元原子炉メーカーエンジニアへの質問と回答-確認計算を設計と偽る軽さ-
Aさま
原子炉メーカーに在籍した経験から、ひとつ教えていただけませんか。軽水炉は、米原子炉メーカーが開発・設計したもので、日本の原子炉メーカーは、技術契約し、詳細図面を入手して、機器製造・建設を実施しています。
元バブコック日立のTさんや元東芝のGさんは、圧力容器(前者)や格納容器(後者)を「設計」していたと主張していますが、「設計」という意味が理解できません。「設計」とは、日本でのマイナーな変更に対する応力解析程度の枝葉末節な仕事と解釈してよろしいでしょうか。
私の認識では、世の中で言うところの設計とは、基礎工学実験、その実験を基にした材質選択や全体・詳細構造設計、詳細な核・熱・水力・応力解析ですが、日本の原子炉メーカーの担当者が、そのような「根源的な仕事」をしているとは思えませんが。
桜井様
根本的な疑問です。技術導入した原子炉の設計では、格納容器の場合(私は専門ではありませんから正確
ではないかもしれませんが、燃料や炉心関係からの推定です)、GEの図面の理解から始まると思います。つぎに、なぜ、このようにしたのか理解に苦しむところもあったと聞きますが、今になって思えば、もともと出来損ないの設計で、理解ができなくてもよったのだと思います。ただし、ドイツのKWUは自分達で納得できる設計に修正しています。
日本の場合、耐震と応力解析を材料(ASME規格で同じと思いますが)データに基づいて、独自に行います。初期条件も日本の安全指針にもとづいて与えられたものにするところは違います。
また、一品料理なので、配管や機器の配置、引き回しは、それぞれ異なります。これに応じて総合的な耐震設計を行います。おっしゃるとおり、根源的なところはやっていません。
BWRの場合は、MKI改良型、MKⅡ改良型はGEベースのものを、広げるという改良をしています。GEのMKⅢは日本では採用せず、日本が中心になり、GEや、スウェーデンのアセアを加えて、ABWRを共同開発しています。したがって、時代と形によって独自性の程度は異なります。
ただし、安全設計という観点からは、まともな設計者、研究者の考えは、ほとんど、採用されていないといってよいでしょう。
「もんじゅ」ですら、米クリンチリバーでやっていなことをなぜ考えるのかというようなことを言うバカがいましたから。
1Fの初期炉についてですが、多分、問題の炉は、格納容器と圧力容器をのぞいて、配管、機器は、全部、最初のものとは取り替えられていると思います。ただし、そのときに、構造、材料を変更することはしていません。その理由は、配管引き回し、材料、機器などは設計そのものをやり直した方がよいだろうと関係者が思っていても、バルブひとつとっても、違うタイプのものに変更することは、耐震、構造解析、安全解析、安全審査のやり直しが必要で、そのための書類作成作業と期間で、電力もメーカもうんざりしているからです。メーカは作業が金になるから、いいかもしれませんが、電力は、その方がよいという内部意見があっても、ふみきらなかったようです。
桜井感想
TさんやGさんの言っている「設計」の意味が分かりました。想像していたとおりの枝葉末節の作業ということです。彼らは、確認計算のことを「設計」と言っているのでしょう。日本のエンジニアは、ゼロから、軽水炉の圧力容器や格納容器を設計できるだけの能力を持ち合わせていません。ABWRやAPWRは、従来の軽水炉技術の範囲内であって、ただ、スケールアップしただけです。
バブコック日立の原子炉圧力容器製造過程での品質管理ミスについて
軽水炉の配管や機器は、建設時のままでなく、定期点検時に順次取り替え、1990年代後半、福島第一原発の現場で技術部長と話した時に、「そのまま残っているのは、原子炉圧力容器、原子炉格納容器、コンクリート構造物だけで、他は全部取り替えた」と言っていました。特に、BWRは、SCCで苦しめられたため、すでに、初期の頃、全部取り替えています。PWRがBWRと同様の取り替えをしているか否か、関係者に、直接、確認していません。古い炉が問題なのは、機器・配管などの高経年化ではなくて、技術と設計法であり、平たく言えば、余裕度の問題です。
