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[25400] ゼロの境界面
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:f5588bc9
Date: 2011/11/01 19:21
 男はただ、平和を願った。
 白銀はただ、祖国の救済を望んだ。

 男はただ、己の歪の正体が知りたかった。
 彼らはただ、唯一人の己が知りたかった。

 男はただ、一族の悲願の為に杖を執った。
 黄金はただ、己の持ち得ない宝物を求め召喚に応じた。

 少年はただ、正当な評価を求めた。
 赤銅はただ、確固たる己の肉を求めた。

 男はただ、とある少女を救いたかった。
 狂乱はただ、罪に対する許しが欲しかった。

 男はただ、華の人生に栄光を添えたかった。
 魔貌はただ、真の忠義を貫きたかった。

 青年はただ、この世で最も美しい色が知りたかった。
 凶気はただ、心魂を捧げた乙女と今一度巡り逢いたかった。


 誰もがただ、己の求め欲するものに命を賭した。
 そしてその祈りはただ、誰一人にすら救いを与えなかった。

 これはただ──それだけの話だ。
 



[25400] Act.01
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:fed6f826
Date: 2011/10/10 21:22
/0


 視界いっぱいに広がる蒼穹。
 何処までも続く水平線。
 大地へと降り注ぐ太陽の輝きは、何をも差別する事無く遍く全てを照らしている。

 風を受けて木々が揺れ、砂塵が舞い、自然の薫りが鼻腔を擽る。
 海風に煽られて真っ白なシャツは羽ばたき、潮の匂いが心を満たす。

 醜い争いはなく、島民は皆互いを助け合い、自然と共に生きて死ぬ。
 それが当たり前で、それは当然の事。

 此処には何もなく、故に全てがある。

 穏やかな時間。

 止まってしまったかのような緩やかな時の流れ。
 その微温湯に溺れながら、少年もまた島の皆と同じく生きて死んで行く。

 こんな時間がいつまでも続けば良いと思った。
 こんな時間がいつまでも続くと思ってた。

 生まれ故郷を離れた遠い異国の地であろうとも、この島が好きだったから。

『ケリィはさ──』

 この島で出逢った少女が歌う。
 優しい声で、僕の名前を呼んでくれる。

 君との会話が好きだった。
 それはきっと、初恋だった。

『──どんな大人になりたいの?』

 少女の何気ない問いかけに、少年(ぼく)は────……


/1


「…………っ」

 微睡の中で夢を見た。
 それは酷く懐かしい、自分にとっての原初の記憶。

 少年は少女になんと答えたのだったか、今はもう思い出せない。思い出す事は出来そうにない。

「──もし」

 未だ完全に覚醒していない瞳を、斜め前方へと投げかける。そこには相席していた名も知らぬ老紳士の姿があった。

「気分が優れないのですかな? もしそうなら──」

「いえ、お気遣いなく。ちょっと、夢見が悪かっただけなので」

「ああ、なるほど。これはとんだ失礼を。失礼ついでに、どんな夢だったのか、お聞きしても?」

「……酷く懐かしい(ふるい)夢を見ましてね。いや、今はもうそれがどんなものだったのかさえ、曖昧だ」

「良くありますな。夢は所詮夢、微睡の中に消えていくもの。
 しかしそれで良いのかもしれません。夢は見る者に甘美か苦痛か、そのどちらかしか味わわせてはくれませんからな」

 ならば今見た夢は、そのどちらなのだろうか。

 それは懐かしむべき見果てぬ夢か。
 それは忘れ去るべき苦悩の悪夢か。

「いやはや、本当に失礼でしたな。老人の一人旅は寂しいものでして。つい余計な事を窺ってしまった」

 こちらが顰め面をしていたせいか、老紳士は取り繕うように言った。

 ここはとある列車の車内。
 流れ行く風景は後ろへと消えていき、目的地目指して直走る。

 窓の外に広がる景色は何処か懐かしさを覚えるもの。その景色と列車の揺れが、あの微睡を誘発させたのかもしれない。

 何れにせよこちらも時間を持て余していたところだ。
 後少しで目的地に到着する。それまでは、老紳士の戯言に付き合うのも悪くはないかと口を開く。

「その気持ちは分かりますよ。僕も何かと移動の多い日々を過ごしていまして。手持ち無沙汰になる事は良くあります」

「ほ、ならば丁度良い。爺の戯れに付き合ってはくれませぬか」

「僕でよければ」

「では。先ほど一人旅と申しましたが、ちょっとした私用で出掛けておっただけでして。今は妻を待たせている我が家への帰路なんですよ」

「僕は逆ですね。これから旅の目的地に向かうところです」

「ほう。それにしては持ち物が少ない。旅慣れしておる証拠ですかな?」

「はは、元々物を余り持たない主義でしてね。仕事に必要なものは先に現地で待たせている連れに預けておいたので、手荷物はこれくらいしかないんですよ」

 必要最低限の衣服を詰めた旅行鞄。その連れに預けるわけにもいかなかった一抱えもありそうな木製の箱。
 この男がどんな目的で何をしに何処に向かうか不明瞭ながら、旅に不釣合いなその木箱が気に掛かった老紳士だったが、余計な詮索はせず次の話題に移った。

「しかし、そちらはどちらから?」

「ああ、ちょっと北欧の方から」

「それはそれは結構な遠方からのお越しだ」

「驚かれるのも無理はありませんね。
 僕の風貌は何処からどう見ても日本人のそれですし、自分でもこんな格好で海外から来る人間は珍しいと思っていますよ」

 黒いぼさぼさの髪に黒い瞳。肌の色は黄色人種のそれ。着古したコートの様を見れば、とてもそんな遠方からの旅行客とは思えまい。

「すると御実家はこちらに?」

「生まれはこっちですけどね。子供の頃に海外へ出たきり、戻ってくるのは久しぶりなんです。妻と子──娘も向こうに残しての、単身赴任のようなものですよ」

「それは寂しい事でしょう」

「まあ、長くても半月で終わる仕事です。それが終われば当分の暇を貰えそうなので、最後の踏ん張りどころというヤツです」

 互いの旅の目的を話し合ったところで少しだけ間が開いた。どちらも初対面、余り突っ込んだ事を聞けないが故に話題を探すのに時間がかかった。

「ところで少し、お伺いしたい事があるのですが」

 そう、着古したコートの男が言う。話題に詰まっていた老紳士は快い笑みを浮かべ問いを受け取る。

「何ですかな」

「この世界から、争いを失くす事は出来ると思いますか?」

「…………」

 余りに唐突な話題の飛躍。しかも世界規模の問いともなれば、老紳士の瞠目と沈黙の理由も致し方ないと思えよう。

「ああ、すみません。自分よりも人生経験の豊富な方に、一度訊いてみたかったものですから」

 老紳士の年の頃を思えば、戦争経験者であってもおかしくはない。世界規模の戦いをその身で体験した者に、一度その問いを投げかけてみたかった。どんな答えが返って来るか、知りたかった。

「世界から争いはなくせるか……でしたな」

 老紳士は真摯に考えを巡らせている。こんな突飛で荒唐無稽な問いかけを、真剣に思案してくれている様は、この御老人の心根の良さを物語っているかのようだった。

 沈黙する事一分弱。老紳士は下げていた顔を正面に戻した。

「それはとても、難しいでしょうな」

 そしてそんな、当たり前の言葉を口にした。

「同じ人種で構成されるこの国の中でさえ争いはなくなりません。多様な人種、多様な文化で構成されている国もありますが、その中ではより多くの問題を抱えていると聞き及んでおります。
 であれば、国と国、文化と文化、価値観の違う人間同士が、完全に手を取り合う事の難しさは、考えるまでもないでしょう」

 それは歴史が証明している事実。人の歴史は争いの歴史。一時静寂に包まれても、時が流れれば当然のように人は争いを始める。
 人は違うという事を許容出来るようには造られていない。個人間であれば話は別だが、地域や国のレベルになれば、そこに絡む利権や権力、欲望の限りが尽きる事は有り得ない。

 究極、誰だって自分が一番だ。好き好んで不遇の道を歩きたい者などそうはいまい。故に争う。故に奪う。
 闘争は欲望の別の呼び名。その悪が尽きぬ限り、人という種の根本が変わらない限り、その歴史は幾度でも繰り返す。

 自らの滅びか、自らの住まうこの星の全てを喰らい尽くすその日まで。

「……そうですか」

 ──安心した。

 この世界より争いはなくならない。そう聞いて、コートの男は安堵した。

「それでも私は、この国が好きですがね」

 老紳士は快活に笑いそう言った。

『間もなく────』

 丁度良く流れる次の停車駅を告げるアナウンス。コートの男は旅行鞄と木箱を手に立ち上がる。

「有意義な時間をありがとうございます。これで仕事に打ち込めそうだ」

 小さく目礼をし席を出て行くコートの男。
 老紳士はその背に、最後の問いを投げかけた。

「差し支えなければ教えて頂きたい。貴方は、どんな仕事を──?」

 その問いにコートの男は──衛宮切嗣は、子供のように朗らかに笑って答えた。

「──僕はこれから、世界を救いに行くんだ」



+++


 冬木市。

 その都市は日本の地方都市の名だ。海に面し山に囲まれた、冬でも温暖な気候に包まれる新興都市。
 市の半分を占める古くからの町並を残す深山町と今現在目覚しい発展を遂げている新都の二つの町と街で構成されている。

 コートの男──衛宮切嗣がその都市に降り立ったのは、老紳士と別れてから更に幾つかの列車を乗り継いだ後、あれから数時間後の深夜だった。

 あのまま列車に乗っていればこの都市の駅も通過した筈だが、切嗣はわざわざ無用な乗換えや遠回りをしてこの都市に乗り込んだ。

 その道程だけで切嗣が一般的な観光客でない事などすぐにも知れよう。

 切嗣がそんな無駄を好んだ理由の一つは深夜の到着を目的とした事。もう一つは尾行を警戒してのものだった。
 はっきり言ってしまえばそのどちらも取り越し苦労、無駄骨に過ぎなかったが、それはもはや切嗣の習性のようなものだった。

 まともに日の当たる場所を歩けるような人生を歩んできたわけじゃない。闇から闇へ、そしてその暗闇の中を蠢く外道共を刈り取って来たからこその警戒心。衰えたとはいえ、心は既に全盛期のそれに回帰している。

 平常に、無心に、周囲に何も気取られる事なく闇に溶け込み街に沈み込んでいく。

 新都駅前パークから見上げる星空を、建設途中の摩天楼達が覆い隠している。発展目覚しい新都の目玉の一つとなる予定の高層建築物──通称センタービルがそのお披露目をするにはもう少しばかり時間が掛かりそうだ。

 少し奥まった位置にあるオフィス街に目を配れば、駅前よりも多くのビルが乱立し、鎬を削るように天を目指してその背の高さを競っている。

 新都の発展は冬木市全体に多大な利益を齎す事だろう。深山町に古くから住む人々やそちらで商売をしている人間からすれば憤懣やる方ない思いの者もいるだろうが、個人の意思で都市の発展を妨げる事は出来ない。

 しかしそれらはもう少し先の話で──その時まで、この都市が残っていれば、の話だ。

 切嗣は手荷物を持ち駅前より少し離れた位置にある路地に向かう。そこに待っていたのは闇に浮き上がる白いワンボックスカー。黒いフィルムが窓の全てを覆い隠している点を除けば、何処にでもあるただの一般車両だ。

 そのワンボックスカーの助手席側に回り足を止める。すると黒塗りのウィンドウが少しだけ開き、ハンドルを握る女性と目があった。

 それだけで二人の意思疎通は完了した。切嗣は手荷物を後方の扉から車内に乗せ、自身は助手席に滑り込み、ものの一分足らずで新都駅前パークよりその姿を消し去った。



+++


「簡単にでいい。近況の報告を」

 互いに挨拶もなく、切嗣はそう切り出す。

「現在参加の確認されている遠坂時臣、言峰綺礼、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの三名は既にこの都市に身を潜めている模様です。
 現在地の確認されているマスターは遠坂時臣のみで、彼は自身の屋敷から外出した様子はありません。念の為使い魔で監視も続行していますが、目立った変化は今のところありません」

「流石は御三家の一角か。堂々とした居直りだな。自分の陣地がこの都市で一番安全だと確信しているらしい。それが砂上の楼閣の天頂に立っている事にも等しいと、気付いてすらいない。
 他のマスター連中の情報は何もないのか?」

「はい。時計塔からの情報によると、ロード・エルメロイが用意した聖遺物を紛失したという情報はかなり前に入手しております。
 もしこれが盗難によるものであれば、その何者かがマスターとしてこの都市に潜伏している可能性はあるかと」

「推測の域を出ない話だな。間桐に関しては?」

「頭首である間桐臓硯より正式に今回の聖杯戦争に間桐からの参加者はない、との表明が提出されたようです」

「……きな臭いな。間桐の頭首は妖怪じみた存在だと聞き及んでいる。全てを鵜呑みにするにはまだ早いか」

「現在判明している情報は以上です」

「そうか」

 流れ行く夜景を見ながら、切嗣は嘆息する。

 聖杯戦争。

 妻と娘を遠く異国の地に残し、参戦を覚悟した魔術師の祭典。
 七人の魔術師(マスター)と七騎の使い魔(サーヴァント)による闘争の宴。

 冬木市を舞台に行われる、六十年に一度の殺し合い。始まりより明確な勝者なく、都合三度繰り返した戦争の、その四度目。
 万物の願いを叶えるという聖杯を賭け、互いの生と死を賭して臨むバトルロイヤル。

 勝者にはその祈りを叶える祝福を。
 敗者はその命を散らし無残な死を。

 たった一人の勝者が決するまで、決して終わる事のない無慈悲な殺し合い。他の六人の祈りを退け、その命を奪い取り、なお我が祈りこそを叶えよと傲慢に言ってのけられる者だけが、聖杯によって祝福される。

 切嗣はその争いに身を投じた。六人六騎の敵を殲滅し、他に比するもののない己が祈りを叶える為だけに、この死線へと踏み込んだ。

 愛しきものを守る為。
 胸に抱いた理想を貫く為。

 世にはありえぬ──争いのない世界を築くその為に。
 矮小なその身を賭して、子供じみたその夢想を現実とする為だけに銃を執る。

「間もなく到着します」

 外を眺めていた瞳を車内に向け、ハンドルを握る女性を見る。

 黒い髪の切れ長の目を持つ妙齢の女性。中性的な容姿でありながら、何処かナイフのような鋭利な雰囲気を身に纏うその女性の名は久宇舞弥。

 衛宮切嗣がこの戦いに臨む以前──未だ世界には救いがある筈だともがきながら戦場を渡り歩いていた頃に拾った戦争孤児。

 それが今や衛宮切嗣の片腕にまで上り詰め、彼女のサポートなしでの任務遂行など切嗣自身も考えられなくなるほどに成長した。

 その成長が、果たして彼女にとっての幸福なのかは分からない。
 これまで続いた戦いの日々が、彼女にとっての正しい未来であったかなど、切嗣には判じ得ない。

 そんな事を想う事さえ、きっと許されて良い筈がない。

 切嗣は舞弥を自身のサポートの道具として生き永らえさせ、完成させた。
 彼女は切嗣の命令に唯々諾々と従い行動し、命令があればたとえ幼子とて機械の如く精密に容赦なく殺害する。

 切嗣は彼女の在り方に疑問を抱かない。そう造り替えなければ、この男の隣に居つづける事など不可能だったのだから。

 だから此処にあるのは事実だけ。久宇舞弥はその命散らすまで衛宮切嗣に尽くし、果てるのみ。
 彼女の人生について口を出す資格も権利も切嗣にはなく、その問いを封殺したまま、この最後の戦いを共に駆け抜けるだけだ。

 やがてワンボックスカーは停車する。新都より冬木大橋を超え深山町へ。その一画、日本家屋の立ち並ぶ道路で停車した。

 車から降りると目に留まるのは古び鄙びた門構え。結構な敷地面積を持つ武家屋敷へと何の感慨もなく二人は入っていく。
 正面の入り口からではなく横道に逸れて中庭へ。手入れなど行き届いていない草木の生い茂った庭を突っ切り、縁側に荷物を置いた。

「全ての機材の搬入は済んでいるな?」

「滞りなく。銃火器の整備や調整(メンテナンス)も最終確認(チェック)も既に」

「ならば早速召喚を行う。手伝え」

「はい」

 切嗣が戦闘に用いる各武装はこの冬木へと渡る以前、常冬の森で一度全てのチェックを済ませている。魔術師衛宮切嗣の愛銃も、この戦いの為に調達されたものも全て。

 この都市は戦場だ。その場所に踏み込むにあたり、切嗣と舞弥が何の準備も済ませていないなんて事は有り得ない。
 十年近くのブランクも、出来る限りの射撃訓練と肉体強化で取り戻した。戦場における感覚のようなものまでは完全に取り戻せてはいないが、今の切嗣は戦場を駆けずり回っていたあの頃と比べて遜色はない筈だ。

 いや、迷いを抱えながら、自問自答しながら銃を握っていたあの頃を思えば、やるべき事が明白で、そしてこの戦いが全てに決着を着けるものと理解しているのだから、その意志力は過去に勝る。

 今の衛宮切嗣は、この戦いに勝利する為に鍛え上げられたもの。その心は鋼の如く何にも揺るがず、ただ聖杯の頂を目指して邁進するのみ。
 その過程で踏み躙る事になるであろう全てのものにさえ、躊躇はない。世界の全てを、六十億の人間を救う事に比べたら、この街一つ犠牲にしたところでお釣りは余るほどくるのだから。

 庭の片隅に打ち棄てられたように立つ古めかしい土蔵の中で、その作業は進められる。

 月明かりだけを頼りに露出した地面に特殊な塗料と切嗣の血を混ぜ込んだ液体で陣を構成する。ものの数分、たったそれだけの作業で、後に残すは最終工程──契約の呪文を唱えるのみ。

 これから喚び出されるもの、そしてその後に待ち受けるであろう展開について軽く話し合った二人。切嗣は土蔵に残り魔法陣の正面に立ち、舞弥は然るべき準備の為に屋敷の中へと赴いた。

「さて──」

 ──始めるか。戦いを終わらせる為の、最初の儀式を。

 言葉にはせず、代わりに口から紡ぎ出されるは契約の祝詞。
 サーヴァント召喚の為の呪文は朗々と、高らかに歌い上げられ、発光する魔法陣と差し込む月明かりの中に溶けていく。

 その声に澱みはなく、澄んだ祈りにように木霊する。
 衛宮切嗣がその胸に抱く、余りに清い祈りのように。

 この世界は争いに満ちている。
 そしてその争いの中に響くのは慟哭と怨嗟の歌声。

 権利や利権といった一部の者の私欲を満たす為だけに、無辜の人々は嘆きの声を張り上げる。ただ平穏に暮らせればいいのに。ただ健やかに生きられればそれで満足なのに。人の悪意は、そんな祈りを許さない。

 一つ手に入れればまた一つ。十を掴めば更に十。人の欲望に際限はない。手に掴めば掴むだけ、もっともっと欲しくなる。その渇きを潤せるものは徐々に減り、最後には他者より奪う他になくなる。

 故に争いは起こる。いつの世も。いつまでも。永遠に。永劫に。人が人である限り、その連鎖は止まらない。神なんてものが存在するとするのなら、人は最初からそう造られているのだから。

 ならばその醜い連鎖を食い止めるにはどうすればいいか。

 そう考えた切嗣の行動は単純で、より多くの人を救う為に少数の人間に犠牲になってもらう事だった。

 別にその犠牲が権力者である必要はない。要は争いの火種になりそうなものを事前に刈り取ることで、より大きな野火を防ごうという考え。
 戦火を出来る限り小さくする為に、全く無関係な人間を手に掛けた事もある。けれどそうする事でより多くの人間を救う事は出来た。

 自分自身を天秤に変え、その両皿に載る命の多寡だけで討つべきものを決定する。そこに貴賎はなく切嗣個人の価値観も先入しない。
 あくまで計るのは命の量。事実、切嗣は彼自身の大切な人でさえ、その手に掛けた過去を持つ。

 しかしそれでも、そこまでしてもその行いはあくまで負の連鎖を食い止めるだけ。断ち切る事は決して出来ず、ましてや人間一人の手で出来る事なんて限られていた。
 衛宮切嗣が救った人間の数は、彼の関係しない場所で死んだ者の数には到底及びもしないものでしかなかった。

 だから──だからこそ切嗣は救いを求めた。

 人の身では為しえぬ奇跡。人の手で届かぬ終焉を掴む為に──

 この地の聖杯にはそれだけの力がある。
 たとえその杯が神の血を受けぬ偽物であったとしても、それが真実祈りを叶える代物であれば、それは間違いなく聖杯と呼べるものなのだから。

「────告げる」

 膨大なエーテル流が乱舞し、荒れた土蔵の中を乱流する。
 砂塵が舞い、目も開けられぬほどに激しく猛る風の中、切嗣は決してその瞳を閉じる事無く最後の言葉を謳い上げる。

「抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ────!」

 此処に契約の呪文は完了する。
 声は此方と彼方を結び、言葉は彼の地より願い宿す英霊を喚ぶ道となる。

 衛宮切嗣が喚ぶべき英霊は最優のクラスに座する最強の剣の使い手。
 マスターたる切嗣が持ち得ない、確固たる強さと誠実さを併せ持つ至高の王。

「問おう──」

 その身は遍く騎士達の導であり誇り。
 十の戦場を越えて不敗。
 ただの一度の敗走もなく。
 手に掴み取るは約束された勝利のみ。

 星の輝きにも似た光──今なお信仰と栄光を語り継がれる御伽噺の主人公。

「──貴方が私のマスターか」

 幾千の時を超え、騎士の中の騎士が、今宵現世へと熾天より舞い降りた。



+++


 月の雫に濡れる金砂の髪。
 宝石のように美しく煌く翠緑の瞳。
 目も醒める蒼で彩られたドレスと、その身を覆う白銀の甲冑。

 そして目の前にするだけで感じられる威圧感。

 手の甲が灼熱し、刻まれていた令呪が赤く燃え上がる。
 目の前の存在こそが人にあって人ならざるヒトだと告げている。
 この『少女』がおまえのサーヴァントだと、明確に告げていた。

「…………」

 切嗣をして一瞬、我が目を疑うほどの衝撃。
 歴史上男性であると語り継がれている筈の存在が、年端もいかぬ少女の姿で現れたとすれば、切嗣の驚愕は驚くほど小さなものだと言えよう。

「マスター……?」

 怪訝な瞳で見つめてくる少女の瞳を見つめ返し、目の前の存在が本当に望んだものであるか確認すらしようとせず、淡々と、冷静に、

「──告げる」

 当初の予定通り、その命令を下した。

「その素性、状態にまつわる一切に嘘偽りなく全てを述べよ──令呪を以って命ずる」

「なっ──!?」

 召喚完了直後の灼熱にも劣らぬ熱が切嗣の手の甲を焦がし、三画しかない絶対命令権の一画を空に昇華させて、その意図の読めない命令は発動した。

 召喚の直後、互いの名を交換するその前、目の前に現れたその瞬間とも呼ぶべき間隙。その隙を衝いて発動された命令は白銀の少女の身体を縛りつけ、強制的にその口より命令に沿った言葉を吐き出させた。

 己の素性。
 来歴。
 その最期。
 祈りの正体。
 クラス名。
 真名。
 能力値。
 保有スキル。
 宝具。
 現在の状態。

 ありとあらゆる情報を洗い浚い澱みなく喋り続けるセイバーと名乗ったサーヴァント。その表情は疑問と苦悶に濡れ、瞳は土蔵の隅に捨て置かれていた木製の箱に腰掛けて耳を傾けている己がマスターを睨み付けている。

 切嗣は少女から発せられる怒気にも一切関知する事無く、瞳を閉じたまま黙し続ける。

「………です。はっ──、か、はぁ、……っ」

 およそ半刻。休みなく喋り続けていたセイバーの弁が止まり、その声は苦しみを伴い音を吐き出す。
 それも当然、それだけの長い間話し続けて苦しくない筈がないのだから。

 たとえその身がエーテルで編まれた仮初のものであったとしても、確かにこの世界に存在する以上、痛覚は痛みを知らせ酷使された肉体は現実の枷に縛られる。
 ならばつまるところ、セイバーが次に発する言葉もほぼ予測可能という事だ。

「マスター……!」

 枯れかけの声をそのままに、セイバーのサーヴァントは詰問を開始する。

「何故、このような事に、令呪を……!」

 令呪はマスターに与えられたたった三度の命令権。絶対遵守の戒めだ。それは理の外に身を置くサーヴァントを縛り付ける事も、一時的な強化をも可能とする聖杯戦争における一つの切り札。

 切嗣はその切り札をサーヴァントの素性を知るその為だけに使用したのだ。たった一画とはいえ、余りに無駄な浪費。これで他のマスターより一つ不利な立場になったと言わざるを得ない。

「その程度の質問、問われれば答えていた! 令呪を使ってまで、今問うべき事ではないだろう!?」

 セイバーの怒りは当然だ。

 この戦いに喚ばれるサーヴァントもまた聖杯に託す祈りを抱えている。その祈りを叶える為にマスターとの共同戦線を繰り広げていくのだ。

 しかしこの程度の事に無為に令呪を使用するマスターと共に戦っていけるのかという疑問が生じる。
 疑問は猜疑を招き、二人の関係に罅を入れる。罅だけならばまだいいが、これが完全に壊れてしまえば、もはや聖杯を手にする事など不可能だろう。

 だからセイバーが問うのは当然のこと。この令呪にどの程度の意味があるのかを知らねばならない。本当に無知で蒙昧な理由であったのならば、今後の関係に多大な影響を及ぼしかねないのだから。

 セイバーの憤怒の声にも射殺さんばかりの視線にも動じる事無く、切嗣は重い腰を上げ口を開いた。

「では逆に問おう。今おまえが述べたその全て、ただの質問で一つも余さず逃しもなく答えられたか?」

「それは……」

 きっと無理、だろう。素性や真名、宝具などはともかく自らの抱える祈りやその最期について、何の隠し立てなく述べられたかと問われれば、きっと首を縦に振る事は出来ない。それほどのものを、このセイバーは抱えているのだから。

「そしてもう一つ。おまえは新しい剣を手にする時、その剣の正しい情報を把握しようとは思わないのか?」

 剣の製作者や作られた年代。切れ味や秘めたる能力について、知りたいと思わないわけがない。切嗣のそれは行き過ぎてはいるが、間違ってはいない。

 サーヴァントとは、聖杯戦争におけるマスターの手にする剣だ。その正しい運用方法を知る為には、まずその素性の全てを完璧に把握していなければ話にならない。

 互いに言葉を交わし、時間をかけて良く知るというのも一つの方法だろう。だが切嗣はそれを否とした。そんな時間はないと断じた。
 最善にして最短、最効率の運用を最初から行う最良の方法が、このやり方であったというだけの話。

「別に納得しろとは言わない。ただ理解しろ。おまえも祈りを抱えこんな時の果てにまで迷い込んだのだろう。ならばその祈りを叶える為に最善の方法を模索しろ。最良の手段を選択しろ。それだけ出来れば他には何も必要ない」

 信頼も手を取り合う事も背中を預ける事も不要。ただ聖杯の頂を目指しその瞬間に応じた最善を行い続けろと切嗣は言う。
 口にするのは簡単だ。行動に移すには困難で、他者に理解を求めるのは更に難解だ。

 それでも胸に抱いた祈りが本物ならば清濁併せ呑むしかないと理解に至ると確信する。この少女の祈りは、それほどまでに強固で揺るがし難いものである筈だから。

「……非礼を詫びますマスター。貴方の言う事はもっともだ。
 しかし一つだけ確認したい。我々は既に令呪の一つを失った。これは他のマスターにアドバンテージを自ら捧げたようなもの。それでなお、聖杯を手にするその頂まで勝ち抜くだけの自信があるのですね?」

「当然だ」

 一瞬の迷いもなくそう口にする。

 揺るがし難い祈りを抱えているのは何もセイバーだけではない。切嗣自身もそうであるのなら、この令呪の使用も作戦工程の一段階に過ぎない。
 全ては勝利の為。その手に聖杯を、奇跡を掴み取る為の布石。ならばその意志に迷いなどあろう筈がない。

「それを聞いて安心しました。ならば我が剣、如何様にも使って頂いて構いません。
 誓いを此処に──我が身我が剣はマスターの剣として盾として、共にこの戦いを勝ち抜く事を誓いましょう」

 一画を欠いた令呪が発光する。灼熱ではない温かな輝き。それはマスターとサーヴァントが互いを認め合った事に起因する、合図のようなものだった。

 此処に契約は完了した。
 魔術師殺しの衛宮切嗣と最優のセイバーとのタッグが、この夜結実をみた。



+++


 契約の完了と共に差し出されたセイバーの掌。白銀の手甲に覆われたそれは、誓いの握手を望んでのものだろう。
 しかし切嗣はそれを一瞥しただけで黙殺し、今後についての話を始めた。

「僕達の採るべき作戦は簡潔にして明瞭。互いが最善を尽くせる戦場に身を置き、各々が倒すべき敵を討つ。それだけだ」

「……口にするのは簡単ですが。そう上手くはいかないでしょう」

「いかせるさ。その為のセイバー(おまえ)だ」

 切嗣は懐に手を忍ばせ、掴み取ったものをセイバーへと放り投げる。容易く掴み取ったセイバーは、見慣れぬものに目を白黒させていた。

「これより先は別行動だ。後の指示はそれに従え」

「は……? まさかマスター、貴方は一人で戦場に挑もうというのですか!?」

「何度も言わせるな。互いが最善を尽くせる戦場に身を置くと。僕とおまえでは戦いの舞台が違いすぎる。同じ戦場にいてもまるで意味がない」

 別行動には別行動の利点がある。マスターとサーヴァントの戦場が違うという事も理解は出来る。
 だがそれは、共に行動する事のメリットさえも放棄するという事に繋がる。

「…………」

 いや、ほんの短い時間とはいえ、衛宮切嗣という男に触れたセイバーは、その身に宿る直感を信じる事にした。
 この男の言に嘘はない。全ては勝利の為の行動であり作戦。祈りの成就は全てにおいて優先される事項であると。

「承知しました。御武運を、マスター。御身が窮地に陥りし時は、必ずや駆けつけます」

 その激励にも応えず、切嗣は背を向け土蔵の外へと歩き出す。

 ──ああ、駆けつけて貰うさ。何度でもな。そうでなければ勝利はない。

 心の内にその言葉を秘め、月明かりの降る庭園と躍り出た。そこに待機していたのは事前に頼んでいた準備を終えたであろう舞弥の姿。

「必要なものが少しだけ増えたようだ。手配は任せる」

「はい。既に何件か当たっています」

 本当に手回しが良い。
 これならば背中に憂慮は一つとしてありはしない。

 今夜最後の作戦行動を開始した舞弥の背を見送りながら、切嗣は庭園で月を眺めた。
 月光に濡れながら、懐より取り出したのは煙草のケース。一本を引き抜いて、安物のライターで火を灯す。

 肺を満たす紫煙に懐かしさを覚えながら、今後の展望に想いを馳せる。

 既に知れている敵はどれも強敵ばかり。未だ情報のない連中も、そう易々とは勝たせてはくれまい。
 それでも戦うと決めた。この祈りを叶える為に、他の何を犠牲にする事も厭わないと覚悟した。

 この地で流れる血を最後に、この世界より争いを失くす為に。
 そんな子供じみた夢想を後生大事に抱え、男はこの地に辿り着いた。

 聖杯よ、我が祈りを受け取れ──そして世界を光で満たしてくれ。

 叶わぬ願いをその手に掴む為。
 まずはその手で刈り取るべき敵手達を撃滅する愛銃を再び手にすべく、切嗣は屋敷の内へとその姿を消した。



+++


 切嗣が姿を消した土蔵の中で、セイバーは受け取った機器を装着した。それは小型に改良された通信装置。耳に装着するだけで遠方との通話を可能とする代物だ。

 セイバーはその事情により霊体化が出来ないという失点を逆手に取る手段。
 現代の魔術師は機械を軽んじている傾向にある。これで少なくとも念話を行い傍受される可能性は潰えた。

 機器を耳につけてから数分。

『聞こえますか、セイバー』

 切嗣のものではない女性の声が、セイバーの耳朶に響いた。

「貴方は……?」

『私は切嗣の助手を務める者です。そしてこの戦いの間、貴方のサポートを行う者でもあります』

「…………」

 切嗣が単独で戦場を駆けるつもりならば、なるほど、バックアップ要員は存在して然るべきだ。ただでさえマスター単独での行動はリスクが付き纏うというのに、そこにサーヴァントであるセイバーの行動方針の指示まで並行して行うのは無理がある。

 一瞬の油断が死を招く戦場を横行しようというのだ、まず考えるべきは自身の安全。切嗣の敗北はセイバーの敗北を意味するのだから。

「分かりました。私は貴方の指示を切嗣(マスター)の指示として受け取れば良いのですね?」

『理解が早くて助かります』

「一つだけ訊いておきたい。貴方の名前は?」

『それを述べる必然性はありません。
 私は切嗣と貴方をサポートする為だけに存在するもの。ただのオペレーター(NPC)として扱って頂いて構いません』

「……なるほど」

 流石は切嗣がその背を預ける者だ。この女性もまた、無駄な行為が嫌いらしい。

「それで、私は今後どう動けば?」

『指示はその都度行います。今夜に関しては、この屋敷の中から出なければ自由にして頂いて結構です。
 明朝、霊体化の出来ない貴方の下に必要な物資を届けますのでそれまでは待機でお願いします』

「承知した」

『では良い夜を、セイバー』

 プツン、と音を立てて耳元の機器から音が消える。今夜はこれ以上の指示はない、という事に間違いはなさそうだ。

 セイバーも切嗣に倣い土蔵の外に出る。
 先ほどまではあった切嗣ともう一人の人物の気配もこの屋敷の中には既にない。それぞれの目的の為の行動を開始しているのだろう。

 セイバーには特別やるべき事はない。待機を命じられた以上不用意な行動をするわけにいかなかった。

「────」

 だからセイバーは、縁側に腰掛けぼんやりと空を仰いだ。蒼白い月の輝く綺麗な夜を、ただじっと見つめていた。
 彼女は星見による占いのようなものを多少なりとも心得ている。しかし今夜は月の光が余りに強く、そして美しいが故に星見には適した夜ではない。

 それを差し引いても、白銀の騎士は自らのこれからの命運を占おうとは思わなかった。これより先の道程は自らの手で切り拓くものだ。
 艱難辛苦に塗れて、それでもなお這い蹲ってでも進まなければならない過酷な道。ならばこの一時、最後とも呼べる休息の時間を、穏やかに過ごしたいと思った。

 何より。これほどの美しい夜空を前に、そんな無粋な事をしたいとは思わなかったのだ。

「どの時代から見る空にも、貴方はそこにいるのですね」

 夜を照らす丸い月。冴え凍る輝きを煌々と地上に降らせ続けるその月を、懐かしむように眺めている。
 セイバーにとって見ればそれは数分前の出来事。でも確かに此処は、あの時代より遥かな未来だ。

 時の彼方で願うは祈りの成就。何をおいても叶えなければならない尊い祈り。他の六人六騎を退け、セイバーは願い叶える聖杯を必ず掴む。

「その為にこの場所へ来た。その為に──この身は剣となった」

 今やその身は王ではなく騎士でもなく、ただマスターの為に振るわれる剣だ。
 そう諦観し、そう覚悟し、そうであれば何を犠牲にしても心を痛める事はないと自分に暗示をかける。

「何を踏み躙っても、誰を傷つけてでも、私は必ず──聖杯を……」

 空へと手を伸ばす。掴み取れそうな月へ目掛けて手を伸ばす。
 幾ら伸ばしてもその輝きは掴めず、掌は虚しく空を切るだけ。

 その手が掴むべきは空に浮かぶ月ではない。
 屍の上に輝き、血で満たされる黄金の杯なのだから。


/2


 戦いは何時如何なる時に起こり得るか、それは誰にも予期し得ない。
 予期出来るのは自ら騒乱を巻き起こそうとする者か、戦場になり得る全ての地点を監視している者だけだろう。

 前者は予期するとは言い難く、後者はそんな芸当をやってのけられる者は限られる。
 故にウェイバー・ベルベットという若輩魔術師にとって、目の前に起こった全ての事象が予期しえないものだった。



+++


 彼は歴史は浅く、魔術の薫陶も未だ持ち得ない未熟な魔術師だ。

 鳴り物入りで時計塔に入学したと思っていたのは当然本人だけで、事実、入学後の彼に対する周囲の扱いは冷め切っていた。

 魔術を司る協会における最高学府である時計塔において、もっとも重視されるのはその血統であり歴史。血の濃さは魔術師の力量を如実に表し、歴史の深さは脈々と受け継がれてきた刻印の密度を物語る。

 ほとんど魔術を聞きかじった程度でしかないウェイバーに、誰もその目を向けない事はある種の必然だった。

 それでも彼は努力した。血や歴史など才能と経験と努力で覆せるものであると信じて疑わなかった。それがたとえ、持たざる者の醜い嫉妬心からの頑なさであったとしても、それは彼の心を支え続けた唯一のものだった。

 しかして当然、彼の血の滲む努力は徒労に終わる。

 血と歴史。それが何代も続く経験と努力の賜物であるのなら、四半世紀も生きていない小僧の血の滲む“程度”の努力で覆す事など不可能にも近い。
 あるいは。彼に本物の天賦の才があったのなら、また別の行く先もあっただろうが、虚しくもウェイバーには人並程度の才能しか、この時はまだ持ち得なかった。

 周囲から向けられる嘲笑。
 蔑みの目。
 当然のような冷遇。

 深められた血統と積み重ねられた歴史だけが全てであるこの魔窟に反感を抱き書き上げた論文。

 それは現状の閉塞感と腐敗の原因。そしてその打開方法を論理的かつ合理的に書き上げた──と少なくとも本人は確信していた──代物であり、魔術界に新風を齎すと意気揚々と提出したレポートは、今を輝く時計塔の花形講師に破り捨てられ、彼の心はそれでも折れなかった。

 諦めない事に才能があるのなら、彼はその才は間違いなく持っていた。

 耳に届いた、憎き講師がこれより参戦する大儀礼の名。
 聖杯戦争。
 万物の願いを叶える願望機。
 七人七騎の殺し合い。
 偶然にも手にした聖遺物。

 渾身の論文を破り捨てた講師への幼い復讐心。
 そして勝者となった暁に齎されるであろう栄光。

 幾重にも重なり渦巻く感情を胸に、少年は極東の地日本へと飛び──

 そして最高の手札を引き当てた。

「なのに──」

 ならば一体、目の前の光景は何だというのか。

 手綱を握るのも困難な気性の荒いサーヴァント。マスターとサーヴァントの関係をまるで無視した豪放磊落にして破天荒な王を名乗る者。燃えるように赤い鬣と真紅のマントを靡かせる大巨漢。

「ぬぅ……!」

 繰り出される赤き閃槍。間断なく繰り出されるそれを迎撃する無骨な剣。
 ただただ視界に光る槍閃を受け、流し、回避し続けるウェイバー・ベルベットのサーヴァント。

 こんな筈じゃなかった。こんな予定じゃなかった。なんで──

「おいっ! なんで、おまえっ、圧されてるんだよっ!? そんなヤツに、あんなヤツのサーヴァントなんかに──!」

 槍を振るうサーヴァントの遥か後方、余裕の笑みを浮かべる一人の男の姿があった。
 ウェイバーの論文を流し読みしただけで破り捨てた憎き男。

 濃密な血と深い歴史、そして類稀な才能──その全てを持ち合わせた神童が、三日月の笑みを浮かべ笑っていた。



+++


 事の起こりは偶然。もしそれが偶然でないのなら、全ては因果に則った筋道だったのだろう。

 ウェイバーにはまだこの戦いの意味が理解できていなかった。勝利の果てに手に入る栄光にばかり目が眩み、その場所へ辿り着くまでの困難さを、彼は真実理解していなかった。勝利の為に流れる血は、何も相手のそれだけではないという事を。

 此処は冬木教会の膝元にある外人墓地。その場所で赤き槍を担うサーヴァントと、紅い巨躯のサーヴァントが対峙していた。
 痩躯でありながら必要十分な筋肉を持つ槍の英霊は、乱立する十字架を軽やかに躱し、足場にし、盾にして戦闘を有利に進める。対する巨躯のサーヴァントは手にした無骨な剣で相手の槍を受けるばかり。

 その巨体に似つかわしくないスピードを以ってしても、槍の英霊のそれに比べれば児戯にも等しい。故に無駄な翻弄を良しとせず、どっしりと構え迎撃の態勢で致命傷だけは確実に避けていた。

 しかしそんな様は、戦場に立つのは初めてで、ましてやそれが常軌を逸した殺し合いであると知れるのなら、ただの若造でしかないウェイバーには、自分のサーヴァントが一方的な防戦を余儀なくされているようにしか映らない。

 響く剣戟の音。耳を劈く鋼の応酬。闇夜に咲いては消えていく火花の雨。その戦いの行方を、二人のマスターが後方より俯瞰する。一人は額に汗を滲ませ焦燥に駆られながら。一人は余裕の笑みを口元に浮かべながら。

「何故、か。むしろこちらが聞きたいな、ウェイバー君。君は何故、私のサーヴァントに対抗できると思ったのかね?」

 ウェイバーにとって憎き男──ケイネス・エルメロイ・アーチボルトが謳う。

「サーヴァントのパラメーターにおける基本ステータスを決定付けるのはマスターからの魔力供給量だ。君のそれと私のそれ、どちらが多いと思っている? よもや自分がそのサーヴァントに相応しいマスターだとでも思っていたのかな?」

 ケイネスの口は軽やかに回る。当然、自身と相手の力量差が分かりきっているからだ。

「ならば勘違いも甚だしいな、ウェイバー・ベルベット。ああ、君が私の聖遺物を盗んだ事など瑣末な事だ。どれだけ高位なサーヴァントを呼ぼうとも、マスターが木偶では意味がない」

「うっ……」

 反論のしたいウェイバーだったが、目の前の現実がそれを押し止める。圧しているケイネスのサーヴァントと圧されている自分のサーヴァント。
 そして自身の内包する魔力量が、ケイネスのそれの足元にすら及ばない事も理解が出来てしまうから。口を衝く言葉が何一つ浮かんで来ない。

 もし強引に口を開いても、出てくるのはきっと、ただの負け惜しみに過ぎないのだから。

「しかし一応は訊いておこうか。貴様は何故、私の聖遺物を強奪した」

「…………」

 奪おうと思って奪ったわけじゃない。偶然にもそれは転がり込んできて、そして血統と歴史に取り憑かれ腐敗し切った時計塔で勝ち取る栄誉よりも、この地で掴む栄光の方が華々しいと、そう思っただけに過ぎない。

 聖杯を巡る闘争において、ケイネスが持つような経歴や肩書きは何ら意味を為さない。戦場にあるのは実力のみ。ただ己の力のみが全てを証明する。その野蛮さを良しとして、ウェイバーは冬木へと乗り込んだ。

 だがウェイバーは侮った。見縊っていた。ケイネスの肩書きや経歴が、一体何に裏付けられているのかを。
 そして彼の講師が、ただ一つの聖遺物を紛失した程度で、その輝かしい経歴に添えるべき最後の花を諦めるような男ではないという事を。

