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[30292] 先生  (主人公視点は歴史的仮名遣い・異世界行って剣術かまして武装革命)
Name: 鈴虫◆d0054ca9 ID:a764f917
Date: 2011/11/09 01:27
 高校卒業間際に首相を斬り捨て己の腹を切つて死ぬる少年、あはれ地獄へも入れず異世界へ誘はれ、女子(をなご)姿と成つて突貫し、赤髮少女と出會ひ、先生々々と赤髮少女に呼ばれて慕はれるが、赤旗と共産主義によつて貴族主義者の魔法使ひ――魔術師――を打ち倒し、階級を打倒せしめんとする赤髮少女が爲に宿敵同士と成りて鍔鳴らし刀を振るひ、斬り結ぶ。                          
  と云ふドタバタ美少女ラブコメディー、始まります♪
 共産主義の思想は異世界から持ち込まれた物であり、レーニンは異世界人で、スターリンの過剰な猜疑心はレーニンが彼を優しく包んでやらなかった所為であるという仮説を元に、レーニンやスターリンが剣術の達人だったらという妄想と、師弟愛、女体化、大和撫子と百合要素と日本神話とを突っ込こみ、過激派高校生が異世界にとってレーニンであったらというお話。



なんてあらすじで、『小説家になろう』なる所でも、同タイトル、同作者名でやっています。
向うとは若干違い、此方は一部歴史的仮名遣い、幾つか剣術シーン等の加筆修正、閑話追加をしています。

 *

色んなネット小説なるものを読んでいたら、どれ自分も一筆書いてみるかと思い立って筆をとるものの、小説など生まれて初めて書くので己の手腕が無さに落ち込みつつも共産趣味的なプロレタリア文学とねっとりとした剣術描写に憧れてキーボードを弾いて、なろうに投稿していたら友人に、アルカディアがあるよ!と言われたので、なろうとは趣向を変えて行こうと思い、同じ脚本を用いてニッチな小説を書いてやろうと思い立って現在にいたる。


 *

投稿してまもなく、あらすじを歴史的仮名遣いに変更。

更に28日午前1時くらいに、投稿した第二話が小説家になろう用の物だと、投稿したのを読み返して発見。直ちに投稿しなおす。大変申し訳ない。

28日夜に文章にルビを追加。

30日にあらすじを変更。

11月9日にまたまたあらすじを変更



[30292] 第一話 せんせい
Name: 鈴虫◆d0054ca9 ID:a764f917
Date: 2011/10/28 20:25





打ち鳴らされる音楽。
太鼓とラッパの音。
この音楽は先生が「赤軍擲弾兵せきぐんてきだんへい」と題して作曲したもの。

一見陽気な音楽だが、そのなかに気品がある。
だが戦場で奏でられると陽気さ気品さは感じられない。
あるのは一歩も引かず、銃剣を掲げ突き進む同志達の情熱のみ。

懐かしき故郷ふるさと、「ナジュム」近郊での会戦。
なだらかな平原。
膝丈ほどの緑色の草花を踏みしめ白い服に赤色の装飾が入った服を着た男達が音楽に合わせて行進する。

そういえば先生は緑色の事を青色と呼んでいた。
何故、緑なのに青色と呼ぶのかと聞いたら、なんでかな私にも分からんよ、といっていた。
自分でも分からないのに何故青というのだろう。
いまだに分からない。先生自身がわからないのだからわたしには最期の時が来ても分からないだろう。

どうも最近先生のような言い回しが多くなってきたな。

わたしは白服の男達のほぼ中央で、日本刀やまとがたなと先生が呼んだサーベルを携えて行進している。
本来ならば後方から指揮をしなくてはならない立場だが、無理を言ってここに立たせてもらっている。
なぜならわたしがこの手で、斬らなくてはならないから。
別に誰が命令したわけではない。戦略、戦術的に考えても、わたしが斬らなくてはならない道理は無い。
だが、わたしが斬るのは義理の為。
そして理由を問いたい。

ついぞその理由を聞かず此処まで来てしまった。
もはや斬り結ぶ剣戟けんげきの中で聞くしか無い。

わたしの直ぐ横に、空気を引き裂く音と共に相手の20ポンド砲が着弾し、大地がえぐれ、肉片となった同志が飛んできた。
青々とした草花が赤く、革命の象徴の色へと変貌を遂げる。

我が軍も砲兵隊が撃ち返す。
四方よもに撃ち出す砲声は雷鳴の如く、互いの戦列に地を降らす。

副官はわたしに大丈夫かとしきりに問うてくる。是非も無い。大丈夫に決まっている。
わたしは理由を聞き、自らの手で斬るか斬られるかされるまでたおれるつもりは無い。

兵士達は動揺する。だが戦列は崩れない。戦列を崩せば銃殺だ。逃げ出す者は反逆者、反革命分子とみなされる。
それよりも先に戦列が崩れれば相手の騎兵が突貫してくるだろうが。
兵たちはそれを分かっているのか、動揺しつつも足は止めず。

前方には黒服を着た者達が並ぶ。銃剣を掲げこちらに前進してくる。

その歩みはこちらよりも早足。しかし列が崩れるそぶりは無い。

黒服達の顔が見える。目が見える。
彼らの目は忠義に満ちた目。
彼らを率いる者への信頼の目。

今では彼らは反革命軍。
しかし此方よりも戦意は高く、統率が取れている。

空が青い。夕焼けであったらならば悲壮感があったかもしれない。しかし太陽は真上。
空の青さの中にこちらに向かって大きくなる丸いものが幾何十。
空の青さの中にあちらに向かって小さくなる丸いものが幾何十。

進めば進むほどそれは益々ますます互いに白と黒を崩れさせる。

黒服達の表情が見えた。
彼らは口を一文字に閉め、まっすぐに此方を見据えている。

わたしは全隊に止まれを命じた。

構えと叫ぶ。

サーベルを天へ向ける。
狙え。

黒服はまだ歩む。

サーベルを大地へ振り下ろす。
発砲。

砲兵のそれとは小さな音が連続して鳴り響き、辺りを白煙で包む。

黒服がたおれる。しかし、たおれたものの後ろから又黒服がその欠けた穴を埋めるように出てきて、行進が止まることは無い。

わたしは一列目をしゃがませる。

二列目に構えの号令。

狙え、
再びサーベルを天へ。

発砲。
サーベルが同志達のかばねの方へ向く。

再び白煙に包まれる。

黒服の姿が見づらい。

すると黒服は歩みを止めた。

一寸間があった後、向うから白煙が上がる。

刹那、同志達の白服が赤く染まる。

白服が紅白の服になる。

わたしは待てない。待てなかった。

「バイヨネットチャージ!」

マスケットを掲げる兵たちは銃剣突撃を。
隊長格の兵たちはサーベルを掲げ、黒服に迫る。

走る。躍進距離二十。

黒服もそれに呼応して銃剣で突貫してきた。

数の上では此方は相手の三倍。先生の教えてくれたランチェスターの法則に当てはめても、勝てる。

黒服の中央を見据える。
黒服の中でも突出して迫ってくる一隊があった。

わたし達は抜刀隊と呼んでいた。
長銃を持たず、サーベルで武装した突撃専門の部隊。

それはどの隊よりも雄雄しく、鬼神にも恥じない勇。
その跳躍する隊の中に「先生」を見た。

上段に構えたその刀は太陽の光を映す。
風になびく黒髪、――先生から言うと緑髪か――がひどく美しく思えた。
何時いつまでも変わらない先生。あのときから変わらず、わたしが尊敬する先生のまま。
強いて言うなら隻眼となったくらい。
しかし残った片目は真っ直ぐにわたしの瞳を見つめている。

わたしは先生に向かって躍進する。
ふと、出会った頃を思い出した。
わたしは何時いつから先生と呼び始めたんだったろうか。








私は跳躍する。
白服の中に、ほぼ中央に、先生と呼んで慕つて呉れてゐた子が居た。

上段に構へ、跳躍する。
風が涼しい。

私は此處ここで死ぬ。
死なねばならぬ。
屹度(きっと)先生と慕つて呉れてゐた子に斬られねばならぬ。

此の際、勝敗は最早知つた事ではない。

あの子と斬り結ぶ事だけが今は望み。

あの子は理由を聞きたがるだらう。
だから懐に手紙を入れた。
あの子が私を斬つたら、見て呉れるだらう。

距離は後十歩ほど。

あの子は左脇で構へた。

當然だらう。あの子は私よりも背が高い。
出會であつた頃は同じくらゐだつたのだが。


「脇構え」とは別名「捨の構え」とも呼ばれる。
左脇構えからの斬撃は素早く逆胴を打てる。
然し、胴以外打てないのだ。
其れに比べ左脇構えにたいしては何處どこへでも打ち込める。
左脇構えを取る者に、打ち込まれた斬撃を防ぐ術は無い。
左脇構えとは變化へんかに乏しい、實用性じつようせいの無い構えである。

だのに、
何故あの子は左脇構えを取つたのか。
先生と慕つた師を斬るのに躊躇とまどひがあるのか?
其れとも自己の能力に自惚れてゐるのか?

否。

あの子はそんな阿呆では、子供ではない。

私は上段に構へてゐる。

「上段の構え」とは別名「火の構え」とも呼ばれる。
小手、胴や脛、全ての防禦ぼうぎょを捨て、相手の斬撃をかはすならば後ろへ下がるしかなく、命を惜しまぬ構え。

――私の最期にふさはしく、私の人生其のものだつた。

さう思ふことも出來る。

中段の構えなどの攻防の妙はなく、ただ攻撃一邊倒いっぺんとう
己の身は捨て置き、相手を先に斬る――若しくはもしくは相打ちと成らうとも一撃を加へる。
故に「火の構え」と呼ばれる。

攻撃手段は上方からの打ち下ろしのみ。
其の打ち下ろしを掛ける爲の勝機――其の機に最速の速さで以つて斬る。

此の絶對優位ぜったいゆういを誇る構えに、左脇構えをとる其の理由。

其れはあの子の技にある。
長い鬪爭とうそうの末、あの子は一つの技を生み出した。

單純に見れば、左脇構えよりの斬り上げである。

私が見た事のあるのは、ただ其れだけである。

背の低い私が上段で構へたならば、同時に斬りあへば先に刀がとどくのは私。
相手よりも背丈が低いと云ふことは相手との距離が短いと云ふこと。

どう云ふことか。
背が高い者が背丈の低い者にたいし、振り上げてから振り下ろして相手へとどくまでには、相手の背丈の小さい分刀が空氣を斬り裂く時間が長い。
對して背丈の小さい者が背丈の大きい者にたいして、振り上げから振り下ろしによつて相手にとどくのに空氣を斬り裂く時間は短くてすむ。

私の背丈は4尺八寸。あの子は五尺四寸。
私が上段を取る理由は此處にある。

後の先ごのせんを狙ひ、後手に囘ればどうか。

いや、あの子は其処まで甘くは無い。
加へて此の體格差たいかくさ(たいかくさ)である。押し切られるのは道理。
故に私はある意味、攻めるしかない。

然し其の體格差を利用し、私は上段からの先の先せんのせん、先々の先を狙つた、最速の斬り下ろしを狙ふ。

あの子からすれば、後の先若しくは先の先を狙ひ、下から斬り上げれば私の突貫を黄泉への突貫に變へる事が出來る。

だが、甘い。

此處に來たばかりの私なら、躊躇(ためら)つて一歩引いたところを斬られるか、其のまま袈裟懸け、唐竹に斬りかかつて、下から斬り上げられて死んだだらう。
然し、私もまなんだ。
右目を犠牲にして何も學ばなかつたはけではない。

私は大上段に構へる。

勝機はフェイント。
後の先である。

今まさに斬らんと見せかけ、あの子の刀が目の前を掠めたところで小手を打つ。

等と考へてゐたのは兩目が在つた頃。

私は其のまま大きく跳躍する。
からだ體重たいじゅう全てを乘せて、跳躍する。

其の體重移動で得られる力を利用して軍刀を振り下ろす。

あの子の赤き瞳を見つめる。
三つ編みの赤髮が視界の端に見える。
出會つた時から變はらない髮。身體からだは成長し變はつたが、髮だけは變はらない。

ふと、出會つた頃……いや此處に來る前からの、事を思ひ出した。












[30292] 第二話 りんね
Name: 鈴虫◆d0054ca9 ID:a764f917
Date: 2011/10/29 22:27

生粹の讀書家で暇さへあれば本を讀んでゐた。

物事を中々決められず、所謂いわゆる「優柔不斷」とよばれる類であるが思ひ込みが激しく、かうだ、と決めたら突つ走る。

又何か作つたりするのが好きだつた。よく工作をした。
高校は工業系にすすんだので樂しませてもらつた。

純文學から機械力學、葉隱まで、何でも讀んでゐたので雜學だけは豐富だつたが、いかんせんテスト等ではまるで役に立たず、デストも下から勘定したはうが速い教科ばかりだつた。おかげで中學生の時分には、奇人變人のレッテルを貼られてゐた。

本を讀み漁るうちに自らの凡其の思想が形作られていつた。

我が國は何故自虐史觀じぎゃくしかんに捉われてゐるのか。教科書を開けば、他の國の出來事は「遠征」やら「平定」「併合」等と聞こえの良い言葉が用ゐられてゐる。
然しどう云ふことか豐臣の朝鮮出兵をはじめ數々の我が國の戰爭行爲に就いてはことあるごとに「侵略」と言ふ言葉が使はれてゐる。

「~のやうに日本がインドネシアを侵略し、占領すると外國からの非難のこえが強まつた云々」

と云ふ文があるが、當時とうじの世界情勢をどうみても非難の聲を強くしてゐるのは聯合國であり、其の聯合國れんごうこくは其の當時我が國と戰爭中であつたので、非難するのは當然である。敵對國に對して「よくやつた!よくぞ我が國の植民地を占領した!かの國こそが世界の模範だ!」と言ふとでも思つてゐるのか。そもそもスカルノの件などには一切觸れてゐない。

其のやうな賣國教育が行はれてゐるのは何故か。

其れはWGIPによる云々~だからこそ日本人の誇りを取り戻し、眞の獨立國家しんのどくりつこっかとして振舞ふべきなのだ!

と言つた工合である。

樣は右派的思想に成つてゐた。と言ふことである。

其れに加へ、其のやうな性格なので、我が母校に國旗が掲揚されてない事に氣づくと單身、校長室までのりこんだものだ。

そんななので日本男兒だんじならばと言ふ理由で劍道も嗜んだ。

然し、高坊にも成ると其のやうな思想に對して疑問を抱くやうに成る。

日本を窮地から救ふにはどうすればよいか……最早末端にゐたるまで洗腦され荒廃した我が國を救ふには生半可な方法では不可能だ。

此の時期讀んでゐたのが「我が闘争」であつたので、最早ファシズムによつて國民を啓蒙し、先導をするしかない。と考へてゐた。

然し、其の當時のヒットラーのやうな政權奪取劇は展開できさうにない。

私は半ばあきらめて、教師にでもなつて平凡な日々を送るのも惡くない。と考へ始めてゐた。

そんなとき出會つたのが「資本論」やら「共産党宣言」なので、無論影響され、此の國を蝕む賣國奴も、所詮は階級鬪爭によるものだと悟た。

賣國行爲が生まれるのは工作員の所爲ではない。經濟けいざい的格差による階級鬪爭によつて引き起こされてゐる。

我が國は資本主義經濟に傾きすぎてゐる。富む者は益々ますます富んで行き、貧しいものは益々貧しくなつてゆく。
もう少しバランスをとる必要がある。
共産主義の實驗じっけんは失敗したが社會しゃかい主義色がとても濃い資本主義經濟ならどうか?と云ふのが當時とうじ高校2年時の思想であつた。

然しどちらにしても政權奪取をしなくてはそんなことも夢の中で終はつてしまふのでどうしたものかと考へ、いつ其のこと自分が議員に成り變革(へんかく)の旗手に成るか。などと考へてゐたが、我が國の選舉體制を鑑みるに此れまた不可能に近く、武裝革命しかないか……などと話の合ふ仲間内で話したりしたものだ。

其れに関連して、ヒットラーに心醉し始めてゐた。ネットに落ちてゐた「意思の勝利」を鑑賞した所爲だらう。案外自分は影響されやすい方だつたのか。

のめりこんだら突つ走る性格であるので、どうしても演説がしたくなつた。
丁度其の時期生徒會役員選舉があつたので其れに立候補しヒットラー式の演説をさせてもらつた。
演説後の拍手の量はすさまじく、いつもは寢てゐる諸氏も聞き入つて呉れたやうで、案外うまくいくもんだと驚いた。
生徒會は其の後一年間前期後期共に勤めさせていただき、集會のたびに演説をぶちかます機會きくわいが得られて其の年は樂しませて戴いた。
然し附いたあだ名が「演説の人」と云ふのは如何なものか。

兩親は私が小學生の時に離婚し、父が男手ひとつで面倒を見て呉れた。
母は別の男とくつついたやうだが、其れでも特段母が嫌ひなどとは思はなかつた。

私には想ひ人が一人いた。
とても可愛らしい娘で肩で切りそろへた緑髮に小柄な身長、性格も今時には珍しく撫子の樣な娘だつた。

進學先も決まり、さて此の學び舎とも後僅かで別れんと云ふ時期に、私は悶々としてゐた。

どうしても首相を斬り度くてしやうがなかつた。

野黨やとう第一黨が今までの与黨よとうの議席を上囘り、新たな政權に成つたのだが、次々施行される法が許せなかつた。

かやうな政府を許してよいものか。
今の政府ーいや政治家には何の信念も志もない。

誰も國家のために働かず、
利權の鬼と成り、
自らの保身に勤める。

そして其れに惑はされる臣民達。

誰も聲を上げず、
仁義は廢れ、
腐敗がまかり通る。

私は滿身の怒りに滿ちてゐた。

私の怒りは純粹な怒り、
邪惡なものに對する怒り、
義の爲の怒り。

誰かが此れを正さねばならぬ。

正さねば國が滅びる。
國が滅びると言ふことは日本人が死ぬと言ふこと。

そんなことは許してはならぬ。

かつて大和を、
故郷を、
家族を、
想ひ人を、
仁義を、
信じるもの護るために散つてゐた者の魂、

言ふならば、國家の魂が許さなかつたのだ。

誰も彼を斬らうしなひし、宮城かうきょに向かつて切腹する者も居なかつた。
民衆も自ら敵性國家の絞首臺かうしゅだいに立つた事に氣づいてゐなかつた。
だから私がやるしかないと思つた。

義理を立てれば道理は引つ込む。
護國の鬼と成つて死ぬことによつて得られる生もある筈だ。

一首相を斬つたところで直ぐ何か變はるわけではない。然し變はる事のきつかけに成る筈だと確信してゐた。

私は自稱共産主義者に成つてゐたが、愛國の志を捨てたはけではなかつた。

そんなわけで大分前に倉庫で發見した軍刀(おそらく陸軍の九十四式であらう)を持ち出した。
先祖が歸國後箪笥の中に突つ込んでゐたものを、先祖の死後、物置のなかに於ておいた儘忘れ去られてゐたらしい。
不思議にも60年近く放置されてゐた割にはよい状態であつた。

自分の中で

「救國の志に答へて刀が再び力を取り戻したのか」

などて痛い事を考へつつ、妄想も大概にしておかないといけないが本當にさうなのではないかとしか思へなかつた。
何やら刀身が櫻色に發光してゐるやうな氣がする。
發光してるのはおそらく昂揚して幻覺を見てゐるにしても、状態が良いのは事實だ。

なにはともあれ手入れ用の打ち粉やらをネットで取り寄せた。

此のご時勢、ネットで何でもそろふものだ。

然し、得物があつても技術がない。
劍道をやつてゐたとは云へ、當日に成つて反射的に軍刀で面打ちなどした日には目も當てられん。
抑も劍道の構へと眞劍の構へは柄を握る位置が違ふのだ。

暫く考へあぐねてゐたが、戸山流などの動きを映像などから學ぶことにした。
樣は、服の上から致命傷を負はせる事が出來ればよい。

殘つた學業もそこそこに練習にはげんでゐたら良い工合に成つてきた。
人間、なんとか成るもんだ。

斬るのはよいが身内に迷惑はかけられんと思ひ、父に其の旨を傳へると最初は驚嘆してゐたが直ぐに
「よしわかつた」
と返事をして呉れた。

さう云ふわけで斬つた後はお巡さんが出張つてくる筈なので、縁を切り、私物を處分したが、此れまた再び悶々としてゐた。
其の例の娘の事が頭からはなれなかつた。
此れから死なんとする時にかやうな想ひを抱くとは、人間不思議なものだ。
「ああ、一緒に月を眺めれたら如何程どれほどよいものか……」
などて呟く事數十囘數十囘すうじゅっかい
いつそのこと自分は死にに行くことを打ち明け、死地に行く前に抱かせて呉れたら此れほど嬉しい事はない、と思ふやうに成り、はたして傳へるべきか否か搖蕩(たゆと)う。
然し、私は何も傳へない事に決めた。
手紙くらゐはとも思つたが、此れから居なくなる男にかやうなものを貰つて何に成るのか。