日本の商業用軽水炉の最初のものは日本原電の敦賀原発1号機(BWR、35.7万kW、1965年発注、1970年3月14日に商業運転開始)でした。しかし、研究用を含めれば、日本で最初の軽水炉は、原研の動力試験炉JPDR(Japan Powe Demonstration Reactor、BWR、1万kW、1960年12月発注、1963年10月26日に本格試験運転)でした。原研は、米国で、動力試験炉や商業用軽水炉が3基(シッピングポート原発、ドレスデン原発1号機、GE動力試験炉)しかない1960年代早々に、GE社から沸騰水型軽水炉の動力試験炉を導入しました。世界的にも早く、英断でした。
その技術は、GE社でしたが、原子炉圧力容器については、バブコック日立がGE社の技術と詳細図面を基に製造し、また、タービンについては、東芝がGE社の技術と詳細図面を基に製造しました。
JPDRで原子炉圧力容器上蓋内面のステンレススチールのクラッディングに応力腐食割れが発見された時(1966年5月23日、原研編「原研四十年史」、p.269(1996))、原研の研究者は、原子炉圧力容器の製造技術を徹底的に調査しました。その結果、意外なことが発覚しました。しかし、原研当局と原研労組は、設計過程での安全係数により、安全性を損なうほど大きな問題ではないとして、問題視しませんでした。私は、はるか後に、当時、調査に当たった研究者から懸念事項を聞きました。
原子炉圧力容器は、1970年代まで、「プレート製法」(拙著「原発事故の科学」参照)で製造されていました。それ以降は「フォージング製法」(拙著「原発事故の科学」参照)でした。前者は、製鉄所で圧延した炭素鋼板を原子炉メーカーで再加熱して曲げて胴体の一部の構造材を造り、それらを円周状に溶接して製造し、それらのいくつかの胴体を縦に溶接して、全体を完成させます。後者は、胴体の部分は、製鉄所で、一括して、型にはめて流し込み、一体型にし、原子炉メーカーでそれらを縦に溶接して、全体を完成させます。
プレート製法では、製鉄所で圧延した板の方向と製造する原子炉圧力容器の円周方向ないし縦方向の関係が明確に定めてありました。JPDRの原子炉圧力容器は定められたとおりに製造されていませんでした。軽水炉の初期の頃、日本の原子炉メーカーには、詳細な問題把握ができる技術力がありませんでした。JPDRは、すでに解体撤去され、原子炉圧力容器は、中レベル放射性廃棄物であるため、小さく切断されて、原研構内の施設で管理されています。
バブコック日立のみならず、BWR原子炉圧力容器メーカーの石川島播磨重工業やPWR原子炉圧力容器メーカーの三菱重工業まで含め、さらに、日本製鋼まで含め、1960-70年代にプレート製法で製造された原子炉圧力容器は、定められた品質管理の下で製造されたか否か、調査する必要があります。
元バブコック日立エンジニアのTさんはこのような問題を把握しているのだろうか。
原子炉等規制法違反の常習犯
私は原子力界のすべての出来事を知っているわけではありません。わずか四半世紀の経験しかありません。昔のことは、昔の人に聞き、自身で体験したことは、できるだけ、詳細に、あるいは、一般化して記しています。
昔、JCOの土地には、住友原子力の臨界集合体(臨界実験装置とも言う)が設置されていました。臨界集合体とは炉物理実験研究をするための熱出力100W前後の小型原子炉のことです。役割を終えて、解体撤去されましたが、その時に、廃棄物として扱われた放射化されたステンレスの構造材が再利用されてしまい、スプーンとして流通しました。昔はその程度の認識でした。明らかに原子炉等規制法違反です。
その頃、東大病院では、医療に利用した放射性同位元素が東大構内の地中に投棄されるという出来事がありました。放射性同位元素の法的管理は、めんどうであるため、担当の医師は、何を錯覚したのか知りませんが、構内の地中に生めて知らん顔をしていました。明らかに原子炉等規制法違反です。
東大は、1970年代初め、東海村の原子力工学研究施設の弥生炉で、無届けの中性子・ガンマ線スカイシャイン実験を行いました。明らかに原子炉等規制法違反です。遮蔽研究者はみなこの件を知っていました。しかし、触れないようにしてきました。
東大は、そればかりか、1980年代初めに、弥生炉のパルス運転の際、認可された原子炉出力をいくぶん超える実験を行いました。明らかに原子炉等規制法違反です。私は、この件について、2009年に、文科省をとおして、弥生炉の運転日誌と原子炉出力チャートの提示を求めました。しかし、「法的な記録保存期間が10年であるため記録が残ってない」という回答でした。日本にいくつもない研究用原子炉の運転日誌と運転記録は、教材としても貴重であり、捨てる人などひとりもいません。原研では永久保存しています。東大は原子炉等規制法違反の証拠を隠蔽しました。いまでも保存されています。
