季節の変わり目。
肌の合わなかった騎士団長という役職からようやく退職して、ハンターになろうか真剣に悩んでいた頃。
貯めていた金がそろそろ無くなろうとしていた俺は、街でそこそこ知られている、言い方を変えれば、街の人くらいしか知らないような近場のマイナーな迷宮に忍びこんでいた。日の沈んだ夜の空気は冷たくて、闇に呑まれた迷宮内は不気味なほど静寂に、その本性を潜めている。
月の光すら届かない深い森の中に、まるで隠れ潜むように作られた迷宮の中、騎士団に所属していた頃から愛用していた剣を抜いて、あまり得意でない魔法で周囲を照らし、辺りを警戒しながらゆっくりと歩みを勧める。
何でも、迷宮に何かが潜んでいるらしい。
迷宮なんだから、魔物がいてあたりまえなのだが、実はこの迷宮、魔物が潜んでいないことで街の人に知られていたりする。それはとても珍しいことで、魔族研究者達の間では結構有名だったりするのだが、強大な力を持つ魔物を打ち倒すことを誇りとし、その果てに待つ財宝を得ることを喜びとするハンターの間では興味の範疇外なのである。
だからこそ、その報告は無視ができないもので、報せを受けた駐屯兵は確認するしかなかった。
大方何かの冗談か何かしらの理由で入り込んだ動物であろうと、生真面目な兵士は何の警戒もなく迷宮に向かいそれから帰ってくることはなかった。消息も掴めず確認に向かった兵士も同上、街の駐屯所は無人でもの悲しいもぬけの殻になり、その異常は騎士団に伝わるより早く街中に噂話として伝わった。田舎の特徴というのか、特権というのか、実に恐ろしいものである。
そんな感じで、当然俺にもそのネタは尾びれのついた状態でお裾分けされた。魔王が住んでるとか、竜が潜んでいるとか、耳の痛くなる、肥大と誇張に、俺は愛想笑いで対応したものだが、賊にせよ、魔物にせよ、何かが潜んでいるのは間違いないようだ。
そうして日の沈もうとしていた夕暮れ時、俺のところへ直接お願い――――というより、依頼が入った。相手は領主。礼儀として無礼のないように対応する。依頼は当然というか、それ以外あり得ないというか、これ以上ないほど簡潔で予測可能だった。
――――魔物を退治してほしい。相応に金は払う。
申し訳なさそうな顔でそんなことを言われた。
本音は断りたかったが、無視出来ない理由がいくつかある。
一つは、俺が元騎士であるということ。元でも罪なき庶民の明日を守っていたものとして、もはや関係ないではあまりにも人してあれである。
二つめは、金だ。退職以来、何もせずに惰性に生きてきた俺へのつけというか、そろそろ引きこもり生活に終止符をうたなければ、だらだらと引き延ばし続けてしまいそうなのである。そう考えると、縁を切るには絶好の機会なのかもしれない。
だがしかし、久しぶりに持ってみた剣の感触は、昔を思い出して億劫だった。
人を殺すことと、魔物を殺すこと。それの示す意味なんて、見当もつかない無解決な疑問のままなのだが。
迷宮の中に漂う空気が徹底して人を拒み、踏み出す度に息が詰まる。
大量の屍が転がった大戦後の戦地みたいだ。
迷宮は別れ道もなく四角の通路が一直線に伸びている。魔物と遭遇する事もないまま、難なく進むことができた。それでも、奥に進むほど空気は濁り、足を踏み出すのが躊躇われる。
しかしまあ、異常な空間なんてもはや馴れた不吉であることも確かだ。今更、純粋な恐怖とか、普通の感性を自分に求めるのはお門違いな注文だ。この先で待つ真打ちなんて、想像しても意味のないことをあれこれ考えている場合じゃない。これから殺す奴がどんなやつでどんな存在でも、恨みつらみのない殺す側からしたら、関係のない話だ。興味はあるが、それもじきにあかされる。
踏み込んだ少し開けた空間には、黒いコート姿の男が床に腰を下ろしていた。
ちょうど、お互いの姿を俺の灯りで確認することができる距離。
目が合った。
すでに勝負はついていた。
否、この迷宮に踏み込んだ時点で、俺の狩りは終わっていたのだ。始まる間もなく、終わってて、気づきすらせず、死にに来た。
呆気なく手も足もでないとはこのことで、実に静かな終わりだった。
反抗すら許されず、命乞いすら言わせてもらえなかった。
騎士としての誇りとか、意地とか、滑稽すぎて無意味すぎた。
結局のところ。
自分が狩る側だと思い上がりもいいとこの、狩られる側の勘違いだった。笑える。なんて愚かだったんだ、俺は。
なんてことはない、人間社会において強者と位置付けられた俺は、魔族にとってはとるにたらないただの弱者だったのだ。俺は人間で。いくら強いとはいえ、人間を越えたわけではないわけで。どこまでも人間で。しょせん人間に人間は越えられず、今までの人生の頑張りも虚しく、結局俺はまっとうに狩られる側としての人生を歩んできただけだったらしい。
不思議と悲しくはなかったけれど、だったら人間の生きる意味が全てそうなのかと思うと、かなり切なくて、意味もなく泣いてしまいそうだった。
底抜けに真っ暗な闇が俺を引きずり込む。そこに光が入り込む余地はない。
抵抗など無意味であることも知っていた。
ただ俺は、底の無い闇を見つめ、ぐしゃ。
▽
「ここももうだめだな」
一切の光ない、闇の中に潜む生き物。
残念そうな言葉は闇に残響する。
「おいしいもの食べたし、そろそろ戻るか」
再び迷宮に生き物は消えて、誰もいなくなった。
残ったものは、床一面に広がった、闇に染まった血痕と、誰かの剣だった。