本欄(HP)には、三つの桜井淳事務所(水戸、サンフランシスコ、アルバーニィ)の(1)業務内容、(2)桜井淳の経歴・著書・学術業績、(3)日米大学での作業内容、(4)学術セミナー開催案内などが記されています。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-桜井淳著書1 桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-桜井淳著書2
桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-桜井淳著書3 桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-桜井淳著書4
桜井淳の著書・共著・編著・編集・監修・翻訳47冊及び学会論文誌掲載論文32編・国際会

議論文50編(国会図書館で閲覧可能)。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-原発のどこが危険か

「原発のどこが危険か」(朝日新聞社、1995)。

旧ソ連製原発の学術的情報を最初に記した

歴史的書。電源信頼性の問題提起、福島

一原発事故の予言(2011.4新版緊急出版)。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-原発事故の科学

「原発事故の科学」(日本評論社、1992)。原

発事故分析の学術書として他に例のない論

理構成と記載内容。2011.4緊急増刷。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-原発システム安全論
「原発システム安全論」(日刊工業新聞社、19

94)。NUREG-1150(1990)などのPSAによる

酷炉心損傷事故発生確率の評価法と結果を

まとめた他に例のない論理構成と記載内容の

学術書。


桜井淳カリフォルニア事務所-新幹線安全神話が壊れる日
「新幹線「安全神話」が崩れる日」(講談社、19

93)。日本で最初の工学理論に則った本格的

な「新幹線技術論」。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-崩壊する巨大システム
「崩壊する巨大システム」(時事通信社、1992)。

大型航空機・新幹線・原発の事故分析。福島

第一原発事故の予言。


$桜井淳カリフォルニア事務所

「原発のどこが危険か」(朝日選書、新版、緊

出版2011.4.8、朝日新聞出版、(2011))。

原子力事故自衛マニュアル」(青春新書改

版、緊急出版2011.4.7、青春出版社、(2011

))。両書ともベストセラー達成。


監修「放射能から身を守るQ&A100」(学研(20

11))。


「原発安全神話の崩壊」(電子書籍、日経BP社

(2011))。


$桜井淳カリフォルニア事務所

「福島第一原発事故を検証する-人災はどの

ようにしておきたか-」(日本評論社(2011))。

事故原因は過去半世紀の原子力開発の矛盾

の積み重ねであることを論証した学術書。


$桜井淳カリフォルニア事務所
「原発裁判」(潮出版社(2011))。原発に対す

る35年間の問題意識を整理し、本音で語った

不条理な世界。日本の未来を示す。


近刊1冊(11月下旬出版、人とその仕事シリ

ズ2「人生と福島原発事故」)。


執筆中2冊(2012年2月と3月に出版予定)。


【無限修行テーマ1】トレッキングとは「山麓歩きや小登山」のことです。しかし、ここでは、垂直壁ロッククライミングやエベレスト登頂まで含めます。バックナンバー写真集は桜井淳の登頂記録(男体山、高山(家族同行)、外山、前白根山、白根山、谷川岳、八方尾根(家族同行、2回)、白馬岳、乗鞍岳、北横岳(夏山1回、雪山1回)、北岳、富士山、立山、槍ヶ岳、穂高岳、御嶽山、加波山、鳴虫山(家族同行)、半月山(家族同行)、社山、黒檜山、山王帽子山、吾国山、難台山、愛宕山・団子山・大福山・難台山・吾国山の縦走(4回)、硫黄岳・横岳・赤岳の縦走、金精山・五色山・坐禅山・白根山・前白根山の縦走、山王帽子山・小太郎山・太郎山の縦走、半月山・社山・黒檜岳の縦走、小丸山・丸山・赤薙山・女蜂山・小真名子山・大真名子山・男体山の縦走、メンヒ、モンブラン、ユングフラウ(調査登山済み)、アイガー/ミッテルレギー稜(調査登山済み)、マッターホルン/ヘルンリ稜(調査登山済み)、世界8000m級14座(エベレスト、K2、カンチェンジュンガ、ローツェ、マカルー、チョー・オユー、ダウラギリⅠ峰、マナスル、ナンガ・パルバット、アンナプルナⅠ峰、ガッシャーブルムⅠ峰、ブロード・ピーク、ガッシャーブルムⅡ峰、シシャパンマ))です(未完)。完遂後、著書にまとめます。


【無限修行テーマ2】桜井淳は、2009年4月より、東大大学院人文社会系研究科で「ユダヤ思想」の研究を開始し、比較宗教学(ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教、キリスト教、イスラーム教、日本神道)の視点から、独自の研究視点を基に、京都・奈良・鎌倉・北鎌倉のみならず、国内外の寺・神社・教会・シナゴーグを対象とした「千寺巡礼」を開始しました。バックナンバー写真集には暫定的に外観写真が掲載してあります。完遂後、著書にまとめます。


【無限修行テーマ3】桜井淳は、バックナンバー写真集に示すとおり、2009年9月1日から、比較宗教学の視点から、曹洞宗禅寺で、月3回の割合で、仏教と坐禅の修業中です。完遂後、著書にまとめます。


【無限修行テーマ4】桜井淳は、2009年4月より、国内外で、哲学修行中です。完遂後、著書にまとめます。

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Sat, November 12, 2011 stanford2008の投稿

【事務所報告】桜井淳&水戸スタッフによる被災地調査と巡礼(1)-仙台・名取・多賀城・東松島編-

テーマ:ブログ

以下に、5月9日(月)に実施した桜井淳&水戸スタッフによる被災地調査と巡礼(1)-仙台・名取・多賀城・東松島編-の写真を掲載します。ここでの巡礼とは、厳密な宗教用語ではなく、「津波犠牲者の眠る聖地」での霊を慰める儀式と解釈してください。写真は、30枚ほど撮影しましたが、どれも気がめいるくらい被害状況がひどいため、そして、第三者の住宅の損壊状況を掲載するのは、倫理に反するように思えるため、できるだけ穏やかに見られる8枚のみ掲載します。


被災から2ヵ月経過していたため、自衛隊によって、道路の瓦礫や遺体は、搬出されていました。田畑には、津波で流された漁船や乗用車が数多く放置されていました。生活条件・産業・農業の復興には10年くらいかかると思いました。


なお、順次掲載する写真は、(2)-石巻・女川・気仙沼・釜石・宮古編-、(3)-白河・郡山・福島・いわき編-です。


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
仙台空港近くの海岸防風林内側(海水浸水

による樹木枯れ)


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
仙台空港近くの海岸から200m内側(家が津

波で押し流されて基礎コンクリート部しか残

っていない)


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
仙台空港と附近の住宅の損壊状況(背景は

仙台空港)


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
桜井による名取海岸線での読経と巡礼(桜井

の左手に登山用万能時計(時刻・温度・気圧・

方位・高度など表示))と曹洞宗修行での数珠


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
名取住宅街(津波により住宅が押し流されて

基礎コンクリートしか残っていない)


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
名取海岸線(津波ですべて押し流されて基礎

コンクリートしか残っていない)


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
仙台火力発電所附近の被害状況


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
多賀城海岸付近の被害状況(いくつかの乗用

車が押し流されて放置されている)

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Wed, November 09, 2011 stanford2008の投稿

桜井淳の過去10年間にわたる福島県へのこだわり-原発災害への予感-

テーマ:ブログ

私は、2002年2月12日に、福島県開催の「第13回福島県エネルギー政策検討会」の講師として招待講演を行いました。その約1年後に福島県議会主催の講演会でも招待講演を行いました。


前者では、佐藤栄佐久知事と、きびしいやり取りがありました。議事録は、公開されていますが、そのやり取りについては、主催者にとって「不都合な真実」であったため、意図的に削除されています。


削除された内容はつぎのとおりです。


「第一原発と第二原発から約50kmも離れた福島市でこのような検討会を開いても、日常業務を福島市の県庁で実施しても、安全圏に身を置いての日常では、何のリアリティもありません。私は、原研大洗研で材料試験炉の炉心計算を担当した8年間、居室の数m前が原子炉格納容器でした。原研東海研で軽水炉安全性研究に携わった10年間は、数百m北には、日本原電の東海第二原発がありました。そのような場で生きるか死ぬかの人生を送ってきました。それに対して、みなさんは、原発から約50kmも離れた福島市で生きています。それで福島県民が感じている原発への不安が理解できますか。県庁を第一原発か第二原発の隣接地に建設し、常に、そこで業務に励んだならば、原発とは、安全とは、ということが、的確に理解できるでのではないでしょうか。みなさんはまったく理解できていません。放射能の海で溺れてから気づいても遅いのです。」


後者の講演会の最中、私の軽水炉安全性への懸念に対し、自民党右の議員らしき人物から、「それは問題発言だ。東大の先生は、そのようなことは言っていなかった」とヤジが入り、私は、「スリーマイル、チェルノブイリ、東海村に、特別な意味があったわけではありませんでしたが、ある日、突然、特別な意味を持つ固有名詞になりました。東大の先生は東海村でJCO臨界事故が起こる前に安全を懸念していましたか、そうではなかったはずです。みなさんが、放射能の海で溺れながら、こんなはずではなかったと気づいても、遅いのです。そうならないような社会にしなければならないのです」と反論しました。


両者に対し、力不足から、福島県民を救えなかったことに対し、深く反省しています。私や高木仁三郎さんは、大きな河に流されている小さな笹舟にすぎず、残念ながら、流れに対抗したり、流れを変えるほどの力を持ち合わせていませんでした。現状分析して、みなさんにお伝えするだけで、それをどのように受け止めるかは、みなさんの能力です。