私はあることに気づきました。原子炉スクラムの発生については新聞の茨城版に掲載されます。研究用原子炉のスクラムは、個々の原子炉とも、年間数回くらい報じられていました。しかし、起動回数が研究炉よりも一桁多い臨界集合体のスクラム発生は、1件も報じられていませんでした。人間がいくら注意しても誤操作やノイズなので、必ず発生します。報じられていないということは、発生していないということではなく、経験からして、隠蔽していると直感しました。明らかに原子炉等規制法違反です。
知り合いの協力を得て、大学・原研・サイクル機構の臨界集合体(KUCA、TCA、FCA)と研究用原子炉(弥生炉、KUR、JRR-3M、JRR-4、JMTR、常陽)、さらに、電力九社の発電炉のスクラム発生と無届例を調査しました。原子炉等規制法違反となる無届例は予想どおりの数でした。電力九社は計十数件、大学は計十数件、サイクル機構は数件、原研は計数十件におよびました。
新聞にも掲載されましたが、2000年代後半、文科省は、管轄対象機関のものだけ、スクラム無届例を公表しました。京大炉計数件、原研の軽水臨界実験装置TCA計十数件、同高速炉臨界実験装置FCA計数件でした。文科省の公表基準は原子炉等規制法で定められている記録保存期間の10年間でした。なお、東電不祥事の際の社内調査によって、東電については、計2件が公表されました。
しかし、私の調査によると、少なくとも、四半世紀遡ったならば、いずれの組織においても、公表された数字の数倍に達します。原子力界は原子炉等規制法違反の常習犯です。JCOとそれら組織の違反はみな同一次元のものです。違いは事故になったか否かだけです。
研究炉のスクラムは、正しく報告され、臨界実験装置のスクラムが隠される原因は、非常に単純です。研究炉は、いくつかの課室からなる50名くらいの大きな組織であるため、炉の起動と停止が誰にでも分かるような体制になっています。それに対して、臨界実験装置は、1日に数名程度しか出入りしない隔離されたような小さな施設であるため、密室状態になっていて、隠しやすい条件がそろっています。そこに携わっている人たちの倫理観だけに頼っていました。スクラムの原因は操作ミスと老朽化(接触不良やノイズ)です。
各組織が、いくらスクラムを隠しても、年1回実施される監督官庁検査官立会いの定期点検の際、安全系の作動確認だけでなく、運転日誌・核計装チャート・放射線モニターチャートのチェックもありますから、検査官に解読能力があれば、すぐに分かります。実際には、それらを机の上に並べて、必要資料がそろっていることを確認するだけで、運転日誌と核計装チャートの一致性などの解読まで行っていません。検査官にそれだけの能力がありません。そのため、四半世紀にわたって、日本で100件くらいのスクラム無届という原子炉等規制法違反が野放しになっていました。
私の調査によれば、2000年代初めに、軽水臨界実験装置でスクラムがあり、保安管理室どころか、理事会への説明資料を作成し、大騒ぎになったことがありました。偶然、なぜ、その1件だけ発覚したかと言えば、ちょうど科術庁検査官が立会いの定期検査中での出来事で、隠蔽のしようがなかったためです。原研運営者は、老朽施設を運転したら、どのような問題が生じ、その対策として、毎年、どのくらいの予算を特別に計上しなければならないかくらいのことは、知らなければなりません。しかし、そのような認識がまったくなく、四半世紀にわたり、ふたつの施設でスクラムがなかったのは、現場の人たちの注意深い運転管理による優秀さと錯覚していました。実に無能な人たちです。原子炉の運転管理について十分習熟しているはずの原研の理事会でこのような小学生並みの判断ミスをしていました。
JCO臨界事故の際、原研東海研所長のTさんは、原研の過去の数十件のスクラム無届による原子炉等規制法違反に気づかず、原子力施設の安全管理について、新聞などのインタビューにおいて、現実と遊離した理想論を述べていましたが、あまりにも大きな現実との落差に、直視していられませんでした。原研の安全意識とはその程度のものでした。
巨費科学の腐敗体質のいくつかの体験