うだうだとしてゐた心にけりをつけ、首都に向かふ。
もう12月で雪も降りさうだ。
五月十五日だとか二月二十六日に決行すれば、洒落が效くかなどて思つてゐたが莫迦らしいのでやめた。

父から――戸籍上はもう違ふが――餞別にと南部式と片道分の交通費を戴いた。
何故南部式があるのか不思議に思つたが、どうやら此れも同じ倉庫にあつたやうで、私よりも前に見つけて保管してゐたさうだ。
おそらく使はない(使へない)だらうがありが度く受け取つておく。

トレンチコートを羽織り、以前キャンプ用に贖入した折りたたみナイフをポケットに入れる。
軍刀は竹刀袋にいれて持つていつた。

雪の降る夜の中、首都に降り立つた私は、即刻首相官邸に向かふ。

離れてみてゐたが、どうやら此處で斬る事は出來なささうだ。
警備のかずが多すぎる。
素人の私が突貫しても刄は敵に屆かないだらう。

暫く思案して、首相の自宅附近へ移動する。
雪が肩を白く染めるころ、首相が歸つてきた。

其の時、首相が車を降りた其の一寸、首相に間があつた。

警護の者が3人居た。だがしかし、素人の私が斬れるのは今此の瞬間ををいて他にない。

勝機は在る。あの頭がお花畑の首相だ。だれも斬りに來るなどとは露にも思つてゐないだらう。

そして其の警護のものも、まさか此の國で辻斬り、此れほど價値のない者を殺さうとする者などいまいと思つてゐるに違ひない。

さう腦が考へてゐたときには、私は敵に向かつて躍進してゐた。

鍔を左手の親指で優しく押し出し、右手で柄をつかんで拔刀し、上段にかまへて疾走する。

あと六歩ほどで間合ひに入る。

狙ふは型どほりの袈裟斬り。
必殺を狙ふなら喉への刺殺、突きが良いのだが全力で走つて近づき突く、と成ると確實に當てる自信がない。
そんな自信のない未熟な技は使はない。
今は「確實かくじつに斬る」ことが求められてゐるのだ。

警護の者が氣がついたのか此方の進路を妨げようと驅け出し始めたのが視界に入る。
別の者は此方を拘束する爲か驅け出さうと右足を踏み出したのが見える。
もう一人は首相へ手を伸ばすため車のドアから手を離す。

だが私は相手にはしない。
すれ違ひざまに斬つて応戰――等してゐては本來の目的に逃げられるかもしれない。
抑も私には彼ら專門職の腕には敵わぬ。

ならば我が目指すのは首相唯一人。他の者など知らぬ。

「天誅!」
と叫び跳躍する。

其の聲に氣づいた首相は此方に振りむかうと首を動かす。

此方の進路を妨碍しようとした者の間合ひに自分が入る。
此方へ向かつて驅け出した者は最後の跳躍をし私に迫る。
手を伸ばしたものは首相の右肩へ手を觸れんとしてゐた。

おそらく、二太刀目はないだらう。
一太刀で以つて斬るしかない。

左足で地を跳躍し、右足を前へ前へと押し出す。

全身の體重が高速で前へ移動する。

同時に上段に構へた軍刀を其の體重移動を利用して袈裟斬りの軌道で振り下ろす。

首を動かした首相は首と連動して體を此方に向けた。

彼は我が目を疑った。
此の現代社会で刀を持つて自らに切りかかろうとする者がいる。
其の刄は自らの目の前に迫っている。
――どう云うことだ?!
何故己が斬られる?
軌られなければならぬ?
――殺されるのか?
党を結成して爾來じらい党を支えつづけ、長年の野党生活を脱し与党につき、遂には首相にまで上り詰めたと言うのに!
慥かに不祥事はあつた。然し隣國との關係改善等の功績は大きい筈だ。
国民が望んだことも全てやったじゃないか!

だのに、何故目の前に刀を持つた男がいて、己を殺そうとしているのか。
――何故だ?
首相のネクタイが赤く染まる。
「え?!」
其れが首相の最期の言葉だつた。

首相を斬つた。
私が腐敗の象徴と見立てた男を斬つた。
目的は果たした。
だが、私は此處で死なねばならぬ。
此の腐敗の象徴と屍を重ねねばならぬ。
此處で警護の者にわが身をあづけられようか。
此處から全速で以つて逃げ出せようか。
其れは爲らぬ。
其れは無責任。
自らの行ひに責任を取らねばならぬ。
責任をとらねば此の男を軌つても何も意味は無い。
――斬つた本人も其の場で果てる。
其れは義。
義を貫かねば意味は無い。
社會に何も變化は無い。
唯のテロリストで終はる。
其れは避けねばならぬ。
だから、私は此の場で死して、義を貫かねばならぬ。

右足を膝を折つて前に、左足は大きく後ろに、體は前傾姿勢で殘心

をせずに反動で左足を少し前に出し右足を後ろに。

斬つた反動で動かした足と腰にあはせて胴、腕が動き軍刀を上げる。
中段構への高さまで戻したら、其の速度を以つて左手で柄を握つた儘手首をかへし、右手は其のまま刀身を逆手で握り、軍刀を自分の腹に突き刺す。
腐敗の象徴の血と、おのれの血が混じる。

此方に驅け出した者が私を拘束せんと私の體をつかむ。

彼には焦りがあった。
自らの任務を果たせなかった。
何のためにいままで訓練してきたのか。
なんというザマだ
この国ではテロなど無いと高を括っていた。
その油断がこれだ。
ふと剣客の目をのぞいた。
信念に満ちた目。
この剣客に迷いはないのか。
よく見るとまだ十代ほどではないのか
なぜ其れほどまでに信念を抱けるのか。
この国で。
自分でもわかっている。あの首相はクソったれだったと。
自分はなぜあんなのを護っていたんだ。
自分が護るべきは、もっと違うものだったのかもしれない。

いかん。迷っていたら気がつかなかった。
この剣客は自らの腹に刀を突き立てている。
割腹するつもりか。
すると剣客は右手を離し、ナイフを取り出した。
この軌道は此方を突く軌道か!
近接格闘では此方に分がある。
このナイフは叩き落す。
己は己の仕事をこなす。


私は警護の動きなど氣にせず、右手を刀身から離し、峰を渾身の力で以つて叩く。

綺麗に一文字に斬れた。
腸はまだ出てきてゐない。

其のまま右手で折りたたみナイフを取り出す。

彼は私の手の軌道をそらさうと手首をつかんできた。

其のまま彼を突いた場合の動きに合はせて彼は私のナイフを無力化しようと動く。

然し私は其のやうな氣はなかつたので、其のまま自らの首にナイフを突き刺した。

同時に強引に宮城の方へ體を向けたところで體の力がスッと拔けた。



「斬り結ぶ 雪にやどれる 月影の 刹那の下こそ 我のまほろば」



視界が赤く染まり、ぼやけてくる中で私が見たのは雪に隱れる綺麗な月だつた。






氣がつけば彼岸花の花畑の中に斃れてゐた。
確かアスファルトの上で割腹したはずだが。

此處が黄泉の國か、靖國か。

等と思つてゐたら意識が遠のく。

腹部を見れば、臟物さへ出てゐないが一文字に切れてゐる。だが首は無傷だ。
どう云ふことか。

あれ此れ考へてゐたら思考能力が低下してきた。視界がかすむ。
視界がぼやけてくる中で見たのは此方に驅けてくる人影だつた。






気がつけば彼岸花の花畑の中に斃れてゐた。

これはデジャヴか。

腹を見たら特段傷はない。確か割腹したはずだが。
軍刀と南部は手に持つてゐたが、羽織つてゐるものが死人の着る白い着物、白裝束である。

ここが黄泉の國か、靖國か。

等と考へてゐたら、向かうに人の列が見える。

全員私と同じ死人の服だ。

日本人の習性か何となく最後尾に成らんで前にゐた、道端で井戸端會議をしてさうな奧さんに、
「ここは何処か」と問うたら
「あの世ですよ」と返って来た。
「今きたばかりなの?」と奥さん
「さうだと思ひます。氣がついたらあすこに斃れてゐたので 」と私
「まだ若いのに、かわいそうに」
「いえ、氣をつかはんでください。ところでこの行列はどこに續いてゐるんです? 」
「向うにあの三途の川があってね、その川を渡るための船を待ってるんだけどこれがまた本数が少ないらしくて……にも関らず搭乗審査が厳しいらしくて、すごいチェックされるのよ。なんだか前世でよい行いをした人はお金がもらえて、そのお金で船に乗れるそうだけど、お金がない人は泳いでわたれとか言うらしいのよ。で、泳いで渡った人は大抵おぼれちゃって、天国にも地獄にもいけないとか。わたし旦那をいつもこき使ってたからもらえる量が少ないかも……もおう、あの世にきてまで私に迷惑かけるなんて、なんて人なのかしらっ!」

などと會話してゐたら、ようやく審査の檢問所が見えてきた。

いくつか前にゐたチャラ男が金がないらしく、近くのご老人から金をせびろうとしてゐた。

ケシカラン奴だと思ひ、軍刀でぶつた叩かうとしたら(もちろん鞘に納刀したまゝ)彼は檢問官に河に突き飛ばされてゐた。

浮かんでこないやうで、溺れてひどい目にあふのは本當のやうだ。

さて、私の番が囘つてきて檢問官が言つた。

「どうやら君は別の便のようだ」
「どう云ふことです?」
「この紙を持ってあすこへ行きたまえ」指で場所を示しながら言う。

と言ふので、何やら一筆書いた紙を渡されその場所まで云つた。

明治時代の建物の樣な場所で直ぐわかつた。

中へ入るとモーニングを着た若い兄さんが
「何か御用か」と問ふので
紙を渡しつつ「ここへ行けと云はれた」と答へた。

「……お持ちください。」

と言ふことで暫く外を眺めて待つてゐたら、見事なカイゼル鬚をはやしたおじさんがしかめっ面でやつてきた。

「もう一度生き還つたとして、生き返つたそばから死ぬ以外に欲しいものはあるか。」
「どう云ふことです?」
「質問に對しての返答をしなければ成仏できんぞ。」

どう云ふ事かわからないが、話の流れからするとおそらく生き返らしてくれるのか。
前世の記憶は引き継ぐと言ふことをお願ひした。

折角なので來世は別の視點してんで樂しまさせてもらはう。

「女の娘の姿にしてください。」

容姿に就いての細かい注文をしてゐると、私が生前、月を一緒に見たいと思つてゐたあの娘と瓜二つの姿になつてゐた。まあ、さう云ふものだらう。
勿論一定の容姿になつたら不老に成ることは必須だ。しかし不死は遠慮しておかう。

後、勿論軍刀と南部式は持つて行く。

軍刀が刄こぼれ、折れたりしないやうにして欲しいと言ふのと南部も現役時代同樣に使へるやうにして欲しいとお願ひした。

「それだけでよいか?」

後、全ての言語を讀み書き會話くわいわができるやうにしてくれと頼んだ。
生前の英語のテストの英語などは下から勘定したはうが早いくらゐだつたので、これが叶ふなら有難いことだ。
これ以上は望まん。人外や超能力者になるつもりはない。不老の時點じてんで超人ではあると思ふが。

「さて、では切腹したまへ、介錯はしてやらう」

きつとこのカイゼル髭はキチガヒなのだらう。
いままでの會話からどうして切腹する必要が出てくるのか。

しかしあの世で死んだらどうなるのか。あの世のあの世なんてあるのだらうか。

カイゼル髭がポン刀を持つて來て素振りを始めた。

まあこの際何でも良いだらう。
あの世で死んだらどうなるかと言ふのも興味がある。
落ち着いたらこの體驗を基にした小説でも書いてみようか。

軍刀を拔き、モーニングの兄ちやんから渡された白い布を切つ先から20センチくらゐのところで刄に卷きつける。腹に刺した後、持つて動かすためだ。
切れないやうに卷きつけるのが中々難しい。

上着をはだけさせ、呼吸を整へる。

息を吸つたところで止める。

そして切つ先を腹に刺しこむ。

十分に入つたら

息を吐く。

痛みで動けなくなる前にそのまま一文字に掻つ捌く。

首を介錯しやすいやうに伸ばす。

すると肩に激痛が!

なんてことだ、カイゼル髭が介錯に失敗した!

「心靜かに!」

カイゼル髭を勵ます。なんと云ふことだ。この道のベテランかと思つたがちがふのか。いや、介錯は失敗することも多い。彼を責めても仕方がないだらう。

痛みがつたはつてきた。これ以上待てばそのへんを臟物を引きずりながらのた打ちまわつてしまふかもしれない。

等と思つてゐたら風を切る音と共に、私の視界は眞つ黒になり意識を失つた。

最期に見たのは窓の向ふに生えてゐた彼岸花だつた。






逝きつきて 美しきかな 黄泉の國 あはれこの身は 輪廻を彷徨ふ












[30292] 第三話 であひ
Name: 鈴虫◆d0054ca9 ID:a764f917
Date: 2011/10/28 20:36

幼少時から咳が出ると長期にわたって止まらなくなるので、何度か死に掛けた。

咳が出ると呼吸ができなくなって窒息しそうになる。
咳が止まらなくなるたびに背中を押してもらいつつ手を引っ張ってもらって胸を張ると幾分か楽になるので、咳が出るたびにそれを繰り返していた。

しかし、月日がたつごとに酷くなる一方で、周りには成人まで生きられそうにないと思われている。

何とか治療をと、くそったれの魔術師共に両親が何度も懇願したが叶わなかった。

おかげで虚弱体質扱いで女として生まれたが体で働くこともできないので労働は免除されたがその分を部屋族に負担をさせてしまった。

その所為か両親は3年前に死んだ。

兄は魔法以外の治療方法を、少ない書物から学び、居住区でも片手で数えるくらいしか居ない、「異端の医者」と認められ重労働の義務は免除されたが居住区内の健康管理を一手に引き受けることになった。

元々、魔術師たちは奴隷など使えなくなったら補充すればよいという考えでいたが、ある時期異常な数の奴隷が死んだのでお上の命令で一定の治療をするということになった。
しかし奴隷の治療などしようと思う者など居ないので――中には物好きもいたが――奴隷達が自ら古代の「魔法を使わない治療」を行うようになっていた。

兄は私の病を治そうと様々な手を尽くしてくれたが、未だ直っていない。

毎日寝たきりで、外から聞こえてくる鉄を打つ音や坑道が爆発して崩落する音、見栄えのいい女の子が奉公だといって魔術師に連れて行かれるときの声を聞くのが唯一の楽しみだ。

我ながら随分と曲がった性格になったものだ。

ある日、何時もよりも調子がよく、農業区にあるアランカザンダッカの花畑に遊びに行った。

調子がいいとよくここに来る。アランカザンダッカは大抵奴隷が住む場所に多く生えているので奴らからは奴隷の花と呼ばれているが、私は好きだ。

花と花の間を通りながら花畑の中心まで散歩する。お決まりの散歩コースだ。

しかしいつもとは違う風景が視界に入った。

人が倒れているのを見た。

思わず自らの体のことを忘れて駆けて行く。どうやら大怪我をした女の子のようだ。

大方、強姦された後に殺されたのだろう。よくあることだ、ほかって置こうと思ったのだが、私を探しにきた兄が――大抵抜け出したときはここに居ると知られている――この子を見つけてしまった。
ほかっておけばよいものを、世話好きな兄は部屋へ運ぶと言い出した。
私が、
「でも死んでいるんでしょう?」
と言ったが、気を失っているだけでまだ生きている、担架と人を呼ぶからここで待てと言って駆けていった。

しかし同じ奴隷同士でも強姦して殺すなんて良くあることなのにそんなことに一々構っていては手が回らないだろう。
そもそもまだ近くに犯人が居るかもしれないのに私を置いて行くとは、私が襲われるとは考えないのだろうか。
兄は優しいが、焦ると思考が浅くなるのは玉に瑕だ。

ふと斃れている女の子を見る。すごくきれい。綺麗な黒髪をしている。私よりも年上だろうか。しかし身長が低い。センチであらわすと150センチもないのではないだろうか。そう見るとそれほど年は離れていないのかもしれない。
なんだか周りに咲くアランカザンダッカと相まってすごく絵になる。
ふと、このまま倒れていてくれた方が美しいと思った。

















視界に色が燈つて最初に見へたのは木造部屋屋の天井だつた。左側から外の光が入つてきてゐる。

觸覺が戻つてきて感じたのは、柔らかい、布團の中にゐる感覺だつた。

嗅覺が戻つてきて最初に嗅ゐだのはドクダミに似た草の匂ひだつた。

聽覺が戻つてきて、活氣のある大勢の人の聲が遠くの方から聞こへる。

こゝは一體どこだらうと體を起こしてみると、部屋は大分狹い、簡素な木製のベットの上に寢てゐるやうだ。きしむ音が聞こへる。
ふと横を望むと三つ編みの赤髮の少女が坐つてをり、私と目が合つた。

「や……やあ」
と聲をかけたら向ふへ驅けて行つてしまつた。

何かまづかつただらうか。どうやらこゝは日本では無ゐやうであるし、言葉が違つたか。

然し赤髮とは面妖な色だ。染めてゐるのか。
唯、革命的な色ではある。

「うぐっ」
腹部に痛みが走る。
そふゐえば割腹したんだつたか。
しかし転生と云ふ形で黄泉の国から戻つてきたと云ふ訳では無いやうだ。
其れにしても腹部くらい治してからこの世に送ってほしかった。

治療の後がある。包帯が巻いてあつたが赤く滲んでゐる。体を起こしたのはまづかつたか。

ふと自分の體に違和感を感じた。腹部が痛いのとは別に、股間に何ぞ足らない。
まさかと思ひ、傍らに於てあつた水の入つた桶の樣なものの水面に自らの面を映してみた。

おゝ、要望どほりだ。
綺麗な緑髮を肩で切りそろへたあの娘と同じだ。

ふと自らの胸を弄る。柔らかく、氣持ちが良い。

そんなことをしてゐたら益々腹部が痛くなつてきた。繃帶が更に滲んでゐる。

此れはまづい。

其のまゝ體の力が拔け、倒れてしまつた。

視界が霞む。
















妹は昔から体が弱い。
体力が無いと言うわけでは無く、呼吸に難があるようだ。
咳が出始めたら直ぐに胸をはらせて少しでも息を吸うのを楽にしてやらないといけない。
埃っぽい周りの環境の所為もあって、よくつらそうな顔をしている。

妹を何とか治してやりたくて、何度も魔術師に懇願したが跳ね除けられてしまった。
居住区の医者にも相談したが彼を以ってしても治療法はわからないと言う。
そもそも彼らの治療と言うのは外傷に対してが主であるので、妹の様なのは打つ手がないと言われた。
しかし、彼によるとそもそも外傷に対する治療法にしても、古代の書物から得られる情報が主らしい。

古代の書物は我々奴隷が労働させられる鉱山で採掘作業中に出土したりする。
基本的には魔術師らに持っていかれるが、彼らからしてみれば魔法についてなど書かれていないらしく一度目を通したら必要ないらしい。
彼らがそれを欲するのはいわば知的好奇心を満たすためと言うのと、骨董的価値から欲する。
結構世に出回っているので、話のわかる監視員に調達してもらった幾つかの古い書物に様々な治療法が書かれていた。

自分は読み書きを覚え、その本を読み解きつつ、医者に教えを請い、勉強に励んだ。
おかげで今は労働者達の治療健康係の一人として魔術師に認められたので、妹共々肉体労働は免除されている。

しかし、とてつもなく忙しい。
医者は自分を含め5人しか居なく、正確な統計は出てないが、この都市ナジュムには約七万四千六百人の奴隷が収容されている。

坑道ではよく爆発事故が起こったりするがそれをたった5人でさばかなくては成らない。

おかげで妹を治療するという本懐を遂げられていない。そもそも治療法は未だわからないのだが……



妹は体調のいい日はよく部屋を抜け出して農業区にアランカザンダッカが多く群生する場所があり、そこに散歩に出かける。
心配でしょうがない。

もし出かけた先で咳が出始めたらどうするのか。又、いやな話だが襲われると言う可能性もある。唯でさえ妹の散歩ルートは人気が少ないのだ。
閉じ込めてばかりも良くないとは思うが、唯一の家族なのだ。心配をしてしまうのは仕方が無いだろう。

