一話
いつも見慣れた光景に少しでも変化があると、それがやけに目についてしまう。授業を終えてだらだらと廊下を歩いていた俺は、そんな小さな変化を見つけて足を止めた。
それが取るに足らない変化ならよかった。そのまま何事もなかったように足を進めて家に帰るだけだ。それからゲームでもして、時間が来たら夕飯を食べて、風呂に入ってから申し訳程度に勉強して寝る。何も変わらない、いつも通りだ。
だがこの時俺が見つけた変化は俺の足を止めてその場に縛り付けた。どうしようもないほどの懐かしさと胸の苦しさ。それが一緒に襲ってきて、俺は身動きが取れないまま廊下の隅に置かれた掲示板に釘付けになった。
年季の入った液晶掲示板のディスプレイには、見るからに素人が作った拙いポスターが映し出されている。
『VRFPS部 部員募集中』
VRFPSは仮想空間に没入してプレイするFPS(ファーストパーソン・シューティングゲーム)だ。うちの高校にもVRFPS部があったのか――という単純な驚きはもちろんあった。だけど俺の足を縛り付けたのはもっと別のもの。例えば大喧嘩して別れた親友と数年ぶりに再会したような、そんな居心地の悪さだ。俺は何かに魅入られたかのようにそのポスターを見つめ続けた。
気が付くと夕日がディスプレイに映り込み、あたりを茜色に染めていた。帰宅に急ぐ生徒たちの喧騒はすでに消えていて、遠くから運動部の掛け声が微かに聞こえてくる。俺はずいぶんと長い間ここで立ち尽くしていたみたいだ。ばかばかしい。今さら戻る気なんてないのになにをやっているんだろう。
俺は踵を返して歩き出した。その時、
「うおっ」
と誰かの驚いた声が聞こえたと同時に、俺は何かにぶつかって尻餅をついた。
「痛って……」
対面に俺と同じように尻餅をついている男子生徒がいる。赤色のネクタイ。俺と同じ二年生だ。
「悪い、大丈夫か」
そう声をかけて立ち上がった――その瞬間、何かを踏みつぶした嫌な感触が右足にあった。俺は凍りついたように動きを止めた。恐る恐る足をどけるとそこには踏みつぶされた眼鏡がある。俺は眼鏡をかけていない。つまりこの眼鏡は――
「おおおお、俺の眼鏡っ!!」
男子生徒がバラバラになった眼鏡に飛びついて欠片を必死に拾い集めていく。
「昨日買ったばかりの新作が……」
……。
「半日ならんでようやく買った限定商品なのに……」
…………。
「学校終わってから毎日四時間、このために必死でバイトしたのに……」
………………。
「ごめん、悪気はなかったんだ」
男子生徒は割れた眼鏡に視線を落として顔を上げようとしない。
「それ、いくらしたんだ?」
「定価は二万九千八百円。でももう店では売ってないから、ネットオークションで買うことになる。そうなると二倍――いや三倍もあり得る」
マジかよ。
「あ……えっと、う~ん」
安易に弁償するとも言えない俺は言葉を探して意味のない声をあげた。やはりここは俺が弁償するのが筋なんだろうか。
俺が悶々と悩んでいると、割れた眼鏡を眺めていた男子生徒が顔を上げた。軽く癖のある茶髪にわりと整った顔立ち。……知った顔だった。
「カズ……」
「お、ユウじゃねえか」
カズも俺に気づいたように笑った。
「いや~まさかユウだったとは思わなかったぜ。もう後姿じゃまったくわからねーわ」
「俺も分からなかったしお互い様だ」
カズとは小学生の頃よく遊んでいた。別の中学に進んだせいで疎遠になったが高校で再開した。とはいってもクラスは別々だし、俺がカズのことを避けていたせいもあって、昔のような交流はもうない。
「眼鏡代をどう請求してやろうか悩んでたところだったけど、ユウなら話がはやい」
カズはニヤリと唇を歪めて、
「興味あるんだろ、これ」
と、液晶掲示板のポスターを指差した。
「……別に、興味ない」
「嘘つけ、ずっと見てただろ。こんなもん興味もないのに見るかよ――もしかして俺の描いたポスターが芸術的すぎてお前の琴線に直撃だったとか?」
お前が描いたのかよ。
「んなわけない」
「だろ、じゃあなんで見てたんだ」
「……考え事してただけだ」
「へたくそなポスター見ながら?」
「へたくそなポスター見ながら考え事することもあるだろ」
カズは小さくため息をついた。
「まあいいか。じゃあ話は変わるけど、ユウはVRFPSやってるんだろ」
なんでこいつが知ってるんだ。
「ユウの母親に聞いた」
俺の考えを読み取ったかのようにカズが言った。