 故にこの対峙は必然であり、この時の出会いは全くの偶然。けれど合い見えた以上、どちらも退く足を持たない。

「ハァ────!」

 マスター達の会話を余所に、墓地の中心で踊るサーヴァントの戦いは激化する。もはや視認すら不可能な速度で赤き槍は繰り出され、致命傷を回避する事のみを念頭に置かねば巨躯のサーヴァントには打つ手はない。

 これは序盤戦における緒戦の初戦。どちらも互いに様子見の体を残してはいる。現に槍の英霊は手にした赤き槍に呪布のようなものを巻きつけその真価を覆い隠し、巨躯のサーヴァントは無銘にも近い剣を振るっているに過ぎない。

 どちらもが切り札を隠し持っている。彼らがかつて英雄と呼ばれた時代、そのシンボルとして用いた武具、あるいはそれに類するもの。
 英霊の半身とも呼ぶべき宝具を。切ってしまえばその真名さえ知れてしまう、けれどそれに見合った威力を持つであろう絶対の切り札を。

「さぁどうするねウェイバー君。このまま君のサーヴァントが嬲り殺しにされるのを黙って見ているつもりかね? マスターとしての役割を果たしてはどうなんだ? ああ、失敬、そんな頭を持ってはいなかったか」

 憐憫を滲ませた嘲笑が戦火の中に混じり溶ける。馬鹿にされた少年は、それでも奥歯を噛み締めるしかない。それも当然、彼は知らないのだ。己がサーヴァントが如何なる宝具を所有しているかを。

 現有する戦力を正しく把握していない以上、下せる命令は曖昧模糊。何に対してどう指令を出せば良いか、分からない。そもそもの話、戦いを経験した事のないウェイバーが、下せる命令など何一つとして有り得ない。

 いや、ある種何も命令しない事がこの場合の最善ではあろう。無闇矢鱈に適当な命令を出して場を乱すよりは、戦いの全てをサーヴァントに預けてしまう方が利口だろう。
 ただウェイバーは、それを意識して行っているわけでも、無意識に行っているわけでもなく、ただ、何をどうすれば良いか分からないだけなのだが。

 何かをしたかった。何かをしなければならないと思った。
 碌にサーヴァントを支援出来る魔術も習得していない。戦場における心構えだって出来ちゃいない。奔放な王者に振り回されるだけの、未熟なマスター。今の自分が置かれている現状を確かに把握し理解して、そして納得する。

 何も出来ない。
 ウェイバー・ベルベットには、何を為す術もない。

 それでも何かをしたいと願ったウェイバーに今出来る事。それは、

「おいっ! おまえは強いんだろっ! 世界を手に入れるんだろ!? だったらそんなヤツさっさと倒せよ! なあ────!!」

 腹の底から声を上げ、ただただ己がサーヴァントの勝利を願う他になかった。

「ふぅぬぅぅぅぅん……!」

 雷光の速度で放たれた赤き閃槍を、両手で握り締めた渾身の一撃で以って弾き返す。速度を重視した槍は圧倒的な怪力に弾かれ、一瞬ばかりの隙を生む。けれど槍の英霊は焦りもなく軽やかなステップで後退し場を仕切り直した。

「ったく煩い坊主よなぁ全く。こう真後ろでぎゃあぎゃあと喚かれちゃ戦いに集中出来んではないか、なあ槍使い(ランサー)」

「…………」

 無駄口を叩く事を許可されていないのか、あるいは主の手前無駄な問答などするつもりなどないのか、槍の英霊は静かに佇む。己がマスターの指示を待つ。

「煩いって……だ、誰のせいだと思ってンだ!? おまえがそんなヤツに負けそうになってるせいだろっ!?」

「誰が負けそうだこの阿呆。彼奴も彼奴のマスターもこの場で余を討ち取ろうなどとは微塵も思っておらんよ。貴様を挑発してこっちの宝具(てふだ)を晒させるのが目的よ」

「ほう、腐っても私が喚び出そうとしたサーヴァントだ。その程度、看破出来て当然か」

「本気で余の首を獲ろうというのなら、そんな小細工はさっさと外しておるだろうさ。なあ槍兵」

 巨躯のサーヴァントの視線の先には、赤い槍に巻きついた呪布が風に靡いている。

 槍に記された何らかの刻印を覆い隠す為のものか、槍自体に付与された能力を制限する為のものなのか、判然とはしなかったがどの道全力での戦闘に制限を課しているのは間違いのない事だった。

「加えて槍兵よ。貴様、何か妙だぞ? それだけの腕を持ちながら何処か違和感を感じさせる槍捌きだ。
 何がおかしいのかは分からんが、貴様の槍は妙……いや、読み易すぎる気がするぞ?」

 ウェイバーには己がサーヴァントが何を言っているのかまるで分からなかったが、相手のサーヴァントと、そしてマスターの眉間に僅かばかりの皺が寄るのを見て取った。何か相手の隠しているものに触れたらしかった。

「ふん、流石は王を名乗る者。良い目をお持ちだ。で、それでどうする? その読み易い槍をすら防戦とするしかなかった貴方に一体何が出来ると?」

「貴様らに勝てる」

 振り上げられたキュプリオトの剣。暗闇に輝く鋼の刃は、風を斬り闇を断ち王者の手によって振り下ろされた。

 瞬間──その異常が顕現する。

 振り下ろされた剣閃から滲む膨大な魔力。剣の辿った道筋は、何もない空間をこそ断ち切った。顎門を開く虚空の洞。開かれた門より出ずるは、王がその手にした剣で戒めの楔を断ち切った雷神の戦車──

「活目せよ。これが余の宝具──『神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)』である!」

 主の命に従い参上した御者台を牽く二頭の神牛が嘶いた。
 地を掴む蹄は力強く。上げる雄叫びは夜を裂いて余りある咆哮。彼らの声に呼応するように、雷光が一瞬火花を散らした。

「…………」

 現れた強壮な宝具を見やり、ケイネスは目を細める。ウェイバー・ベルベットが彼の聖遺物を盗んだとするのなら、召喚される者の真名は知れていた。
 だが一体どのクラスに招かれ、どのような宝具を所有するかは、想像は出来ても確信は持てなかった。

 英雄が所有する武具は何も一つとは決まっていないし、クラスの制限に引っ掛かれば持ち込めない宝具もあるかもしれない。だから招かれた英霊の真なる実力を把握する術は実際にその目で能力と宝具を見極めるしかないのだ。

「……ふむ」

 その為にケイネスはわざわざランサーの能力に制限を課し、戦闘においても様子見を徹底させた。こちらが最初から本気を出せば相手もそれに応じるだろうが、他のマスター連中が盗み見ていないとも限らない。

 故にこちらが切る手札は最小限に、相手により多くの札を切らせるのが彼の目的であり──

「見て取ったぞ騎乗兵(ライダー)。貴方の宝具、そしてクラスをな」

 その目論見は成功を収めたと言える。

「ほう、そりゃ良かったな。余は別に隠し立てはしとらんぞ? 天地に憚るものなど何もない。この征服王イスカンダルにはな────!」

 誰が何処で聞き耳を立てているとも知れぬ戦場の只中で、巨躯のサーヴァントは自らその真名を謳い上げた。ウェイバーとて呼ばぬよう細心の注意を払っていたというのに、何たる様か。

「オ、マ、エェェェェェェ! なんで自分で真名バラすンだよッ!?」

「何を言う坊主。知られたところで何かが変わるか? 何か不都合があるか? たとえあったとしても捩じ伏せよう。余の征服の前に立ちはだかる悉くを打ち倒し、余の祈りの礎に変えるまでよ!」

 それは御三家の構築したサーヴァントシステムに喧嘩を売るにも等しい行為。真名は秘匿して然るべきもの。
 名を知られてしまえば如何様にも対抗策を講じる事が出来る。だからクラス名でその名を隠し、宝具の能力もまた極力制限して戦っていくのだ。

 しかして征服王イスカンダルはあえてその全てを晒して戦う事を良しとした。名を隠し切り札を隠して戦う事など性には合わぬと。そしてそれらを知られ対策を講じられても問題など何一つとしてありえぬと。

 それは己に絶対の自信を持つが故の無謀。余りにも馬鹿馬鹿しいが、こうまで突き抜けてしまえば逆に清々しささえ感じさせる。

「く……ククク、……クハハハハハハ…………!」

 闇に響く高笑いはケイネスのもの。

「ああ、全く。こうまで豪胆な王だとは思いもしなかった。良かったなウェイバー君。ここまで強大な自我を持つサーヴァントなら、君が手綱を握る必要もあるまい。したいがままにさせるが最良だろう。
 そして感謝しようではないか。こんな王だと知っていれば、私は貴方を召喚しようなどとは思わなかっただろう。いや、こればかりは救われた気分だ」

 正しく魔術師であるケイネスにとって見れば、御し切れぬ可能性を持つサーヴァントなど論外もいいところだ。
 もしこの赤毛の王を召喚していたらと想像するだけで怖気が走る。

 マスターとサーヴァントの関係は、正しく上下でなければならないとケイネスは思っており、ならば従えるべきはマスターを君主と仰ぐ騎士であるべきなのはある種の当然と言えよう。

 自身を王と仰ぐ者を傅かせる困難さを、どうやらケイネスは見誤っていたらしい。

「余としても貴様のようなマスターに招かれんで幸いよ。確かに坊主がマスターであるよりも十全な力を発揮出来よう。しかしな、一方的な物言いで上から抑え付けるだけの奴がマスターでは窮屈だ。
 それならば、まだ坊主の方が余は心地良い」

 別段ウェイバーは好きで赤毛の王を自由にさせているわけではなく、出来る事なら上下関係を正したいと心底思っているのだが、こうも堂々と憎きケイネスよりもマシだと言われては、毒気も多少は抜けていくというものだ。

「さぁて、ランサー。第二幕と行こうじゃないか。単なる近接戦闘では余は貴様やそれを得意とする連中には及ばんだろうが、余には余の戦術というものがある。
 世界に覇を唱えし征服王が軍略──その身で受けきる覚悟があるのなら、いざ尋常に掛かって来いッ!」

 啖呵を切り、そして手にした剣を握り締める王者と、それに呼応して地を蹴り始める二頭の神牛。対するランサーもまた膨れ上がる戦闘の気配を察し、手にした赤き魔槍を両の手に担おうとして──

「良い。今宵はこれまでだ──退くぞランサー」

 呟きと共に闇夜に生じる霧。それはやがて濃霧となりケイネスとランサーの姿を覆い隠していく。

「ぬ、逃げる気か」

『ああ、逃げるとも。何故わざわざ真正直に戦ってやらねばならない? 真名とクラス、そして宝具が知れたのなら、これ以上の戦闘には何の意味もない。
 まだ戦いは始まったばかりなのだぞ? そう急かずとも何れ決着は着けてやるさ。なあウェイバー・ベルベット』

「────っ」

 魔術による撹乱か、声の発生源は不明で、それでなお背筋をも凍らすほどの敵意を滲ませた音がウェイバーの耳朶に木霊する。

『何れ雌雄を決しようじゃないか。サーヴァント同士は無論の事、私と君のそれもな』

 それだけの言葉を残し、僅かにあった気配もまた消えていった。そして霧が晴れた時、墓地に残されたのはウェイバーと不満げな顔をした王だけだった。

「ふん、逃げ足の速い奴らめ」

 それは悪態であり、そして賞賛であった。

 敵の情報を知り、そして相手が宝具に訴えた以上、こちらもまた宝具によって応じなければならなくなるのはもはや必定。
 であれば、未だ七騎全てが揃っているかも不明な現状、無駄に手札を明かす事を良しとせず、素早く撤退に移ったのは戦略として正しい。

 赤毛の王も生前は数多の騎士を率い戦場を馳せた者。退く事は決して臆病ではない。それが理に適った撤退であるのなら、それは何ら恥ずべき事でもないのだから。

「すまんな、わざわざ呼び出しておいて骨折り損とは。次こそは必ずやその力、借り受けるぞ」

 二頭の神牛に労いの言葉を掛け、ゼウスの仔らは嘶きを以って王の言葉に応えその姿を虚空へと消していった。

「なぁにを呆けておる坊主」

「あっ……え……?」

 そこでようやく、ウェイバーは戦いが終わったのだと気が付いた。そしてそのまま、崩れ落ちるように膝をついた。

「ま、最初の戦場ならば最後まで立っておっただけでも及第点だ。褒めて遣わすぞ」

「な、んだよ、偉そうに……くそっ、これじゃあこっちは損しただけじゃないか」

 真名を知られ、クラスを知られ、宝具を知られた。そして相手のサーヴァントについての情報は一切合切得られなかったでは、余りにも無残な敗北だ。それも自分のサーヴァントが自分から暴露しまくったせいなのだから尚の事始末に負えない。

「損しただけ? そりゃ違うだろ。坊主、貴様はこの夜何を得た」

「え」

「貴様はこれまで戦場とは無縁の日々を送っておったのだろう? そしてこの夜初めてその場所に立ったのだろう? それで何も得るものはなかったか? 何一つ知ったものはなかったのか?」

「────」

 そんなわけがない。戦場という特殊な環境に身を置く困難さ。ただ立っているだけ気圧されてしまう自分の弱さ。
 勝利による栄光にばかり目が眩んで、その過程における過酷さを侮っていた。戦場に立つ本当の恐怖をこの夜初めて思い知った。

 これが戦い。
 これが殺し合い。

 これは、戦争なのだ。

 命の遣り取り。
 一瞬の交差で命は儚くも散る戦場。
 流れる血は等しく、勝利はただ一人の手にしか掴めない。
 それが聖杯戦争で、自らが足を突っ込んだ地獄の名だ。

 そう理解するだけの時間を得て、実感を得て、ようやく、身体に震えが走った。

「逃げ出したくなったか? 怖くなったか? 良いぞ、それを誰も責めはせぬ。弱さを恥じる事はない」

 優しげな目でウェイバーを見下ろす赤毛の王。

 確かに怖い。たとえウェイバー自身が戦わずとも、これだけの恐怖を味わったのだ。ならばもし、自らが戦わなければならない時が訪れたら、戦えるのか? この王の隣に立ち、死力を尽くせるのか?

 あのケイネス・エルメロイ・アーチボルトに、歯向かえるのか──

「────んな」

「おぅ?」

「ふざけた事、言ってんじゃねぇよ。ボクはオマエのマスターだ! そのボクがオマエに全部任せて後ろで震えてるなんて真っ平だ!」

 この戦いに臨むと決めたのは、そこに輝かしい栄光があったからだ。ただそれは、誰かに与えて貰うものなんかじゃ決してない。自分の手で掴み取るべきものなのだ。
 だからこの威風を纏う王の陰に隠れ、この男の戦果を分け与えて貰うだけなんてのは、この上なく気に食わない。

 魔術師として死を観念していたとしても、戦場での死の恐怖を克服したわけじゃない。だから怖い。本物の殺意を向けられて、恐怖した。

 それでも嫌なのだ。

 他人のお零れに預かるなんて無様だけは、絶対に許容出来ない。それを許しては、あの時計塔で貴族連中に媚び諂っていた奴らと一体何が違うというのか。

 この場所で戦うと決めたのは自分の意志で。それを曲げる事なんて出来はしない。してはならない事だと思うから。

 ウェイバー・ベルベットは──己が足で立ち上がる。

「ほぉ……」

「分かったか!? ボクは逃げないぞ。マスターとして、戦うんだ!」

「言う事は一人前だが。足の震えは隠せてないぞ?」

「うるさいッ! このバカッ! 怖いものは怖いんだ! それの一体何が悪いッ!」

「フッ、悪くはないさ、むしろ良い。恐怖を知り、痛みを知り……そしてその後に勝利を知れ坊主。そうすれば、貴様は真っ直ぐに伸び行こう」

 自分自身の痛みを知らない者は、他人の痛みもまた理解出来ない。それはとても悲しく愚かな事だと王は歌う。

「フン、全く以って心地良いぞマスター。余のマスターは共に戦場を馳せる勇者でなければな。少しばかり背丈が足らん気がするが、その分心根の清さは十分だ」

「背丈は関係ないだろこのバカッ! 自分がでかいからっていい気になるなよ!?」

「はっはっはっは、良い良い。まっこと余は気分が良いぞ」

「あ、くそ。頭掴むんじゃねええええええええええええ!」

 ──こうして緒戦の幕は閉じる。

 未熟な少年魔術師と赤毛の王はそれぞれの信じた道を征く。
 今は未だ遠き聖杯の頂を目指し、矮躯と巨躯の主従は共に戦場を駆け抜けていく──



+++


 聖杯戦争における緒戦──それは火蓋を切って落とす狼煙のようなもの。
 当然、それを監視していた者は存在する。

 久宇舞弥。

 彼女は切嗣からの指示を遂行し、セイバーにこの夜最初で最後の指令を伝えた後、休む間もなく活動を再開していた。

 切嗣と舞弥がコンビを組む時、後方よりのバックアップが舞弥の主な任務だった。それはセイバーというもう一人の味方を得ても変わる事のない役割分担。

 舞弥が探り暴き、切嗣が仕留め排除する。

 故に舞弥の戦闘能力は決して高い部類ではない。それでも魔術師が忌み嫌う科学の力を用いる事によってある程度は善戦出来るだろうが、切嗣のように戦闘に特化したものを持たない舞弥の不利は否めない。

 よって舞弥が表立って戦場に立つ事はまず有り得ない。あるとしてもそれは切嗣からの指示があった場合のみの、影としての役割を負うだけだ。正面から合い対し、敵と切り結ぶような場面は数えるほどしかない。

 舞弥の戦場は切嗣らが立つ血みどろの戦いの渦ではなく、その遥か後方──情報戦というの名の戦場だ。

 情報は戦いにおいて最重要に位置付けられるほどに重要性のあるもの。相手の素性を知り武器を知り、隠れ家を知り、行動の予定までをも把握出来ればまず間違いなく勝利は手に出来る。

 逆に相手の情報に踊らされた場合、こちらが一気に不利になるのは否めない。

 彼女は切嗣よりその情報戦における一切を託されていた。彼女の情報を信頼し作戦を構築し実行に移す。もし舞弥が致命的なミスを犯せば、死ぬのは彼女ではなく切嗣なのだ。

 故に舞弥には一つのミスも許されない。僅かな情報の誤差が何れ大きな歪みとなり切嗣を襲う可能性を否定する事など出来はしないのだから。

 それ故か、彼女が習得した魔術は諜報に特化したものばかりで戦闘向きのものは極端に少ない。切嗣よりの指示があっての魔術教練なれど、舞弥はそれ以上に打ち込み才能など持ち得ない事を努力のみで覆した。

 結果、今現在冬木市において彼女の死角は存在しない。

 とあるホテルの一室に持ち込まれた無数の機材は現代における情報を最効率で取得できる電子機器の類。
 切嗣が入国する遥か以前より舞弥はこの都市に侵入し、ありとあらゆる場所に電子の瞳を設置した。

 しかしそれだけでは都市一つを監視するには足りず、舞弥がもっとも習得に優先を科した使い魔を無数に放ち、全てを監視包囲している。

 先のケイネス、ウェイバー両陣営の戦闘も無論の事監視をしており、ケイネスが手に入れた情報とほとんど同等のものを傷の一つもなく手にしていた。

 更にこれから帰路に着く両者の行動を備に監視し続ければその隠れ家も発見出来る。敵に所在を知られる事の不利を知らぬ愚か者はいまい。
 故に、今や情報戦の全てを制圧していると言っても過言ではない舞弥を抱える切嗣の陣営は、圧倒的に有利な状況下にあると言えよう。

 右の瞳で随所にばら撒いた使い魔の瞳を借り世界を俯瞰し、左の瞳で電子の瞳の映す世界を把握する。更に指先はキーボードを叩き続け、ケイネス、そしてウェイバーの素性に探りまで入れている始末。

 これまでの経歴は当然として、入出国の履歴や出立日。冬木市への進入経路から拠点を割り出す助けとする。時計塔に置いている協力者からも情報を引き出し、切嗣とセイバーが僅かでも動きやすい状況を作り上げる為、舞弥は不眠不休で情報の全てを網羅する。

 両名についてのある程度の情報の整理が終わった頃、ふと、舞弥の指先が止まる。

 右の瞳の見る……一匹の使い魔の目が捉えた映像が舞弥の行動を停止させた。
 人気のない、闇に染まる街中を歩く一人の男の後姿。ロングコートにも見えるそれは神父服に間違いはない。
 特に異常なところは何もなく、ただその様こそが逆に異常だと告げていた。

 その人物は言峰綺礼。

 此度の監督役──言峰璃正の実子にして遠坂時臣に師事し、後に決別を果たしたとされる男。聖堂教会、魔術協会どちらにも足を突っ込んでいる異端者であり、今回の聖杯戦争の参加者でもあるこの男。

 そんな男が一体何を目的としてこんな深夜に街を徘徊しているのか。敵を求めて? それにしては悠長な足取りだ。隠れ家に帰る途中? あるいは何か他の目的が? ならばどちらにしろこのまま監視を続行すべき。

 そう舞弥が判断を下した瞬間──

 ──言峰綺礼は、使い魔の瞳(こちら)を直視した。

「────痛ッ!?」

 刹那、舞弥の右目に走る激痛。同時に映し出していたヴィジョンが断絶された。

「馬、鹿な……」

 たった一匹使い魔を潰された程度で舞弥の肉体にフィードバックは起こらない。ならば何故今、舞弥の瞳に異常が起きたか、答えは余りにも簡単だった。

 右の視界のチャンネルを回しても、映る映像は一つしてなく。室内に響くのは砂嵐のような音。

 結論──

 冬木市に放っていた使い魔の全てが、全くの同時に、潰された。
 それだけではない。舞弥の耳朶に届くのは監視モニターより流れる機械的な雑音。電子の瞳の全てもまた、その機能の一切を破壊されたようだった。

 故に舞弥の驚愕は当然であり妥当だろう。一体あの男──言峰綺礼は何をした? どのような手段に寄れば使い魔の目と機械の目、その二つの全てを同時に破壊出来るというのだろうか。

「切嗣に……報告を……」

 これは捨て置いて良い事態ではない。たとえもう一度使い魔ないし機械を設置したとしても恐らくはまた潰されてしまうだろう。
 これでは舞弥を抱えたアドバンテージがまるで確保出来ない。情報戦の有利を言峰綺礼ただ一人に奪われてしまう。

 それは余りに巧くない。切嗣の想定する作戦行動には、舞弥のバックアップが当然のように組み込まれているのだから。

 夜は深まり朝へと向かう。

 陽が昇り、新しい一日の到来と共に戦火はより拡大していく。
 戦いの火蓋は切って落とされ、賽は既に投げられたのだから。

 それぞれの思惑を胸に、戦いは錯綜し混迷を極めていく────


/3


「言峰綺礼……か」

 明朝。

 陽の昇り始める頃合に舞弥より連絡を受けた切嗣は安ホテルのベッドに腰掛け、片耳に通信機を取り付けたまま思案に耽っていた。

 切嗣が現在拠点にしているホテルは舞弥が滞在するホテルとは別であり、この夜を越える為だけにチェックインを済ませた仮初の宿である。
 舞弥は数多くの機器を扱う為に容易に拠点の変更は出来ないが、身一つで行動する切嗣には何の制約もない。故に必要があれば適当なホテルに泊まるし、なければ不眠で夜を越す事も辞さない。

 セイバー召喚を行った屋敷はまだ必要のない拠点だ。アインツベルンはそれとは別の拠点も有しているし、今までほぼ無人だった屋敷に頻繁に出入りしてはいらぬ勘繰りを受けかねない。
 あの場所はセイバーの為に、サーヴァントを召喚する為だけに用意された場所だ。少なくとも今はまだ、あの屋敷で骨を休める必然性は存在しなかった。

 サーヴァント召喚直後のマスターに降りかかる多大な疲労を睡眠によって養った切嗣は、覚醒した思考を現状の把握、そして対策に割いた。

 使い魔と電子機器の全てを一瞬にして破壊し尽くしたと思われる言峰綺礼。他のマスターの関与は認められていない。少なくとも潰される直前に把握していた瞳は他の参加者を捉えてはいなかったからだ。

「……気になるのは、何故こんな真似をしたのか、だな」

『……? どのような手段を用いたか、ではなく?』

「現状、手段については推測の域を出ない。生身の人間一人には不可能な芸当である以上考えられるのはサーヴァントか、複数人による仕業かだが。どちらに絞っても意味がないし時間の無駄だ。
 どうせ考察するのなら手段ではなく理由の方が遥かに意義がある」

『単純に私達の優位性を排除するのが目的ではないと?』

「それもあるのだろうが、この早期に全てが暴かれ破壊されるのは想定外だ。これは手段に通じるが、人外の力が関与している可能性が多分にある。
 そしてそんな芸当が可能ならば、当然諜報能力に関しても相手はかなりのアドバンテージを有していると考えられる」

 一呼吸置き、切嗣は続ける。

「そこで問題になるのは、こちらは向こうについては何一つ把握していなかった事だ。こちらの監視網を放置していては何れ露見する可能性があり、早期に手を打ったとも考えられるが、これは同時にこちらに相手の異常性を知らせるシグナルになる」

 今こうして議論している事がその証左だ。参加表明のされた連中に関しては全員の素性を洗ってあるが、言峰綺礼はそこまで警戒に値する人物ではなかった。

 魔術師(マスター)としての位階を比べるのならケイネス・エルメロイ・アーチボルトや遠坂時臣の方が遥かに高位だ。
 言峰綺礼自身のマスター適正は低くとも、サーヴァントは充分に警戒に値する。いかなるサーヴァントを召喚したのかは不明ながら、舞弥が入念に準備し設置した監視網を早々に暴き、破壊するだけの諜報能力を有すると考えられる。

「何よりだ、監視網を把握しているのなら破壊する意味がない。自分はその網に掛からないように動き他の参加者より優位に立ち続けるだけで充分だ。こんな真似をしては、僕達の標的にしてくれと言っている様なものだ」

 ──あるいは。それが目的か?

 言葉にはせず、そんな思いを胸中に沈み込ませる切嗣。

 こちらのアドバンテージが完全に潰され、相手にそれを上回るほどの諜報能力があると知った以上、これを放置して他のマスターを狩りに行く理由がない。そちらに現を抜かすという事は、言峰綺礼に背中を見せるのと同義なのだから。

『何か手を打ちますか?』

「…………」

 打たなければならない。打って来いと、言峰綺礼は言っている。だがまだ、考えるべき事がある。

 言峰綺礼の目的が見えない。切嗣を誘き出す真意が読み切れない。こんな挑発的な真似をしてまでも、切嗣を釣りたい理由が言峰綺礼には存在するのか。あるいは、第三者の差し金か……?

「……言峰綺礼は確か、遠坂時臣に師事していたんだったな」

『はい。教会で幾つもの部署を転属した後、教会から出向という形で遠坂に弟子入りしています』

 敬虔な教会の信徒であればおよそ有り得ない出向。主を第一に考え、神の御業を掠め取り扱う魔術師を敵と断じる教会において、一時的とはいえ敵側に所属するなんて事は不可能にも近い所業だ。

 しかし、かつて見た言峰綺礼の経歴からは、そこまで敬虔な信徒である印象は受けなかった。信仰の僕であるのなら、エリート街道を外れてまで血生臭い実戦部隊になど志願はしまい。

 ……そう、どちらかというのなら。言峰綺礼は神の愛を疑っている節がある。

 いや、今はこの男の経歴などどうでもいい。重要なのは遠坂時臣に師事していたという事実。そして令呪の発現によって袂を別つ事となったと公表されている点。

 もし未だ綺礼と時臣の間に繋がりがあり、これが時臣の策略の一環であるのなら、辻褄は合う。言峰綺礼に利のない挑発も、時臣自身に利する行動であると考えれば納得はいく。だがそれも、完全に鵜呑みにするわけにはいかないが。

「ならば一つ、こちらも仕掛けてみるか」

 どちらにせよ言峰綺礼の有する諜報能力を放置するわけにはいかない。敵の掌で踊らされるのは御免だが、そうする以外に道がないのなら受けて立とう。どの道何れ全ての敵を倒すのだ、順序に理由は必要ない。

「舞弥、僕は少し動く。それに合わせて手駒(セイバー)を動かしてくれ」

 脳裏に描いた作戦行動を通信機越しに舞弥に伝える。全てを伝え終えた後、切嗣は古びたコートを羽織り部屋を後にする。

 稀代の魔術師殺しは、最初の標的を見定めた。



+++


 言峰璃正は冬木教会を預かる敬虔な信徒であり、第三次聖杯戦争より引き続き監督役を拝命された神父である。

 戦時下という特殊な状況に置いても恙無く粛々と監督役の任を全うした手腕を買われての歴任。特に今回に限っては、璃正本人も天秤の役回りだけに納まらず個人としての思惑も内包している。

 交友のある御三家の一角、遠坂の当主時臣と実子たる綺礼の参戦。三度目の戦いでは終ぞ聖杯は現れなかった。教会に所属する者としては何処ぞの者とも知れぬ輩に掠め取られ意図不明な思惑に使用されるくらいなら、誰の手にも渡らないのが僥倖だ。

 しかし今回は違う。聖杯を──贋作であるそれを魔術師として正しく使用すると確信できる友がおり、息子もまたその勝利に秘密裏に手を貸しているのだ、これで聖杯が顕現しなければ永劫誰の手にも渡らない方がいいとさえ思えるほどの布陣。

 凡才なれどその思想と努力によって培われた手腕は一級品。召喚したサーヴァントもまた最強に相応しい力の所有者。そこに綺礼のサポートがあれば、敗北など有り得ない。あってはならない。

 元より監督役に公平なジャッジなど期待されていない。彼らが行ってきたのはただの尻拭い。世間に神秘が露呈しないよう裏工作をするだけの存在だ。

 同じ魔術師が采配を振るえば公平は期待できない。しかしそれは、教会の者であっても変わりはしない。元より完全に平等で公平なジャッジなど、人間には土台無理なものであるのだから。

 だがそれでも璃正は敬虔なる神の僕なのだ。そこに偽りは許されず、嘘は神の愛に背を向ける背逆の行い。故に戦いの幕が開いた今、表立っての支援など論外だ。彼に為せる事はこうして神前にて祈りを捧げる事だけ。

 友の実力を信じ、友の勝利を祈る。無論、息子の安否をも。

 その時、軋む音を耳朶に聴く。祈りを捧げていた祭壇より振り返れば、門扉を開き姿を見せる一人の男の姿。

「…………」

 璃正は一目見てそれが参拝に訪れた信徒ではないと、確信した。擦り切れたコートを羽織り、ぼさぼさの黒髪には手入れの後など見られない。言ってしまえばみすぼらしいの一言に尽きる身なりの壮年の男性。

 その様だけを見れば人生に疲れ路頭に迷う人間が神の棲家に一晩の宿を借りに来たのかとも思ったが、それも違う。男の瞳が語っている。黒く深く渦を巻く底知れぬ闇を内包した力強き瞳が、ただ視線だけで男の生き様を語っていた。

「例年、この場所へ参加登録を行いに来る者は少ない。しかし、訪れた者を歓迎するだけの意思が常にこちらにはある。歓迎しよう、第四次聖杯戦争(ヘブンズフィール4)に参戦したマスターよ」

「話が早くて助かるよ、言峰璃正神父。僕は衛宮切嗣。アインツベルンの後ろ盾を得て参戦したマスターだ」

「衛宮……アインツベルン……」

 監督役である以上、参加表明のされたマスターについては璃正もまたある程度把握している。千年の歴史を紡ぐ大家アインツベルンが誇りを擲ち、勝利の為に招聘した悪名高き魔術師殺し──それが目の前に立つ衛宮切嗣だ。

「…………」

 魔術師の中にあっての異端。請け負った依頼の全てを標的の殺害で完遂するフリーランスの殺し屋。それも最悪に部類されるほどの。

 およそ魔術師であっても彼らには彼らなりの美学があり誇りがある。だが目の前の男にはそれがない。殺しの手段は多種多様で取り止めもなく、女子供とて容赦はしない。それどころか、標的を抹殺する為に旅客機ごと爆破したと噂されるほどの男だ。

 この男の殺しの基本的な手段は暗殺だ。故にマスターの中でも決して姿を見せない類の者であろうと思っていた璃正は、度肝を抜かれたと言ってもいい。
 そして同時に疑問が生じる。暗殺者が何を目的にわざわざ教会などに足を運んだか、という一点。

「何か警戒されているようだが、必要ない。ここは一応の中立地帯なんだろう? 貴方を殺したところで僕に利点はないし、教会に目をつけられ無意味なペナルティを負わされるのは御免なんでね」

「ならば、何用で当教会に参られた」

「何、少しばかり訊きたい事があってね。ああ、言峰神父。ここは禁煙なのかな?」

「神の御前だ。出来れば控えて貰いたい」

 そう言われ、切嗣はコートの内へと滑り込ませていた手を何も取らずに引き抜いた。

「じゃあ用件だけを伝えよう。貴方の実子、言峰綺礼とその師である遠坂時臣──二人は今も繋がっているな?」

「────」

 冷徹な瞳。鋭利な視線は全てを見透かすように璃正を見る。ここは神の棲家でこの立ち位置は神前。そして璃正は敬虔なる信徒。問われたものに答えないわけにはいかず、虚偽は決して許されない。たとえ神が許そうと、璃正が己を許せはしない。

「何をおかしな事を。綺礼と遠坂時臣氏は既に切れていると公的に発表されている。故に二人が内通しているなどという事実は、何処にもない」

 だが、だからこそ、璃正はその言葉を紡ぎ出した。

「……そうか」

 それで話は終わりだと言うように、切嗣は背を向ける。

「邪魔をしたな言峰神父。教会による正しい運営を期待する」

 心にもない言葉を述べ、魔術師殺しは教会を去った。

 後に残された神父は数秒、訪問者の消えていった扉を眺め続け、

「おお……神よ、我が罪を許し給え」

 嘆きと共に振り返り、跪いて祈りを捧げた。

 時臣と綺礼は現在も繋がっている。その事実を知りながら、神の御前で言峰璃正は嘘を吐いた。許されざる罪を犯した。
 けれど神父は己の不義を嘆きはしない。神がこの身に罰を下すというのなら甘んじて受けよう。それ以上の裁可を望もう。

 全ては友の勝利の為。我が子の勝利の為。

 その為ならばこの非才の身がどれほどの過酷に突き落とされようと嘆きはしない。悲しみはない。恨みを持つなど以ての外。これまで敬虔に神にのみ尽くしてきた男が犯す、最初で最後の過ち。

 それも全ては今この戦地で戦う者達の勝利を願うゆえ。
 璃正は一人、神前で長く祈りを捧げ続ける。その祈りが、無意味なものと気付かずに。



+++


「決まったな」

 遠坂時臣と言峰綺礼は内通している。そう切嗣は確信した。

 璃正についても粗方の素性は調べてある。何処までも神に忠節を尽くす信徒。そんな男が嘘を吐いた。
 神父が嘘を口にする一瞬、ほんの一瞬だけ目が泳いだのを切嗣は見逃さなかった。確証など無論の事どこにもないが、切嗣の観察眼と勘があの言葉は嘘だと断じた。自らの判断を今更疑うような男ではない。

 故に二人は繋がっているものとして行動する。

 当面の問題は綺礼のサーヴァントだ。しかしこれが時臣の策略にしろ綺礼の思惑にしろ切嗣をここまで挑発してきたのだ、ならば今度はこちらから挑発をし返してやる。
 相手の目的が切嗣、ないしセイバー、あるいはそれ以外であろうとこちらを狙っているのは間違いない。ならば逆に誘い出す。無防備な背を晒し、襲い掛かって来いと挑発する。

 紫煙を吹かしながら見上げた空は赤から藍へと変わり行く時分。時間も丁度いい。これより深まりゆく夜の最中、サーヴァントを連れず無防備に街を歩くマスターがいれば襲わない手はない。

 切嗣ならばそれが誘いであっても奇襲する。それを打破するだけの手札は既に揃っているのだから。

「それにしてもあれほどの信徒に嘘を吐かせる遠坂時臣ないし言峰綺礼はそれほどの傑物なのか……? まあいい。敵は全て殺す。ただ、それだけだ」

 コートの裾を翻し、魔術師殺しは夜に没する街中へと消えていく。彼にとっての最初の戦いが、今此処に幕を開ける。


/4


 闇に没した深夜の新都。

 行き交う人々は疎らで、せいぜいが駅前パークが少々賑わっている程度。閑静な住宅街は完全に音を失い、オフィス街には点々と明かりが灯るだけの、深海に沈んだかのような街並の中を蠢く影が一つ。

 月の明かりの届かない摩天楼の片隅を跳梁する黒衣と白面。
 此度の聖杯戦争において暗殺者(アサシン)の座(クラス)に招かれたサーヴァントが暗闇の中を駆け抜ける。

 今宵、彼に与えられた命令はただ一つ。昨夜行った挑発行為を受け、行動するであろう敵マスターの排除。

 この身はサーヴァント。人外に位置する怪物だ。生身の人間でしかないマスターを討ち取る事など容易く、そしてそれを生業にするが故の警戒心を持ち合わせている。

 闇の中に身を潜め、対象を探し出し、付け狙い、相手が気を抜いた瞬間を狙い撃つ。暗殺とは、見敵必殺の心得だ。こちらの気配を一つとして見せず、相手が刺されたと気付いた時には全てが遅い。それをこそ、真の暗殺と言えよう。

 故に彼は細心の注意を払っていた。対象を発見して半刻。当て所なく街を徘徊する対象を備に観察し続けた。周囲から人の気配が消えるのを待ち続けた。殺しに最も適した一瞬を待ち焦がれた。

 降り注ぐ月の明かりが雲間に遮られ街は完全な暗闇へ。周囲に人影はなく、標的は孤立無援。仕掛けるのなら、今──!

「キッ──!」

 攻撃態勢へと移ると同時に、これまで彼の存在を覆っていた気配遮断のスキルはほとんど意味を為さなくなる。故に暗殺者は漏れ出す殺気を留めようとせず、むしろ撒き散らし標的に向けて加速した。

 闇を滑る影。手には闇色に塗られた短刀(ダーク)。黒に浮かぶ白き面貌は、標的がこちらの殺意に気付き振り向く姿を目視した。
 だが遅い。相手がこちらを目視するよりも早く、この手の短刀がその首を両断する──!

「キェェェェアァァ──!」

 繰り出される短刀。黒衣の腕より放たれた不可視の刃が標的の首を貫く──そう思われたが、狙われた獲物は異常な速度でその一撃を回避した。

「……?」

 今、一体何が起きたのかと訝しむ暗殺者。だがそれよりも早く敵が動く。今はただ、殺し損ねたという事実だけがある。
 敵はホルスターに手を忍ばせ、引き抜いた銃で渾身の一撃を見舞ってくる。しかしただの銃弾が霊的存在であるサーヴァントに通用する道理がない。手にしたダークで弾き飛ばし、今一度敵手の首を刈り取らんと身体を沈み込ませる。

 相手はただの人間だ。必殺の一撃を躱した事は賞賛に値するが、マスターがサーヴァントと対峙して勝てる可能性は皆無に近い。
 見敵必殺。姿を見られた以上、もはや撤退の文字はない。その首を刈り取らなければ彼のプライドに傷がつく。

「キェ────!」

 姿が露見してしまった以上、投擲では確実な殺しは出来ない。ならば手ずからその首を刎ねるまで。
 銃弾を撃ちながら後退する敵に向けて影は走る。敏捷性においてアサシンの追随を許す者などそうはいまい。瞬く間に距離を詰め、今必殺の刃を振り下ろす。

「オワ、リダ……!」

 振り上げられた短刀。舞い散る鮮血。夜を染める赤が、一面を染め上げた。ぐるぐると回る、彼の視界の中で。

「キ……?」

 そこでようやく、彼はおかしな事実に気が付いた。手にした短刀はまだ相手の首を刈ってはいない。振り上げただけで、振り下ろしていない筈だ。
 ならば今、彼の視界を染める赤は、一体何処から噴出した血だというのか。そして何故彼の視界は、宙を舞うように回り続けているのだ……?

「敵の背を狙ったのはそちらが先だ。よもやこの奇襲を卑怯などとは言うまいな?」

 聞き慣れない声を聞く。ぐるりと視線を動かせば、先程まではいなかった筈の存在を目視した。白銀の甲冑と蒼のドレスを身に纏った黄金の髪の騎士。不可視の何かを振り下ろした姿勢で、彼女はこちらを見据えていた。

 ああ……オレは今、殺されたのか。

 彼はやっと、自分が首を刎ねられたのだと理解した。同時に、宙を舞った頭蓋は路面へと打ち付けられ小気味の悪い音を響かせた。
 彼が最後に見たものは、暗殺者を暗殺してのけた少女騎士が、相手を殺した感慨もなく背後に立つマスターであろう男へと振り返る姿だった。



+++


 切嗣の作戦は完了した。

 自らを囮にし敵を誘き寄せ、セイバーに打倒させる。そう言えば単純な作戦だが、こうも巧く行くとは思っていなかった。いや、逆に簡単に事が済みすぎて、余計に猜疑の念が沸いてくる。

「敵サーヴァントの排除を完了しました……マスター?」

「舞弥、言峰綺礼は?」

 セイバーの報告を無視し、予備として拵えてあった使い魔の眼を借り戦場を俯瞰している舞弥に問う。相手がアサシンであった以上、セイバーが相手では話にもならないのは分かりきっていた事だが色々と解せない点が多すぎる。

 あの程度のサーヴァントに舞弥の監視網が破られたのか? 仮にそうだとしてもあの一体でどうやって全ての眼を潰したというのか?
 思考に意味はなく、迷路を脱す解はない。回答を齎せる者がいるとするのなら、それは言峰綺礼以外に有り得ない。

『対象を捕捉。新都の奥……南方に向けて疾走しています。恐らく、冬木教会が目的地かと思われます』

 サーヴァントを失ったマスターが教会……監督役に保護を求めるのは至極当然だ。サーヴァントを失ったとしても再度はぐれサーヴァントと契約する可能性はゼロではないし、そんな可能性を内包する敵を生かしておく理由はない。

 だからサーヴァントを失ったマスターは教会に保護を願い出る。その地以外に、脱落者の安全を約束する場所はないのだから。

 それは裏を返せば、教会に保護されてしまっては手が出せないという事だ。中立地帯を謳う教会での戦闘行為は御法度なのだから。

 言峰綺礼を捕らえるには彼が教会に辿り着く前に確保しなければならない。たとえこの一連の戦闘が茶番であったとしても、事実としてサーヴァントは消滅したのだから言峰綺礼は教会の保護対象者だ。

 ……キナ臭すぎるな、言峰綺礼……!