ある日患者をさばくのもひと段落を見て、妹の様子を見にいったら、どうやら例の散歩に出かけたようだった。
場所はわかっているので迎えに行くことにした。

アランカザンダッカの花畑の中央付近に妹の姿を見た。
近寄ると、どうやら倒れている人を見つけたらしい。

一目見たら雷に打たれた。

なんてかわいい、いや可憐なのだろうか。

奴隷身分にしては綺麗な白い肌と、何より綺麗な黒髪だ。

自分達奴隷は基本的に赤髪か白髪。貴族、魔術師は金髪が多い。稀に青髪やらが生まれてくるようだが、黒髪は稀の稀である。

黒髪は奴隷身分にしか生まれない。そして希少価値が高いので基本的に直ぐ魔術師らに取り上げられ、恐ろしいことをされるのが常なのだが、このような場所で出会うとは。

今まで黒髪がここらに居るなんて聴いたことが無かった。

やはり奴隷同士で生んで隠して育ててこられたのだろうか。

しかし、これはこんな世でも神は居ると言うことか、運命の出会いとやらが許されているのなら今この瞬間がそうだろうと思った。

普段ならこの様に重症と見える素性もわからぬ者は手が足りないので放って置くが、この子は別だ。

この子を助ければ自分は命の恩人なわけで、自然と彼女とお近づきになれよう。

手当てをすれば暫くは安静にしている必要があるわけで、うちに泊めておく口実もできよう。

また何か事情があり行く先もないのなら自分の助手としておけば労働も免除されるので恩も売れよう。

打算が働くのは仕方が無いが、兎に角この子を助けねばと思った。

担架と人を呼ぶため、妹に様子をみて待っててもらうよう言って駆ける。

よく考えたら妹一人を残すのは危険かもしれないが、幸い農業区の労働者が近くに居る。

持ち場を離れているのを巡回している監視員に見られれば罰が与えられるが、医者と一緒ならそれも免除される。
奴隷の治療をしたくない魔術師にとって自分の様な医者は便利であるから、治療行為の為と言えば何人か連れて行っても認められる。

自分の部屋まで運び、治療を施した。

腹部が綺麗に斬られている。危うく臓器が出てくる一歩手前だった。

唯、とても綺麗に切れていたので、消毒と縫合をして安静にしていればくっつくだろう。

ひとつ気になるのが彼女が着ていた服と持っていた剣である。
見たことのない素材、形の服だったし、剣の形状も見たことが無い。
そもそも剣など武器を持っているなんてどういうことだろう。
とり合えず一緒に持ってきておいたが……まぁ意識を戻したら聞いてみるかと思案していたら、また坑道で爆発があったようだ。そちらに行く必要がありそうだ。

妹も部屋で寝ているし、心配は要らないだろう。












再び氣がついたら邊りは暗く、もう夜に成つてゐるのだらうか。
周りは靜寂に包まれ鳥の鳴き聲と、時折部屋の外かどこから聲がするだけだ。深夜に成つても車の走る音が絶えなかつた日本とは大違ひだ。

靜かに、心地よい靜けさ。ランプのオレンジ色の光がうつすらと部屋を照らす許り。此のランプはアルコールランプか何かだらうか。電球ではないやうだ。

起き上がり、あたりを見渡す。

視線の低さに驚いた。

前世の身長は大體170cm位はあつたが、此の身體からだは150cm、いや其れ以下かもしれない。

首の邊りが髮の所爲せいか暖かい。然し不快では無く、寧ろ心地よい。

試しに其の場で右足を軸に一廻轉ひとまわり。今度は反對周り。

前世とは違ふ高さの視線。

奇妙な感覺に捉われつつも、髮を手ぐしで整へる。

腹に卷いてある繃帶以外何も着てをらず自分が裸である事に氣がついた。

流石に裸で歩き囘るのは良くないだらう。傍らにあつた白裝束を着て部屋を出た。

部屋を出ると狹い廊下の樣な空間があつた。
廊下の先には少し廣い空間があるやうで、其処には隨分とゆがんだ木製の卓子の上に食事がおいてあるのが見える。

ふむ、さう云へばよい匂ひがする。


すると件の赤髮少女が向かひの部屋から出てきた。
さう云へば前囘目を覺ましたときには彼女が傍らにゐたな。
私は屹度此の子が世話をして呉てゐたのだらうと思ひ、禮を述べようとした。

赤髮の少女は私が口を開くよりも先に
「あの、もう動けるんですか?」
と云つた。
私の身體のことを云つてゐるのか。


私の腹の治療を施して呉れたのも彼女だらうか。

「えゝ、お陰樣で。私の治療をして呉れたのは君か。」

「いえ……私ではありません。」

改めて見ると若いな。
年は十二、三歳邊りだらう。

治療をして呉れたのは別の者か。とは云へ、面倒見て呉れたのは彼女だらう。

何はともあれ有難う、と禮を述べた。

すると此方に向かつてくる人影が在る。

またしても赤髮である。
實に革命的な色だが少し目に痛い。
松の木肌のやうな色の服、ローブの樣なものを着た青年がやつてきた。
然し目立たないが、其の茶色い姿の所々に赤黒い血の痕がある。


「あ、兄さん」
兄さん、すると彼女の兄か。

「あれ、貴女は……まだ動かないほうがいいと思いますよ。綺麗に切れていたので直りは良いとは言え、お腹をばっさり大きく切られてましたからね。肩を貸すので部屋に戻りましょう。安静にしていてください。」

兄妹共に身體の心配をして呉れる。

「いや、もう大丈夫です。其れよりも君が治療して呉れたのか。」

「ええ、そうですよ。妹が倒れている貴女を見つけてね。急いで治療所に運んだんです。」

「すると君は醫者いしゃか。迷惑を御掛けしたやうで。」

「いえいえ、しかし本当に安静にしていたほうがよいですよ。」

だが實際に活動に支障は無い所まで恢復してゐる。此の場所が如何どういう場所なのかも不明であるゆえ、布團の上で暇を貪るのは私の性分からして心持の良い事ではない。

「己の體の事なので云へるが、まあ大丈夫でせう。其れにしても少しお腹が空ゐてね。何か食べないと落ち着か無ゐので食べ物を探しに行かうかと。」

「さいですか。では立ち話もなんですし、私の部屋へ行きましょう。粥なら食べれるでしょう。」

と云つて彼の部屋で食べると云ふことに成つた。
彼と赤髮兄妹が食事を取りにいくと言ふことで、私は部屋で先に待つてゐるやうにと云はれた。

部屋を見てみると、藥草と思しき者や、鋸、縫合用の針、絲などがおいてあつた。

なるほど、醫者の部屋らしい。

机の上には幾つかの本が置いてあつた。先ほどまで讀んでゐたと思しき本をふと手にとつて讀んでみる。

アラビア語に似てゐるが見た事のない文字だ。ふむ、然し自然と讀める。此れはカイゼル髭のおかげか。

題は「外傷に於る燒灼(しようしやく)止血法の有效性」と云ふものだ。

中を開くと四肢切斷などの重傷の場合に有效な止血法として云々。特別な技術・器具・藥品を用ゐずに行へるので危急の際でも云々。

と云ふ近代以前の内容が書かれてゐた。
大丈夫か此處は。

いつの治療法の本を讀んでゐるのだらうか。
彼の趣味だらうか。
然し私には燒ゴテで止血はして貰ひ度くは無いな。

ふと机を見るとメモがおいてあつた。

妹の治療案
・カンゾウ、タイソウ、バクモンドを調合した藥を試す。
物は農業區にて確認濟み、明日採取

などと走り書きがあつた。

ふむ、甘草(カンゾウ)、大棗(タイソウ)、麥門冬(バクモンド=バクモンドウ)のことだらうか。漢方藥でも作る積りか。
麥門冬湯と言ふ漢方藥があつたはずだ。
咳に效くと言ふ代物の筈だが、妹さんは風邪か何かか?

と考察してゐたら彼らが戻つてきた。

「そこのテーブルへどうぞ。」
見ると廊下の先にみえた大層歪んだ卓子よりも幾分マシな卓子があつた。

椅子にかけると――軋む音が聞こえてくるが――粥を差し出された。

然し此の粥の中身、米ではないやうだ。ぐぬ、米が食ひ度かつたがさう贅澤も言へまい。

彼らも粥のやうだ。

「では、頂きましょうか。」
と青年が云つて食べ始める。

木で作つたスプーンで食す。

うむ、不味くない。然し美味くも無い。なんとも云へぬ味。だが腹は膨れるので今は文句はない。
「それにしても妹がアランカザンダッカの花畑の中で倒れている貴女を見つけて、ここに運んでから四日間も意識が無かったんですよ。一体何があったんです?」

醫者の青年が質問した。

どうしたものか。私は此の場所のことを良く知らない。抑も兄妹そろつて赤髮がゐるやうな場所だ。其れでゐて片方は醫者だと云ふ。下手に囘答は出來ない。
此處は日本か等とも問へない。此處の常識がわからない以上、下手に喋るのはまづい。
旅の者で行き倒れた。

旅をしてゐたら何者かに襲はれたのだ。
等とも云へない。
旅が非常識な行動であつたらどうするのか。
抑も此處は現代なのか。
どうも此の建物に現代科學の匂ひを感じない。
石造りの壁に木の天井。棚等を見ても規格があつたりするわけでもなささうだ。
彼らの着る服は北歐邊りの民族衣裝の香りがする。
では邊疆の村かどこかに飛ばされたのか。
だが、何かが違ふ。
如何答へたものか。
答へやうによつては不信感を與へかねない。

頭をうんうんひねつてゐたら、
「……何か訳が……あるのでしょうか」
と赤髪少女が云ふ。

ふむ、其れもありかもしれない。

「よろしければ、聞かないでもらへないか。」

「そうですか……何か理由がおありなのでしょう。何、こんな世です。逃れなくてはならん時もありましょう。」

案外うまく事は運んでゆくものだ。
屹度彼らもさう云ふことが在るのかも知れない。

「恐らく寝泊りする所も無いのではないでしょうか?よければ患者用の部屋を一つ貸すので、使ってもらってもかまいませんよ。」

「なんとかたじけない。有難う。」

此處までされると、せめて名前くらゐは名乘らねばなるまい。
ナナシで通るわけにはいくまい。
どうしたものか……此處は現代日本ではないやうだ。此處で日本の名前を言ふのも違和感があるだらう。
此處は先に彼らの名前を聞いてみるか。彼らの名前にあはせて此方も適當な名前を言はう。

「ところで二人の名前は……」

「あゝ、そういえばまだ名乗っていませんでしたね。自分はアルヘルワです。」
「私は……アンジュルペナです。」

青年はともかく、少女は可憐な名前だ。
ふむ、矢張り此處で日本式は違和感があるだらう。
どうする。なんて名乘らうか。

目の前の彼らは日本人ではなささうだ。然し、骨骼やら肉のつき方やらが確實に違ふとも云へない。
日本人のやうで日本人ではないやうな。
おそらく同じアジア系の人が見たら彼らを日本人だと思ふだらう。
然し私にはさうは見えない。
半島か大陸か。いやどうも其れらしい血の香りはしない。
彼らの名前はど此の國とも言へない。
強ひて言ふならアラビア語に近い。
私が日本人だからと云つて日本式の名前を名乘れば違和感があるわけだ。

一つ案が浮かんだ。
適當な歴史上の人物の名前から借りてこよう。
若しも此處が現代なら、何かしらの反応が見れる筈だ。
特に何も無ければ、此處は少なくとも現代ではない、と言ふことがわかる。

では誰から貰はうか。其れほど詳しいものではなくとも皆が知つてゐる人物……。

獨逸第三帝國總統から戴かう。
彼ならば知らぬ人は少ないだらう。
然し其のまま其の名前を云つては問題があるな。

若しも此處が現代で彼らがユダヤだつたりしたら?獨逸の辺境だつたら?若しくは過去でソ連の僻地であつたら?
また、明らかに其のまゝ使つては問題が起こりさうだ。

少しもぢつて「ヒットレル」と名乘つた。

性根の腐つたファシストの豚め!と云ふ極端な共産趣味思考はないので、此れは問題ない。
響きでわかるだらうから何か反応があるだらう。
そしてもしも其れで問題があつても、發音やらつゞりが違ふ、などと云へばごまかせるだらう。

然し、特に此れと云つた反応は無い。
視線や筋肉などを見ても、變化は無い。

ヒットレルさんですか、華麗な名前ですね。などと青年に言はれる始末。
うむ、此處が現代ではないと假定しても良いかもわからない。
然し、其れだけで判斷するのは腦がない。

「さう云へば、今は西暦何年か?」

「西暦?紋章歴の間違いでは。いまは紋章歴1901年ですよ。」

紋章歴?聞いた事の無い名前だ。
まさかとは思ふが此處は前世にゐた世界ではないのか。
若しも彼らの頭がイカレてゐるか、おちよくつてゐるのかでなければ、

所謂、異世界にゐると云ふことか。

異世界に飛ばされる類の小説はいくつか讀んだことがある。
有名どころならガリバー旅行記だらう、
然しまさか來世は異世界で過ごすことに成るとは。

ならば早急に此の世界の常識を知らねば。
では先ほど讀んだ「外傷に於る燒灼止血法の有效性」と云ふ本は現行の彼らの醫療技術か。
若しも此處が中世の暗黒時代のやうなところなら、智識を得ねばやすやすと屍をさらすことに成る
此處は芝居を打つか

「あいすいません、私は長い間、兩親に隱されて育てられたのです。私が倒れてゐたのも其れに關係があります。」

「そうでしたか、いや黒髪など珍しいので、屹度親御さんはあなたが連れて行かれるのを恐れていたのでしょう。」

「なので私には常識が少し足りません。よろしければ暫く此處にお世話に成り度いのです。勿論、タダ飯を食べるわけではありません。貴方は醫者とみえます。少しくらゐなら私にも醫療に關して嗜みがあります。助手としてお手傳ひをさせてください。」

此れでよいだらう。若しも此處が中世歐羅巴なみの醫療技術なら私の本で得た附け燒刄智識でも十分役立つ筈だ。
其れに此の天井は低いが大きな建物。其の建物を兄と妹で二部屋、私の寢てゐた部屋で三部屋、そして私に其処を使つても良いと云ふのならもう一つくらゐは部屋はあるはず。
最低でも四部屋。此の世界で醫者であると言ふのは中々有利に働くことなのだらう。
其の醫者の助手と成れれば何かしらのトラブルがあつても少しくらゐの後ろ盾と成るだらう。


「なんと、貴女は魔法を使わない治療ができるのですか。まぁ奴隷区にいるのだから魔法は使えないでしょうが、それでも最低でも読み書きはできると見える。わかった。実は自分も手が足りなかったところです。貴女の事情は聞かないから、此処にいてください。」
「自分達のことは家族だと思って接してください。そうですね、自分事は『アル』とでよんでください。」

なんと快諾して呉れた。斷られたらどうしようかと思つてゐた。
然し、此處でまた一つ新たな情報が得られた。
「魔法」と「奴隸区」と云ふ單語が出てきた。

話からすると此處は奴隸区であると云ふことか。奴隸区と云ふからには恐らく我々は奴隸の身分にゐると云ふことか。
然し我々がよく想像する樣な奴隸ではないやうだ。
かなりの自由が認められてゐると見える。でなければ何故こんな個室が與へられるのか。
おそらく羅馬帝國のやうな奴隸、若しくは此の二人は奴隸区の診療を担當してゐる奴隸ではない人、と言ふことだらう。

そして「魔法」についてだ。
魔法と云ふ單語か平然と出てきたからには恐らく魔法なるものがまかり通る世界なのか?
奴隸區にゐるのだから魔法は使へないでせうが、と云ふことは奴隸ではない者は魔法が使へるのか?
それもどのやうな魔法なのか。
此の際魔法の存在を疑ふのは止めておき、魔法が平然と使はれる世界と考へたはうが良いだらうが、魔法にも色々あるだらう。
唯單に雷やら炎やらを起こせるのか、其れとも人の心を操つたり、死者を甦み還えらせる事が出來る魔法なのか。

不安要素は多いが取り敢へず此の世界で生きる糧を得られた事には感謝だ。

青年、もといアルは家族だと思つて接してください。とも云つた。打算なくして云つた言葉ではないだらうが、今は其れに乘つからう。


ふと、赤髮少女のアンジュルペナと目が合ふ。微笑んでやつたら恥づかしさうにしてゐた。











[30292] 第四話 せゝらぎ
Name: 鈴虫◆d0054ca9 ID:a764f917
Date: 2011/10/29 10:46
此處ここは夢の中であらうか。
昨夜三人で飯を食つた後、寢たのだが。
主はわからぬが聲が聞こえる。

――驚き覺えたることならむ。
貴樣の好ましくするに良し。
此の地にて靜かに明かし暮らしても良し。
惡行の限り盡くし、此の世が灼熱地獄へと落とさんや良し。

此處なるは國産みて忘り去なれき奇形兒也。
何人も目向かれけれどらなかりき、水へ流されき忌み嫌はれし子なり。

貴樣は國育てき。ゆゑに此處へ連れて來き。
水に流されども生き永らゑ、耐へがたき苦痛の時ば生くる此の子に掛けそ樂なりてきるやもしられず。

此は本來、餘により解決せしめるべきことなり。
ゆゑに、絶對にして呉とは言はず。
我子育てゝくれし禮なるに思ひ、好ましく來世生け。


此れはカイゼル髭の聲だらうか。


私は目をます。
夢だつたのか。
そんなやんごとなきお方だつたとは思はなかつたな。
彼は私に大層なお願ひをしたかつたやうだ。
絶對にして呉とはいはぬとは、して呉れと言ふことか。
まあ、良い。好きに生きよとのたまひ給うたのだ。折角の來世だ。おもひきり樂しませてもらはう。

桶に入つた水で顏を洗ひ、髮を整へる。

前世との背丈の違ひも一夜明ければかなり慣れるものだ。

水面に移る自らの顏を眺める。

色は乳のやうに白く美しい。
髮はみどりの黒髮にて、髮癖もなく綺麗に眞つ直ぐに降りる髮を肩の邊りで切りそろへ、前髮は眉のあたりで切りそろへてある。

目は一重であり目蓋の間から覗く瞳は、うるしのやうに黒き瞳である。

唇は薄い櫻色である。

笑ふと頬のふつくらとするのが可愛らしい。

うむ、今日も可愛いものであると『彼女』をめる。

白裝束を上に着てゐるのもどうかと思ひ、昨夜の食事の後着る物はないかと問うたら、松の木肌色のローブを呉れたので白裝束の上に其れを着込んだ。

下着はアンのを借りた。(アンジュルペナと言ふ名前は長いので、食事中『アン』と呼んだら恥づかしさうにしつゝも特に不快に思つていなささうだつたので、これからはさう呼ぶことにする。)


軍刀はさげようと思つたが、冷靜になつて止めておいた。
昨夜の食事の後、このけんとよく分からないもの(南部)は貴女のだらうと返して呉れた。
奴隸が帶劍たいけんするのは禁止されてゐると言ふ話だつたが、持つてゐる理由を聞かないで呉れたのは有難かつた。

黒髮は珍しいとの事で面倒ごとを避けるためフードを被り、朝食代にと貰つた金を持ち部屋を出て配食所へ向かつた。

奴隸は皆輕裝で、ローブなど着ないが、醫者いしゃなどは簡易治療具を懐に入れておくのと、外傷を防ぐ理由等から着る事もあるらしい。
もつとも、一番の理由は醫者であると言ふ事を一目で分からせる事で監視員からあらぬ誤解を受けないやうにすること、醫者であることは奴隸達の仲でも稀少な存在らしいので、先に醫者であると言ふことを誇示して他の者とのトラブルを避けることが目的ださうだが。
色が茶色なのは治療の際に附着した血を一々洗つてゐるのは手間なので目立たないやうな色といふことださうだ。

食事は金を使ふ。金は勞働の對價たいかとして支拂はれる。
但し、金の量はすくないらしい。實際にその勞働の現場を見ないと其れが妥當かどうかは判別できないが。

奴隸達は皆寢泊りはこの場所と同じやうな、石材と木でできた建物ですると言ふことだ。收容棟はアルが擔當してゐる區域くいきだけでも124棟ある。
一般には一部屋6人ほどで寢るさうだが、一部の者、丁度アルのやうな醫者は治療等の爲に個室が与へられる。診斷室兼手術室兼私室世言ふことだが、彼は患者が多いといふことで他にも六つほど治療用として部屋の使用を申請してゐるさうだ。
今囘の私に對する厚遇も、必要以上に申請してゐるからださうである。