国産動力炉開発を掲げて誕生した動燃は、最初から、政治的に、技術開発実施組織ではなく、参謀本部と位置づけられました。分かりやすく言えば、国家予算をいかに原子炉メーカーを中心とした原子力界に流すかの「トンネル機関」です。
原子力界から動燃に出向した企業エンジニアは、動燃職員(出向職員)となり、自社に通常の技術開発委託費の少なくとも2倍、多い場合には10倍のカネを流しました。湯水のごとき国家予算を原子力界に注ぎました。それは国家予算の不正流用です。企業だけでなく、工学基礎研究分野では、原研や大学に対してもそのようなことをしていました。研究費の乏しい原研や東大など大学の研究室では、そのようなカネで、本来の研究費を捻出し、やりくりをしていました。
原研や東大では、研究者が実際に調査・研究し、研究報告書を作成すればよい方で、実際には、わずかのカネでシンクタンクやソフトハウスに下請け依頼し、それらの組織からの成果報告書の表紙を差し替え、自身の氏名にして、依頼元の動燃に提出していました。
巨費科学の弊害は、その程度ではなく、原研の核融合開発では、巨額の予算がついたものの、研究者は、研究や技術開発の実務に携わることができず、毎日、企業へ発注する仕様書書きに追われていました。企業からの成果報告書の表紙を差し替え、原研の成果報告書にしたり、そのオリジナリティの高い内容については、国内外の学会や国際会議で口頭発表していました。国際会議のプロシーディング論文にしたり、学会論文誌論文にしていました。結局、そのような巨費科学分野の研究者は、仕様書書きしかしていなくても、実力がなくても、何も研究や技術開発をしていなくても、外注の統括の立場で成果を流用していました。そのため、彼らは、研究者としての実力は、ゼロでした。
2000年代になり、大学を対象としたCOE制度が誕生し、オリジナリテイの高い研究に数年間にわたり、数十億円の研究費をつけるようになりました。しかし、実態は、原研の核融合部門のように、大部分の仕事は、仕様書を書いて、外注でことを済ませ、差額で本来の研究室の研究をしていました。大学の学会口頭発表の発表者にシンクタンクやソフトハウスの組織が含まれる場合には、大学関係者は形式的な連名で、実務は、大学以外の人たちが実施していると考えてよいでしょう。
結局、原研や東大などで行っていたことは、国家予算の体裁のよい略奪行為でした。このような構造を知らないのは監督官庁と国民だけです。
日本の大学や研究機関の研究費は、ひとにぎりの国立一流組織に集中投資され、国立地方大学へは微々たるカネしか分配されていません。それら一流組織では、研究費が多すぎ、年度内に使わなければならない時など、まったく必要ない調査・研究を外注し、予算消化に頭を悩ますことも日常化しています。中には、研究テーマに関係ない内容を自身の興味や本来の目的外に流用するケースもありました。COEの実態はひどいものです。COEの成果評価はいい加減でした。政府はもう少し日本全体の研究費のバランスを考えた方がよいでしょう。
スイス・フランス登山直前にマスコミに送った遺書代わりのメモ
マスコミ関係者各位殿
東大大学院総合文化研究科で「安全規制論」や「技術社会構成論」の研究をし、科学技術社会論学会論文誌「科学技術社会論研究」に2編の原著論文を投稿し、掲載されました。「技術社会構成論」では、米戦後の発電炉開発の経緯と軽水炉が世界制覇した社会的要因を考察しました。
1960年代、英仏は天然ウランを利用した黒鉛減速炭酸ガス冷却炉、米国は低濃縮ウランを利用した軽水減速軽水冷却炉でしたが、1970年代に仏国は米国型軽水炉への路線変更、1980年代に英国も米国型軽水炉への路線線変更、日独は最初から米国型軽水炉路線でした。米国で開発された軽水炉は世界制覇したのです。
あまり知られていませんが、米国は、軽水炉だけでなく、二種類の商業用発電炉を商業運転していました。ひとつはマンハッタン計画時に開発したプルトニウム生産炉(黒鉛減速加圧軽水冷却炉)をスケールアップした天然ウランを利用したN原発(86万kW、1958年発注、1966年商業運転開始、1988年閉鎖)です。もうひとつは低濃縮ウラン被覆燃料粒子を利用した高温ガス炉(黒鉛減速ヘリウムガス冷却炉)のフォート・セイント・ブレイン原発(34万kW、1965年発注、1979年商業運転開始、1989年閉鎖)です。軽水炉の拡大の中でこれら二種類の発電炉は傍流として消えて行きました。しかし、世界は、高温ガス炉の技術の重要性に気づくべきでした。安全な将来炉として位置づけるべきでした。世の中に唯一残るとしたら高温ガス炉しかありませんでした。
