かれると言いましたよね。片方では「もうビック・ブラザーの出てくる幕はない」と言っておきながら、非常に古典的な壁のイメージに引きずられている。もう一点。そこで春樹は新しい「壁」、つまり「システムが人間を食い物にする」という言い方もしている。システムについては、ビック・ブラザーとは違う、リトル・ピープル的な壁を、春樹は書いてきたんだけれど、そのイメージがきちんと定まっていない。壁のイメージを、もっとしっかり出さなければいけないと思うんです。『ダンス・ダンス・ダンス』であれば高度資本主義、『ねじ巻き鳥クロニクル』なら浅田彰と小沢一郎を足して二で割ったみたいな悪人であったりする。つまり、春樹自身が新しい壁が何か、よくわかっていないんです。もちろん、わかっていなくてもいい。ただ、それが『1Q84』における春樹の堂々めぐりに繋がっている。特に「BOOK3」は辛いですよね。つまり社会変革のイメージが革命モデルだと、もう駄目だと春樹も分かっているのだけど、なかなか具体的なビジョンが描けないわけです。 

「政治と文学」

 宇野 僕がトレーディング・カードゲームの比喩がいいと思うのは、それがグローバル市場の拡張性と多様性をよく表しているからなんですよ。市場は一般的には消費者の欲望と文化を画一化されると言われている。しかし、実際にはそうではない。市場が実現する多様性というのは確実に存在すると思うんです。

 古い人は、「ゲーム」と聞くとそれだけでネガティブなイメージを抱く。けれど僕に言わせると彼らはゲームのことを何もわかっていない。トレーディング・カードゲームの比喩を続けるのなら、あれはトランプのように最初か決められた枚数のカードを交換するタイプのものとは違うんですね。そうではなくて、この種のゲームは一つのルールのもとに第1弾が40種類、第2弾が40種類と、どんどんカードが増えていくんです。つまり理論上は無限の拡張性がある。いかなるものも商品=カードとして取り込み可能なんです。アンチ・グローバリズムでさえも「商品」として取り込んでしまうのがグローバリゼーションの怖さでしょうしね。……なんていうと、「ルール自体は変わらないから、資本主義のルールに支配されているだけだ」なんて、また左翼みたいなことを言う奴が絶対にいる。それは違うんです。今までのルールに適合しないカードが出てきたら、そのカードに合わせてルールのほうが書き換えられていくシステムになっている。しかもこの仕組みを応用した、インターネット上のフリーソフトのゲーム等ではさらに進化して、このルール改変はウィキサイトなどを応用して、ほぼ自動更新になっていくんです。

 グローバル資本主義的なルールの上に、無数の多様な商品が乗っかることによって発生する、多様性と社会変革のイメージが、そこにはあると思うんですね。たとえば明らかに例外的なカードというのは、マイノリティの比喩として機能する。つまりルールから逸脱するマイノリティが登録されることによって、全体のルールが書き換えられ、より多様でリベラルなものに変わっていくというイメージが、そこには存在している。これは文学的なイメージの問題ですけれど、大事なことだと思うんです。このイメージを革命モデルでやっているうちは、68年的な問題、新左翼的な問題を解除できない。男の自意識の問題と社会の構造の問題がイコールになってしまって、結局自分探しにしかならない。「その不可能性を自覚しつつ<外部>に祈れ」とかね。グローバルな資本主義的システムを、逆手に取るような形での社会変革のイメージを持ってもいいんじゃないか。 

 中森 なるほど。 

 宇野 この本を50代、60代のリベラルな人が読むと、ネオリベラリズム的だとか、現状肯定的だとか言われると思うんですね。でも実は、「革命ではなくハッキング」や「拡張現実の時代」といった言葉とか、特にトレーディング・カードゲームの比喩で言いたかったのは、マイノリティがグローバル資本主義と結託することによって、むしろ全体をハックしていく可能性についてなんですね。そういう社会変革のイメージを記述したかった。だから『リトル・ピープルの時代』は、ひと言で言えば、見田社会学的なものを、徹底して文学として読むということなんです。宮台真司や大澤真幸のやってきたことを、徹底して文芸評論の言葉で読み直す。見田さんが「社会を規定するものは反現実のイメージである」と言ったけれど、文芸評論っぽい言葉で言い直すと、「政治と文学の関係を記述するのは文学の側だ」ということですね。文学的なイメージこそが「政治と文学」「壁と卵」の関係を記述できる。 