佐藤栄佐久知事と福島県議会にはそのような能力がありませんでした。そのため、原発災害に遭遇してしまいました。人間は、起こった後でないと、それまでのことの重大性に気づかないものです。

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Wed, November 09, 2011 stanford2008の投稿

桜井淳による加藤尚武「災害論-安全性工学への疑問-」の感想

テーマ:ブログ

私よりも年齢がひとまわり多い哲学者の加藤尚武さんの著書は、これまで、仕事との関係が薄かったため、一冊も読みませんでした。しかし、加藤さんが福島第一原発事故を題材に、哲学の立場から考察していることに興味を持ち、「災害論-安全性工学への疑問-」(世界思想社、2011)を熟読してみました。


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)


加藤さんは、事実関係をよく調査しており、哲学者らしい論理展開と結論に、学ぶべきことが多いと感じました。意外にも、私の主張内容についても、論じています。


この本の大きな流れは、加藤さんがカリフォルニア大学ルイス教授の安全論に、終始、否定的な立場から批判的に検討していることです。ルイス教授の安全論は、確率論的安全評価手法により、発生確率の低い事象に対する「すそ切り」の根拠を示したもので、エンジニアなら受け入れ、それどころか、日常的な設計の基礎となっている判断基準です。たとえば、原子炉格納容器の設計では、大型航空機の墜落を想定していませんが、その根拠は、発生確率が年間1000万分の1以下であるためです。


世の中のあらゆる構造物は安全性と経済性の妥協できる条件で設計されています。設計では発生確率が年間1000万分の1以下の事象は考慮されていません。そのような「すそ切り」をしないと経済性が成立しないためです。


加藤さんは、大きく言えば、ルイス批判をとおして、そのような「現代技術の方法」を否定的にとらえています。福島第一原発事故に遭遇し、たとえ、後づけであるとしても、そのようにとらえるのは、常識的でしょう。しかし、そのような加藤さんの主張は、これまで、誰の脳裏にもあったことであり、決して、加藤さんのオリジナルなものではありません。エンジニアは、自身の設計に対し、常に、トラウマ的に、死ぬまで、そのようなディレンマを抱えています。


私の「桜井淳著作集第5巻安全とは何か」(論創社、2005)における安全論の基本的な哲学は「たとえ、発生確率が低くても、大きな社会リスクを有する技術に対しては、十分な安全対策を施しておかなければならない」というものでした。私のこの主張は、大きく言えば、「現代技術の方法」の部分的否定であり、根底には、原発災害リスクがありました。


加藤さんと私の主張内容は、表現法がやや異なるものの、論理構成や結論は、ほぼ、同じと考えられます。

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Sun, November 06, 2011 stanford2008の投稿

桜井淳による山本義隆「福島の原発事故をめぐって-いくつかの学び考えたこと-」の感想

テーマ:ブログ

一般論として、著者の能力を判定する材料は、①引用文献の選択、②文献の読み方、③思考の深さにあるように思えます。そのことを強く感じたのはトーマス・クーン「科学革命の構造」(みすず書房)を熟読した時でした。


山本義隆「福島の原発事故をめぐって-いくつかの学び考えたこと-」(みすず書房、2011)を読み、①②③を満たしていると判定しました。この本は、文献を52箇所引用し、前半約50ページで原子力発電の現状分析、後半約50ページで近代科学の発展思想の展開をしています。


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)


著者の問題提起の内容に、特に、オリジナリティがあるわけではありませんが、社会科学の研究の教科書どおり、みごとに体系づけ、論理化しています。近代科学の発展思想をひもとき、いまのあらゆる科学や技術の功罪を論ずるという手法は、あまりにも教科書どおりであって、驚きも新鮮さもありません。しかし、後半約50ページの存在がこの本のめりはりになっており、価値を高めています。


この本の優れた点は、①冷静で公正な現状分析をしていること、それも、②著者の経歴からして期待できないほど的確な原子力発電の現状分析をしていること、③科学だけでなく技術の内包する問題点もよく理解していることです。反面、「権力」や「労働」という半世紀前に盛んに用いられた用語が気になり、著者が約40年前の「思想や価値観」(当時、全共闘議長)を引きずっていることも読み取れます。


私の著書「原発のどこが危険か」(朝日選書、2011)も52箇所の引用のうち4箇所を占めており、的確な解釈により、大きな位置づけになっています。彼は頭がよいと感じました。彼は、「磁気と重力の発見」(みすず書房、2003)で科学史研究者として日本でトップにあることを証明し、この本によって、現代の科学や技術の分析能力でもトップクラスであることを証明しました。彼が、その後(全共闘議長後)、継続的に、深く、思考し続けているように受け止めました。世に希なほど高潔な研究者です。


高潔な研究者により、私の著書が的確に評価されたことに対し、心より、お礼申し上げます。

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Thu, November 03, 2011 stanford2008の投稿

【事務所報告/メルマガ】水戸事務所K2&エベレスト登頂プロジェクト(2008年4月開始)(3)

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Tue, November 01, 2011 stanford2008の投稿

桜井淳が確認した原子力界の制度的不正事件

テーマ:ブログ

元原子炉メーカーエンジニアへの質問と回答-確認計算を設計と偽る軽さ-


Aさま


原子炉メーカーに在籍した経験から、ひとつ教えていただけませんか。軽水炉は、米原子炉メーカーが開発・設計したもので、日本の原子炉メーカーは、技術契約し、詳細図面を入手して、機器製造・建設を実施しています。

元バブコック日立のTさんや元東芝のGさんは、圧力容器(前者)や格納容器(後者)を「設計」していたと主張していますが、「設計」という意味が理解できません。「設計」とは、日本でのマイナーな変更に対する応力解析程度の枝葉末節な仕事と解釈してよろしいでしょうか。

私の認識では、世の中で言うところの設計とは、基礎工学実験、その実験を基にした材質選択や全体・詳細構造設計、詳細な核・熱・水力・応力解析ですが、日本の原子炉メーカーの担当者が、そのような「根源的な仕事」をしているとは思えませんが。


桜井様


根本的な疑問です。技術導入した原子炉の設計では、格納容器の場合(私は専門ではありませんから正確
ではないかもしれませんが、燃料や炉心関係からの推定です)、GEの図面の理解から始まると思います。つぎに、なぜ、このようにしたのか理解に苦しむところもあったと聞きますが、今になって思えば、もともと出来損ないの設計で、理解ができなくてもよったのだと思います。ただし、ドイツのKWUは自分達で納得できる設計に修正しています。


日本の場合、耐震と応力解析を材料(ASME規格で同じと思いますが)データに基づいて、独自に行います。初期条件も日本の安全指針にもとづいて与えられたものにするところは違います。


また、一品料理なので、配管や機器の配置、引き回しは、それぞれ異なります。これに応じて総合的な耐震設計を行います。おっしゃるとおり、根源的なところはやっていません。


BWRの場合は、MKI改良型、MKⅡ改良型はGEベースのものを、広げるという改良をしています。GEのMKⅢは日本では採用せず、日本が中心になり、GEや、スウェーデンのアセアを加えて、ABWRを共同開発しています。したがって、時代と形によって独自性の程度は異なります。


ただし、安全設計という観点からは、まともな設計者、研究者の考えは、ほとんど、採用されていないといってよいでしょう。


「もんじゅ」ですら、米クリンチリバーでやっていなことをなぜ考えるのかというようなことを言うバカがいましたから。


1Fの初期炉についてですが、多分、問題の炉は、格納容器と圧力容器をのぞいて、配管、機器は、全部、最初のものとは取り替えられていると思います。ただし、そのときに、構造、材料を変更することはしていません。その理由は、配管引き回し、材料、機器などは設計そのものをやり直した方がよいだろうと関係者が思っていても、バルブひとつとっても、違うタイプのものに変更することは、耐震、構造解析、安全解析、安全審査のやり直しが必要で、そのための書類作成作業と期間で、電力もメーカもうんざりしているからです。メーカは作業が金になるから、いいかもしれませんが、電力は、その方がよいという内部意見があっても、ふみきらなかったようです。


桜井感想


TさんやGさんの言っている「設計」の意味が分かりました。想像していたとおりの枝葉末節の作業ということです。彼らは、確認計算のことを「設計」と言っているのでしょう。日本のエンジニアは、ゼロから、軽水炉の圧力容器や格納容器を設計できるだけの能力を持ち合わせていません。ABWRやAPWRは、従来の軽水炉技術の範囲内であって、ただ、スケールアップしただけです。



バブコック日立の原子炉圧力容器製造過程での品質管理ミスについて


軽水炉の配管や機器は、建設時のままでなく、定期点検時に順次取り替え、1990年代後半、福島第一原発の現場で技術部長と話した時に、「そのまま残っているのは、原子炉圧力容器、原子炉格納容器、コンクリート構造物だけで、他は全部取り替えた」と言っていました。特に、BWRは、SCCで苦しめられたため、すでに、初期の頃、全部取り替えています。PWRがBWRと同様の取り替えをしているか否か、関係者に、直接、確認していません。古い炉が問題なのは、機器・配管などの高経年化ではなくて、技術と設計法であり、平たく言えば、余裕度の問題です。