しかし、これだけの數、少なくともアルが担當する區域の人口は一萬人を超えるはずだが、奴隸の主もこれだけの數の奴隸を管理するのは非常に困難なはずだ。
6人部屋とはいへ、自由な寢牀がある所を見ると、古代ローマの奴隸制度の樣な感じかと考察する。


食事を貰はうと竝んでゐたらやけに視線が飛んできて痛い程であつたので早足で部屋に戻らうと足を飜して部屋へ向かふ。フード越しから見ても可愛いさがわかるのだらうか。困つたさんばかりである。
己の身であるが己の身でないやうな不思議な感覺かんかくに陷つた。
ネットゲームで譬へるとネカマといふ奴の感覺であらうか。
てくてくと歩いていくと部屋の前にアンがゐたのでアルを交へて三人で食はうと言ふ事になつた。

窓からさしこむ太陽の光が炻器でできたコップの中に入つた水を照らす。

昨夜は薄暗い中であつたので良くわからなかつたが、アルは赤い髮の短髮で眉毛は中々に濃い。
肌の色は江戸茶色である。
昭和の日本男兒を思はせる。

アンの背丈は150cmほどだらう。
瞳に彼女の猩々緋色の髮が映る。
髮は腰ほどの長さにして、後ろで三つ編みで一つに束ねてゐる。
若干、髮の癖がありウヱヽブがかかつてゐる。
顏は西洋人らしい深さは無く、かと云つて亞細亞人らしい平坦さもなく、
だがどこか日本人らしさもあり、
笑ふと口元に現れる小さな皺が可愛らしい。
彼女の瞳は赤色、紅色と云つて良い。
小さな唇は薄紅梅色である。

朝食で貰つたのが黒パンであつた。
黒パンは硬くて不味ひ。
水につけてふやかしてから食ふのである。
米が食ひたくてしやうがない等と思ひつゝ顎の運動をする。

黒パンを食つてゐたら、アンが如何してこのパンは3オウラ(この國の通貨らしい)もするのかとつぶやいたので、カールマルクス著「資本論」から使用價値と交換價値とを、説明してやつたら、理解したのかどうかは知らぬが何やら納得した樣子であつた。
十二、三歳の少女に理解できたのかは不明である。

おかずの代はりにとアルにこの街について簡單に説明して貰つたが、目の前のアンの顏ばかり見つめてゐたから彼の話は右から耳に入つて左の耳から拔けた。

アルにいてゐるかと問はれたので聽いてゐなかつたと云つたら困つた顏をしてもう一度説明してくれたが、話の途中にふとアンの方をみると、何やらブスーと頬を膨らませてゐたのでしてゐたので、女子は笑顏が一番であるので笑顏のはうが素敵だと云つてやつた。

なんだか妹が出來たやうである。
どうせなら私の理想の女の子になつてもらひたいものである。
光源氏に許されて私に許されない道理はあるものか。
ついでに言葉は言ノ葉と言つては自らの心を冩すんだ、的なことを話してやつたら、これまた感心した樣子で、どこでそんな智識を得るのかと聞いてきたので、本を讀むことだと云つてやつた。

其れの後にアルの話をせがんだら、彼は落ち込んでゐた。

朝食も食ひ終はつた所でアルが、今日は酷い發熱をしてゐる者が居て、其の子の診察等に行くので着いて來て欲しいとの事であつたので、もちろん快諾した。

アルの指示で鋸やら針、藥草やらアルコールやらを鞄へ詰め込んでゆく。
どのやうな醫學を持つてゐるのか、高を括つて醫學の嗜みがあるとは言つたつたものゝ、近代竝みの技術であつたならどうするか等と思案してゐたが、杞憂だつたやうだ。
道具やらから、ルネサンス期のヨーロッパ及びイスラム圈が少し入つた竝みの醫療技術であることが伺へる。
これならば私でも何とかなりさうだと安堵する。

さうしてアルと共に行くことになつたのだが、アンは留守番らしく、不滿さうにしてゐた。
アル曰く、呼吸に關する病で寢かせておくださうだ。さういへばそこまで酷くは無いが咳をしてゐた氣がする。後で診てやるかと思つた。


外に出てみると、太陽がまぶしい。
ずつと部屋で寢てゐた譯であるから、目が明るさに慣れるまで少し掛かつた。
目が慣れてくると、建物が視界に入つた。

壁を石材で造り、傾斜がついた天井は木でできてゐる。一定の間隔で乾燥させた糞と藁ふんとわらを混ぜ合はせたのを塗られてゐる所がある。
30メートルほどで長い一階建。
建物の脇には横約30センチ幅に石材を敷き詰めた水道と思しき物が掘られてをり、遠くのはうまで水が流れてゐる。それらは汚水のやうだ。
なるほど、公衆衞生には氣を使つてゐるやうだ。
カサブランカが水道に沿つて植ゑられてゐる。

私が花を見てゐたら、
「綺麗で良い匂いの花でしょう?タタラアルバイダという花でね。汚水道ができてから匂いがくさいって言うんで、私らが良い匂いの花を植えたのよ。」
と見知らぬ白髪女が話しかけてきた。
一體誰だらうと思ひ、アルに聞くに、農業區のうぎょうくの勞働者(どれい)の「ゼアニ」と云ふさうだ。見た目は二十歳そこそこのグラマアな姉ちやんである。

「あなた、アルのとこに運ばれた黒髪さんでしょう?随分酷い目にあったんだね、男が信じれなくなるかもしれないけど、見たところアルは大丈夫そうね。」
と餘分な同情を受け苦笑しつつも何故私の事を知つてゐるのか聞いた。
「そりゃ、担架でアルのところに血を流しながら運ばれてく女の子がいて、さらには黒髪の別嬪さんっていうんで少なくともこの区はみんな知ってるよ。」
これはフードを被る意味はなささうである。黒髮は珍しいさうなのだからもう少し隱匿して運んでもらひたかつたものだ。
それでグラマア姉ちやんとアルを交へて、これからどうするのかと云ふ話を少しした後、時間だと云ふことで我々の歩む先と反對方向へ歩いていつた。

所で農業區とは何かとアルに問うたら、先ほどの食事で説明したぢやないかと云はれたが聽いてゐないものは聽いてゐないのである。
私が惡いのだが。
聽くに、
「この街は魔術師達の住む市街と我々労働者(どれい)が住んで働く奴隷区に分けられます。
市街についてはまた今度お話しましょう。
奴隷区は様々な区に分かれています。
我々の住む居住区が五区、
鉄や銅や魔法石を採掘、製鉄し刀剣類や道具に加工するのが鍛冶区、彫金もここで行われます、
農作物や薬草、木材などの生産から酪農、牧畜などを行う農業区、
土器、炻器、陶器などの生産をする工芸区、布などの生産もここで行われます、
その他区を設けるまでも無い中小規模の物を生産をする総合区
に分かれていて、それら奴隷区は長大な城壁で囲まれています。
出入り口は北門と南門と西門のみで、それらは生産したものを運び出したり、監視員が巡回にでたり、新たな奴隷が入ってくるとき以外は開かれません。
ちなみに北門は市街と直通で一番警備が厳しいです。
ただ、鍛冶区の一部と農業区はとても広大なので、城壁でカバーしきれていませんが、街の外には追いはぎやらがウロウロしてるので、運よく脱出してもすぐに殺されます。
なので最近では脱出を企てる人は少ないです。」

などて長い説明をされたので農業區のところだけ摘んで覺えておく。

では此處は居住區と云ふことである。
道は舖裝はされてをらず、歩くたびに土ぼこりが立つ。
歩幅が前世よりも若干小さいので歩くのに一寸ばかり苦勞する。
フードは要らないと思ひ、被らずに歩いてゐたら先々で、おお黒髮だの、可愛いだの、ちつちやひ子だなだのと云はれて、視線もいやなので收容棟(勞働者(どれい)たちは宿舎とよぶさうだ)を4つ行つた所で被つてやつた。可愛いのも困りものである。ふとアルが殘念さうにした。

一寸間を空けたところでアルが、君は本當に可憐だからそのうち云ひ寄つてくる者があるかもと云ふので、私は君しか見てゐないよと冗談を云つてやつたら、それからもごもごして何も云はなくなつた。春いやつめ。

そんな笑談じょうだんを言つてゐたら、目的地に着いたさうで、148號棟の前でとまる。
中に入ると靜かなものだ。皆出拂つてゐるやうだ。

牀の軋む音とブーツのヒールが鳴らす足音とを聞きながら歩くと、件の病人の部屋に着いた。

アルがノックをすると誰何すいかが歸つてきた。若い娘の聲であつた。
あれこれで來た何某なにがしだと答へるとドアが空いて中に入つた。
すると白髮の強面の髭おやぢがゐた。儚げな少女を期待してゐたら、かう云ふ目に嬉しくないものが飛び込んできたので落膽らくたんする。

お孃ちやんが例の黒髮さんかなどと自己紹介もそこそこに髭の話を聞く。
話に聞けば髭の娘さんが三夜ほど熱が下がらないさうだ。
その強面に似合はず小さくなつて泣きさうにしてゐる所を見ると、よほど娘が心配らしい。今日は勞働もすつぽかし、代はりに息子に自分の分までやらせるさうだ。

今更ながらベッドのはうを見ると長い白髮が汗で肌にくつ付いてゐる少女がゐた。中々に整つた顏立ちをしてゐる。
アンもさうだが、この世界の病弱系少女は皆可憐であるな。

白髮少女は此方に首をむけ、 目を細めて云つた。
「あゝ、アルヘルワさん……よろしくお願いします。」
と挨拶した。
一寸のうち、私に氣がついたのか新しいお醫者樣かと聞いてくるのでアルの助手であると答へた。

アルは、では失禮しますと首に手を當て脈をみた。
其の後、白髮少女の心臟の鼓動を聞くためか、服をはだけさせ、胸に耳を當てようとした。

にしても此の子は私の前世と同年代ほどに見える。
同年代の女の子の裸を見るのは初めてであるので自然と緊張して背筋が伸びる。
自分の體も女の子であるが言ふならば其れはネカマのやうな感覺であり、本物の女の子とは云へない。
ついぞ女子を抱くことなく黄泉の國へ行つた身としては何やらコロンブスのやうな氣持ち。

此のままでは刺戟が強いと、アルに一寸待てと言つて木の筒を其の邊で調達して此れで聽いたはうが正確だと云つて渡した。

當初、不思議さうな顏をしたアルと髭と白髮少女であるが、直ぐにアルが此れはすごいと云つて、一同驚歎する。髭も自ら試してみて驚く。
君は何故こんなことを思ひついたのかと云つてゐたので、
なに、科學(化學)のおかげだと云つておいた。

アルは熱を冷ますために氷水の入つた袋を額に乘せておいたらよいとしたが、念の爲私からも少し診させてもらはう。
「ところでお孃さんの名前は何であつたか。」と問うたら
「サウサンって言います。」との事だった。
「良い綺麗な名前だね。では、サウサンさん……?」
サン、さんと來て呼びづらいなと思つてゐたら、
「どうか……サウサンと呼びください」
「ヱえと、では、サウサン。熱のほかに何か變はつた事は無いだらうか。さう、例へば頭痛や間接の痛みや黄色い液を吐いたり、腹痛がする、なんて事はあるだらうか。」
「えっと……お腹が痛いのとさっき……は、吐いちゃいましたです。」
なるほど、少しお腹を觸診するかと思ひ、其の旨をアルに話した。
アルは承諾したが、觸つて痛がつた場合にあの髭が騒ぐといかんので髭に先にあれ此れかう云ふことをしますと傳へた。

みぞおち邊りから下腹部を押してゆくと、右下の腹部を押した際に強く痛がつた。
附け燒刄智識だが此れは盲腸ではないか?
其の旨を話し合ふため、いつたんアルと廊下に出た。髭が心配さうにつぶらな瞳で此方を上目遣ひで見てゐたが、大丈夫ですよとだけ言つて出てきた。

「少し自信が無いのだが、彼女は盲腸ー蟲垂炎かも知れん」
「それは何ですか?」
「む、えと説明するとだな……」

私は教科書どほりの事を説明した。然しよくもまあそんなスラスラと出て來るもんだと自分でも感心した。

「むむ、腹を開くんですか……」
「うむ、澁る理由はわかる。切開時の痛みと、周圍の衞生が保てないから開腹時の菌の侵入が心配なのだらう。」
「何か手が……?」
「ない。痛みは少し心當たりがあるが、衞生に就いては魔法でも使つて周りを覆ふ、殺菌のできた空間が作れればよいのだが」
私は死んだ時分はまだ高校生である。BJ先生のやうな道具も無ければ、流石にそんな智識も經驗も無い。あるのは讀んだ本の中のことだけである。


「體内に入つた金屬片やらを取り除く事はした事があるか。」
「あります。此処じゃしょっちゅうですからね。」
「其のときは切開などはどうしてるか。」
「急を要するので痛みだとか細菌だとかはお構いなしですね。酒を飲ませながら切り口に強い酒をぶっ掛けてやりながらやるしかないですね。」
「流石にあの子に其れは酷かな?」
「ま、まぁ、そう思います。」
「ところで私の腹を縫つたときはどうしたんだい?」
「ぐぬ、え、えっとだね……自分の、だ」
「聞かないでおくよ。まあ殺菌はしやうがない。酒をぶつ掛けよう。」
「痛みはどうすんです?まさか何もせずに斬ったら悶絶しますよ。」
「其れなんだが……なんて云ふか知らないが、アヘンだとかタイマだとかつて聞いた事あるか。」
「アヘン?来たこと無いですね。」
どうやら言葉は通じても、一寸した名稱等は通じないやうだ。カサブランカ=タタラアルバイダの樣に名前はうまく傳はらないやうだ。
ふと、私は繪を描いてみようと思つた。
羊皮紙とペン、インクを鞄の中に入れてきてゐたのでスケッチを描いて見せた。
「うーん、見たことあるような無いような……農業区の連中に聞いてみればわかるかもしれません。ちょいと朝出会ったゼアニに聞いてみましょう。」

と云ふことで今日は一旦引き上げて、農業區やらを囘る乍らゼアニを訪ねるついでに歩きがてら話さうと云ふことに成つた。
歸り間際に髭が土下坐をしてきてアルが大層困つてゐた。
今更だが髭の名前はサシュワルと云ふ事を思ひ出した。

宿舎(收容棟)を出たとき、水のせせらぎの音が聞こえた。
目で見ると汚水其のものだが、目を瞑ると小川のやうな氣がして、心が安らぐ。
意図したのかは分からないが夜寢るときに落ち着くのは此れのおかげか。

目を瞑り、小川のせせらぎの音が體に滲透する。
祖國日本の原風景がまぶたに浮かぶ。
ふと懐かしく思ふ。
あのころには氣がつかなかつた音に今氣づく。

まだほんの僅かな時しか經つてゐないのに、何故だか何年か經つてゐるやうな氣がした。

少し先に歩んでゐたアルが私が水道をみてボーッとしてゐるのに氣がつき、歩みを止めて此方に振り向く。
私の事を呼んでゐた。

我にかへり、謝辭を述べて三歩後ろからついて行つてやつた。
元、男である私が一番望んでゐたシチエイションである。出來れば前世であの子にかうして貰ひ度かつた。
なので自分がさう振舞つて、少しでも滿足感を得る。少し樂しい。


アルを覗くと、其の微妙な距離感の所爲かアルは頬を染めてゐた。










せせらぎや 百合の匂ひに 誘われて












[30292] 第五話 さんぽ
Name: 鈴虫◆d0054ca9 ID:a764f917
Date: 2011/10/29 21:56
何故わたしたちはこんなに困窮しなくてはならないのだろう。
同じ人間であるはずなのに、魔法が使えると云うだけで暖かい家で寝ているだけで腹いっぱいになれるのだろう。
魔法が使えないわたし達は過酷な労働をし、寒い日も凍えて暮らし、食えるものはパン一つ。
もちろん金はもらえる。だが、やっと食っていけるだけの金しかない。その日の食い物を買ったらそれでおしまい。
食い物を作っている人達も今が精一杯で、食い物と引き換えに貰った金も次の食料を確保するために無くなってしまうと云う。
わたし達が作った芋やムギはどこに行ったのだろう。

わたしは魔術師が憎い。彼らもここで働いてみると良い。
巡回にくる監視の魔術師は働いてない者を見つけるとひどいことをする。
何のために金を払っているかと怒鳴る。

何故わたし達は働けど働けどその日暮らしなのか。
わたしは其れを解明したい。
そして魔術師たちを踏みつけたい、わたし達の分まで働かせたい。

そんなことを、やんわりとヒットレルさんに話してみた。

ヒットレルさんは不思議な人だ。

見た目は私と同じ女の子なのに何故だか兄の様な、いや何とも云えぬ物がある。

それでいて博識だ。
今朝の食事のときに「どうしてこの黒パンは3オウラもするんだろう」といったら、
「そもそも物には値段は無い。例へばこのパンも元々は値段は無い。なぜ値段がつくかといふと、それは人の手、勞働が加はつたからで、そして市場へ出されたからだ。市場に出されればそれは何でも價値、値段がつく。さういへば、みんなが使つてゐるであらう金には元來價値などない。金を食へば腹が膨れるのかといふことだ。
人間生活にとつて一つの物が有用であるとき、その物は使用價値になる。使用價値といふのは役に立つもの、つまりこのパンを食へば空腹をしのげると云ふ工合のこと。
使用價値は消費されてこそ實現されるといふ事。パンは食へば無くなるからね。その使用價値は富の社會的形態がどうであれ、交換價値とはイコールの關係なんだ。
交換價値といふのは、少しばかり難しいかな。例へば君が服を作つて、このパンと交換したとしよう。服が欲しかつた者はそれが滿たされるし、君もパンが欲しかつたのが滿たされるだらう。
何故、違ふ物なのに、交換できるんだらうね。そして今は何故、パンと金(オウラ)は交換できるんだらうね。
……私はこの世のことをあまり知らぬ。だが、君の話を聞くに、君達のやうな状況を搾取されてゐると云ふ 」

そう云った上でわたしの事を褒めてくれた。
こういうことに気づく人は凄い人なんだと云った。そういう者がいるからこそ、万人が幸せな国が作られると云った。

話の途中で兄が割って入ったのでこの話は又今度ということになった。
ちょっとふくれていたら、ヒットレルさんが笑顔のほうが良いと云った。
そして言葉について教えてくれた。
まだ難しく、理解はできないが、どうしてヒットレルさんはそんな事が理解できるのだろう。どこで知ったのだろう。

そんなに物知りなのに、常識的なことは全く知らないみたいだ。
金の単位も昨夜初めて知ったらしい。
魔法石を粉砕した粉を紙に振りかけて、それに魔法を掛けたものがこの国の通貨で、その通貨をオウラと云う。と教えてあげた。

大体鍛冶区の奴隷が貰える1日の給金が12オウラで、飯が一食5オウラ程度であると教えたら、驚嘆すると共に、納得した様子だった。

ヒットレルさんと話していると面白い。

ヒットレルさんは今は兄と共に出かけている。
今夜は何を話そうか。
その交換価値について聞いてみたいな。

突然ノックがした。
誰何をした。

「僕だ。ハリックス・サラノフだよ。」
なんだ、ナジュム領主様か。
この国の王の息子でナジュム領主、つまりここの魔術師達の親玉である。わたしよりも3歳年上。

奴は事あるごとにわたしの部屋にお忍びで来る。兄がいないときに。
わたしは魔術師やらが嫌いなので相手にしない。
何時も、僕は奴隷と魔術師の関係を嘆いてるだの、わたしを城で働かせてやるだの云ってくる。
何が「嘆いている」か。ならこの現状は何故続くのか。そう云ってやると黙って帰る。

今日は何用か。

開けてくれとせがんできた。しかしわたしはいつもも開けない。
するといつもドアの前で語り始める。

奴隷に対する給金の改善を官吏たちに相談したという話を聞かされた。
しかしこのパターンの時はいつも、

「だが聞き入れてくれなかった。しかし、いつか僕が変えてやる。」

という話。今日もこの通り。

ここの領主ならなんとかしたらどうなんだ。魔術師様の泣き言なんか聞きたくない。

「……あなたも結局、わたし達を搾取して……お腹いっぱい食べて、暖かい部屋で寝ているのでしょう?……理想じゃわたしたちは食べていけないの。あなたたちの所為でね。」

「さ、搾取?えと、どういう意味の言葉だい?」

わたしもまだ良く理解していなかった。ヒットレルさんの言葉をつい使ってしまった。失態だった。

暫く黙っていたら、足音がして、しだいに遠のいていった。

ドアを開けてみるとドアの前にアランカザンダッカの花が置いてあった。

その花を拾い上げて花瓶に入れてベットに潜り込んだ。

わたしは自らを戒めた。

こんなことでは駄目だ。
彼らは力でねじ伏せてくる。
力の差は圧倒的だ。
だが口は平等だ。
口と頭は彼らと変わらない。
だから口ですら負けていては何も成し得ない。
わたしはもっと学ばなくてはならない。
この世界の仕組みを学ばなくてはならない。
そしてこの現状を打倒する術を見つけなくてはならない。
窓の向うから聞こえてくる屈強な男達はなにもできない。
兄もなにもできない。
ならば、わたしがやるしかない。