 胸中で吐き出し、舞弥よりの報告を受けると同時に切嗣は駆け出した。

 何より行動が迅速すぎる。まるでアサシンが敗北する事を事前に知っていたかのような撤退の早さだ。これで疑うなという方がおかしい。

 距離的に考えれば追いつくのは難しいだろう。この状況を見越しての行動なのだとすれば尚の事だ。それでも追わない理由はない。追いつける可能性がある以上は。

「マスター? 何処へ……」

『セイバー、敵マスターを捕捉。逃走中です。追走し撃破して下さい。進路は南東、標的の逃亡先は住宅街を抜けた奥にある冬木教会です』

「了解した……!」

 切嗣が駆け出した後、事態の把握出来ていないセイバーだったが、直後に舞弥からの通信を受け、疾風の速さで追随する。

「先行します。地理が不明なのでどちらが速いかは不明ですが、とにかくあの丘を目指します」

 言ってセイバーは地を踏み、ビルの壁面を蹴り上げ、空高く舞い上がった。ビルの合間を抜けていくよりはビルを飛び越えていく方が速いと判断したようだ。
 切嗣も置いていかれるわけにはいかない。切嗣がこの地点でアサシンに襲撃されたのは何も偶然だけではない。逃走用の経路確保として、足を用意していたからだ。

 疾走していた足を止め、ビルの陰に止めてあった車へと乗り込む。現代の技術を組み込みカスタマイズしてあるメルセデス・ベンツ300SLクーペのエンジンは既に温まっている。
 切嗣が乗り込むと同時に踏み込んだアクセルの加速を受け、夜の闇を斬り裂く疾走を開始した。



+++


 かつて代行者であった時代、言峰綺礼は狩る側の立場だった。

 主の教えに背く異端者を追い詰めその命を刈り取る。協会側と小競り合いがあったとしても、一方的に追われた事などそうはない。あったとしても、逃げ果せるだけの算段は常にあった。

 けれど今は違う。綺礼を追いかけるのは人外の極地に位置するサーヴァント。そして魔術師殺しと恐れられた暗殺者なのだ。
 いつ背後より足音が響くかと警戒を緩める事は許されず、サーヴァントならばそれこそ眼前に降って沸いても何らおかしくはない力を有しているだろう。

 捕捉されればそれで終わり。綺礼はサーヴァントを失った事になっている(・・・・・)。故に誰からの助力も期待は出来ない。
 ただ己のみを頼りとし、追い縋る悪鬼と羅刹から逃げ切り教会に駆け込む。そんな聖杯戦争の敗北者を演じなければならない。

 駆け抜けた時間は五分か十分か。踏破した距離はどれほどか。綺礼にとってみれば永遠にも等しい時間駆け続け、ようやく、目的の場所へと辿り着く。

「止まれッ!」

「────っ!?」

 瞬間、闇に木霊する清廉なる声音。振り仰げば、風を纏い空を走ってきたのか見紛うほどの速度で白銀の少女騎士が姿を現す。
 止まれと言われて止まる者などそうはいない。事実綺礼も追い縋るサーヴァントを目視した瞬間、より強壮に足を衝き動かした。

 既に教会の敷地内に入っている。後数十メートルの距離、逃げ切る事が難しい筈がない。

 直後、滑り込んでくる切嗣のメルセデス。急ハンドルを切り車体を流しながら、開かれたウィンドウから差し向けられる黒の銃身。激しい揺れの中、定められた照準に寸分の狂いすらなく、綺礼の姿を射線状に捉え撃鉄は撃ち落された。

 メルセデスが乗り込んで来た刹那、綺礼は後ろを振り向かないまま僧衣の裾に腕を滑り込ませ黒鍵の柄を引き抜き、発砲音を聴いた直後に十字の刃を投擲した。

 切嗣が不完全な姿勢、それも車中からの最悪の状態から完全に綺礼を捉えた事が極技であるのなら、発砲音だけを頼りに寸分の狂いなく銃弾に黒鍵を当てて見せた綺礼のそれは絶技にも等しい。

 弾け飛ぶ銃弾と黒鍵。綺礼の足は止まらず、だがここにはもう一人──最警戒すべき敵がいる。

「やぁああ……!」

 黒鍵の投擲による時間のロス。その間隙を衝き、セイバーはとうとう間合いに綺礼を捉えた。振り上げた視えざる剣が敵を両断すると思われた瞬間──

 教会の門扉は内側から開き、綺礼は間一髪その隙間に身体を捻じ込ませ、セイバーの振り下ろした剣は木造の扉を破砕するに留まった。

「何やら騒々しいと思えば。ここは我ら教会の管轄地にして聖杯戦争における唯一の中立地帯だ。これ以上の戦闘行為は監督役として止めなければならない」

 璃正神父が姿を見せ、そう説いた。セイバーはその鋭き眼光で数秒見やった後、剣を何処かへと消失させた。

 璃正が内側から扉を開けなければ、綺礼は倒せていた。だがそこまで追い詰めながら倒せなかったのはセイバーの落ち度であり、綺礼に僅かばかりの運気があっただけの事。たとえそれが、予め取り決められていた策略であったとしても。

「失礼しました。標的が保護対象になった以上我々にこれ以上の戦闘行為の意思はありません」

「そうか。では私は脱落したマスターの手続きがあるのでな。これで失礼するよ」

 言って璃正は教会の門扉を閉じた。破砕され痛々しい傷痕を残した扉から、立ち上がった言峰綺礼が振り仰ぐ。
 その視線はセイバーを超え、その遥か後方──メルセデスの運転席に座する男へと向けられていた。

『────』

 無言の交錯。二人が初めてその視線を交わした時。

 どちらともが理解した。理性による理解を超越した所にある、言わば本能のような芯が全くの同時に二人の胸中に警鐘を鳴らした。

 ──この敵は。
   おまえにとっての仇敵であると──

 言葉など交わしていない。戦闘と呼べる行為ですらまともに行っていない。
 にも関わらず、ただ視線の交錯だけで二人は互いが互いにとってのあってはならない存在だと感じ取った。

 綺礼が先に視線を切る。今はまだ、脱落したマスターを演じなければならない。たとえ今後、あの男と対峙する機会があったとしても、今は関係はないのだから。

 切嗣もまた、綺礼を倒し損ねた以上この場に留まる理由はないと断じたのか、メルセデスを駆り街中へ向けて消えていった。セイバーもそれに追随するように消え去り、教会前の広場はようやく静寂を取り戻した。



+++


 その後、教会内でサーヴァントを失った事による保護を求める宣誓を行い、璃正もまたそれを了承し、綺礼は教会の奥にある客間にて、ようやく胸を撫で下ろした。

「ふぅ……茶番にしてはえらく骨の折れる仕事だった」

 事実、あと少しでセイバーに両断されるところだったのだ。璃正の機転がなければ綺礼は本当の意味で脱落していたのだから。

『すまないね綺礼。君には苦労をかけてしまった』

「導師……聞いておられたのですか」

 彼の目の前にある真鍮で形作られた宝石仕掛けの通信機が起動している事に気が付かなかった。それほどまでに、この場所に来て気を抜いてしまったのかと綺礼は今一度自身を引き締め直した。

『ああ、楽にしてくれて良い。君の当面の役割は終わりを告げたのだ、後はそこで保護されている振りをし続けてくれればそれでいい。無論、君の手駒にはもう少しばかり働いてもらう事にはなるがね』

「承知しております。その為にこんな猿芝居を打ったのですから」

 聖杯戦争においてまず最初に警戒するのはアサシンの存在だ。影に潜みマスターの背を穿つ暗殺者が跋扈していては他のマスターは自由に動けない。動こうとしない。そんな開幕直後の硬直を打ち破る為のもの。

 それがアサシンの『一体』を犠牲にする事で綺礼を、そしてアサシンを脱落者として扱わせる策略。それはここに功を奏した。
 これで綺礼は表向きサーヴァントを失ったマスターでしかなく、アサシンもまた姿を消したと思われ他のマスター連中は動きやすくなる。けれど存命中の『他』のアサシンは影で暗躍する。そういう仕掛けだった。

「しかし衛宮切嗣らを騙し切れるとは思いません。であれば、あの追走は有り得ない」

『いいのだよ。疑われる事など承知の上だ。どれだけ疑おうと所詮推測の域を出る事はないし、今宵の茶番を盗み見ていただけの輩には、背中を狙い撃たれては厄介なアサシンが早々に消え去ったようにしか映りはしない。
 何より──衛宮切嗣を挑発したいと言ったのは君だろう、綺礼』

 時臣の最初の策では彼自身のサーヴァントにアサシンを倒させるつもりだったが、それでは余りに茶番が過ぎると標的を変更した。
 あわよくばマスターの一人でも狩れればいいと期待していたが、流石にそこまでは高望みだった。それを置いておくとしても、時臣にしてみれば相手は誰でも良かったのだから、綺礼のその提案を退ける理由はなかったのだ。

『それで、感想は。件の魔術師殺しを君はどう見る?』

「噂通りの男のようです。人を殺す事に何の躊躇いも覚えない殺人者。手段を問わない戦いであれば、あれほど厄介な相手もいないでしょう。
 あの男には理念がない。あるのは勝利への執着だけなのですから」

 あるいは勝利への執着心こそが、あの男の理念へと通ずる何かなのかも知れないが。今の綺礼には分かりはしない。

「そして……恐らくはセイバーであろうサーヴァントも充分以上に警戒が必要でしょう」

『それは、私のサーヴァントを直に見た上での台詞かな?』

「はい」

『……ふむ。アインツベルンが誇りを金繰り捨ててまで聖杯を獲ろうという気概だけは、正しく本物なのだろうな。私に言わせれば、手段を選ばなくなった時点で彼らを同胞とは思えないがね。
 だが同時に、形振り構わない相手がいかに厄介かは、私自身良く知っている』

 時臣は正調の魔術師でありながら、凝り固まった魔術師然とした思考をしていない。時に柔軟に、時に大胆に。誇りと血統だけを重んじ他を侮蔑する無様は行わない。誇りを捨ててまで何かを得たいと考える連中の思考を理解するだけの頭がある。

『とりあえずはまあ、様子見と行こう。未だ所在の知れない敵も多い。足場は出来るだけ固めておきたいからな。
 アサシンの消滅を知った事で『見』に回っていたマスター達も動き出すだろう。我々の勝利の為には綺礼にはまだまだ働いてもらう事になるが、今はとりあえず羽を休めておくと良い』

「はい、導師」

『用件があればこちらから連絡する。綺礼──重ねて言うようだが、私の指示があるまでは無用な動きは謹んで欲しい』

「承知しております」

 それで通信機は動きを止めた。綺礼は伸ばしていた背筋をソファーへと凭れさせた。

「言われずとも動きませんよ。動くだけの理由が、私にはないのだから」

 言峰綺礼には戦う理由がない。未だ聖杯が何故こんな異物をマスターとして選んだのかと疑問に思い続けている。



+++


 遡ること聖杯戦争の始まる三年前。

 その時既に、綺礼は世界の全てに絶望していた。二年前に死病に憑かれた妻を亡くして以来、無為な日々を過ごしてきた。ただ淡々と、黙々と、下される命令に従い動いていただけの木偶だった。

 別段、妻に対して愛情があったわけではない。その後の人生全てを投げやりに過ごすだけの価値があの女にあったとは思っていない。
 しかし綺礼は妻の死の直前、己の闇を垣間見た。世界に紛れ込んだあってはならない異物だと、自分自身を理解した。

 それは自分を殺してしまいたくなるほどの異常。正視に耐えられない塵のような有様。それでも綺礼は自分を殺さなかった。殺してはならないと思ったのだ。
 だってここで綺礼が死んでしまえば、あの女の死が無価値なものになってしまうから。それを無価値にはしたくないと、心の何処かで思ってしまったのだから。

 それは全て過去に置き去りにした記憶。
 水底の奥に沈めたモノ。
 この時の綺礼はその当時の事を思い返さない。
 しかし自身が歪んでいる事だけは、把握していた。

 トリノにある遠坂家の別邸で父親である璃正に初めて遠坂時臣を紹介して貰った日。令呪の発現したその翌日の話。
 そこで綺礼は聖杯戦争に纏わる概略を聞いた。だからこそ、こんな己が聖杯に選ばれたなどという時臣と璃正の説明には納得がいかなかった。

「ならばこういうのはどうだろう。遠坂を勝者足らしめる為にその友人の息子である君が選ばれた」

 師はそう冗談交じりに言い、

「理由がない、なんて事はない。それは恐らく、君自身の心の奥底に眠っている祈りを聖杯が感知したのだろう。それは君が望む願いなのか、望まざる願いなのか、そこまでは私には分からないが」

「望まざる願い? それは願いと呼べるものなのですか?」

「人間の心というのはそう簡単なものではないのだよ。それを悪い事と知りながら、心の中で憧れている、なんて話は何処にでも転がっている。
 望まざる願いの全てが唾棄すべき悪だとは断じ得ない。単に自分には相応しくないというものも、これに含まれるだろう」

「…………」

「何れにせよ分からないのなら探してみればいい。無為に時間を過ごすよりも、有意義にはなると思うよ。無論、勝利は譲らないがね」

 朗らかに笑いながらそう謳い上げた。

 この令呪の発現に意味がある。綺礼の闇を知らない時臣の言葉には、すぐには同意出来なかった。
 たとえこの印に意味があったとしても、それはきっと世界にとって、この己以外の全てのものにとって唾棄すべき邪悪なものではないのだろうか、と。

「…………」

 とはいえ、綺礼には時臣と璃正の頼みを断るだけの理由がない。教会の意思に従うのも時臣に師事するのも変わりはない。
 誰かの意思によって動いている間は何も考えなくて済む。何かに打ち込んでいれば自らの歪さから目を逸らす事が出来る。

 既に主の教えとは決別した身だ、魔術師の門徒となる事に抵抗などない。

「一つだけ、お願いがあります。どうせ魔術を覚えるのなら、治癒系統のものを覚えたいのですが」

「ふむ。教会ではそれは特に異端とされる代物だが、何か理由でも?」

「いえ……」

 さしたる理由などない。あるとすれば、それはきっと、記憶の奥底に仕舞い込んだ筈の誰かの顔を、思い出してしまったからなのだろう。

「まあ、構わない。君が習得したいというのなら助力しよう。その他の魔術についても相性を見て覚えてもらう事になるが、構わないね?」

「はい」

「ならばこれで一時、私と君は同門だ。魔術師は他者に辛辣だが、身内に対しては甘いところがある。かと言って鍛錬に容赦をするつもりはないが。
 では────歓迎しよう、言峰綺礼。君はこれより、我らの同胞だ」

 そうして綺礼は、遠坂家へと招かれた。



+++


「今もってなお私には理由がない。戦う理由も、聖杯を求める理由も」

 時臣の支援に徹しているのは彼が父の友人であるからで、綺礼個人の意思ではない。戦う理由がない以上、時臣のサポートを行う事にも疑念の差し挟む余地はない。

 順当に戦いが進めば勝利するのは時臣だろう。最強にも近いサーヴァントと彼自身の実力を以ってすれば、時計塔の花形講師とて打倒し得ない敵ではない。

 もし時臣が敗れるとすれば……

「衛宮……切嗣……」

 視線を交わしただけで理解が出来るほどの異端。アレは、何処か自分自身と似ていると感じた。胸に渦巻いた感情が嫌悪であるのなら、それは同族を見初めたからなのかもしれなかった。

 六十億の人間の中にあって、自分唯一人だけ壊れていると思っていたのに、まさか他にもいるとは思ってすらいなかった。自分を特別だと思った事など一度もない。何かの間違いで生まれた異端者が、二人もいるなどとは想像もしなかっただけだ。

 衛宮切嗣が言峰綺礼と同じ闇を抱える外れた者であるのなら──

「私の心底が求めているという答えを齎すのは、おまえなのか……?」

 言葉は音となり空に消え、返る言葉は有り得ない。問うべきか問わざるべきか。聖杯が見出したという綺礼の祈りは、彼自身が知るべきものなのか。

 その解答は未だなく。
 解答を求めるかどうかすら定かではなく。

 言峰綺礼の迷いは、更け行く夜の中に今もこうして埋もれている。



[25400] Act.02
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:1d7b9b37
Date: 2011/10/10 21:22
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 明くる日。

 日も昇らない頃合より、切嗣は一人当て所なく街を彷徨い歩いていた。

 瞳はぼんやりと彼方を見つめ、明け行く空を映している。吐き出す息は寒さからの白ではなく、銜えた煙草より立ち昇る紫煙の灰色だった。

 思い返すのは昨夜の事。言峰綺礼のサーヴァントと思しきアサシンを倒し、脱落者となった綺礼を追い詰めながらに逃がしてしまった事だ。
 殺し損ねた事はまあ、いい。良くはないがとりあえずは置いていく。今考えるべきは一昨日から続いた一連の行動が何を意味しているか、という事だ。

 あれが演技であったのなら、綺礼は完全な安全地帯に身を隠した事になる。そしてアサシンもまた存命しているとすれば、厄介な事この上ない。
 セイバーが両断したアサシンは間違いなく消滅した。それを切嗣自身が確認している。だがどうしても、あれでアサシンが消え去ったとは思えない。

 未だ不可解なままの、舞弥の監視網を暴き破壊した手段。余りにも弱すぎたアサシンの異常性。段取りであったかのような綺礼の逃走の早さ。
 解せない点が余りにも多すぎる。こうして疑わせる事が相手の狙いなら、なるほどこちらはまんまと罠に嵌ってしまっている。

 何れにせよ、解の出しようのない問いかけだ。ならば当然、綺礼は未だアサシンを従えるマスターであるものとして行動すべきだ。

「ここまで全てが敵の目論見通りであるのなら……」

 言峰綺礼は今後、少なくとも今日一日は大々的に動かない。

 動いてしまっては昨日の策略の意味がまるでない。あの作戦を取った意味を想像するのなら、脱落者を装い自身は安全な場所に身を置きながらサーヴァントだけは自由に動かすという事。

 この時サーヴァントが他のマスター連中に姿を見られてはならない。見られてしまえば綺礼あるいは時臣の打った策が完全に暴かれてしまうから。

 今後アサシンの取るべき行動は隠密に徹し敵マスター、敵サーヴァント両者の情報を徹底的に収集し、確実な勝機を約束する事だろう。敵の背中を狙い撃つとしても、不用意には仕掛けはしまい。
 あるいは綺礼と時臣が繋がっているのなら、時臣のサーヴァントが勝てるだけの情報を集めさえすればそれでいい。

 そんな状況下、切嗣の取るべき選択肢は二つ。時臣と綺礼に固執し目下面倒となるこの二人の排除を優先するか。
 あるいは綺礼らの策を逆手に取り、相手が策に縛られている間に他のマスターを討つか。

「…………」

 小一時間ほど街中を彷徨ったが、やはり相手からのアプローチはない。呆けている様を装いながらその実周囲に糸を張ってみても掛かる獲物は一つとしていない。こちらには今、セイバーがいないにも関わらず。

 仮に今現在、アサシンが生存しておりこちらを監視しているとしても、やはり諜報に徹しているに違いない。舞弥が今一度使い魔を放とうとも不用意には破壊しない。破壊しては、意味がない。

 ならば────……

「手札(セイバー)の実力を把握しておくには良い状況か……」

 アサシンを一刀の下に葬り去ったセイバーだが、あんなものは戦闘を行った内にも入らない。
 戦いが両者の実力がある程度拮抗していなければならないのなら、昨夜のあれは虐殺にも等しい強襲だ。実力を判別するには物足りない。

 手にする剣の性能を確かめるには、相応の相手が必要だ。幾らそれが名剣の誉れを受けた業物だったとしても、それを己が目で見なければ切嗣は信用しない。

 昨日の一件は必要に駆られたからで、仮にセイバーが使い物にならなかったとしても切嗣一人が逃げ切る算段くらいは用意していた。そういう意味で言えば、今現在のセイバーに対する切嗣の評価は悪くはない。

 無論、それは道具の有用性としての評価だが。

 切嗣は昇り来る朝日を見つめながら、通信機に手を掛ける。無論のこと、相手は久宇舞弥だ。切嗣以上にこの街の現状を把握している彼女に問うべき用件は唯一つ。

「現在、拠点の判明している敵は」

 早朝にも関わらず間髪置かずに答えは返ってくる。

『御三家が一角遠坂時臣、教会に保護を受けた言峰綺礼。そしてロード・エルメロイことケイネス・エルメロイ・アーチボルトです』

「確か僕がセイバーを召喚した日、ロード・エルメロイは戦闘をしていたんだろう。その相手の所在は?」

『掴みきれておりません。ロード・エルメロイは追跡の結果、方角からある程度の目処をつけ周辺ホテルの名義を確認したところ、本人の名義でチェックインをしていたので簡単に割り出せました。
 もう一人の方──ウェイバー・ベルベットとそのサーヴァントは深山町方面へ飛行宝具で向かい、その途中に言峰綺礼に使い魔を破壊されてしまい、その後の追跡は不可能でした』

 おかしな話だ。ウェイバーなるマスターは外来に違いはない。その後に続いた舞弥からの説明によれば彼はケイネスの門下生であるという。ならばそんな外来の魔術師が、どうして深山町へと向かう。

 御三家のようにこの街に拠点を持たない魔術師の大概はホテルを使う。魔術師として土地を購入する場合、セカンドオーナーといらぬ悶着になりかねないからだ。
 過去にそういった例もあったと聞くし、切嗣自身も深山町にわざわざ一軒家を購入しているからそうであってもおかしくはない。

 しかしベルベットという聞いたこともない家系に果たしてそれほどの資金が用意できるのか。舞弥の話によればこの少年がケイネスの聖遺物を盗んだ可能性が高く、ならばそれは計画的な行動ではなく思い付きにも似た突発的な行動ではないのか。

 いずれにせよ詳細は不明。それ以外に考えられるのは、廃屋にでも身を潜めるか、住民の家を借用するか。

「…………」

 切嗣は少しばかり思案し、

「そのウェイバー・ベルベットというマスターについても、ある程度の拠点の絞込みは出来ているんだな?」

『はい。細心の注意を払い監視もしています。未だ網に掛かった様子はありませんが』

「ならばいい。今はまだ、な」

 遠坂時臣に仕掛けるのはまだ早い。奴を相手にするという事は言峰綺礼をも敵に回すという事。現状、詳細不明な相手を二人も敵に回すのは巧くない。ウェイバー・ベルベットについては言わずもがな。

「決まりだな。次の標的はロード・エルメロイだ」

 今を輝く時計塔の花形講師。生まれついての天才。名門を背負いし神童と謳われた一級の魔術師。典型的な魔術師としての思考をし行動をする男。それ故に読みやすく、同時に侮る事は許されない。

 わざわざ自身の名義でホテルに滞在しているのは自信の表れであり、ケイネスの人となりを表す指標の一つと考えられる。
 舞弥の話によればホテルの最上階一フロアを貸切にしているらしい。ならばその階層は既にケイネスの魔術工房へと姿を変えているに違いない。

 魔術師が他の魔術師の工房に迂闊に踏み込めば死を覚悟しなければならない。これはどれほど位階の高い人物であっても忘れてはならない魔術師の暗黙のルールの一つ。
 他人の領域に土足で踏み込む輩には、相応の報いを。研究成果に手を出そうものなら死よりも苛烈な地獄が顎門を開いて待っている。

 だが此処に在るのは魔術師殺し。工房に引き篭もった魔術師を殺害した事など、幾らでもある。

 けれどケイネスほどの高位魔術師の工房に挑もうというのなら、切嗣とて相応の準備が必要だ。しかし切嗣には時間がない。時臣と綺礼が『見』に回っている間に事の全てを済ませてしまいたい。
 そう考えれば、やはり猶予は一日──後二十四時間。

「…………」

 正攻法では、難しいか……?

 そう考え、切嗣は小さく笑みを零した。それは酷薄で、非情な冷笑。

「世界の全て、六十億を救う為ならば──」

 それが必要な犠牲であるのなら。
 ──僕はこの手を、無辜の人々の血で染め上げよう。



+++


 衛宮切嗣がサーヴァント召喚を行った屋敷に、その少女の姿はあった。

 手入れなどまるで行き届いていない庭園。打ち捨てられたかのような土蔵。埃が薄っすらと積もる母屋と離れ。彼女の姿はそのどれでもなく、道場にあった。

 セイバーがこの場所にいるのは単純に、この道場がもっとも汚れていなかったからだ。他の場所がほとんど掃除されていないのに対し、この場所は切嗣が買い取る以前の所有者が使用していたのか、さほど汚れてはいなかったのだ。

 彼女は今、戦闘装束とも言うべき甲冑を身に着けていない。

 霊体化が出来ないと判明したその夜に、舞弥はセイバーの為の衣類を手配し翌朝には屋敷へと届けていた。サーヴァントは現界しているだけで魔力を消費するし、具足もまた魔力で編まれている。
 余計な消耗はマスターに負荷をかける。何より、夜ならばともかく昼にあの格好のまま出歩いては、出歩かなくとも姿を見られては不審者として扱われかねない。

 その為、セイバーは舞弥が用意した衣類の入ったアタッシュケースからダークスーツを取り出し、身に着けていた。

 セイバーが身に着ければ男装にも見えるダークスーツ。切嗣と共に戦場を渡り歩いていた舞弥には今現在の日本のファッションなど理解出来る筈もなく、セイバーもまた衣装にそれほど頓着する性格でもなかったので、男装をした少女の違和感に異議を唱える者は皆無だった。

「────」

 広い空間。一面の床張り。冬の気配がしんと空気を凍らせる。その空間の片隅で、少女は一人瞳を閉じて瞑想に耽る。

 セイバーは自身を剣と断じている。マスターからの指示がない以上、むやみやたらと外出するのは巧くないし、そうする意味もないと思っている。

 たった一度の作戦行動──あれを共闘と呼べるかどうかは不明ながら、彼女と切嗣は巧く噛み合った。互いが持ちえぬものを補い合い、会話すらまともになくとも上々の結果を出して見せた。

 セイバーが剣であるのなら、切嗣は担い手だ。剣は主を認めた。彼ならば、この剣(わたし)を巧く振るえると。

 かつて彼女が戴いた称号を思えば、その扱いに憤慨を覚えても何ら違和感などない。しかし彼女自身がその境遇を受け入れている以上、否はない。

 ──この身は剣でいい。誰かの手によって振るわれ、敵を断つ刃であれば。

 王という称号はこの時代、この戦場に全くの意味を齎さない。やたらと自尊心を振りかざせば、待っているのはマスターとの軋轢くらいだろう。

 聖杯を手に入れる。

 その利害が一致している間は、彼と彼女の間に摩擦はあってはならない。不和は勝利への道を遠くする。

 是が非でも聖杯を。
 必ずや掴み取る。
 そうでなければ、彼女がこの時代に迷い込んだ意味がない。

「────」

 何かを考えていても、瞼の裏に蘇るのはいつも同じ光景。

 落日の丘。
 血と夕焼け、そして屍が染める紅の終着点。
 その戦いに勝者はなく。
 ただ血と涙だけが流された。
 戦いの終わりは凄惨にして苛烈。
 そして誰もが望みもしない結末で終焉を告げた。

 彼女はそれが、許せなかった。こんな結末を望んで選定の剣を引き抜いたのではない。個を犠牲にして王となったわけではない。

 誰かの笑顔が見たかった。皆が笑ってくれていればそれで良かった。だから嘆きと悲しみに彩られた終わりを、決して容認する事は出来ない。

 万物の祈りを叶えるという聖杯。その力を以ってして──

「私は必ず、祖国を救う」

 言葉にし、祈りをより強固なものとする。

 たとえその結末(ユメ)を、彼女自身が見る事を叶わずとも……
 この身が世界の戒めに囚われようとも……
 今の自分という存在の全てが、消えてなくなったとしても────……

 万難をその身で耐え、汚辱と苦痛に塗れてなお。
 彼女の決意に揺るぎはない。
 どんな言葉も彼女の心を震わせる事はない。

「聖杯を掴み、我が祈りを叶える」

 その為に必要な犠牲であるならば。
 ──私はこの手を、無垢な人々の血で染め上げよう。

 その時、セイバーが耳につけたままだった通信機に連絡が入る。同時に彼女は、閉じていた瞼を開き真っ直ぐに前を見据えた。

『次の作戦が決定しました。只今より作戦概要を説明します』

「はい」

 彼女の瞳に迷いはなく。
 視線は遠く──此処ではない何処かを見つめていた。


/2


 ハイアットホテル。

 その建造物は今現在、冬木市において完成している建物としては最大の高さを誇るホテルの名だった。
 無論、最大であるのは高さだけでなく、人員の質、内装、料理、金額。そのどれをとっても名実共にこの都市最高級のホテルと言える。

 未だ建造途中であり、完成の暁にはハイアットホテルの標高を抜き新都の目玉になると言われている通称センタービル。彼の摩天楼が積み上げられるまでの最上位。その至天──つまりは最上階に、彼らの姿はあった。

 上質なソファーに身を預けた男は血のように赤いワインを燻らせながら、遥か眼前に眩く輝く夜景を俯瞰していた。その様はまるで遊行に赴いた貴族のよう。彼からは、この戦場に身を置く者が持つべき緊張感がまるで感じられなかった。

 しかしてそれも当然と言えば当然だ。この階層(しろ)は彼の手によって創造された工房(ようさい)であり、傍らにはサーヴァント。何より己自身の才に全くの疑問を抱いていない。たとえ襲撃があろうと完膚なきまでに返り討ちに出来る算段があった。

 それがこの男──ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの比類ない自信だった。

「ねえケイネス」

 彼の対面で同じくワインを傾けていた女性が口を開く。彼女はケイネスの許婚であり自身も名門であるソフィアリ家の出自を持つソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ。その麗しい美貌には翳りが見えている。

「貴方の聖遺物を奪ったって子と接触して以来、ずっとこのホテルから出ていないけど。戦う気はないの?」

 許婚からの詰問。戦火舞うこの戦いの舞台で、穏やかにワインで喉を潤す男に問う。問われた男は、泰然自若の様を崩さぬまま軽やかに答えた。

「勿論あるさ。だが闇雲に戦火を広げたところで不利になるのはこちらだよ。他の連中の情報は完全ではないし、わざわざ出向いてやる理由はない。向こうから来るのなら別だが」

 戦えば戦うほど、晒さなければならない手札は増す。何処に盗人の目が光っているかも分からないままに無策で戦うほどケイネスは愚かではない。
 手札が暴かれ尽くしてしまえば、後に待つのは死でしかない。ならば日和見も時には必要だ。

 ウェイバーとの邂逅は偶然の産物であり、所詮は様子見。戦場となる冬木の調査と、相手が奴であろうとなかろうとサーヴァントの性能を見る程度で済ます心積もりであった。

 真に戦うのなら自らの用意した舞台でなければならない。必勝を確約した時でなければそれはただの蛮勇であり匹夫の勇。つまるところの無謀の極み。
 勝算もなく誰彼構わず相手取ろうとする連中の心中など、ケイネスには理解が出来ない。

 魔術師であり研究者であり、そして探求者であるが故の慎重さ。それを是と出来るだけの器がケイネスにはある。

 故に今現在、彼が戦闘を行うのならこの城でなければならないと考える。外で戦う時期ではなく──

「…………」

 ケイネスは僅かに視線を横に滑らせ、姿の見えない従者を見やる。

 彼の危惧するは彼自身のサーヴァント。本命ではない次善。そしてその逸話に過ちを犯した過去を持つ男。ケイネスは己がサーヴァントを信用していない。いや、その実力を妄信していないというべきか。

 緒戦、ランサーはウェイバーのサーヴァントとの戦いを優位に運んだが、あんなものは当然の結果。赤毛の王自身が言っていたように、王たる者の剣が騎士の槍の上を行くとは限らない。上を行く必要がない。

 見るべきものが違い、戦うべき相手が違うのだ。戦略を扱う君主と戦術レベルでの戦いを得手とする騎士とでは。

 それでもランサーの槍は優秀だろう。他のサーヴァント連中とやりあったところで、一方的に押し切られるという可能性は極めて低い。低いが、それは決して絶対ではないのだ。

 未だ姿すら見せぬサーヴァントの中に完全に格上の相手がいないとも限らない。そんな相手との戦いを想定しなければならない以上、手札は晒すべきではないのだ。

 格上に挑むのなら、未知という唯それだけの事柄が武器になる。

 だから今、戦うのなら他の連中の目が届かず、自分の実力を遺憾なく発揮出来るこのテリトリーで。他の連中が互いの尾を喰らい合う様を眺望しながら、向かい来る蝿を払えば当分は良い。

 そう既に決めているケイネスはソファーに身を埋める。

「……不満そうだな、ソラウ」

 対面の女性の顔に滲むそれ。ケイネスは聞かずとも良い事を、聞く必要のない問いを投げかける。

「そうね。私の置かれている状況を思えば、慮ってくれるのなら、むしろその不満も理解してくれるんじゃなくて?」

 ソラウの置かれている状況──それは彼女がこの場所に存在する唯一つの理由が、サーヴァントへの魔力供給の為、であるからである。

 ケイネスがマスターでありながら──令呪を宿しながら──魔力供給をソラウに行わせるという本来ならば有り得ない状況を組み上げたのは、無論の事ケイネス自身である。

 サーヴァントの基本ステータスを決定付ける要因は、マスターからの魔力供給量でありその多寡に比例する。最低限パスさえ繋がっていれば問題はないとはいえ、送り込める魔力が多ければ多いほどサーヴァントはその能力を底上げ出来る。

 しかしサーヴァントへの供給量を増やせば、当然術者本人が使用出来る魔力の量は減少する。聖杯戦争はマスターとサーヴァントの二人一組の戦争だ。そのバランスが傾けば、どれだけの強者であろうと脆くも崩壊する破目になる。

 故にケイネスはこの策を打った。サーヴァントへの魔力供給をソラウに任せ、自身は十全の魔力を温存する。ケイネスと他マスターが戦闘を行った場合、どちらがより有利かはこの時点で既に明白。戦うその前よりケイネスは相手の優位に立つ事が出来るのだ。

 この策に弱点があるとするのなら、それはソラウ自身に他ならない。彼女は名家の出とはいえ、その薫陶を授かれなかった者である。身に宿した魔の宿業は培われる事なく、ケイネスの人生に添えられる花として飾られるのみ。

 もし彼女が敵に狙われれば、彼女自身が身を守る術はない。最低限の礼装を持たせてはいても、そんなものは不慮の事故を防ぐ程度の意味合いしかない。明確な殺意と敵意に晒されてしまえば為す術もなく殺されてしまうだろう。

 だからケイネスは彼女の身の安全を案じた。案じたが故に、彼女の自由を束縛した。ならば彼女の不満と鬱憤も、頷けるというものだ。

「籠の鳥も構わないけれど。こういう生き方を受け入れてはいるけれど。だからといって私は置物じゃないの。この部屋から一歩すら出るな、なんて事、耐えられるわけがないじゃない」

「ああ、分かっている。分かっているとも。だがこれも全ては君の為だ。この階層は私の工房であり、万全の布陣を敷いてある。それでもそれは完全というわけではない。
 私の傍であり、サーヴァントの傍。そこが君の安全を完全に保障する場所なんだ、分かってくれ」

 君の為、そう言いながらケイネスの言葉の全ては自身へと向けられている。本当にソラウの身を案じるのならこんな戦地に連れて来る必要がない。こんな愚にもつかない戦いにそもそも赴く必要がないのだ。

 ケイネスに悪癖と呼べるものがあるのなら、それはこうした超越者としての自負。幼き頃より世界の全てを醒めた目で見る事を許された者だけが感じる虚無感。その穴を埋める為の享楽。

 何でも手に入り、全てが思うがまま、彼の想像の外に出る事無く続いた人生への、反感とも呼ぶべき童心。
 この戦いへの参戦は、そんな人生への反逆なのだ。この戦いですら、彼の埒外に相当しないなら、彼の人生はそういうものなのだと納得が出来る。そうせざるを得ない。

 この未だ明確な勝者なき戦いの勝者という栄光を、その栄光に塗れすぎた人生の最後の華として飾り、ケイネスはこれまで通りの完璧な自身のままその道程を終えるだろう。時計塔の歴史にその名を刻むだろう。

 だが願わくばこの戦いで、己の思惑を超えるものと出会いたい。
 そう、掛け値なしの天才……ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは思い──

 彼の理解を超えた怪物の足音は、もうすぐそこまで近づいていた。



+++


「……ソラウ。フロントに何か注文を入れたか?」

 ケイネスは不意に、何の前触れもなくそう問い質す。

「ええ。ホテルのレストランもエステも使えない、使うなって言うんだから、せめて食事くらい私の好きなものを頼んでも構わないでしょう?」

「ああ、それは構わないが……姿を見せろ、ランサー」

 音もなく従者はその姿を虚空から現す。若草色の戦闘服と、端正な面貌。目尻の下に輝くは、彼の命運を狂わせた魅惑の黒子──

「サーヴァントの気配はあるか」

「いえ。少なくともこの階層にはありません」

「ケイネス……まさか、敵?」

「ああ。どうやらそのようだ。巧く化けているが、私の網からは逃れられんよ」

 このホテルハイアットの最上階がケイネスの城であるのなら、当然この空間全てが彼にとって手に取るように分かる。

 階下との齟齬が出ないよう、またソラウの勝手にも対応出来るよう人払いの類は仕掛けていない。故にこの城は一般人でも容易に侵入は可能であれど、監視カメラより強力な目を張り巡らせているケイネスの視線からは逃れられない。

 つい今し方エレベーターより台車を伴い最上階へと踏み入れた者──このホテルの従業員の服装を纏った男を、けれどケイネスは敵と断じた。

 従業員の顔など把握しておらず、他の参戦者についても最低限の情報しか仕入れていないケイネスがそう判断を下した理由──それは彼の勘である。

 ケイネスは自身の直感を疑わない。研究者としての観察眼が捉えた、常人とは明らかに違う身のこなしや鋭すぎる眼光も、直感の前には霞んでしまう。いや、それらを全て含めた己の勘であるのなら、そこに疑う余地はない。

 これまでもそうしてきたように、ケイネスは自身の信じるものをこそ真とする。

「ふむ……この早期に敵の工房へと挑もうという輩がいるとは。それは果たして蛮勇か、それとも……」

 呟きながらケイネスは立ち上がる。ソファーの脇に置かれている壷が僅かに揺らめいた。

「敵はどうやらマスターだけのようだ。だがそれが囮ではない保障はない。ランサー、ソラウの守護は任せる。警戒を怠るなよ」

「御意に」

「では客人の出迎えへと赴こう。ディナーの前の良い運動になりそうだ」

 立ち上がったケイネスの後を追うように、巨大な瓶より銀色の液体が流れ落ちる。それは意思を持つかの如く自律し蠢き、

「Automatoportum(自律) defensio(防御) : Automatoportum(自動) quaerere(索敵) : Dilectus(指定) incursio(攻撃)」

 ケイネスが扉を開くその直前に唱えた起動の術式を受けて球体となり、僅かに跳ねた。

 数多の術式と罠を仕掛けたこの階層のどれよりもケイネスが信を置く礼装──

 それがこの『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』に他ならない。

 廊下へと躍り出たケイネスはそのまま視角外の目が捉えた台車を押す従業員へと視線を向ける。これより客室へと赴こうとしていた相手の男は、突然の遭遇に足を止めた。彼我の距離は裕に十メートルは離れている。

「その程度の変装で私の目を誤魔化せると思っていたのなら、少しばかり落胆せざるを得ない」

「…………」

「我が城へようこそ。歓迎するよ魔術師。だが魔術師の城へ足を踏み込むというその愚行の意味を解さぬわけでもあるまい?」

「…………」

 相手は何も答えない。これが本当にただの従業員であるのなら、ケイネスの詰問に目を白黒させ右往左往してもおかしくはない。無言、何の反応も示さないということはつまり、逆に己がこの状況に動じない者であると明確に告げている。

「ふむ……だんまりか。魔術師同士の決闘である以上、正々堂々と行うべきとこうして姿を見せてやったが……会話すらする気のない相手では意味もなかったか」

 たかが一魔術師を相手にする為に、わざわざケイネスが姿を見せる必要性はない。敵と断じた以上、工房内の術式を作動させればそれだけで粗方は終わらせられる。
 ケイネス自身が言ったように、こうして姿を見せたのは魔術師同士の決闘を行う上での最低限の礼儀であり、そして敵の工房に無謀にも──勇敢にも戦いを挑んだ相手への賛辞でもある。

 しかし相手がケイネスの意思に同調せず、魔術師としての礼を欠くのならば是非もない。ただ目前の敵を打ち倒すのみ──

「……良く回る舌だな」

 唐突に、これまで無言を貫いていた男が音を発する。

「ようやく喋る気になったかね? 人のテリトリーに土足で踏み込んだのだ、礼を欠かぬよう挨拶でもしてみせてはどうだ」

「ああ。これが僕の──僕流のやり方(あいさつ)だッ!」

 男は押していた台車を蹴り飛ばす。勢いを得た料理を載せたままの台車は車輪を回しケイネス目掛けて一直線に直走る。

「フン──scalp(斬)」

 ただそれだけの言葉で傍らに転がる銀色の球体へと指示を飛ばす。球体は一度跳ね、その形を変容させ、薄くしなやかな刃となり襲い来る台車を真っ二つに斬り裂いた。

 稚拙な挨拶だと思ったのと同時──後方にて爆音。月霊髄液が台車を斬り裂く音を掻き消すように、遥か後方の窓ガラスが大きな音を立てて破砕される。

 対衝撃の結界を敷設してあるこの工房は生半可な魔術では傷の一つもつけられない。魔術師がそれを成そうと言うのなら、相応の術式と時間が必要だ。しかしそれは──この工房の全ては、対魔術師を想定してのもの。

 その上を行く怪物達(サーヴァント)の攻撃に対する備えはない。そんな備えは物理的に不可能であり、そして無意味である事を、ケイネスは理解していたから。
 それでも結界は上等。たとえサーヴァントが相手であろうと突破は容易ではないレベルの城を構築した自信はあった。

 けれど誰が予想しよう。

 冬木市で現在最も高いとされる建造物の、それも最上階の窓を突き破り、都合二十四層にも迫る多重結界を一刀の元に打ち砕き襲い来る真正の怪物がいようなどと──!

