'11.10.15 (土) INNOCENT

直接中曽氏についてではないが、しかし確かにそれと関係することを、
また若干の他のカトリック信者にも関係することを、その方面のことを、
もう一度だけ書く。

善人は「単純」なことが多いものである。(「単純」 - ここでは残念な意味で。)
善人であるためには、人は正直に、清く、他者に親切に生きればよい。
それが簡単だとは言わない。しかし、そこにはそれほど「複雑さ」は必要ない。
(貶めていない。)

しかし、悪人はどうか。
悪人が悪人であるためには、一定の「複雑さ」が必要である。
いわゆる「悪知恵」において、ある意味、知恵が発達する。
(誉めていない。)

善人は、もちろん、善については感覚を持っている。
しかし、悪については、自分が悪人でないので「ピンと来ない」のである。
悪人の悪性が分からない。

単純な悪のことを言っていない。

心(精神)が単純な人は、見たもの聞いたものをそのまま受け取る。
「よく見」、「よく耳を傾け」さえすれば、
自分は対象について「よく知る」ことができる、と信じている。

対象について「具体的に多く知る」ことが
兎にも角にも「対象を知る」ことだと思っている。
そのような“イノセントさ”を持つ。

ある種の人間においては、あるいは、ある種の組織や団体においては、
その「言葉」も、「行動」も、その他諸々の可視的な「様子」も、
大いに「外面」であり「上っ面」であり得るということを、
そのような人はほとんど認めない。

「そんなに手の込んだ嘘があるものか」と思うわけである。
「仮にあったとしても、私には目があるのだから、分かるはずだ」
と思うわけである。
悪人の悪性が分からないのである。

単純な悪のことを言っていない。

典型的なのは、ある組織なら組織の構成員が、
その組織のことを外から観察/調査して何事かを言っている人を前に、
「もちろん内部にいる自分の方がよく知っている」
と信ずるイノセントさである。
それは溜め息の出るイノセントさである。

もちろん普通の組織のことを言っていない。

あるいはまた、善悪の見方が単純である。
「正義の敵の敵」=「正義の味方」と信じているかのようである。
ところが、この世の中はそう単純ではないものである。
「正義の敵の敵」=「正義の敵」であることも普通にある。

何故なら、この世には「ほおかむり」がいるからである。
「被り物」をしている連中が。「狐狸」が。

「偽りの霊」は、あなたが考えているより多く、世に存在する。
(人間も霊である。)

イノセント左翼と日本を動乱させたい“狐狸たち”の間のすったもんだ
目を取られ、大真面目に青くなったり赤くなったり。
そんなものは、たとえ善人であれ、悪に関して子供である。

共産主義はもちろん鬼である。
しかし、共産主義だけが敵であるかのように思い、
共産主義の害毒しか目に入らないかのようなそのような人は、結局、
「共産主義という鬼」と「在特会等の狐狸」との間で
哀れにも踊らされているのである。 のせられている。
それが実相である。

たとえば、主権回復を目指す会の西村修平なんてのは、学生時代は左翼である。
(このへんが、それが「単純な悪」ではない所以である。)

詳細 ⇒ http://richardkoshimizu.at.webry.info/201005/article_21.html

リンク先で分かるように、この事実を挙げているのはリチャード・コシミズ氏などである。しかし言っておくが、「西村修平はかつては左翼であった」という事は、誰がこれを挙げているかに関わりなく、一個の「事実」である。
(彼自身は、若き日のそれら全てを、つまり中国行きもそれに先行する団体への所属も、「政治活動の参考とするため」という一語で説明しているらしいけれどもw)

加えて、北朝鮮勢力が日本国内に民族主義を拡大しようと画策したふしがある。
(ふし、可能性、ということで結構だが、ご存知なことはご存知ですよね。)

田宮高麿がピョンヤンで客死した一九九五年、その年、わたしは春から夏の入ロにかけて何度も彼と会っている。ピョンヤンでのこともあり、第三国でのこともあった。このころ彼は、日本国内に「愛族同盟」と称する政治団体を結成することを考えていた。民族主義を最前面に押し出した組織だった。もちろん、この動きが朝鮮労働党の指導のもとに行われていたことは明白だった。そして、この組織化のなかで日本の民族派系組織も取り込んで運動を拡大することが画策されていた。やめた方がいい、そんなことはやめろよ、とわたしは思わず田宮に向かって言った。政治的なマヌーバーであることが分かり切っていたからである。社会主義の理想や自主的な考えを放棄して政治的に金日成主義を支持したり、推しすすめさせたりすることは、この場合、日本という祖国を売らせることにしかならないではないか。田宮はそのとき、一瞬、険しい表情で、「もう遅い!」と叫ぶように言った。

高沢皓司著『宿命—「よど号」亡命者たちの秘密工作』新潮社 (1998)

それ故、これがふしであれ、可能性であれ、以上の二つがあることによって、
私たちは少なくとも「警戒」を覚えるべきである。

こんな時、直ぐに「証拠」と口にしたくなる人は、余程どうかしている。
それは 「私には警戒するつもりがない」と言っているに等しい。
何故なら、証拠が上がってしまえば、そこに証拠があるのだから、
あなたは警戒しようにもできないからである。

あなたはいつ「警戒」するのか、それを覚えるのか。

信仰の世界で折角このような(↑)優れたメタファーを与えられているのに、
何故、もう少し気をつけないのか。


そして、「そもそも」の話である。
そもそも、私たちの第一の祖国は「日本」ではない。
(カトリック信者ならこう聞いて驚きはしないはずである。)

では、何だ、何が祖国だ。
「国境のない地上天国」か。
それじゃフリーメイソンだ。

日本は第二の祖国である。
第二のものとして大切にしなければならない。
しかし、第一の祖国は「天国」だ。
これを「非現実的だ」と言うカトリック信者はいるのか。

私たちにとっての第一の生き方は、
「私はこの世に属さない」とおっしゃったイエズス様に倣うことだ。
肉は第二、霊が第一だからだ。

だから、どっちを向いてるんだ、という話である。

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