日本の商業用軽水炉の最初のものは日本原電の敦賀原発1号機(BWR、35.7万kW、1965年発注、1970年3月14日に商業運転開始)でした。しかし、研究用を含めれば、日本で最初の軽水炉は、原研の動力試験炉JPDR(Japan Powe Demonstration Reactor、BWR、1万kW、1960年12月発注、1963年10月26日に本格試験運転)でした。原研は、米国で、動力試験炉や商業用軽水炉が3基(シッピングポート原発、ドレスデン原発1号機、GE動力試験炉)しかない1960年代早々に、GE社から沸騰水型軽水炉の動力試験炉を導入しました。世界的にも早く、英断でした。


その技術は、GE社でしたが、原子炉圧力容器については、バブコック日立がGE社の技術と詳細図面を基に製造し、また、タービンについては、東芝がGE社の技術と詳細図面を基に製造しました。


JPDRで原子炉圧力容器上蓋内面のステンレススチールのクラッディングに応力腐食割れが発見された時(1966年5月23日、原研編「原研四十年史」、p.269(1996))、原研の研究者は、原子炉圧力容器の製造技術を徹底的に調査しました。その結果、意外なことが発覚しました。しかし、原研当局と原研労組は、設計過程での安全係数により、安全性を損なうほど大きな問題ではないとして、問題視しませんでした。私は、はるか後に、当時、調査に当たった研究者から懸念事項を聞きました。


原子炉圧力容器は、1970年代まで、「プレート製法」(拙著「原発事故の科学」参照)で製造されていました。それ以降は「フォージング製法」(拙著「原発事故の科学」参照)でした。前者は、製鉄所で圧延した炭素鋼板を原子炉メーカーで再加熱して曲げて胴体の一部の構造材を造り、それらを円周状に溶接して製造し、それらのいくつかの胴体を縦に溶接して、全体を完成させます。後者は、胴体の部分は、製鉄所で、一括して、型にはめて流し込み、一体型にし、原子炉メーカーでそれらを縦に溶接して、全体を完成させます。


プレート製法では、製鉄所で圧延した板の方向と製造する原子炉圧力容器の円周方向ないし縦方向の関係が明確に定めてありました。JPDRの原子炉圧力容器は定められたとおりに製造されていませんでした。軽水炉の初期の頃、日本の原子炉メーカーには、詳細な問題把握ができる技術力がありませんでした。JPDRは、すでに解体撤去され、原子炉圧力容器は、中レベル放射性廃棄物であるため、小さく切断されて、原研構内の施設で管理されています。


バブコック日立のみならず、BWR原子炉圧力容器メーカーの石川島播磨重工業やPWR原子炉圧力容器メーカーの三菱重工業まで含め、さらに、日本製鋼まで含め、1960-70年代にプレート製法で製造された原子炉圧力容器は、定められた品質管理の下で製造されたか否か、調査する必要があります。


元バブコック日立エンジニアのTさんはこのような問題を把握しているのだろうか。



原子炉等規制法違反の常習犯


私は原子力界のすべての出来事を知っているわけではありません。わずか四半世紀の経験しかありません。昔のことは、昔の人に聞き、自身で体験したことは、できるだけ、詳細に、あるいは、一般化して記しています。


昔、JCOの土地には、住友原子力の臨界集合体(臨界実験装置とも言う)が設置されていました。臨界集合体とは炉物理実験研究をするための熱出力100W前後の小型原子炉のことです。役割を終えて、解体撤去されましたが、その時に、廃棄物として扱われた放射化されたステンレスの構造材が再利用されてしまい、スプーンとして流通しました。昔はその程度の認識でした。明らかに原子炉等規制法違反です。


その頃、東大病院では、医療に利用した放射性同位元素が東大構内の地中に投棄されるという出来事がありました。放射性同位元素の法的管理は、めんどうであるため、担当の医師は、何を錯覚したのか知りませんが、構内の地中に生めて知らん顔をしていました。明らかに原子炉等規制法違反です。


東大は、1970年代初め、東海村の原子力工学研究施設の弥生炉で、無届けの中性子・ガンマ線スカイシャイン実験を行いました。明らかに原子炉等規制法違反です。遮蔽研究者はみなこの件を知っていました。しかし、触れないようにしてきました。


東大は、そればかりか、1980年代初めに、弥生炉のパルス運転の際、認可された原子炉出力をいくぶん超える実験を行いました。明らかに原子炉等規制法違反です。私は、この件について、2009年に、文科省をとおして、弥生炉の運転日誌と原子炉出力チャートの提示を求めました。しかし、「法的な記録保存期間が10年であるため記録が残ってない」という回答でした。日本にいくつもない研究用原子炉の運転日誌と運転記録は、教材としても貴重であり、捨てる人などひとりもいません。原研では永久保存しています。東大は原子炉等規制法違反の証拠を隠蔽しました。いまでも保存されています。


私はあることに気づきました。原子炉スクラムの発生については新聞の茨城版に掲載されます。研究用原子炉のスクラムは、個々の原子炉とも、年間数回くらい報じられていました。しかし、起動回数が研究炉よりも一桁多い臨界集合体のスクラム発生は、1件も報じられていませんでした。人間がいくら注意しても誤操作やノイズなので、必ず発生します。報じられていないということは、発生していないということではなく、経験からして、隠蔽していると直感しました。明らかに原子炉等規制法違反です。


知り合いの協力を得て、大学・原研・サイクル機構の臨界集合体(KUCA、TCA、FCA)と研究用原子炉(弥生炉、KUR、JRR-3M、JRR-4、JMTR、常陽)、さらに、電力九社の発電炉のスクラム発生と無届例を調査しました。原子炉等規制法違反となる無届例は予想どおりの数でした。電力九社は計十数件、大学は計十数件、サイクル機構は数件、原研は計数十件におよびました。


新聞にも掲載されましたが、2000年代後半、文科省は、管轄対象機関のものだけ、スクラム無届例を公表しました。京大炉計数件、原研の軽水臨界実験装置TCA計十数件、同高速炉臨界実験装置FCA計数件でした。文科省の公表基準は原子炉等規制法で定められている記録保存期間の10年間でした。なお、東電不祥事の際の社内調査によって、東電については、計2件が公表されました。


しかし、私の調査によると、少なくとも、四半世紀遡ったならば、いずれの組織においても、公表された数字の数倍に達します。原子力界は原子炉等規制法違反の常習犯です。JCOとそれら組織の違反はみな同一次元のものです。違いは事故になったか否かだけです。


研究炉のスクラムは、正しく報告され、臨界実験装置のスクラムが隠される原因は、非常に単純です。研究炉は、いくつかの課室からなる50名くらいの大きな組織であるため、炉の起動と停止が誰にでも分かるような体制になっています。それに対して、臨界実験装置は、1日に数名程度しか出入りしない隔離されたような小さな施設であるため、密室状態になっていて、隠しやすい条件がそろっています。そこに携わっている人たちの倫理観だけに頼っていました。スクラムの原因は操作ミスと老朽化(接触不良やノイズ)です。


各組織が、いくらスクラムを隠しても、年1回実施される監督官庁検査官立会いの定期点検の際、安全系の作動確認だけでなく、運転日誌・核計装チャート・放射線モニターチャートのチェックもありますから、検査官に解読能力があれば、すぐに分かります。実際には、それらを机の上に並べて、必要資料がそろっていることを確認するだけで、運転日誌と核計装チャートの一致性などの解読まで行っていません。検査官にそれだけの能力がありません。そのため、四半世紀にわたって、日本で100件くらいのスクラム無届という原子炉等規制法違反が野放しになっていました。


私の調査によれば、2000年代初めに、軽水臨界実験装置でスクラムがあり、保安管理室どころか、理事会への説明資料を作成し、大騒ぎになったことがありました。偶然、なぜ、その1件だけ発覚したかと言えば、ちょうど科術庁検査官が立会いの定期検査中での出来事で、隠蔽のしようがなかったためです。原研運営者は、老朽施設を運転したら、どのような問題が生じ、その対策として、毎年、どのくらいの予算を特別に計上しなければならないかくらいのことは、知らなければなりません。しかし、そのような認識がまったくなく、四半世紀にわたり、ふたつの施設でスクラムがなかったのは、現場の人たちの注意深い運転管理による優秀さと錯覚していました。実に無能な人たちです。原子炉の運転管理について十分習熟しているはずの原研の理事会でこのような小学生並みの判断ミスをしていました。


JCO臨界事故の際、原研東海研所長のTさんは、原研の過去の数十件のスクラム無届による原子炉等規制法違反に気づかず、原子力施設の安全管理について、新聞などのインタビューにおいて、現実と遊離した理想論を述べていましたが、あまりにも大きな現実との落差に、直視していられませんでした。原研の安全意識とはその程度のものでした。



巨費科学の腐敗体質のいくつかの体験


国産動力炉開発を掲げて誕生した動燃は、最初から、政治的に、技術開発実施組織ではなく、参謀本部と位置づけられました。分かりやすく言えば、国家予算をいかに原子炉メーカーを中心とした原子力界に流すかの「トンネル機関」です。


原子力界から動燃に出向した企業エンジニアは、動燃職員(出向職員)となり、自社に通常の技術開発委託費の少なくとも2倍、多い場合には10倍のカネを流しました。湯水のごとき国家予算を原子力界に注ぎました。それは国家予算の不正流用です。企業だけでなく、工学基礎研究分野では、原研や大学に対してもそのようなことをしていました。研究費の乏しい原研や東大など大学の研究室では、そのようなカネで、本来の研究費を捻出し、やりくりをしていました。


