ちょっと旧聞に属する話なのですが、書かずにおくといつまでも心に引っかかるものが残るので、この際、ここで記しておきます。もやもやしたままはき出さずにおくと、精神衛生に悪そうなので。
私自身、反省しなければならない点は多々あるとは思いますが、最近、世の中のある問題の取り上げられ方があまりに「ステレオタイプ」で、複雑で多面的な事象を正邪・善悪の二元論で割り切ったり、よく知りもしないことを「アレはきっとああだ」と決めつけてそれで済ませるような場面に出くわします。
私もあまり物事をあれこれ微に入り細に穿ち検討し、慎重に考える方ではないのですが、あまりに一面的で何も考えていないくせに偉そうな論調には正直、うんざりしています。一例を挙げます。
2日付の毎日新聞夕刊のコラム「熱血!与良政談」を読んでいたところ、こんな一節があり、ため息をついたのでした。
「政治と教育というといまだに『文部科学省対日教組』の対決図式で語る人は多い。」
……いったい、この人は何十年前の話をしているのでしょうか。私はここ20年近く(学生時代を合わせるともっと長く)日教組問題をウオッチしてきましたが、文科省と日教組を対立の構図でみることができたのは、せいぜい自社さ政権が成立して社会党と日教組が文科省に浸透する以前までの話であり、それ以後は文科省は日教組とのなれ合いを深め、ときに一体化してきたのが実態でしょう。
実際、私は自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の会合をはじめ、保守系議員や民間団体による教育関連集会や日教組問題追及集会にちょっと数えられないぐらい取材してきましたが、そこで文科省と日教組の対立の構図が語られたのなど見たことも聞いたこともありません。
むしろ、多くの保守系議員が「文科省はわれわれ保守系議員が何を指摘しても、左派勢力の方を恐れて言うことを聞かない」「文科省の連中はわれわれの話を聞くふりをして、この前も日教組幹部と飲み歩いていた」などと、文科省と日教組の癒着・一体化ぶりを嘆く場面には何度も遭遇しました。
また、産経新聞も私も日教組の問題点をいろいろと指摘する一方、その問題点をきちんと指導しようとせず、それどころか日教組側に立ち、左派勢力の言い分ばかり丸呑みする傾向がある文科省を批判してきました。そのときどきの文科相によって温度差はありましたが、文科省という組織自体が対日教組における見方だなんて考えたこともありません。
まして、日教組のドンが与党幹事長を務め、日教組の専従委員が文科政務官と首相補佐官にまで上り詰めた現在の野田政権において、「文科省対日教組」なんてノスタルジックで牧歌的な発想はどこから出てくるのでしょうか。与良氏の見識と知的誠実さを深く疑います。あるいは、不勉強と思考停止の極みなのか何なのか。
また、私はこのコラムを読んで、慰安婦問題に対してレッテルを貼ろうとしたある種の人たちのことも連想しました。例えば、社民党の土井たか子元党首は以前よく、慰安婦の強制連行の証拠は見つかっていないというごく常識的な主張をする保守系勢力に対し、「従軍慰安婦はいなかったと言っている人たち」という言い方をしていました。
保守系勢力は確かに、「従軍慰安婦という言葉は戦後の造語であり、戦前・戦中はなかった」とは主張しています。しかし同時に、当然のことながら「慰安婦」と言われる人たちがいたことは認めています。なのに、土井氏やその仲間たちは意識してか無意識にか、保守系勢力は「従軍慰安婦の存在自体を否定している不誠実な歴史修正主義者である」というレッテルを貼ろうとしたのです。
これと一緒にしてはいけないかもしれませんが、与良氏が「いまだに『文部科学省対日教組』の対決図式で語る人」と持ち出すのを読んで、似たような構図だなあと感じた次第です。で、この手の嫌らしい相手をおとしめる手法は、歴史問題だけでなく、他のいろいろな問題でも同様に繰り返されていると感じているのです。
by yuurimorucot
与良コラムと日教組とステレオ…