「くっ──ランサー!」

 ケイネスが振り仰ぎ、敵の姿を目視すると同時に従者を呼ぶ。
 それよりも速く、若草色の英霊は扉を粉砕し回廊へと躍り出て、現れた白銀の鎧の剣士と己が主の間に立ち塞がる。

「はぁぁあああ……!」

 それをお構いなしとばかりに白銀の剣士──セイバーは視えない剣を振り上げる。
 同時、従業員を装った男──切嗣は目深に被った帽子を放り捨て、懐より一丁の銃を引き抜いた。

 セイバーが剣を振り下ろしたのと、切嗣が撃鉄を撃ち落したのはほぼ同時。

 セイバーの振るった剣は手にしたその剣を不可視にせしめている暴風を解き放ち、回廊中を蹂躙し──闖入者の登場に気を取られて切嗣への注意を疎かにしたケイネスの背を目掛けて魔銃の弾丸は放たれた。


/3


 剣の英霊の巻き起こした風により、工房の内装は無残にも粉砕され、破片と噴煙が立ち昇る。けれどセイバー侵入からの騒音は階下には漏れていない。未だ生きている遮音の結界がその役目を果たしているからだ。

 噴煙の中心に立つ魔術師──ケイネスは静かな声で、セイバーの風を二対の槍で受け流し、主を守護した従者に告げる。

「あのサーヴァントの足を止めておけ。倒せずとも構わん。優先するべきは、ソラウの守護だ」

「御意。マスターの健闘を祈ります」

「フン──誰に対してものを言っている。私はロード・エルメロイだ」

 主の言葉を受け、双槍の騎士は白煙の彼方へと姿を消す。

「さて──」

 これまで背を向けていた相手へと振り返る。ランサーがセイバーの相手を務める以上、ケイネスの敵は決まっている。
 背後からの銃弾を自動防御した水銀の礼装が形を崩す。どのような命令にも対応可能な球形を形作り、主の命を待つ。

 晴れていく白煙の先に立つ男の姿を、素顔をようやく目視する。

「ほう、貴様の顔は何かで見た覚えがあるな……確か、そう、魔術師殺しと呼ばれた男か」

 鷹の如き双眸がケイネスを射抜いている。握られた右手には白煙を上げるトンプソン・センター・コンテンダー。衛宮切嗣を魔術師殺し足らしめる魔銃。排莢は素早く、装填は秒を切る速度で行われた。

「噂でも聞いている。およそ魔術師らしからぬ手段で殺しを行う異端者。おまえを都合良く使う人間もいたようだが──」

 決闘など以っての他。狙撃を始め、毒殺、公衆の面前での爆殺、対象の乗った旅客機ごと爆破と切嗣の殺しの手段には枚挙に暇がない。しかしその全てに共通するのは、それらはおよそ魔術師の用いる手段ではないというもの。

 魔術師でありながら魔術を用いず、代用出来るものは科学の力で補う。純血に近しい魔術師ほど科学を忌み嫌い、その隙を衝くが如く衛宮切嗣は殺しを達成する。

 異端と呼ばれるのも当然だろう。本人はそんなもの、歯牙にもかけていないのだろうが、正しく純血たるケイネスにとっては忌避すべき敵に違いない。

 しかしだからこそ、ケイネスは今この状況に少しばかり違和感を覚えた。

「悪辣な手段で殺しを行う暗殺者風情が、どうして今回ばかりは姿を見せた? 貴様のやり方を慮れば、それこそ闇討ちが上等だろうに」

 そもそもの話、敵魔術師の工房に真正面から踏み込むという暴挙自体が理解不能。並の魔術師ではしない、出来ない事をするという点で裏を掻くつもりだったのかもしれないが、それでもやはり釈然としない。

 姿を晒したがる暗殺者などまずいない。せめて順当に考えるのなら、セイバーを囮に使い切嗣自身はケイネスの背を狙える位置に誘き寄せるべきだろう。それが切嗣のやり方だ。しかし今の状況は、切嗣自身が囮となっての決死行だ。

 ケイネスが工房内の仕掛けを最初に発動させていたのなら。
 有無を言わせずランサーを差し向けていたとするのなら。

 理に適わない行動、それも自身の生死に直結するものだからこそ、理によって稼動する魔術師であるケイネスにとっては不可解であり、同時に興味深くあった。

 故に思う。マスターとサーヴァント。どちらを使い潰すべきか、潰しの利くものかわからぬ男でもないだろうに。ならばその行動の真意を問う。

「そんなに自分が殺される理由が知りたいか」

「何……?」

「おまえはただの試金石だ。『今』の僕の性能を試すに丁度良い、な」

 差し向けられた大口径の銃口から放たれる弾丸は、またしても水銀の自動防御により阻まれる。磨き上げた鏡面のような球面を弾丸は滑り、壁の一角に穴を開ける。

「く、くは……」

 どろりと溶ける水銀の奥から漏れ出す吐息。

「くははははははッ!」

 それはケイネスの口から零れた哄笑だった。

「この私が、試金石……? このッ! ロード・エルメロイを指してッ!?」

 時計塔にその名を知らぬものはおらず。その勇名は轟くばかり。純血と確かな才を持ち合わせた生まれながらの天才を指し、外道に堕ちた魔術師が放って良い言葉ではない。

 ケイネスから見ればそれは何処までも思い上がり。一笑に附すか憤怒を以って襲い掛かって然るべき暴言。けれど──

「──面白い」

 彼は、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは、それをこそ望んでいたのかもしれない。

「私の名を知る者、力量を弁えている者は、まず私と争おうなどとは考えなかった。私の人生の中で魔術師同士の決闘を行った事など数えるほどしかない」

 そうして挑みかかってきた連中の全てを返り討ちにし、ケイネスは自身の名をなお轟かせてきた。

「私に挑んだ連中は彼我の実力差も測れない無能ばかりだった。だがこの私を試金石(ふみだい)と呼んだのは、貴様が初めてだよ魔術師殺し」

 無能は無能なりに、ケイネスが自分より位階の高い者だと弁えてはいた。彼らの無謀に理由があるとするのなら、ケイネスを倒した先にある栄光に目が眩んだか、自身の力を過信したか、そのどちらかだ。

 けれど切嗣はケイネスを下に見た。魔術師の位階が上であると知りながら、それでも切嗣はケイネスを自身の力を試す為の踏み台だと言い切った。
 暗殺者が真っ向勝負でも勝てる『程度』の相手だと、そう言ったのだ。

「これを面白いと言わずして何と言おう。このロード・エルメロイ──ケイネス・エルメロイ・アーチボルトを我が魔城で相手取り、打倒し、あまつさえ生還せしめるという、その蛮勇。私はそれを勇猛と讃えよう」

 ケイネスの瞳が妖しく鋭く眼前の敵手を射抜く。高まる魔力の波動、立ち昇る殺意の嵐は戦場たるこの魔城を包み込んで余りある。漏れ出す魔力に充てられたのか、銀の球体がその表面を波立たせた。

「しかして知れよ魔導の何たるかを弁えぬ愚か者。その勇猛をすら叩き伏せるからこそ──私はロード・エルメロイなのだ」

 それが合図だったのか、水銀が勢いよく跳躍する。中空に浮かんだそれは、まるで触手のように一筋の刃を標的目掛けて伸ばし、突き殺さんとばかりに肉迫する。

「…………」

 一直線に放たれるだけの刃。それはどれだけ鋭利であろうとも、目視可能で直線的な攻撃ならば回避など造作もない。
 そう判断し、半身をずらし攻撃の隙を衝くが如く左手に携えたサブマシンガンを放とうとして──

「scalp(斬)」

「……ッ!」

 主の命令を忠実にこなす従者のように、水銀は物理法則すら捻じ曲げて、鋭角にその刃を折り曲げた。

「ほう。躱してみせるか」

 鞭の撓りの如く伸び切った水銀は球体へと戻っていく。その刃先に付着した血液は、衛宮切嗣の肩口を斬り裂いた証明だった。

 もしケイネスの命令(コマンド)もなく水銀が自律して切嗣を狙うものであったのなら、それこそ頚動脈を切り裂かれていたかもしれない。
 切嗣が反応出来たのはこれまでに培った戦闘経験の賜物と、ケイネスが未だ様子見の体を残しているからに過ぎなかった。

 ──しかしここまで予定通りだ。ケイネスは余裕の体を崩していない。

 己の城で、自身の能力を信じているからこその過信。それも相手がまともな手段で戦わない外道であり、それが正面切って挑んで来たとすれば、その余裕はむしろ当然。そしてそれは切嗣の予想の通り。

 セイバーが強襲した際に放った魔風により、この階層に仕掛けられた呪的トラップは大半が損耗ないし停止している。
 ケイネスほどの魔術師が構築したものだ、それは精緻であり緻密だろう。しかしそれは裏を返せば、機械と同じように精密であればあるほど外的要因に脆いという事だ。

 遮音や人払いなどの破壊されては支障のあるものならばともかく、獲物を嬲り殺しにする為の仕掛けはケイネスがとことん手を入れている筈であり、故にそれらは既に沈黙している筈。

 ここがケイネスの城であろうとも、現在警戒すべきはあの水銀の礼装のみ。ケイネス自身が絶対の信を置き扱うあの礼装にだけ、今は注意を払えばいい。

「どうした? 仕掛けて来ないのか? 来ないのならばこちらから行くぞ」

 ケイネスの踏み込みに同調し、水銀もまた攻撃態勢へと移行する。

 まず切嗣が行うべきはあの礼装の性能分析。種さえ割れてしまえばどんな強力な礼装とて子供騙しの手品でしかない。
 そして何より、この戦いは勝利が第一条件ではない。切嗣が自身で発言したように、ケイネスを試金石とした己の性能を確かめる事がまず第一。

 セイバーが真に強力なサーヴァントであるのなら、相手が三騎士の一角たるランサーであってもそれほど猶予はない。
 限られた時間の中、切嗣が行うべき事は数多い。けれどその全てをこなし、この第一目標を突破する。

「固有時制御(Time alter)──二倍速(double accel)」

 衛宮切嗣にとっての真の緒戦。
 聖杯へと至る戦いの物語の幕が、今此処に開かれた。


/4


 衛宮切嗣とケイネス・エルメロイ・アーチボルトが対峙する場所より後方。
 未だ煙る白煙を、手にした紅の長槍で一薙ぎに払い、その双眸が見据えるは白銀の少女騎士。

「地上数百メートルに位置し、しかも我が主の多層結界が張り巡らされたこの魔城。如何にして突破した、サーヴァント」

「近場のビルより跳び、加速して一息に斬り裂いただけの事」

 近場とはいえランサーの知覚外からの跳躍であるのなら、数十メートルでは足りないだろう。百メートル以上離れた場所の、しかもハイアットホテルより背の低いビルより跳び、この多層結界を突き破るだけの加速を得て一刀の元に薙ぎ払った。

「なるほどな。その程度、楽にこなせてこその最優の剣の英霊(セイバー)か」

 相手が手にするは不可視の得物。刃渡りどころか柄さえも目視できない。それでもランサーは目の前の少女騎士をセイバーと断定した。

「私がセイバーだという保証はないぞ? この手にする得物、あるいは槍かも知れん」

「ハッ。今代のクラスにおいて、槍の御座に招かれしはこの俺唯一人。別段クラスに拘りなどないが、それは譲れん」

 ランサーは手にする二本の槍を翼のように広げる。紅の長槍と黄の短槍。対するセイバーもまた、下段に構えた不可視の剣の握りを強くした。

「最後に一つ、訊いておこう。セイバー、貴様の今宵の襲撃の目的は何だ」

「可笑しな物言いを。我らサーヴァントは聖杯を賭けて合い争う間柄。殺し合う以外に余地はない」

「そうではない。貴様は我が主の首級を奪いに来た一介の襲撃者なのか、俺の首を獲りに来た一人の決闘者なのか」

「…………」

 どちらも結果は変わらない。ケイネス・ランサー組の脱落を狙うという結果には何も違いはない。発端が奇襲であったとはいえ、こうして一対一で差し向かい合った以上、互いに剣を交える事は必定だ。

 しかしセイバーの目的がランサーの打倒ではなくケイネスの殺害であるとすれば、それはランサーには許容出来ない。主の剣となり盾となり忠誠を誓う従者。真に忠節を尽くす事。それこそがランサーの求めしもの。

 されど相手が騎士の礼儀に則り剣を執るのであれば、こちらもまたその礼節に応えなければならない。騎士を標榜する者として。騎士道の体現者として。

 故に問い質した。
 汝は我が槍の誉れを受け取るに相応しい勇者か。
 ただ首級を求めし英雄の成れの果てか。

「…………」

 セイバーは僅かに沈黙し、一瞬だけ瞳を閉じた。瞼に浮かぶ殺戮の丘を追想した。あの光景を覆す為ならば、手に執る剣の閃きに迷いなどない。あってはならない。
 たとえこの身が遍く騎士達の羨望を集めた身であったとしても。胸に秘めた祈りと天秤に掛けるのなら、その片皿は容易く傾く。

「私は勝利の為に剣を振るう。我が道を邪魔立てする者、その悉くを斬り捨てるのみ」

「……そうか。残念だなセイバー。貴様となら、尋常の勝負を競えるものと思ったのだが」

「名も明かせぬ戦いに尋常も何もないだろう。ランサー、私の道を阻むというのなら、まずはその首を落とさせて貰う」

「抜かせ。我が槍の閃きをその身を以って知ってなお、その大言を吐けるものなら吐いて見せろ──ッ!」

 風が奔る。全七騎のサーヴァントにおいて最速の男が疾風をすら置き去りにしてセイバーの喉元へと迫る。繰り出す一手は加速に物言わせた赤槍の刺突。
 黄槍よりもリーチの長いその槍で以ってして、サーヴァントの急所を一撃の下に抉り取らんと赤い閃光は迸る。

 目にも止まらぬ──否、目にも映らぬ神速の一撃。回避など以っての他。迎撃すら許さぬその渾身の一刺しを──

「──はぁっ!」

 セイバーは振り上げによる一撃で容易く撃ち落し、どころか即座に反撃に打って出る。

「ッ──!」

 鋭い踏み込み。振り上げた腕を強引に引き戻す。姿勢も十全ではなく、力に物言わせた単純なまでの、けれど圧倒的な暴力。その一撃でセイバーはランサーが防御に回した左の黄槍を弾き飛ばした。

 神速の初撃を難なく迎撃されたという事実に対する間隙。そしてセイバーの細腕からは考えられもしない程の膂力で振るわれた一刀は、後手に回らされたランサーの虚を衝くには充分すぎた。

 弾き飛ばされた黄槍が壁面に衝突した瞬間、忘我したランサー、無理な一撃を見舞ったが故の硬直を強いられたセイバー、どちらもが刹那をすら置き去りにする瞬きの停止状態から脱し、動き出す。

 ランサーに黄槍を拾うという選択肢はない。今眼前にあるは時に名を残し歴史に謳われた英傑だ。たとえそれが聖杯の奇跡に魅せられた類のものであったとしても、決して油断を見せて良い相手ではないとたった一合で理解した。

 片翼をもがれたランサーの一手は後退。セイバーが一歩踏み込んでいる以上、その場所は槍の間合いではない。己の得意とするフィールドへ、そして単槍となった赤槍を両の手で担う為の一手。

 対するセイバーは当然の如く攻めの一手。相手の武装を剥いだというこの好機をむざむざと逃すわけには行かない。

 ただ不可解なところがあるとすれば、それはランサーの得物。槍をそれぞれの手で担うという異端も異端の極地。そこに目を瞑るわけには行かない。しかしそれでも、セイバーに後退はない。

 前へ進むと決めた。後ろを振り返ればそこにある、惨劇を回避する為に。少女騎士は頑なに一歩を踏み込み死地にて舞う。

「はぁあああ──!」

 最速の後退を追う最優の前進。

 セイバーはその細腕に膨大なまでの魔力を上乗せして猛威を奮う。ランサーの黄槍を吹き飛ばすに足る膂力の正体こそが彼女の魔力放出のスキルに他ならない。
 単なる筋力ではセイバーはおそらく他のどのサーヴァントにも及びはすまい。けれど彼女が身に宿す膨大な魔力の加護を上乗せした一撃は、他のサーヴァントに引けを取らないどころか上回りさえもする。

「ぐっ──!」

 その証拠にランサーはセイバーと撃ち合う度に苦悶の表情を張り付かせている。刀身が見えず間合いが測りづらく、見誤れば致命を被りかねない。吹き荒れる魔力の風がちりちりと皮膚を擦過し威圧感を撒き散らす。

 そして何より繰り出される一撃の重さ。速度は重さとなり、魔力の密度は何処までも膨れ上がる。一刀一刀が必殺。何処までも強力無比な暴力。
 ランサーに奇策を講じさせるだけの思考時間さえ与えない絶え間ない連撃は、決して広くはないホテルの回廊を余波により無残なものへと変えていく。

 せめて間合いに踏み込ませぬよう、得物のリーチを活かし捌きに捌く槍の騎士。だが絶対的な不利は否めない。一槍であるが故に防御はこなせても、地形が槍を完全に振るうには狭すぎる。
 長槍である赤槍の利点が、この一時に限っては欠点として浮き彫りになる。

「──ふっ!」

 幾十幾百重ねたか分からない撃ち合い──否、一方的な攻防の中、セイバーは更に一歩を踏み込んだ。身を沈ませ、矮躯を最大限に活かした潜行。上段にて一撃を防がせた隙を衝く吶喊。

 その場所は剣の間合いであり槍の間合いの外。ランサーが槍を引き戻す間もなく剣の騎士の一撃がその身に見舞う──

「せぁあああ……!」

「……っ!」

 槍を引き戻し防御に当てる時間も、一歩を退く思考をも奪い去ったセイバーの一手。
 それに応えたのは最早本能の為せる業としか思えない、槍の騎士の見舞う躊躇のない踏み込みだった。

 槍の間合い(ミドルレンジ)。
 剣の間合い(ショートレンジ)。

 その内側。
 その場所は拳の間合い(クロスレンジ)。

 ランサーの槍は無論、セイバーの剣とて十全に振れぬほどの近接距離。防御は許されず、退く事も叶わなかったランサーの魅せた奇策。
 これならば、セイバーとて退かざるを得ない。そして後退すべく跳躍を果たした時、ランサーの槍は逃げる胴を薙ぎ払う。

「見事な剣捌きだ、セイバー。槍使いの俺にこの間合いまで迫ったのは、もしやすればおまえが初めてやもしれん」

 互いが攻め手を封じあった密接距離。鼓動の一拍さえも感じられるほどの間合いで美貌の槍騎士は嘯いた。

「確かに。私としても、まさか槍の担い手がこの距離に踏み込んでくるとは露とも思いはしなかった」

 口にするはどちらも賞賛。裂帛の連撃を繰り出したセイバー、捌き切ったランサー、そして策の読み合いもこうして膠着状態に持ち込まれたとするのなら、それは当然にして与えられる誉れだろう。
 名を明かす事も叶わず、勝利は己が為ではなく主の為のもの。栄誉も名誉もない戦場の只中、けれど二人はそれぞれの薫陶に敬意を払った。

「さて、どうする少女騎士。退けば我が槍がその身を斬り裂くは容易いが?」

 セイバーの魔力放出の加護を以ってしても、ランサーの初速を上回る事は難しい。中途半端に退けば今一度詰められ、大きく退けば槍の追従が待っている。

 攻守は此処に逆転した。戦いの主導権はランサーにある。セイバーに残された手はどう足掻こうが後退しなければならない。しかし──

「ならば私は、何処までも前に突き進む。まかり通るぞ、ランサー……!」

「っ!?」

 剣の騎士の総身から放たれる魔力の風。それは嵐となって吹き荒れ密接状態のランサーに対し猛り狂う。
 魔力放出はそれ自体が外付けのロケットエンジンのようなもの。セイバー本人の足場の状態の有無に関わらず、強引な加速を可能とする。

 ハイアットホテルに飛び移った時に、空中で無理矢理な方向転換、そして加速を行ったように。先の初撃を捻じ曲げ放ったように。今度は、セイバー自身を加速する……!

 強引かつ急激な加速はセイバー自身を後押しし、当然ランサーをもその加速に巻き込み膠着状態を打開する。半歩分の間合いが開けば、足場も充分に事足りる。セイバーは確かな踏み込みで渾身のタックルをランサーに見舞う。

「っく、はぁ……!」

 不十分な体勢でその直撃を被ったランサーは臓腑より息を吐き出し踏鞴を踏む。その隙を逃すまいと踏み込むセイバーに対し、ランサーは今度こそ後退を強いられた。

「此処は通さんぞセイバー! 貴様の剣を折るはこの俺の槍だ! 我が主に刃を差し向ける事など断じて許さん……!」

 後方への跳躍、そして反転。放たれた剣戟に応えるは激情に満ちた痩躯の槍。そこに僅かな違いがあるとすれば、赤槍に巻かれていた呪布が解き放たれているという事。セイバーの剣を利用し、ランサーは主に命じられ封じていた呪を解き放った。

 ──どうかお許しください我が主よ。
   けれどこの敵の剣は我が本領にて応えなければ御身の喉元に届きうる。

 今此処で、確実に仕留めておかなければならない……!

「はぁ───!!」

 真価を振るうことを許された赤槍が風を切る。撃ち合おうとしたその瞬間、セイバーの脳裏に閃いた直感は漠としていながら確かな現実感を以って未来を垣間見せる。

 振るわれた剣は中空で停止し、けれど繰り出された赤槍は止まる事はなく、剣を覆う風王結界に触れた瞬間、

「っ!?」

 吹き荒れる風。解け掛かった風の封印。槍の直撃こそ刀身で防いだものの、セイバーはその異常にとうとう後退せざるを得なかった。

「ようやく退いたか。何処までも愚直に前に突き進むその姿勢は好ましいが、度が過ぎれば猪のそれと違いはないぞ?」

「…………」

「そして見て取ったぞ。汝の振るうその剣の刃渡り。そしてその輝きを」

 風王結界にて剣を覆い隠しているのは何も間合いを欺く為だけではない。それはどちらかと言えば副次的な作用だ。
 真に隠したいもの──それは少女の手にする剣そのもの。余りにも有名で、余りにもその名が世に知られてしまっているその宝剣。

 それはその名を知るどころか、見られただけで真名まで解き明かされてしまう可能性が高い代物なのだ。事実、ランサーは一目見ただけでセイバーの剣と彼女自身の真名に理解を示したようだった。

「光栄だな、よもやあの伝説の王とこうして槍を交えられるとは。騎士の冥利に尽きるというもの。
 しかし貴様は言ったな、己の前に立ち塞がる悉くを斬り捨てると。なればこの戦いは決闘ではなく死闘。敬意は払おう、賞賛もしよう。だが決して、この俺の槍を折る事無く我が主に近づく事は許さんぞ」

 この首を刎ねる事無くケイネスの下へは行かせない──その一念のみでランサーは奮い立つ。主は言ったのだ、この敵の足止めをしておけと。既に一度封を解くという命令違反を犯してしまっているのだ、これ以上は決して譲れはしない。

 そしてその違反に許しを乞うとするのなら、手土産にこの敵手の首級を持っていかなければなるまい。

 間合いが開いた今、ランサーは赤槍をしかと構えなおす。刀身が掴めた以上、後手に回るつもりはない。魔力放出による一撃の重さは厄介なれど、やりようは幾らでもある。

 対するセイバーもまた封を纏った剣の握りを強くする。

「戦場がこの場所であった事に感謝しよう」

「何……?」

 この場所はケイネスの魔城。セイバーの襲撃により瓦解しかかっているとは言ってもそれでもあのケイネス・エルメロイ・アーチボルトが作り上げた城なのだ。
 ならばここには監視の目はない。他のマスター、サーヴァントはこの戦いを目撃できていない。つまり──

「貴様を倒せば私の真名は秘匿出来る。ランサー、やはり貴様には此処で脱落して貰う」

 ほとんど緒戦に近いこの一戦で真名を暴かれる事態になるとは、彼女自身思ってもいなかった。見られてしまったものは仕方がない。知られてしまったものはどうしようもない。だがここで知った者を倒してしまえば、後の戦いに影響はない。

 当然、自身がこの戦いで敗れるとは考えず。先だけを見据え続ける。
 それが彼女の強さ。
 脆さを覆い隠す為の、覚悟と意思。

「フン、何度でも言うが。我が閃槍を破ってから大言を吐け。では、第二幕と行こう。今度はこちらが機先を貰う──!!」

 若草色の風が奔る。
 両者の戦いの終わりは未だ遠く。

 もう一つの戦場の影響が、この戦地に届くのはもう間もなくの事だった。



+++


 ケイネス・エルメロイ・アーチボルトが衛宮切嗣に驚愕を覚えたのは、まさに戦闘が始まった直後の事だった。

 繰り出す水銀の刃は、先ほどは容易く捉えられた動きが今度は悉くが躱された。一目見ただけでそれと分かる異常。先ほどのこの男と比して、今眼前に舞う敵は明らかにその動きが違いすぎた。

 ──筋力強化? いや、そんな生半可なものではない。これは行動の加速……!

 時間操作。大魔術に相当するそれを衛宮切嗣が我流にて戦闘魔術へと昇華させた秘奥──固有時制御。
 自身の体内時間を外の世界の時間から切り離し、倍化鈍化と自在に操る固有魔術。

 今の切嗣は二倍速。ケイネスから見ればそのまま二倍の速度で動いているように、切嗣から見れば世界の全ての速度が半減したかのように感じられる。

 球形から伸びる呪操水銀の刃は既に五本を越えている。それら全てが変幻自在、縦横無尽にホテルの回廊を走り標的である切嗣目掛けて殺到する。
 けれど切嗣はその全てを回避してみせる。最初に斬り裂かれた肩口以外、怪我など一つとして負う事無く。どころか衣服にすら触れさせぬまま踊り続ける。それは舞い。ケイネスを嘲笑う演舞のよう。

「…………ッ、」

 狂ったように踊っていた切嗣が、回避に専念していた切嗣が、唐突に唇を噛み左手に携えていた短機関銃を乱射する。
 敵意に反応したのか、水銀は攻撃の手を止め即座に防御に回る。ケイネスには弾丸の一つとして届かぬよう、皮膜のように広がり盾となり全ての銃弾を叩き落した。

 その間に切嗣は二歩三歩と後退し、マガジンの再装填を済ませた後、自身を倍速化させている魔術を解除した。

「────制御(Release)、解除(alter)」

 同時、襲い来る激痛。固有時制御最大の欠点はこの使用後に来る反動だ。体内時間が外の時間に摺り合わされる時に起こるフィードバック。世界からの修正とも言い換えてもいいそれは、使用者に身の軋むほどの痛みを強いる。

 故に切嗣といえど可能な加速は二倍まで。三倍以上の加速を行えば、骨が砕ける程度では済むまい。やるとしても、それは後先を考えない最終局面以外では有り得ない。

 間合いを広げた切嗣は軋む身体の痛みに耐えながら、現状を観察する。ケイネスにしても自慢の礼装がこうも簡単に対処されてはすぐさま打っては出て来れまい。思考の時間は僅かながらにある。

 まず一つ。ケイネスの月霊髄液の性能評価。基本設定は自動での攻撃、防御。こちらの動きに反応して自在に姿形を変えての攻防を可能とする。ケイネスの命令があればそれを最優先に設定されている模様。

 固有時制御発動下ならば回避は容易。現状以上の攻撃手段がないとするのなら、距離を詰める事も可能。倒す事は決して難しくはない。こと相手が魔術師であるのなら、切嗣にとって敵などそうはいないが。

 第二に自身の性能評価。身体は動く。かつての自分と遜色のない程度には動けている。八年のブランクは、覚悟と舞弥との過酷な戦闘訓練で勘を取り戻せている。これならば、たとえ不得手の相手とて遅れを取る事などそうはない。

 そして第三──

 切嗣は胸に押し当てて動悸を抑えていた掌を見る。

 ──やれる。これは想定の通り。
   かつての自身にはなく、今の自身にはあるこの状態ならば、恐らく────

 魔術師殺しが思考している間、ケイネスもまた現状を備に観察していた。

 暗殺を生業とする男が姿を見せた理由。ケイネスとの直接対決に臨んだ理由に得心が行った。
 行動の加速。動きの倍化。常人を遥かに上回る体術を可能とするこの魔術があるのなら、大抵の魔術師を翻弄することなど決して難しくはないだろう。

 魔術師など所詮研究者だ。魔術を手段とする戦闘者を相手取ること自体が、そもそもの間違いなのである。それも衛宮切嗣ほどに死線を渡り歩いてきた者ならば尚の事。故に単純な殺し合いでは、ケイネスは切嗣に及ばない。

 それを理解し納得する。ケイネスは誇りよりも理を重んじ、決して目の前の現実を見誤らない。

 だがしかし──それでもケイネスは退く足を持たない。彼は研究者であり探求者。それが戦闘者に勝てないと、一体誰が決めたのだ?
 全てを観測し観察しろ。動きの隙間を縫うが如く。一筋の活路を見出すが如く。ケイネスが唯一切嗣に対抗出来るのは、その頭脳に他ならないのだから。

「ふむ……なるほど。理解し、そして了解した。魔術の薫陶を踏み躙り、下賎な手段に貶めた貴様だが、その能力には敬意を払おう。並の修練では、それほどの魔術は習得することなど出来はすまい」

 時間操作は大魔術。およそ戦術レベルでの運用など期待出来ない代物だ。それを戦闘魔術に昇華習得したその発想と応用力。その為に注いだ心血に、ケイネスは畏敬の念を以って応えた。

「だがそれでもまだ私を愉しませるには足りないな。想定の範囲内。私の認識を逸脱するにはまだ足りない。奥の手を持っているのなら早めに見せてくれ。でなければきっと殺してしまうぞ」

 ケイネスの右腕が標的に向けて動く。同時に跳ねた水銀の球体から馬鹿の一つ覚えのように刃が奔る。体内に鈍痛を残したまま、切嗣は固有時制御の呪文を口にし、襲い来る刃を回避した。

 直後──

「────なにッ!?」

 後方。全く意図していなかった方向から伸びた刃を回避せしめたのは、固有時制御を使用して以降、ケイネスの顔に張り付いていた渋面が、今や三日月の笑みを形作っていたからだった。

 厭な気配。そう呼ぶしかないものに反応出来たのは、かつての己を取り戻していた切嗣だからこそ出来た芸当だった。

 そして脳裏に過ぎるのは今の攻撃はどうやって行われたのか、という一点。セイバーの魔風に破壊されなかったトラップが未だ残っていたのかと勘繰って、視線だけを後方に向ければ、そこにあったのは銀の球形。ケイネスの繰る呪操水銀。

 当然、今なおケイネスの脇には先の一撃を見舞った水銀が転がっている。そして切嗣の後方には、全く同じサイズの月霊髄液が、いつの間にか存在していた。

 ──これほどの礼装を二つ同時に使役しているだと?

 手動で発動するタイプの礼装よりも、自動で機能する礼装の方が格が高い場合が往々にして多い。一々命令を下し発動するものに比べて、自動タイプのそれは複雑な命令系統と行動認識を設定しなければならないからだ。

 たとえそれが単純化された命令であったとしても、それを意のままに発動し切るには相応の維持魔力、そして煩雑な命令系統を完璧に制御下に置く才能が必要になる。

 流動物を自在に操るケイネスの特性は風と水。その複合属性を水銀に応用し高度な命令系統を自動で発動させている。そこに矛盾はなく、美しくすらある。

 だが解せない。ケイネスほどの魔術師が信を置く礼装。当然それは生半可な魔力運用では賄えない。彼がマスターであり、サーヴァントに魔力を供給している以上、そしてそれが今現在戦闘中であろうランサーに容赦なく吸い上げられているであろう魔力を鑑みれば、二つ目の月霊髄液など存在する筈がない。

 しかしそれは確固として存在し、二つの水銀は切嗣を挟み込む形で攻撃の瞬間を待ち望んでいる。

「悪いが種明かしなどする気はないぞ。何処ぞの三流魔術師ではあるまいし、自ら手の内を晒すほど私は愚かではない」

 言いながらケイネスは胸元へと手を伸ばし、掴み取った三本の試験管を見せ付ける。細い試験管の中に満ちるは銀の水。そのどれもが、ケイネスの繰る呪操水銀──!

「そら、躱し切れるものなら躱してみせろッ────!」

 砕かれる試験管。空中で踊り球形を形作り三つの小さな水銀球は地に落ち跳ねた。

 都合五球。大が二つに小が三つ。ホテルの回廊の中、その狭い通路の中で五つの水銀液が所狭しと舞い踊る。いかに倍速化していようとも、所詮は人間の為す事。動きには幾らでも制限はあるし、ただ速いだけでは躱し切れない死角が必ずある。

 究極──動きを縫い止めてしまえば如何に速く動けようが関係がないのだ。

 そして先の舞いの最中、切嗣がケイネスの礼装の性能を看破したように、ケイネスもまた固有時制御の限界を見定めた。加速していられる時間には限界があり制限がある。その時間が終わった時こそが魔術師殺しの末路だと了解する。

 しかして舞姫が踊りつかれるのを待つほどケイネスは悠長ではない。五つの水銀球から放たれる無数にして夢幻にも等しい刃の嵐の中、必死に回避し続ける切嗣を見やり、合図を送るように指を鳴らす。

 直後、二つの大きな呪操水銀が波立ち、津波の如くその身を堆く広げ被膜を形作る。包囲していた切嗣を包み込むように。

「…………ッ」

 銀の球体に捕らえられた切嗣に、為す術はない。動きが極度に制限された状況下では、固有時制御の倍速化など微塵の役にも立ちはすまい。

 この敵を以ってしても、ケイネスの理解の外には及ばなかった。しかしそれでも構いはしない。未だ敵手は五人五騎。その内の一人くらいは当たりがあれば構わないと、止めの一撃とばかりに水銀に被膜の内側への攻撃──さながらアイアンメイデンの棘の如くの千本針を見舞おうとした瞬間──

 ────それは起きた。

 ずん、という鈍い音。一瞬遅れた後に、襲い来る鳴動。振動は床を震わせ、天井に吊り下がる明かりを揺るがせ、回廊全体──否、このハイアットホテル全体をこそ大きく揺るがした。

「なに……? まさか────!」

 そう──ケイネスはこの一時、目の前の敵の悪辣さを見誤っていた。
 尋常ではなくとも、正面切って挑んで来た事を不可解に思いながらも、何処かでそれを当然と受け入れていた。

 だが忘れるな。
 目の前の敵手は衛宮切嗣。
 最悪の殺し屋。

 ターゲットを殺害する為ならば、旅客機ごと──その乗客ごと爆破しかねない男なのだ。

「貴様……このホテルごと爆破する気か────!」

 爆破解体(デモリッション)。

 主に高層建築などを解体する際に行われる発破技術で、横ではなく縦に、外ではなく内に倒壊させることで周囲への被害を最小に抑えながらの解体を可能とする高等な技術。
 要所の支柱をピンポイントで破壊する事で、建物の自重により崩落するそれは、地上より天上に昇る爆破の連鎖。

 小規模の爆破が連鎖的に支柱を破壊し、数十秒もあれば地上百五十メートルに及ぶこのハイアットホテルを破壊して余りある。

 最上階であるこの階層が揺れた意味──それはもう、残された猶予時間はほとんどないと告げていた。

 そんな刹那の中、ケイネスの思考は巡る。一秒を引き伸ばし、永遠に偽装して、自身の現状の把握に努めようと躍起になる。

 このホテルには未だ宿泊客が存在する。セイバーの襲撃の際に砕かれた窓ガラスは地上に落ちず自動修復されており、その際の爆音も遮音の結界により完全に遮断されていた。
 階下の人間にこの階層の異常を知る術はなかった。今置かれている現状ですら、地震かと思う程度であろう。

 ケイネスとて目の前に立つ敵が衛宮切嗣でなければ、崩落に巻き込まれていた可能性は低くはない。

 しかしそれでもそこまではしないと思っていた。何故ならば、衛宮切嗣自身がこの場に存在するからだ。まさか敵ごと宿泊客どころか、自分すらその爆破に巻き込もうとするなど思うまい。

 狂気の沙汰だ。
 常軌を逸している。

 敵を倒す為、聖杯を掴む為、この男は──衛宮切嗣は、その命すら賭して戦っている。

 決定的な覚悟の差。
 自身の命を勘定に入れない敵の存在など、本物の死地を経験した事のない天才は想定していなかった。出来る筈もなかったのだ。

 ケイネスが今為す事、為すべき事。それは自身の安全確保。そして許婚であるソラウの身を守る事。

「令呪に告げる! ランサー、ソラウを守護せよ!」

 戸惑う事無く三画しかない令呪を惜しみなく消費する。右手の甲に集う赤き魔力。令呪の一画を焦がし昇華させ、その命令は放たれた。

 ケイネスには月霊髄液が存在する。この礼装を以ってすれば、地上百五十メートルからのダイブとて無事着地してみせる。
 切嗣を覆っていた被膜が解け、五つの水銀球は一つに合わさりケイネスを包み込む最硬の盾となる。

「────」

 そして、この時を待ち望んでいたように。
 ケイネスが自身の身を守る為、魔力回路を最大限に励起させ月霊髄液を最大戦力で運用するその瞬間をこそ、切嗣は待っていた。

 トンプソン・センター・コンテンダーに篭められていたスプリングフィールド弾は刹那をすら置き去りにする速度で排夾され、次いで篭められたものこそ魔術師殺しの秘奥──起源弾。

 魔術師殺しという異名は切嗣が対魔術師戦においてその全てを対象の殺害で完遂した事実から名付けられたもの。
 しかしてその異名の真の意味──衛宮切嗣が魔術師殺しである本当の理由は、この魔弾にこそあった。

 その魔弾は、魔術師を殺す為だけの礼装。魔術師を魔術師足らしめる魔術回路を、完膚なきまでに破壊する事に特化した魔術師に対する銀の弾丸。

 ケイネスは呪操水銀の盾を展開し、令呪によってランサーをすら自らより遠ざけてしまった。故に今、彼は完全なまでの無防備。最硬の盾を纏おうとも、そんなもの、切嗣の前では紙屑も同然だ。

 今宵の戦い、切嗣の目的は敵の打倒は最終目標であっても作戦工程における一段階でしかなかった。最も確かめたかったもの──今の自身の性能を実戦の中で試す事が第一だったのだ。

 その為にわざわざケイネスの攻撃を受け続けた。反撃の暇は幾らでもあったが行わず、ただただ防戦に回り続けた。
 結果として得たものは確信。戦えるという確信だ。これでこの戦い、切嗣に憂いはない。

 後は確実に──敵を殺すだけの事。

 たった一人のマスターを殺害する為に、ハイアットホテルとその宿泊客を犠牲にする。それに心を痛める事はない。

 衛宮切嗣はこの戦いの後、六十億の人間を救うのだ。その為の犠牲として、数十人の無関係な人間が無意味に死んだとしても、天秤の針は揺るがない。片皿に載った大を救う為ならば、小を自らの手で殺し抜く事を、切嗣はとっくの昔に誓っているのだから。

 その犠牲により生まれる怨嗟も憎悪も悪意も全て。背負うと決めた。正義の味方であり続けるには、こんな生き方しか出来なかったのだから。

 ──全てを背負う。たとえそれが欺瞞に満ちたものであったとしても。

 引鉄を引き、撃鉄を落とす。撃ち出された弾丸は、展開する水銀の盾の中心に寸分違わず命中し、励起していた魔術回路に極大の負荷を掛け、完膚なきまでに破壊し尽くした。

「……ッ、…………がぁ!? ……、ぁ────……」

 事態が理解できないまま、ケイネスは身の内側から襲い掛かった激痛に苦しみ、血反吐を吐き、気を失い、水銀は崩れゆく床に波立ち落ちた。

 魔術師が、魔術によって敵の魔術を防御する。その当たり前の行動で敵の命脈を絶つ切嗣の秘奥は、予備知識がなければ防げない。
 けれど起源弾の性能を知る者は切嗣と舞弥以外に存在しない。魔弾の標的になった者は全て、既にこの世には存在していないのだから。魔術師然とする者ほど、魔弾の格好の餌食なのだから。

 此処に一つの戦いが終息する。
 後は崩落を始めたハイアットホテルを脱出するのみ。

 固有時制御の加速ならば、この最上階が地上に衝突する前に脱出する事など容易だ。
 水銀の海に崩れ落ちた『試金石』には目もくれず、衛宮切嗣は主を失った魔城より離脱した。



+++


 切嗣による爆破解体が引き起こされるその少し前。

 セイバーとランサーの演舞は未だ続いていた。互いに繰り出した剣刃は既に幾合を数えたか定かではなく、彼らの中心に咲く火花は無数にして無尽。百花繚乱に狂い咲き、終わる事無く尚堆く衝突を繰り返す。

 勝負は拮抗しているかに見えるが、その実優勢なのはセイバーだ。
 魔力の後押しを得た剣戟の威力は十全の威力を発揮出来ないランサーのそれを上回る。これが撃ち合いである以上、ものを言うのは一撃の重さだ。

 無尽に繰り返される乱撃の中、セイバーの重く強烈、それでいてなお手数で劣らない連撃は、ランサーの体力を徐々に奪い、その身体に傷痕を残していく。

 速力でこそランサーが上回るものの、その他全てのパラメータがセイバーの方が上。基礎スペックで他を圧倒する、奇策など必要としない強さ。それがセイバーのクラスが持つ強みである。

 戦場がこの狭い空間内で、自慢の足も得物のリーチも十全に活かせない戦場では、セイバーに分があるのは当然だ。

 しかしてそれを拮抗に見せかけているものこそ、ランサーの赤槍の放つ特殊能力。触れたものの魔力を断つ破魔の槍。
 時折セイバーの鎧を掠める時、その矛先は鎧の強度を無視し、彼女の身体を抉り取る。

 魔力で編まれたもの、魔力で維持されたものの全てが、あの槍の前では丸裸にされてしまう。風王結界も今や完全に解かれている。剣先と矛先とが触れ合う度に風が巻き起こってはまともに戦う事も出来はしないし、無駄な魔力を消費するだけだからだ。

 主の下へと向かわせない。防戦による足止めに専念するランサーだからこそセイバーの猛攻を押し止められている。
 この状況を打開する術はある。この槍騎士が担うは破魔の赤槍だけではない。初撃にて弾き飛ばされた黄槍。それが今、戦闘の余波を受け転がり、手を伸ばせば届く距離にまで近づいている。

 しかしその黄槍に意識を向けた瞬間、セイバーはその隙を見逃さずランサーに渾身の一撃を見舞うだろう。仮に致命傷は避けられても、絶対的なダメージは避けられない。

 起死回生の一手を打つ為に決死の策を弄するか。
 このまま足止めに終始し主の命令に従うか。

 二者択一の選択を迫られているその時、その振動は階下より響き渡った。

 両者は訝しみながらも振るう手は止めず。けれど直後、ランサーの身に起こった奇跡に、どちらともが瞠目した。

『令呪に告げる! ランサー、ソラウを守護せよ!』

「何ッ……!?」

「……これは!?」

 令呪による強制命令。防戦に終始していたランサーは意の外からの命令により渾身を超える一撃でセイバーの剣戟を弾き飛ばし、瞬間、その身は戦場より消失した。

「……ここは……何が…………」

「ランサー!?」

 短距離の跳躍。次元の壁を超えて行われたそれは小規模の奇跡とも言える令呪の為せる業。ランサーが理解を得ぬまま踏み締めたのは主の部屋。ソラウが身を隠していた部屋だ。
 そして雷鳴のように総身を包む絶対遵守の命令が、ランサーが次に取るべき行動を否が応もなく決定させた。

「ソラウ様、今は一刻も早くこの場を離脱します」

「何? 何が起きているの? この振動は何?」

 こうして話している猶予などない。既に崩壊は起こっている。今にも足場が崩れても何らおかしくはない現状なのだ。

「失礼。無礼をお許し頂きたいッ!」

 ランサーはソラウの肩を抱き、抱え上げるようにその身を腕の中に収める。従者の突然の所作にソラウは目を白黒させながら、それでも美貌に宿る苦悶の表情を見やり、任せるままに腕を大きなその背に回した。

 ソラウを抱えたランサーが地を蹴り、外へと身を躍らせようとしたその瞬間、

「待てッ!」

 爆音を轟かせ、セイバーは俊足の踏み込みで部屋へと押し入った。

 如何にセイバーの知覚範囲が狭くとも、ここは同じ階層に存在する場所だ。令呪の奇跡によってその身を消失させようとも、出現と同時にセイバーはランサーの消えた先を感知しその後を追いかけたのだ。

 先の振動、そして迫る崩落の足音。ランサーの様子を見る限り、これは彼ら陣営の策ではない。ならばそれは切嗣の弄した策。敵マスターを葬る為の、確実に抹殺する為のものに違いない。

 ならばこの己もまた、敵であるランサーの首級を易々と逃がすわけにはいかない。

 ランサーはソラウを守護せよと令呪によって命令されている。そして彼女を抱えてる現状でセイバーの相手など務まる筈がない。故に逃げの一手。悔しくとも、情けなくとも、この場は撤退以外に有り得ない。

 しかし────

 刹那にランサーの総身を舐めたのは、主の火急を告げるシグナル。ケイネスは自身の安全を確保した後にソラウを守る為ランサーに命令を下した。
 しかし今、ケイネスは予期せぬ事態に襲われ、衛宮切嗣の魔弾に撃たれ、その命を最大の危機に晒していた。

「はっ、──かぁ……!!」

 言葉にもならぬ絶叫。ソラウを守れという令呪は未だ生きている。故にケイネスは即死ではない。だが眼前には最優を誇るセイバーがいる。この敵を退け、ソラウを守り、令呪に逆らいケイネスを助ける? この、一秒をすら争う状況で?