 中森 見田宗介の名前が出てきたから言うけれど、見田は一方で真木悠介でもあった。真木の『気流の鳴る音』は、カルロス・カスタネダを文学的および社会学的に書いて、圧倒的な影響力があった本ですよね。その『気流の鳴る音』を記述変更したのが、中沢新一の『チベットのモーツァルト』でした。すると真木/中沢的な反現実の思想、宇野さんの言う「革命ではなくハッキング」「拡張現実の時代」の一つの最悪の末路はオウムではないか。中沢と同世代の島田裕巳や四方田犬彦、植島啓司ら東大宗教学派は、全共闘運動後、政治の時代が終わった頃に大学へ入学した。ニューアカを準備した彼らは宗教学・文化人類学に傾倒して、大文字の政治性を回避したように見える。彼らと宇野さんが繋がっているように思うんですね。 

「拡張現実の時代」

 宇野 二点付け加えておきたいことがあって、ひとつは、日本において、ある時期から、社会学が文学で消費されてきたという問題についてですね。上野千鶴子さんにせよ、宮台真司さんにせよ、僕は機能しなくなった文壇の代わりに社会に答える「文学」者としての機能を果たして来たんだと思う。そういった日本の文化史的な特徴があります。もうひとつ。たとえばオウム真理教というものがあって、あれは虚構の時代の臨海点だったわけですね。「拡張現実の時代」から見れば、オウムは一段階前のもので、鶴見済とかに近い。ドラックや修行、個人の体験によって自分の内面に潜り、自己変革していこうという思想です。要は自意識のチューニングですよね。 それに対して「拡張現実の時代」はネットワークを前提に内面の調整ではなく現実への介入を考える。そこに決定的な差があるわけです。世界を物語と見做してそれを外側から別の物語、仮想現実的な物語をぶつけて革命するのではなく、世界をゲームと見做して内部からルールを更新していくというモデルなんですね。そのイメージを、オウム的なものを克服する想像力として提出しているわけです。 

 中森 上野千鶴子からエッセイ的な知になり、文学の代行として機能したと言ったけれど、それを批評と言っていいわけですよね。 

 宇野 そうですね。 

 中森 いわば宇野さんは批評の正統な子供だと思う。僕は江藤淳のことを考えました。江藤がこの本を読んだら、間違いなく、あとがきの最後の一行に注目したでしょう。読者へのお楽しみとして言わないけれど、いかにしてあの一行にたどりついたか。これと複層的に書かれていた『母性のディストピア』(「新潮」)は、今度の本と対になりますが、両者併せて江藤の『成熟と喪失』の問題系を継承している。つまり父の喪失と母との密着ということが戦後の文学および戦後空間を貫いていたっていう話です。『成熟と喪失』は第三の新人の文学論ですね。面白いことに、村上春樹が日本文学で例外的に肯定し、論じてもいるのが、第三の新人です(『若い読者のための短編小説案内』)。第三の新人の作家たちは、父の喪失の主題を無自覚的に文学化した。それを春樹が継いでいて、宇野さんは、江藤淳の仕事を継いでいる。面白いのは、『母性のディストピア』の連載中、蓮實重彦も「新潮」に連載していて、宇野さんの名前を引用しているんです。ざっと言うと、「日本の批評というのは、戦前から、いわゆるアメリカ化から逃れがたいものがある。津村秀夫から小林秀雄、江藤淳、宇野常寛にいたるまで」と。案外正しい見方だと思っていて、この本でも、宇野さんはこう書いていますよね。「今から述べることは冗談に聞こえるかもしれない。しかしそれで構わない。文学がそうであるように、批評にもまた想像力が必要だ。冗談のように聞こえない批評には何の力もない。もちろんこれは比喩だが、本気の比喩だ」。小林秀雄直伝の啖呵を切っている。 

