'11.09.29 (木) カトリック教徒 中曽千鶴子(通称おつる)氏 1

我らの霊魂を護り給え。

前回紹介したビデオの中に「射殺しろー!」と叫ぶ者の声があったが参照、驚くべきことに、カトリック信者の中にも同じ叫びを挙げる者がいる。

中曽千鶴子
VIDEO 1
そして・・・(同じ人である)
中曽千鶴子
VIDEO 2
そして・・・(同じ人である)
中曽千鶴子
VIDEO 4

彼女の名は中曽千鶴子〔なかそちづこ〕、通称おつる。大阪教区、箕面〔みのお〕教会所属のれっきとしたカトリック信者である。ブログ

私はこの人のこのような姿を、前回の記事を書いた後に初めて知った。
最近、この人を念頭に二つの記事を書いていたからマリリン・モンロー 1マリリン・モンロー 2、当然、ここ最近、この人自身のことも念頭にあった。そこに来て、前回の記事を作成する中で、久々に在特会の "美しい" 息吹に触れた。この二つが重なったことにより、私の指が新たな検索に動いた。そして、この人のこのような姿/言語行動を知るに至り、驚いた次第である。

私は最初、今日ここに書こうとしている記事を、書くかどうか迷った。
第一に、それはあまりに「あからさま」なものになるだろうからである。多くの人の目には「特定の個人を吊し上げる行為」に映るものになるだろうからである。(それは多くの人にとっては常に「悪い事」である。)
そして第二に、「あるいは、このようなものは、あくまで彼女の過去の姿なのかも知れない」と期待したからである。
しかし、どうも、そうではないようである。それで、私は結局、書くことにした。

もう少し説明すれば……2010年4月14日、20名ほどからなる "愛国的市民グループ" が徳島県教組に押しかけ抗議をするという事件があったニュース映像。中曽氏もそれに加わっていた動画:途中から再生。県教組は警察に通報し、メンバーの何人かが逮捕され、結局、そのまた何人かが威力業務妨害等の有罪判決を受けた。中曽氏は運良くそれを免れたそのわけ

 
徳島県教組事務所内の中曽氏

私はしかし、この事件では彼女の基本的「考え」は変わらないだろうと思った。
しかしまた、こう期待した――彼女は確かにそれによって苦い思いをしただろうから、少なくとも外的行動においては、その後何らかの変化があるかも知れない、と。しかし、彼女の最近のブログを覗けば、必ずしもそうではない、小さな修正はあるのかも知れないが、基本的には何ら変わっていないようなのである。(彼女は、厄介なことに、愛国の闘士、あるいは救国の志士のつもりでいるから――ジャンヌ・ダルク? 彼女の洗礼名はそれである――そう簡単に変わるものでないと言えば、その通りであろう。)

(しかし、ジャンヌ・ダルクは第一に、本質的に、天主に従う者であったのだ。彼女にも人間性はあったけれども、それでも彼女は自分の内なる人間性や自我に従ったのではない――従った場合には失敗したであろう。あまり単純に見ないがよい。)

この記事の主眼は政治談義をすることではない。政治的観点から点検することではない。一切違う。この記事は、それ以前の「人として」の部分、またもちろん「カトリック教徒として」の部分に向けられている。

以下、彼女の言語行動を映したビデオを掲げる。彼女は YouTube に、あるいは彼女の知人/友人/同志であるかも知れないアップ主に、ビデオの削除依頼をするかも知れない。それも良いと思う。しかし、最も本質的に大事なことは、彼女が「自分を知る」ことだろう。

VIDEO 1 H22.5.15  『辻元清美を射殺しろ~!! 』 in 高槻
2:20-
「犯罪朝鮮人を射殺したおまわりさん、バンザ~イ!
奈良のおまわりさんバンザ~イ!
大阪府警も射殺しろ~!」
4:14-
「辻元清美を射殺しろ~!」

〔管理人〕他のビデオとは違って、このビデオの冒頭からの彼女は、その口調と声音において、ひどく子供っぽい。声が高いからばかりではない。私はこの人が「情緒的な何か」を抱えているような気がしてならない。私たち全てがどこか「未発達」だが、この人もそうなのではないか。(というズルイ言い方をしておく)

もし、この人の周囲の者(夫であれ、司祭であれ)が、この人のこういう言語行動を「極端だが基本的には "戯れ" でしかないもの」というふうに優しく取るなら、余程どうかしている。

--以下、PCが重くなるのを避けるため、ビデオはそのタイトルとURLだけとする--
VIDEO 2 H22 3.27 在特会 「女のクズ」「キチガイ」「乞食」を連発 at 宝塚
2:41-
「皆さんちょっとね、公民館入って顔見て来てください。心が汚いから、顔も汚いですよ。やっぱりね、大人になったら人間ね、いい事をいっぱいしてきた人はいい顔をしてます。でも見てください、ここにいる拉致を、拉致をするような卑劣な人間です、心が腐ってますから、むちゃくちゃ気持ち悪い顔してますよ。いっぺん見て来てください、びっくりしますよ」

