株式会社 日立製作所 機械研究所 輸送システム研究部 鉄道ユニット ユニットリーダー 主任研究員 鈴木 敦
ごく一般的に言うと鉄道車両や船舶など多くの乗り物の世界は、もともと経験工学に属する。つまり、実際に動かして、その実績から新たな課題や反省点を見出し、次の設計に活かしていくことが、設計・開発の基本となっている。日立は、日本国内では新幹線車両から通勤電車まで数多くの車両を開発・製造して、優れた実績と経験を培ってきた。だが、英国の鉄道車両開発は、この「Class 395」が初めての経験となる。英国では鉄道の運行会社、車両の提供会社、路線のインフラ管理会社がそれぞれ異なる上下分離方式が採用されている。また、今回も高速車両設計には、英国と欧州の複数の規格を満たすことが必要だった。その主なものだけでも英国の鉄道システム標準であるRGS(Railway Group Standards)、欧州のTSI(Technical Specification for Interoperability)、その他、英国のBS(British Standards)やATOC(Association of Train Operating Companies)、欧州のEN(European Norm)などの標準規格があり、それぞれ構造や材料強度、空気力学性能、騒音、耐火性能、そして衝突性能などをこと細かに規定している。車両が各規格をクリアして快適さ、安全性などを十分に備えている点を、数多くの利害関係者に理解してもらうには、精度の高いシミュレーション技術が不可欠だった。
鈴木はこう言う。「最先端のコンピューティング技術、鉄道車両製造技術の両方を合わせもっている日立の強みが、いかんなく発揮されたと思います」
シミュレーション技術は、まさに日々進化している。その背景には、5年で一桁アップすると言われるコンピュータの計算速度の驚異的な進歩がある。たとえば、日立のスーパーコンピュータは過去20年間でおよそ10万倍も計算能力を高めた。さらにPC(パソコン)が性能を高めてきた結果、PCを多数並列して計算させるPCクラスタ系のコンピュータシステムが発展し、いまや複雑な流体解析や構造解析では主役となっている。
こうしたコンピュータの能力アップの結果、鉄道車両をまるごと解析する大きなスケールでのシミュレーションが可能になるとともに、微細な挙動まで把握する分解能の精緻化も可能になった。
日立は、電力などの社会インフラを支える大型機器を数多く手がける中で、自社の高度なコンピュータ技術を活用して、シミュレーション技術を発展させる機会に恵まれてきた。その結果、コンピュータ技術とともに、それをフルに活かしたシミュレーションを行うことができる人財も多く育成してきた。今回の「Class 395」の開発におけるシミュレーションでも、必要に応じてソフトウェアを自社で内製し、シミュレーションを行うことで、精度の高い結果を生み出すことができた。「コンピュータの能力を活かして、マルチスケールの解析を行うには、各スケールで現象を支配している『支配方程式』をつないで解いていくことが必要です。異なる支配方程式を結びつけて解析する技術を駆使して、かゆいところに手が届く解析を可能にしたことが、私たちのアドバンテージと言えます」そう鈴木は指摘する。
この内製ツールを全面的に活用したのが、ダイナミクスシミュレーションである。これは、車両の挙動を事前に予測して、安全性や乗り心地などの車両の性能を評価する解析技術だ。「ダイナミクスシミュレーションは車両の走行性能を決める上で不可欠な技術です。ことに『Class 395』は時速225キロメートルの高速で安定した走行が求められるため、ダイナミクスシミュレーションは、車両開発の初期から重要な役割を果たしてきました。日立の技術陣が必要に応じてプログラムも開発して、問題となる現象により深く踏み込んだ解析を可能にしたことは、開発に大きなメリットを提供できたと自負しています」
当たり前過ぎて、ふつうは見逃しがちだが、鉄道車両には鉄路と鉄輪が触れ合うことで複雑な振動が生じている。この振動の制御が、安定性や曲線通過時の安全性、そして乗り心地の向上などには欠かせない。しかし、この振動は、鉄路と鉄輪それぞれの状態なども関係しているため、その挙動の正確な把握はかなり難しい。日本国内を走る車両開発で、日立は鉄道事業者とも緊密に連携して、実状に即した高度な解析技術やノウハウを培ってきた。そのノウハウなどを活かして独自のダイナミクスシミュレータを開発し、精度の高い安定性、安全性、乗り心地の評価を行って車両や台車の設計開発に活用している。
このダイナミクスシミュレーション技術が、「Class 395」の設計・開発でもいかんなく発揮された。たとえば、今回、英国の規格に基づく独特な定置試験が必要となった。車両を傾けた時に車両がどのように変形するかという車両変位についての実物試験とシミュレーション結果の比較検証などが求められたが、ここでもダイナミクスシミュレーションが活躍した。実際の車両を傾けた実験結果とシミュレーション結果がよく一致し、シミュレーションの高い精度が証明された。