 不可能だ。

 そう理解した、理解してしまったが故の声にならぬ叫び。自らに課した役割を全うできぬ事に対する慟哭。吼え上げたい声を抑え付け、血の涙を流しながら、その美貌に憤怒の鬼を宿し騎士は射抜く。

「覚えておけセイバー……おまえは、貴様だけは、この俺が必ず殺すッ!」

 セイバーが踏み込みを躊躇するほどの怒気。何処か涼やかな風を纏っていた槍騎士に、今やかつての面影は微塵もない。
 主の最期の命令を守る為、その主の命を犠牲にしなければならないその矛盾。忠誠を誓いし主に背を向け、若草色のサーヴァントは夜の闇の中に消えていった。

「…………」

 後を追うように、セイバーもまた戦場を去った。
 その胸中を推し量る事は、誰にも出来なかった。



[25400] Act.03
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:f5588bc9
Date: 2011/11/02 20:47
/1


 闇を斬り裂く赤い光。
 夜を引き裂くサイレン。
 響き渡る誰かの怒号。
 何事かと群がる野次馬。
 統制を取り、状況を鎮めようとする公僕。

 繰り返される安否確認。
 呼ばれる名前。
 応える声は、当然にして無い。

 待機している救急車に搬入されるのは偶然にもホテルの倒壊に巻き込まれず、不運にもあの時、あのタイミングでこの場所を通った通行人ばかり。
 『事故』に巻き込まれた者、当時ハイアットホテルに宿泊していた宿泊客の中に生存者などいなかった。

 倒壊当時、ホテルの中にいて生存しているのは、仕掛けを行った張本人である衛宮切嗣と人外であり脱出可能だった二騎のサーヴァント。そしてその内の一騎に抱えられ離脱したソラウ・ヌァザレ・ソフィアリのみ。

 ランサーのマスターであるケイネス・エルメロイ・アーチボルトについては未だ生死不明ながら、その生存は絶望視されている。

 彼の相手があの衛宮切嗣であった事、そして彼女──今こうして武装を解き、野次馬に紛れながらハイアットホテル『跡』を見つめるセイバーが最後に見たランサーの姿を思えば無理からぬ事だった。

「…………」

 ダークスーツに身を包んだ少女は無機質な瞳で空を見上げていた。かつてその場所にあったものを、回顧するように。
 そして唇を強く噛み締めた。自らの為した事、自らのマスターが為した事。その意味を考えて。

 かつて彼女が王であった頃、これと同じ事を為した事があった。
 海の向こうより襲い来る蛮族共を迎え撃つ為、戦支度の為に村の一つを潰すほどの徴税を行った。

 結果戦いは勝利に終わる。大局的に見ればそれは国というより大きな母体を守る為に小さな犠牲を強いただけ。それでもその村で暮らしていた民の生活を、命を犠牲にした事には変わりがない。

 彼女に仕えた騎士の中には、その犠牲を是としない者も多かった。犠牲などなくとも我らは勝利し得ると。

 確かにそうだったかもしれない。
 犠牲など払わずとも勝利出来たかもしれない。

 しかし王であった彼女には、理想で在り続ける事を望まれた王には些細な過ちさえ許されなかった。

 僅かでも勝利する可能性を上げられる手段があるのなら講じるべきであり、そうしない王など暗君だ。国を保ち多くの民を守る為ならば、その民の少数を犠牲にする事は決して間違ってはいない──

 大儀の為に少数を斬り捨てるその行為。規模の大小、程度の差こそあれ、衛宮切嗣のやり口と生前のセイバーのやり口は一緒だ。

 それを誤った事だと思ったことは無い。そうする事が最善だと考えて、行動に移しただけだ。そこに悔いや迷いを残しては、犠牲となる者に向ける顔がない。

 誰に咎められ、誰に罵られようと、歩みを止める事はなかった。彼女には為すべき事があったから。
 今もそう──聖杯を手に入れるという大義名分、祖国を救うという大いなる免罪符があるのだから、この程度の犠牲に心痛める必要など何処にもない。

 ──ああ、ならば何故、この私は目の前の光景に、こうも胸を締め付けられるのだろう。

 誰かが泣いている。誰かが喚き散らしている。倒壊の犠牲者に知り合いか家族でもいたのだろうか。
 彼ないし彼女らの想いは誰に届くこともなく葬られるのだろう。このホテルの倒壊は恐らく、教会の手によって揉み消される。

 正確には、事実は歪曲され世に出る事になるのだろう。真犯人は捕まらないし、事故の原因は全く無関係の誰かに押し付けられる。今も現場で動いてる人間の幾人が、あるいは全員が、教会の息のかかる者であってもおかしくは無い。

 ならば彼らの嘆きは何処に消えていくのか。行き場の無い想いは、誰が受け持つと言うのだろうか。

 これが切嗣の独断による策略でなく、セイバーに了解を得てのものだったならば、また違う感慨もあったのかもしれない。
 事前にそうと分かっていれば、幾らでも覚悟を決められる。かつて自身がそうだったように。

 しかし今回に限っては、セイバーは何も知らされていなかった。切嗣のサポートを務めるという女人からはハイアットホテルに強襲をかけるまでの作戦工程しか聞かされていなかった。

 ああ、そんなものはただの言い訳に過ぎない。衛宮切嗣のやり口を思えば、残虐ではなくとも、冷酷で冷徹で非情なあの男ならば、この程度やってのけてしまっても不思議ではなかった。

 彼の祈りをセイバーは知らない。人からは洗い浚い聞き出しておきながら、自分は何一つとして語らない。
 しかしそれも許容しよう。セイバーは彼をマスターと認め、自身は剣であると断じたのだから。担い手のやり方に、決定的な断絶が生まれない限りはケチをつける気など毛頭ない。

 最終的に聖杯が手に入るのであれば──それで構いはしないのだ。

 無意味な犠牲を強いるのならば反発も有り得るが、犠牲の上に結果が成り立つのなら否定のしようとてない。
 戦いには犠牲が生まれる。幾多の犠牲の上に勝利がある。かつて国を守る為に戦った時もそうであったように、この戦いとて無血での勝利など有り得ない。

 出来る限り犠牲を抑え、最大限の結果を生む。聖杯を手に入れる代償に流れる血が、自分自身だけのものだなんて傲慢だ。こんな街中が戦場になっている以上、決して流れ零れる血は少なくないのだ。

 しかし──ああ、それでも。いや、だからこそ。

 屍の上に輝く勝利という名の栄光を前に、セイバーはその輝かしさにではなく、血に濡れる屍の嘆きにこそ心奪われた。

「…………」

 かつて自らの行った所業。
 勝利の為に犠牲を強いるその行い。
 それをこうして客観的に見たのなら。

 目の前にあるこの光景を、嘆きを。
 王としてではなくただ一人の少女として見つめたとするのなら。

『王は、人の心がわからない』

 そう、かつて理想の王に、理想で在り続ける事を望まれた王に吐き捨てた騎士の事を、少しだけ思い出した。

 追想は刹那に消え、少女はすぐに剣へと立ち返る。
 未だ敵手は健在。戦いの趨勢など全くといっていいほど定まっていない。

 緒戦にして手応えは上等。この身は他の英傑と比してなお劣る事は全く無い。戦える。勝利を掴み得ると確信した。故に歩みを進めよう。屍の丘を踏み越えて、その上に輝く聖杯を掴み取る。

 この手を誰かの血で染めて、心を嘆きに塗り潰されながら。それでも彼女は原初の決意を違う事無く、ただ前を見据えて進んでいく。

 その時、彼女の耳元で電子音が鳴り響く。切嗣とセイバー両名を繋ぐ中継役。少女はその名を知らないが、舞弥からの通信が届いた。

『セイバー』

「はい」

 雑踏を離れながらセイバーは応える。名も知らぬ彼女からは先の戦いにおける労いの言葉もない。それを当然と受け入れて、少女もまた無機質な声を返した。

『これより指定する場所に移動してください』

 無駄のない、ただそれだけの指令。恐らくは切嗣の言葉を代弁しただけのものだろう。セイバーもまた無意味な返答はしなかった。何故、どうして。そんな疑念を差し挟む余地などないと理解していたから。

 彼女のマスターは残虐でなくとも非情で冷酷で冷徹な男だ。
 そんな男だと知っているから。
 そんな男が、ケイネスの命一つ獲ったところで満足する筈がないと思うから。

「了解した。この夜の内に一組、脱落させましょう」

 生き残った者達の命に幕を引く。
 詰まるところこれはただの、残党狩りだ。


/2


 冬木ハイアットホテルのある新都駅前広場より北方。回転する灯台の明かりが照らす、暗闇の海を臨める埠頭近くの廃工場に、その主従の姿はあった。

 闇に紛れて戦場より離脱して数刻。ランサーは無論の事、未だ事態を正確に把握出来ていなかったソラウもまた、あのホテルより他の場所に当てなどなかった。

 故に槍騎士はせめて人気の少ないところへと、こんな寂れた場所に身を隠す事にした。

 ケイネス、ソラウのかつての生活環境を思えばこんな煤と埃に塗れた場所など拒絶されても仕方の無いものと思っていたランサーだが、ソラウはすんなりとこの場所に身を潜める事を了承した。

 そこに僅かな不可解こそあったものの、言葉にはせず、二人は工場内の一室でようやくの安堵の息を吐いた。
 その後、従者は主の顛末をその許婚に語り聞かせた。あの戦場で起こった事の全て。およそ己の知り得る全てを吐露した。

「…………」

 聞き終えたソラウはただ、呆と虚空を眺めていた。そこにどんな想いがあるのかは、ランサーには計り知れない。

 ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリにとって、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトとの婚姻は半ば約束されたものだった。ソフィアリ家の家督を継げぬ一子など、所詮は政略の道具でしかないと彼女自身弁えていた。

 魔術の薫陶は授かれなくとも、魔術師の家系に生まれたが故の達観を持っていた。それを悲観する事無く、ソフィアリの繁栄とケイネスの人生を彩る華となる事を、彼女は始めから受け入れていた。

 婚姻が両家による取り決めだったとしても、ケイネスは真実ソラウを愛していた。完全無欠の天才が、唯一言葉を紡ぐ事を躊躇するほどにソラウの姿はケイネスの心を捕らえて離さなかった。

 故にケイネスはソラウに愛を囁いた事はない。彼女を前にすると言うべき言葉が消えて失せる。どれだけ難解な論文の朗読とて、多くの学徒を前にしての講義でさえも言い淀んだ事の無い男が、彼女を前にしてはただの恋に焦がれた少年のようだった。

 募る想いは言葉にはならず。衝いて出る言葉は僅かに的を外したものばかり。この想いを酌んでくれよと心中に想いながら、ケイネスは常に理想の魔術師で在り続けた。

 しかしそんな彼と彼女だからこそ、齟齬は生まれ積まれていった。情熱に心を燃やすケイネスであれど、それは言葉にしなければ伝わらない。並の女が相手なら、ケイネスの経歴だけを見ても歓喜に打ち震えただろう。

 約束された勝者の人生。その隣に在れるのだから、たとえそこに恋心がなくとも打算に塗れて媚を売ろう。

 けれどソラウはそうはならなかったししなかった。彼女の心にあったのは諦観と享受。自分は誰かを彩る美しい花。愛でられ手折られ、そしていつか朽ちていくだけの薔薇。
 そう諦観し、ただ流されるままに状況を受け入れ、心を凍らせることで全ての事象から目を逸らした。

 ケイネスに食って掛かった事もあったが、それも彼女が彼女であり続ける為の処方に過ぎない。名家に生まれた貴人としての振る舞いを刷り込まれたが故の傍若無人。彼女が心底から何かを欲した事など、ただの一度としてありはしない。

 故にその身はただの花。美しいだけの花なのだ。花は自分で何かをしないし動かない。花はただ、自身を美しく保つだけなのだから。
 いつの日か、朽ち果てるその時まで。命の限り美しく咲かせ続けるだけなのだから。

 ────そう、これまで彼女は確かに、花だったのだ。

「ランサー、私を救い出してくれてありがとう」

「いえ、礼には及びません。私はただ、主の下命を守り抜いただけなのですから。どうか我が主にこそそのお言葉を掛けて頂きたい」

「……そうね。ケイネスにも勿論、感謝しているわ」

 主命を守り抜く。その代償として主の命を救い出せなかった事は、彼の心に最大の軋轢を齎している。主命は至上。しかしそれも、主の命あっての物種だ。しかし主は、主の愛しき人を守れと言われたのだ。

 どちらかしか救えなかった。どちらをも救いたくとも、あの状況下ではどう転んでも不可能だった。たとえこの身を差し出せば両者の命が救えていたのなら、何も悩む事無く命を投げ出し、笑顔のままに死ねたというのに。

 主と従者は決して良好の主従関係を築けていたとは言えない。ケイネスにとってランサーは次善。ウェイバー・ベルベットに聖遺物を奪われていなければ、あの赤毛の王こそが彼の従者となっていた筈だから。

 それ故か、主の従者に対する扱いは常に辛辣だった。短い時間しか共に在れなかったとはいえ、その中でケイネスは決して騎士にその心を許さなかった。

 何よりも騎士が持つ愛の逸話ゆえに。主の許婚を婚姻の場から掻っ攫った男を、同じ許婚を持つ身としては決して信用する事など出来はしなかった。

 あの時、あの瞬間。ハイアットホテル崩壊の予兆を感じた時、ケイネスは戸惑いもなく令呪に訴えソラウの救出をランサーに命じた。
 信の置けぬ従者に許婚の命を預けるその所業。たとえサーヴァントとしての力量をこそ評価していたとしても、ケイネスの人となりを思えば決して下せぬ筈の命令。

 それをこそが、ケイネスの愛の深さを語っている。自らの信を曲げてまで、彼には守りたいものがあったのだ。
 たとえその想いが彼女に届かなくとも、誰に理解されることが無くとも。彼の恋心は本物であったのだから。

 ランサーがケイネスの本心を理解していたかは本人にしか分からない。ただそれでも彼は思ったのだ。
 決して重用はされなかったこの身、望まれていなかったこの身を捧げるべきは主の為。己の意を曲げてまで誰かを救いたいと願った心を無駄にしてはならないと。

 だから騎士は選んだのだ。主命を守り、その恋人を守る事を。

 主が己の命と比してなお、守りたいと願った命を守る事。ランサーは主命を守ったのではなく、主の心をこそ守ったのだ。

 ああ、だからこそ────

「ケイネスは、もう……」

「はい。私と主の間に交わされた契約の繋がりが感じられません故……」

 従者が握り込んだ拳の中で爪を立てる。心に苛立ちと不甲斐無さの腫瘍が出来たよう。掻き毟れるものなら血が溢れるほどに引き千切りたい程の衝動だった。

「でも私と貴方の繋がりは消えていない。そうよね?」

 ケイネスはマスターとサーヴァントの間にある繋がりを二つに分けた。一つはマスターの証たる令呪に繋がるもの。もう一つは魔力供給に使われるものとに。

 本来二つで一つである繋がりを分けられたのはケイネスが特級の術者であったからに他ならない。そうする事で彼は十全の魔力を十全のまま使用可能とし、サーヴァントもまた戦闘に耐え得るだけの供給量を確保した。

 そして今、ケイネスが持っていた令呪への繋がりは断たれた。それはマスターの死を意味し、本来ならばそのサーヴァントであるランサーもまた、とうに消滅していなければならない。
 しかし彼は生きている。彼とソラウの繋がり──魔力供給のラインは未だ繋がったままだからだ。

 切嗣の誤算は今この状況。本来ならば、ランサーはとうに消えていなければならない。言峰綺礼が真に脱落者であったのならまだ可能性は残されていたが、はぐれのマスターがいない現状では、ランサーに再契約が見込める筈などないのだから。

「はい、ソラウ様。私と貴女の間にある繋がりに綻びはない。ケイネス殿の手腕は見事と言う他ないでしょう。
 しかし私は、この契約を長く続けるつもりはありません」

「何故っ!?」

 氷の心を持った女が激昂する。腰掛けていたスプリングの壊れているソファーより腰を浮かし、面を伏せるランサーの瞳を覗き込む。

「我が主は言われたのです、貴女を守れと。私が傍にいる事、この聖杯戦争の場に身を置き続ける事。それ自体が貴女の無事を脅かす。
 主の最後の下命を守るのならば、俺は貴女の傍にあってはならない」

「なんで……? ランサー、貴方は聖杯が欲しくてこの戦いに臨んだのでしょう? 契約は続いている。
 ケイネスは死んでしまったけれど、令呪はなくなってしまったけれど。私の魔力が貴方を存在させ続けている。ならば貴方は、私の従者として続く戦いに臨むつもりだったのではないの?」

「いいえ。元よりこの身は聖杯など欲していない。ただ欲したものは真の忠。主君への終わりない忠義こそ、俺が欲し求めたもの。
 主は俺の不甲斐無さ故に亡くなった。でも、だからこそ私は最後の主命を守り通したいのです。御身の無事を守りたいのです」

 戦場に身を置き続けるのなら、いつかきっと彼女の無事は脅かされる。激烈化する戦いの中心点に居続けるには彼女の存在は軽すぎる。
 真に安全を願うのなら、そも戦場を離れてしまえばそれでいい。彼女は元よりケイネスの付き添いとして冬木に赴いただけなのだ。聖杯に賭けるだけの願いもなければ戦うだけの力もない。

 言うなればその身は一般人のそれと変わりがない。ケイネスの庇護がなければ容易く摘んでしまえるだけの花に過ぎない。
 そしてランサーはその花を守ると誓った。主君の命じた言いつけを、たとえこの身が砕けようとも守ると決めたのだ。

 主君に誓いし忠誠の形。その終わりがこんな形なのは不本意だが、それはきっとケイネスも同じ。ならばせめて、彼の大切なものを守り通すのだと。

「はっきりと言わせて貰えば、ソラウ様を主と頂く事は出来ません。私が今代にて忠誠を誓いしは後にも先にもケイネス殿のみ。鞍替えなど以ての外、たとえそれが許婚であるソラウ様であったとしても、折れることは有り得ません」

「たとえそれが……貴方が消滅する事となっても?」

「はい。主の主命、守り通す事が出来たのなら悔いは何もありません」

 その言葉は嘘だった。悔いはある。無念もある。ケイネスを守り切れなかった、聖杯に手を掛ける事が出来なかった。主の道を途絶えさせてしまった事こそ不明の至り。
 この己が死んで償えるものなら幾らでも死のう。腹を割き、眼球を抉り、四肢の全てを差し出そう。

 けれど結末はもう変えられない。己の不覚は拭えない。永遠の澱として、この心に残り続ける。だからせめて、主の花を守るのだ。そうする事でしか、もう己は動く事さえ出来ないから。

 そして彼女の無事を確保したのなら、悪鬼羅刹、修羅畜生となってこの戦場を駆け抜けよう。この身が砕け散るその時まで。髪の一房が消え去るまで。一滴でも多くの血を、主の墓標に捧げる為に。

「…………」

 ソラウは彼の譲れぬ想いを前にして口を噤む。どんな言葉を掛けようと、どんな願いを祈ろうと、この男の心は折れまい。折ってはならないと知っている。

 端正な面貌に宿る魅惑の黒子。居並ぶ女子を虜にし、愛の奴隷に変える彼の呪い。彼の命運を狂わせ続けた不実の祝福。
 それは今確かに、凍れる女の心を溶かしていた。達観と諦念に生きていた女の心に慕情を宿らせた。

 それが本当に魅惑の呪いによるものなのか、彼女自身の内より湧き出たものなのかはこの際関係がないしどうでもいい。真実として彼女はこれまで何一つ動じなかった己の中に、その感情を見出したのだから。

 彼と共にいたい。彼と共に在りたい。そう願うほどに募る想い。ケイネスの死とて彼女の心を揺さぶらなかったというのに、彼の魔貌はただの一目で永久凍土にも等しい彼女の氷を溶かしていった。

 ああ、彼の忠誠は美しい。ケイネスの死を悼む心とて持ち合わせている。ただそれでもこの心を焦がす想いには、何一つとして及びはしない。
 この輝きに比べれば、他の全てなど唾棄すべき路傍の石と変わりない。この想いこそが至宝だと、やっと見つけた人生の価値だと信じて疑わない。

 彼女は決して悪女ではない。
 ただどうしようもなく、純粋で純真であっただけの話。

 だから彼女は口にする。
 許されぬ想いを。
 彼の忠義を踏み躙る、何処までも甘美な響きを伴った恋の音を──

「────ソラウ様」

 自らに生じた初めての想いを吐露しようとしたその瞬間、まさに間隙を縫うようにランサーは諌めの言葉を吐き出した。
 それが偶然であったのなら、運命とはかくも残酷だ。

「ランサー? どうかしたの?」

 彼は決してソラウが吐露しようとした想いに予測がついて諌めたわけではない。それを証明するように、彼の瞳はここではない何処か遠くを見据えている。

「この場所に近づいてくる気配を感じます」

 足取りは確か。こんな寂れた廃工場に用のある者など他に検討のしようがない。

「……居場所がばれたとでも言うの?」

 ハイアットホテル倒壊からまだ夜明けにすら至っていない。あの騒ぎから離脱する中、誰かに見られるような不手際をした覚えはないし、そもケイネスの死を知っている者ならば追撃こそが有り得ない。

 先にも述べたように、通常ならばランサーは既に消滅している筈なのだから。ソラウ単独を狙う価値などないと誰もが知っているだろうに。

「何故露見したのか、何故追撃されているのか。この際それはどうでもいい。ソラウ様、迎え撃ちますので傍を離れないで下さい」

 逃亡も可能だろうがそれでは問題を先送りにしているだけに過ぎない。敵の狙いはこの首級。ならば迎え撃つ事で為せる事もあるだろう。
 そして敵がケイネスを討ち取った者であるのなら、ソラウを潜ませるという選択は下策に等しい。サーヴァントの傍。恐らくはその場所以上に安全な場所などこの街にはないのだから。

「分かりました。貴方に全てを任せます」

 憧れた背に追随する。
 想いはいつでも口に出来る。伝える事が出来る。この戦いを超えた後、たとえ彼の全てを踏み躙ってでもこの想いを伝えよう。愛でられるだけの薔薇は散り、人となった己自身の言葉でと。

 その浅ましくも尊い祈り。
 彼と彼女を破滅へと誘う想いの引鉄は、決して引かれる事はない。

 想いはいつでも伝える事が出来る。
 そう出来なかったケイネスの死を軽んじたソラウには、永劫語れる想いはもうないと、彼女はこの時知る術などなかった。



+++


 冷たい夜風が身を引き裂く。秋の終わりにして冬に程近いこの季節、たとえ温暖な気候下にある冬木といえど真夜中ともなれば何処までも冷たい風が吹き荒ぶ。

 身切る夜風を引き裂いて、黒衣の男は姿を見せた。

 その出で立ちはハイアットホテルの時とは違う。ケイネスの城に侵入する為、従業員に扮装していた衣装を脱ぎ払い、男は黒のコートに身を包んで現れた。その裾を風にはためかせながら。

 闇夜にてなお黒々と光る瞳が待ち構える二人を射抜く。何処までも澄んだ黒。闇をすら凌駕する漆黒の奥に爛々と炎を滾らせながら、何処までも静かに衛宮切嗣は一人立つ。

「止まれ」

 ランサーの言葉に切嗣は足を止めた。それ以上近づけば彼の手にする槍が颶風となってこの身を切り裂く事を予見出来たからだ。

「如何にしてこの場所を特定したか、そこに興味はない。訊くべき事は唯一つ。貴様の用件は」

「当然、おまえの命だ」

 聖杯戦争はマスターとサーヴァントの二人一組でのバトルロイヤル。どちらかを打倒したところで終わらない。令呪を持つマスターならば主を失ったサーヴァントとの再契約が可能だし、その逆も然り。

 しかし実際のところはどちらかが討たれればほぼ詰みだ。過去何度かあったらしい再契約もそのほとんどが偶然に頼ったものであり、そんな即席の主従が勝ち抜けるほどこの戦いは甘くもない。

 故に今、切嗣の目の前にあるのは例外だ。本当ならば消えている筈のサーヴァント。それが十全の気力を有したまま立っているのは異常に等しいが、それでも彼はその可能性をほぼ確定のものとしてこの場所に辿り着いた。

 ケイネスは月霊髄液の多重展開について一切を語らなかったが、切嗣には予測が出来ていた。有り得ない魔力運用、戦闘の役にも立たない許婚を戦場に連れて来た理由。二つの点を繋ぎ合わせて出来た線。

 故に目の前の光景に驚きはなく、けれど続く言葉にこそ疑念を抱いた。

「成る程、道理だ。分かった、この首欲しければくれてやる」

「ランサーッ!?」

 ソラウの縋りつくような声ほどではないものの、切嗣もまた訝しむ。たとえ主たるケイネスが死んだとしても、存命し続けている以上聖杯獲得に拘るのが筋であろう。この世に招かれる英霊にも、聖杯に縋るだけの祈りがある筈なのだから。

 ランサーの真意など知らない切嗣は当然にして不可解に思うしかない。そしてそれはランサーも分かっていたのだろう、言葉を続ける。

「但し一つ条件がある。彼女の無事を確約しろ」

 そう、ランサーにとってこれは道理だ。彼の願いは主の最後の願いを守る事。即ちソラウの身の安全の確保。
 敵に背を晒したまま逃げ続けるには限界があるし、戦いを挑むのも論外だ。元より聖杯になど興味はないのだから、戦う事に意義を見出せない。

 忠義の限りを尽くし主の祈りを達成する。その為ならばこの身の命など惜しくはない。欲しいのならば幾らでも差し出してやる。

 セイバーとそのマスターへの復讐が果たせないのは心残りだが、主の願いに比するのならば天秤の針は容易に傾く。
 たとえそれが自己欺瞞と自己犠牲に塗れた忠義であっても、この道を踏み外す事は出来ないと、騎士は謳い上げたのだ。

「馬鹿げた交渉だ」

 それを、切嗣は一笑に附した。

「何だと?」

「そんな交渉は成り立たない。僕はおまえを信用しないしおまえは僕を信用しない。その上でどうやって彼女の安全を保障する。
 彼女が国外脱出するまで見逃せと? それがこの場を逃れる為の虚言でないと言い切れるか。いや、言い切ったところで意味もない。僕はおまえを信用していないのだから」

 契約の上で必要なのは互いの歩み寄りだ。
 絶対に信の置けない相手といえど、その契約が有益であるのなら可能だろうが、切嗣は契約自体を意味のないものと切り捨てた。

 ランサーの死を対価にソラウを逃がす。なるほど、マスターですらないソラウを逃がしたところで切嗣に損はなく、むしろランサーが勝手に自害してくれるのならかなり有益な内容だろう。

 しかしそれでも切嗣はこう言うのだ。
 非情で冷酷で冷徹な暗殺者は血を流せと。

「おまえには消えて貰う。そして当然、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリもまた死んで貰う」

 聖杯戦争に参加した者。関与した者。魔術師としての適正を持つ者。それを切嗣は逃がさない。
 ソラウはただの傍観者だが、それがマスターに変わらない保障はない。

 今後の展開ではぐれマスター、サーヴァントが出るかもしれない。その時に起こるのが令呪の再分配だ。聖杯に見初められた者、未だ祈りを宿す者を戦場に誘う敗者復活。それは御三家が最優先、次に脱落者、最後に他の適格者と続く。

 順序で言えばソラウがその時選ばれる可能性はほぼゼロに等しい。そもそもの話として令呪の再分配が行われるかどうかも不明瞭で、更に言えばソラウを逃がせばそれだけで可能性は無くなるのだ。
 故に可能性としてはゼロ。一パーセントを超える事もない不確かなものの為、衛宮切嗣は好条件を袖にして死地に向き合う。

 それが衛宮切嗣のやり方だから。犠牲となるものを定めた以上、それには絶対に消えて貰わなければらない。自らが聖杯の頂に駆け上がる為の障害を、世界を救う為の邪魔者を、微塵たりとも残さない。

 たとえゼロの可能性とて、それが衛宮切嗣の天秤を脅かすものであるのなら、何人たりとも逃がしはしない。

 ホルスターより魔銃を引き抜く。装填されている弾丸はおよそ携行する上で最上の威力を保障するスプリングフィールド弾。生身の人間が喰らえば骨砕け、内臓は破裂し致命に足る威力を持つ。

 無論、サーヴァントにただの銃弾は効かないし届くまい。狙うのは、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ。

「理解が出来ない思考だな魔術師。貴様は自ら死地に踏み込むか」

 マスターがサーヴァントに敵う道理はない。人の身の極地に至り世界に召し上げられた英雄に、どれだけ人殺しが巧かろうと唯人が届く筈は無い。

 銃口から庇うようにランサーはソラウの前に立つ。たったそれだけの行動で、切嗣はソラウを殺す術を失った。

 この距離では届かない。
 ランサーの防御を貫く事は艱難に過ぎる。
 ならば──

「固有時制御(Time alter)──二倍速(double accel)」

 常人を凌駕する加速を以って、その神域に肉迫する。

 しかしそんなものでは届かない。音速の槍を振るう彼らが、その速度以下の動きを捉え切れない筈が無い。
 愚直なまでの吶喊。無意味な加速。その程度でサーヴァントに迫れると思い上がっているのなら、その無知諸共薙ぎ払うと槍を構えたその瞬間──

 ──本物の颶風が、横合いよりランサーを捉える。

「っ、セイバーァァ!!」

 まるで計ったかのようなタイミング。これ以上ないというくらい完璧な頃合に、セイバーはマスターの加勢に応じた。
 爆発的な加速によるランサーの知覚外からの突撃。認識した時には既に間合い。視線を向けた時には相手の間合い。故に身体を向けた時、繰り出された斬撃を防御する以外に道はなく。

 その刹那を縫い上げて、魔術師殺しは槍騎士の背に庇われた女の腕を万力の如き暴力で捻り上げ、引き摺り倒した。

「げぇっ……!」

「ソラウ様ッ!」

 肺に溜まった空気を無理矢理に吐き出させられたソラウの嗚咽とランサーの鬼気迫る声とが重なる。
 鍔競り合う剣の騎士と槍の騎士。火花散る鋼の硬直の中、呪詛の如く言葉は紡がれる。

「見損なったぞセイバー! おまえの主がいかに非道であろうとも、おまえは高潔であると信じていた!」

 セイバーは勝利の為に手段を選ばないと宣言しながら、それでもランサーを相手に尋常に立ち会った。
 たとえそれがサーヴァントは打倒しなければならないものと思っての行いであったとしても、手にする黄金の輝きに偽りはないとランサーは敬意を込めた。

「だと言うのにこれは……この様は……そうまでしてでも聖杯が欲しいのかッ!」

 だが現状はどうだ。ランサーから見れば切嗣は自身を囮にしセイバーはそれに加担、奇襲を行いソラウを人質に取ったようにしか映らない。

「…………ッ」

 『真実がその真逆』であったとしても、ランサーから見た現状に揺るぎはなく、セイバーの弁明は何一つとして意味を成さない事を物語り、故に彼女は無言を貫く他なかった。

 引き倒したソラウの腕を背後に取り、手にした銃口をその薔薇のように美しい髪に突きつける。

 ランサーの主が愛した人。
 守り抜くと誓った人。
 それが今、醜悪な意思により、死に晒される。

「ら、ランサー……私っ……!」

 真実彼女は人質だ。
 だが彼女に人質としての価値は無い。

 ケイネスが生きていれば違ったであろうが、ソラウの命を引き合いにランサーから引き出せるものはない。というよりも、引き出す必要がないのだ。

 何故ならば──彼女が死ねば、それでランサーもまた消え去るしかないのだから。

 死者に手向ける言葉もなく。
 命を摘み取る事に何の感慨も浮かべることもなく。
 衛宮切嗣は静かに、その引鉄を引いた。

「あああああああああああああああああああああァァァァァァアァァァァッッ!!!!」

 ランサーの魂切る絶叫の中、薔薇が咲く。
 血の色をした薔薇が咲き誇り、一人の女の命を枯れ散らす。

 枯れ落ちた恋人は地に落ちて、暗闇の中にその死骸を晒した。

「アアアアアアアアアアア……! 赦さん! 貴様らは断じて赦さんぞォォォ……ッ!」

 魔力供給が途絶えた今、力を振るえば振るうだけランサーに死期は迫る。それを構うものかと魔貌の騎士は槍を振るう。その端正な顔を鬼気に歪めて。魔人の如き奮戦で、やり場の無い怒りと敵意を込めて振るい続ける。

 しかし悲しいかな、十全の力を帯びたセイバーと、力尽きる事を決定付けられたランサーとの間にはその差を埋めるだけのものがない。
 憤怒や憎悪、猛々しい雷鳴の如き奮迅も、絶対的な差を補うには足り得ない。

 セイバーとて今の状況を良しとはしていない。その証拠に彼女の面貌には痛々しいまでの悲痛の色が浮かんでいる。ランサーにはもう、その真意を測る余裕も気もないが。

「呪われろ。呪われろ呪われろ呪いよあれ! 聖杯に呪いを! 祈りに穢れを! 卑賤な輩に災いあれ!
 赦さんぞ……俺は決して貴様らを赦しはしない……貴様らの勝利なぞ、俺は断じて認めはしない……!!」

 血涙を滂沱と零しながら、誰何と世界を呪う呪詛を撒く。清廉なる槍騎士の姿はそこにはなく、ただ憤怒と絶望に囚われた鬼がある。

 既に振るう槍に力は無く、爪の先から光となって消えている。それでもなお悲劇の槍騎士は己の悲憤にではなく、彼の主とその許婚の為、守れなかった誓いを果たそうと力尽き果てるその時まで手にした槍を振るい続け……

「地獄の底でこの俺の名を思い出せ……貴様らを呪うこの身を思い出せ……そしてその果てに俺以上の絶望を味わい崩れ落ちろ……ッ!
 我が名はディルムッド。ケイネスとソラウが騎士──ディルムッド・オディナ……! 主らの為、貴様らを永劫呪い続ける魔人なり…………ッ!!!!」

「…………ッ!」

 これ以上は見ていられない。

 その余りの痛々しさ故に、セイバーは力強く剣を振るい一刀に断つ。黄昏の残照を掻き消す黄金の剣閃は狂いなく、消えゆく憤怒の徒を斬り裂いた。

 その最期まで忠義の騎士としての意地を貫き、魔貌の槍騎士はその本懐を遂げる事無くその身を霞みと消え去った。

 後に残ったのは晒された死骸、ソラウの死体のみ。ランサーの流した血涙は、欠片も残る事無く消滅した。

「…………」

 じゃり、と音を立ててセイバーは具足を鳴らす。向き直ったのは当然、己が主の方だ。

「これが貴方のやり方か、切嗣」

 事情を知らないものから見れば、ランサーの言は正鵠を射ていると言えるだろう。
 切嗣は己を囮に使い、セイバーの加勢によってランサーを分断、ソラウを捕らえた。そう映るだろう。

 だが真実は違う。

 囮になったのは切嗣自身。
 だが囮になったのは、ランサーに対してではなくセイバーに対してだ。

 あの状況の真実を語るのなら、セイバーは加勢『させられた』。その一言に尽きる。

 セイバーには祈りがある。何を差し置いても叶えなければならない尊い祈りが。その為に手段を選ばないというのは本当だし、悪辣でも理に適ったものなら清濁併せ呑むと覚悟している。

 そしてそんな覚悟を切嗣は利用した。

 聖杯に至るにはマスターの存在が必要不可欠。サーヴァントが聖杯を掴む為には己の現世への楔であるマスターの生存が第一条件なのだ。
 マスターが死ねばサーヴァントも程なく消える。ランサーのように。そうならない為、そうさせない為、セイバーはあの時、切嗣に加勢せざるを得なかったのだ。

 事前に綿密な打ち合わせがあったわけではない。切嗣の作戦を聞いた事すらもない。セイバーが舞弥に指定された場所に辿り着いた時、状況は既に切迫していた。
 無謀にも敵サーヴァントに挑むマスターの姿を見たのなら、その従者の取るべき手段など一つしかない。

 よってあの状況下、セイバーが切嗣に加勢しないという選択肢は有り得なかった。そして今後、同じ状況になったのなら、同じ選択をし続けなければならない。し続ける他に道は無い。

 聖杯の頂に駆け上がるとはそういう事。
 他者の祈りを踏み躙るとはこういう事だ。

 ただ己の祈りをこそ叶えよと、聖杯に願うのなら。
 こんな展開は、何度だって繰り返される。
 六人六騎、都合十二の祈りが駆逐されるその時まで。

「…………」

 セイバーは二の句が継げなかった。糾弾の思いはあったが、それをして一体何になると囁く己がいる事も自覚した。
 覚悟した筈だ、この手を無垢の血で染め上げると。先のハイアットホテルでの戦闘に比べれば、この戦いはより犠牲を少なく終結している。

 いや、この戦いがあの延長線上にあるとするのなら、あの倒壊に巻き込まれた者の命を犠牲に、ケイネスの一派全てを葬りされたと考えるべきか。
 これで一つ、確実に聖杯に一歩を進めた。犠牲に報いるには、この歩みを止める事は許されない。

 流血は避け得ない。ならばせめてその犠牲を最小に。担える血は己が担うと、そう覚悟したのではなかったか。

 あの惨劇の丘を回避する為。
 滅び行く祖国を救済する為。

 この心が悲鳴を上げても、立ち止まる事は許されない。

 セイバーに掛ける言葉もなく、去っていく切嗣の背中。
 その背を見つめる彼女の瞳には、一体何が映っているのか。

 それは本当に、悪逆非道の男の背中だったのだろうか。
 その背に宿る刹那さは、悪であれと呪われるほどに強いものなのか。
 とても儚く映るのは、彼女の目が狂っているせいなのだろうか。

 明確な判断を下せないまま、彼女はその背を見送り、男は闇に紛れて姿を消した。
 吹き荒ぶ夜風とて、彼女の心の澱を払い去る事は出来なかった。


/3


 底には闇だけがあった。無明の闇ではなく、水底に沈み込む程に濃縮された闇。手を伸ばせば触れそうな、黒く渦を巻く闇のカタチ。

 その中心には小さな光があった。
 水晶球。

 占いで用いられるような十数センチほどの球形。街中に雑多に溢れる紛い物の占いでは何も写さない水晶も、真実のまじないの元であれば光を灯す。

 透明な球形に映る光景は暗い海と闇。
 そして回転する光と、血の赤だ。

 それは衛宮切嗣とセイバーが、ランサーとソラウを亡き者とした直後の光景だった。

「スッゲェ……今の、マジもん?」

 食い入るように水晶を見つめていた一人の男──青年と呼んで相違ない年齢のその男は埠頭で行われた戦いを備に見つめ感嘆の息を漏らした。
 常人であれば吐き気を催してもおかしくはない筈の光景も、彼にとっては日常茶飯事。しかも自分の殺しよりも鮮やかなそれは、彼の心を掴んで離さなかった。

「そっかぁ、銃って選択はなかったなぁ。日本じゃそう簡単に手に入んないんだもんなぁ。
 でもいいなぁ。一瞬のマズルフラッシュとその後に咲く血の花。一回間近で見てみたいなぁ、つーか自分でやってみたい。あーでもやっぱり殺した瞬間の手応えがないのはどんなもんかなぁ」

 狂気の沙汰としか思えない思考を口端に上らせ、そして話題は次に移る。その後に行われた人外としか思えぬ者達の舞踏。片方が半死の状態であったとはいえ、一般人の目から見れば充分に異常で彼の心はなお異常だった。

「ねえ旦那、今のどう見ても旦那の同類だよな!? 旦那もあんな風に斬ったり舞ったり出来んの!? それか空飛んだり? あ、もしかして魔法みたいの使えたりして!」

 この青年は魔術とは全く無縁に過ごしてきたただの一般人だ。そんな青年がこうも目の前の現実離れした非日常に適応出来ているのは、彼が余人の過ごせぬ乖離した日常で生きてきたからだった。

 雨生龍之介は殺人鬼だった。

 殺しに特に理由はなく、ただ享楽と快楽、そして好奇心の為に殺し続けている。画面の向こうのホラーやスプラッターにはない臨場感、人の見せる死に際の色めきは彼の心を満たしてくれた。

 純粋な死への関心──それが龍之介の行動原理で殺人原理。

 もし画面の向こう側にある死と血と絶叫が真に迫るものであったのなら、彼は殺人鬼になどならずに済んだのかも知れない。
 それでも彼は現実に人を殺している。それもただ殺すだけでなく、生から死への変遷を余す事無く愉しみながら。さながら研究者が実験動物を弄繰り回すかのように。

 幾つもの街を転々とし、殺し観察し続けてきた彼が辿り着いたのはこの場所──冬木だった。

 殺しのバリエーションが減りモチベーションが低下していた頃に地元に戻り、蔵の中で手に入れた一冊の古文書が、彼をこの闘争の渦に誘った。
 雨生は遡れば魔術師の血筋に当たる。当人たる龍之介は無論そんな事は知らないし、理解してマスターとなったわけではない。

 いわゆる儀式的な殺し方を実践している時に、偶然にも選んだ悪魔召喚の陣と呪文が聖杯戦争のそれであり、偶然にも彼は魔術師の血を引き適正を有しており、偶然にもサーヴァントを召喚したというだけの話。

 一度ならば偶然で、二度ならば必然。三度重なった偶然はこう呼ぶべきだ。雨生龍之介は運命によりこの戦いに巻き込まれたのだと。

 彼はそれを悲嘆しない。聖杯の何たるか、戦いの何たるか、魔術の何たるかをまるで理解出来ていなくとも、彼がサーヴァントの殺しの美学に心酔してしまった以上、その狂気は最早疾走を続ける他ないのだから。

 龍之介が旦那と呼んだ者──傍らにて水晶に戦いの光景を映し出していたサーヴァント・キャスターは、マスターの言葉にも何も答えず、ただ茫洋とした瞳で遠くの風景を覗き込むばかり。

「……旦那?」

 龍之介が訝しんだ時、まるで爆発のように声は響き渡った。

「────叶った!」

 間近にいた龍之介の鼓膜を裂くほどの絶叫。狂乱の歓喜を内包した歌声は、闇に木霊し彼の心を震わせた。

「おお……おお……我が願望、我が祈りは既に通じた。つまりこれは、我が手には既に聖杯があるという事!」

「え? 旦那、そんなもの持ってたっけ?」

「目に見える見えないなど関係がないのですよリュウノスケ。我が祈りが叶った事。これが全てを証明している。
 ああ、我が愛しの乙女よ。御身をまたこの目で見る事が叶うとは、この不肖青髭、歓喜の極みに至りまする!」