原研や東大では、研究者が実際に調査・研究し、研究報告書を作成すればよい方で、実際には、わずかのカネでシンクタンクやソフトハウスに下請け依頼し、それらの組織からの成果報告書の表紙を差し替え、自身の氏名にして、依頼元の動燃に提出していました。


巨費科学の弊害は、その程度ではなく、原研の核融合開発では、巨額の予算がついたものの、研究者は、研究や技術開発の実務に携わることができず、毎日、企業へ発注する仕様書書きに追われていました。企業からの成果報告書の表紙を差し替え、原研の成果報告書にしたり、そのオリジナリティの高い内容については、国内外の学会や国際会議で口頭発表していました。国際会議のプロシーディング論文にしたり、学会論文誌論文にしていました。結局、そのような巨費科学分野の研究者は、仕様書書きしかしていなくても、実力がなくても、何も研究や技術開発をしていなくても、外注の統括の立場で成果を流用していました。そのため、彼らは、研究者としての実力は、ゼロでした。


2000年代になり、大学を対象としたCOE制度が誕生し、オリジナリテイの高い研究に数年間にわたり、数十億円の研究費をつけるようになりました。しかし、実態は、原研の核融合部門のように、大部分の仕事は、仕様書を書いて、外注でことを済ませ、差額で本来の研究室の研究をしていました。大学の学会口頭発表の発表者にシンクタンクやソフトハウスの組織が含まれる場合には、大学関係者は形式的な連名で、実務は、大学以外の人たちが実施していると考えてよいでしょう。


結局、原研や東大などで行っていたことは、国家予算の体裁のよい略奪行為でした。このような構造を知らないのは監督官庁と国民だけです。


日本の大学や研究機関の研究費は、ひとにぎりの国立一流組織に集中投資され、国立地方大学へは微々たるカネしか分配されていません。それら一流組織では、研究費が多すぎ、年度内に使わなければならない時など、まったく必要ない調査・研究を外注し、予算消化に頭を悩ますことも日常化しています。中には、研究テーマに関係ない内容を自身の興味や本来の目的外に流用するケースもありました。COEの実態はひどいものです。COEの成果評価はいい加減でした。政府はもう少し日本全体の研究費のバランスを考えた方がよいでしょう。



スイス・フランス登山直前にマスコミに送った遺書代わりのメモ


マスコミ関係者各位殿


東大大学院総合文化研究科で「安全規制論」や「技術社会構成論」の研究をし、科学技術社会論学会論文誌「科学技術社会論研究」に2編の原著論文を投稿し、掲載されました。「技術社会構成論」では、米戦後の発電炉開発の経緯と軽水炉が世界制覇した社会的要因を考察しました。

1960年代、英仏は天然ウランを利用した黒鉛減速炭酸ガス冷却炉、米国は低濃縮ウランを利用した軽水減速軽水冷却炉でしたが、1970年代に仏国は米国型軽水炉への路線変更、1980年代に英国も米国型軽水炉への路線線変更、日独は最初から米国型軽水炉路線でした。米国で開発された軽水炉は世界制覇したのです。

あまり知られていませんが、米国は、軽水炉だけでなく、二種類の商業用発電炉を商業運転していました。ひとつはマンハッタン計画時に開発したプルトニウム生産炉(黒鉛減速加圧軽水冷却炉)をスケールアップした天然ウランを利用したN原発(86万kW、1958年発注、1966年商業運転開始、1988年閉鎖)です。もうひとつは低濃縮ウラン被覆燃料粒子を利用した高温ガス炉(黒鉛減速ヘリウムガス冷却炉)のフォート・セイント・ブレイン原発(34万kW、1965年発注、1979年商業運転開始、1989年閉鎖)です。軽水炉の拡大の中でこれら二種類の発電炉は傍流として消えて行きました。しかし、世界は、高温ガス炉の技術の重要性に気づくべきでした。安全な将来炉として位置づけるべきでした。世の中に唯一残るとしたら高温ガス炉しかありませんでした。

軽水炉が世界制覇した社会的要因は、米国の政治経済の支配力、ガス炉と違い炉心出力密度が高いために経済性を上げられるコンパクトな炉心の実現、炉心燃料交換時にすべての作業工程を可視化でき、なおかつ、放射線の遮蔽材にもなる軽水(普通の水)を利用した点などにあります。軽水炉は、反面、運転時・停止時とも炉心の発熱と冷却のバランスが崩れると、炉心溶融します。しかし、米国は、人間の注意深い注意と工学的安全対策によって乗り切れると考えました。英仏独日もその路線に乗りました。軽水炉は、戦後、米国が開発した技術の成功例のひとつです、地震・津波のない欧米対象ならば。

日本は、欧米と異なり、地震・津波というアキレス腱を抱えていたにもかかわらず、軽水炉をそのままデッドコピーして、数多く建設・運転しました。日本が最優先しなければならなかったのは、日本の設置条件に適した固有安全性を有する独自の炉型でした。欧米との設置条件の差異に目をつむり、独自の技術開発を怠ってしまいました。

安全審査も的確に機能していませんでした。1965-72年当時(福島第一の1-5号機など)、安全審査期間は、わずか、半年で、フリーパスでした。それ以降今日まで、2年間に変更されましたが、安全審査の空洞化は、続いています。私は、そのことを、通産省原子力安全解析所で経験(大飯3号機4号機、浜岡4号機、女川2号機の安全審査の安全解析に従事)しました。

福島第一原発事故では東京電力が袋叩きに合いました。感情的にはそうなってしまうのでしょうが、それはとかげのしっぽ切りであって、いちばん批判されるべきは、自民党が強権的に推進した原発推進策でした。特に、1970年代半ばに田中角栄が作り出した原発交付金制度でした。自民党は、カネで自治体民意を買収し、権力犯罪的に軽水炉の大量建設を促進しました。

原研で日常的に見たものは、1970年代の事故・故障の度に、人事部長通達で「想定済みのことだから沈黙するように」との強制でした。それでも軽水炉について論じた研究者に対しては、組織外しや昇格停止の人事処分が繰り返されました。原研は、自民党や電力会社の強権的な支配構造の中で、軽水炉を無条件に肯定し、推進しなければならない立場におかれていました。研究者は刑務所の鉄格子の中に入れられたような状態でした。原研では、1970年頃から、研究者に、外部発表票や外部投稿票の提出が義務づけられました。研究者は、講演原稿や論文を添付した定められた書式を室長に提出し、原子力や軽水炉に無条件に肯定的な内容でなければ、室長や部長が印鑑を押しませんでした。これは学術的真実を覆い隠す検閲です。


私は原研と安解所と原産に背を向けてしまいました。危ない物を無審査で運転管理していることへの不同意の意思表示でした。

原産では、直属上司の森一久専務と対立し、辞職しました。森氏は、ある日突然、「炉心溶融というのは、機器の信頼性に問題があったとしても、住民への影響がなければ安全性を維持できるから問題ないだろう」と。私は「そのような技術は社会に受け入れられないでしょう」と反論いたしました。後に、原子力安全委員会委員長の内田秀雄氏に会った時にも、内田氏は、森氏と同様のことを言っていました。それは、森氏や内田氏の個人的考え方ではなく、原子力界上層部ですでに調整済みの未来であると直感し、劣化する原子力の未来を不安に思い、原産から逃げ出しました。それから22年、福島第一原発事故の光景を見ました。

私は、3号機の爆発の光景を見た時、社会変革の力を感じました。人間の無知を吹き飛ばしたからです。原研と安解所と原産に背を向けたことの正当性を確認できたからです。高木仁三郎氏や私のしたことは大河に流される笹船のようなことでした。何も変えることはできませんでした。しかし、3号機の爆発の光景は、社会を変えられるような重大な真実を語っていました。

そのくらいのことが起こらなければ、政府・安全委員会・保安院・マスコミ・国民は、軽水炉技術の根源的な危険性を認識できず、空洞化された安全審査の中で、つぎつぎと軽水炉を建設し、より危険な方向にシフトしてしまうでしょう。福島第一原発事故をあえて肯定的に位置づけるとすれば、日本を致命的破滅から救い、今後、何が必要であるか、社会に示したことです。虚構から現実の世界へ導きました。人間は嘘をつきますが、自然は人間にありのままを示します。

東大や原研の軽水炉安全性研究など、しょせん、ままごと遊びのレベルに留まり、福島第一原発事故という現実の厳しさにまったく対応できませんでした。東大工学部(特に原子力)の教員の果たした功罪は相半ばすると言うことでしょうか。

スイス・フランス登山直前にして遺書代わりに


桜井淳



補足


最近、「週刊現代」や全国紙(日経除く)で、玄海原発1号機(加圧水型原子炉、55万kW、1975年商業運転開始)の原子炉圧力容器の危険性(爆発大事故の可能性)が報じられています。その爆発大事故の可能性の根拠は原子炉圧力容器の「脆性遷移温度が91℃に達しているから」というものです。それは間違いです。

以下、なぜ、間違いなのかを解説いたします。

一般にはあまり耳にしない「脆性遷移温度」とは、ステンレスにはない概念で、軽水炉の原子炉圧力容器材料に利用されている炭素鋼にある概念で、「強度が大きく変化(遷移)する温度」のことです。「脆性遷移温度」の問題点は、原発運転中に、炭素鋼が0.1MeV以上の高速中性子を浴びるにつれ、上昇し続けるということです。