もっと勉強しないといけないな。
ヒットレルさんと話をもっとしたい。
兄では駄目だ。話をしてもついてこない。

今夜はヒットレルさんと話をして夜を明かそう。














 アルの後ろに尾いて居住區を歩いてゆく。
彼は良い奴だ。或いは無鐵砲な奴だ。
得體の知れない奴に醫者の仕事をさせて、そいつを更に内に泊めてしまはうなんて考へるからだ。
現代日本人でもさう云ふ藝當は中々出來るものぢやない。
道中に、兩親はどうしたかと問うたら死んだと歸つてきたので、さうか、とだけ云つておいた。
あまりこの手の話に首を突つ込むのは心持良く思はないだらう。
彼の家族は妹のアンのみであると云ふわけで、なるほど大層大事に箱に入れてゐるわけである。

 太陽は眞上を過ぎた頃である。
 背負子を背負つて走り囘る子供達にぶつかりさうになりながら、すいすいと避けて歩いていつた。
ところでこの子供達、ボロ着を羽織り、痩せてゐたりして榮養状態が宜しくないやうに見えるのには同情した。
かと云つて私も文無しであり、居候までさせて貰ひおまけにただ飯を貪つてゐる立場であるので何か出來るわけでもなく同情するだけの僞善の時を過ごした。

 暫く行つたところで何やら服を賣る露店のやうなのをみつけた。
ここで商賣していいのかと聞いたら、勞働者内での物のやり取りは居住區内でなら認められてゐるとの事だつた。
木綿の樣な材質の服だが、質が惡いなと云つたら、これは出荷できなかつたできそこなひで、我々はここからしか物を得られないとのことだつた。

 幾らなのかと問うたら6オウラださうだ。オウラはこの國の通貨ださうだ。
ちなみに他の國ではどうなのかと問うたら、それぞれの國で違ふらしい。
他國との貿易の際には、昔ながらの金貨、銀貨、銅貨を使ふらしい。

 變動するらしいが、だいたい銅貨一枚は十萬オウラに相當して、銅貨100枚で銀貨一枚、銀貨1000枚で金貨一枚ださうだ。
一文も無い私にとつては無縁の話である。
前世に有つても裕福な方ではなかつたが、腹一杯に飯を食ふのには困らなかつた。
だがここでは腹八分目まで食へるかどうかわからぬと云ふさうである。

 銅貨だ金貨だなどと喚くのはブルジョアジーのみでよろしい。
いづれ勞働者を搾取した對價として共産革命が起こつて私有財産は沒收されるのだ。

 暫く歩くと廣場があつた。此處は全ての區の中央に位置する場所らしい。
廣場の眞ん中には杖と劍を持ち甲冑を着込んだ偉さうな人の銅像が立つてゐた。大方戰爭の英雄だとか國王とかだらう。
見上げるとかなり大きい。10メートルくらゐあるのではないかと思ひ、一體どれくらゐの高さなのかとアルに尋ねた。


「9メートルちょっとですね」
と返つてきたので、ここは私の居た世界とは違ふのにメートル法なのか?と不思議に思つてメートルとは何かと尋ねた。

「メートルの前にセンチがあって、1センチは私の小指の爪ほどです。そのセンチが100になったら1メートルと数えます。」
メートル法は各国共通なのかと問うた。
「国によって様々です。統一しようとしたこともあったらしいですが、各々の国が自国の単位を推すのでまとまっていません。」
「ちなみにこの像はこの国、『ブラゴーニエ帝国』皇帝『ニーカ・サラノフ』の像です」

なるほどメートルは前の世界とそれほど變はらない長さであるので助かつた。
それにしてもこの國は「ブラゴーニエ」と云ふのか。王の名前が「ニーカ・サラノフ」とは、名前の同じメートルやら、この世界ができそこなひの子とはよく云つたものだ。


 その名前を聞いて、私がこの世界でやるべきことが分かつたやうな氣がした。
だが、今はまだ早い。きつかけが必要だ等と思案しつつ、アルと喋つてゐたら農業區へついた。

 結構廣く、東を見るとなだらかな平原の樣な土地で南を見ると森、山があつた。
この土地は比較的寒冷で青森縣のやうな寒さであつた。
森には毛皮向きの動物がうろつき、川には魚が群れを成してゐる。
所々で牛や羊などを放牧してゐる樣が見える。
栽培してゐるのは小麥、芋だらうか。田畑も一面に廣がり、見えるだけで三里先まで廣がつてゐる。

 人々がせわしなく働いてをり、集團農場(コルホーズ)を髣髴とさせる。

 川沿ひに歩いていくと見事な引水、治水工事の後が見える。
水田のそばには彼岸花(アランカザンダッカ)が咲いてゐた。

 リヤカーの樣な物を引いて行く人達に、君があの時の黒髮ちやんか、など云はれるのでそこそこに挨拶しつつ、暫く歩いていくと林道があり、あなたはあの邊で倒れてゐたんですよと指差された先には、一寸した空間があり、そのなかに彼岸花(アランカザンダッカ)の花畑が見える。ここは元は田であつたが、立地が惡いので使はず放置してゐたら斯樣になつたと云ふ。

 林道を歩いていくと綿の栽培をしてゐる區劃に出た。
ここらは人通りが少ないやうだ。
地面がぬかるんでおり、穿いてゐるブーツが一寸沈み込んで足跡ができる。

 そこに件のグラマア姉ちやんことゼアニが居た。
あれこれかう云ふ植物を探してゐると云つたら案内するから着いて來いと云ふことで着いて行つたら、少し乾燥した地面に見事にアヘンが咲いてゐた。

彼らは「ダスモニ」と呼ぶさうだが、目立つ花だ程度の扱ひだつた。
私はこの植物の藥學的效果をアルにかうだ あゝだと説明した。
それほど詳しくは無かつたが、鎭痛劑、麻醉藥として此れほど效果的なものはないと云つて收穫法を紹介した。

「こんな凄い花だったとは思わなかったよ」とゼアニ
「少しだけなら鎭痛、催眠、消化促進、咳止め、腹部疾患の治癒等に效果がある。但し多量に服用すると昏睡状態になる恐れがある。アルなら藥に就いての心得はあるから大丈夫だらうが」
と現代人の知る苦い歴史もあるので義務として一つ忠告して置く。
草に關はつた所爲で戰爭などやらかすなど莫迦らしいことである。


何はともあれ、これは新たに栽培すべきだと一同一致。
しかしこれは内密に栽培したいとお願ひをした。
理由を知りたがつたので、件の魔術師の話をだした。

しかし魔術師は怪我や病氣も魔法で治療もするし、水の淨化もできるし、火も起こせるし。なんでもできるのでそんな草など見つけても何も氣にしないから大丈夫だらうなどと云はれたが、私はどうしても栽培してゐることは内密にしたい。
「ダスモニ」の發見は大きい。
この草が爲にブルジョアジー達はこぞつてしのぎを削るのであらうから、卷き添へを喰らふ勞働者が可哀相である。
そもそも彼等ももう少し汗を流してはどうだらうかと思ふ。
他にも思ふところはあるが、兔に角この草の栽培は内密にしておきたい。

 話は、ゼアニが責任を持つて隱匿して栽培をし、藥劑としてはアルが新たな調合法の結果かう云ふ藥劑ができた。と云ふことにすると云ふことになつた。
ゼアニの瞳を見つめて力説してやつたら頬を染めて頷いてくれた。
矢張り女子でも可愛い娘の視線には敵わないと云ふことだ。
己の美少女ぶりを譽める。

 それにしても話を聞くに魔法とやらは隨分と便利な代物のやうだ。
そんな事が出來るならカイゼル髭に魔法を使はせて呉れと頼んでも良かつたかも知れない。


 そんなこんなで部屋へ歸つてきた時にはもう夕暮れであつた。

 もうこんな刻限か。體内時計によると、どうやら一日は二十四時間であらうとの事だつたので少し安堵する。
同じ腹の子であるので、さう云ふもんなのだらう。

 戻ると我々を待つてゐたのだらうか、何人かの人が部屋の前に居た。

アンがその人達と會話してゐたので、彼女に唯今と云ひつゝこの方々は何だと問うたら、どうやらうちにきた患者らしい。
なるほど腕がパックリ切れて出血してる者やら、熱でも出たかつらさうにしてゐる者やらがゐる。

 アルと共に彼らの治療をしてゐたら、もう日は沈んでゐた。

 夜空を見上げたら、面妖なことにお月樣が一つと、月の囘りに土星の輪のやうなのがある。
面白い月だなどと思つてゐたら、もう飯ださうだ。

 さう云へば私は金を持つてゐないぞと思ひ、その旨をアルに傳へたところ彼が私の分まで食はしてくれるさうだ。

 かなり働いて呉れて、凄く助かつてゐる、そもそも自分一人でやつていくのは無理であつた等と云はれたので、彼の耳元で有難うと云つておいた。
そもそも3人ほどは養へる給金は貰つてゐるので構はない等と云ふことを云つてゐたが、ろれつが囘つてゐないのか、カミ過ぎであつた。
本當に純眞で良い奴だ。

 アルは食事を取つてくると云つて部屋を出て行つたので、アンと話さうと、さて何の話題を振らうかなどと考へる前に向ふから口を開いた。

「あの、わたしたちが搾取されている、と云うことについて教えてください」
と云つた。
見た目は十二、三歳ほどなのに隨分と難しい事を聞くものだ。
私が其れを理解したのは高校生の時分であると云ふのに。

だが、其れを教へて呉れと云ふのだ。
今朝も話をしたが、難しすぎて興味がないのだらうと思つてゐた私は、そんなことを口走つた事などさして記憶に無かつたのだが、若しかしたら彼女はこの國を顛覆させられる器なのかもしれないなと思つた。

なら誰が斷れようか。
この國は封建社會であり、國王の權力がそこそこ強く、領主、貴族(所謂魔術師)達は商賣熱心な、トンデモ社會である。
そんな社會に不滿や疑問を浮かべる者もゐるだらうが、今、目の前の赤髮三つ編み少女のアンジュルペナがさうだとは。

アンは妹のやうだ。なら理想の女子(をなご)に育てたくなるのは當然。

私はアンに凡てを教へてあげようと思つたのは、言葉を交はしてから、ほんの一日しか掛からなかつた。

「搾取されてゐる。と云ふ話をする前に、勞働に就いて語らないといけないね。搾取に就いての話はまだまだずつと先だね。つまらないかも知れないが良いのかい。」

アンは強く肯ひた。

「えと、勞働の前に交換價値に就いて續きを話さなければならないか。今朝は何處まで話したか覺えてゐるか。」
「違ふ物なのに、價値が違ふ物と交換できるか、と云ふ所までですね。」
「さうだつたか。思ひ出したよ。」
「鐵、パン、小麥…さう云ふ商品は凡て使用價値と云へる。使用價値だからこそ、交換價値になる。」
例へば…と云ひ掛けたところでアルが食事を持つて戻つてきた。

アンは苛立ちの顏を見せたが、私はいい匂ひにつられて特段氣にしなかつた。

今日は芋を入れたスープであるやうだ。
味は香辛料が入つてゐないので述べるまでも無いが、食つてゐると云ふ感覺が嬉しいと思つた。

なぜなら、此處最近、まつたく食欲が無く、そして腹が減ることがなかつたのだ。
理由を考へたら當然で、私はカイゼル髭に「不老」にして呉れと云つたのだつた。
屹度それに關聯して、腹が空かないやうになつたのだらう。
飢ゑる事は無くなつたが、食の樂しみが無くなると云ふのは悲しいことだ。
だから、食事をする機會が得られるのは嬉しいことだと思つた。

食事をしながら、この國の情勢を教へてもらつた。

今いる街、「ナジュム」は「ブラゴーニエ帝國」の首都「ウェルカ」から南西に下つて、ブラゴーニエの東と西の丁度中央附近にある丘陵地帶からウェルカ方面へ東に流れてくるブラヴ川沿ひ900キロの地點にあるらしい。
この國の、東から西への總距離は8000キロにも及ぶさうだ。
ロシア邊りを想像すると理解できた 。


その他諸々、述べるまでもない事を話してゐたら、一同食ひ終はつた。

ところで風呂に入りたい。
老化しないので新陳代謝は無いと思はれるが、一日の終はりは風呂に入らなければ落ち着かないとは日本人の性質か。

昨夜は體を拭ひただけである。
それを話したら、大衆浴場、個人風呂は魔術師だけのもので、我々は入れないとの事だ。

小さいので良いから風呂に入りたいのだが、この樣子では無理なのか。暫し落ち込む。

仕方が無いので自分の部屋で體を拭ひて我慢することにする。

體を拭き、部屋を出たら、アンが話がしたいので彼女の部屋へ着てくれと云ふさうだ。
だが、アルがその前に私と話したいことがあると云ふので、どうしたものかと思つてゐたら、アンは後でいいとの事だつたので、謝辭を述べつつ、アルの部屋へ行つた。

アルの話は、例の白髮少女サウサンに就いてだつた。

何日後に手術を行ふかと云ふ話だつたので、ダスモニを收穫し、藥劑へ加工しなくてはならないので、其れができしだいと云ふことになつた。

手術に關しては、私にやつて欲しいとの事だつたが、アルの方が經驗が上で私は經驗がとても少ない等と云つて彼にやつてもらふことにした。
そもそも手術などやつたことが無いので、下手に私が切るより、經驗者に任せたはうが得策だらう。自分の腹は二囘斬つたが。

しかし、改めて、盲腸である自信が無いと云ふ事と、衞生が惡いので破傷風になる可能性が高いと云ふ旨を話したが、經驗からこのまま置いておいても死ぬであらうし、髭も承知だらうと云つてゐた。
何もせずに死なせるよりは、手を盡くしたいとの事ださうだ。醫者の鑑である。中世ヨーロッパももう少し斯う云ふ醫者が多ければあんな評價は受けなかつたのかもしれないなと思つてゐると、アンが部屋に來てくれとせがんだので、アルとはどうせ明日また一緒に仕事をするのだからと云ふことで、おやすみとだけ云つておいてアルに手を引つ張られるまゝ、彼女の部屋へ行つた。

部屋に入つたら、よい香りがした。
所々に花が飾つてある。

女の子らしい可愛い部屋だなどと見てゐたら、ベットの横の棚には「軍事要覽」やら「神學」やら「魔法圖鑑」やら「戰爭と金」やら「奴隸を用ゐた生産のすゝめ」等と云ふ題の本が置いてあり、なるほど彼女の熱意の程が伺へた。

豫想してゐた通り、晩飯前の話の續きをとせがまれた。

その前に、羊皮紙とペンを持つてきてもらひ、受け取ると同時に、何故そんなに知りたいのかと聞いたら、
私たちが出かけてゐる時の話と共に、兩親が死んだ事やらを泣きながら話すので、その邊からはなんと云つてゐるのか聞き取れなかつたが、
最後にアンは、魔術師と奴隸、富む者と貧しい者がゐる世界をひつくり返したいと云つた。

私は十分だと云つて抱きしめてやつて、今夜は月が綺麗だと云つて暫く月を一緒に眺めた。

小川の流れる音と蟲の鳴き聲を聞いてゐた。

ふと私の胸の中で顏を上げて私の目を見つめてきたので、少し恥づかしかつたが見つめ返してやつた。


――たとへば人間の勞働があらゆる富の源泉であり、資本家ーつまり云ふところの魔術師は、勞働力を買ひ入れて勞働者を働かせ、新たな價値の附加された商品を販賣することによつて利益をあげ、資本を吸收する。
資本家の際限の無い、競爭は生産を破綻させ、勞働者は生活が困窮する。
他人との團結の仕方を學び、組織的な行動ができるやうになると、やがて革命を起こして、貴族重商主義、奴隸經濟主義を顛覆させる。

――私がこの世界に来て成し得る事は唯一つ。
階級の打倒である。
貴族主義者も労働者も、階級という概念があるからいけないのである。

――一見するとこの世界は平和そのものである。
搾取され貧しい人々もゐるが何とかやつてゐる。

私が共産主義の思想の石ころを投げ込んだらどうなるか。
私が前衞黨の旗手となつたらどうなるか。
人々を啓蒙し煽動したらどうなるか。

だが、しかし、大義の爲ならばそんな物は知らぬ。
マルクスの云ふ所の共産主義による革命ではない。
だがこの世界においてはそんなことなど氣にしてはゐられぬ。

私が割腹し、この世界に導かれた理由。
前世においては共産主義の實驗は失敗に終はつた。
だが、この世界では如何だらうか。

人類社會の最終的な理想は共産主義社會であると確信してゐる。

もはや私に祖國なく、想ひ人に會ふ事など叶はぬ夢。


――革命を成功に導くには、己が命を惜しんでゐては成功などせず。
ブルジョアジーの劍に斬られようとも絞首臺へ行かうとも、腹を斬らうとも大義の爲なら悔いは無し。

だが唯一つ、鬪爭に卷き込みたくないのがアンジュルペナである。
何やら彼女は私の心の中で大切な人になつてゐるやうだ。

出會つて一日。
それほど親睦を深めたはけではない。
だが前世の因縁かわからぬが彼女は卷き込んではいけないやうな氣がする。











[30292] 第六話 しあい
Name: 鈴虫◆d0054ca9 ID:a764f917
Date: 2011/11/01 03:08

僕は城内をメリケフ財務官の部屋まで早足で、力強く歩いていた。

この国は、いや、西陸国家は心が無いのか。
我が国は奴隷を用いた産業で成り立っている。

それは低賃金で働かせても文句一つ言わず、それでいて高品質の商品を生産する、ある意味最高の生産者達。

しかしそれは貴族達がそう考えているだけで、その奴隷達はどのような心持でいるのか。

ここの奴隷達は、貴族が労働力として奴隷を購入し、奴隷区に放り込んでおくと、勝手に自分たちで役割を決め、こちらが望んだとおりの物を望んだ量を生産する。

しかし、彼らの労働の対価は何か。それはわずかなオウラのみ。

この機構はいずれ破綻するであろう。

何度か反乱はあった。しかし我々はその度に力を持って制してきた。

しかしいつまで持つのか。

この街の奴隷七万人に対して、我々は1000人にも満たない。魔法剣士隊を入れても4000人いるかどうか。

そんな少数が多数をいつまで束縛できるのか。

僕は現状をなんとかしたい。
貴族と奴隷などと言う壁を取り払い、何時の日か共に助け合って生きていける日が来るはずだ。

しかし僕には力が無い。まだまだ若い僕は、時期皇帝の為の実績づくりとしてこの街の領主を封ぜられた。
しかし業務は、お付の財務官や軍務官などかやっている。僕には口を出す権利は無い。
いや、正確には出せる。しかしそれが通ることは無い。

ある日僕はアンジュルペナさんと出会った。
初めてこの街の領主となった日。奴隷区を見て回っていたときに「奴隷の花」の花畑の中で彼女と出会った。

それからだろうか。

僕は以前は他の者とかわらない思想だった。
しかし彼女を見てから変わった。

僕は彼女が好きだ。
だからこの生活から抜け出させてやろうと、専属の給士として雇おうと言った。
しかし問題はそこでは無いと跳ね除けられた。

それから僕は変わった。

彼女の為にも、この制度を変えなくてはならない。
今はい小さき事すらできないが、皇帝となったら凡てを変えてやる。
そして彼女に認められたい。
他の者は反対するだろう。
しかし僕は其れを許さない。
そのときには皇帝なのだから。

