'11.10.05 (水) カトリック教徒 中曽千鶴子(通称おつる)氏 3

「心眼」はどこに行った

前々回、こう書いた。

天主を信じない者の持つ知識/見識は、たとえどのように豊富なものであろうと、天国的価値から見れば一段も二段も下がるものと知らなければならない。如何ようにも「素晴らしい」参照と形容できるものではない。

これは村田春樹(wiki)という政治活動家のことを念頭に書いたものだった。いや、と言うより、彼がした演説に対して参照元のカトリックの信者さんが「素晴らしい」という形容を与えた、そのことに違和感を覚えてのものだった。

そのことを突つくつもりはない。小さなことである。そして、あり得ることである。彼の言う内容を聞いて「素晴らしい」と感じることは、人間においてあり得ることである。(私なら、どんなにしても、「一応、大したもんだ」ぐらいで済ませておくが。)

言いたいのは、「人間の知性とは何か」ということである。
それは「知識」であろうか。
あるいは「論理力」であろうか。

「心眼」はどこに行った。
あるいは、もう少し神秘性を低めた言い方をすれば、
「人間を見る目」はどこに行った。

画像1 村田春樹・西村斉・荒巻靖彦・中曽千鶴子 掲載ページ
画像2 村田春樹・桜井誠
画像3 村田春樹・桜井誠
画像4 村田春樹・西村修平

彼もまた、その政治主張のためには「人間性」というものを不問に付す者なのである。

「不問に付す」は大袈裟な表現ではない。
西村と荒巻の人間性については、私たちは既に幾つかのビデオで見たのである。
桜井についても、「射殺しろー! 生きたまま原子炉に叩き込めー!」で、見たのである(放置国家)。 西村を含めては、以前の拙記事「『在特会』と『主権回復を目指す会』の馬鹿リーダー(護教の盾2)を参照して頂きたい。(「馬鹿」という言葉は、今見ると自分でも抵抗があるけれども。)

村田春樹氏はこのような人間性を含んだ彼らと平気で交流できる者なのである。

これによって、人は簡単にこう思うべきである。
「村田春樹という人の言う内容のアレコレ、その個々、その断片はちょっと別にして、彼の人間については推して知るべしである、マル、終り」

これは天国では少しも「乱暴な議論」とは言われないであろう。

彼らは彼らのあのような行状を自分たちの「政治手法」だと主張するかも知れない。本当は自分たちの「人間性」とはちょっと別のものなのだよ、と。

そして、確かに、彼らは別のシチュエーションでは別の顔を見せるのである。
画像1のような。因みに、この写真は先月のものである。中曽氏は変わっていない。

それで、ある種の人々はそのようなものを見て、「ああ、そうだったんだ。この人達の本当の顔はこれなんだ」と思うわけである。

「心眼」はどこに行ったのか。

識 別

あるいはまた、ある種の人々においては、愛国的な政治家たちの幾らかと、在特会のような団体の両方を見て、その主張の重なりを見て、その両者が主張ばかりか人間においても同様のものと思ってしまうのである。つまり「良い政治的主張をする人はおしなべて良い」かのように思ってしまうのである。言葉に囚われているからである。理屈に住んでいるからである。そのぶん人間が見えなくなる。

信者なら、もう少し警戒的である筈である。「霊の識別」ということを習っているからである。信者は「良い言葉を語る者はおしなべて良い」とは考えない。何故なら「天使ばかりでなく悪魔/悪霊も良い言葉を語る」と知っているからである。「言葉だけを見るのは危険」と知っているからである。「偽教師」「偽預言者」という概念によって、警戒心と観察眼を成長させられているからである。

そのような信者は、警戒心と観察眼を、人間を見る場合にも転用するだろう。自然に転用するだろう。嘘においては「霊」と「人間」の別はなく、「宗教界」と「政治界」の別もないと知るからである。

しかるに、政治にかかりっきりの信者には、必要な警戒心と観察眼がない。むしろ言うだろう、「偽教師? いやだ、それは宗教の話でしょう。政治の世界にはいませんよ」。

(あるいは篤信の信者でさえ、「対象について具体的に多く知ることが兎にも角にも対象を知るということだ」と信ずるイノセントさを持つ。しかし同じ姿勢で霊にも対せるかどうかを考えるがよい。「彼は霊ではなく人間です」…この感覚があなたに油断をもたらす。何故なら、嘘において霊と人間は同じだからである。嘘は嘘。嘘の構造は普遍だからである。)

地上的

中曽氏について最初に書いた記事前々回の中で、こう書いた。

この記事の主眼は政治談義をすることではない。政治的観点から点検することではない。一切違う。この記事は、それ以前の「人として」の部分、またもちろん「カトリック教徒として」の部分に向けられている。