冷却材喪失事故が発生して、緊急炉心冷却装置で原子炉圧力容器が急冷され、世界の発生例からすれば、130-150℃くらいまで冷却されます。

もし、(a)「脆性遷移温度」以下に冷却され、なおかつ、(b)原子炉圧力が数十気圧以上に維持され、(c)原子炉圧力容器に許容欠陥以上の大きさの亀裂が存在していれば(許容欠陥の大きさの目安としては、大人の親指の第一関節の先の部分を粘土に押し付け、できた凹みくらいの大きさ)、原子炉圧力容器は、「脆性破壊」をします。しかし、(a)(b)(c)の条件がそろう確率は、極めて低いと評価されています。世界の原子炉ではそのようなことはこれまでに1件も発生していません。

世界で採用されている米機械学会の技術基準では「脆性遷移温度」の設計値は93℃です。米国では、93℃を越える加圧水型原子炉がいくつかあるため、米原子力規制委員会は、1980年代後半、過去の米原発事故を解析し、「脆性遷移温度」の値を132℃に緩和いたしました。

「脆性遷移温度」の上昇のメカニズムについては、1960-80年代に研究され、その後は、米国の現実的な運用が受け入れられ、それを否定したり、議論の対象にはなりませんでした。世界の学会論文誌に「脆性遷移温度」の原著論文は、少なくなりました。

玄海原発1号機の原子炉圧力容器の現在の「脆性遷移温度」は設計値以内の91℃です。世界にはこのくらいの「脆性遷移温度」に達している加圧水型原子炉は100基くらいあります。拙著の「原発「老朽化対策」は十分か」(日刊工業新聞社、1990)、「ロシアの核が危ない!」(TBSブリタニカ、1995)「旧ソ連型原発の危機が迫っている」(講談社、1994)、「原発のどこが危険か」(朝日選書、1995)には、上記のようなことが詳細に記されています。Iさんは、「玄海1号機は世界でいちばん危険」と主張していますが、学術的根拠がありません。


欧米日で設計値の「脆性遷移温度」を問題視する研究者は、おらず、日本のIさんだけが「玄海1号機の爆発大事故」を主張しています。全国紙の記者は「玄海1号機の爆発大事故」の根拠を吟味したのでしょうか。Iさんの主張は査読付の学会論文誌には絶対に掲載されません。学問ではないからです。単なる一研究者の主観を述べたエッセーレベルのことです。

全国紙の記者は、ただ、Iさんの主張を受け売りする前に、世界の関係学会論文誌の「脆性遷移温度」に関する原著論文を検索入手し、設計値の93℃を否定するような論文が存在するか否か、検討すべきです。しかし、そのような論文が存在していなくても、世界の研究者がすべて間違っていて、歴史的天才のIさんが正しいこともなくはないでしょうから、設計値の93℃で不合理な根拠を挙げてください。いまの91℃で不合理な根拠を挙げてください。原子炉材料研究者は、加速試験片と原子炉圧力容器で進行している物理現象が完全に一致していないことくらい、誰でも知っています。1990年代初めにORNLの研究者が言及しています。他に有効な手法がないため、そのようにしてきました。それから、母材と熱影響部(溶接部)の「脆性遷移温度」上昇傾向が異なることも誰も知っています。


Iさんは、原発訴訟で証言している分野、すなわち、「応力腐食割れ」や「照射損傷」や「脆性遷移温度」の専門家ではありません。私は、東海第二原発における原告側証言の前に、応力腐食割れや照射損傷や脆性遷移温度にかんするIさんの学会論文誌原著論文を見たことがありません。さらに、いくら検索しても単著も見出せませんでした(大学の研究者ならば、得意の分野で単独の学術書が数冊あっても普通ですが、なぜ、ないのか不思議です)。原子力界では無名の研究者です。


私は、1975年から8年間、材料試験炉の炉心核計算を担当しましたが、その間、原研や大学や原子炉メーカーの研究者から、原子炉圧力容器材料の炭素鋼試験片の高速中性子照射の依頼を受け、照射条件を決めたことがあり、世界の学会論文誌をとおし、その分野の世界の研究状況、日本の研究者や研究内容など、把握していました。その後も、同論文検索を継続し、その分野の研究状況・研究者名・研究内容は把握しています。


現実的視点から、「脆性遷移温度」についての問題で着目すべき点は、加速試験片から推定される原子炉圧力容器本体の「脆性遷移温度」の信頼性(加速試験による不確実性、評価誤差、加速試験片と本体の中性子線の線質(中性子スペクトル)など)です。「脆性遷移温度」は、冷却材喪失事故や加圧熱衝撃の熱流動現象からして、100℃以下ならば、安全上問題なく、米原子力規制委員会の規制緩和には無条件で同意できませんが、現実的な選択であったと受け止めています。


日経を除く全国紙の記者の科学リテラシーは中学生の理科レベルです。世界的に質の高い「日経」は「朝日新聞」のような「爆発大事故」のような記事は掲載していません。朝日新聞社は、「脆性遷移温度」のような専門的な問題に対して、社内に、論説委員、科学医療部や社会部の記者からなる勉強会を組織し、文献調査や立場の異なる複数の研究者からの聞き取り調査などを実施し、玄海原発周辺住民や国民に責任を持てる記事を掲載すべきです。

福島第一原発後、一部のマスコミは、あとづけで、あることないこと、書き立ててきましたが、そのような不毛な議論には終止符を打ち、今秋からは、もっと、質の高い議論を開始すべきです。



2009年に原子力機構と文科省が認めた「制度的慣例」


原研内での「うわさ話」や世の中のつまらないことに耳を傾けようとしたことは一度もありませんでした。つまらないことには、一切かかわらない、そのような人生を送ってきました。仕事で、原研ばかりか、安解所、通産省、科技庁、原産、原子炉メーカー、電力会社、政府にもかかわり(すべての拙著参照)、それらの各組織や組織間のあまりよくないなれあいのメカニズムも知らないわけではありませんでした。知っていても沈黙していることは少なくありませんでした。


それら組織に未熟な人間がかかわっているかぎり、組織内はもちろん、組織間においても、不条理なことや不正・不祥事は、日常茶飯事であり、掃いて捨てるほどあるでしょう。それらの中には、発覚すれば、数名の逮捕者がでるようなこともあるでしょう。組織とはそのようなもの、世の中とはそのようなものとして、悟りの心で生きてきました。


ただし、ひとつだけあいまいにせず、事実関係を確認したことがありました。ある気がかりな問題について、原研の複数の関係者に聞き取り調査を実施し、具体的な証拠となる資料をそろえていました。文科省をとおして原子力機構に確認したのは2009年のことでした。具体的には、文科省HPから、本名で、「原研(現在、原子力機構)と科技庁(現在、文科省)についてのある「制度的慣例」」について質問しました。内容が内容だけに、当事者である文科省が握りつぶす可能性があるため、総務省にもHPから同じ質問をしておきました。


原研の「制度的慣例」とは、事業を円滑に進めるため、関係者の意思疎通を図るため、科技庁の原研担当官僚などを週末ごとに接待し(逮捕されるような「官々接待」)、年間数百万円、四半世紀に総額1億円弱に達する不正行為(関係者が逮捕されるような「贈収賄」)のことです。これは、省庁の過去の事例からすれば、官僚が職位と権限を利用した典型的な「たかり行為」です。原研では「制度的慣行」でしたが、科技庁では「個人判断の引継ぎ事項」であったか「制度的慣例」か、私には関係ない世界です。


意外にも、文科省は、その問題を真正面から採り上げ、ことの真意を確認するため、原子力機構に問い合わせました。その時、質問者の本名を明かしたかどうか、確認が文書かメールかも知りません。文科省からの回答はメールでした。ことの経緯は、文科省HPの質問欄、文科省と原子力機構の間で交わされた文面が残っているため、いま、第三者が確認することが可能でしょう。


文科省の問い合わせに対し、原子力機構は、「いまはやっていない。費用は会議費として確保してあったものを使用した。領収書の保管期間は3年間(後に4年間と修正)」と回答しました。原子力機構は「制度的慣例」を正式に認めました。


しかし、原子力機構は、本当の意味が分かっていませんでした。会議費として確保されていたか否かが本質ではなく、関係者が逮捕されるような官々接待を「制度的慣例」として四半世紀にわたり、総額1億円弱に達するようなことを続けたことが本質です。


「制度的慣例」の実施責任者は理事長で、官僚接待の担当者は、原研の戦略的方針を検討する企画室長でした。後に原子力安全委員会委員長に就任したMさんは、企画室長を経て、理事、副理事長、理事長になりましたから、官々接待の責任者であり、担当者でした。そのような人間が原子力安全委員会委員長として安全審査や安全規制に携わってきたのですから、福島第一原発事故のようなことが起こっても不思議ではありません。Mさんは、原子力安全委員会委員長を退任後、慣例の持ち回りの職位の原子力安全研究協会理事長に就任しています。Mさんだけでなく、ここ四半世紀の間、、企画室長と役員の職位にあった者は、全員逮捕されるに値する罪を背負っています。


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
原研編「日本原子力研究所史」(2005)。この

pp.549-550に歴代役員名が記載されています。


さらに、来年4月発足の環境省原子力安全庁の諮問委員会委員候補者ということですから、この国は、どこまで不正と原子力劣化をひきずるのか、絶望的なほど強いめまいを感じています。Mさんは、その委員を辞退して、引退した方がよいでしょう。そればかりか原子力安全研究協会評議委員会会長も辞退した方がよいでしょう。この件は、いずれ国会で福島瑞穂党首などによって問題にされるでしょう。


Mさんは、一時期、私の直属上司でした。辞退を心より助言いたします。原子力安全庁には古い原子力関係者はかかわるべきではありません。Mさんは、国民のためにも、自身のためにも、潔く去るべきです。