 野暮ったいローブから腕を伸ばし天を抱く。ぎょろりとした瞳からは、一筋の雫が零れ落ちる。
 二度とは叶わぬと思った悲願。奇跡に希う他永遠に巡り合えぬと慟哭した追憶の日々。悠久の絶望は終わりを告げ、希望に満ちた光が降り注ぐ。

 自らを青髭と名乗ったサーヴァントの宿望──聖処女の再臨は此処になった。

「へぇ、あれが旦那の女なの?」

 龍之介の見つめる先には白銀の騎士──セイバーの姿。青髭が愛しの乙女と呼んだ彼女の姿。

「彼女こそは我が光。彼女こそは我が導き。彼女が私に命を与えた。我が人生に意味を齎した……」

 言葉にしながら激情は更なる落涙を促した。感極まるとは正にこの事。永劫の果て、刹那にも等しいこの逢瀬に、青髭は感謝した。
 感謝の対象は決して神などではない。乙女の信奉を仇で返した神の愛などに感謝を捧げる謂れはない。

「おお……おお……我が愛しの乙女……聖処女の復活……ああ、ああだが……ッ!」

 心酔するかのような歓喜は、一瞬の激怒によって塗り替えられた。

「ああ、なんと嘆かわしい。あのように卑劣、あのように愚劣な手段で手を血で染め上げるとは、彼女はそれほどに神を憎んでおいでなのか。あの終わりが、清らかだった彼女を絶望で染め上げたというのか」

 それを許しがたいと、青髭は口を結ぶ。

「彼女の身を焦がすは我が愛でなければならない! 神の愛で穢れた彼女など正視に耐えるものですかッ!」

 此処に狂気は発露する。

 清廉である乙女を信奉しながら、己の愛で穢れる事を希い、神の愛と存在を否定するその矛盾。
 神への祈りによって清らかだった乙女であるのなら、その否定は彼女の根本への否定に相通ずる。

 それをこの怪物は気が付かない。狂気にて錯乱。狂い咲く花の如き感情の奔流は理の通る道など押し流し閉ざしてしまう。狂気にて狂喜し凶鬼なるもの。それがこのサーヴァントの本質である。

 故に常人には理解し難いその思考を理解出来るのは──

「えーっと、つまり旦那はあの女の事を愛してるって事だなっ!」

 ──同じく狂気にて生きる者に他ならない。

「分かるよ旦那。そうだよな、自分の女(もの)を神様(たにん)になんか穢されちゃぁ、そりゃ腹も据え兼ねるよ」

 うんうんと頷く龍之介。

「おお、流石は我がマスターですねリュウノスケ。私のこの想い、理解して貰えますか」

「当然さ。で、旦那。そうと決まれば当然花嫁(かのじょ)を奪い返しに行くんだよなっ!?」

「ええ、無論。こうして奇跡により我らは再び巡り合う機会を得た。けれどそれはかつての乙女ではなかった。たとえそれが穢れてしまった彼女であっても、神に見捨てられたのだとしても、この私は貴女の前で跪きたい」

 ならば奪い返すが当然と、二人は狂気に頷きあう。彼らにしか理解し合えぬ理に拠って。

「我が道行きを阻む者、その悉くを駆逐しましょう。我が女神との逢瀬に邪魔者は要らぬ」

「クール、クールだぜ旦那! 全部蹴散らしちゃおうぜ! そんでもって、旦那の美学をもっともっと俺に魅せてくれ!」

 闇の中に木霊する二人の哄笑。
 真に彼らが理解し合えているのかは余人には分からない。ただ目的は違えど彼らの目指す先は同じ場所なのは間違いのない事だった。


/4


 言峰璃正が安堵の息をつけたのは、夜明けも程近い時間だった。

 一夜の間に起きた戦闘によって引き起こされた事後処理に奔走させられ、年老いてなお壮健を誇る璃正も流石に疲弊しているようだった。

 聖杯戦争を取り仕切る監督役。その下につけられる教会スタッフはこの街のいたるところに配置され、市井に紛れその姿を隠している。
 どんな結果、どんな状況にも即応し、何を置いても神秘の露見を確実に防ぐ事を義務付けられた彼らは当然にして皆が腕利きだ。

 そんな彼ら、第三次より引き続いての監督を任された璃正の采配を以ってして、この夜に起きた一連の出来事は完全に隠蔽し切る事など不可能だった。

 そもそもの話、あれほどに巨大な建築物を爆破解体されてはどうしようとも隠し通せる筈がないのだから。

 故に璃正達の奔走は神秘の露見を防ぐ事にだけ終始した。駆けつけた警官、救急隊員、その他スタッフ全てが教会の息が掛かった者。
 押し潰されたとはいえケイネスの工房を形作っていた魔術、使用された魔術の痕跡の全てを完全に消し去るには、それほどまでに人員を動員する他なかったのだ。

 深夜未明から行われた現場検証という名の神秘の隠蔽。それ自体はつい先ほど終了し、後は一般の人間の手に引継ぎを済ませてしまえばそれで終いだ。
 ただその過程で見つかったものを、璃正は保護の名目で匿っている綺礼、そして時臣に伝える為、老体に鞭打ち身体を休める事をいま少し引き伸ばした。

『それで璃正さん。見つかったのですか?』

 声の主は遠坂家頭首である遠坂時臣その人だ。蓄音機めいた宝石仕掛けの通信機から声は届く。優雅を信条にし体現する彼が、このような時間にしかも夜を徹して推移を見守り続けた事。それがこの一夜の壮絶さを物語っている。

「ああ。しかし損傷激しく誰に見せられるようなものではなかった。魔術の使用痕、衣服の切れ端、その他幾つかの符号を以って、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの死を確定のものとした」

『……そうですか』

 時計塔の花形講師。生まれながらの天才。その存在を御三家の一角として疎ましく思いながらも、手強い相手と認識していた時臣にとって、彼のこの早期の死は予想を大きく裏切るものだった。

『魔術師殺し──それほどの者か』

 時臣とて魔術師だ。敬意を評するに値する実力と経歴を兼ね備えた魔術師の死を悼みもしよう。けれど未だ戦いは序盤戦。目を向けるべきは既の死人にではなく生き残った方。勝ち残った者だ。

 魔術師殺しの異名は時臣も聞いた事があったし、警戒もしていた。しかしケイネスがこれほどの序盤に倒されるほどの実力者だとは決して思わなかった。
 あの男は時計塔で正統に魔術を学んだ者ではない為、実力の程については神童のようには測れない。

 それでも言える事はある。魔術師殺しは魔術師としての力量でケイネスを圧倒し勝利したのではない。

『建物ごと敵、無関係な一般人のみならず、自分自身すらも崩壊に巻き込んだ。魔術師にあるまじき戦い方でありやり方だ。好きにはなれんし理解も出来ない。
 しかしそれが強力な手段である事は認めよう。およそ魔術師である限り、あの男の戦法を推測する事すら難しい』

 ケイネスの城で行われた戦いについての詳細は時臣にも知り得ない。アサシンの気配遮断スキルを以ってすればあるいは侵入も可能だったかもしれないが、万が一にも露見してしまう可能性を考慮し、外からの監視に留めさせた。

 結果、知り得たのは崩壊から脱出した切嗣とセイバー、ソラウとランサーの行方のみ。ケイネスの死が確定したのはつい先程であり、それに先んじて埠頭での戦いもまた監視し結果を見届けている。

 衛宮切嗣はその悪辣な手段で一夜の内にケイネス、ソラウ、ランサーを討ち取った。

『これで表向き、脱落者は二組。ロード・エルメロイの死は予想外だったが、我らの策に綻びはない。だが──』

 衛宮切嗣は究極、神秘の露見には加担していない。建物の倒壊により多くの魔術痕は消され、事故の規模の大きさから教会スタッフの動員も速やかに行われた。世間に魔術の業は毛ほども漏れてはいない。

『それでも奴は無関係な人々を巻き込んだ。私はそれが許せない』

 正調の魔術師──遠坂時臣。
 彼はケイネス・エルメロイ・アーチボルトほど完璧な魔術師ではない。

 その才は凡庸、ケイネスには大きく劣る。彼が今の地位を手に出来たのは、血の滲むほどの研鑽の結果だ。
 決して辛さを表に見せる事無く、優雅の自負を揺るがせぬまま、それでも気の遠くなるほどの努力を為して彼は高みへと上り詰めた。

 そのせいか、彼は魔術師が持つべき冷徹な側面が薄い。逆を言えば情に厚く、人間味があると言うべきか。
 魔術師がまず最初に排斥する感情の数々を、時臣は持ち合わせたまま高位の魔術師として完成している。

 魔術の為に他の全てを蔑ろにする事は出来ない。
 それでも魔術を至上としてあり続ける。
 つまりは人でありながら魔術師である事。

 それは矛盾にも等しい結晶。彼が唯一誇る事の出来る宝石だ。

 故に目的の為手段を選ばない衛宮切嗣が許せない。魔術師として最低限の規律を守ろうとも、あの男は人として外れすぎている。

 魔術師として。
 人として。
 この地を預かる者として。

『綺礼、言峰さん。済まないが私は、この激情を抑える事が出来そうにない』

 最初の策では当分の間穴熊を決め込む腹だった。綺礼の繰るアサシンに他の参加者の情報を徹底的に暴かせ、必勝の環境を作り上げる為に。
 けれど今、あってはならぬ悪を見た。こんな奴が自分の預かる霊地にのさばっている事を放置出来るほど遠坂時臣の気は長くない。

「しかしどうするつもりかね時臣くん。監督役の権限を実行し衛宮切嗣に対する罰を制定するかね?」

『それには及びません。これは私の我侭だ。それに言峰さんの手を煩わせるわけにはいきません。
 そして最終的な勝利──聖杯獲得も見据えなければならない以上、綺礼の手を借りる事も出来ません』

 アサシンと綺礼の擬似脱落より未だ一日。当然の如く情報収集は完全には程遠い。姿を見せぬマスターとサーヴァントも存在する現在、消えた筈のアサシンの影を手離すには惜しすぎる。

 時臣自身が言ったようにこれはただの我侭だ。聖杯獲得という第一目標を達成する為ならば動く時ではない。
 それでもなお動こうと言うのなら、己が身一つで戦場に馳せ参じなければならない。一時の激情に流されて、本流を見失っては本末転倒もいい所なのだから。

「勝算はあるのかね?」

『魔術師殺しの土俵、つまり奴が先手であった場合、後手に回らされる者はその掌で踊らされ続ける。ならば──』

 これまで切嗣の行った先の先を奪えばいい。アサシンの打倒にしろケイネスの打倒にしろ切嗣の基本戦略は奇襲や強襲だ。先行を奪取し相手の裏を掻いて撹乱し、予想だにしない札を切る。ただそれだけに過ぎない。

 それを可能としているのは切嗣の魔術師にあるまじき手段とセイバーの戦闘能力。どちらかを剥奪出来れば勝機はある。

「聖杯は必ず、君が手に入れなくてはならない。あのように悪辣な手段で聖杯を求める者に獲らせてはならない」

『その通り。聖杯はその用途に沿った使用を行うべきだ。世界の外へと至る道を開き根源へと到達する事。遠坂の悲願を叶える為の礎に』

 聖杯を本来の用途として使おうという輩はこの遠坂を置いて他にいない。聖杯の成す奇跡に善悪はない。ただ願われた祈りを叶えるだけの機構。故に邪悪なる者が手にする事だけは避けなければならない。

 正統にして正調たる遠坂に勝利を。
 綺礼と組んでいるのもその為で、最初から仕組まれた出来レース。

 それでも決して平坦ではないその道を、なお過酷な道を往くと時臣は言う。先代と友誼のあった璃正にとって、ならば友人の息子の行く末を案じ祈るのが己の役目。

 諌め叱咤を必要とする子供ではない。時臣の勝利を信じているから、彼の道を妨げてはならないのだ。

『分かった。時臣くんの健闘を綺礼と共に見届けさせて貰うとしよう──綺礼……?』

 これまでこの場にありながら、一切の言葉もなく沈黙に身を埋めていた綺礼。彼は師や父のやり取りを聞きながら、その瞳は虚空を見据え続けていた。
 父に名前を呼ばれ、ようやく忘我から立ち直ったように、落ち着いた声音でこう言った。

「私もまた師の健闘を見守らせて頂きます。ただ、一つ。御身のサーヴァントについてですが……」

 時臣の腹は既に決まっている。しかしその最後の障害となる存在について、綺礼は切り込んだ。

 時臣のサーヴァントは召喚以来、屋敷に留まり続けた事が一度として無い。保有する高位の単独行動のスキルを用い時臣からの魔力供給すら遮断して遊興に耽っている。およそ聖杯に招かれ聖杯を求めるサーヴァントとは思えない。

 はっきりと言えば手に余る。格としては最上位。過去現在未来を見渡してもおよそ最強と呼んで相違ない力を有するサーヴァントであっても扱い辛い事この上ない。
 気性荒く何が切欠でマスターにすら牙を剥くか分からない爆弾のような男──その男をやる気にさせねばそもそも切嗣とセイバーに立ち向かえる道理はないのだ。

 だから綺礼は問うた。
 あのサーヴァントを御するだけの策があるのか、と。

 その問いに答えたのは時臣ではなく。

「ああ、良いぞ。この我の供を許す」

 その声は綺礼のすぐ傍から。何時の間にそこに居たのか、聞こえる筈のない音を響かせるは原初の黄金。それはまさに黄金としか称しようのない青年だった。

 装飾華美な黄金の甲冑。燃え立つような金色の髪。血のように赤く輝く双眸は、この世の全てを見下している。けれどその輝きに下卑た感情はなく、有無を言わさぬ力があった。その佇まいとて同様。纏うオーラは王者の放つ王聖だ。

 彼が黄金である所以は何もその常軌を逸した風貌を指したものではない。彼はその魂こそが黄金なのだ。
 たった一人でありながら、十数万の人間の総和をも凌駕する魂魄の色。人々の畏怖をその身に宿らせた唯一人の王者。

 何者にも揺るがぬ強大な自我。
 天上天下に我唯一人のみ尊しと言って憚らぬその荘厳。

 それこそが、遠坂時臣がサーヴァント──黄金の騎士アーチャーだった。

『これは王よ。何故そちらにいらっしゃるのかはまあいいでしょう。今の言葉の真意をお聞かせ願っても?』

 時臣はアーチャーに対し臣下の礼を取っている。黄金の王者は誰であれ、己に並び立つ者を良しとしない。故に時臣は自分を下に置く。マスターでありながらサーヴァントを上位に置く事を良しとした。

 真実この黄金には敬意を払っているし、時臣自身もまた貴族足らんとする信条を持つ。ならば王者に傅く事も然程無理のない対応である。
 そして黄金の騎士と自身が共に聖杯戦争を勝ち抜く為には、そうする事が最善であると弁えていた。

「言葉の通りだが? 時臣、おまえはセイバーとそのマスターを討つというのだろう? ならばその道程、我も供をしおまえの供を許すと言ったのだ」

『……これはこれは』

 その恭順にはさしもの時臣も声を失った。綺礼が危惧していた通り、この黄金は他者の指図には決して従わない。唯我の極みに立つ者だ。それを思惑通りに動かす為にはどうするべきかという思案を、王自らが乗り気であった事に驚愕は隠せない。

 聖杯にすら拘りを見せず、物珍しさから遊興に耽っていた男の琴線に触れたものは一体何なのか。

「我の心変わりの原因は何なのか、それを知りたいと見えずとも顔に書いてあるぞ時臣。だがそう急くな。未だ我とて半信半疑なのだ。
 アレは我が愛でるに足る宝石なのか。それとも、そう見せかけただけの贋作なのか、な」

 真偽の程を覆い隠した言い回しで、何が言いたいのか今一つ要領を得ない。けれどこの黄金の王が聖杯戦争に参加するだけの意義を見出した。それだけは確かだった。

『では王よ。王の歩む道、私も同道させて頂きます』

「構わん。ああ、そうだ時臣。敵を見定めておきながら、よもや居所を知らぬとは言わぬよな?」

『ええ、無論。衛宮切嗣はアインツベルンの子飼いの魔術師。ここまで派手に暴れ、自らに衆目を集めた奴が次に取るべき行動を慮るのなら。その策略に適した居城はこの街に唯一つ──』

 冬木市郊外に広がる樹海。
 通称アインツベルンの森。
 その中心に座す古城に、奴は必ずいる。

「フン。ようやく我が出るに足るものを見出した。落胆させてくれるなよ」

 黄金の王が立つ。
 他を寄せ付けぬ圧倒的王気を纏い、遂に今宵出陣する。

『魔術師殺し。その横暴、この私が止めてみせる』

 その傍らには紅蓮の魔術師。
 魔術師でありながら人である、異端の魔術師が今その信念に従い聖杯戦争に参戦する。

 第四次聖杯戦争における最有力候補──正調の魔術師遠坂時臣と黄金の騎士アーチャーが戦場に馳せる。
 彼らの行動がこれよりの戦局に嵐を齎す事は、疑いようのない事実だった。



+++


 出立は夜明けの後。

 そう通信機越しにやり取りをした時臣とアーチャーの会話を聞き終えた後、璃正は客室を辞し自室へと戻った。
 綺礼と黄金の王の手前、疲労は表に見せなかったが、夜通しの指揮運営はその老体に堪えた事だろう。その心労を慮って余りある。

 残されたのはソファーに腰掛け腕を組み、虚空を睨んでいた綺礼と黄金の武装を解いたアーチャーだけであった。

「おまえは此処で一体何をしているアーチャー。時臣師は今頃出立に向けての準備をしているだろう。おまえもせめて遠坂の屋敷に戻ってはどうだ」

「なんだ、我がこの場にあっては何か不服か?」

「別段不服などない。だがおまえはようやく聖杯戦争に参加するだけの意義を見出したのだろう。ならばサーヴァントはサーヴァントらしく振舞ってはどうだ」

「分を弁えろよ雑種。我はサーヴァントの前に一人の王だ。そして時臣は我に臣下の礼を取っている。何処に臣下の下準備を共に行う王がいる。奴がその支度とやらを済ますまで、我は奴が崇める王らしく振舞うまでよ」

「……おまえの言う王らしいとは、人の酒蔵を開け勝手に漁る事を言うのか」

 綺礼の対面に座り尊大に居直るアーチャーの手には血のように赤いワイン。綺礼が個人で収集し私室の蔵で眠らせていたものを、この青年はわざわざ探し出してこの客室に持ち込んだのだ。

「この世遍く全ては我のもの──であるのなら、この酒とて無論我のものであるのは道理だろう? フン、数こそ少ないが時臣の酒蔵のものより上質なものが揃っているとは、とんだ坊主も居たものよな」

 傾けた杯から血色の液体を一息に嚥下するアーチャー。その表情に酔いが回った様子はなく、けれど何処か酩酊めいた雰囲気を漂わせている。彼の心を酔わせているものとは、件の宝石か。それとも。

「それで、用件は」

 綺礼は表情を変えぬままそう嘯く。アーチャーの奔放な性格を考慮すればそれこそ気紛れの類でこの場に居座っているとも考えられたが、綺礼は黄金の見透かすような視線が気に入らずそう言った。

 自分自身すら分からぬ男の心底を覗き込むかのようなその瞳。紅蓮の宝玉の輝きが、酷く心をざわつかせていた。

「用件……用件か。ああ、そうだな。今はそういう事にしておくか」

「なに……?」

「気にするな、何れ貴様も知るだろう」

 意味深な言葉を述べ、手酌で注いだ酒を一息に煽るアーチャー。空に干したグラスをテーブルに戻し、片肘をついて射抜くようにこう言った。

「貴様はさきほどこう言ったな。我が聖杯戦争に参加する意義を見出したと」

「ああ」

 聖杯の寄る辺に招かれながら、そんなものに興味はないとばかりに遊興に耽っていた黄金の王者。彼にとって聖杯など真実取るに足らないものなのだ。
 遍く全ては遡れば原初の一点に集約される。ならば当然、その一点において頂点であった王の蔵にはこの世の全てが収められている筈だ。

 聖杯と呼ばれる代物も探せばその蔵の中にあるだろう。『既に手の内にあるもの』にこの黄金は興味を示さない。手に取るに足る理由がなければ散逸したものになど微塵の関心も寄せはしない。

 黄金の求めるもの──それは未だ見ぬ宝物。

 人の願いを束ねた聖杯などよりもこの醜悪さに満ちた世界の有様を見聞する方が余程心地良い。度し難くはあっても、唾棄すべき進化だと思っても、彼はその無様には愛でるだけの価値があると考える。

 そしてそんな世界の在り様よりも彼の心を掴んだもの──それこそが戦いに参じるに足ると決意させた宝石なのだ。

「我は見出したぞ。この戦いに価値をな。未だ趨勢は見えんが、まあそのくらいの方が面白い。ならば貴様はどうだ? 時臣の腰巾着のままで満足か?」

「……何が言いたい」

「我を前に言葉を濁すな、無意味だぞ。はっきり言わねば分からんのなら言ってやろう。言峰、貴様は聖杯戦争に参加する意義を未だに見出せずにいるつもりか」

「…………」

 アーチャーに内心を話した覚えなど勿論ない。師から聞き出したような素振りもない。何を根拠にそう言い放ったのかは分からないが、勘や戯言のような不確かな物言いではないのは確実だった。
 ならば本当に、この青年は言峰綺礼の心を見透かしているのか。

 ──この、世界の在り方に真逆の心を。

「見出す見出さないの問題ではない。真実として理由がない以上、見出せるものなどある筈がない」

 御三家にも匹敵するほどの早期に令呪を宿した綺礼ではあったが、自身が聖杯という奇跡に選ばれる理由に心当たりなどなかった。
 生まれてこの方奇跡になど頼った生き方をした覚えはないし、縋るほどに渇望する祈りもない。

 何故なら言峰綺礼は妻との死別を以って完結している。

 生れ落ちたその時より心で燻る違和感。父に倣い信仰の道を志しながら、何処かで善や正と呼ばれるものに嫌悪を感じるこの心の在り方。その軋轢の正体について綺礼は既に理解を得、納得している。

 この己は世界の在り様に反する邪悪だと諦観し、観念している。美麗なものが醜く、醜悪なものこそが美しいと。
 人々の悲嘆、憤怒、憐憫、悔恨。負の想念に心引かれて止まないのだ。それを見たいと思ってしまい、けれど正常のあるべき倫理観がそれは駄目だと吼えている。

 心が完全に壊れていたのならまだ救いがあったのかもしれない。しかし言峰綺礼という男の心は正と邪の狭間で揺蕩っている。それは綺礼の克己心ゆえのものだろう。

 邪悪な倫理で正常な心理を抑え付ける日々。そんな無様で無意味な生を今なお続けている理由は決して答えが欲しいからではない。
 こんな異物が産み落とされた意味。生きている意味。存在を許容しているもの。そんな答えは欲していない。欲してはならないのだ。

 ただそれでもこうして生き永らえているのは、この己が無意味に死んでは、その心を暴き立てた者の死が無価値になってしまうという一念ゆえに。

 心に硬く蓋を閉ざし、目を背け続けて生きている綺礼にとって、それら追憶は既になきもの。
 ただ己の邪悪さだけを理解し諦念し、生き足掻いているだけの俗物に過ぎない。

「存在しない理由を搾り出せとは難解な事を言う。私は時臣師を勝者とする為だけにこの戦いに臨んでいる。そこに私個人の感傷が入り込む余地などない」

「それは本当か? 本当に貴様はこの戦いに意義はないと? 一筋たりとも有り得んとそう言い切れるのか」

「……ない」

「あって欲しくないと望んでいるから見えぬだけではないのか。もしそれを直視してしまえば二度とは瞳を逸らせぬと理解しているが故に」

 望まざる願い。それはいつか師が言っていた言葉だ。本当に理由がないのなら、こうまで躍起になって反論するだろうか。幾度となく言葉を重ねるその様は、まるで駄々を捏ねる稚児のよう。

 黄金の王の言葉が綺礼を惑わす。ないと断じる理由から目を逸らすなと退路を塞ぐ。それでも綺礼は声を絞り出す。そんなものは、ないのだと。

「それは太陽に目を焼かれぬよう逸らすようなものだぞ言峰。その眩さ。その輝き。その黄金の光に恋焦がれながら、焼き尽くされてみても良いのではないか」

「くどいぞ英雄王。私の意志を捻じ曲げるな」

「捻じ曲げているのは貴様自身だろう言峰綺礼。これまでの戦いの全てを観測してきた貴様が目を奪われたもの。心に泥のように染み入った一滴の感情をなかった事にして目を背けるな。
 今なお貴様はその存在に心奪われている筈だ。気が付けば、目でその行方を追っている筈だ。まるで恋に焦がれる童のようにな。さあ、己が心に今一度問いかけろ」

「何を──」

「これで終いだ。言峰綺礼──貴様が焦がれている者の名を思い出せ」

「…………っ」

 衛宮切嗣。

 アーチャーの確信に満ちた物言いから、綺礼の脳裏を過ぎったのはその男。その男の横顔だった。

 事前に時臣が収集していたマスター候補の情報を見せて貰った時、綺礼の目に止まったのはその男の経歴だった。

 フリーランスの殺し屋として暗躍しながらその裏で紛争地帯への介入を幾度となく、そして並行に繰り返していた。
 準備や正確性を期すのなら決して出来ない戦地での奮闘。己自身の命すら勘定に入れていない、まるで強迫観念に衝き動かされているかのような異常な経歴。

 それが路銀を得る為だけのものだとどうして言えるのだろう。自分の命すら惜しくないという男が、些細な金銭を得る為に身を焦がす事など有り得ない。

 ──ならば奴を衝き動かしたものとは何なのか。

 それを見定める前に切嗣は戦地より姿を消した。アインツベルンに召し抱えられる事でそれまでの奮迅が嘘のように静寂に消え去った。

 もし仮に。

 衛宮切嗣が戦場で『何か』を探していたとしたら。
 日常では決して見つけられない『何か』を求め己自身の命を燃やし続けていたとしたら。

 後に訪れた静寂は、きっとその『何か』を得られたからに違いない。
 硝煙と血風、怨嗟と嘆きが渦巻く戦場ですら決して見つけられなかったものを、衛宮切嗣は冬の一族の元で手に入れたのだ。

 そして恐らくは。
 その『何か』を手離してまで、この戦いに臨んだ理由こそ────

「っ…………!」

 忘我の思索から脱した綺礼が見たものは、愉悦に口元を歪めた黄金の面貌。喜色満悦、我が意を得たりとばかりの表情に言うべき言葉が見つからない。対する黄金は、さも当然のように言い放つ。

「どうした言峰。何がそんなに可笑しい?」

「なに……」

「分からぬか。貴様今、喜悦に顔が歪んでいるぞ」

 何を馬鹿なと窓ガラスを覗き込めば、確かにそこには嗤っている言峰綺礼が存在した。

「馬鹿な……」

「何が可笑しなものか。言峰よ、貴様は元よりそういう人間だ。愉悦に善も悪もない。何より貴様のそれはもっと単純な欲求だ。知りたい──人であれば、そう願う事に何の遠慮が必要か」

 何かを知りたい。それは本能に準じる欲求だ。生きている上で決して避けて通ることの出来ないもの。
 隣人の趣味が知りたい、好悪を知りたい、己に対する評価を知りたい。そして何より、裏の顔が知りたい。

 己自身の知らぬもの──無知であることを許容出来る者はそうはいない。瑣末な事であれば目を背ける事も可能だろうが、それこそ存在の定義にすら関わる程に重大なものであるのなら、決して目を背ける事など出来はしない。

 たとえそれが、どれほどの闇を孕もうとも。

 これまで綺礼はその克己心と誰かへの誓いの為、その欲求を封じてきた。
 だがこの眼前の全てを見透かす慧眼の王と、そして何よりあの男と巡り合ってしまったから。

 あるかないかも知れぬものを命を賭して探す男。
 その果てに『何か』を見つけた男。
 そして手にしたものをかなぐり捨てて、奇跡に祈りを捧げる男。

「衛宮、切嗣────」

 今確かに、言峰綺礼は衛宮切嗣を見定めた。
 この戦いの果てに見出すべきものを直に見つめた。

「どうやら見出せたようだな言峰。貴様のこの戦いに臨む理由を」

 くつくつと嗤いながら肩を揺らす眼前の王者。未だ動揺の渦中にある綺礼は、それでも搾り出すように声を吐いた。

「……アーチャー、おまえの目的はなんだ」

「目的?」

「わざわざ私を焚き付けて、おまえに一体何の得がある。おまえは時臣師の……遠坂時臣のサーヴァントだろう。別のサーヴァントを従えるマスターを煽り、私の叛意でも促しているつもりか」

 言峰綺礼が真に勝者足らんとする時、当然今の同盟関係は破綻する。勝者がただ一人でなければならない以上、決別は当然に訪れる。
 アーチャーの狙いは綺礼の排除か。最強の自負を持つこの黄金にとって、間諜を張り巡らせる己は邪魔者にしかならないと。

「思考としては下の下だな。先も言ったが今は知らずともいい事だ。そら、そう言われると尚の事知りたくなってきただろう?」

 喜悦の表情を変えぬまま、黄金の王者は席を立つ。既に用件は果たしたというように。

「後は貴様次第だ言峰。このまま時臣に頭を垂れ続けて心の闇の蓋を今一度閉ざすか。それとも──」

 続く言葉は虚空に消え、綺礼の耳朶には届かない。響いたのは、部屋を閉ざすドアの音だけだった。

「…………私は」

 一人になった綺礼は今一度己に問いかける。

 切り開かれた心の闇。
 曝け出された醜い劣情。
 求める事を放棄した筈の答えを求めてもいいのかと。

 王者は告げた。その欲求は、誰しもが持つ当たり前の感情だと。世界の真逆の男とてそれは当然に持っている筈のものなのだと。その身を満たす愉悦──識る事の喜びから、逃れる事など出来はしないと。

 目を背け続けた心の闇。
 それと向き合う時が訪れたというのか。

 今この機を逃せば恐らく二度とは手に入らぬ答え。
 同じ闇を抱え、そして辿り着いた男に問うべきものとは。

「────」

 言峰綺礼はじっと虚空を見つめた。
 視線の先に揺らめくは燭台の明かり。闇の中で揺らめく小さな炎だった。


/5


 翌朝の朝食時、ウェイバー・ベルベットは手にした新聞の一面に躍った文字を食い入るように見つめていた。
 その記事の内容は冬木ハイアットホテル倒壊の記事だ。事故原因は依然究明中、そして確認された死傷者の名も片隅に記されていた。

 そしてその名の一つに、吸い寄せられるように瞳が滑る。

「ケイネス・エルメロイ・アーチボルト……」

 茫然自失としたまま朝食を食べ終え、寄生している家主たるマッケンジー夫妻の心配も柳に風と受け流し、ウェイバーは自室へと重い足取りで戻っていった。
 その部屋に居座るは赤銅の巨漢。ウェイバーがサーヴァント、征服王ことイスカンダルである。

「おうどうした坊主。死人のような顔色だぞ。寝不足か?」

 実際寝不足だ。ウェイバーとてこの聖杯戦争の参戦者の端くれ、昨日の戦いの結末であるところの埠頭での戦いは使い魔の目を借りて一部始終を把握している。

 ケイネスの居城については把握していなかったので、ハイアットホテルでの事はほとんど何も知らない。
 ただケイネスが従えていたランサーが消滅した事実から、もしやという思いで今朝の朝刊をグレン翁から掻っ攫って記事を読めば、予想は見事に的中した。

 事実確認は出来ていない。一般に流通する新聞の記事を何処まで信用していいのかは不明だ。だがそれでも、ランサーが消滅したのは事実なのだ。埠頭での戦いの場にケイネスが居なかった事は事実なのだ。

 物事の筋道を立て辿る事に長けている──と本人は気付いていないが──ウェイバーはほぼ確信にも近いものを心の底で感じていた。

「なあ、おまえがこの間戦った相手、覚えてるか」

 力なく椅子に腰掛けながら、やおらウェイバーはそう切り出した。

「応とも。ランサーの奴だろう?」

「ああ。そのランサー、殺されたみたいだ」

「おう……それも先に聞いた」

 埠頭での戦いを見届けた後、この巨躯には既に伝えていた。今のはただの確認だ。

「そのマスターも……死んだみたいなんだ」

「そうか。で?」

 大した感慨もなく赤銅の王はそう嘯く。

「でって何だよ。死んだんだぞ、殺されたんだぞ。おまえと戦ったランサーも、そのマスターも!」

「だからどうした。これは聖杯戦争、殺し合いの宴であろう。殺し殺されるは共に覚悟の上のもの。よもや貴様、まさか本当に殺されるとは思っていない、思っていなかったなどと抜かさんよな?」

「…………っ」

 ウェイバーは声を喉に詰まらせた。答えるべき声が出なかった。だってそうだろう、たとえ魔術師であったとしても、死を身近に感じていても、こうも呆気ないものだなんて思わなかった。

「あの男は言ったんだ、何れ雌雄を決しようって。それが……こんなあっさりと……」

 約束はもう叶わない。時計塔の花形講師。生まれながらの天才。血統と実力を兼ね備えた男が、こうもあっさりと死ぬなんて思うわけがないだろう。

 まだ何一つ見返してやれていない。何一つ認めさせていない。あの男を平伏させる為にこんな戦いに臨んだというのに。時計塔の連中に正当なる評価をさせる為にこんな僻地にまで来たのに。

 あれほどの実力者を以ってして、呆気なく死ぬ。それがウェイバーの心に澱のように蟠って離れない。

 死ぬのは怖くない。魔術師である以上死は観念して然るもの。何よりも怖いのは、塵のように消えてなくなる事。
 誰にも理解されず、誰にも覚えられず。時が過ぎ去れば風化するかのように誰の記憶からも消え去る事。それが何より恐ろしい。

 誰かに認められたい、見返してやりたいという想いはその具現だ。
 ウェイバー・ベルベットが生きた証がないままに死ねば、この身は一体何の為に生まれてきたのか分からない。

 この戦いにはその死の観念が渦巻いている。道半ばで倒れればそれこそ跡形もなく消え去るしかない。今頃時計塔の連中はウェイバーの事など頭の片隅にも残していまい。彼らの記憶に己を刻み付けられるのは勝利だけだ。

「逃げ出したくなったか。怖くなったか」

 ウェイバーの心を見透かすように赤銅の王は嘯く。

「前にも言ったがそれを恥じる事はない。死は誰にとっても平等であり、その恐怖の前には何者も抗えん。
 実際の死を前にして怖くないとか言う奴は、そりゃ頭がいかれてるってもんさ」

「……おまえも、怖かったのかよ」

 生前、道半ばで倒れたこの王にも死の恐怖はあったのか。そうウェイバーは問いかけた。

「そりゃそうさ。余の場合はどちらかといえば怖いというよりも悔しいだな。世界の果てを見る事が叶わなかった。ただそれがどうしようもなく悔しかった。こうして化けて出るくらいにな」

 呵々大笑と自らの死を笑い話に出来るのはきっとこの王くらいのものだろう。胸に宿した志、それを遂げる事無く死ぬ事に未練を抱かぬ者はいまい。
 ケイネスやランサーとて同じだった筈だ。聖杯を手に入れ祈りを捧げるその前に、崩れ落ちた悔しさは想像して余りある。

「死を恐れよ。されど決して目を逸らすな。目を背けた時、死はその首を掻き切り来るぞ」

 命を賭すのと死を恐れないのは全く違う。死を受け止め、死をあるものとして受け入れその上で覚悟する。それが命を賭すという事。
 ただ無闇矢鱈に死に急ぐ事を、死からの逃避だと思ってはならない。それはただ、目を背けているだけなのだから。

「それで、坊主。どうするんだ」

「え?」

 突然の問いかけに困惑する。

「貴様は死を知った。その呆気なさをな。その上で問うておる。このまま戦いを続けるか否か」

 このまま戦い続ければ死ぬ可能性はかなり高い。唯一人の覇者以外が駆逐されるというのなら、残り五人中四人が脱落する筈なのだから。

「怖いのなら此処で待っておれ。余は一人でも聖杯を勝ち取って見せよう」

 豪放磊落の王は唯一人でも聖杯を掴むという。彼にはそれだけ強く聖杯に託すべき祈りがあるのだ。
 サーヴァントが元より死んだ身である、というのは理由にならない。この世で死ねばそれは二度目の死に他ならない。

 だから赤銅の王はこう言うのだ。
 一度ならず二度までも、志半ばで斃れる事は出来ないと。死と比してなお尊いと誇れる祈りを叶える為、我が身一つで天地に挑む事に相違はないと。

「……前にも、言った筈だ」

「ぁん?」

「戦いは怖い。死ぬのは怖い。でもッ! 此処で膝を抱えて待ってるだけなんてのは真っ平だ! おまえが勝ち取ったもののお零れに預かるなんてのは耐えられるもんか!
 この戦いは僕の戦いだ。僕が戦うと決めたものだ! この意思を曲げない。曲げられないッ! それを曲げてしまったら──」

 もう──生きている価値すらない。

「僕はおまえのマスターだっ! だからおまえと共に行くッ!!」

 零れ落ちてきた栄光に縋りついて何になる。栄光は、勝利は。自らの手で勝ち取るものだから。
 この足で立って歩く。赤銅の王の隣を歩むと決めたのだ。違える事の出来ないその決意こそが、ウェイバー・ベルベットを奮い立たせる。

「はっはっは。うむうむ、余のマスターたる者そうでなければな。だが、事実としてこの戦い、生半可なものでは行きそうにはなさそうな雰囲気だ。ちょいと本腰を入れてやる必要があるな」

「え?」

 どかりと落としていた思い腰を上げ、赤毛の王は背筋を伸ばす。天まで届けと言わんばかりに。

「とりあえず、まずはそのランサーを討ち取ったマスターとサーヴァントの面でも拝みに行くとするか」

「はぁぁぁあ!? な、なんでわざわざ出向くんだよ! あいつらもうアサシンとランサーの二騎を討ち取ってるんだぞ!? 真正面から突っ込んで何になるんだよ、やるならこっちもちゃんと作戦立てて──ぴぎゃっ!?」

「えぇい喧しい坊主だな。さっきまであんなに神妙な顔をしとったくせにもうこれだ」

 そのささくれだった野太い指でウェイバーの額を弾き飛ばした赤銅の王は続ける。

「おまえさんの言うその作戦とやらも相手について知らねば立てようとてないだろう。
 それに奴らはこれだけ派手に立ち回りおったのだ、他の連中もさぞかし気になっておるだろうよ」

 公的には既に二騎のサーヴァントを撃破した主従。誰もが聖杯獲得を狙う以上、これが気にならない筈がない。そして他の連中も同じ思考をしているだろう事に行き着けば、自ずと答えは導き出せる。

「今を生き残っておるマスターとサーヴァント。その多数ないし全員が奴らの首を狙っておるぞ。残る連中が一堂に会す機会など二度あるかないか、この機を逃す手はあるまい」

「な、なんなんだよ……漁夫の利でも得ようって──ひぃ!?」

 伸びた指先から額を隠しながら若輩の魔術師は情けない悲鳴を上げる。どれだけ決意を固めようと本当の戦場を一度体験しただけ、死の真の意味を理解しただけのヒヨッコだ。赤銅の王と同じ器量を持てなど無理にも程がある。

「この戦に参じるは世に名を馳せた英雄豪傑だぞ? 無双の戦士共だぞ? 彼奴らと戦える機会なぞそうあるもんでもない。既に二騎討ち取ったというセイバー……ふふん、そそりよるなぁ」

 獣じみた笑みを浮かべ、立派に蓄えた顎鬚を撫で擦る。一人の戦士としての高揚。胸の高鳴りを抑え付ける事など出来はしない。

「つまり……ええと、一網打尽の腹積もりって事か?」

 言ってそれがどれだけ無謀な事かと頭を抱えたくなったウェイバーだったが、この豪放な王の様を見ていてはそれも出来てしまうのではないかと錯覚してしてしまう。それだけの力強さがこの赤銅には備わっている。

「そう巧くいけば良いがな、腹に一つや二つ何かを抱えている連中ばかりだろうて。それでも得られるものはでかいだろうよ」

 彼の言うように他の連中もまたセイバーとそのマスターの下に集うのなら、それを遠巻きに見る方が安全であるのは明白だ。わざわざ死地に赴く必要はない。
 ただ、現場でしか得られないものもあると思うのだ。たった一度とはいえ、戦場に立ったウェイバーでもそう感じる何かが戦いの舞台にはある。

 何れにせよここでこそこそと様子を窺っては先の決意に水を差す。戦うと決めた。覚悟したのだ。戦場を前に尻込む事などあってはならない。

「……分かった。行こう」

 決意を言葉に変え、此処に一つの主従が空に馳せる。
 天を裂き現れた強壮なる雷神の戦車(チャリオット)に乗り込み、向かう先は決闘場。生と死が鬩ぎ合う戦場だ。その中で生きると決めた。生き残るのだと強く強く願うから。

「ところで坊主。セイバーとそのマスターの居所、ちゃんと掴めてるんだろうな?」

「…………」

「おい」

 彼らの道行きは前途多難だった。


/6


 深緑の闇。
 昏い昏い底の底。
 闇を縛り付ける為の檻。
 育む為の揺り籠。

 深い緑の闇という奇妙な闇色の中にそれはいた。

 キャスター達の棲む闇から見れば充分に明るい暗がり。しかしそれ以上の昏さがこちらにはある。あちらの闇が純粋無垢な黒であるのなら、この闇こそは様々な色の溶けた黒緑。幾億もの色が溶け混じり合い、おどろおどろしい深淵を作り上げている。

 蠕動する深淵の中、それは自らを掻き抱くように吼え上げる。

「…………ッ、ァァァァァ!」

 声にならぬ声。音にならぬ音。喉は正常な機能を忘れ、ただただ震えるだけのものとなりつつある。

 その身を焦がすは果てなき憎悪。二重螺旋を描く狂おしいまでの憎悪だ。二つの憎悪は一つの中で鬩ぎ合い、弾け、溶け、交じり合い、そして互いを喰らい合う。
 表出するのは二つの内のどちらかだけ。身を焼くほどの憎悪の応酬の果てに吐き出されるものは怨嗟を込めた呪言に他ならない。

「と…………、ぉ……ぃぃぃぃぃいいい!」

 肉より溢れる黒い霧。それは形となった憎悪だろうか。それを包み揺らめくは、この深淵と比しても遜色のない黒で満たされている。昏い地の底で、瞳だけが妖しく赤く、血の紅色に輝いている。

「…………、────ァ!!」

 止まる事のない憎悪の念は肉の檻を食い破り、弾け出したいと暴れ狂う。憎しみの縛鎖は輪のように円環し循環する。

「A…………、ッ……t……r…………ッ!!」

 狂い吼え猛る慟哭の叫び。炎のように血のように、憎悪は何処までも何処までも美しい赤と黒の螺旋を描く。

 キィキィと蟲が哭く。
 何処かで蠢き嘶いている。

 それはきっと、肉の内側からだろう。

 生み出される憎悪を喰らい魔力を精製し、魔力は肉を駆動させる。駆動する肉は憎悪を生み出しそれをまた蟲が喰らう。

 呆れるほどの無限円環。命を糧に廻る無間回廊。但しその代償はそれの命だ。生命力が尽き果てるその時まで止まる事の許されない疾走の円環。

 ひたすらに走り続けるのは、偏にその憎しみを成すが為。

「ォォォォォォッォォォォオオオオオオオオオオオ…………!」

 絶叫と共に己を捕らえる縛鎖を引き千切る。揺り籠を必要としないまでに成長した魔人は今、遂に解き放たれた。
 自らを閉じ込める深緑の檻を食い破り、獲物を探して這い出ずる。互いに違う獲物を見定めながら、その想いは両者に一つ。