地上的な人間、政治的な人間は、私のこの断り書きに物足りなさを感じた筈である。何故なら、そのような者はこう感じているからである――「人間性や霊魂の問題は、場合によっては(緊急の場合?)、政治の問題よりも優先されない」。

しかしそのように感ずるのは、目が地上的だからである。
もしその者がカトリック信者ならば、「非カトリック的カトリック信者」と言われなければならない。その者は聖主の「まず神の国とその義を求めよ、そうすれば他のものもそれに加えて与えられるであろう」という御言葉に「現実性」を感じないというわけである。だから、信仰的な人間と共にいることよりも政治的な(地上的な)人間と共にいることの方を好むのである。

自己認識

しかし、中曽氏。おそらく、今のような言葉、また、私が今まであなたについて書かせてもらったこと全ては、あなたの耳には入らない。少なくとも今のあなたの耳には入らない。その心の耳には。

それは非常に困難である。それが困難であることは、私があなたについて最初に書いた記事前々回の冒頭に掲げた三枚の画像が雄弁に語っている。もう一度掲げる。

中曽千鶴子
中曽千鶴子
中曽千鶴子

それは最初の二枚があるばかりでなく最後の一枚もあるからである。
今のあなたはこれほどまでに、最も初歩的な自己認識さえできない。

これらは一年半ほど前のあなたの姿だけれども、あなたは今も変わっていないだろう。何故なら、これらの写真に伺える、これほどの自分についての気づきのなさは、あなたの中で根深いものだろうからである。そんなに簡単に変わるものとは思われない。今のあなたには最も簡単な自己認識さえ期待できない。

あなたを批判する人達の中に、幾つかの事柄を根拠に、あなたに「嘘つき」という言葉を付している人(しかし単数ではないであろう)がいる。「虚言」とも。
私はそこまでは言わないことにしよう。事実関係を確かには知り得ないからである。

しかし、私の目には、あなたの文章から、あなたが自分を「美化」したい人であることは確かなように思われる。
あなたは、あなたのブログの中で、あなたが四年間勤めた職場を去ることになった日のことを報告している。

2010年03月26日(金)
涙の お別れ
24日 わたしは、現在の職場を退職する日でした。
事情は書けませんが、4年間、一生懸命尽くした日々の
最後の日でした。
http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/1316/

私は、冒頭のこの数行を読むだけで、早、あなたという人(パーソナリティ)を見る思いがする。
中曽氏。人は普通、自分のことで「一生懸命尽くした」とは言わないものなのである。

同じページのコメント欄には、あなた自身のコメントとして、こうある。

私は 一時期、情が深すぎて

中曽氏。人は普通、自分ではそのようには言わないものなのである。
なぜ、それがわからないのか。

私は前々回、VIDEO 1 のことろで、「私たち全てがどこか『未発達』だが、この人もそうなのではないか」と書いたが、……あなたは子供なのか?

あなたは自分を美化したいか、あるいは日本人として言語感覚がおかしい(標準的でない)かのどちらかだと思うが、私としてはやはり前者なのだろうと思う。

あなたを批判する人達の一人、あなたが軽蔑し、馬鹿にし、嗤っているだろうあなたに対する批判者の一人は、あなたに「脳内花園」という言葉を付している。私は彼の政治的立場を知らない。私は左翼でも右翼でもない。しかし、彼のその形容は、あなたにとっては侮蔑的にも響くだろうけれども、一つの心理学的表現として的を射ているように思う。

あなたは自分についてさえこれほどなのだから、他者については尚更である。
自己認識がこれほどなのだから、他者認識は更に覚束ない。
人は自己認識を下敷き(基礎)にしてしか他者認識できないからである。

私は、あなたがある時点から自分のブログで自分が写る写真を盛んに表示するようになったのを見て、危うさを感じたものである。
あなた自身としては、最初のキッカケはごく気軽なものだったのかも知れないし、また、政治的活動を活発化させるようになってからは、一つの必要事としてそうしたのかも知れない。
しかし、そうだとしても、それ全体として、私は不安を感じたのである。

何故なら、人間においては、およそ常にと言っていいぐらいに、自分で意識する以外の隠れた動機(情動)によっても動かされるものだからである。
そして何故なら、ある種の女性においては「自分を目立たせたい」からである。「人々の注目を浴びたい」からである。そうすることに、おそらく抗し切れない喜びを感じるものだろうからである。
(私は他者の心を直接覗き込むことは出来ないから、決め付けることはしないけれど、とにかく人間は、理屈でなく、自分の生きた情動を、動いている情動を、正直に見ることが大事だ。)

