1999/06/17

原発事故損害試算

毎日新聞1999年6月16日
新聞記事なので一応【転載禁止】
 
原発事故損害試算 国家予算の倍 3兆7000億円
 
否定続けた科技庁 40年ぶり国会提出
日本の原子力発電開始に先立ち、1959年に専門の学者らによってまとめられた原発事故による損害額を試算した報告書の全文が今月初め、40年ぶりに国会に提出されていたことが分かった。

当時の国の年間予算の2倍以上に当たる3兆7000億円もの被害が予測されていたが、同庁は61年に損害額を3分の1以下に抑えた要約だけを提出し、その後は事故の想定の調査を委託した事まで否定してきた。

報告書は「大型原子炉の事故の理論的可能性および公衆損害学に関する試算」と題する文書で、原発事故発生時の損害賠償制度を定めた減移植損害の賠償に関す
る法律の制定(61年)に向け、科技庁が社団法人・日本原子力産業会議に委託して作成した。全文の要約(18ページ)の後に「付録A〜G]が続き、計242ページで構成されている。

出力50万キロワットの発電所から2%の放射能が漏れた場合(放出量は約1000万キュリーで、チェルノーブイリ事故の3分の1以下に当たる)との想定で、損害額を試算している。

要約では最大の損害額を「一兆円をこえる」と書いてあるだけだが、「付録G」には当時の国の一般会計1兆7000億円の2倍に当たる「3兆7000億円」と明記されている。

人的被害を1〜4級までランク付け、治療費、慰謝料の額など具体的な試算結果が盛り込まれている。

科技庁は61年4月、衆議院科学技術対策特別委に要約部分だけを出した。89年3月の参議院科学特別委では、当時の原子力局長が原発事故の被害予測をした事自体を否定していた。

しかし、昨年夏ごろから全文が有ることが一部で伝えられ、今年4月27日と5月27日の参院経済・産業委員会でも追及された。

有馬朗人科技庁長官は「今後は原子力基本法の民主・自主・公開の3原則に従って十分公開していく」と約束し、今月2日に全文が各党に届けられた。

                           【福井 博孝】
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早く公開すべきだった  青江茂・科技庁原子力局長の話
 
個人的な感じだが、数値の大きさに当時の担当者は相当驚いたようだ。数字だけが独り歩きしないように配慮したのだと思う。当初、全文公開しなかったのは当を得ているとしても、もっと早く公開すべきだった、と言われればその通りだと思う。
 

やっぱり、有りましたね。その内容は推進派の?原子力産業会議の出した報告書ですよ。で、これを現在、再び試算すればどれほどの金額になるのでしょう?莫大な金額です。その可能性は有ります。今も動きつづけているのですから・・・。

確か、原子力災害損害保険は600億円で電力会社の責任はそれ以上は免責になると言うことでしたから総て国の予算=我々の税金でまかなうと言うことですね。

こりゃ、詐欺ですよね。これが当時発表されていたら、原発は建設できなかったんじゃないですか?そして、それが秘密にされた結果がこの狭い国内に50基を超える原子力発電所が出来ることになったのだ。この責任は一体誰が取るのですか?
 

これを出してきたという事はもう科技庁も止めたがっていると言う事じゃないですか?つまり、金が掛かりすぎるのだ。これは厳しく追及したら止められると思うけどね。各政党に配布されたと言うことだからやってもらいましょう。



(1999/10/20)

で、調べたらこれに関して質問をしたのは共産党の人だけ?http://www.jcp.or.jp/Day-akahat/9904/990429_145_genpatu.html

で、さらに調べたら

原子力公開資料センターのHPに関連情報があった。(ここのHPは11月から http://kokai-jen.org/ だって)
ここに掲載されている情報(http://kokai.mcon.ne.jp/mokuji/data4/p226-1.html)よればこの報告書の作成年月日は 350300 と言うことであるから昭和35年3月である。そして、公開は  110625 つまり、平成11年6月25日である。報告作成は   (社)日本原産会議 で、  A4・248 のもので題名は「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算(委託調査報告書)」である。

※(上記の二つのLINKは切れています。2000/06/09確認。 (社)日本原産会議 はそのまま)
 

これに関連しては1999年9月30日の東海村核臨界事故に関連して週間現代に記事が掲載されたのでここで引用する。(関係部分は太字に変更)