今は財務官に、奴隷達の給金を上げてはどうかと言うことしかできない。
しかし何時の日か、彼らを解放してやる。












月は東に傾いている。
石材と木材とで作られた建物の一室は明るかった。
その一室には若き同志が二人いた。

机に向かって赤髪少女がしきりに肯いて羊皮紙に書き込んでいる。
黒髪の彼は身振り手振りで家庭教師よろしく教授ををしていた。

「金貨が何故、パンと交換できるのか。それは先に述べたやうに、
A商品X量=B商品Y量=C商品Z量=……
と連なつてくると、どこかで「金」何ポンドかと言ふのもイコールの關係になるだらう?
金を採掘し、金貨とするには當然ながら莫大な勞働時間が掛かる。
これは銀にも當てはまる。
であるので、金貨は僅かな量でも他の商品とイコールになるわけだ。
例へば、肉は腐る。といふことは一定の時間がたつと使用價値、交換價値を失ふわけだ。
そもそも肉何百ポンドを交換して囘らうと思つたら、交換する前に腐つてしまふ。他には布なども持ち歩いてゐては汚れてしまふ。
なので代はりのものが必要だ。そこで皆が信頼した物が金や銀だつたはけだ。
金、銀と交換しておけば、他の人も使つてゐるので、都合がよかつたのだらう。
それで今日まで金、銀が使はれてゐる。」

夜明けである。

アンの目にはクマが出来ていた。

「今日はこゝらで止めとこう」背伸びをしつゝ黒髪少女は赤髪少女へ云った。
アンはメモを取っていた羊皮紙とペンとを机に放り、青いインクの付いた手をそのままにベットに倒れるように入り込んで、有難う御座いましたと云って寝てしまう。

さてこの資本論、中間搾取をどう説明したらよいかと黒髪の少女は思案する。
だが睡魔が黒髪少女を襲う。
この黒髪は不老である。
故に睡眠は必要ないのではないかと思うだろうが、精神が睡眠を求めるのである。
矢玉尽き果てども刀を振るう事はできても睡眠には勝てぬとアンの布団に一寸顔を埋めたが最後に彼は眠ってしまった。

数刻の後アルと云う赤髪の男が『彼女』らを起こしにやってきたが、どうやら夜明けまで話をしていたと見た彼は黒髪少女を問い詰めた。
黒髪少女は「さうだ」と何が悪いかという風に云ったが彼はひどく叱責した。

アンの体も考えろと黒髪に云ったら腕立て伏せをしたのを見て彼は許した。

その時アンがごぼごぼと咳をした。
黒髪の彼とアルが胸を張らせると幾分か楽になったようだが、ひゅうひゅうと音を立てゝ大きく息を吸っている。

もしやアンは喘息なのかと思った黒髪の彼はひとつ明治期辺りの吸入器でも作ってやろうと思い、その旨をアルに告げ、ローブを羽織って軍刀を帝國陸軍式に帯刀し南部を懐に入れて鍛冶区へ向かった。

黒髪の彼は道に迷ったが無事に辿り着いた。

その場所は地面は乾燥した砂利であり、辺りを見渡すと扇状に赤肌を晒す山でその山の所々には坑道が掘られ、トロッコによって石が運ばれている。
彼が右側を望むと熱風が吹いてくる。思わず彼は目を細めた。
彼の立つ右手には熔鉱炉のある施設がある。
熱気を放つその施設は、火傷の跡の残る上半身を裸にした屈強な男達が石を炉に投げ込み、ドロドロに溶けた溶岩のような液体を器の中に入れている。
彼が左を望めば鉄を打っている者達が目に入る。

黒髪の彼は樽の山積みにされている所まで行くと何やら樽を運んでいる集団に出くわした。
その中の一人が彼の方をちらと見て話しかけてきた。

中々に良い体つきをした白髪の男である。頭に赤い鉢巻をしている。
黒髪の彼は、彼が赤い鉢巻をしているので「赤鉢巻」と呼ぶことにした。

赤鉢巻が「あなたがヒットレルさんか!妹の治療をしてくれるそうだな!」
云ったとたんに、周りのものまでもが、あなたがヒットレルさんか等といっていた。

黒髪の彼、もといヒットレルは奴隷区ではちょっと有名になっていた。
黒髪の女の子が医者に担ぎこまれてその医者と一緒に暮らしているそうだおのれアルヘルワめ真面目な学者ぶっていたら云々と云う具合である。
彼がなんだなんだ徒党を組んでと思っていたら男共に囲まれてしまった。

ヒットレルはローブを羽織っているが、フードはもはやいらぬと思ったのか被っていない。
その所為で彼のみどりの黒髪は大衆の目に晒されている。

黒髪の彼は四尺八寸の少女である。
だが、心は男であり、それは前世が男であったからである。
イザ何某がヒルコをどうとかして欲しいと云って彼を此処につれてきたのである。

さて黒髪が赤鉢巻と渾名をつけている間に人だかりが出来ている。

その間、労働者の責務は忘れ去られている。
この事に対して、怒って怒鳴りつけるのは誰か。
資本家だろうか。
いや、もちろんそうだろうが、資本家が現場に出張って怒鳴り散らすのは少ない。
大抵は労働者の監督をする者を雇って、彼がムチを与え、資本家がアメを与えるのである。
だがこの世界では資本家がアメやチョコレートやガムを配ることなどせず、資本家は雑草をよこすのである。

この場合は資本家が雇った魔術師が監督であった。

労働者の責務の放棄に気づいたのか、巡回をしていた魔術師に一同怒鳴られ、一人が何処からともなく現れた火の玉で焼かれた。
男達は火を消そうと着ていた服を脱ぎ、火達磨の男を服で叩いていて消化を試みたが間に合わず、死んでしまったようだ。

魔術師はお喋りさせるために金はやっていないと怒鳴った。
一同は魔術師を睨んだ。

黒髪の彼は労働現場の実態を見た。
彼に一番見せてはいけない物を魔術師は見せてしまった。
彼は寛容で川の流れの如き人柄だと自負している。
しかし、その川の水が沸騰することもあるのである。

事に彼の
信義と義理と仁義とに反する行為と
愛国心のかけらも無い売国奴と
邪悪なる資本主義者のブルジョアの退廃的な非道行為を見てしまったときである。

資本家が労働者を殺しても良い道理があるものか!
労働者は資本家に労働力を売っているのであって、命を売っているのではない。
命は軽いものではない。
命は重いものである。
故に彼は己の命と引き換えに前世において売国奴の首相を斬ったのだ。

――仁義や大義の為でも無く人間一箇手に掛けたるならば責任も負はず生を貪る事は赦さぬ。然るべき成敗を受けるべきである。特に貴族主義者の豚野郎ならば尚更である 。

だが、直ぐに抑制不能な怒りに身を任すほど愚か者では無かったのは彼にとって幸運であり魔術師にとって不幸の始まりであろう。
彼が云うならば労働対価を払はせるまでだということであろうが。

これを好機と見るべきであると彼は思った。
魔法が使えるからと云って労働者を搾取する道理は通らぬと啓蒙してやろうと思ったのである。
プロレタリアートによる勝利への第一歩であると見せつけ、労働者を扇動するのだと。

だがもちろん道理の通らぬ悪に天誅下してやらんと云う思いもあった。
黒髪の彼はがまんの出来ぬ男である。
己の信義に反していたり、不人情な者を見かけるとついつい口を出してしまう。
それでややこしい事件を起すことが多い。
後の自体の収集など気に掛けていない。
なぜなら彼は正しい事をしたと思い込んでいるからである。

黒髪の彼は云う。
「其の偉さうな態度は氣に入らんな」

一同驚嘆の表情を浮かべる。

「誰に対してのその物言いか!」
魔術師はまたもや怒鳴った。

だが、直ぐに魔術師は口を吊り上げて笑みをこぼす。
群集の中から前へ出てきた小さな少女が声の主だったからだ。

黒髪のヒットレルは手を大きく上げて云う。
しかし其の声は落ち着き払って。
「君は何だ」

何という口の利き方だろう。
魔術師の胸辺りがその黒髪少女の背丈である。
そんな少女が汚いものを見るような目で見てきたのだ。
彼は怒った。
「魔術師であり、ここの監視を勤めるものだ!」

ヒットレルは彼と魔術師を囲む民衆を見渡して云う。
「魔術師はなぜ彼らのやうに汗を流して働かないのか」

「我々は魔法が使えるからだ。そして魔法の使えない哀れな彼らを雇ってやっている側であり、彼らに金を払っているのだ!その金の分は働いてもらわなくてはならない!よって手を休めることそれすなわち我々の金、皇帝の金を盗んでいることなのだ!」

首をかしげて問う。
「魔法が使える者は魔法を使えない者を殺しても良いのか」

「そのとおりだ。我々の力は偉大であり、尊いものだ!だからこそこの世界は魔術師によって統治されているのだ!」

アクセントを付けて、手は腰の横のままであるが、体を少し前のめりにして不思議そうな顔をして問うた。
「君らは統治者か」

「そうだ」

右手を魔術師の方へ向け、手を広げ、手の甲を大地へ向ける。其の声は小莫迦にしたように、笑みを浮かべつつ、
「どうやつてなつた?勞働者を搾取したのか。時代遲れの帝國主義にしがみついてゐるのだらう 」

「黙らんか!我々がこの世界を統治することは唯一神エザナレルによって定められているのだ!その証拠にブルゴーニエ初代皇帝は空から降ってきた一本の剣を手にし、その加護によって死して尚現在までその威光を世に知らしめているのだ!」

ヒットレルは自身の胸を両手で二回叩いた後、胸の前で両手を広げながら怒鳴り声で云う。眉毛は逆ハの字である。
「莫迦か。其のやうなものは時代遲れだ。其のやうな宗教は社會の不平等を生み、國を腐敗させるのだ。民の中から選舉によつて選ばれた議員によつて統治されるべきなのだ。空から降つて來た劍を偶々手にした誰か等ではなくてな」
言い終わった後は口はへの字に閉める。

「黙らんか!意味の分からないことを!皇帝を侮辱するとはこの国の魔術師を侮辱したと同義!死してその償いをしてもらう!」

論争を聴く聴衆を望みつつ云う。
「彈圧するのか。見よ!此れが彈圧の現場だ!この場にゐる八萬を君一人で相手取るのか!少数が多数を彈圧することなどできない」


怒り狂った退廃的思想の魔術師は剣を引き抜いた。

二人を囲む聴衆が一歩後ずさる。

「この街にゐる八萬の勞働者よ團結せよ!彼ら貴族重商主義者、ブルジョアジーどもは瀕死である。その證據に論理を以つて我々をとめることは出來ないのだ。力に頼るしか術が無いのだ!この日を忘れるな!魔法を使へないものが魔術師に勝つた日を!」

云いながら黒髪の彼も抜刀する。
二人を囲む聴衆がさらに一歩下がる。
辺りは静寂に包まれる。
誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。

喧嘩だ、闘争だと騒ぐものはいない。
ただ、この二人の行方を見ている。


両者の距離は六歩である。



魔術師はレイピアを構える。その構えは闘志を発露して。

其の構えは右足を前に出し、左足を後ろ、体を斜めにして半身にし、右手に持ったレイピアを黒髪の女に向け、左手は左腰に添えている。
所謂、フェンシングの構えである。
その理由は相手に対する体の面積を最小に出来るからである。

レイピアとは十六、七世紀に使われていた細身で両刃の片手剣である。
全長は四尺(120cm)である。
柄を握る手の甲を覆うように護拳が付いている。
両刃ではあるが、突きが主な攻撃である。



対して黒髪の少女は軍刀を正眼に構える。その構えは悠然と、微動だにせず。

様々な流派の剣術があるが「正眼の構え」は各流派基本の構えである。
基本にして攻防どの手にも対応できる万能の構えである。
剣道においては中段構えとも呼ばれ、剣道においても基本の構えである。

彼女の持つ軍刀は帝國陸軍の九十四式軍刀である。
昭和9年に制定されたこの軍刀は、それ以前のサーベル式の軍刀から、初めて日本刀(太刀)を元に太刀型軍刀へ改められた刀である。
彼の持つ刀は「靖国刀」であり全長三尺四寸(102cm)、刃長は二尺三寸(69cm)、
鞘、柄色は茶褐色、その他は制定規定通りである。



魔術師のレイピアの先は揺れていた。それは彼の怒りの為であろうか、それとも余裕からの笑みのためであろうか。

――あの黒髪の女奴隷はサーベルの様な武器を構えた。奴隷の刀剣等の武器の所持は禁じられているはずだ。
とはいえ、その所持した武器を摘発しきれるかというとそうではない。
この鍛冶区にしろ何処にしろ、奴隷の数は多く、凡てに目が回るわけではない。
現に、ショートソード等を密かに作り、所持していた奴隷がおり、その武器を以って他の奴隷を襲って金銭を奪い殺害するなどということは頻発している。
 だが、彼らは我々に対して剣を大々的に振るうなどということは無い。
もちろん、追い詰められたら彼らは剣を抜いて我々に斬りかかって来るが、鎧袖一触である。
魔法など使わぬとも素人剣術に遅れをとる己ではない。
 目の前の黒髪女は剣を構え、己に立ち向かおうとしている。
しかも、何の恐怖も感じていないように見える。
 両手剣を真っ直ぐに構え、微動だにしない。
背中は真っ直ぐに伸ばし、右足を前に出し、左足を後ろに引いている。

――この構えは何だ?両手剣を扱うなら腰をもっと落として構えるべきだろう!素人が!
このような素人丸出しの小娘と死合うのか。
だがこの小娘、恐怖は感じていないようだ。
それが又腹立たしいのである。

落ちぶれているとは云え、彼もまた魔術師であり貴族である。
彼が底辺と見なす者にかくも莫迦にされてただでは済まさん、楽には殺さぬ、苦痛で泣き喚いて許しを請わせてやる。

己との体格差は圧倒的に己に有利だと彼は即断した。



彼の心情など気にもかけず、黒髪の少女は「機」を伺う。

確かに体格差はこの魔術師の男の方が有利であろう。
黒髪少女は力押しの勝負では確実に敗北する。

しかし、力で勝敗が決するならば技はいらぬ。

柔道を例にすれば、圧倒的に小柄な者でも己よりも大きな者を投げ飛ばせる道理は何か。
腕力か?
実は大きい者が八百長をしたのか?

否である。

相手の体重移動を逆手にとってバランスを崩してやることによって投げ飛ばせるのだ。

いわば、技である。

だが、「技」を掛けるには「機」を捕らえねばならぬ。

「機」とは勝機の事であり、相手の気配の事である。
攻撃のタイミングであるという認識は間違いであるということを先に明記しておきたい。

日本剣術をはじめ、武道の流派は様々であるが、「機」を想定していない武道はないであろう。

黒髪少女の考える機、前世の剣道をやっていた時分の事も含めると、大きく四つに分類された。

「先々の先」

「先の先」

「先」

「後の先」


である。

「先々の先」とは、互いに「先」を狙っている時に相手の気配(目線、剣先の揺れなどの微動)を発見し、相手が攻撃動作を行う前に相手に先んじて「先」を打ち込むことである。
第三者から見れば、こちらが「先」を意図して打ち込んでいる様に見えるが、相手の「先」よりも早くこちらが先に打ち込んだということである。
これは究極の理想とも云える。見誤いやすく尚且つ見誤れば一番危険が伴う。中々出来るものではない。

「先の先」とは、相手が「先」を狙い、攻撃動作の起こり、構えを崩す瞬間の隙に打ち込むこと。先を狙う余り、守備がおろそかになっている隙に打ち込むことである。
だが、「先」を狙う相手の剣速が此方の予想を上回っていた場合、若しくは相手「先」が「後の先」を狙ったフェイントの場合、攻撃と防御は同時には取れぬことは道理であるので、斬られるのは此方である。

「先」とは、相手よりも先に打ち込むこと。相手の態勢が整わない内に打ち込むこと。相手の守勢が脆くなった隙に打ち込むこと。又は相手の油断、疲労により生じる隙に打ち込むことである。
だが、動くということは隙が出来るという事である。相手が「後の先」を意図していた場合、斬られるのはこちらである。

「後の先」とは、相手の攻撃動作中の隙、又は相手が打ち込んだ後に再び攻撃が可能な態勢まで戻すまでの隙である。
相手が動いて初めて此方が動くのである。間合いを計りつつ、相手が打ち込んだところへ仕掛ける。
若しくは相手の攻撃を避け、相手の剣が空気を切り裂いている間に打ち込むと言っても良い。
だが逆に云えば、フェイントを仕掛けてわざと相手に「後の先」を貰ったと錯覚を仕掛けようとフェイントなどをしても、相手が動くまでは何も出来ないのである。


黒髪の少女は今は「後の先」を狙う。
後の先は4つの機の中でも一番安全策である。
相手の出方が分からぬ。
魔法なる物は攻撃として有効であるのか?

不明な点が多い以上、先に動くことは極めて危険である。



微動だにせず、唯こちらを見つめる黒髪少女に対して、魔術師の男は余裕の笑みを浮かべた。

――口ほどにもない
剣を構えていたとしても所詮は小娘。体格差も歴然。
おそらくこの小娘は戦い方を知らぬ。
その証拠か未だに動けないでいる。
恐らく、どう動いていいのかわからぬのだろう。


黒髪の少女は正眼の構えを左側にずらし、右肘を突き出した。
疲労から来る物なのか、唯構えを崩しただけか。
どちらにしても、魔術師にとっては好機である。

正眼の構えは切っ先を相手の首辺りに向ける為、相手はレイピアの様に突きを主体として戦う得物を扱うならば刀を払いのけるかしなくてはならない。
何故なら正眼の構えより打ち出される最も最速で危険な技は突きであるからである。
正眼の構えからは予備動作が少なくてすむ。
相手の首の辺りに切っ先を向けるのは突きを意図したものであろう。
突きを意図していない場合であっても相手へのプレッシャーを与える、相手の突貫を牽制するなどの意図は間違いなくある。

剣道などにおいては幾ら打ち込みを受けても有効打として認められなければ一本とならない。様は死んだことにならない。
故に、相手の竹刀がどれだけ腕に当たっても胴を切られても、此方が先に一本を取れれば勝敗は決する。

しかしこの二人が持つのは真剣。
突きは兎も角、袈裟、唐竹どの太刀筋であっても斬られれば負傷するのである。

幾ら魔術師が日本剣術を知らぬとは云え、彼もまた戦人、素人と判断しているとは云え、目の前の黒髪少女の構えから打ち出されるであろう太刀筋は大方見当がつく。

だが、好機は魔術師に向いたのである。
正眼の構えがほんの僅かに崩れたのである。

精神的未熟さか、疲労からか、そう考えるまでも無く彼は「先」の機を伺った。
例へ「後の先」を狙った「誘い」であったとしても彼は自分の突きにの速度に自信があった。


――串刺しにしてくれる
あの両手剣の事だ、素早くは振れないだろう。
恐らく、叩ききる事を狙ってくるはずだ。
まずはあの右手を使えなくしてやろう。

「右手に突き」、ついで「鳩尾に突き」ついで「喉への突き」

魔術師はこの連続した突きを狙った。


魔術師は駆け出した。

互いの間合いが大きく変わる。


黒髪少女は一歩、二歩と勘定する。
黒髪少女の「誘い」に乗ったか、魔術師が油断からかどうかは分からぬが、「先」を意図して間合いを詰めたのは明白。
分かり安すぎるくらいである。

――ならば、「後の先」の技を掛ければよい
彼の云う技とは、基本的には中段(正眼)構えの際に用いる事を想定している。


相手が小手狙いにて左薙ぎ以外の太刀筋によって斬り込んで来た際に、

此方は右足を後ろへ、刀は八双の構えに近い位置まで、尚且つ右上方へ両の手を外す。

相手の刀は虚しく空気を斬る。

その一寸も待たず、足の位置を変えぬまま、足腰を垂直に落としつつ刀を振り下ろす事によって、直ちに相手の小手へ打ち込む。
その際上半身と下半身とは捻る形になる。

相手は攻撃中である為、此方の斬撃を防げない。

――緋虎流似非剣術『捻り落し』

此れが「後の先」の「技」である。

相手へいわゆるカウンター気味に小手を打ち込む際に、体を更に前傾させれば、唐竹、直斬り、胴、何処へでも打てる。だが一番確実なのが小手である。

ただ、この技、相手が小手狙い以外の場合は使えない。
此方を突きや真っ向からの直斬り、袈裟斬りなどで斬りかかって来た場合はどうしても負傷は免れない。
では、どうするか。

単純明快である。
小手に打ち込むように仕向ければよいのである。

わざと肘を出す、刀を一寸だけ上下させるだけでも、緊迫した状況であるならば相手は小手狙いで打ち込む可能性が高い。

――それでももし例えば唐竹に打ち込んできたら?
胴ががら空きである。

――突きをしてきたら?
いなしてそのまま小手を打てばよい。

etc、、、

この技が「後の先」の技であり、中段(正眼)構えを念頭にして組んである理由が之である。

だが、欠点が無いわけではない。
どのような技にも欠点がある。
その欠点を突かれぬ様に、勝機を読むのが重要である。

だが、今回の場合は案ずるに及ばず、魔術師の得物はレイピアである。



――小娘ふぜいが、奴隷の分際で粋がりおって
いまだに身構えてすらおらぬ。
おそらく、緊張の余り力が入りすぎているのだろう。

魔術師が三歩目を踏み込んだ所で、大きく右足を踏み出しつつ、レイピアを持つ右手を前へ押し出す。

力強い一撃、すばやい一撃を加えるには力んでいてはできない。
力を抜いて、いざ突く、と言う所で一気に息を吐いて、突く。

――「突き」

しかし手ごたえは無かった。

――どういうことだ?

