東日本大震災の影響で初めて東京から舞台を移した第82回都市対抗野球大会(毎日新聞社、日本野球連盟主催)は、東京都・JR東日本の初優勝で1日閉幕した。
10月22日の開会式で選手宣誓に立った仙台市・JR東日本東北の長谷部純主将は「生きていること、働けていること、野球ができることに感謝の気持ちでいっぱいです」と述べた。優勝した東京都の堀井哲也監督は「この大会が開かれたことに感謝している」と語った。感謝に始まり、感謝に終わる大会だった。
8月に開幕する予定だった都市対抗大会を秋に延期し、日本選手権大会に代えて大阪市の京セラドーム大阪で開催する方針は、震災発生から間もない3月下旬に早くも決まった。今になってみれば、「東京開催も可能だったのではないか」との声もある。だが、チームを持つ企業の多くが被災し、電力事情も逼迫(ひっぱく)する中、開催準備を進めるには、やむを得ない決断だった。
「開催」が明確に打ち出されたことで、被災地のチームも目標に向けて動き出した。茨城県の企業チームである鹿嶋市・住友金属鹿島と日立市・日立製作所は、4月30日から行われたチャリティー京都大会にそろって出場。5月以降、宮城県の企業チームである仙台市・JR東日本東北、同・七十七銀行、石巻市・日本製紙石巻も、順次練習を再開した。
「『本当に野球をしていていいのか』という戸惑いがあった」。被災地のチームの選手たちは、この時期の胸中をこう振り返った。震災による部品供給網(サプライチェーン)の寸断で生産が滞るなど多くの企業が痛手を受けていただけに、同じような戸惑いや自問は、被災地以外の選手にもあった。
「こんな時こそ、野球で周囲を元気づけてほしい」。未曽有の災害に直面しながら、地域や会社が選手に託した答えがこれだった。
津波の直撃を受けた日本製紙石巻工場の倉田博美工場長は「野球部の休廃部は、全く考えなかった」と言い切った。都市対抗初出場を果たした昨年は、石巻市を挙げて盛り上がった。「野球部をやめては、社にとっても、市にとっても、マイナスが大きい」という判断だ。
今年、チームは惜しくも予選で敗退したが、倉田工場長は「選手は、感謝を表したいという気持ちがプレッシャーになったのだろう。でも、プレッシャーを乗り越えた先にチームの成長もあると思う」と、野球部を見守り続ける。
今季、各地の選手や監督らが口にした「感謝」は、さまざまな形の震災の痛手を乗り越えてグラウンドに立ち、芽生えたものだ。社会人野球は、地域や会社の理解と支えなくしては成り立たない。真心からの「感謝」を、これからの財産としてほしい。
こうして実現した京セラドームでの都市対抗大会は、11日間、計31試合の観客数の合計で延べ28万9500人を集めた。東京ドームで開かれた昨年の第81回大会(12日間、計31試合)の54万6000人と比べると約47%減だが、大会本部が設定した目標の30万人はほぼ達成した。
約1カ月半の操業停止をはね返して4強入りした住友金属鹿島は、準決勝までの4試合で延べ4万5000人の観客を集めた。1回戦の2万5000人は、鹿嶋市として過去最多の動員だった。同野球部後援会によると、同市の観客の約9割が、大阪、和歌山両府県を中心とする関西の人たちだった。後援会の担当者は「従業員や顧客など、これまで東京ドームには来られなかった人々に応援してもらうことができた」と話す。
大阪市営地下鉄車内には都市対抗の中づり広告が掲げられた。関西の県人会に観戦を呼びかけたチームもあった。日本野球連盟は「関西での社会人野球の認知度は、初の都市対抗開催によって向上した。来年以降、大阪で開催する日本選手権大会の盛り上げにつなげたい」としている。
もちろん、単独チームで「真の日本一」を争う日本選手権大会の競技としての面白さは都市対抗大会に勝るとも劣らない。ただ、都市名を前面に出し地域代表として戦う都市対抗大会に比べ「祭典」としての華やかさは及ばない。
より多くの人に社会人野球の魅力を知ってもらいたいと願うなら、再び東京以外の地で都市対抗大会を開催することも、手だてとなるのではないか。代わりに日本選手権大会を東京で行えば、その活性化にもつながる。例えば10年に1度、大阪に各都市の代表が集う。震災の年に胸に刻んだ感謝と感動を再びかみしめるには、絶好の機会になると思う。
毎日新聞 2011年11月9日 0時13分(最終更新 11月9日 0時14分)
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