2011年11月13日03時00分
12日午前10時、総勢36人の記者は「Jヴィレッジ」でつなぎの防護服に着替えて2重の手袋をはめ、2台のバスに分乗して福島第一原発に向かった。第一原発から3キロほどのところで、全面マスクを着けるように指示された。正門の白いゲートをくぐり第一原発の敷地内に入った。
報道陣のバスがまず向かったのは1〜4号機を南から見渡せる高台。原子炉建屋は厚さ約1メートルのコンクリートの壁がぼろぼろにはがれ、無残な姿をさらしていた。そのそばで、記者らと同じように全面マスクで防護した作業員が黙々と工事を続けていた。
週末で平日の半分ほどだというが、それでも敷地内に約1500人いるという。バスからも放射能汚染水を浄化した際に生じる汚泥の貯蔵設備の工事に取り組むのが見えた。
バスは海側に坂を下り、4号機のタービン建屋に向かった。左側に壁がほとんどはがれ、鉄骨がむき出しになった建物が現れた。いまだに残る津波の激しい爪痕だ。
3号機や4号機のタービン建屋のそばには、津波でひっくり返った車両がそのままになっていた。周辺は放射性物質の飛散を防ぐ薬剤がふきつけられ、緑色に染まっている。
バスからは海原はとても穏やかに見えた。けれども、大震災の当日、津波は記者が乗っているバスの天井より高いところを越えていったはずだ。そう思うと、崩れた建物の壁やシャッター、防波堤から、そのすさまじさに圧倒される思いだった。
6月に完成した仮設防潮堤は、石を詰めて積み上げた金網のかごがぎっしりと並べられていた。その様子が非常事態であることを思わせた。
汚染水を浄化するための水を通すホースもあちこちに引き回され、いかにも一時的な装置に見えた。
再び大きな地震や津波に襲われたら耐えられるか心配にもなった。
吉田所長はこの日、作業の拠点で放射線を遮る対策がされている免震重要棟という建物で細野豪志原発担当相と意見交換をした。
作業員について「3月のすさまじい状況からずっと残っている人間がいるので精神的に若干負担感がある。どういう形でリフレッシュしてやったらよいか」などと話した。
休暇などの労働環境は少しずつ改善され、作業員の士気は高いという。3月の事故当初は乾パンやクラッカーの非常食しかなかったが、電子レンジでレトルト食品を温められるようになり、10月からは弁当も配布されるようになった。
「ありがとう」「がんばって」。廊下の壁は作業員に向けた激励文で埋め尽くされ、色紙で折った折り鶴が飾られていた。
記者は3月11日から取材を続けてきた。東電から提供される映像からは、もっと寒々しい場所を想像していた。壊れた建物のそばには小鳥やカラスがいた。汚染水処理施設の近くに、水たまりに卵を産むのか交尾している赤トンボもいた。
史上最悪の原発事故の現場にしてはのどかな光景だったが、逆に生き物が感じ取れない放射線の不気味さも実感した。
取材中は東電社員がバスの中で放射線量を測り続けた。毎時数十マイクロから数百にどんどん上がり1千マイクロシーベルトに達した。(小堀龍之)