動燃、それに、動燃の組織替えで誕生したサイクル機構の関係者への聞き取り調査から、それらの組織でも、「制度的慣例」が実施されていたことが明らかになった。日本の官僚は、職位と権限を悪用し、すべての省庁で同様なことを慣例として実施していたのだろう。



東海第二原発調査と廃炉宣言-檻の中の東大や原子力機構の関係者に頼る愚行-

東海村村長の村上達也さんには、JCO臨界事故の時に、NHK衛星放送の特別番組の討論会で顔を合わせま
した。それ以降、疎遠です。村上さんは、最近、脱原発、具体的には、東海第二原発の廃炉を主張するようになりました。

私は、実は、そのようなニュースが掲載される前に、7月26日に実施した東海第二原発の野外施設の見学と関係者との質疑応答で、ダメだと感じました。

ダメな理由
①安全審査で長期的な東海村や周辺の人口密度の増加と影響を考慮していない、
②100万都市の中心に100万kW級原発が存在する生存への不確実性、
③津波があと約1m高かったら福島第一原発事故のようになっていた(自然現象の偶然性に救われた)、
④野外施設(特に非常用ディーゼル発電機海水冷却ポンプと残留熱除去系海水ポンプ)の設計と設置法がまったくデタラメ(雨曝し状態で、自然災害やテロ行為に弱い)、
⑤苛酷炉心損傷事故は、地震や津波だけでなく、スリーマイル島原発事故のように、人為ミスや機器故障でも起こる、

ということで、東海第二原発は、廃炉にすべきです。私は、水戸市郊外で生活していますので、東海第二原発の存在は、許容できません。

東海第二原発を設置したのは間違いでした。東海村ほど人口密度の高い地域に原発を設置した例など世界にありません。原研の研究者は、檻の中で人事管理されているため(軽水炉の安全性に疑問を投げかけたら即処分)、軽水炉の安全性について、何も、言えない状態でした。彼らが隣接地の原発建設に沈黙したのは間違いでした。

東海村や茨城県は、いまでも、東大や原子力機構の関係者を中心とした委員会を設けていますが(役所は虚飾の東大の権威にしかすがれない無能集団)、福島第一原発事故前の政治状況とまったく同じです。時代錯誤もはなはだしく、もうそのようなことは止めてもらいたい。

米国では、スリーマイル島原発事故後、原子力研究者、他工学分野の研究者、作家、宗教家など、あらゆる分野の人たちがい知恵を出し合い、原子力の将来を決めていますが、日本では、相変わらず、福島第一原発事故を生み出した東大や原子力機構の関係者のままです。いますぐにそのような体制から脱却しなければなりません。
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Tue, November 01, 2011 stanford2008の投稿

桜井淳のこれまでの高木仁三郎さん飯田哲也さん小出裕章さん今中哲二さんとのやり取り

テーマ:ブログ

同郷人である高木仁三郎さんとの四半世紀にわたる付き合い-裏庭から見える同じ風景-


私は、20歳台の頃、世の中に、高木仁三郎という核化学の研究者が存在することは、認識していました。しかし、忙しさに流され、なおかつ、専門分野が異なっていたため、さらに、身を置く組織により、高木さんとは、縁のない別世界に生きていると考えていました。


しかし、「わが内なるエコロジー」(農文協)を読んだ時、高木さんが同郷人であることに気づきました。すでに、30歳台初めになっていました。高木さんは前橋市出身、私は太田市出身で、共通の自然とは、雄大な赤城山の存在でした。


その頃から、上京する際、喫茶店で雑談するようになりました。そんなことが四半世紀続きました。特別な話はしませんでした。ただ、同郷人として、生まれ育った自然の光景について、話していました。高木さんは、著書が出版されるたびに、私に書評を依頼してくれました。


高木さんが病に伏せていた時にも、それまでと同様のやり取りをしていました。かなり厳しいやり取りもありました(「桜井淳著作集第3巻科学技術社会論ノート」、pp.195-200、論創社(2005))。お互いにプロですから、主張すべきことは、遠慮せず、主張していました。


高木さんは調布の自宅を訪れるように勧めてくれました。しかし、高木さんの体調が悪くなり、約束は、キャンセルされ、とうとう、実現しませんでした。高木さんとの対談や共著の話も進んでいましたが、実現しませんでした。すべては、私の責任でした。もっと早く、手を差し伸べていたら、状況は、変わったかもしれません。


いま、高木さんが生きていれば、お互いに協力し合い、日本の先端で、命をかけて、福島原発事故後の日本のあり方を求めていたかもしれません。対談や共著の機会を失ってしまい、悔やまれてなりません。赤城山を見る時には必ず高木さんのことが思い浮かびます。



最近10年間の飯田哲也さん小出裕章さん今中哲二さんとのやり取り


私は、これまで、福島県と、まったくかかわりがなかったわけではありません。2002年2月12日に、福島県福島市で開催された、「第13回福島県エネルギー政策検討会」で、「原子力発電所の高経年化について」と題する招待講演を行いました(「桜井淳著作集第4巻市民的危機管理入門」、p.614(2005))。(その後、福島県議会主催の講演会でも「軽水炉の安全性-特にプルサーマル-」についての招待講演を行いました。)


「第2回福島県エネルギー政策検討会」で、環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也さんも招待講演をしていました。その直後、飯田さんの提案と取りまとめによって、飯田哲也・桜井淳・吉岡斉・米本昌平さんらとの連名で福島県知事へ提言書を提出しました(同上)。それを契機に、飯田さんとは、継続的に、意見を交換しました(同書、pp.507-513)。


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)

飯田哲也「北欧のエネルギーデモクラシー」

(新評社、2000)


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
飯田哲也編「自然エネルギー市場」(築地書

館、2005)


つぎに、飯田さんと顔を合わせたのは、2002年11月2日、福島県郡山市で開催された日本弁護士連合会主催の緊急シンポジウム「東電不正問題と日本のエネルギー政策」でした。お互いにパネリストでした。その時、弁護士の河合弘之さん(総合司会)と海渡雄一さん(パネリスト)とも知り合いになりました。その直後に、河合さんと海渡さんから、浜岡訴訟の映像証言の依頼があり、協力しました。私は、シンポジウムまで、日本弁護士連合会とは付合いがありませんでした。真相は知りませんが、私をパネリストに推薦したのは、飯田さんではないかと思っています。


飯田さんとは、そのシンポジウム後、2回ほど顔を合わせました。私と飯田さんは、原発の安全性やエネルギー政策において、考え方が非常に近いと感じています。飯田さんは大変優秀な研究者です。私は飯田さんの著書から多くのことを学びました。


私は、昔から、京大原子炉実験所の小出裕章さんと今中哲二さんの名前は知っていました。しかし、忙しさに流され、直接のやり取りはしませんでした。しかし、2008年冬頃、今中さんが、私の事務所主催の学術セミナーに参加したのを契機に、やり取りするようになりました。今中さんだけでなく、小出さんともやり取りをするようになりました。


私は、2009年前半(CY)、今中さんと小出さんと頻繁にやり取りをしました。多くの疑問もぶつけました。そのたびに誠実な返事がありました。ふたりの考え方がよく分かりました。人間的にもすばらしく、能力的にも東大教員よりも上だと受け止めました。


そのため、2009年秋に開催される科学技術社会論学会研究大会で「ワークスタディ」セッションで研究発表をしようと提案しました。しかし、小出さんは、どの学会(原子力学会脱退)にも不信感を持っており、今中さんも分野外の学会と位置づけ、結局、研究発表は、実現できませんでした。結局、私単独で、「ベック「危険社会」に象徴されるリスク管理社会の情報の発信法と信頼性」(「科学技術社会論学会第8回年次研究大会予稿集」、pp.40-43(2009))と題し、小出さんや今中さんを高く評価する内容の研究発表をしました。


そして、最後に、「地震国日本で数多くの原発を運転するのであれば、スリーマイル島原発事故並みの炉心溶融は覚悟しておかなければならない」と結論しました。2009年以前にもそのようなことを主張していました(前出著作集参照)。2010年秋の同学会第9回年次研究大会でもそのような主張をしました。それから、わずか、半年後に、福島第一原発事故が発生しました。


私は、2000年以降、社会科学で原著論文を書いたり、東大大学院で社会科学の研究をする過程で、昔に比べ、考え方か大きく変わりました。原研や安解所や原産(兼務非常勤)の頃の私とは違います。東大駒場から東大本郷に移り、考え方(哲学と方法論)が、さらに、大きく変わりました。その成果は、今後、原著論文や学術書として、示したいと考えています。

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Sun, October 16, 2011 stanford2008の投稿

桜井淳による一流クライマーの条件-自身で稼いだカネで自身も同行者も無傷で帰ってくること-

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日本ではプロのクライマー(急傾斜壁・垂直壁登攀者)やガイドは経済的に成立しません。一握りの人たちがプロとして生きていますが、経済的には、成立しません。


趣味や娯楽で山に入る人の大部分は人工的によく整備されたコースを歩むハイキングやトレッキングの客です。残りのわずかな人たちは谷川岳・剣岳、穂高岳・北岳の急傾斜壁・垂直壁の登攀を目的とするクライマーです。


日本でのハイキングやトレッキングならば、日帰りができ、たとえ、いくつかの山を縦走したとしても、単独行は、可能です。しかし、急傾斜壁・垂直壁の登攀となると、技術的に、さらに、安全に配慮して、単独行は、避けた方がよいでしょう。