軽水炉が世界制覇した社会的要因は、米国の政治経済の支配力、ガス炉と違い炉心出力密度が高いために経済性を上げられるコンパクトな炉心の実現、炉心燃料交換時にすべての作業工程を可視化でき、なおかつ、放射線の遮蔽材にもなる軽水(普通の水)を利用した点などにあります。軽水炉は、反面、運転時・停止時とも炉心の発熱と冷却のバランスが崩れると、炉心溶融します。しかし、米国は、人間の注意深い注意と工学的安全対策によって乗り切れると考えました。英仏独日もその路線に乗りました。軽水炉は、戦後、米国が開発した技術の成功例のひとつです、地震・津波のない欧米対象ならば。
日本は、欧米と異なり、地震・津波というアキレス腱を抱えていたにもかかわらず、軽水炉をそのままデッドコピーして、数多く建設・運転しました。日本が最優先しなければならなかったのは、日本の設置条件に適した固有安全性を有する独自の炉型でした。欧米との設置条件の差異に目をつむり、独自の技術開発を怠ってしまいました。
安全審査も的確に機能していませんでした。1965-72年当時(福島第一の1-5号機など)、安全審査期間は、わずか、半年で、フリーパスでした。それ以降今日まで、2年間に変更されましたが、安全審査の空洞化は、続いています。私は、そのことを、通産省原子力安全解析所で経験(大飯3号機4号機、浜岡4号機、女川2号機の安全審査の安全解析に従事)しました。
福島第一原発事故では東京電力が袋叩きに合いました。感情的にはそうなってしまうのでしょうが、それはとかげのしっぽ切りであって、いちばん批判されるべきは、自民党が強権的に推進した原発推進策でした。特に、1970年代半ばに田中角栄が作り出した原発交付金制度でした。自民党は、カネで自治体民意を買収し、権力犯罪的に軽水炉の大量建設を促進しました。
原研で日常的に見たものは、1970年代の事故・故障の度に、人事部長通達で「想定済みのことだから沈黙するように」との強制でした。それでも軽水炉について論じた研究者に対しては、組織外しや昇格停止の人事処分が繰り返されました。原研は、自民党や電力会社の強権的な支配構造の中で、軽水炉を無条件に肯定し、推進しなければならない立場におかれていました。研究者は刑務所の鉄格子の中に入れられたような状態でした。原研では、1970年頃から、研究者に、外部発表票や外部投稿票の提出が義務づけられました。研究者は、講演原稿や論文を添付した定められた書式を室長に提出し、原子力や軽水炉に無条件に肯定的な内容でなければ、室長や部長が印鑑を押しませんでした。これは学術的真実を覆い隠す検閲です。
私は原研と安解所と原産に背を向けてしまいました。危ない物を無審査で運転管理していることへの不同意の意思表示でした。
原産では、直属上司の森一久専務と対立し、辞職しました。森氏は、ある日突然、「炉心溶融というのは、機器の信頼性に問題があったとしても、住民への影響がなければ安全性を維持できるから問題ないだろう」と。私は「そのような技術は社会に受け入れられないでしょう」と反論いたしました。後に、原子力安全委員会委員長の内田秀雄氏に会った時にも、内田氏は、森氏と同様のことを言っていました。それは、森氏や内田氏の個人的考え方ではなく、原子力界上層部ですでに調整済みの未来であると直感し、劣化する原子力の未来を不安に思い、原産から逃げ出しました。それから22年、福島第一原発事故の光景を見ました。
私は、3号機の爆発の光景を見た時、社会変革の力を感じました。人間の無知を吹き飛ばしたからです。原研と安解所と原産に背を向けたことの正当性を確認できたからです。高木仁三郎氏や私のしたことは大河に流される笹船のようなことでした。何も変えることはできませんでした。しかし、3号機の爆発の光景は、社会を変えられるような重大な真実を語っていました。
そのくらいのことが起こらなければ、政府・安全委員会・保安院・マスコミ・国民は、軽水炉技術の根源的な危険性を認識できず、空洞化された安全審査の中で、つぎつぎと軽水炉を建設し、より危険な方向にシフトしてしまうでしょう。福島第一原発事故をあえて肯定的に位置づけるとすれば、日本を致命的破滅から救い、今後、何が必要であるか、社会に示したことです。虚構から現実の世界へ導きました。人間は嘘をつきますが、自然は人間にありのままを示します。