「昔はやってたけどな。もう長いことやってない」
「へえ、意外だな。寝ても覚めてもVRFPS漬けって聞いてたけど」
どこまで知ってんだよ。
「最後にプレイしたのは二年前だ。それから一度もプレイしてない」
「そうなのか。それは知らなかった。なんでやめたんだ?」
「別に、ただ飽きただけ」
できる限り軽く、自然に言ったつもりだ。でもカズは俺の顔をじっと見た。居心地が悪くなって視線をそらす。
「それで、俺がVRFPSやってたことと眼鏡がどう関係あるんだ?」
「おっと、そうだった。大事なのはそこだよな。実は俺、VRFPS部に入ってんだけどさ、部員が四人しかいないんだわ。それで来週の日曜が大会なんだ」
VRFPSの公式戦は全て五対五のチーム戦だ。ということは、
「一人足りないのか」
「そういうこと。もしユウが入ってくれるんなら眼鏡のことはチャラでいい。悪くないだろ?」
確かに悪くない。悪くないけど……
「何か問題でもあるのか?」
「いや……」
「二年間やってないって言ってもまだそれなりに動けるんだろ。なんせ毎日FPS漬けだったらしいしな」
それは問題ないはずだ。
「……そうだ、いつまで入部すればいいんだ。卒業までずっとってのはきついんだけど」
「いや、そこまでしなくていい。三年の先輩がいるんだけどさ、次で最後の大会なんだ。今まで人数足りなくて一度も大会に出場できなかったから最後ぐらいは、と思ってね。だから次の大会が終わるまででいい。いいだろ?」
「来週の日曜日までってことか?」
「負ければな。勝てばもう少し続く。おっと、だからってわざと負けるのはなしだぜ」
カズはそう言ってニヤリと笑った。
うちは進学校で部活動があまり盛んじゃない。しかもVRFPS部は部員が足りなくて一度も大会に出たことがないときた。おおかた一回戦負けで終わるだろう。だから来週の日曜まで耐えればいい。それだけだ。それだけのはずだ。
「どうした、まだなにかあるか?」
カズが不思議そうに聞いてくる。もう何もない。
次の日曜日までだ、気軽にやればいいさ、所詮ゲームなんだ。そう自分に言い聞かせる。
「わかった。だけどあんまり期待するなよ」
「よしきた、これで俺の株もあがるぜ!」
株があがる?
「じゃあさっそく部室行くぞ。ほら、ついてこいよ」
カズはそう言って足早に歩きだした。カズの背中は昔よりずっと大きくなっていた。俺はその背中についていく。昔は――逆だったはずだ。
部室は北校舎の最上階の一番奥にあった。この辺りは授業でもめったに使われることがないからほとんどが空き教室だ。当然、人の気配はない。
部室の中は普通の教室を二つ続けたぐらいの広さがあった。そこは一世代前の備品であふれている。電子化されていない普通の黒板、何の機能もない椅子と机、木製のぼろぼろのロッカー。四半世紀前にタイムスリップしたかのような錯覚に陥る、どこか懐かしい雰囲気がそこにあった。
その奥にこの雰囲気を台無しにするリクライニングチェアが五台並んでいた。仮想空間に没入する際に、不自由のないよう作られているそれはどこまでも機械的で重苦しい。
その椅子に少女が一人座っている。
「部長、戻りました」
カズに呼ばれて、椅子に座った少女――部長は俺たちの方を見た。その瞬間、俺は思わず息を呑んだ。金色の長い髪が揺れた。黒縁眼鏡の奥の吸い込まれそうな青い瞳が俺とカズの間を行き来する。信じられないほど整った顔立ちと、断ち切られそうなほど鋭利な印象。彼女と全くかかわりのない俺でも知っている有名な先輩だった。ロシア移民の二世、桜坂エレナ。
「遅い。どこ行ってたの」
よく通る落ち着いた声で部長は言った。彼女が『部長』と呼ばれているということは、当たり前だがVRFPS部の部長で、VRFPSのプレイヤーだということだ。正直言って意外だった。最近は女性のプロプレイヤーが出たこともあって、女性人口そのものは昔より増えてきた。とはいっても男性プレイヤーの方が多いのは明らかだし、勝手なイメージだが彼女がVRFPSのようなゲームに興味を持つようには見えなかった。
「ふふ、部長、俺がどこに行っていたのかそんなに気になりますか?」
とカズがニヤニヤ笑いながらもったいぶって言った。
部長の眉間に皺が寄った。黒縁眼鏡の奥に隠れた青い瞳が鋭く細められた。明らかに「こいつウザッ」といった顔だ。
「興味ない。さっさと練習をはじめたかっただけよ」