彼の目の前からは自らの狙っていた腕は無く、黒髪の娘が持っていた刀も消えていた。

切り落としたのか?
いやいやいや、待て待て。
突きだけで、何の手ごたえもなく綺麗に手首を落とせるわけが無い。

では、何処に行ったというのか。

彼の頭上である。


彼は、魔法剣士である。
魔法剣士は一面を焼きつくす炎を出したりなどという芸当は出来ぬが、火の玉を出現させ操るだとか、自身の身体能力を瞬間的に高めることが可能である。


彼は魔法を咄嗟に用いて後ろに飛びのく。

――

軍刀の切っ先が己の額から鼻を薄く切り裂く。

――おのれ
失態である。虚栄心がすぎたか。
己は攻撃ができぬ。
バックステップにてかわしたのがやっとであり、攻撃をする態勢に入っておらぬ。

息を先ほどの「突き」から「バックステップ」
で使い果たしてしまった。
息を吸う一刹那、
それが必要である。

幾ら魔術師であっても呼吸を、息を吐くのと吸うのとを同時に行うことができないのは必至。

もう一撃を避はし、態勢を整えなければ。
冷静になれ、次の敵の一手は何処だ?

たが、瀕死の貴族主義者に息をつく暇など黒髪少女は与えてくれなかった。

魔術師の左足が地面を踏んだのと同時に、黒髪少女は直斬りで振り下ろした軍刀を、右手に力をちょいと入れて止める。
一寸の間もなく、左足を軸に右足を踏み出す。
同時に腹の高さにある軍刀を前へ押し出す。

鳩尾への刺突を狙う。


彼女の突きが入るか如何かという刹那に、

「そこまでだ!」

と言う声と共に、凄まじい風圧によって両者吹き飛ばされる。

当然、突きは入っていない。

真剣勝負を邪魔だてするのは誰ぞ!
そう思う者はいなかった。
ヒットレルの目の前で倒れこむ魔術師を除いて。

ヒットレルも魔術師も動きを止める。

声の主を見ると金髪の少年である。
タイツをはいて半ズボンをはいている。上着は青い長い燕尾服の様なものを着ていて所々金色の装飾が施されている。

魔術師が、何故止めるのかのような事を言っていた。最後に殿下と付いている。

一つ間をおいた後、金髪の少年は声を上げる。
真っ直ぐに両者の間を見て
声を透き通らせて
この鉱山区に響かせて

「この勝負、ブラゴーニエ帝国皇帝の息子にしてナジュム領主、ハリックス・サラノフが預かった!」

ヒットレルは口元を吊り上げた。
声さえ出さぬが、黒髪の彼は笑みを浮かべた。

その白い肌の中で薄い桜色の有様は三日月の如く。












[30292] 第七話 わかさ
Name: 鈴虫◆d0054ca9 ID:a764f917
Date: 2011/11/04 01:33


私は刀を納刀した後、ニヤニヤしてゐた。

とんでもない風圧で吹き飛ばされたのは魔法なのだらうか。

腹が立つたから一つ説教を呉れてやろうとしたら奴は劍を拔いてきたので、なんだとこんちくしようと人を一人殺しておいて何の責任も無いと思つたら大間違ひだと叩きのめしてやらうとした所で金髮少年に止められた。
斬る事は叶はなかつたが、奴にとつてはこの上ない屈辱であるといふことが見て取れる。さらに無産階級は魔術師を恐れないと啓蒙することもできたので、良しとしよう。

例の退廃的な魔術師が、何故止めるのかのやうな事を言つてゐた。最後に殿下と附いてゐる 。

「殿下、労働力もただではありませんぞ、労働力は一日使用すれば消費されます。その労働力を回復させるための手立てとして我々は安くない給金を奴隷どもに払っているのです。それなのにその奴隷――もとい労働者が我々に労働力を売っておきながら労働を放棄する事、すなわち奴は詐欺師なのです」

「黙りたまえ。お前の雇い主――商会に金を貸してやったのは誰だ?領主たる余が金を貸したからこそ起業できたのだろう。他の商会もそうだが、余が『オウラ』を貸してやったから土地を買い、労働者を雇える訳だが、その労働者は商会が返済が出来ぬ場合の担保にもなっている。すなわち、労働者を殺めるということは余に対しての担保をお前が盗んだということだ」


勝手なことを云ふものである。
勞働力だとか勞働者がとか云ひ囘しは結構な物だが結局勞働者は奴隸扱ひではないか。
貴族や資本家にもなると勞働者は生産手段にしか見えないのだらう。
領主は銀行か何か。
見たところ勞働者諸君は自由氣ままに仕事に就いてゐると思つたら割り當てられてゐたのか。
と云ふより農業區にしろ鍛冶區にしろ土地や機材の所有者は夫々違つてゐたのか。
まあだとしてもどれも同じやうなもんだらう。

ぽけーと二人のやり取りを見てゐたら暫くの後、魔術師は何やら言つて退散した。
殿下と呼ばれた少年は、いつか話がしたいと云ふ類のことを云つて歸つていつた。

いつか話をしたいと云つたつて貴族主義者と話すことなど無いぞと思つてゐたら、退廃的な魔術師が去る時に私をぎろりと睨んできたもんだから私もぎろりと睨み返してやつたら金髮殿下が笑つてゐた。
こつちは眞劍にやつてるのに笑ふとは何事だと思つたが、ワーと云ふ鬨の聲でうやむやになつた。

と云ふのも金髮殿下と退廃的な魔術師が退散した後、ワーと鬨の聲が上がり、筋肉質のおつちやん達が私を胴上げしてきたからである。
煤やらにまみれながら盛んに胴上げをして呉れるので、又むさ苦しいおつちやんらに頭を撫でられるのだから堪らない。
これあ堪らんとうまい工合に拔け出したが、おつちやんらの煤の所爲で服も私の白い肌も所々黒く汚れてゐる。

最後はうやむやであつたが私は一つ目的を果たした。
もう少し後になるかと思つたが、好機を逃せなかつた。

革命を企てる組織があるのならば良し。無ければ自ら作るとしても、大衆が其れらの活動を知らねば意味がない。
部屋でこそこそと話し合つてゐるだけでは大義は成し得ない。

大衆から存在に氣づかれない、無視されてゐる革命家など唯の勘違ひ野郎、勘違ひの勘太郎だ。

早すぎたかもしれないが、この奴隸區で地下活動をする団体があるのならば、近いうちに出會ふ事になるだらう。
ならば早いほど良い。
今囘の一件の噂は近いうちに彼らの耳に入るだらう。
そしてこの件で体制側はより、我々に對して嚴しくするだらう。

この世界は農奴制よりかは甘い。
体制が我々を限界まで彈壓せねば私の理想はかなはぬ。
どうにも私は体制を敵にすると燃えあがつてしまふな。
しかし實際のところ、魔法と言ふのがそれほど理解できてゐない段階であつたので、とても肝を冷やした。

と、ここで本來の目的を思ひ出し、ちよいとばかり鐵パイプか何か無いかなどと聞かうと思つたが、今更鬨の聲を上げてゐる連中の所へ突貫するのもどうかと思つて思案する。
すると、さつきの肉附きの良い赤鉢卷の兄ちやんがきよろきよろと群集の中から外れて何やら探しものをしてゐた樣なので、「おい、赤鉢卷」と呼んだら此方に來た。

彼は何やら私を賞賛してゐたが、「よく魔術師と喧嘩する勇気があるな」とか何とか云ふのには呆れた。
こちとら命がけで鬪爭したのに喧嘩とは何だ。
赤鉢卷やろうの頭をぽかりと殴つてやらうと思つたが、いかんせん背丈が足らないので赤鉢卷やろうに「何してるんだい」と笑はれる始末。

恥づかしいので、さつさと吸入器の材料はないか聽かうと思ひ、これこれこいう云ふものはないかと尋ねたら、あるから後で屆けると云つた。
私の部屋は分かるかと問うたら、アルヘルワのとこだらう、わかるとの事だつたので、それぢや頼むと云つてその場を去つた。

歸る前に耐熱グローブとおぼしきものと小瓶とを持つて歸つた。

部屋に戻つたら、アルに借りた藥草圖鑑で前世で見た喘息に效くと云ふ代物に含まれてゐた物に似たものは無いかなどと探してゐたら、丁度アンの部屋のたくさんある花の一つに其れを見つけたのでひとつ貰つていつた。

藥草をランプと小瓶を使つて茹でて煎じてゐると、件の肉附きの良い兄ちやんが眞鍮製のパイプと銅製の板をいくつか持つて來た。

眞鍮は赤鉢卷がくすねて來た物なので數がないが、妹を治してくれるならと云つてゐた。
私は氣になつて、妹とは誰かと問うたら、サウサンのことだつたらしい。
なるほど、彼が件の兄か。
名前を聞けばサタハフと云ふらしい。
君も大變だらうと云つてやつたら妹の爲ならと云つてゐた。
なるほど此處にも妹思ひの兄さんがゐるものである。

正直云つて、失敗するかもしれないぞと云つたが、それでも手を盡くしてくれるのは感謝してもしきれないとの事だつた。

拔け出してきたので直ぐに戻らなくてはとのことだつたので、お禮を言つて見送つた。

アルは今、件のサウサンの樣子を診た後、いくつか患者を診て囘つてゐるさうだ。

パイプやら鐵の板やらを組み合はせて吸入器をつくつてやつた。
持つてきてもらつた時點で既に言つた通りの長さや穴が開けられてゐたので助かつた。



部屋で寢てゐたアンを起こしにいつた。

いいものをやろうと云つて吸入器(こいつが結構重いのだ)を机の上に置いた。

「これはだな、吸入器と云つて、この噴霧管をはづして、釜の口にこの漏斗と呼ばれるものを使つて水を入れる。
下に於てあるアルコールランプに火をつけて暫し待たう」
使ひ方を、蒸氣が收まつたらタオルなどで前を覆つて云々、霧口から十センチほど離れて云々、この小瓶に煎じた藥草を入れて、藥液ビンの藥がなくなるまでゆつくり吸ひ込むんだ。
などと説明して、此れを一箇月もやればよくなるだらう。
私からのただ飯のお禮だと云つて置いた。

最初は戸惑つてゐたが、蒸氣を吸ひ込むのに快感を覺えたのか氣持ちよささうにしてゐた。


暫くアンと話をしてゐたら、アルが歸つてきた。

歸つてくるなり、鍛冶區の件で噂にになつてゐると言つてきた。
何故あんなことをしたのかと問ひ詰められ、アンにも理由は何かと問はれたので、

「たとへばー人間の勞働があらゆる富の源泉であり、資本家ーつまり言ふところの魔術師は、勞働力を買ひ入れて勞働者(どれい)を働かせ、新たな價値の附加された商品を販賣することによつて利益をあげ、資本を吸收する。
資本家の際限の無い、競爭は生産を破綻させ、勞働者は生活が困窮する。
他人との團結の仕方を學び、組織的な行動ができるやうになると、やがて革命を起こして、貴族重商主義、奴隸經濟主義を顛覆させる。さう云ふことだ。」

と答へておいた。
アルは口をへの字にして納得いかないやうすだつたが、アンは瞳を輝かせ、しきりに凄いです!すごいです!とかなんとか云つてゐた。

それにしてもアルにも「魔術師と喧嘩云々」と云ふ工合に聞かれたので、アルめの頭をぽかりと殴つた。
つもりであつたが、己の背丈の低い事を忘れてゐたので、拳は見當違ひの所を飛んで云つた。
アンに何をしてゐるのかと笑はれた。
背丈の低いのがこんな所で裏目に出たのである。
まだ前世の感覺で振るつてゐたので、こいつは早くこの背丈にもつと慣れねばと思つた。

そんなこんなで食事の後アルに吸入器を見せて、アンの喘息もこれで幾分か和らぐだらうと云つてやつたら、への字から滿面の笑顏になつた。面白い奴だ。

食事の後、またもやアンに部屋へ誘はれたので、貨幣の資本への轉化に就いて話をしてやつた。

昨夜のやうに氣がついたら朝だつた、と云ふことをすると、アルがうるさいので適當な時間で一つ區切りを置いて、今日はここまでとした。

アンはもつと聞きたがつてゐたが、體が着いていかないのかベットにねつころぶなりすぐに寢息を立ててしまつた。可愛いなと思ひながら暫く髮を撫でて遊んでゐた。


 *


二日か三日後くらゐに爆發事故と云ふことで鍛冶區へ向かつた。

アンはまたしてもお留守番である。
おそらく喘息だつたやうで、私お手製の吸入器によりちよいと樂になつてきてゐるやうだが、アルはまだまだ安靜にして貰ひたいやうだ。
なのでアルと鍛冶區の前まで行つた。

道中やたらと挨拶された。

さて到着してみるとなるほど坑道からもくもくと煙が上がつてゐる。
おほかた爆藥の量を誤つたか粉塵爆發だらう。

さういへば黒色火藥は發見されてゐるらしい。
しかし、魔術師は爆藥など使はぬとも爆破できるので、主に勞働者によつて鍛冶區やらで使はれてゐる。
聞けば火繩銃らしきものがあるとかも耳にしたが本當かどうかは知らぬ。

さて、これは生存者は少ないなと思ひながら、鍛冶區のまとめ役のやうな男に何があつたか話を聞く。
この男、中年の樣な感じがするが、鐵兜を被りいつもゴーグルをしてゐるので人相が分からぬ。
赤髮が冑とゴーグルの間からちらちらと見えるくらゐである。
だが、氣さくな奴のやうだ。
そしてべらんめえ調である。

こんちくしようめまた坑道で爆發が起こりやがつた魔術師が魔法でもつかつてゐるぢやあないかと云ふのでまあ落ち着けと話を聞く。

どうやら聞いた話しによると粉塵爆發の樣な氣がした。
「氣がした」といふのは私の付け焼き場の智識で判斷したからである。

何はともあれ、負傷者を診てやらねばならぬ。
いざ坑道へ飛び込まうとしたら、鐵兜に危險なので若いモンを行かせて運んでくるから待つてゐて呉れゝばよいと云はれた。
横に居たアルの顏を見上げたら、どうやら毎囘このやうにしてゐるらしい、此處で待つてゐると云ふ風だつた。

私はその態度に腹が立つて、
之で醫者が務まるかい。
男なら危險な所に飛び込んでゞも助けたらどうだ。
女みたいに怖がつて後ろに下がりやがつて。
と云ひ放ち、坑道に突貫しようとしたら、アルはぎやあぎやあ喧しく騒いで私を止めてきた。

この臆病者め。
赤軍を組織したら最前列に立たせてやろう。
なよなよした根性を叩きのめしてくれる。

「君はそこで待つてゐると良い。私は行くよ」

「待ってくれ。危険だ。素人が行くんじゃない」

「何が危險だ。素人もクソもあるかい。男だつたら眞つ先に飛び込むくらゐの意氣込みが欲しいね」

などと云つてゐる間に、この間の赤鉢卷をはじめ、體格の良い兄ちやん達が怪我人を運んできた。
擔がれてゐる者の中には腸が飛び出してゐる者も居る。

それみたことか無理に動かすから餘計に重傷になつたぢやないかと思ひながら手當てしてやつた。



處置が終はつたら太陽は西の方で朱く輝いてゐた。
夕暮れである。

腕や足を鋸で切斷された者の呻き聲を餘所に鍛冶區のまとめ役らしき鐵兜に談判を開いた。

粉塵爆發の對策はしてゐるかと問うたら、そもそも粉塵何たらとは何だ、と返つてきたので適當な工合に説明してやつた。
取り敢へず坑道をもつと廣くした方が良いと云ふことで決着した。

その間、アルは呻き聲を上げる者に酒を飮ませてゐた。

鉄兜は私に「お嬢ちゃんは博識だね。それでいて何だか男勝りな口だね」などと云ふので「失敬な、何處が男勝りか」と問うた。

「此間の魔術師の一件もそうだけど、漢らしいってんだよ」
と云つて來た。

確かに中身は男であるのだが、外見は女である。
そして小柄で可憐な少女である。
できれば大和撫子のやうに振舞ひたいのである。

「鐵兜のおじちやん、ひどい」

と、うるうると泣いた振りをしてうづくまつてやつた。

私がさかんに泣くので赤鉢卷も怪我人も周りの者も私を見た後、鐵兜を見る。
そして鐵兜に悲しい視線が送られる。


鉄兜は狼狽して、「ごめんごめん、わあーった。金属なら好きな物作ってやる。それで勘弁してくれ。」

と云ふので、私はぐずぐずと泣きながら、それなら日本刀作つて呉れと云つた。

日本刀とは何だと問ふので、字は讀めるさうなので適當な紙にスケッチと製法を書いて渡した。

「なんでい剣か。労働者が持ったらいけないんだぞ」と云いつゝも、作って呉れるさうだ。

どこまで日本刀になるのか判らぬが、どうやらこの鐵兜、何本も武器を作つてゐるらしい。
似非日本刀位にはなるだらう。期待しておかう。

有難うと云つたら、何、感謝するのはこつちだと云つてゐた。
話のわかる良いやつだ。

歸りの道中、アルに聞いたら、あの鐵兜は奴隸區内のならず者に武器を提供する惡い奴だと云ふ。
なんだそんなけしからん奴だつたのかと思つたが、堂々としてゐるのは良い。
多分鐵兜に面と向かつて、君はならず者に武器を渡す惡い奴だ。と云つても堂々と、さうだ、と云ふだらう。
私は惡くてもその惡い事を分かつて居て、指摘しても誤魔化さない奴は好きだ。
とは云へ、襃めるつもりはなく、大義はあるかと問うて、無いやうであれば斬り捨ててくれようが。
その大義が私の思ふところと一致する所があれば、何もとがめない。

鍛冶區から居住區へ行くのには工藝區の前を通るのが近道である。
なので二人して今は工藝區を歩いてゐる。

黄昏時にも關らず、各建物からは、布を縫ひ、ろくろを囘し、窯に粘土で作つた器を詰めてゐる姿が見える。

すると何やら作業をしてゐる子供の姿を見たが、子供の前に跪いてゐる女性が居た。
何をしてゐるのかと横切る際にちらと見た。

どうやら子供が立つて機織機を動かしてゐるが、その子供に女性が飯を食はせてゐた。
何も機織機を動かしながら食はせないでも、飯ぐらゐ坐つて食へばよからうと思ひ彼女らにさう云つたら、何を云つてゐるのかと云ふ目で見られた。

ああ、さうか考へが足らなかつた。
彼らは此處から「動けない」のだ。

するとどこからか叫び聲が聞こえた。

「暴動だ!反乱だ!」

止さうとしきりに云ふアルの手を引つ張つて叫び聲のする方へ行く。

何人かが揉めてゐた。

鉈や鎌を持つた男が六人ほど。
對して魔術師と思しき青地に赤の裝飾のあるローブを羽織つた男が二人。

鎌を持つ男は云ふ。「俺とお前らは同じ人間だろう。」

魔術師が云ふ。「いや、違う。お前は奴隷で我々は貴族である。」

鉈を持つ男が叫ぶ。 「何だと!」

燕尾服の樣な青色の服を着たタイツの髭親父が出てきて云つた。「お前達奴隷は労働力が唯一の収入源だ。だがしかしその労働力は我々が買わねば価値は生まれぬ。いわば我々のおかげで生きている意味ができるという事に感謝して貰いたいものだな」

周りの勞働者達は作業をしつつも横目でしきりにその樣子を眺める。
あるものは手を止めて見つめる者もゐた。

「だが、俺達が労働者でお前らが貴族である理由は何だ?働かなくても良い理由は何だ?」

「単純明快、魔法が使えるからだ」

「違う。金があるからだ。金さえあれば俺らがお前達を従える階級になるだろう!」

「何を!確かに我々は金がある。それは事実だ。だが、お前達が金を得る術は何だ?体を売るのだろう。現にお前の妻もまさに今、どこぞの魔術師に文字通り体を売っているかもな」