 復讐を。

 この己を闇を突き落とした者に復讐を。
 この己が味わった絶望を、貴様もまた味わうがいい。

 闇に復讐の魔人が跳梁する。

 その手を血の赤に染め上げたいと。
 この牙をその肌に突き立てたいと。

 此処に最後の一人が戦場へと疾走を開始した。
 唯一つの負の想念──己の身を焦がす憎悪を糧に、全ては復讐を果たす為に。

 そして檻の深奥。
 食い破られた深緑の闇の主は呵々大笑と嘲笑う。

「さぁ踊るがいい。お主はアレを救いたいのであろう? ならば殺せ。全てを殺せ。
 滅尽滅相──その疾走を阻む全てを食い散らかして駆け抜けぃ。走り抜けた荒野の果てにこそ、お主の求める理想郷があるのじゃろうからの」

 キィキィと蟲が哭く。
 掌の上で踊る鬼を眺めながら。

 その行く末を興味深くも眺めながら────



[25400] Act.04 後半追加+加筆修正
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:f5588bc9
Date: 2011/11/09 17:11
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 衛宮切嗣は当時、絶望の渦中にいた。

 幾多もの戦場を駆け抜け、外道を往く魔術師共を駆逐する。
 悪名高き殺し屋──魔術師殺しがその全盛を誇っていた頃、彼の内心は虚無で埋め尽くされていた。

 殺せど殺せど尽きぬ悪性。
 救えど救えど消えぬ嘆き。

 当然だ。人一人の手で為せる事など高が知れている。一人殺せば十の悪が世界の何処かで産声をあげ、一人救えば百の嘆きが遠い戦場で生まれている。

 手繰り寄せる事の叶わぬ鎖。
 決してその終端を見る事の出来ない綱渡り。

 それでも切嗣には殺す事しか、救う事しか出来なかった。
 そうする以外の術はなく、それ以外の選択肢など遥か過去に置き去りにしている。

 いつか救えなかった誰か。
 彼女の犠牲を無価値なものにしたくなくて、切嗣はただただ人々を殺し(すくい)続けていた。

 それも最早限界が近い。

 理想の破綻ではなく、現実問題としての肉体の限界。並行して行う戦場の横行。その裏で繰り広げられる魔術師殺しの業。碌な睡眠時間も食事もなく、ただ淡々と黙々と自らに課した役目を遂行していた切嗣の身体も、心ほどには強固ではなかったのだ。

 いや……その心にしても程なく限界を迎えていただろう。尽きぬ悪性。掬う端から零れていく命。心に刻んだ誓いも最早、磨り減り磨耗し欠けている。

 こんな事を続けても意味はないと。無意味だと。絶望という名の砂漠の中で、希望という名の砂粒を探すような無理難題。
 これまで心が壊れなかったのは、偏に切嗣の意志の強さ。そうする事しか出来ないという生き方は、彼の心を鉄の如く強固にした。

 それでも頭の端にはいつも過ぎっていたのだ。この世に救いはない。手を伸ばし欲する平和という名の平穏は、この世の何処を探しても見つからないと。この手一つで成し遂げるには、世界には余りにも嘆きが多すぎる。

 そんな絶望がじわじわと切嗣の鉄の心を蝕んでいた時、その依頼(さそい)は訪れた。

 聖杯。

 曰く──それを手にしたものは如何なる願いをも叶えられると。

 眉唾ものの空想。そう切り捨てるには、その誘惑は余りにも甘美であり。そして魔術師である以上、そんな奇跡はないと言い切れなかった。

 ──あってほしいと、切嗣は願ったのだ。

 このまま戦場を横行したところで全てを掬い切る事など到底不可能だ。ならば一縷の望みのその奇跡に希いたいという想いは、決して誰にも否定など出来ない。

 そしてアインツベルン──冬の一族の誘いに乗り、より詳細な内容を聞く。

 聖杯戦争。
 七人の魔術師。
 七騎の使い魔。
 殺し合い。

 唯一人の勝者にのみ聖杯は与えられる。

 聞けばその争いの歴史は既に二百年にも届くという。それほどの昔から準備用意された周到な儀式。これが虚偽ではないのは明白だ。
 何よりアインツベルンという血の系譜を重んじる典型的にして古い魔術師の家系が誇りと矜持を金繰り捨てでも勝利を欲するというのは、魔術師という生き物を良く知るが故に切嗣にはその覚悟の程がこれ以上なく理解が出来た。

 先にも述べた通りにこれは誘いであっても勧誘ではない。
 アインツベルンから魔術師殺しへの正式な依頼だ。

 これより十年の後に開かれる第四次聖杯戦争(ヘブンズフィール4)にて勝利し、聖杯を獲得する事。

 正確性を期せば聖杯の家系の悲願である第三魔法を成就させる事。それが成されるのなら他の全てなどどうでもいい。その余波で生まれる無限大にも等しい魔力の渦を、切嗣の祈りの成就に使用する事も黙認する──と。

 魔法という言葉にはさしもの切嗣も内心で驚きを示したが、彼にとってはどうでもいい代物だ。
 世界の外側の理になど興味はない。魔術師ではなく魔術使いである切嗣にとって、魔術とは目的に達する為の手段に過ぎない。

 全てを叶えるほどの膨大な魔力。その恩恵を受け、純粋無垢な祈りを捧げれば、この想いは必ず届く。世界の全てに伝播する。

 目指すべきは恒久の平和。
 争いのない世界。

 一度は膝を折りかけたその祈りを叶える術がある。
 自らの手一つでは掬い切れない嘆きでも、正真正銘の奇跡であれば全てを救える。

 その為ならば、この身この命。
 尽き果てるまで燃やし尽くす事に何の遠慮が必要か。

 鉄の心に火が灯る。
 消えかけた理想の灯火が最大級の炎を燃え上がらせている。

 此処に契約は成された。
 衛宮切嗣は聖杯戦争に参戦し、その他全ての参加者を殺戮し、聖杯の頂に駆け上がる事を誓ったのだ。

 ──そしてその後。

 北欧に居を構える冬の一族の牙城にて、衛宮切嗣は巡り会った。

 石柩を思わせる地下室。
 中心に聳える培養槽。
 満たされた液体の中に浮かぶ人型。

 人と呼ぶには余りに美しく、人形と呼ぶには余りに生気を帯びた人のカタチ。

 美しい銀糸の髪が揺蕩っている。
 肌理細やかな肌は鮮やかに。
 案内され、近くまで足を運べば、それは閉じていた瞳を僅かに覗かせた。
 紅玉かと見紛うほどの真紅の瞳が、見上げる切嗣を見つめている。

 これが彼と彼女の出逢い──衛宮切嗣とアイリスフィール・フォン・アインツベルンの逢瀬だった。



+++


「────……」

 微睡より目を覚ます。覚醒は一瞬、いつかのように残影を引きはしない。
 それでも懐かしい夢を見た事を覚えている。あれはまさに契機の瞬間。今の衛宮切嗣を形作った一つの出会いだった。

 そんな夢を見たのはきっと、この場所のせいだろう。

 石造りの古城。遥か北欧に居を構える冬の一族の牙城と全く同じ造りをしたこの城で、一夜を過ごした事がきっとその原因。
 あの冠雪と針葉樹の森に置き去りにした、誰かの記憶。

「女々しいぞ、衛宮切嗣。僕はもう、それを捨て去ったというのに」

 自嘲するように呟く。聖杯を手に入れる為、取り戻した鉄の心。アインツベルンでの十年間で絆された心の鎧は今再び覆われている。しかしそれが鎧であるのなら、僅かな隙間からその奥を見通す事も出来るだろう。

 これはそんな、温かな日々の追憶。
 決して手に入れる事の出来ない──手にしてはいけないと自戒していた温もりの在り処。

 より心を鉄に変えろ。
 冷たく冷たく。
 何処までも凍るように。

 この身は歯車。理想という機械を廻す為のただの動力。そうでなければ立ち行かない。悪鬼共が集う魔窟冬木での闘争を勝ち抜く事など到底出来ない。

 聖杯を掴み祈りを叶える。その一念の為、全てを捨ててきた。あの常冬の森に置いて来たのだ。
 原初の誓いを違える事は、衛宮切嗣の崩壊を意味している。理想を成す──その夢の為の歩みを止める事は出来ないし、するつもりもない。

 今の切嗣にとって、アインツベルンでの十年などただの茶番。
 聖杯を掴む資格を得る為の必要条件に過ぎない。あの温もりも、冬の翁との契約を遂行しただけに過ぎない。

 ああ……それでもこの掌は、あの温もりを覚えている。

 アインツベルンからの条件提示は聖杯の獲得。
 切嗣からの条件提示は成就の余波によって生まれる魔力の行使権利を得る事。

 そしてもう一つ──戦いにおいて必勝を約束する為に切嗣が提示した条件。
 それこそがこの世から失われたと目される、伝説の騎士王の鞘を発掘する事。

 英霊を召喚し使役すると聞いた時、思い浮かんだのはその王の伝説だった。

 切嗣のような影から影に跳梁する殺し屋が持ち得ない、純粋無垢で圧倒的な力を持つ騎士の王。並み居る英霊を真正面から打ち倒し得る力量を持つ者。そんな存在が必要だと思ったのだ。

 マスターとの親和性という観点から見るのなら、アサシンやキャスターこそが有用だったのだろうが、あえて切嗣は正統派の英霊を望んだ。
 自分自身の力量を弁えている切嗣にとって見れば、同位の存在の持つ強みとそして弱みさえも理解が出来たが故に。

 確かに暗殺者や魔術師の英霊を引き当てれば序盤は優位に事を運べるだろう。だが後半になるにつれ、敵は減り強者だけが生き残る。
 当然にしてそんな奴らは警戒心が強いしマスターにしても同様の力量を持つだろう。そんな連中相手に背中を狙うしか能がない英霊は役に立たない。

 究極、最後の一騎を討ち取るという段になってセイバーないし三騎士クラスが残っていては、アサシンやキャスターでは役者不足に過ぎるのだ。いかにマスターを狙い撃とうとしても、サーヴァントが足止めにさえならないのなら勝機はゼロだ。

 故に求めるべきは自身の持ち得ない正統にして最強の力を持つ英霊。過去三度の戦いにおいて常に上位に在り続けたセイバーのクラス。そしてその剣の座においておよそ最強に近き王。

 ブリテンの赤き竜──アーサー・ペンドラゴンこそが勝利する為の最上の駒である、と。

 そして彼の王だけでなく、その鞘がなくては確実には勝利し得ない。そう翁を説得し、切嗣は無理難題とも言える条件を呑ませる事に成功した。その代わりに提示されたものは、冬の聖女──アイリスフィールとの間に子を生す事だった。

 錬金術の秘奥を以って製作されたアイリスフィール・フォン・アインツベルンの身体は人のそれと遜色はない。違いがあるとすれば成長の速度、人としての感情の機微。子を生す事にどちらも関係はない。

 まさしく最初は茶番だった。人の形をしているとはいえ、人と変わりはないとはいえ、その身は人形。だが切嗣には人形と交わる事にも抵抗はなかった。
 理想の為。契約の履行。凍てついた心を未だ持っていた切嗣にとっては、目的を遂行する為に身体を重ねる行為も銃の引き金を引くのと変わりない所作だった。

 ──では何時からなのだろうか。

 彼女との会話が、楽しいと思ったのは。
 こんな日々が何時までも続けばいいと思ったのは。

 そしてこの掌で、生れ落ちた幼子を抱いた時──衛宮切嗣は涙を零した。

 幼少期、大切だった少女を殺せ(すくえ)なかった時以来の、涙。

 衛宮切嗣の守りたかったもの。
 手に入れたかったもの。
 ずっと続くと思っていた、この温かな日々こそが────……

「────くだらない」

 切嗣は自らの追憶を、その一言で遮断した。

 それは思い返してはいけない記憶。
 浸り続けてはいけない微温湯だ。
 だから置いてきた。
 捨て去ったのだ。

 この心を焦がすのは凍てついた炎であればいい。溶けない氷のように何処までも固く凍りつき、何処までも高く燃え上がれ。微温湯は必要ない。理想を成すのに不必要な全ては捨て去ってしまえばいい。

 懐に手を伸ばし、煙草を一本引き抜いた。付属品だったライターで火を灯し、紫煙を胸いっぱいに吸い込み吐き出した。
 懐かしい味。心を焦がす味だ。この煙と臭いをアイリスフィールは苦手だと言っていた。

 硝煙と血と煙草。魔術師殺しであった頃の切嗣を象徴する三つの要素。その全てが今や手の内にあり、一度は掴んだ温もりは、とうに手離し捨て去った。

 この手に担うは黒鉄の銃身。乱れ舞うは血の風。胸を焦がす紫煙だけが、この心を癒してくれる。

「…………」

 一度瞳を閉じ、開いた時。既に切嗣の瞳は冷徹な色を宿していた。昨夜、ロード・エルメロイの一派を惨殺し尽した時と同じ、闇色の黒を。

 背を預けていた壁から身を起こす。身体状態を一通りチェックし、ある筈がないと確信している異常を今一度と走査した。結果、身体に異常はない。固有時制御により生じた痛みも欠片も残っていない。万全の状態。不備はない。

 視線を僅かに揺らし壁の向こうを覗き見る。実際に透視をした訳ではない。レイラインにより結ばれている存在の居所を窺っただけだ。

 契約により互いの居場所をある程度知覚出来るマスターとサーヴァント。切嗣のサーヴァントであるセイバーもまた、この古城の何処かに移動して来ている。

 昨日の作戦行動の後、舞弥を通してセイバーには次の作戦の為の手筈を伝えていた。

 誇り高い騎士の王が、こうも悪辣な切嗣のやり方に碌な反論もなく従っているのは彼自身僅かな不可解を覚えたが、使えるのならそれでいいと割り切った。
 昨夜の別れ際、何かを言いかけていたが飲み込んだ事も含め、彼女には彼女なりの目的があり確固たる意志がある。

 彼女の祈りを知っている。切嗣のそれと酷似した清い祈りを。その祈りの成就の為、彼女もまた修羅の道を歩むと覚悟しているのだろう。互いに会話はなくとも理解している。やるべき事を納得している。

 聖杯を掴み取る──この絶対の利害が一致している間は、二つの歯車に齟齬はない。

 ならば我らの間に言葉は不要。
 ただ行動によってのみその意志を示そう。

「さて……」

 室内には舞弥に運び込ませておいた銃火器の数々。全てのチェックは既に終えており、いつでも使用可能。
 当の本人である舞弥はこの城にはいない。切嗣の作戦通りに事が進めばこの森に今を生き残る連中が集う筈だが、そうはならない可能性も考慮し舞弥には冬木市内の監視を任せてある。

 この森にまでは舞弥からの通信も届かない。セイバーと会話をする気のない切嗣は、文字通りに言葉を交わす事無く彼女を扱わなければならない……

「その必要もないか。手筈は既に済ませてある」

 休んでいた部屋を辞し、一階ホール横にあるサロンへと赴いた。そこに待っていたのはセイバーではなく、白い装束を身に着けた、アインツベルンの侍従である。

「おはようございますエミヤキリツグ様」

「挨拶など必要ない。現状を報告しろ」

 彼女はこの古城──六十年間無人であったこの城の整備を任された侍従である。前回よりほとんど放置に近い状態で捨て置かれた拠点を今回再び使えるようにする為だけに派遣されたホムンクルスだ。

 その甲斐あってか古城の内部はかつての栄華を取り戻している。それこそ廃城にも近かった惨状を彼女一人で整備を済ませた事は驚嘆に値しよう。

 そして彼女に与えられた役目はもう一つある。

「はい。現在の所侵入者の気配はありません」

 テーブル上に置かれた水晶球は目まぐるしく写し込む風景を変え、幾つもの場所を監視している。

 アインツベルンの森に張り巡らされた結界は、彼の血脈に連なる者にしか起動使役出来ない。冬の一族に招かれたとはいえ切嗣は所詮雇われの身だ。錬金術の大家である彼らの術式の一切を伝授などされていない。

 電子機器や使い魔の瞳で監視の代用は出来たであろうが、森の広大さを思えば非効率に過ぎる。アインツベルンのアドバンテージであるこの拠点を正しく扱おうというのなら、彼女のような補佐役が必要不可欠だったのだ。

「……セイバーは?」

「森を俯瞰出来る最上階の一室にいらっしゃいます。この場に居ては、キリツグ様の邪魔になるだろう、と」

「…………」

 彼女は彼女なりに自分達の在り方について理解している。余計な干渉は相互にとって不利益しか生まない。いや、切嗣が干渉を拒んでいるのなら、彼女もそれに倣うという事か。剣としては上出来な考えだ。

 もし切嗣のようなマスターでなければ、彼女もまたそれに合わせた在り方を示したであろう。仕えるマスターによって色を変えられるサーヴァント。なるほど、最優のクラスは伊達ではない。

「キリツグ様」

 その時、水晶球に映り込んだ風景に異変が生じる。

「来たか」

 森の監視網に引っ掛かった哀れな獲物。入り口付近での観測ゆえにまだ距離はかなり離れている。それでも万全の準備を整えるだけの猶予を得られるのは、この拠点ならではの利点だ。

 そしてこれまでの作戦行動が実を結んでいるとすれば、もう一つ利点が生じる筈だ。

「セイバーには待機を命じておけ。後は勝手に判断するだろう。それを終えれば監視ももう必要ない。巻き込まれたくなければ何処へなりと消えてくれ」

 敵がこの城を目指して森に踏み込んでいる──それを観測出来ればそれでいい。後の仕事は衛宮切嗣の領分であり領域。

 森にマスター達が集うのなら、当然にして彼らはこの城を目指す。その過程で他のマスターとかち合う可能性は低くない。城に近づけば近づくほどにむしろ高くなる。

 彼らは決して共闘関係などではない。ただ単純に今一番目障りな切嗣の陣営を始末しようと乗り込んで来るだけだ。ならばその過程で他のマスターとエンカウントすれば、当然戦わざるを得ない。

 ──互いに尾を喰い合え狩人共。僕はその背を狙い撃たせて貰うまでだ。

 獲物を求めて森に踏み込む狩人を狩る暗殺者。

 此処は狩人が狩られる森。
 また一つ首級を奪い取る為──稀代の暗殺者は行動を開始した。


/2


 冬木市郊外に広がる森には一つの噂がある。

 曰く──その森の深奥にはあやかしの城があると。

 現実問題としてこの航空機の発達した現代で、いかに背の高い木々が軒を連ねる森であろうとも、城と呼称される程に巨大な建造物が存在しているのなら上空より観測されないというのは有り得ない。

 地図の上でもそんな城は存在しないし、所詮は噂の域を出ない眉唾物の風評。それが世間一般の認識だ。
 それでも年に数人この森に迷い込み、あやかしの城を見たと吹聴する輩は後を断たない。

 そもそも発展目覚ましい冬木においてこれほど巨大な森がなお健在であるのは不可解と言える。緑生い茂る森というわけではなく、どちらかと言えば死んだ森ならば尚の事。
 枯れた木々、乾いた土、日の光の届かぬ深いだけの森がなお公的機関の手が入る事を免れているのは、この一帯が私有地であるからだ。

 アインツベルンという北欧の一族が所有しているこの森。噂に流れるあやかしの城。その実在は、彼らと同位の者にしか知られていない。
 錯覚による認識の齟齬という簡易な結界を、けれどこの広大な森林一帯に展開し続けているその実力。千年の研鑽と血統を今なお保つ純血の一族。同じ魔術師であればこれに敬意を抱かぬ筈がない。

「まあそれも、部外の血を取り入れた事で地に落ちてしまったかな」

 優雅な足取りで森を往くは正調の魔術師遠坂時臣。彼の足取りに迷いはない。常人であれば認識と感覚を狂わせるこの森において目的意識を持って歩き続けるなど不可能に近いが彼もまた優秀な魔術師の一人。

 広大であれど程度の低い認識阻害の結界など取るに足りぬと足取りには迷いなく森を踏破する。

 その傍らには黄金の姿。目に眩い煌びやかな鎧を纏い、時臣の後を追随する。

「王よ。今更ではありますが、御自ら歩かずとも良いのでは?」

 サーヴァントとは霊体だ。マスターからの魔力供給を自発的に遮断すればその身は実体を失い霊体となる。魔力で構成された肉体であれど疲労はあるし何より意味のない実体化はマスターにとっても不利益だ。

 これより戦いに臨もうという時に余計な魔力消費を抑えたいと思うのは魔術師であれば当然だ。そしてこの黄金の性格を慮れば、時臣に道案内だけをさせ自らは高みからの俯瞰を決め込んでも良さそうなものなのに。

「何、気にするな。これは我が好きでやっている事だ。どうせ現界したのなら仮初めとは言え肉の身体がある方が心地良い。
 それになあ、時臣よ。もし仮に我が霊体化している隙を衝かれては、貴様には為す術などあるまい?」

 それは決して時臣の身を案じての言葉などではないだろう。黄金が見初めた宝石と巡り会う為に、魔力供給源である時臣に今死なれては少しばかり面倒になる、程度の認識しかあるまい。

 アーチャーが如何に単独行動のスキルを保有していたとしても限界はある。マスターからの供給なしでの全力戦闘、長期間の現界はこの黄金を以ってしても不可能なのだから。

「王がそう言われるのであれば構いません。やがて城の尖塔でも見えてくる頃合。それまでどうか──」

 言い差して、時臣は正面に向けていた視線を右方に投げる。

「気付いたか。どうやら貴様の読みは当たっていたようだな」

 衛宮切嗣があれほど大々的に動き回ったのは敵の排除は無論の事、今この時を見据えてのもの。
 未だ隠れ潜むマスター連中を引き摺り出すには衆目を集め厄介な敵であると認識させ、同時に早期脱落を狙わせなければならない。

 ある程度の知恵が回るのなら、この程度は読めて当然。そして他の者達も同じ思考に至ると考えるのなら後は単純、世俗の目の届かぬこの森は大規模戦闘を行う上で誂え向きの戦場だ。

 誰に憚る事無く戦える上、他の連中が集う以上は己もまた参じなければならないと思わせる。此処で様子見をしては、英雄としての格を疑われるからだ。

 数多の英雄豪傑が集う決闘場に馳せ参じ得ない臆病者なぞ誰にも相手にされはすまい。ここまで周到に用意された戦いの舞台に背を向けた者は、二度とは同じ高みに立てぬと宣言されるようなものなのだから。

 だから少なくとも英雄の自負を持つ者はこの森に既にいる筈だ。それぞれ違う目的を携えていたとしても、その芯は同じ熱を宿しているのだから。

 ただ今時臣とアーチャーが見咎めたその存在は、果たしてそんな英霊の矜持を持つに足る者なのか。

 梢の向こう──緩やかな歩みで城に惑う事無く邁進していた厚手のローブ姿のサーヴァント。
 その異様……とてもアーチャーと同格の英霊とは思えない。何より奇怪なのは、そのサーヴァントは幾人もの子供を引き連れ森を練り歩いていた事に尽きる。

「おや……」

 時臣達が気付いたように、向こうもまたこちらに感付く。ギョロリとした双眸が無遠慮に二人を舐め回した。

「ほうほう、これはこれは。ああ、なるほど。あなた方もまた、彼女の威光に心奪われた者なのですね」

 そんな意味不明な言葉を述べながら、時臣達のいた僅かに開けた場所へとそのサーヴァントは姿を現した。

「ええ、ええ、分かりますとも。彼女こそはこの醜悪な世界に生れ落ちた最後の光。比するもののない至高の煌きだ。その輝きに惹かれ、火に飛び込む蛾のように誘われるのも致し方なき事ですよ」

 奇妙とも呼べる笑みを浮かべながらローブのサーヴァント……時臣はキャスターと当たりをつけた者を見やる。

「おまえは一体……何を言っている?」

 当然、錯乱にも等しい状態にあるキャスターの言は常人には理解し得ないものであり、時臣にはとてもではないが同じ言語には聞こえない。
 うわ言戯言妄言。そんな言葉ばかりが脳裏に過ぎる。そしてこんな英霊とも似ても似つかない怨霊めいた者がサーヴァントとして現界している事に酷く憤慨を覚えた。

「語る言葉を持つのなら問いに答えて欲しい。おまえの後ろにいる子供達……それは一体なんだ」

 キャスターの後を夢遊病患者のような足取りで着いて来ていた十名余りの子供達。彼らは無論、この戦いとは無縁の一般人だ。恐らくはキャスターの術中に落ち、こんな場所にまで連れて来られたのだろう。

「この聖杯戦争に招かれるは世に名を馳せた英傑達。御身がその末席に座する者であるのなら、その矜持に則り無垢な子供達をこんな争いに巻き込むな」

 そんな外道は衛宮切嗣一人で充分だ。その言葉は口にせず、眼前の怪奇なる英霊を見据えた。

「ああ、なるほど。彼らの身を案じておられると。心配などいりません、私とて無用の犠牲を払う気はありませんとも。彼らは私と聖女との邂逅に必要な贄。手土産──と呼ぶべきですかねぇ」

 キャスターが僅かに右手を上げる。その仕草に応じたのか、一人の少年が両者の間に歩み出る。ぱちん、と指を鳴らせば、びくりと身を竦ませた少年は次の瞬間、その頭蓋を破裂させ赤い血飛沫を撒き散らした。

「貴様────ッ!」

「おお、やはり人の血は美しい。子供のそれは特に格別だ。これほどに美しい花束であるのなら、きっとジャンヌもお気に召してくれるでしょう」

 ジャンヌ……? それはジャンヌ・ダルクの事を言っているのか。

 救国の英雄、オルレアンの乙女。神の声を聞いたとされる、人々を導きし聖女。異端審問に掛かり数々の拷問陵辱を受け、その最後は火刑に処されて失意の内に死んだとされる気高く美しい乙女。

 彼女の事を言っているとすれば、この眼前のサーヴァントはそれに連なる者であろう。セイバーがジャンヌ・ダルクであるという確信は持てないが、少なくともこのキャスターは聖女を知る者には違いない。

 いや、今はそれはいい。目の前の外道の真名に触れる一端を知れたのは僥倖だが、それよりも今、目の前で展開された事態にこそ目を向けなければならない。

「……これは一体どういう了見かなキャスター。無意味な犠牲を出さないと口にした直後のこの所業……貴様、本当に英雄か」

 英雄という存在に幻想を抱く者は数多い。高潔であり気高くあり芯に強い意志を秘めた存在。それが英雄と呼ばれるものだ。
 多くの人々の賞賛と羨望を集めただけの何かを持ちえる者でなければならない。こんな外道が英雄であるなどと、そんなものは受け入れられる筈がない。

「いいや、時臣。彼奴は充分に英雄だぞ。ただその芯がおまえの認識と決定的に違っている──という点を除けばな」

 これまで沈黙を貫いていた黄金が一歩前に歩みである。目の前の怪奇なる英雄を睨め付ける。

「彼奴はその目を焼かれた光しか見えていない。他の全てが二の次だ。至高と信ずるものの為、全てを覆す芯を持つ。
 たった一つの為に全てを捨て去り、心魂を捧げた光の為に命を賭ける。そしてそれだけで座の高みに上り詰めたのなら、そら、それは充分に英雄だろう」

 唯我を誇るこの黄金は、決して他者を認めぬ狭量ではない。世界最古の王。英雄と呼ばれる者達の頂点、先を行く者であるのなら、当然にしてその下にいる者共を認めない理由がない。

 眼前の怪物を前に、如何に狂い、如何に錯乱し、如何に潰れた瞳で偽りの輝きを見ていようとも、その身は英雄には違いないと。

「ほぅ……中々の慧眼の持ち主のようだ。この青髭めがジャンヌとの再会に際し、邪魔立てする者ならばこの場で駆逐するのも吝かではない思っていましたが、貴方ならば同道を許しても構わないやもしれません。
 貴方もまた我が光に恋焦がれた者なのでしょう? ならば共に迎えに上がりましょう。我らが乙女を。神の愛に穢れてしまった彼女を救い出すのですッ!」

「自惚れるな雑種。それとこれとは話が違う。アレは貴様のものなどではない。アレは我が手に入れるものだ」

 瞬間、黄金の背後に浮かび上がる無数の渦。黄金の輝きを湛えた泉から湧き出るは鋼の刀身。そう認識した直後、鋼の剣群は射出されて空を切り、キャスターの従えていた子供達の心臓を違う事無く貫いた。

「王よ! 何を……!」

「あの稚児共はどうせ助からん。生きたまま奴の慰み者になるくらいならば、我は死を遣わす。それが慈悲というものだ」

 先のように無益に命を散らされキャスターの傀儡になるのなら、黄金はその前に彼らの命を断つ。
 そこに救いはない。この場に連れて来られた時点で子供達の命脈など既に尽きている。どの道助からない命であるのなら、せめてもの慈悲として我が手に掛かり死ね──そう彼は告げたのだ。

 全てを救おうとして足掻き、結果浅ましい末路を迎えるくらいならば何も知らぬ内に死んだ方がまだ救いはある、と。
 それがこの黄金の王の持つ慈悲。己の信ずる善により混沌を為す者。無意味な生よりは価値ある死をこそ望むのだ。

「お、おお……おおおおおおおおおおおおおッ! なんという……なんという事を! 我が乙女に捧げるべき花が、血が、贄がっ!
 度し難い……度し難いぞサーヴァント! 私と乙女の邂逅を邪魔立てするつもりならば容赦はしないッッッッ!」

 キャスターは怒りも露にローブの内より一冊の本を取り出した。分厚い装丁の、見る者が見れば分かる人の皮で覆われた魔道書を。

「戯言は良い。さっさと来るがいい。我とて貴様などと共に愛でるべき宝石の下に赴こうとは思っていないのでな。此処で死ね」

 魔術師の英霊の詠唱完了と黄金が剣群を展開したのはほぼ同時。つい今ほど刃に貫かれ絶命した少年少女の屍肉より、生まれ出ずるは異界の理。キャスターの手にする魔道書の力によって召喚された異界の魔物共がその腸を食い破り姿を現した。

 見るからに醜悪、度し難い程に奇天烈な異形の魔物共を見咎め、憤慨も露に黄金は命を下す。彼の背後で王の号令を待つ宝剣宝槍に。

「我の庭たるこの世界に、よくもそんな穢らわしいモノを産み落としてくれたな。万死に値するぞ雑種────!」

 世界を自身のものと言って憚らない王者の逆鱗に触れた者の末路など考えるまでもない。
 せいぜいが死するその時まで舞台の上で踊り狂い足掻けと、王者の咆哮と共に戦いの幕は此処に上がった。


/3


 古城の最上階。その一室に彼女の姿はあった。

 窓辺に寄り添い眼下に広がる灰色の森を見下ろしている。その瞳に映るのは、果たして本当に深海のような森なのだろうか。

「戦いが……始まっている」

 戦闘の余波はここまで届いている。最上階から見下ろしてすら背の高い木々に阻まれ戦場は見通せないが、確かにその気配は感じ取れた。

 セイバーは何も戦鬼というわけではない。戦いに明け暮れる事をよしとする戦闘狂いではないのだ。

 彼女が剣を執るのはいつも理由があった。国を守る為。国を救う為。その為ならばこの手は如何に敵の返り血で塗れようとも構わなかった。守りたいものの為に剣を執る事に迷いなどなかった。

 だからと言って彼女が戦いを好んでいたかと訊かれれば、当然にして答えは否。必要に駆られなければ剣を執る理由はないし、争う事をよしとしない。
 孤高の王であっても、その身と心はその成長を止めた頃より変わっていない。少女は何処まで行っても所詮少女でしかないのだから。

 もし仮にセイバーの祖国が平穏な治世であったのなら、彼女は賢君として世に名を残していただろう。あの騎士達とここまで大きな軋轢は生まれなかっただろう。

 奇しくも世は戦乱の時代。求められたのは力による治世だ。少女の身であった彼女が──如何に魔術師の力を借り男性だと偽っていたとしても──他の騎士達に認められる為には勝利を齎す以外に有り得なかった。

 一度でも膝を屈せば非難は矢のように降り注ぎ玉座を追われていただろう。だが彼女は戴冠してからの戦い全てに勝利した。一度たりとも膝を屈さず、幾度追い返そうとも襲い来る蛮族共をその度に追い返し続けた。

 王のやり方に難色を示す者はいたが、結果として勝利を約束し続けた以上は非難の声も小さかった。
 国が維持され民の平穏が守られ続ける限りは、誰一人として王の治世に口を挟む事はなかったのだ。

 そう──あの時までは。
 あの、理想の騎士が王城を去るその時までは。

「…………」

 零れそうになる言葉を飲み込んで、セイバーは窓硝子に手を添え広がる樹海に視線を落とした。

 今もこの森の何処かで戦いが行われている。主の代行者として戦う為に喚び出されたサーヴァントならば、今すぐにでもこの城を飛び出す戦場に参じるべきなのだろう。一つ首級を奪えばそれだけ目指す聖杯の頂は近づくのだから。

 しかしそれは別段セイバー自身がなさなければならない事ではない。他のサーヴァント同士が互いに殺し合う事を止める謂れはないのだ。
 より簡略に言えば、何も全てのサーヴァントにセイバーが手を下す必要はない。他の連中で鎬を削りあうのだから、無用な戦いに臨む必要はないのだ。放っておけばこちらが手を下さずとも幾人かは脱落してくれる。

 特に今、この森の現状を思えば静観こそが重畳。この拠点まで辿り着いた者だけを相手にすればそれで済む話なのだから。

「切嗣もおそらくは、私にそれを望んでいるのでしょうから」

 この城を管理しているという侍従に待機を告げられたのはつまりそういう事。未だ素性の知れぬマスターとサーヴァントは複数存在している。切嗣は今頃戦場を監視し敵戦力の把握に努めているだろう。

 おそらくはこの森で敵を討ち果たす心積もりはあるまい。切嗣の餌に誘き寄せられた連中の姿形と能力の把握を最優先とし、討伐は各個撃破が最善だ。
 セイバーもかつては騎士を率いる王として戦場を駆け抜けた者。戦いに関しては一過言を持つ。

 戦いは乱戦になってしまっては趨勢が読めなくなる。特に今、セイバーが目下最大の敵と目されている以上、全てのサーヴァントが敵に回りかねない。
 そうなってしまえば後は撤退が最上であり、如何にして戦場を離脱するかに終始する他なくなるのだから。

「それでも私にも、譲れぬ一線がある」

 英雄としての矜持。奇襲強襲は認めても、騙まし討ちは好まない。騎士としての誇りを持つのなら、今眼前に広がる決闘場から目を背ける事は出来はしない。

 ランサーとの決着をあのような形で終えるしかなかったというのは、彼女の心を甚く傷つけた。
 騎士道精神に則るつもりはない。これは殺し合いであり試合ではない。正々堂々戦うだけが全てではない。勝利を。栄光を。聖杯をこの手に。

 その為ならば清濁併せ呑むと決めている。それでも騎士として戦いを挑んで来た勇者をあんな形で斬ってしまった事は後悔に余りあるのかもしれない。

「ふふ……騎士に怨嗟の声を投げかけられるのも慣れてしまっている身であるのに、なんと女々しい事かアルトリア」

 今一度己を戒める。譲れぬ一線。獣と人の境界線。その境界線上に立ってなお、聖杯を掴むのだ。罵詈雑言も汚泥とて、飲み干す覚悟があるのなら。何より優先すべきものがあるのだから。

 その時──森の彼方より怒号が響く。

『この世に招かれし英雄豪傑よ、この地に集いし兵共よ! その身に英雄としての誇りを宿すのなら、こそこそせずにその姿を見せるがいい!
 我が声を聞き届けながらに姿を見せぬ臆病者は、この征服王イスカンダルの謗りを免れぬものと知れぃ!!』

 森を斬り裂く大咆哮。天地に向けて謳われたその宣誓は、この森に踏み込んだ全ての者に届けられた。

『特にセイバー!! これまでの獅子奮迅ぶりが偽りでないとするのなら、早く姿を現さんか! 誰もが貴様の登場を望んでおるぞ! それでも姿を見せぬというのなら、この森ごと平らにして晒し者にしてくれよう!!』

 剛毅にて快活。嫌味のない大言は、まさに王者の空言だ。英雄の矜持を持つのなら決して耳を塞ぐ事を許されない挑発。
 それを馬鹿げたものだと一笑に附せたのなら、どれほど楽だった事か。

「……すまない切嗣。私にもまだ、一握りの誇りが残っているらしい」

 瞬間、ダークスーツを覆い包む青のドレスと白銀の甲冑。戦支度は一瞬であり、伸ばした腕は窓を開く。
 城の巨大さに応じた窓枠に足を掛け、滑るように城の壁面を降り、下降の力と魔力放出を相乗し、セイバーは壁面を蹴り上げ宙を舞った。

 自らに残った一握りの誇りを胸に秘め、此処に赤銅、黄金に次ぐ白銀の王が戦場に向けて空に舞った。


/4


 時間は僅かに遡り、戦端が切って落とされた直後。
 森中心部での戦闘──アーチャーとキャスターの戦いは既に泥沼の様相を呈していた。

 黄金の繰り出す剣槍の投擲はまるで爆撃のように森の一帯を薙ぎ払う。それに巻き込まれるようにキャスターの生み出した怪魔達は爆散し弾け飛ぶ。問題は、それだけの攻撃を受けてなお怪魔の数が減らない事。

 いや、むしろその数は増している。剣斧の投擲により弾け飛んだ怪魔はそれでなお活動を止めず、千切れた己が肉を媒介に更なる怪魔を産み落とす。
 それはさながらどれだけ分裂しようと増え続けるアメーバのよう。単細胞生物の如く、ダメージを意に介す事無く増殖し続けている。

 その無限増殖に拍車を掛けているのは、他ならぬアーチャー自身の手抜きだった。

 彼の戦闘能力を思えば、ただ増え続けるだけの低級の魔物など一瞬で蹴散らすくらい容易い筈だ。それをこの黄金はせず、まるで出し惜しむかのように宝剣宝槍を一挺二挺と繰り出すばかり。

 当然、そんな光景を横で見ている時臣は気が気ではない。
 自身の招来した最強の自負があるサーヴァント。それがこんな英霊もどきを相手に梃子摺るなどあってはならない。そんな事があってしまっては、時臣の描いた未来予想図が早くも瓦解してしまう。

「──王よ。戯れはこれまでに。どうかその財の限りを尽くし、あの英霊にあらざる者に誅罰を」

「そう慌てるな時臣。我は何よりも愉悦を尊ぶ。吹けば消し飛ぶ程度の輩であるのなら、相応の力で相手をしてやるのが重畳だ。
 我が庭たるこの世界に異物を持ち込んだ輩であるのだぞ? 瞬きの間に消し飛ばしてしまっては貴様の言う誅罰足りんではないか」

 ────せめてその死に様で我を愉しませよ。

 そう口にはせずともこの王の言いたい事は時臣にも理解は出来た。無論、納得など微塵も出来はしなかったが。

「ゲテモノの方が味は良いという。この世にはないモノであるのなら尚の事。
 出し惜しむ事無く全てを尽くせサーヴァント。我の意に叶わぬその時は、無残な死に様をくれてやろう」

 一挺一挺が爆撃並威力を放つ宝剣宝槍の射撃は戦場を制圧している。王は口元に余裕の笑みを浮かべたまま一歩すら動く事無く趨勢を握っている。
 対する青髭を名乗ったキャスターの面貌に張り付くは狂気の形相だ。

 心酔し信奉した乙女との逢瀬を邪魔立てされたのみならず、こうまで小馬鹿にされては如何にその身が狂気に侵されていようと怒髪は天を衝いて余りある。

 彼は手にする魔道書──『螺湮城教本(プレラーティーズ・スペルブック)』の魔力炉を最大励起させ使役する。

 キャスターは自身が有能なサーヴァントではない。手にする友より賜れたスペルブックこそが真骨頂なのだ。
 無論、その能力を最大限に引き出せる狂気があってのものである以上、彼以上にこの魔道書を使いこなせる輩はあるまい。

「さあさあさあ! 出でよ湧き出よ我が子らよ! 我が愛する乙女との邂逅を邪魔立てするあの神の差し向けた刺客を打ち滅ぼしなさいッ!」

 俄然、勢いを増し増殖を続ける怪魔の群れ。今やそれほどの広さのない戦場を埋め尽くさんばかりにその勢力を増大させている。
 見るもおぞましい異形。繰り出される宝剣の爆撃は並み居る怪魔を飛び散らせ、結果より多くの怪魔を生み出す手助けをしている。

 鼓動の如く揺らめき増え続ける様はまるで増殖する臓腑のよう。奇怪に波打つ異形はその位置取りを刻々と変化させ、戦場を埋め尽くし、気が付けば時臣とアーチャーを包囲していた。

「さあ! どうするのですサーヴァント! 貴方が小馬鹿にした我が子らは遂にこの戦場を制圧した。貴方が如何に優れた英霊であろうとも、この数に襲われてはひとたまりもありますまい!?」

 気勢の逆転を見て取ったか、キャスターは狂気乱舞と声を上げる。彼の指先一つで怪魔の群れは一瞬でアーチャー達に襲い掛かり喰らい尽くす。
 腹を空かせた異形の食事は恐らく凄惨に余りあろう。少なくともこの世のものとは思えないほどにおぞましい食事になるだろう。

「…………」

 そんな状況の中、黄金は己を包囲する汚らわしいモノを睥睨する。瞳を合わせれば腐り落ちそうな程気色の悪いそれらを見やり、

「この程度か?」

 そう、まるで無感情に憚った。

「……何ですと?」

「我は言った筈だが。出し惜しむ事無く全てを尽くせと。ならばこれが貴様の全力か」

 数こそ多いがその全ては低級の魔物の群れだ。一魔術師であっても抵抗する事は不可能ではないレベルの怪異に過ぎない。
 怪魔の特性はあくまでその異常な生命力と再生力、そして繁殖力だ。数に物言わせた集団での嬲り殺し、持久戦が真骨頂。故にこの状況は怪魔を扱う上で最大の状況であるのは間違いない。

 そんなものを無論知った上で黄金は憚った。この程度か、と。この程度の異形しか産めぬ木偶なのかと。

「興醒めだ。我を愉しませるに値せぬ輩は疾く死ね」

 黄金の王の右腕が水平に伸びる。刹那、包囲する全ての怪魔に照準を合わせたかのように無数の──否、無尽の如き数の宝剣宝槍、数多の武装が展開される。

 怪魔達の蠢く地平が全てを飲み込む夜の闇であるのなら、黄金の展開した剣群は夜を照らす星明かり。
 駆逐されるのは果たしてどちらか、その裁断を下す王の号令が今、下される───

「お待ちください、王よ」

 その気勢を削いだのは、他ならぬ時臣だった。

「何故止める? 理由なき諫言ならば相応の報いを以って遇すぞ」

「何、理由は単純です。この程度の低級の魔物など、王の手を煩わせるまでもない」

 言って、時臣は手にした樫材のステッキを回転させる。天頂に象眼された極大の紅玉(ルビー)が炎のようにその彩を輝かせる。

 黄金と青髭の対峙を時臣はただ呆と眺めていただけではない。彼は彼なりに戦場に意識を張り巡らせ、第三者の視点から俯瞰し、冷静に場を見つめ続けていた。
 それと同時に身体に刻み込んだ魔術刻印の回転数を徐々に上げ、黄金の爆撃と怪魔の増殖の合間に密やかに術式の構築を進めていたのだ。

 この森には現在多くのマスターとサーヴァントが潜んでいると時臣は睨んでいる。ならば今こうして戦端を切ってしまった我らを監視する者の目を気にしておくべきなのだ。

 聖杯戦争における情報の重要性を見誤ってはいけない。一枚でも切るべき手札は少なくしておくべきなのだ。特にこの黄金の能力について、看破される事は時臣の敗退を意味しているも同然なのだから。

 如何に最強の自負があろうとも、対策を取られては不味い。究極的に言えば、複数組で同盟でも組まれては不敗でいられるかどうか分からない。
 最強を最強のまま運用しようというのなら、最強である事を秘し、能力の一端においても秘せる情報は秘すべきなのだから。

 故に今、明かすべきは己自身の情報で必要十分。この程度の低級の魔物の群れなど、我が炎にて焼き尽くして余りある──!