それに、そもそも、現代のカトリックの「権威ある」とされている文書の中には明確に示されていないかも知れないけれども、カトリックは古来から、その伝統の中で、女性に対して「前に出ないこと」を勧めているように思われる。
それは「女性差別」ではないだろう。ただ天主がそのように女性というものをお作りになり、お定めになったからだろう。女性には女性の美徳が、功の立て方が、美しさの保ち方が、男性とは違った形であるからだろう。

特別の使命とカリスマを頂いた聖女は別として、女性は一般に、前に出るものではない――私たちはこれを一応(一般的に)「真」としていいだろう。
これは女性にとって何ら損失ではないように思われる。慎みの内にある女性は途方もない美しさを持つものだから。

(男性の場合だって、「前に出る」ことには誘惑が伴う。甚だしき、あるいはうっすらとした自惚れの契機となる。地位や注目は、それ自体が悪いというのではないけれど、エゴにとって餌となりがちだ。)

 
美しさと言えば、これは美しかったか?
(これというか、その表示行為は。)
いや、その正反対だった。
私はこれが視界に入るたび、目をそむけた。
あなたの外的容貌は人並以上だろう。
しかし、それにも拘らず、
私は見るたび目を背けずにはいられなかった。
 
思い出したので書くが、これもまた軽薄な世界だった。参照
これはあなた自身が作ったものではない。しかし、あなたはこれを小さなもの/他愛ないものとして受け取り、笑い、楽しんだ。それを「受容」した。それにより、あなたはあなたの信仰世界に小さな世俗的軽薄さを許した。そして、一つの事は一つの事ではなく、小さな事は小さな事ではない。この一つの小さな出来事の中に、あなたの全般的傾向を見て取ることができる。(嫌悪しない信者もいたようだ。参照
 
御ミサにおける女性のベール。それは「慎み」のしるしだろう。御ミサにおける、天主の御前における。あなたも御ミサでベールを被る。
しかし、教会を一歩出た途端、あなたが自己露出/自己表出において全く無規制になるなら、世間一般の人々と何ら変わりなく自由になるなら、あなたのベールの意味は半減するというものである。
あなたは何でも物事を簡単に考える。以前の例で言えば、「聖職者は政治活動はやっては駄目で、平信徒は自由」であるかのように。参照
教会の外に出ても、そこは天主がおられる天地なのだから、御ミサとは程度の差はあるとしても、あなたは慎みを忘れるわけにはいかない。

(男性だって、慎み、謙遜の要求を免れるわけではない。)

結 論

中曽氏。

今日のこの記事はあなたにとって「しち面倒くさい」ものだったかも知れないけれども、結局、あなたにとって最もシンプルな解決策となり脱出口となるのは、前二回の記事で書いた通り、「全てをカトリック的な視点から見る」ということである。

そして、あなたの心の中に立っている「彼/彼女はカトリック教徒ではない」 という理由の上に育つ悪い木参照を切り倒し、「非カトリック者を見る時にもカトリック的な価値観をもってする」ということである。

もちろんこれは「基本的に」である。実際は「程度問題」というのも発生する。
しかし今のあなたは、いずれにせよ、あまりにも、カトリック的なもの、その基本的なところを、ないがしろにしている。あなた自身が、カトリック信者として、目も当てられぬ逸脱をしている。
(私のこの記事も、カトリック信者として逸脱しているかも知れないけれども。)


さて、私はあなたから視線を外そう。
あなたは容易には悟らない、容易には今の軌道を変えない。
「カトリック的真理」について真面目に考えることよりも、
ここに登場した彼らと共にいることの方を、彼らと語り合うことの方を、
明日も、明後日も、その先も、より好むだろう。
しかし、「どこに耳目を注ぐか」で、道は大半決まる。
信仰に耳目を注げば、あなたは信仰家。
政治に耳目を注げば、あなたは政治家。
(実際上。内実上。)
あなたの固着は深く、固い。
だから、私はここで、一つ突っぱねた言い方をしてみたい。
"どうか一生かけて、残りの全生涯かけて、悟って下さい。"
あなたは容易には悟らないだろう。
沈黙のない、年中ガサガサした、
孤独のない、落ち着きのない心の状態であるから。
深く考えることがないから。
でも、私はあなたのために祈るだろう。
他の心ある信者たちもあなたのために祈るだろう。
しかし、念を押すが、それはあなたが特別「いい人」だからではない。
特別目を掛けるに値する、特別注目に値する人だからではない。
それはただ、あなたもまた天主が造り給うた霊魂だからである。
そして、私たちがたまたまあなたを見知っているからである。(Web上であれ。)
それだけである。
どうか、あなたが少しも自惚れませんように。(私も。)
自分に関して「花園」にならず、むしろ「砂漠」でありますように。
天主様があなたの霊魂を救って下さいますように。
(私の霊魂をも。)
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