 宇野 恐れ多いです。 

 中森 批評というのは、宇野さん流の言葉で言えば、説得のゲームだと思うんです。絶対に勝ち負けがある。説得的な問題なんだと。3・11の震災以後、今こそ批評の言葉が大事だと思う。ベンヤミンも言うように、criticalとは「批評的」であると同時に「危機的」という意味です。まさにこの危機的な時に、批評家がステイトメントを出さないのはおかしい。僕が『リトル・ピープルの時代』を今年の最重要の一冊だと言うのは、そういう意味です。宇野さんの本は危ういし、間違っているかもしれない。だけど圧倒的な強度がある。このなりふり構わぬ批評の力。その意味で、改めて宇野さんに、3・11以後に批評を書いた時の初心を聞きたい。 

 宇野 冒頭に言いかけたんですけど、この本は三月か四月に出る予定だったんですね。一章と二章の原型が出来ていて、最後に結論をつけて出そうと思ったところに地震が起きた。打ち合わせも全部飛んで、自由な時間が手に入ったこともあって、この本についてずっと考えていました。そうすると、今福島で起こっていることと、僕が書こうとしていることが、何か近い気がしたんです。それを言葉にしたかった。放射能という目に見えないものを、いろんな人が無理やり見えるものにしようと試行錯誤している。それがうまくいっていないこともわかった。イメージ化ができないからなんですよね。具体的な分析はいくらでもある。ところが人間はイメージできないと、物事をすんなり受け入れられない。その時に、複雑だったり、大き過ぎるものを、イメージとして表現するのは、政治じゃなくて、文学の課題です。原発の事故と、たとえば広島・長崎の原爆とは、全然違う。広島・長崎は、近代国家同士の総力戦の結果落とされたものなのでイメージしやすいし、物語化しやすい。従来の想像力で受け止められるんです。60年間の蓄積もありますから。ところが福島の原発事故は、今までのやり方では、イメージ化・物語化が難しい。自分たちが産み出したものが、自然災害によってコントロールから離れて、暴走してしまっている。しかも僕らの世界の内側にあり、生活のインフラを支えていた。まさに僕らの世界と一体化している。それが見えない力で、僕らを殺そうとしている。福島の原発事故、放射能を、我々がうまくイメージ化できないことが、今の日本の文化空間を混乱させているような気がして、それを解決するヒントみたいなものが、この本で書こうとしていたことだった。つまり、村上春樹がリトル・ピープルという言葉で描こうとしてうまくいっていない、新しい壁の存在というものが、福島の原発をイメージする時の鍵になるんじゃないか。そんなことを考えながら、4月の頭ぐらいに、拡張現実というキーワードを中心に、原発の問題と村上春樹の壁の問題と、この三角形でストーリーをより強化できるんじゃないかと思って、最初から書き直したんですね。 

「ハッキングモデル」

 中森 宇野さんは、僕も含めて、前の世代に対して左翼的だと言うけど、宇野さんも左翼的ですよね。つまり加藤典洋が『敗戦後論』で高橋哲哉と論争した時に、「語り口の問題」と言ったでしょ。まさに語り口の問題なんです。「ビック・ブラザーからリトル・ピープルへ」、「虚構の時代から拡張現実の時代へ」、「革命ではなくハッキング」。こういうアジテーションが、いかにも左翼的な語り口なんだ。 