「我が敵の火葬は苛烈なるべし(Intensive Einascherung)」

 瞬間、戦場全域に浮かび上がる巨大な魔法陣。地より天へと逆上る炎の柱が顕現し、幾百の怪魔共を一匹残らず飲み込んだ。
 その中心に立つ時臣とアーチャー以外の全ての存在を灰燼に帰せ、とばかりに炎は猛り狂い、並み居る怪魔を灼熱の舌は捕らえて離さず、異形の者共の悲痛な絶叫をすら消し炭と化して、太陽の輝きは夜の闇を払拭した。

「お気に召して頂けましたかな、王よ」

「ふん……」

 天へと消え去った炎の柱の後に残されたのは、更地となった戦場と無傷の時臣とアーチャー。そして難を逃れたキャスターのみであった。

「お、お、お、お、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

 戦慄くキャスター。よもやサーヴァントではなくたかだか人間の魔術師程度に己の使役する怪魔を殺し尽くされるとは夢にも思っていなかったに違いない。

 しかしこの手には今だ魔道書は健在。このスペルブックがある限りキャスターの魔力の多寡に関係なく、それこそ無尽に異形を喚び寄せる事は可能なのだ。
 より強い魔物を産めばいい。より悪逆な異形を喚べば良い。この先に待つ乙女の為、死力を尽くしてこの敵を乗り越えなければならない。

「なるほど……」

 そしてキャスターは、その狂気なる思考を以って奇妙な結論に達した。

「今此処に理解した。貴様こそは私と聖処女との邂逅を邪魔立てする為に遣わされた、神の使徒なのですね」

「何?」

 時臣の問いなどまるで無視してキャスターは続ける。

「生前、どれだけ悪逆を尽くそうと、倫理を犯そうと、禁忌に手を染めようと終ぞ神は私の前には現れなかった。
 我が愛しの乙女の信仰をあのような結末にて踏み躙った憎き神に問おうと、この手を血と狂気と快楽で染め抜いてなお神は姿を現さなかった。それどころか、神は私を罰する事さえなかった」

 キャスターを罪に問い罰を処したのは同じ人間だ。神は何もしていない。何一つしなかった。

 神の教えに背くありとあらゆる行いを以ってなお罰がない。
 これはつまり信仰という名の狂気(いのり)は無為であると証明されたのだ。
 神の不在は確かに証明されたのだ。

 それでもキャスターはきっと、心の何処かで思っていたのだ。神は、存在していて欲しいと。
 でなければこの憤りは何処に向かえばいいのか。彼女の──ジャンヌの信仰は、敬虔な生き様はなんであったのかと狂ってしまうから。

 そして今、遂にその姿を見咎めた。気の遠くなる永遠と刹那の狭間において、唯一つ望んだ祈り──愛する聖女との再びの邂逅。

 その奇跡を前にして邪魔立てする、立ちはだかる存在を神の試練と、その存在を神の使徒と言わずして何と言う。

 今更になって、今ようやく神は己を見つけ出したのだ。信仰に背いた者に罰を。主の教えに背いた者に咎を。
 悪逆に耽溺したこの己の罪に対する最大級の罰──それは最早語るまでもない。

「御身を超えずして我が乙女との邂逅が叶わぬのなら、宜しい。是が非でも乗り越えて見せよう」

 朧と霞んで行くキャスターの総身。実体を喪失し霊体へと移行する。その意味するところはこの場からの撤退に他ならない。

『貴方は言いましたね、自分を愉しませろと。このジル・ド・レェ──ならば次に巡り会うその時こそ、神の下したその試練を達成し乙女との邂逅に臨むとしよう。せいぜい楽しみにしておくといい──』

 気配の残滓すら残さず魔術師の英霊は戦場を去った。

 討ち取れた筈の敵手を逃がしてしまった事は時臣としても釈然としないが、アーチャーが追わないサーヴァントを追撃する事は出来ない。
 キャスターの生み出した怪魔は倒せても、奴自身を打倒しろと言われては些か以上に荷が重い。

 英霊とはただ存在するだけで一級の神秘なのだ。それを生身の魔術師が撃破しようと言うのなら相応以上の準備が必要だ。今の時臣では難しい。

 ──とりあえずはこれでいい。本命はこの奥だ。

 時臣がこの森に踏み込んだのはあくまで外道衛宮切嗣を討ち取る為だ。その他の連中を深追いする必要はない。

 館を辞する際に綺礼にはアサシンを動員し全マスター、サーヴァントの動向を探るよう言い含めてある。この森の出入り口付近は当然見張っているであろうから、その拠点についてもいずれ知れる。

 今はまず衛宮切嗣とそのサーヴァント・セイバーだ。キャスターも十分に外道だが、二兎を追って両方を逃がす末路は避けたいところだ。

 そこでふと、時臣はアーチャーの姿に異変を認めた。
 キャスターが消失した直後──否、その前より、この黄金は空を睨んでいる。

「如何されましたか、王よ」

「天に仰ぎ見るべきこの我を、見下ろしている輩がいる」

 その意味するところは第三の存在。時臣が警戒していたこの森に侵入した他のマスターとサーヴァント。
 全く予期していなかった空に敵が滞空しているのでは、気付けずとも無理はない。それに気が付いたアーチャーの慧眼こそを誇るべきだろう。

 当のアーチャーはその眦に憤怒の色を浮かべている。先の言のようにこの男は見下される事を良しとしない。度し難くも空より見下ろす存在に向け、黄金は一切の容赦なく五挺の宝剣を差し向けた。

 地上より天空に降る流星。五つの光線は螺旋を描き飛翔する。空にいる下郎を撃ち落す為に。
 それに応えるは────

「AAAALaLaLaLaLaie!!」

 軍神の鬨の声を上げ、地上へと墜ちる巨星。紫電を纏うそれは強壮なる戦車(チャリオット)。

 足場なき無空を踏み締め駆け抜ける二頭の神牛は主の声に力強き嘶きで応え、襲い来る五つの宝剣を迎え撃つ。

 宝剣の威力が爆撃であるのなら戦車の走りは蹂躙だ。その道を阻む悉くを捻じ伏せる堂々たる制覇。
 神牛の率いる雷神の戦車は脅威の加速で雷光の盾を成し、天へと降る五つの光その全てを駆逐した。

 戦車はその勢いを微塵も落とす事無く地上へと着陸する。接地直後に轟音を響かせ、無理やりな急旋回からのブレーキングで、焼け焦げた大地を更に無残なものとした。

「居所の分からぬセイバーを探して空を彷徨っておると感じた戦の気配。こうして辿り着いてみれば、なんとも手荒な歓迎ではないかアーチャーよ」

 手荒な歓迎、と言いながらも赤毛の王には別段怒気はない。むしろそれをこそ歓迎しているような気配だ。

「如何なる理由があろうとも、この我を見下ろす理由にはならぬ。この大地に犇く有象無象ならば、地に這い蹲るのが似合いの姿だ」

「ほぉ? この征服王イスカンダルをすら、その有象無象と憚るか」

「…………」

 告げられた名に驚きを示したのは時臣だ。サーヴァントの真名は秘め隠すもの。それをこうも堂々と謳われては、驚愕の隠しようとてない。
 気になる点があるとすれば真名の暴露は裏付けのあってのものなのか。ただ単純に馬鹿なだけなのか……

 そして時臣が眇める視線で見やるは御者台でひっくり返っている一人の少年──マスターたるウェイバー・ベルベット。

「お、ま、えぇぇぇぇぇぇ。なんでそう何度も自分で名前ばらしちゃうんだよ……これじゃ意味が────」

「この戯けぃ。天地に憚るものがないのなら、名を隠し通す事など無為であり無意味であろう。
 秘匿せねばならぬものなどこのイスカンダルには微塵もない。この身一つで我が道に立ちはだかる全てを蹂躙し尽くすまでの事よ」

 その気性は豪放にて磊落。手綱を握られる事を好まないというのは目の前の黄金と変わりないが、その在り方が決定的に違いすぎる。

「そんな余を指して地に這い蹲る有象無象と言ってのけた貴様は当然、自らの名を明かす事に躊躇はあるまいな?」

「──王よ」

 小さく、けれど絶対的な言霊を乗せて時臣は己がサーヴァントに諫言を告げる。こんな安い挑発に乗る必要はない。乗ってはならないと。

「……我が面貌の拝謁の栄に浴してなお心当たりがないのなら、貴様などに名乗る価値もない。我を差し置いて王を僭称するのであれば尚の事。そのような有象無象は早々に消えてしまえ」

 黄金の右腕が上がる。それは無尽蔵の財宝を内包した宝物庫の扉を開ける合図。その仕草を遮るように赤毛の王は口を挟んだ。

「まぁ待てアーチャー。余も戦場を求めておったゆえ貴様と戦り合う事に異存はないが、未だ主賓を迎えておらんのは頂けんと、そうは思わんか」

 この森に踏み込んだマスター達の目的は衛宮切嗣とセイバーだ。先のアーチャーとキャスターにより戦端は開かれてなお剣の英霊は姿を見せない。
 ならば当然、森の主達は今も何処かでこの戦場を俯瞰している筈だ。踏み込んだマスターとサーヴァントの情報収集。そして必勝の機会を窺っているに違いない。

「聞く所によればセイバーのマスターはどうにも好かん気性の持ち主のようだがセイバー自身はそうではなさそうだ。ちょいと誘ってやれば乗ってくるやもしれん」

「……ふん。好きにしろ」

 黄金の王は上げた右腕を下ろした。彼にしてもまた聖杯戦争に見出した価値を見定める為にこの森に踏み込んだのだ。これ以上余計な些事に煩わされるのは鬱陶しいと、そう思っているに違いない。

 イスカンダルの誘いに応じたのがその証左。呼べるものなら呼んでみろと、そう場を取り成した。

「意外に話が分かる奴だな貴様。まぁ良い。では────」

 巨躯の王は御者台にて立ち上がり背負うマントを翻す。腰に佩いだキュプリオトの剣を天高く掲げ、空に向かって吼え上げた。

『この世に招かれし英雄豪傑よ、この地に集いし兵共よ! その身に英雄としての誇りを宿すのなら、こそこそせずにその姿を見せるがいい!
 我が声を聞き届けながらに姿を見せぬ臆病者は、この征服王イスカンダルの謗りを免れぬものと知れぃ!!』

 空を割り、木々を千切る大咆哮。同じ御者台にいるウェイバーのみならず時臣までもが耳を塞がなければならないほどの大音量。本当にこの森一帯に轟いているのではと疑いたくなる程の声音だ。

『特にセイバー!! これまでの獅子奮迅ぶりが偽りでないとするのなら、早く姿を現さんか! 誰もが貴様の登場を望んでおるぞ! それでも姿を見せぬというのなら、この森ごと平らにして晒し者にしてくれよう!!』

 この男なら本当にそれくらいはやりかねない、と耳を塞ぎながらなお聞こえてくる己がサーヴァントの挑発に辟易とするウェイバーだった。

 大演説の後、無音が数秒世界を支配した。ウェイバーが何だよ、結局来ないじゃないかと思い始めた時──風合いが頬を撫でた。

 次の瞬間、瀑布の如く突風が吹き荒れ広場を襲い、巻き上げられた落ち葉と共に軽快な着地音が鳴る。
 舞い落ちる枯れ葉の向こうに、具足のかき鳴らす音と共に白銀が舞い降りた。

「ほぉ……」

「────」

 赤銅とウェイバーは所見、黄金と時臣は二度目なれど、その凛とした立ち姿にこの場にいた誰もが目を奪われた。
 それほどに美しく、同時に力強い輝きを放つ存在。それこそがこの少女──

「サーヴァント・セイバー、この身に宿る誇りに従い参上した。これで文句はあるまい征服王?」

 セイバーに残る一握りの誇り。何物にも変えがたい祈りと比せば取るに足らないものであれ、決して無碍にしていいものではない。
 誇りを失した戦いは獣にすら劣る畜生のそれだ。人の先を往く英霊なれば、譲れぬ一線というものがあるのだ。

 しかしこれでこの戦場には三者が居並ぶ形となった。セイバーの危惧した乱戦の体を為している。他の二人の標的になりかねないセイバーは不用意に動く事は出来ない。

 そんな拮抗状態を知ってか知らずか、赤毛の王は誰彼なく憚る。

「こいつは聞きしに勝る女子だ。よもやその細腕で既に二騎のサーヴァントを屠ったとはとても思えん」

 蓄えた顎鬚を撫で擦りながら白銀の騎士を睥睨する赤銅の王者。そして彼の放つ次なる一言こそが、この三者を切っても切れない鎖で絡め取った。

「ハッハ! この戦、聖杯戦争なるものには世に名を馳せし益荒男共が集うと聞いた。ならばさぞ楽しめるものと思っておったが、まさか余の他に二人も『王聖』を持つ者がおるとは流石に思いもよらんかったぞ」

「────っ!」

「…………」

 その言葉に白銀、そして黄金の二人が視線を揺らす。共に見やるは赤銅。剛毅なる巨躯を睨めつける。

「……なあ、王聖って?」

「なんだ知らんのか。王聖とは、王たる者が持つ資質のようなものよ。王の器、と言い換えても良い。これなくして真なる王にはなれん。なれたとしても暗君か、良くて平穏な世を治める統治者がせいぜいだ」

 生まれ持った王者の資質。それが王聖と呼ばれるものだ。これを持つ者は王になるべくして王になる。必然という名の運命により王者足る事を求められる存在だ。
 その真贋を計ることは容易ではないが、この赤銅の王者はどういう理由からか白銀と黄金を王聖を持つ者と見定めた。

「……この身がかつて王であった身だとしても、貴様に何の関係がある?」

「大いにあるとも。余は王者の道──すなわち王道は二つあると考える。一つは求道。自らの理想を以って国を成す者。理想に殉じ、理想に生き、そして理想に死する者。
 一つは覇道。自らの行いに拠って民を導く者。民は王の在り方に憧れを抱き、胸に火を宿しその背を追う。自らもまた王足らん、とな」

 求道は聖者の理であり、覇道は暴君の業だ。

 国を守り民を守る。その為に私を滅し王である事を自身に課す生き方。
 国を喰らい民を喰らう。その為に私も王も飲み込みただ覇を謳い続ける生き方。

 どちらが優れているというわけではない。

 弱小の国であり常に外敵に脅かされているような状態では求道が求められ、国力があり国土を広げる余地があるのなら覇道が相応しい。
 これは王としての在り方を示す一つの指標に過ぎない。何の為に王になったか、その違いでしかない。

「……それで、その求道覇道がいったい何だと言うのだ」

「余は無論、覇道を征く者。ならば、なぁ、その背には多くの従者が必要だ。強き兵が必要だ。余と共に夢を綴り成し遂げる、今代における朋友がな」

 たった一人では叶わぬ夢も、多くの者が集えば成し遂げられる。赤銅の王者もかつては己が野望の為に邁進し、その背に多くの朋友を引き連れ夢の彼方を目指したのだ。
 その夢は志半ばで倒れ届かなかったが、ならばこそ今代で成し遂げて見せようと。その為にこの二度目の生を得られる聖杯を賭けた戦いに臨んだのだから。

「故に余は朋友を求めている。なぁセイバー、そしてアーチャーよ。貴様ら余の軍門に下らぬか。共に聖杯の奇跡を分かち二度目の生を手にし、この世界にその名を轟かせようではないかッ!!」

 両の手を大きく広げ天を抱くように高らかに宣誓を謳い上げる。

 聖杯が真に万能の願望機であるのならたった一つしか願いを叶えられないなどという道理はない。二度目の生を共にする朋友と共に確固たる足場を手に入れ、かつて夢見た世界征服を今一度──

 それをこそが祈り。征服王イスカンダルの純なる祈りなのだ。

「──断る」

 だがそれを、セイバーは一刀の元に断ち切った。

「これでもかつて王であった身の端くれ。他の誰かの軍門に下る気はない。何より、聖杯を手に入れ祈りを叶えるのはこの私とマスターだ」

 決して譲れぬその祈り。他の誰にも聖杯は渡さない。なればこそ、そんな勧誘は斬って捨てる以外に有り得ない。

「ふぅむ……そいつは残念だ。貴様ほどの剛の者ならば是が非でも臣下に加えたいところであったが、ならば後は雌雄を決する他あるまい。それで、貴様はどうだアーチャー?」

 セイバーが姿を見せて以来無言を貫いていたアーチャーに問いが投げかけられる。黄金はセイバーに向けていた視線を赤銅へと移し、失笑した。

「はっ、求道覇道と下らぬ道を謳っているが、そんなものは所詮雑種の理だ。身命を賭さねば国を守れぬ? 朋友がなければ夢を成せぬ? ククク、それで良くも王を名乗ったものだな征服王」

「ならば貴様は王として如何なる道を征く者か、聞かせて貰おうではないか」

「真の王者たるもの他者など要らぬ。貴様の言いようを真似るのなら、我は我だけの道を征く者。即ち我道。
 王とは孤高なる者。王とは超越せし者。全てを支配し君臨する者をこそ、真に王と呼ぶのだ」

 それはまさに絶対者の理だ。求道の王よりなお孤高の存在でありながら、覇道の王よりなお貪欲に国を喰らう者。全てを自身ただ一人を崇め奉るためだけの供物程度にしか見ていない。
 ただ一人己だけで完結している存在。それをこそを王であると、この黄金は謳い上げた。

 理想に生き、理想に殉じた白銀の王。
 人々の羨望を集め、共に夢を見た赤銅の王。
 唯我の極みに立ち、絶対者として孤高に君臨する黄金の王。

 彼ら三者は決して交わらぬそれぞれの王の道を征く者。
 三つの点を描く正三角形だ。

 ならば当然、言葉によるやり取りなど最早不要。どれだけ言の葉を連ねようと自身の道を絶対とするのなら折れる道理はないのだから。
 決着はただ刃鳴散らす戦場の只中で。その果てにのみ答えが待っている。

「まぁそれは良い。王を僭称している時点で知れた事。せめて自身に譲れぬ道を誇ってなければ王という称号を戴くには足りん。
 いや、我が道を征く者として問うておくべきか。なぁ────セイバー」

「…………ッ!?」

 アーチャーの視線を受けセイバーは身構える。別段殺気の類は感じられない。それどころか敵意すらも見えていない。その視線に宿るのは艶やかな色のみ。まるで子女が宝石を前にして夢見るような色だけが込められていた。

「セイバー──我は貴様を気に入った。故に我のものとなれ」

「なに……!?」

 それはまるで予期していなかった言葉。イスカンダルの勧誘の比ではない真剣さがその言葉には込められている。
 だがだからこそ理解が出来ない。何を理由にそんな事を言うのか。セイバーの何がこの黄金の琴線に触れたのか。

 何れにせよセイバーの返答は決まっている。

「何を馬鹿な事を。今ほど征服王にも言った筈だ。私は誰の軍門にも下らないと」

「誰が軍門に下れと言った。我は我のものとなれと言ったのだぞ?」

「……それに一体、何の違いがあると言うのだ」

「大いに違うさ。先にも言ったが我に臣下や朋友は必要ない。ただ我は気に入ったものは愛でる性質でな。喜べセイバー、貴様は我の眼鏡に適ったのだぞ。我が財宝と比してなお貴様は手に入れる価値があると」

 セイバーにしてみればアーチャーの言葉は全て妄言の類にしか聞こえない。イスカンダルの勧誘は駄目元という念を含んでいたがアーチャーの言葉にはそれがない。既に決定事項であるかのように語るのみ。

「王としての責務や理想など捨ててしまえ。貴様はただ愛でられるだけの女であればそれでいい。
 女に生まれた幸福とは男子に組み伏せられる事であろう。貴様はそこらの有象無象にくれてやるには惜しい女だ」

「……それは、いや……その言い方ではまるで……」

「はっきりと言わねば分からんのなら言ってやろう。貴様は我が妻となれ」

「────っ!?」

 泰然と述べられた告白。それは求婚の言葉。黄金が白銀に何を見出しているのか定かではないが、その言葉に込められた意思に偽りはない。
 天地に唯一人我のみを尊ぶ黄金はこの白銀を見初めたのだ。王の道を共に歩むには足りぬまでも、王の寵愛を受けるだけの資格があると。

「剣を棄て、祈りを捨てろセイバー。そんなものは貴様を縛り損なうだけだ。これより貴様は我だけを求め、我の色に染まるがいい。さすれば万象の王としてこの世の快と悦の全てを賜わそう」

「断るッ────!」

 黄金の口上を聞き終える前にセイバーは不可視の剣を具現化し、疾風の加速を以って肉薄し一刀の下に断ち切るつもりで剣を振り下ろした。
 それを防いだのは黄金の右腕。セイバーの圧倒的な斬撃を受けながら傷の一つもつかない黄金色の鎧の前に初撃は沈黙した。

「そのような戯言、虫唾が走る! 我らは聖杯を求め合い争う為に招かれし者。胸に秘めた祈りがあるのなら、英霊としての矜持を持つのなら……そのような言、侮辱以外の何物でもない────!」

 烈気火勢の斬撃を上下左右から無尽に見舞うセイバー。彼女は剣と祈りの為にこの戦いに臨んだのだ。それ侮辱されてなお泰然としていられる程淑やかではない。
 泥に塗れる事を誓ったのはセイバー自身。だが他者に被せられる泥を浴びる謂れはないのだ。

 怒涛の如き斬撃がアーチャーを襲い、されるがままの黄金は、それでも自身の言葉を撤回しない。むしろ気の強い女を組み伏せるのも一興であると言うかのように口元に笑みを浮かべる。

「ああ、良いぞ。別段貴様の答えなど聞く気もないのでな。これは既に我の下した決定だ」

 露呈している頭部を守る事に終始していた黄金は襲い来る斬撃の隙を衝き、後方の何もない空間より一本の剣を引き抜き次の一撃を迎撃する。
 その剣は黒く禍々しい剣だった。滴り落ちる程の血を帯びた赤黒い刀身を持つ剣。

「──、がっ……!?」

 不可視の剣と血染めの剣とが衝突した瞬間、セイバーは後方へと弾き飛ばされた。アーチャーの迎撃がセイバーのそれを上回っていたわけではない。単純に、セイバーは自身の斬撃の威力を跳ね返されて弾き飛ばされたのだ。

 ──攻撃の反射!? いや、これは呪い。復讐の呪詛を持つ魔剣か……!

 地を滑ったセイバーは体勢を立て直し付け入る隙を探そうとする。そして同時に、この場にいるもう一人にも警戒を怠らない。

「…………」

 御者台に座したまま腕を組み趨勢を見守っている赤毛の王とそのマスター。アーチャーのマスターはというと苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべたままこちらも沈黙を保っている。

 時臣にすればこの状況、不可解にも程があった。もとより己の従える……臣下の礼を取っているサーヴァントの気性を理解出来ているつもりなどなかったが、この一幕は最早慮外にも等しい。

 サーヴァントの身でありながら他のサーヴァントに求婚などと……理解をしろという方が難しい。
 しかしこの場からの撤退の進言はなお難題。今のアーチャーが時臣の諫言を聞くとは思えないし、ならば令呪の強制以外に選択肢はない。

 かといってそんな強行は今後の展開に支障をきたすし、何よりイスカンダルの行動もまた読めないのだ。
 あの男の行動いかんによっては撤退の最中、アーチャーをして劣勢に追い込まれる可能性がないわけではない。それでなくとも宝具の真価を見せざるを得なくなるかも知れない。

「…………ッ」

 どの道も八方塞。そして更には、恐らくはこの戦場を監視しているであろう衛宮切嗣の動向もまた、警戒せねばなるまい。

 未だ状況は膠着状態。
 アーチャーはいざ知らずセイバーは攻め手を決めあぐねている。

 この場を上手く切り抜けるには偶然が必要だ。誰もが予期し得ない、第三者の介入という偶然が──

「王だなんだの酷く詰まらない話をしているじゃないか」

 ざり、と土を噛む靴の音。偶然と呼ぶには出来すぎたタイミングでその男は現れた。森の広場に踏み込んできたのは未だ姿を見せなかった最後の一人……

「間桐、雁夜!?」

 時臣の驚愕は当然だ。
 七人目のマスターがあの男である筈がないのだから。

 間桐という家に生まれながら魔道に背を向けた男。そんな男が何故この場にいる。目深に被ったパーカーから覗く面貌にかつての雁夜の面影はない。
 髪は色素を失い白く変色し、半面は罅割れ恐らく目も見えてはいまい。どのような過酷に遭えばあんな無様な姿に成り果てるのか。

 しかし時臣の驚愕の正体はそこではない。間桐雁夜が如何に変貌していようと関係がないし知った事ではない。
 雁夜がこの場にいる、ただそれだけの事実が解せないのだ。

 ──何故ならこの戦い、間桐からは参加者は出ないと正式に通達が渡されている筈なのだから。

「何故だ、何故おまえが此処にいる!? 間桐雁夜──!」

 優雅を常とする男の激昂の意味を知る者はこの場にはいまい。知れるとすれば雁夜自身だが、彼にはそんな言葉に応える音は持ち合わせていない。

 今の間桐雁夜という男はただの器に過ぎない。復讐という怨念を増幅し垂れ流す円環に過ぎないのだから。

「……ようやく見つけたぞ遠坂時臣。俺はおまえに復讐を成す為にこの戦いに臨んだ。おまえを殺す事で桜ちゃんは救われるんだ」

「……桜?」

 間桐へと養子に出された遠坂の次女。その名を聞き、時臣は僅かに動揺した。瞳が揺れた程度でしかない揺らぎだったが、雁夜はそれを目敏く見咎めた。

「おまえに桜ちゃんの身を案じる理由はないだろう、時臣。
 他ならぬおまえが、この戦いに間桐からの参加者を出さない代わりに、あの子を臓硯へとくれてやったくせにッ!!」

「なっ…………!?」

 時臣の動揺は今や明確になる。
 雁夜の言葉に如何なる真実が隠れていたのかは不明だが、時臣には覿面だったらしい。

 二の句の継げない時臣に成り代わってか、不遜な態度に嫌悪の視線を乗せてアーチャーが雁夜を見やる。

「五月蝿いぞ雑種めが。今は我とセイバーの婚儀の最中だ。口を慎み身の程を弁えろ下郎」

 アーチャーの背後の揺らめきより二挺の魔剣魔槍が撃ち出される。神速の勢いで射出されたその一撃は到底生身の人間が防ぎ得るような威力ではない。
 しかし未だ雁夜のサーヴァントは姿を見せず。剣が雁夜を撃ち貫く刹那に、その男は口元を狂気に歪め、その身体より黒い霧を立ち昇らせた。

「ハッ────!」

 瞬間、轟音。爆発。

『………………』

 そしてその異常を見咎めた誰しもが、目を奪われ意識を乱された。

「なんだと……」

 アーチャーをして訝しむその異常。爆発の余波によって生まれた煙が晴れた時、その場所に雁夜の姿は健在だった。

 半面は罅割れ髪は白く色を失っている。
 口元には狂気が浮かび、手には先ほどアーチャーの撃ち出した魔剣が一振り。
 総身より立ち昇るのは黒い霧。
 霧状の、そして膨大なまでの魔力の渦──

「坊主……こりゃあ──」

「アイツ、サーヴァントだ。人間のくせに、サーヴァントだ!」

 ウェイバー自身何を言っているのか分かっていないがその言は真実のみを表している。

 今、間桐雁夜はサーヴァントにしか迎撃の出来ない一撃を、いや……サーヴァントですら回避の容易ではない一撃を躱し、あまつさえ空中で剣を掴み、身を捻り僅かな時間差のあった二撃目である魔槍を打ち払ったのだ。

 神域の曲芸とも評するべき圧倒的な武錬。無論、かつての間桐雁夜は武道など修めていないただの一般人……魔道に生まれただけの一般人だ。
 今の芸当は到底そんなただの人間に出来るものである筈がなく、故にウェイバーの言は真実なのだ。

 ──今の間桐雁夜はサーヴァントである。あるいはそれに近しい状態にあるのだと。

 ウェイバーの目には、時臣にもまた今の雁夜をマスターとしての透視能力を以って見ればそのステータス状態を見て取れる。

 ただ分かるのは雁夜がサーヴァントであるという一点のみで、本来ならば読み取れる基礎能力、ある程度まで把握出来る特殊スキルに至る全てがまるで揺れる水面のように揺蕩って一切が読み取れない。

 まさにそれは正体不明の第七の存在。戦乱をより混沌へと突き落とす地獄よりの使者だ。

「ほう……成る程な。面白い召喚の仕方もあったものだな」

 何に得心がいったのか、アーチャーが愉快そうにそう呟く。そして次の瞬間には濁流の如き感情が烈火となって乱れ狂う。

「その汚らしい手で我が宝物に触れるとは何事か。それはこの我のみが所有する事を許されたものであるぞ!」

「は、ははハは、ヒィヤァハハハハハハハハハハハハハハハ…………ッ!」

 撃ち出される宝剣。手にした魔剣で打ち払う雁夜。続く爆撃の悉くを迎撃する。

 狂ったかのような哄笑を上げながら黄金の撃ち出す無数の剣群を捌きに捌く雁夜。常軌を逸した人間離れした体術で躱し、受け止め、弾き、奪い取る。
 他者の干渉を許さぬ間断なき爆撃は、けれど終ぞ雁夜の首を跳ねるには至らず戦場に惨状と猛煙のみを齎した。

 憤懣やる方ないのは黄金だ。セイバーとの婚儀を邪魔立てされた挙句、下郎の首は討ち取れず、終いには己が財を奪い取られる始末。憤怒の余りその形相に先程までの余裕は微塵もない。

「手癖の悪い狂犬もいたものだな……! そうまでして死に急ぎたいのなら全力で相手をしてやろう。死してその後に悔い改めろ──ッ!」

「────王よ。どうかその怒りを鎮めて頂きたい」

 黄金の背後に浮かび上がる文字通りの無尽の揺らめき。数えるのも馬鹿らしいほどの数の刀剣斧槍槌鎌戟。古今東西のありとあらゆる武装が展開され、その発動を押し留めたのはただの一言。

 時臣は絶対の意思と決意を込めて進言する。右手の甲に宿る令呪の一画は言の葉と共に昇華され、赫怒に染まる王の総身に戒めを施した。

「……時臣。我に令呪の戒めを施したその意味──無論理解していような?」

「無論です。王に忠言を申すのも臣下の務め。この場は御身が死力を尽くすに足る戦場ではありますまい。ならばどうか、その怒りを鎮め撤退を」

「…………」

 確かにこの場は既に泥沼の様相を呈している。四者四様のサーヴァントが入り乱れ趨勢は全く読めないものとなっている。
 セイバーへの求婚についてもこんな状況ではにべもない。全てのサーヴァントを駆逐し改めて愛でる事も叶わぬではないが、既に興は削がれている。

「……良かろう。この場は貴様の顔を立てて引いてやる」

「逃がすと思っているのか────!」

 狂いながらに理性の全てを手放してはいない雁夜の言葉に黄金は失笑を返す。

「貴様になど興味はない。放って置いても自滅する蟲などにはな」

 展開される無数の剣群。全力のそれには程遠いまでも十分にサーヴァントの足を止めるに足る数だ。雁夜は奪った武器で追撃を掛けるが、後退する時臣とアーチャーに近付く事すら叶わず足止めを余儀なくされる。

 黄金の掃射を捌き切っただけでも十分に驚嘆に値する成果なのだ。その上でなお撤退する彼らに肉薄しようというのなら命を投げ出す程が覚悟が必要だった。

 雁夜はまだこの場で倒れる事を良しとしない。この身は成し遂げなければならない祈りがある。
 身体を弄くり回され、死ぬ思いで掴み取ったマスターとしての権利。そして身に宿したあの男──時臣を屈服させるに足る力。

 あの魔術師が地に這い蹲る様を眺めなければ救われない。雁夜自身と、そして煉獄に突き落とされたあの少女が。

 故に雁夜もまたこの場は引いた。
 深追いをして想いを遂げられないのでは本末転倒。
 今はそう、あの男が雁夜を前に逃げ去るという事実だけで充分に溜飲は下がるのだから。

「セイバー、次に見えるその時までに心を決めておけ。まあもっとも、我の決定は変わらんがな」

 宝剣の爆撃を置き去りに黄金と時臣は森の奥へと姿を消した。
 後に残ったのは墓標のよう居並ぶ剣群のみ。
 それも時を待たずして風に透けるように消えていった。



+++



 爆心地のような戦場に残されたのはセイバー、ウェイバーとイスカンダル、そして雁夜の四人だ。

 セイバーにしろイスカンダルにしろアーチャーと雁夜の戦いに剣を挟み込む余地などなかった。人の身でありながらサーヴァントである、という異常に身を置いている雁夜の存在を未だ正しく認識出来ていないのかもしれない。

 そして何より、両者の戦力を測るにはああして見守る他になかった。

 アーチャーは湯水のように宝具を持ちその真名を特定する事が出来ず、雁夜はステータスから一切の情報が読み取れない。そして姿形からもまたサーヴァントの正体を知る事が出来ない。

 ならばせめてその戦闘能力について把握しておくべきだというのは必至と言える。それでもなお未だ核心に至れる情報は何一つとして得られていないが。

「さて、どうするね間桐雁夜とやら。貴様が執心しとった連中は去ったわけだが、次は余かセイバーと戦うか?」

 先の狂騒状態を思えばこの男に宿るサーヴァントはバーサーカーのクラスなのだろう。理性を保てている理由は不明だが、話が通じるのなら手っ取り早い。

「いいや、止めておく。あんたらと戦う理由は俺には────」

 その時。どくん、と跳ねる鼓動。背を折り呻きながらに胸を掻き毟る雁夜。視線は雁夜の意思とは裏腹に、セイバーを見やる。

「はっ、──そう、か。“俺”にはなくとも“私”にはあるのか……!」

 一際大きな魔力の渦が雁夜の体内より溢れ出す。総身を包み天まで昇るほどの濃黒の憎悪の色。

「ォォォォォォォォォォオオオオオオオオオオ──────!!」

 狂気渦巻く嵐の中、密度を増した霧は先よりもなお濃く雁夜の姿を覆い隠し、今やその姿を視認することすら難しい。
 直視してなお影と揺らめき、まるで蜃気楼でも見ているかのようだ。よくよく見れば漆黒の鎧めいたものが見え隠れしているが、それも陽炎の如き儚さだ。

 その中で唯一見て取れるのは、赤く輝く双眸の色。スリット状のラインの奥に燃え盛るのは憤怒に取り憑かれた炎の色だった。

「A…………th……!」

 声ならぬ声を上げ、雁夜だったものはアーチャーの爆撃によって破砕した木の枝を掴み取りセイバーへと襲い掛かった。

「なっ……!」

 常軌を逸したその行動。たかだか木の枝が英霊の手にする武具に太刀打ちできるわけがない。しかし今やこのサーヴァントにそんな常識は通用しない。ただの木の枝で、バーサーカーはセイバーと斬り結ぶ。

「…………っ!?」

 セイバーはその異常に驚愕するしかない。並大抵の武具ですら英霊と打ち合えば寸断されるものを、ただの木の枝で抗し得るなど不可能だ。ならばそこには理がある。彼だけに許された賜物が。

 手にしたものを宝具へと変える宝具。研ぎ澄まされた武錬と類稀な逸話により具現したこの特性はおよそ武器と視認した全てを凶器へと変貌させる。

 バーサーカーが握ればただの木の枝とて木の枝のまま宝具へと変わり、宝具としての属性を帯びる。
 そこに強度の有無は関係なく、先に概念のみが存在する。その概念を打ち砕かなくてはこの狂気の発露を止める手立てはない。

「────errrrrrrrr……!」

 意味の通らぬ声を上げながらバーサーカーは無尽の如き連撃を見舞う。魔力放出の加護を持つセイバーをして拮抗に留めるのがやっとの膂力。そしてなお厄介なのは、その類稀な技量だった。

 狂化してなお失われていない卓越した技術。ただ力任せに打ち込んでくるのなら如何様にも対処のしようがあったがこちらの剣の動きを読み、躱し、攻撃に転じるという当たり前の行動を常人に倍する力で行うのだから始末が悪い。

 本来ならば力と引き換えに失う筈のものを持ち合わせているというのは、言葉は悪いが卑怯以外の何物でもない。
 それを可能としているのが外法によるトリックなどではなく、生前の修練の賜物であるというのなら、そんな物言いは的外れにも等しいのだが。

 ──ぐっ、だが、これは…………!

 今までアサシンにもランサーにもアーチャーにさえも遅れを取らなかったセイバーが初めて圧されている。
 自身に匹敵する力量を持ち、かつ上回る膂力を持ち合わせているこの狂戦士は、更にもう一つの不可解を孕んでいた。

 ──何故だ、何故こうも簡単に読まれる!?

 セイバーは決して素直な剣を用いてはいない。フェイントやブラフを織り交ぜ緩急をつけた攻めを行っている。だがその全てが有効に働かない。それはまるで先を読まれているような不可解。

 不可視の剣とて同様。初見の相手にはほぼ間違いなく効果を発揮する刀身なき斬撃をこの黒色のサーヴァントはまるで知っているかのように受け止め回避する。

 宝剣の刀身を晒したのはランサーのみ。
 それもあの魔を破却する槍あっての物種であり、ハイアットホテルでの戦いを覗き見られた筈もないのだから不理解は此処に極まる。

 秘め隠した聖剣の刃渡りを知る術は二つしかない。不可視のまま脅威の心眼を以って戦闘中に看破するか。生前に一度でも聖剣の実物を見ているか。

 この狂乱の英霊は初撃から既に刃渡りを見て取っていた節がある。
 ならば後者でしかなく、そしてそれ以上にこの狂いの御座にある英霊はセイバーの剣を読み尽くしている。

 ……いや、これは読まれているというよりも──

 『知られている』という方が正しい気がして。

 そしてこの太刀筋を──

 ──私は『知っている』ような気がするのだ。

「AAAALaLaLaLaLaie!!」

 突如白銀と狂乱の戦場へと突貫する赤銅の繰る騎乗戦車。
 共に離脱が早かったお陰か、イスカンダルが手加減でもしていたのか、どちらも傷を負わぬままに距離を離した。

「この余を差し置いて二人で楽しむのは関心せんなぁ。交ぜて貰おうか」

 距離を置いた二人の間に居座る赤銅の王。今再び戦場は混迷の様相を呈し始めたが、

「グッ………ァァァァ……ッ!」

 狂乱の檻に囚われし戦士が呻きを上げて膝を屈する。バーサーカーというクラスは力を得る代償に多量の魔力を浪費する。他の六騎に比べその消費量は膨大と言っても過言ではない量の魔力を湯水の如く喰らっていくのだ。

 如何なる仕掛けと目的で人とサーヴァントの融合などという愚策を犯したのかは知らないが、それが彼らの寿命を縮めている事に間違いはあるまい。

 たった一戦、それも半刻にも満たない時間戦っただけでこれなのだ。後どれほどの時間保つのか……長くはない事だけは確かだった。

「…………、────ッ!」

 声ならぬ声を上げ、間桐雁夜でありバーサーカーである半人半霊は逃走した。獣の如き疾走を止める術などなかった。

「……何故助けた」

 戦場に静寂が戻った後、セイバーはイスカンダルに向けてそう問い質した。

「別に助けたつもりなどないんだがな。勝手に二人だけの戦場を作っとったのが気に入らんかっただけだからな」

「…………」

 実際セイバーは助かったのだろう。あのまま斬り結んでいてはどうなっていたか分からない。

 卓越した剣術。
 研ぎ澄まされた武錬。
 人を超えた身のこなし。
 こちらの手の内を知っていなければ対応出来ない筈の先読み。

 あの騎士の剣を知っている。
 それでも心の何処かでそれを認めたくないと吼える己がいるのを、自覚した。

「──それで、どうする征服王。私と戦うか」

「うぅむ……いや。今日はもう止めておくか。連戦続きのお主を討ち取った所で誇れもせんだろうしな」

 それがこの男なりの矜持なのだろう。
 セイバーにしても助かる話ではあるのだが。

「今日の所は身体を休めておけセイバー。次に見える時、互いの王道を賭けて死合おうではないか」

 決して交わらぬ王の道。ならば雌雄を決するのは互いの剣で。

「承知した。それと、征服王。貴方はその名を明かしている。ならば私も騎士の礼に則りその名を明かそう」

 他の連中がいてはリスクが大きすぎたが今ならばまだマシだろう。真名を明かす必要はない。だがそれでも、背いてはならない道があるのなら、私はその道に殉じたい。

「私の名はアルトリア。ブリテンの王──アルトリア・ペンドラゴンという」

「ほぉ。噂に名高き騎士王がよもやこんな小娘であったとは」

「……それが侮辱であるのなら剣を執るがいい征服王」

「ええぃ、ちょっとした冗談だろうが。まぁ良い。余の覇道と貴様の求道。決して交わらぬ道であれど互いに王を名乗るのなら是非もない。どちらがより優れた王であるか、雌雄を決しようではないか」

「…………ああ」

 差し出されるキュプリオトの剣。それに応えるは黄金の宝剣。秘蔵されていた風の封印を解かれた刀身は暗い森を照らして余りある。
 その宝剣の輝きを眇め心奪われぬ者はない。太陽よりも苛烈に、星よりも優しく、月よりも静かに輝く光。それがこの比するもののない最強の聖剣なのだ。

「ではな騎士王。その首、他の連中に奪われるでないぞ──!」

 手綱を振るえば神牛が嘶き空に馳せる。紫電を放ちながら強壮たる雷神の戦車は空の彼方へとその姿を消していった。

「…………」

 後に残されたセイバーは聖剣に今一度風王結界にて風の封印を施し消失させた。
 英霊が四騎も集う戦場に最後まで立っていられた事を誇る余裕もなく。セイバーはその顔に悲痛の色を浮かべ唇を噛み締めた。

「王として……か。王である事を否定した私に、その資格があるのでしょうか」

 ──どうか教えて欲しい、サー・ランスロット。

 かつて朋友と呼んだ男の名を思い出す。
 理想の騎士と謳われた騎士の中の騎士を。

 アーサー王の治世に亀裂を生んだ張本人。
 裏切りの騎士と蔑まれた男の名を。

 戦場に背を向け白銀の少女は去る。
 その背に宿るせつなさを、誰も知る事はなかった。


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