ヒマラヤの氷河の奥深い登攀の場合には、厳密な意味での単独行は、不可能です。1ヵ月間の登攀に要する登山用具や生活物資の運搬は、ひとりではできないため、第三者に依頼せざるをえません。天気・天候・気象の最新情報を入手するため、常に、ベースキャンプとの交信も欠かせません。


単独行の定義はありません。ベースキャンプ出発後、単独登攀ならば、たとえ交信を継続しても、単独行と位置づけられることもあります。ベースキャンプから最終キャンプまで複数登攀であっても、最終キャンプ出発後、単独登攀ならば、単独行と位置づけられることもあります。


ヒマラヤの山々の登攀の場合、人工登攀器(氷壁越え固定金属梯子、クレバス越え固定金属梯子、固定ロープ、固定くさり、さらに各自持参のユマール)の利用を禁止したら、登攀は、不可能です。それらの利用と単独登攀は別問題です。


登攀は自己責任の世界です。各国とも、ガイドをつけることを義務づけていませんが、安全に配慮し、強く奨励しています。スイスの山小屋のでは、ガイド付でなければ、宿泊予約がとれないところもありました。


スイスでは、アイガー、マッターホルン、グランドジョラスの北壁登攀を除外すれば、たとえ、複数の山を登攀しても、かかる費用は、数十万円です。ヒマラヤでは、氷河の奥深くでなく、1週間のキャラバンで到着できる距離であれば、100-150万円、氷河の奥深くの中国との国境に近い山々であれば、150-300万円くらいかかります。


旅行会社が主催する各大陸最高峰の登頂は、エベレストを除き、ガイド付・諸費用込みで、100万円で実現できます。エベレストの場合、登山ガイド角谷道弘さんのHP記載内容によれば、エベレスト登頂経験を有するガイド付・諸費用込みで、680万円です。各大陸最高峰への登頂は、おカネがあれば、誰でも実現できます。ですから、特別なことではありません。価値を見出せばやり、そうでなければやらないだけです。


一流クライマーの条件は考え方により人さまざまです。私は、たったひとつの条件を挙げておきます。それは、自身で稼いだカネで実施し、自身も同行者も、無傷で帰ってくることです。私の定義からすれば、山野井泰史・妙子さん(「垂直の記憶」、山と渓谷社)は一流ではありません。植村直己さん(「青春を山に賭けて」、文春文庫)も、エベレスト登頂やグランドジョラス北壁登攀に成功しましたが、冬季マッキンリー登頂後、クレバス落下・遭難死したため、一流クライマーではありませんでした。植村さんは、常に、大きな成果を期待するマスコミからの重圧の中で、無理に無理を重ね、遭難しました。マスコミに殺されました。スポンサーとマスコミに弱い冒険家の弱さをさらした出来事でした。


エベレスト南東稜コースは、人工登攀器を設置した、よく整備された観光目的の一般コースです。


三浦雄一郎さんは、垂直壁のロッククライミングができないため、クライマーではなく、なおかつ、昔、エベレストのベースキャンプから第一キャンプへの移動途中のアイスフォールで同行者6名のシェルパーの死亡事故に遭っていますから(「冒険者」、実業之日本社)、一流クライマーではありません。それにもかかわらず、計画どおり、標高8000mから、スキーで滑走しました(同上)。それは人間としての倫理違反です。75歳でのエベレスト登頂は、表面的には、大変立派な業績だとは思いますが、かかった総額、カネの出所、かかわった人数33名、特に、ベースキャンプ人数と同行者数18名を考慮すると(同上)、大名行列のようであり(医師・健康管理人・料理人)、その条件ならば、誰でも登頂できます。私にはシェルパ10名と一緒に登頂する冒険家の精神構造が理解できません。そのくらいカネをかければ誰でも実現できます。


世の中では、一流クライマーが、遭難死、ないし、凍傷で手足の指を切断すると錯覚していますが、それは、彼らが、どこかでミスをした結果であり、一流クライマーの称号は、自身と同行者とも、無傷で生還できた人たちにしか与えられません。ミスした人たちを美化するのは間違いです。一流クライマーとは、いつでも、「危険」を直感でき、いち早く「撤退する勇気と決断力」を有する人たちのことです。


1960年代と70年代は、「より速く、より強く、より高く」の競争と対立の時代で、より高い山への登攀競争の時代でしたが、そのような狂気と無価値なことはすでに見捨てられ、いまは単独で趣味として、いかに楽しむかという時代になりました。登山は、その成果を世の中に吹聴することではなく、謙虚な心の世界の出来事です。


登山の残された唯一の課題は、過去半世紀、一部の無責任な登山家によって汚し放題のエベレストをきれいにする野口健さん(「落ちこぼれてエベレスト」、集英社文庫)のような清掃活動です。本来ならば、そのようなことは、入山料を取っているネパール政府の観光部門が実施すべきことですが、環境政策が先進国並みレベルに達していないため、放置され続けてきました。問題は、エベレストだけではなく、国内外、すべての山が対象です。人間は謙虚でなければなりません。


人間として評価できるのは山野井夫妻です。ふたりが、意識しているか否かにかかわりなく、私の見方からすれば、「限りなく禅思想に近い世界」に生きているように思えます。泰史さんの思考法と論理的な表現にはすばらしいものがあります。


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)
新田次郎「アイガー北壁/気象遭難」(新潮文

庫)



補足


モンブラン登頂一般コースの真実


(1)Wikipedia「モンブラン」の項目「登山」の記載内容(2011.8.22現在)への疑問


一般論として言えることは、Wikipediaの記載内容は、素人が書き込んでいるため、信頼性が低く、学術論文には引用できません。


たとえば、「モンブラン」の項目「登山」には、「現在、モンブランは年平均2万人の登山者によって登頂されている。熟練した登山者にとっては難易度はそれほど高くない。モンブラン近くのエギーユ・デュ・ミディの、標高3842m地点までケーブルカーで登ることができ、そこからモンブラン山頂までの標高差は1000m程に過ぎない」と記されています。


この記載内容からすると、一般コースとして、エギーユ・デュ・ミディからモンブランへ登頂可能と読めます。新田次郎さんの小説にもそのような記載があります。しかし、素人がよく陥ることですが、小説と現実を混同してはなりません。モンブラン登頂への一般コースは、下記(2)のとおりです(植村直己さんや野口健さんなどが登ったコースです。植村さんは、最初、別コースの氷河から登り、クレバスに落ちて危うく命を落とすところでしたが、翌年、やり直し、ク゜ーテ小屋コースを日帰りで登頂しました。日帰りは不可能なのですが、それを実行したことに植村さんのすごさがあります。野口さんは、グーテ小屋コースの登山のところで、植村さんのクレバス落下について解説していますが、それは、木に竹を接ぐような不合理な論理展開です。野口さんは事実関係をよく確認した方がよいでしょう)。


エギーユ・デュ・ミディ展望台からモンブランを見ると、非常に近くに見え、最短・最適な登山道と錯覚しがちですが、プロでなければ通過できない危険なコースです。エギーユ・デュ・ミディ展望台へは、厳密な表現をすると、ロープウエイ(空中に吊るす)であって、ケーブルカー(地上の電車をケーブルで引き上げる)ではありません。しかし、英語では、いまでも、ロープウエイのことをケーブルカーと記している資料もあります。(今井道子さんの著書や新田次郎さんの小説には、ロープウエイのことをケーブルカーと記してあります。)外国ではともかく、いま、日本では、両者を区別しています。ロープウエイ、ゴンドラ、ケーブルカー、登山鉄道の区別は、明確にした方がよいでしょう。



(2)モンブラン登頂一般コース(ク゜ーテ小屋コース)


(a)シャモニ・モンブラン郊外のロープウエイ乗り場(エギーユ・デュ・ミディ展望台行きロープウエイ乗り場ではないことに注意、早朝7時頃にホテルを出発)のレズーシュ駅からTMB登山鉄道のベルヴュー駅にアクセスできる終点駅まで、


(b)TMB登山鉄道のベルヴュー駅(標高600m、必ず往復の切符を購入すること)へ、


(c)TMB登山鉄道終点のニ・デーグル駅(標高2386m、モンブランの標準的な登山口、朝8時)へ、


(d)登山(岩がゴロゴロ)、


(e)テートルース氷河の手前まではトレッキングコース(テートルース小屋で食事ができます)、


(f)落石の多い最初の難所のクーロワール(これは仏語で、独語ならルンゼで、意味は急な岩溝、標高3100m、昼12時着、岩がゴロゴロ)、


(g)グーテ小屋宿泊(標高3817m、要予約、登山口からここまで数時間かかります、夕刻4時着、翌朝3時にアイゼン装着し、アンザイレンして出発)、


(h)ドム・ド・グーテ(4304m、このピークのすぐ先にヴァロ小屋4362m、ここから風が強く狭い稜線となります)、


(i)クレバス(このクレバスは、常にあるわけではなく、猛暑の影響であちこちに生じることもあり、幅1m段差2mですが、一箇所だけ飛び移れるくらいのステップが設けられています)、


(j)登頂(標高4300mから、グーテ小屋を3時に出発して8時に登頂、グーテ小屋から登頂まで5時間)、


(k)頂上から下山してTMB登山鉄道終点の二・デーグル駅(下山にすくなくとも7時間かかり、夕刻4時頃になります)、


(l)ロープウエイでシャモニ・モンブランのホテルへ(夜6時頃)。

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Thu, October 13, 2011 stanford2008の投稿