〔管理人〕これが「カトリック信者」の言うことか?
が、次の、ある日の在特会会長・桜井誠の街宣での口吻と見比べて欲しい。

「ご覧下さい、あれが韓国人の姿です。よ〜くご覧なさい。あれが韓国人の姿ですよ。恐ろしい姿ですね。誰がどう見てもヤクザです。ああいうのがマトモな朝鮮人ですか? あれがマトモな朝鮮人ですか? あれが在日韓国人の姿ですよ。汚い汚い言葉を使いですね、人を罵り、脅迫し、よくまあそんなんで日本におられるもんですね」 参照(ビデオは削除されたが)

〔管理人〕私は、そっくりだと思う。
桜井はある時、このような一般の人には強い嫌悪感を催させる自分の口吻について説明して、「しかし、そういうものも、私にとっては一つの『政治手法』だと思っています」と言っている。中曽氏が桜井に影響を受けたのかどうかは知らないが、そこには似たような発想、考え方、精神構造があるだろう。
そしてまた、前回紹介したビデオの中で「射殺しろー! 生きたまま原子炉に叩き込めー!」と叫び、煽っていたのは、この桜井誠であろう。

VIDEO 3 H22 3.27 チーム関西 「八つ裂きや~っ!!」 at 宝塚西公民館
1:03-
「八つ裂きや~っ! ふふふっ」

〔管理人〕彼女は、若者がそれ以上暴走して逮捕されることのないように、少しばかり場を和ませたかったのかも知れない。しかし、そのような心の動かし方は真に「大人」の名に値しただろうか。

VIDEO 4 H22年2月27日 在特会・チーム関西 日本基督教団宝塚教会前
1:15-
「私はカトリックのクリスチャン、信徒でもあります」

以前、聖イグナチオ教会が「主権回復を目指す会」の街宣抗議に遭った時、私の中に左傾化した聖職者たちへの反感があったせいもあり、また、私の心が一時少々人間的(?)に傾いたせいもあって、その会と行動を共にしていた中曽氏に一定の理解を示すようなことを書いた覚えがある。
しかし、これらのビデオを見る時、「ここまで来たか」、あるいは「これほどの人だったか」と感じずにいられない。この人の書く文章では十分には分からぬことだった(西村修平のことを「紳士的」と評していたから、どうにも理解に苦しんではいたが)。こうしてビデオを見て、初めて「実態」を見た気がした。

少なくとも平成20年の記事で確認する限りでは、中曽氏は箕面教会の聖歌隊のオルガニストであり参照、またご主人は同じ教会の聖歌隊長や典礼委委員長だったりするようである参照

それ故、箕面教会の主任司祭である和田幹男神父は、この夫婦のことをよく知っている筈である。彼はかつて彼女に「おつるさんはそのままでいい」と言葉を掛けたらしいが(その意味合いは知らないが)、これらのビデオを見たら何と思うだろう。

(念の為に言うと、上の二つの参照は「教会の政治的言動を憂慮する会」のものだが、私はその会の趣旨に基本的に共感する者なので、どうか、ありがちな推測には気を回さないで頂きたい。「婉曲な非難なのではないか」とかである。いいえ、私はシンプルな人間である。「本当は平正協の味方なのか」とかである。いいえ、私は聖ピオ十世会を99%支持する者である。)

中曽氏は自分の正義を確信するあまり、自分の姿が見えなくなっているようである。

彼女は平正協の聖職者のことを得々と批判する。しかし政治的活動の中でカトリック信者としての姿を忘れているのは中曽氏も同様である。(いや、おそらく今や彼女の方が遙かに酷い。)

「聖職者は政治活動はやっては駄目で、平信徒は自由」というふうに、単純に考えているのか。「聖職者は政治活動をしてはならないというのはカトリックの掟」と言っているが、では何故そのようなことになっているのか、考えたことがあるのか。

聖職者にはそうあるべき「カトリック聖職者としての姿」があり、平信徒にはそうあるべき「カトリック信徒としての姿」があるのである。もしカトリック聖職者が政治的活動に進むことによってその「姿」から逸脱する危険があるなら、平信徒にだって同様な危険がある。そこを考えたことがないのか。