武裝した六人の勞働者は云ふ。 「ヒットレルなる少女は云った。この街に居る八万の労働者よ団結せよと!皆!いまこそ決起せよ!自由な社会をつくろうではないか。魔術師におびえ、飯すら食う時間もない生活に耐えられるか!自由な社会を作るのだ!皆が団結すれば魔術師など敵ではない!」



――愚か者め

あいつらは心意氣は立派だが莫迦だ。
革命には階級社會の打倒をめざし勞働者階級を先導する指導的な「前衞黨」が必要である。

指導者なしに武裝蜂起など、決起などできるか。
あわよくば今は熱氣に押され、決起できたとしよう。

しかし、其れは長くは續かぬ。
すぐに鎭圧されよう。

私があの時、演説かまして鬪爭をしたのは啓蒙と煽動のためだ。
あの時決起などしても成功は無い。

だから「団結せよ」と云つたのだ。まだ「決起せよ」とは云つてをらぬ。

そもそもこの勞働者の云ふのは唯の無政府主義ではないか。
アナーキストめ、勘違ひして私の名前を使ふなど、とんだ阿呆の阿呆介だ。


やはり革命は智識層が先導せねばならないなと思つた。
字も讀めない者が先導しても無理だ。

智識層をどう啓蒙するのかが問題だ。
「何をなすべきか?」やら「資本論」でも執筆してみようかしらと思ふ。



六人の勞働者に加勢する者は居なかつた。

當然だらう。彼らが指導者になりうるわけが無い。

六人の勞働者は、魔術師が何やら口ずさんだ後、火の玉やら、電撃やらが四方から飛んで行つて死んだ。


私は其れを見た後、アルに「歸らう」と云つて歸つた。

その晩の食事は芋であつた。
飯が不味ひ。



その日の夜はアンに夕方の話と「勞働者の自然成長的な經濟鬪爭はそれ自體としてはブルジョア・イデオロギーを超えない。社會主義意識はプロレタリアートの階級鬪爭のなかへ外部から持ち込まれるものであつて、階級鬪爭のなかから自然發生的に生まれて來るものではない」
と教へてやつた。

彼女は「わかってます」と云い、「わたしもヒットレルさんに教えられるだけじゃなくて、自分で勉強して考えてもみるんですよ。」
「階級社会の打倒をめざし、労働者階級を先導する指導的な革命政府なしに革命は成功しないです。だからヒットレルさんが見た夕方の労働者は脳が無いです。」
と胸を張つてゐた。

彼女は良い子だ。

私が「革命の目的は何だ」と問うたら
「貴族階級、ブルジョア階級、労働者階級……凡ての階級と云う概念の打倒です」と答えた。
餘剩價値についても教へてやつて居ないのに大した物だ。

頭を撫でてやつたら嬉しさうにしてゐた。
彼女が私の胸の中で抱かれた。
背丈は微妙に私のはうが小さいので違和感が在つたが、私も仕合せな心持だつた。













[30292] 第八話 夕日 前
Name: 鈴虫◆d0054ca9 ID:a764f917
Date: 2011/11/08 23:33




紅葉が散り雪が降る季節である。

その雪の降る夜に、労働者を搾取する貴族の家へ忍び寄る影二つ。
その影の主らはタール樽をその家に撒く後に火をつける。

その影は二寸ばかりの雪の積もる市街地の石畳を駆けて闇夜に消ゆる。



街の北側の市街地中央に位置する城では治安の悪化に頭を悩ます。

この街「ナジュム」では、放火、殺人はもちろんの事、魔術師に対しての反乱が相次いでいる。
犯人は労働者の誰か、いや複数のグループであることは彼らにとっては自明であった。

しかし労働者は八万人居る。彼らには犯人探しなどする人的余裕は無い。
給金の引き下げ、労働時間の延長や無差別の検挙をはじめ労働者に対する弾圧を行うも、破壊活動やテロは続くばかり。

この破壊活動を行う者達には労働者の中でも賛同の声が多い。
もちろん表立っては云わぬ。
しかし人々は破壊活動者の云う「貴族重商主義の打倒」には一寸の希望を抱く。

だが、街の治安は悪化する。
奴隷区のみならず貴族、魔術師の生活する市街地までも放火等の騒ぎが多発する。
奴隷区ではこの機に乗じた下種達による、労働者同士での押し込みや追いはぎ、強姦、辻斬りは日常茶飯事になった。

領主ハリックス・サラノフは労働者に対する締め付けが騒動の原因だとして、労働者の自由を拡大する案を打ち出した。
しかし之に反対する一派が存在した。仮に反ハリックス派としておこう。
反ハリックス派は、彼が革新派とするのならこの一派は保守派であろう。
とは云うが前皇帝の封土改革により恩恵を受けた者たちの集まりである彼らは己の既得権益の保守の為に活動しているので真の保守派とは云えないだろう。
彼らは領主ハリックスの労働者改革案に真っ向から反対し、彼の権限の縮小や側近の左遷工作に躍起になっていた。
それにより、ハリックス派と反ハリックス派の権力闘争によりなんら具体的な対応策がとれず、街の治安は悪化する一方である。
諸生産活動については反乱への警戒の為魔法剣士の監視が増えることにより効率が悪化し、街の生産能力は以前の八割ほどまで低下した。
之については他の街においても同じ事が云えるだろう。

何故急にこうなったのか。
誰もが云うのは黒髪少女による鍛冶区事件が引き金だと云うこと。
だが調べにより、先導しているのは彼女では無いということは城に篭る貴族らは把握している。

二月ほど前に「ルカスヤプラウダ」(真実の声)と云う冊子が世に出回った。
いづこかの奴隷区にて石版印刷によって大量に印刷され、何らかの方法によってその街の奴隷区から他の街の奴隷区、村へまでばら撒かれた薄い本である。
徴発した魔術師が読む所によると、労働者の自由と権利を得るためには闘争せよと云う内容であったという。
しかし労働者は識字率が低く、大衆は理解し得なかった。

元々、小規模であったが反体制勢力はどの街の奴隷区内にも存在した。
彼らは互いに反体制勢力は自分たちだけだと思っていた。
つまり、労働者の解放の為に立ち上がる者同士で連絡手段が無く、互いに存在を知らなかったのだ。
しかしその冊子により、同志は自分たちだけでは無いと知った反体制勢力は過激に活動し始めたのだ。

彼らはヒットレルの云う所のブルジョア革命を目論んでいたが、偶然にも、しかし必然性を持って新たな本が出回った。
題は「共産党宣言」である。
著者はレーニンと云う名であった。
この本により一部の過激な扇動者達は自身の革命の意義に悩むことになり一寸地下に潜んだ。

しかしその本はここ「ナジュム」の石版印刷を行う総合区にて版が魔術師によって発見され、これ以上刷る事はできなくなった。
魔術師はすぐに「レーニン」と云う名の労働者を探したが見つからなかった。
版は厳重管理の城で保管されている。



とは言え反乱、破壊活動は一向に止まぬ。
城の貴族達、主に反はリックス派は見せしめを欲した。
誰かを見せしめにして革命の芽を摘もうとしたのだ。
しかしその辺の者では見せしめにならぬ。
何か象徴の様な者は居ないかと思ったら、ヒットレルが居たのである。

彼女を殺そうと志願者を募ったが誰も手を挙げぬ。
貴族にとってこう云う賞金稼ぎまがいの行為は嫌われるのである。


しかし一人の魔術師に、ヒットレル暗殺を企てる反ハリックス派は暗殺を命じた。
成功すれば金をやると。
その魔術師は同僚達から軽蔑の目を向けられていた。

鍛冶区事件でヒットレルと闘争したあの魔法剣士である。

事態を収拾できない城の魔術師らは、あの時の不手際で反体制勢力が息巻いたのだと八つ当たりまがいに彼に責任を求めた。
彼自身はこの国において当然の行いをしたに過ぎなかったのだが、何時の世も腹を斬るのは下の者である。

彼はもはや出世の道は絶たれたも同義。
だからこの機会に金を手に入れねばならない。

彼はは魔法剣士である。魔法剣士は魔術師の中でも下のほうの位に位置する。
唯単に魔法の出来が悪いことだけではなく、家もほかと比べると裕福ではない。

魔法剣士は資本家になり損ねた貴族である。
貴族の多くは前皇帝の政策により封土を有力な貴族の下へ吸収させられた。
しかしその為に多額の金を手当てとして受け取った。
その金を資本にうまく使ったのが今の資本家である。
しかし、世の中器用な者ばかりではない。
不器用だった者が魔法剣士である。

この魔法剣士は金を欲した。
欲の為ではない。
家族の為だ。

彼の妻は病気を患っていた。
戦場仕込みの生半可な魔法では治療できなかった。
しかし本職の治癒魔法術師に治療を頼もうにも金が無い。

彼は資金集めに奔走した。

資本家になり損ねた魔術師ほど惨めな者は無い。

家の周りの水も、浄化魔法を掛ける費用がなかった。
自分で掛けてみたが、効果は薄く、専門家には全くかなわなかった。

細君は最後まで、悲しむな、子を頼むと云う。

やがて彼の妻は死んだ。
彼は悲しみに打ちひしがれた。
二人で描いてきた絵が引き裂かれ燃やされた思いだった。

彼の唯一の希望は、妻の残した一人息子であった。

この息子の為にも金が要る。
可愛い息子よ。
年は数えで十歳ほど。
剣の覚えもよい。
将来は彼と親子で仕事をすることになるだろうか。

だからこそ彼は反ハリックス派の命令を甘んじて受け入れたのだ。

とは云え、彼の個人的な憎しみが無いということは無かった。
彼からしてみれば生意気な黒髪奴隷が労働契約を放棄していようとしていたのを、彼の「仕事」として指導しようとしただけである。
何も罪を犯したわけではない。
商品を購入する際に金を支払うのと同じ事で、この社会において正しい事をしたのだ。
何ら犯罪的な事はない。
あるのならば反革命罪。
とは云えこの罪が適用されるのはもっと後の事であるが。

彼はあの黒髪の少女を殺さねばならぬ。
鍛冶区では彼は彼女に遅れを取った。
額から鼻までを斬られたのだ。

――だが同じ技は通用せぬ。
彼は己の腕の程に自信を持った。
自信がなくては息子を養えぬ。

幾ら奴隷とは云え、まだまだ若い女である。
殺すのに躊躇いがある――わけがない。
彼女は憎き仇だ。

いわば彼女の所為で出世の道が断たれたと云っても過言では無いだろう。
彼の心は溶岩のようであった。
しかしその心のどこかに、今の季節の様な紅葉が散り雪の降るような物もあった。
だが彼自身は己の心には最早溶岩しか存在せぬと思っていた。

妻は死に、残るは息子一人。
その息子の為に細々と働いてきたが凡てがたった一分間ほどで消え去った。

――あの黒髪の女の所為である。
今や彼は、自信の仇の為に剣を振るうのか、息子の為に剣を振るうのか、国の為に剣を振るうのか、判別することはできなかった。

数日の後、彼は奴隷区へ向かう。
天気は晴れである。
外を歩けば寒く、日の光を浴びようとも雪も溶ける気配は無い。
彼は裏が毛皮のコートを羽織り、奴隷区を歩く。
腰にはレイピアを挿す。

物騒な時世だ。
魔術師とて不意打ちされれば辻斬りや革命勢力により殺されるかも知れぬ。

彼は己の横を通り過ぎる背負子を背負う労働者やらに憎悪と警戒心を以って視て歩く。

この労働者たちは武装をしている。
だが、特段不思議ではい。
これだけ治安が悪いのだ。
自衛の為の武器も必要である。

それに所持しているのも実用性の無い「ショートソード」や「フリントロックピストル」である。
今、彼に向かって振り向き様に斬り付けたり、ピストルの火打石を鳴らそうとも、先に命を落とすのは彼ではないであろう。

さてやがて彼はヒットレルの居ると云う部屋のある棟の前へ辿り着いた。

彼はそこで赤髪を三つ編みした少女を視界にみとめた。
年は十四くらいであろう。
この少女はヒットレルによくくっ付いている少女だ。
何やら紙の束やら羊皮紙やらとインク、ペンとを持って出掛ける様だ。

彼女はヒットレルを師と崇め、資本論をはじめ経済学、革命論や薬学、地政学等を教えてもらっている。

「無法者のアナーキストの所為で益々住みづらくなる」
少女は横目で水路に植えられた枯れた百合の花を見つめつつ、呆れた様な態で呟く。

彼女は反体制派、破壊活動をする者達、過激派を無法者で無政府主義者の莫迦であると断じていた。
彼女は暴力革命に対して信用していなかった。
そもそも反体制派の活動と云っても革命の本質を弁えない集団でありテロリズムにおいてもせこい放火などを繰り返すのみであり、魔術師に勝つことができないのならば暴力革命はそもそも成功しえないという思考である。

魔法剣士は少女が腰にフリントロックピストルを挿すのをみとめた後、横を通り過ぎる。

その時後ろで話し声が彼の耳に触った。
振り返るともじゃもじゃ髭と少女が話をしていた。

会話の内容から彼が得たのは、件の黒髪少女ヒットレルが後でこの少女と合流して何時ものように勉強会を行うなどと云う話であった。

――これは使える。

幾らなんでも公衆の面前で真昼間から斬り捨てるのは如何なものか。
辻斬りと云えども昼間に白刃を輝かせて人を斬るようなことはしない。

そう思った矢先であった。
彼の口元は釣りあがる。

人目につかぬ所へ行くのなら、尚良い。

赤髪少女はコートを着ると移動するようで歩き出し、魔法剣士の彼は後ろからこそこそと憑けてゆく。
怪しまれぬ様にと思ったか、彼は露店をやっている労働者からローブを徴発して着こんで後を憑ける。

惨めさを感じつつも他に術が無い己の情けなさに彼は鳩尾が痛くなるのを感じた。

二人はやがて魔術師らの云う所の奴隷の花が大量に生えている場所についた。
奴隷の花とは彼岸花(アランカザンダッカ)のことである。
彼岸花は水辺に人の手が加わったところに多く群生する。
労働者達は水路を作り、治水を行う。
魔術師はそのようなことはしない。
故に労働者(奴隷)が生活する地域にのみ咲く花である。
唯、この彼岸花、枯れないと云うのが不思議であったが、誰も気にするものは居なかった。


赤髪少女ヒットレルなる黒髪の少女とよく出かけては色々な話をする。
彼女とヒットレルはよく農業区へいった。
彼岸花を見たり、川の底を泳ぐ鮮やかな魚などを面白いと思って眺めたりした。
彼女達はよくそこらで適当な岩を見つけて、腰を下ろして、ヒットレルは本を広げ、赤髪少女は紙か羊皮紙を広げた。
ヒットレルが読んだ本は、薬草学だとかこの世界の神学だったり奴隷経済についてだったりした。

彼女はいつも紙、羊皮紙とペンとインクを持ち歩いていた。
ヒットレルが本を読みながら、労働についてだとか、資本についてだとかを話すのを、しきりに書き留めているようだった。

ある日、ふとヒットレルが、絵は描くか、と問うたら彼女は、無い、とのことだったので、
「ぢゃあスケッチをしよう」
と云って彼女達は絵を描いた。
赤髪少女は絵ではなくて、経済に付いての方が知りたいと云う。

其れを聞いたヒットレルは「幾ら好きでも学問ばかりでは体に毒だ。玉には息抜きも必要だらう」と云うと赤髪少女、わかりましたと素直に応じる。
川を泳ぐ青魚や、その辺の野草などを描いていた。
彼女にとってヒットレルの云う事は凡て正しく、一言一句が学ぶべき物である。
従順に彼女は従う。
兄や他の者では己の知識への欲を満たす事叶わない故、ヒットレルの云ふに間違いは無いと信じているのだから。

餓鬼の様に彼女が求めるは「知識」
誰が為と云ふ訳でもなし。

果てなく求める其れは両親への弔いの炎か、不正義を許さぬ仕合せなる世を築かん大義か。
否。
彼女が内は義など忘れたりけむ。
されど暴力によっての革命は本懐に非ず。

彼女は資本主義――といっても現状は貴族重商主義と資本主義が交わった貴族資本主義である――経済における社会に大きな疑問を持つ。


この世界は資本が利益を生む。
利益とはつまり剰余価値、労働力から生み出される付加価値であり、奴隷経済主義はこの剰余価値をより多く得ることも目的としている。


奴隷が魔術師ーつまり資本家に売っているのは労働力だ。

彼女は今朝の朝食の後に、彼女の兄と共に何処かへ出掛けるヒットレルに、教えを乞うた。
ヒットレル、それならばと

「例へば労働者は一日、此処の鍛冶区ならば一日の給金は20オウラ。
例として、労働者の一日の労賃を20Gとす。

さて、一日20G貰ひて商品2個を作らば、其のの商品1個作れど必要なる労働力、つまり必要労働力の価値は10Gと云ふ具合だらう。

そして商品を作る道具、例えば熔鉱炉やハンマーの維持費が必要なり。
この街には必要なる道具や原料を一括して一つの街に補ひたれば、本当は160Gとするところなるが、少なく見積り、40Gとしておかむ。
何故ならば、他所より仕入るゝ必要の無かるかしば。

其にその道具は使用せば当然、老朽化、劣化すれば、使用耐久回数を4回なるとせむ。
4回使へると考へば商品一個を生産に40G必要である。

そして商品1個辺りの原材料費も必要なり。
先ほどと同じやうに、一個当たり40G必要なるとせむ。

商品1個を例へば2時間にて作る場合の『コスト』を考える。

一日の労賃      20G

原料         40G

商品を作る道具の維持費40G

とせば商品一個の交換価値は100Gと云ふ訳なり。

商品をつくるコストに100Gかゝりせば、此れを売りても利益は出でず。

さすれば如何にして利益を弾き出すか、思案すると良いだらう。
後に答えを云はむ。

労働者の「一日の給金は20G」
貨幣がG    
商品がWなるとして

G―W―G´
G´=G+⊿G

⊿G=剰余価値

とだけ教へて置く。



彼女は喘息持ちであった。
ヒットレルのおかげか大分良くなったが、
始終ぜいぜいひゅうひゅう云っている。
今日も彼岸花の花畑まで行って、今朝の『宿題』をうんうん頭を捻りながら、ぜいぜいひゅうひゅう云って考えていた。

ヒットレルさんはまだ来ないか、夕方くらいかなどと彼岸花を眺めつつ呟くのを、影から覗いていた魔法剣士は聞いてしめたと思った。


――なんと運の良いことか!日々誠実に過ごしていた甲斐があった!

彼に好機と見て赤髪少女に近づいた。

少女は己の背後より雪をさくさくと踏みしめ近づく男を、振り返って見た。

少女は警戒し、腰のフリントロックピストルを構へる。
辻斬り、かっぱらいは日常になっていたので、見知らぬものが背後より近づくに警戒をするのは至極当然である。

すると男が右手より魔法陣を浮かばせるのを見て、彼は魔術師であり少女に対して敵意があるとみとめた。

彼女は己の経験と知識からまづいと判断し、ピストルの火打ち石をおこす。
しかし慌てたのかもたつく。距離は十歩ほどである。

いざ、火打ち石を打ち下ろさんと云う時に、彼の魔法により少女のフリントロックピストルは弾き飛ばされる。

さて、少女は魔法剣士に気絶させられ、ひっ捕らえられた。
彼は少女を担いで足跡を深く残して森の中へと進む。

森の中ならば巡回する他の魔法剣士やらに見られまいと踏んだのだろう。
又、大胆にヒットレルに仕掛けても、魔法を使用してしまえば「魔法の痕跡」が残る。
痕跡を辿られれば誰の使用した魔法かは明白である。
殿下に彼が殺したと知られれば益々彼の立場は危うくなり、息子を養うどころか、彼は処刑され息子は何処(いずこ)かへ追放だろう。

しかし、今この街は無法地帯と化している。
誰が何某に斬られても不思議ではない。

街の外には追いはぎがうろうろしている。
この農業区は城壁でカバーできていない。ならばこの森で殺した後、死体を城壁の外の原っぱにほかっておけば、かっぱらいや強姦魔に殺された後外に放り出されたのだ、脱走を企てたが追いはぎに殺されたのだ、どうとでも云える。

屹度彼女は、少女を足跡を追って来るだろう。

ちょっと開けていて、尚且つ目立たず、足跡が残りやすい場所まで行き、赤髪少女を気絶させ、彼は彼女が来るのを待った。









―――――

 やっとこさっとこ本編開始だぜと云う段です。
しかしこの時期は天手古舞なので更新は一週間おきくらいかもしれません。

 文中の文語体はちょいちょい間違っているかも知れません。
平生文語など使って筆をとらないので、粗が露呈しますね。
回を重ねる毎に正しい(?)文語になってゆけばよいです。


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