 宇野 でも僕は文学系の左翼気取りの人とかには、たぶんあまり好かれていない。僕も、彼らの言動に関心自体持てないでいるというのが正直な話です。彼等は結局世界を変える気はないんだと思います。 この前、友人の荻上チキと、こんな話をしたんですよ。僕らは、新左翼的なメンタリティを持っている上の世代からは修正主義的で、現状肯定的で、ネオリベ的だと言われている。でも今は、僕らこそが現状批判としての実行力を持っている。もう革命モデルは、自分探しの小さな物語にしかならない。リトル・ピープルの時代においては、拡張現実的なハッキングモデルこそが現状批判になるし、社会の次のビジョンを構想する力になり得ると思うんです。 

 中森 3年前の話の蒸し返しになるけど、宇野さんは、間違っているものから正しいものへの進歩を信じているわけですよね。 

 宇野 進歩というよりは、単に変化ということですね。 

 中森 よき変化への認識を信じているから、批評をしているところがある。それが語り口に現われている。そうすると、ざっくり言えば、進歩主義ってことになると思うんです。 

 宇野 単に世の中が移り変わっているので、それぞれに対応する新しい言葉が必要だと言っているだけなんです。もちろん、ある意味ではフューチャリストではあるので、進歩主義的な側面はあると思います。ただ、たとえば9・11以後の問題に春樹が対応できていないと、僕は書いています。アルカイダを、全共闘やオウムと同じような自分探しの暴力として捉えていると、本質を見失ってしまう。アルカイダが象徴する、グローバル化における原理主義やテロの連鎖の問題は、グローバル化自体に対する反作用であり、システムエラーみたいなものだと考えなければ、抜本的な解決にならない。村上春樹の考える68年的暴力のイメージに引きずられるのではなく、視点を変えないと、新しいものに対応できないということを言いたかったんですね。 

 中森 その意味では、オウム事件が起こった時に「終わりなき日常を生きろ」と言った、宮台真司に近い。あの時の宮台真司は、大文字の政治を語るんじゃなくて、今起こっているクライシスに対して、批評がイメージ化を促すことに成功した例だった。でも、その宮台が、今は大文字の政治にかなり踏み出している。宇野さんは、そういったことについてはどう考えてるんですか。 

 宇野 政治的な態度表明はしていきたいですけれど、宮台さんみたいにロビー活動する方向とは違うイメージを持っていますね。もしやるならば、こういう方向に日本社会を持って行きたいというイメージを提出していきたい。僕と同世代というと卑怯な言い方になるけど、たとえば憲法9条や、靖国問題に関して、あるいは社会保障や原発の問題に関して、若い世代の中で意見がそんなにぶれているとは思わないんです。自衛隊が不必要とは思わないけど、軍事的に対米従属一択はあり得ない。ゆるやかな自立路線にしていく。戦争で亡くなった方は、日本の戦死者もアジアの戦死者も共同追悼施設で弔う。社会保障に関しても、消費税が上がってもいいから一元化して立て直す。誰もが正社員になれた時代を取り戻すのではなく、フリーターや非正規雇用でもちゃんと生きて行けるようにする。原発推進なんて無理であって、しかし今すぐゼロにするのは不可能だから、十年、二十年かけて脱原発に向けていく。その辺りの意見にぶれはない。そういった意見を集約して、提示するような仕事をしてもいいかなと思っています。 

 中森 なんでこういうことを聞くかと言うと、僕らの世代も、今でこそ左翼的と言われるけれど、非政治的だと言われて、やっぱり政治的な問題がアキレス腱になるからなんです。 

 宇野 それは単に政治的とは何かについて、定義自体が移り変わってきているだけだと思うんです。1945年の政治性、68年の政治性、2001年の政治性、現在の政治性ではまったく異なる。むしろ新しい政治性を記述するのが、批評の役割なんじゃないか。上の世代からは下の世代が常に非政治的に見えるけれど、何をもって政治的と言うべきかは、流動的に考えながら生きていきたいですね。 

 中森 村上春樹と江藤淳は事実上、父にはならなかった。父なきビック・ブラザーとしての日本文学/批評を、小さな父=リトル・ピープルたる新世代の批評家・宇野常寛さんがどういう乗り超えを果たしていくか。大いに期待しています。 (おわり)

 

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