あらゆる「理由付け(正当化)」をしながら他者〔ひと〕のことを「女のクズ」「キチガイ女」となじるのは、その「姿」から大きく外れたことではないとでも思っているのか。

自信満々、「もしどうしてもそのような活動をお続けになりたいなら、還俗してから思う存分おやりになれば良い」などと言う。VIDEO 4

同種の言葉を御自分にも向けるが良い。

平正協の聖職者たちが間違っている分だけあなたが(私たちが)正しくなるわけではない。そこに厳しく醒めていなければならない。

どのビデオを見ても、あなたはなんと深く増上慢に陥っていることか。
致命的である。

あなたは「だって本当の事です。私たちが言うことが正論です」というふうに、単純に考えているのか。
仮に、私はそうは思わないけれど、仮に、あなたの言う内容が正しかったとしても、なお人間は増上慢に陥ることが出来るのだ。
増上慢であるかどうかは言う内容の正誤には関係がないのだ。

在特会は、他者に「車に飛び込め! ビルから飛び降りろ!」と暴言を吐いたその同じ口で、「暴力はダメだろ」と、その同じ相手を吐き気を催させる欺瞞をもって責めたり諭したり(!)する。参照

中曽氏は、目的のためなら手段を選ばず式に、他者のことを捕まえ、「むちゃくちゃ気持ち悪い顔してますよ。いっぺん見て来てください、びっくりしますよ」と圧倒的に侮蔑的なことを言いながら、その同じ口で「私は美しい宝塚の街を守りたい」などと宣う。VIDEO 2

そして、あえて言うが、典礼委員長であるご主人は、前出の入会申込書参照の中で司教に「愚かな指導者」という語を付しているが、ではこのような行状を呈している御自分の妻についてはどうか。
(あなたのプライドに触るかも知れないけれども。)

上で紹介した徳島県教組での事件の動画参照で黒い服を着て気炎を上げていたのは、確か西村斉〔ひとし〕という人物である。そして、白い服を着て中曽氏と言葉を数語交わしている男がいるが、これは確か荒巻靖彦という人物である。西村についてはもう十分だろうが、荒巻についてはそうではないから、もう一つの動画で紹介する。再生が始まって左にいるのが荒巻(再び白い服)、右にいるのが西村(再び黒い服)である。CLICK(途中から再生

中曽氏はこのような人間たちと平気で付き合えるどころか、彼女のブログを見れば分かるように、彼らを尊敬すらしているのである。

和田神父も、ご主人も、「このような者らと付き合ってはならぬ」と、カトリック教徒・中曽千鶴子を諌めることはないのか。彼女の近くには一人の聖パウロもいないのか。(そうだとすれば、ある意味、気の毒かも知れない。)

マリリン・モンローについての記事参照で書いたように、中曽氏の心の中で「彼/彼女はカトリック教徒ではない」という理由の上にあらゆる異様な悪い木が成長している。彼女がほんの少しでも「非カトリック者を見る時にもカトリック的な価値観をもってする」ということを覚えていれば、上のような二人とは一瞬たりとも付き合えるものではないであろう。

しかし、彼女にはその事の重要さが分からない。彼女にとっては彼らの悪罵も恫喝も傲慢も、一切「カトリック外」のこととして許容される。彼女は理性によってそれを「分けて」いるつもりかも知れない。「彼らはカトリック信者じゃないのだから」と。しかし、そのようにしつつ実際は、彼女自身が「カトリック外」に飛び出しているのである。彼女にはこの事が分からない。

カトリック信者にとって最も重要なのは、上とは別の意味/仕方で、「カトリック者」と「非カトリック者」を、「天主を信じる者」と「信じない者」とを「分ける」ことである。

「つり合わない首かせを未信者とともに持つな。正義と不義に何のつながりがあろう。光と闇に何の交わりがあろう。キリストとベリアルに何の了解があろう。信者と未信者に何の関わりがあろう。神の聖所と偶像に何の一致があろう。まことにあなたたちは生きる神の聖所である。神は、『私は彼らの中に住んで歩む。私は彼らの神であり、彼らは私の民となる』と仰せられる。そして、『彼らから離れてとどまれ』と主は言われる。『汚れたものに触れるな(…)』と全能の主は言われる」(2コリント 6:14-18)

多くのカトリック者自身が上の聖句には及び腰になる。「これは "狭量" なのではないか。時代背景を調べねば」。しかし、これはただ、聖主が示唆し給うた天国の門の狭さ、天国への道の狭さと呼応するだけである。

天主を信じない者の持つ知識/見識は、たとえどのように豊富なものであろうと、天国的価値から見れば一段も二段も下がるものと知らなければならない。如何ようにも「素晴らしい」参照と形容できるものではない。

天主を信じない者は天主を信じない者である。このことをもってその者らを蔑視することは出来ない。裁くことも出来ない。しかし、彼らが天主を信じないという事実は、それを見る、その前に立つカトリック信者にとって小さな事ではない。最も大きな事である。当り前ではないか。どうしてそれを忘れたようになっているのか。カトリック信者は、自分と無信者との間に、基本的に一線も二線も引いておくべきなのである。当り前ではないか。

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