桜井淳による2冊のベストセラーの感想-決定的要因は編集者の的確な判断と社会背景の変化-

テーマ:ブログ

福島第一原発事故後、いつものように、これまでに、新聞・週刊誌・月刊誌・テレビ・ラジオから、300件弱のインタビューを受けました(バックナンバーに詳細リスト掲載)。そればかりか、いつもと異なり、10冊(新著6冊、新版・改訂版・刷増3冊、新監修1冊)の単行本出版の依頼を受けました(バックナンバーに詳細リスト掲載)。すでに出版されている7冊のうち、2冊がベストセラーになりました。


$桜井淳カリフォルニア事務所


世の中にベストセラーの明確な定義はありません。大雑把には、1万部以上と言われていますが、分野によって異なり、理工系の硬い内容であれば数千部以上、大衆的な小説であれば10万部以上がひとつのめやすになっています。しかし、これまで、そのような世界と無関係に生きてきており、そうありたいと願ったことなど一度もありませんでした。


著書「原発のどこが危険か(新版)」(朝日選書、2011)は、4月第一週の1週間で、3刷を経て、1万部以上のベストセラーになりました。それは、いちばん早く出版できたことによる結果であり、編集者の作戦勝ちでした。出版が1週間遅れただけで結果が変わっていたでしょう。


監修「原子力事故自衛マニュアル(改定版)」(青春新書、2011)は、4月第一週の1週間で、3刷を経て、7万部以上のベストセラーになりました。それは、いちばん早く出版できたことによる結果であり、編集者の作戦勝ちでした。出版が1週間遅れただけで結果が変わっていたでしょう。原子力の専門家でない執筆者たちが、素朴な疑問点をリストアップし、子供を持つ主婦に分かるように、平易に解説したのがよい結果につながったものと思います。私が執筆したならば、学術的になりすぎて、ベストセラーにはならなかったと思います。



「原発のどこが危険か」は1995年に出版されました。福島第一原発事故後、「まえがき」と「本文」は、そのまま一字一句修正せずに、新版のための「新版まえがき」を1頁追加し、初版の「あとがき」を削除し、福島第一原発事故の速報を含めた社会的影響と未来について記した「2011年福島原発事故、どこが盲点だったのか-あとがきにかえて」を16頁追加しました。さらに、編集者が巻頭に福島第一原発事故や津波に関係する写真・図表を8頁挿入しました。ただそれだけでした。


初版は、1万部弱でしたが、社会背景ががらりと変わったため、新版は、わずか1週間で1万部以上に達しました。本文は、一字一句修正していないにもかかわらず、社会背景の変化だけで、世の中にことの本質が理解され、本文の記載内容の価値が正当に評価され(①国際原子力事象尺度のオリジナルな解釈法の提案をしたこと、②米国型軽水炉の中性子脆化問題を学術的に整理したこと、③1995年当時、日本にはロシアの原発についての詳細な技術情報がなかったため、ロシアの原発を調査した際、モスクワの書店で関連する学術書を数冊買い込み、それらを解読して、日本で公開されていない情報を示したこと、④ロシアの加圧水型原子炉の脆性遷移温度の設計値が80℃であることを初めて示したこと、⑤日本の専門家による安全性の議論では無視されていた非常用ディーゼル発電機の位置づけと原発の安全性への根源的な問題提起をするため、米国やロシアで発生した事故例を数件取り上げ、軽水炉の危険性を強調したこと、⑥特に⑤のような論理化は他に例がないこと)、評価がドラスチックに変化したことに驚きました。


初版の時からオリジナリティの高さには自信がありました。福島第一原発事故で非常用ディーゼル発電機の問題提起が的中したことは、意外ではなく、これまでのいくつかな重要な問題提起後、早い場合には半年後、遅くても10年から20年以内に発生していましたから、想定内の出来事でした。当然の結果でした。


初版の原稿枚数は250頁分でしたが、編集者との打ち合わせの結果、標準的な長さの200頁に短縮しました。削除した部分は専門的な内容でした。文科系出身者の編集者の判断では、「読者の大多数を構成する文科系の人たちが読んでも分かるような内容にしなければ売れないし、編集者の私が分からないとか難解と感じたら、読者もそのように感じ、学術的であることや専門的であることにこだわるとかえってマイナス」ということでした。私は、「それでは、原発の安全解析に携わった私とそれに携わっていない高木仁三郎との間に差が生じず、強さが生かせない」と反論しました。私と編集者の間できびしいやり取りがありました。最終的には編集者の判断に従いました。それにより、論理構成が明確になり、分かりやすくなり、オリジナルな部分が浮き上がりました。


ベストセラーにつながったのは初版の編集が的確であったためです。私の最初の原稿内容のように、頁数が多く、記載内容の構成が複雑で、専門的で難解であったならば、売れなかったでしょう。ベストセラーになった後で初版の編集者に改めてお礼を申し上げました。


「原子力事故自衛マニュアル」の初版は、JCO臨界事故後に、新書としてのごく普通の1万部出版されました。改定版は、編集者が本文中の省庁再編時の組織名の変更などを反映した修正を行い、監修者が「正しい知識こそが最大の自衛手段になる-監修者のことば」7頁を差し替えただけでした。


出版社が監修者を必要とする理由は、執筆者が無名の場合に、監修者の知名度を利用して売り上げを狙うための作戦です。私はそれに協力しただけです。


初版の仕事にとりかかる前、編集者と執筆者代表と私が、水戸事務所会議室で1時間半ほど打ち合わせをしました。その時に私の監修者としての責任範囲を確認しました。改定版の「監修者のことば」にもあるとおり、「全体の内容構成については、執筆者の考え方を最大限に尊重しました。私が責任を持って行ったのは、記述の事実関係や用語についての、国内外の状況等に照らし、もし不十分であったり不適切であったりした場合に、それを修正するということです。」(9頁)


読者から編集者にエアコンについての問い合わせでありました。「エアコン」とは、air conditioningの略で、空気調整機を略して空調と言います。ビルや店舗や住宅に備わっています。自宅のものは1階と2階の天井裏に大型ユニットが組み込まれた全室冷暖房のエアコンです。空気の給排気口があります。初版と改定版のエアコンの記載内容「空気の給排気口がある」については、ビルや店舗や自宅の経験から、執筆者の原稿をそのまま通しました。読者から編集者へ、「エアコンには空気の給排気口がない」とのお知らせをいただきました。しかし、「給排気口がない」のは「壁掛け式エアコン」であり、初版と改定版には「壁掛け式エアコン」とは一切記してありませんでした。読者が勝手に「壁掛け式エアコン」を想定して記載内容が間違っていると考えるのは思考の狭さと浅さです。


ベストセラーは本の学術的レベルとは関係しません。主観的な書評の良し悪しにも関係しません。その本を必要としている人が購入を決心するだけの世界です。

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Tue, September 06, 2011 stanford2008の投稿

桜井淳のマッターホルン/ヘルンリ稜登頂のための日常訓練

テーマ:ブログ

今夏のツェルマットでは、マッターホルン/ヘルンリ稜のヘルンリ小屋(3260m)までのロッククライミング調査登山でしたが、来夏は、ブライトホルン(4164m)とマッターホルン(4478m)に登頂する予定です。

前者は、ゴンドラとロープウエイを乗り継ぎ、クライン・マッターホルン展望台(3820m)まで行き、そこから頂上まで標高差約300mの傾斜が70度くらいのロッククライミングになります。ツェルマットのホテルから日帰りが可能です。今夏はホテルの窓から遠景を眺めただけでした。

後者は、ヘルンリ小屋から頂上まで標高差約1200mです。傾斜が70度、特に、頂上まであと標高差300mというソルベイ避難小屋あたりから90度くらいになります(この部分だけ固定ロープがあります)。全コースが急傾斜のロッククライミングになります。そこでは、靴にアイゼンを装着し、場所によっては、そのまま、ガギガギと、岩の上も歩かなければなりません。往復8時間(登り降り各4時間)です。早朝に、ヘルンリ小屋を出て、すぐに取りつき、登頂して、その日の夕刻に、ゴンドラを乗り継ぎ、ツェルマットのホテルに戻れます。


桜井淳事務所(水戸-サンフランシスコ-アルバーニィ)

今井通子「私の北壁マッターホルン」(日本図

書センター)

マッターホルンでは、これまで、500名が死亡していますから、世界的な難コースのひとつです。谷川岳一ノ倉沢のこれまでの死亡者数は、約1500名で世界一であり、マッターホルンはそれにつぎ、意外にもエベレストは約150名です。

今春に録画した「NHK世界の名峰マッターホルン」を20回くらい観直し、ガイドのシモン・アンダマッテンと登山者のNHKディレクターの装備や足の運びなど、問題の把握に努めています。

私くらいの年齢になると、足・腰・腕力・握力が弱くなりますから、急傾斜の長時間のロッククライミングは、経験のないまったくの「未知の世界」です。国内外出張の日以外の毎日、実際を想定して10kgのザックを背負い、足にそれぞれ5kgのアンクルウエイトを装着し、自宅近くの45度傾斜の崖のような沢を利用して、訓練しています。崖の上の木に25mザイルを逆U字にかけ、それを下に垂らし、そのロープをたどり登ったり、降りたり、1日に20-30回繰り返し、足・腰・腕力・握力を鍛えています。本当は、マッターホルンの条件に近いところで訓練したいのですが、日常的に、訓練できるよい岩場が近場にないため、やむをえません。

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