「まあいいですよ。俺の話を聞けばそう邪険にできなくなります」
そう言ってカズは俺の背中を押した。突然のことで、俺はよろけながら前に出た。
「誰?」と部長は俺を見る。
「誰だと思いますか?」
カズの言葉に部長の視線が一層鋭くなる。
「誰でもいいからはやくして」
カズはやれやれと首を振った。
「部長、大会に出たいですよね」
「? 出られるものなら出たいけど……」
「ですよね。でも出られない。なぜなら部員が一人足りないからだ」
カズはうっとおしい身振りを交えて話す。
「俺は部長のために頑張りましたよ。こいつのおかげで――というよりむしろ俺のおかげで大会に出られるようになりました」
「まさか――」
「そう、こいつが、我らがVRFPS部五人目の部員です! ほらユウ、あいさつしろよ」
俺は部長に向かって軽く頭を下げた。
「二年の北条ユウです。よろしく」
部長が立ち上がって俺の前まで歩いてくる。黒いタイツに包まれた足がしなやかに動いた。小さな顔に形よく膨らんだ胸、それから長い足。日本人離れしたスタイルとはこのことだ。
「三年の桜坂エレナよ。本当に入ってくれるの?」
「はい、まあ一応」
「ありがとう、助かる」
部長はそう言って少し笑った。近くから見るその笑みに思わず俺は見惚れてしまう。彼女が有名になる理由が少しわかった気がする。
「部長、ユウを勧誘したのは俺です。感謝の意はむしろ俺にささげるべきです!」
部長は嫌そうな顔をしながら「ありがとう」と小さく言った。
「それで北条君。VRFPSはどれぐらいできる? まったくの初心者なら一から教えるけど」
「ユウでいいです。経験はあるのでそれなりに動けると思います」
久しぶりだから確かな自信はないけど。
「俺が部長のために見つけてきた部員ですよ。俺には及ばないまでも全国優勝まで導いてくれる逸材です。間違いない!」
間違いしかない。
部長は胡散臭そうにカズを見た。
「とりあえず一度対戦して。それからポジションを決めるから」
部長はリクライニングチェアのそばに歩いて行った。俺も部長について行こうとすると、
「おい」
とカズに呼び止められた。
「部長は俺に惚れてるから。普通に俺の女みたいなもんだから手出すんじゃねえぞ」
マジかよ。
「そうは見えなかったけど」
「照れてんだよ。それと実質この部は俺のハーレムだから。俺の好意でここにいられるユウはありがたく感謝して、俺のフォローに徹しろよ」
いつの間にか好意で入部したことになっていた。言い返すのも面倒だから俺は黙って移動する。俺がカズを避けていた理由はこのウザさだ。
リクライニングチェアは少し古いものだったが、それに取り付けられているヘッドギアは最新のものだった。このヘッドギアが仮想空間を作り出し、もう一つの現実へと俺たちを導いていく。俺は自然と手を伸ばしてヘッドギアを撫でていた。
「最近ようやく部費が下りて買えたの。最新のヘッドギアよ」
もちろん、わかる。
「起動はできる?」
もちろん、忘れるはずがない。
俺はリクライニングチェアに座った。それからヘッドギアをかぶり、後頭部近くにある電源を入れると、目の前が真っ暗になった。しばらくするとその中にいくつかの文字が浮かび上がった。
「まず初期設定からはじめることになるけどわからないことがあったら聞いて」
もうやっている。俺は浮かび上がった文字の横に自分に適した数値を打ち込んでいく。ただ念じるだけで、驚くべき速さで文字が打ち込まれ、流れていく。俺は一つも忘れることなくそれらの数値を覚えていた。
「終わりました」
と俺は言った。
「早いわね」
部長の驚いた声が聞こえた。
「俺の顔に泥塗らないようにちゃんとやれよ」
カズの声が俺の耳元で聞こえた。
「それじゃあ、カズが相手して。1VS1の五分間。ステージは大会と同じ砂漠の町で」
それを聞いたカズが耳元で、
「おい、俺の顔に泥塗らないように手抜けよ」
と慌てた声で言った。どっちだよ。
俺は浮かび上がった文字の中から『YES』を選択する。それとともに俺の意識は現実から遠ざかり、仮想空間が作り上げられていく。
認めたくないけれど俺の胸は高鳴っていた。もう二度と戻るはずがないと思っていたのに。
あとがき
初めましてtnkと申します。執筆経験は浅いので拙いものになるかと思いますが、感想やアドバイスいただけると嬉しいです。
週に一度の更新を目指して頑張ります。よろしくお願いします。