東大や原研の軽水炉安全性研究など、しょせん、ままごと遊びのレベルに留まり、福島第一原発事故という現実の厳しさにまったく対応できませんでした。東大工学部(特に原子力)の教員の果たした功罪は相半ばすると言うことでしょうか。
スイス・フランス登山直前にして遺書代わりに
桜井淳
補足
最近、「週刊現代」や全国紙(日経除く)で、玄海原発1号機(加圧水型原子炉、55万kW、1975年商業運転開始)の原子炉圧力容器の危険性(爆発大事故の可能性)が報じられています。その爆発大事故の可能性の根拠は原子炉圧力容器の「脆性遷移温度が91℃に達しているから」というものです。それは間違いです。
以下、なぜ、間違いなのかを解説いたします。
一般にはあまり耳にしない「脆性遷移温度」とは、ステンレスにはない概念で、軽水炉の原子炉圧力容器材料に利用されている炭素鋼にある概念で、「強度が大きく変化(遷移)する温度」のことです。「脆性遷移温度」の問題点は、原発運転中に、炭素鋼が0.1MeV以上の高速中性子を浴びるにつれ、上昇し続けるということです。
冷却材喪失事故が発生して、緊急炉心冷却装置で原子炉圧力容器が急冷され、世界の発生例からすれば、130-150℃くらいまで冷却されます。
もし、(a)「脆性遷移温度」以下に冷却され、なおかつ、(b)原子炉圧力が数十気圧以上に維持され、(c)原子炉圧力容器に許容欠陥以上の大きさの亀裂が存在していれば(許容欠陥の大きさの目安としては、大人の親指の第一関節の先の部分を粘土に押し付け、できた凹みくらいの大きさ)、原子炉圧力容器は、「脆性破壊」をします。しかし、(a)(b)(c)の条件がそろう確率は、極めて低いと評価されています。世界の原子炉ではそのようなことはこれまでに1件も発生していません。
世界で採用されている米機械学会の技術基準では「脆性遷移温度」の設計値は93℃です。米国では、93℃を越える加圧水型原子炉がいくつかあるため、米原子力規制委員会は、1980年代後半、過去の米原発事故を解析し、「脆性遷移温度」の値を132℃に緩和いたしました。
「脆性遷移温度」の上昇のメカニズムについては、1960-80年代に研究され、その後は、米国の現実的な運用が受け入れられ、それを否定したり、議論の対象にはなりませんでした。世界の学会論文誌に「脆性遷移温度」の原著論文は、少なくなりました。
玄海原発1号機の原子炉圧力容器の現在の「脆性遷移温度」は設計値以内の91℃です。世界にはこのくらいの「脆性遷移温度」に達している加圧水型原子炉は100基くらいあります。拙著の「原発「老朽化対策」は十分か」(日刊工業新聞社、1990)、「ロシアの核が危ない!」(TBSブリタニカ、1995)「旧ソ連型原発の危機が迫っている」(講談社、1994)、「原発のどこが危険か」(朝日選書、1995)には、上記のようなことが詳細に記されています。Iさんは、「玄海1号機は世界でいちばん危険」と主張していますが、学術的根拠がありません。
欧米日で設計値の「脆性遷移温度」を問題視する研究者は、おらず、日本のIさんだけが「玄海1号機の爆発大事故」を主張しています。全国紙の記者は「玄海1号機の爆発大事故」の根拠を吟味したのでしょうか。Iさんの主張は査読付の学会論文誌には絶対に掲載されません。学問ではないからです。単なる一研究者の主観を述べたエッセーレベルのことです。
全国紙の記者は、ただ、Iさんの主張を受け売りする前に、世界の関係学会論文誌の「脆性遷移温度」に関する原著論文を検索入手し、設計値の93℃を否定するような論文が存在するか否か、検討すべきです。しかし、そのような論文が存在していなくても、世界の研究者がすべて間違っていて、歴史的天才のIさんが正しいこともなくはないでしょうから、設計値の93℃で不合理な根拠を挙げてください。いまの91℃で不合理な根拠を挙げてください。原子炉材料研究者は、加速試験片と原子炉圧力容器で進行している物理現象が完全に一致していないことくらい、誰でも知っています。1990年代初めにORNLの研究者が言及しています。他に有効な手法がないため、そのようにしてきました。それから、母材と熱影響部(溶接部)の「脆性遷移温度」上昇傾向が異なることも誰も知っています。
Iさんは、原発訴訟で証言している分野、すなわち、「応力腐食割れ」や「照射損傷」や「脆性遷移温度」の専門家ではありません。私は、東海第二原発における原告側証言の前に、応力腐食割れや照射損傷や脆性遷移温度にかんするIさんの学会論文誌原著論文を見たことがありません。さらに、いくら検索しても単著も見出せませんでした(大学の研究者ならば、得意の分野で単独の学術書が数冊あっても普通ですが、なぜ、ないのか不思議です)。原子力界では無名の研究者です。