被害総額は「国家予算の2倍」
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 もっとも、この退避要請で問題になるのは距離だけではない。
 今回の事故では中性子線が大量に放出されたが、避難要請が出された350m以内の地域は、この中性子線が届くと予想される範囲だった。では、それより離れた地域は、屋内退避がもっとも有効な手段だったのか。
 広島大学原爆放射能医学研究所の鎌田七男所長が語る。
「中性子線はコンクリートなどの壁をも突き抜ける。たとえ、家屋の中に避難していても透過してしまいます。現在、発表されている数値が事実なら、屋内退避の対象になった地域の住民に(中性子線被曝の)初期症状はあまり出ないでしょう。ただ、中性子線の影響で、染色体の数%に異常が起きていることは考えられる」
 屋内退避要請が解除された地域では、ガイガーカウンターやサーベイメーターなどの計測器を使った、住民の被曝量調査が行われている。ただし、この数値が低くても、完全に安心できるわけではない。
「計測器では、体の表面に付着した放射線量、つまり外部被曝を測定します。しかし、体内被曝については、血液を採取したりしないと被曝量はわかりません」(放射線医学総合研究所企画課)
 農産物についてはどうか。茨城県は有名な納豆(大豆)をはじめ、サツマイモや白菜など、収穫される種類も多岐にわたる。それを意識したのか、「安全宣言」のなかで野中官房長官は「茨城産の農畜産物については、すべての安全性に問題ないという結論に達した」と強調。10月6日に初めて現地入りした小渕首相も、テレビカメラの前で県産のメロンを頬張るといったパフォーマンスを見せた。だが、これも鵜飲みにはできない。
 事故現場周辺の土壌をはじめ、ヨモギやマツの葉などの汚染度を調査した京都大学原子炉実験所の小出裕章助手が語る。
「根菜類に関しては、今回の事故による影響は少ないと思いますが、葉物類のヨモギについてはわれわれの調査で、放射性ヨウ素が検出されています。これは通常、自然界には存在しないものです。政府も当然、同じ調査をしているはずですが、まったく公表していません。半減期は8日間ですから、事故から2日しか経過していない段階での、農作物の安全宣言は早すぎるでしょう」
 これだけでも「早すぎた安全宣言」が“大ウソ”だったことがわかるが、もっとも重大なのは、政府が「最悪の事態」を想定していながら、それをいっさい知らせなかったことだろう。今回の事故は、加工処理施設でのものだが、あのまま臨界状態が続いたら、旧ソ連で起きたチェルノブイリ原発事故のような爆発を起こす可能性があった。
 JCO東海事業所を視察したことがある技術評論家の桜井淳氏が解説する。
「爆発は、核分裂が発生したときの膨大なエネルギーによって、溶液タンクが破損することによって起こります。では、今回はなぜ爆発が起こらなかったのか。あの沈殿槽というタンクが、完全な密閉型ではなかったからです。あのタンクの上部には、作業員が手作業でウラン溶液を注入するために作ったと思われる穴が二つあった。本来ならパイプで溶液を注入するから、あるはずのない穴です。その穴が、臨界によってタンク内部に生じた猛烈な圧力を、瞬間的に逃がす安全弁の役割をしたのでしょう」
 この違法な注入口の存在が明らかになっていなかった事故発生当日はむしろ、爆発の危険性を真っ先に考えるのが当たり前の状況だった。

 しかも、政府はいまから40年近く前に、すでに最悪の状況を想定しながら、われわれに隠し続けていたのだ。
 ここに、「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算」と題する、244ページにも及ぶ1冊の(秘)文書がある。
 1960年、科学技術庁が原発事故が起きた場合の被害規模の試算を原子力産業会議に委託。東海村に建設することになっていた出力16.6万kWの「東海1号炉」をモデルにして作成されたものだ。
 その衝撃的な内容を紹介しよう。
 まず、東海村から2%(1000万キュリー)の放射能が漏れた場合、つまりチェルノブイリ事故の30分の1の規模の事故が発生した場合の災害について、このデータは恐るべき地獄絵を描いている。
〈晴れていて大気より地表の温度のほうが低く、したがって空気の入れ替えがないときには、死者は720人を越え、5000人が障害を起こし、400万人が被曝手帳をもらう被害が出る。被害の総額は1兆円になる〉
 雨や雪が降った場合は、被害はさらに甚大になる。
〈疎開しなければならない人は1800万人。放射能をかぶる農地が15万km2に及び、被害額は3兆7000億円に達すると思われる〉
 1960年当時の国家予算は1兆6000億円程度。つまり、一度、原発事故が起きれば国家予算の2倍にも及ぶ被害が出るとデータは語っているのである。当時の岸(信介)内閣は、その被害額に色を失い、データを(秘)扱いにしたという。もちろん,当時に比べて東海村から都内近郊にかけての人口は急増しているから、死者も720人程度では到底収まるまい。
 このような最悪のシナリオを想定していながら、国内初の臨界事故という国家危機に際して無為無策だったばかりか、国民には一言も知らせなかったことは国家的な“犯罪行為”といえる。


何故、隠しつづけられたのか・・・。昭和35年と言えば日本には原子力発電所なんてものは実験用のもの以外は存在すらしていなかったのだ。

この原典が公開されましたので、LINKします。

http://member.nifty.ne.jp/h-harada/nonuke/lib/sisan/index.html