私は、1975年から8年間、材料試験炉の炉心核計算を担当しましたが、その間、原研や大学や原子炉メーカーの研究者から、原子炉圧力容器材料の炭素鋼試験片の高速中性子照射の依頼を受け、照射条件を決めたことがあり、世界の学会論文誌をとおし、その分野の世界の研究状況、日本の研究者や研究内容など、把握していました。その後も、同論文検索を継続し、その分野の研究状況・研究者名・研究内容は把握しています。
現実的視点から、「脆性遷移温度」についての問題で着目すべき点は、加速試験片から推定される原子炉圧力容器本体の「脆性遷移温度」の信頼性(加速試験による不確実性、評価誤差、加速試験片と本体の中性子線の線質(中性子スペクトル)など)です。「脆性遷移温度」は、冷却材喪失事故や加圧熱衝撃の熱流動現象からして、100℃以下ならば、安全上問題なく、米原子力規制委員会の規制緩和には無条件で同意できませんが、現実的な選択であったと受け止めています。
日経を除く全国紙の記者の科学リテラシーは中学生の理科レベルです。世界的に質の高い「日経」は「朝日新聞」のような「爆発大事故」のような記事は掲載していません。朝日新聞社は、「脆性遷移温度」のような専門的な問題に対して、社内に、論説委員、科学医療部や社会部の記者からなる勉強会を組織し、文献調査や立場の異なる複数の研究者からの聞き取り調査などを実施し、玄海原発周辺住民や国民に責任を持てる記事を掲載すべきです。
福島第一原発後、一部のマスコミは、あとづけで、あることないこと、書き立ててきましたが、そのような不毛な議論には終止符を打ち、今秋からは、もっと、質の高い議論を開始すべきです。
2009年に原子力機構と文科省が認めた「制度的慣例」
原研内での「うわさ話」や世の中のつまらないことに耳を傾けようとしたことは一度もありませんでした。つまらないことには、一切かかわらない、そのような人生を送ってきました。仕事で、原研ばかりか、安解所、通産省、科技庁、原産、原子炉メーカー、電力会社、政府にもかかわり(すべての拙著参照)、それらの各組織や組織間のあまりよくないなれあいのメカニズムも知らないわけではありませんでした。知っていても沈黙していることは少なくありませんでした。
それら組織に未熟な人間がかかわっているかぎり、組織内はもちろん、組織間においても、不条理なことや不正・不祥事は、日常茶飯事であり、掃いて捨てるほどあるでしょう。それらの中には、発覚すれば、数名の逮捕者がでるようなこともあるでしょう。組織とはそのようなもの、世の中とはそのようなものとして、悟りの心で生きてきました。
ただし、ひとつだけあいまいにせず、事実関係を確認したことがありました。ある気がかりな問題について、原研の複数の関係者に聞き取り調査を実施し、具体的な証拠となる資料をそろえていました。文科省をとおして原子力機構に確認したのは2009年のことでした。具体的には、文科省HPから、本名で、「原研(現在、原子力機構)と科技庁(現在、文科省)についてのある「制度的慣例」」について質問しました。内容が内容だけに、当事者である文科省が握りつぶす可能性があるため、総務省にもHPから同じ質問をしておきました。
原研の「制度的慣例」とは、事業を円滑に進めるため、関係者の意思疎通を図るため、科技庁の原研担当官僚などを週末ごとに接待し(逮捕されるような「官々接待」)、年間数百万円、四半世紀に総額1億円弱に達する不正行為(関係者が逮捕されるような「贈収賄」)のことです。これは、省庁の過去の事例からすれば、官僚が職位と権限を利用した典型的な「たかり行為」です。原研では「制度的慣行」でしたが、科技庁では「個人判断の引継ぎ事項」であったか「制度的慣例」か、私には関係ない世界です。
意外にも、文科省は、その問題を真正面から採り上げ、ことの真意を確認するため、原子力機構に問い合わせました。その時、質問者の本名を明かしたかどうか、確認が文書かメールかも知りません。文科省からの回答はメールでした。ことの経緯は、文科省HPの質問欄、文科省と原子力機構の間で交わされた文面が残っているため、いま、第三者が確認することが可能でしょう。
文科省の問い合わせに対し、原子力機構は、「いまはやっていない。費用は会議費として確保してあったものを使用した。領収書の保管期間は3年間(後に4年間と修正)」と回答しました。原子力機構は「制度的慣例」を正式に認めました。
しかし、原子力機構は、本当の意味が分かっていませんでした。会議費として確保されていたか否かが本質ではなく、関係者が逮捕されるような官々接待を「制度的慣例」として四半世紀にわたり、総額1億円弱に達するようなことを続けたことが本質です。
「制度的慣例」の実施責任者は理事長で、官僚接待の担当者は、原研の戦略的方針を検討する企画室長でした。後に原子力安全委員会委員長に就任したMさんは、企画室長を経て、理事、副理事長、理事長になりましたから、官々接待の責任者であり、担当者でした。そのような人間が原子力安全委員会委員長として安全審査や安全規制に携わってきたのですから、福島第一原発事故のようなことが起こっても不思議ではありません。Mさんは、原子力安全委員会委員長を退任後、慣例の持ち回りの職位の原子力安全研究協会理事長に就任しています。Mさんだけでなく、ここ四半世紀の間、、企画室長と役員の職位にあった者は、全員逮捕されるに値する罪を背負っています。
原研編「日本原子力研究所史」(2005)。この
pp.549-550に歴代役員名が記載されています。
さらに、来年4月発足の環境省原子力安全庁の諮問委員会委員候補者ということですから、この国は、どこまで不正と原子力劣化をひきずるのか、絶望的なほど強いめまいを感じています。Mさんは、その委員を辞退して、引退した方がよいでしょう。そればかりか原子力安全研究協会評議委員会会長も辞退した方がよいでしょう。この件は、いずれ国会で福島瑞穂党首などによって問題にされるでしょう。
Mさんは、一時期、私の直属上司でした。辞退を心より助言いたします。原子力安全庁には古い原子力関係者はかかわるべきではありません。Mさんは、国民のためにも、自身のためにも、潔く去るべきです。
動燃、それに、動燃の組織替えで誕生したサイクル機構の関係者への聞き取り調査から、それらの組織でも、「制度的慣例」が実施されていたことが明らかになった。日本の官僚は、職位と権限を悪用し、すべての省庁で同様なことを慣例として実施していたのだろう。
東海第二原発調査と廃炉宣言-檻の中の東大や原子力機構の関係者に頼る愚行-
東海村村長の村上達也さんには、JCO臨界事故の時に、NHK衛星放送の特別番組の討論会で顔を合わせま
した。それ以降、疎遠です。村上さんは、最近、脱原発、具体的には、東海第二原発の廃炉を主張するようになりました。
私は、実は、そのようなニュースが掲載される前に、7月26日に実施した東海第二原発の野外施設の見学と関係者との質疑応答で、ダメだと感じました。
ダメな理由
①安全審査で長期的な東海村や周辺の人口密度の増加と影響を考慮していない、
②100万都市の中心に100万kW級原発が存在する生存への不確実性、
③津波があと約1m高かったら福島第一原発事故のようになっていた(自然現象の偶然性に救われた)、
④野外施設(特に非常用ディーゼル発電機海水冷却ポンプと残留熱除去系海水ポンプ)の設計と設置法がまったくデタラメ(雨曝し状態で、自然災害やテロ行為に弱い)、
⑤苛酷炉心損傷事故は、地震や津波だけでなく、スリーマイル島原発事故のように、人為ミスや機器故障でも起こる、
ということで、東海第二原発は、廃炉にすべきです。私は、水戸市郊外で生活していますので、東海第二原発の存在は、許容できません。
東海第二原発を設置したのは間違いでした。東海村ほど人口密度の高い地域に原発を設置した例など世界にありません。原研の研究者は、檻の中で人事管理されているため(軽水炉の安全性に疑問を投げかけたら即処分)、軽水炉の安全性について、何も、言えない状態でした。彼らが隣接地の原発建設に沈黙したのは間違いでした。
東海村や茨城県は、いまでも、東大や原子力機構の関係者を中心とした委員会を設けていますが(役所は虚飾の東大の権威にしかすがれない無能集団)、福島第一原発事故前の政治状況とまったく同じです。時代錯誤もはなはだしく、もうそのようなことは止めてもらいたい。
米国では、スリーマイル島原発事故後、原子力研究者、他工学分野の研究者、作家、宗教家など、あらゆる分野の人たちがい知恵を出し合い、原子力の将来を決めていますが、日本では、相変わらず、福島第一原発事故を生み出した東大や原子力機構の関係者のままです。いますぐにそのような体制から脱却しなければなりません。