チチチチチチ 朝日を全身に浴びてベッドで寝返りをうつ栗毛の少女の耳元を優しく撫でる鳥の音。 「ん〜〜」 ぼさぼさに乱れる長い髪を掻いて、その少女は毛布を蹴って宙に浮かせると、腹筋を使って一気に、ベッドのぬくもりに未練が残らないように飛び起きる。 「今……何時だっけ?」 自室の目覚まし時計を探して視線をクリクリと動かすが、黄金色の朝日が寝起きの少女の視界を奪う。一瞬何も考えられず、再び毛布の中に飛び込むという誘惑を少女が襲うが――。 「って、今日はあの日じゃないっ!いっけなーい、チョコレートまだ用意してない!」 そう叫んで少女は、スリッパを履いてそそくさと、制服に手を伸ばす。しかし、次の瞬間。 ドテッ 先ほど、蹴り上げた毛布が床に沈んでおり、そこに思いっきり足をとられ、顔面から床にキスする羽目になる。 「ったぁ」 これが、少女にとって熾烈な戦いを告げる一日の始まりだった。 王立ジェニス学園――。リベール王国西部、ルーアン地方にある名家の子弟が集う由緒ある学園。 国で一番有名な英雄の娘が兄弟と共にこの学園に入学したのは2週間前、2月の頭になる。学園生活も2週間目でそろそろ日常のルーチンとしてこなせるようになっていたが、今日だけはいつもと違う日であった。 2月14日。バレンタイン。 長い栗毛をツインテールに結った少女は額に大きなバンソーコを張って、通学路を疾走していた。授業の時間に遅れるからではない。彼女の目指す先は学園の正門に毎朝出ている学外の業者がやっている売店である。 「うわ、やっぱり混んでる……」 少女は肩で呼吸をして、彼方にある売店へと続く乙女たちの行列を見て深いため息をつく。 「あ、エステルさん、おはようございます☆」 「クローゼじゃない、おはよう!」
紫色のショートヘアーに、紫の澄みきった瞳――。周囲の生徒と同じ学生服を着ているが、明らかに別格と言えるほどの品をもった可憐な少女が、栗毛の少女に声を掛けてくる。彼女の発した声に、周囲がつられて振り返るほどの凛としてよく通るその言葉。すべてを包み込むような柔らかな微笑みと共に、クローゼと呼ばれた少女はエステルの頬に手を伸ばす。 「……クス、鏡を見る暇もないくらい、慌てていらっしゃったんですか?」 「え?」
「ご飯粒、ついてますよ?」 そう言ってクローゼはエステルの頬についていたご飯粒をとって微笑む。その愛らしい微笑に周囲の2,3人の少女がつられてほわ〜と笑みを見せた。 「あはははは。ありがと、ちょっと寝坊しちゃって……」 エステルは恥ずかしそうに頬を右手で掻くと、クローゼに微笑みを返す。 「って、あれ、クローゼもひょっとしてチョコを?」 エステルは、クローゼがすでに買い物を済ませており、手にリボンのついた小包をもっているのを確認し言う。 「……ええ」 クローゼは、視線をさっと右斜め下に逸らし、頬をほのかに赤らめ応えた。 「ちょっと意外かも。クローゼって皆のアイドル的な存在じゃない? 特定の男子にチョコをあげるなんて」 エステルは、意地悪く笑って紫の君をからかう。 「ちょ、ちょっとした事情があるんです、これには……」 「どんな事情か知らないけども、もらえる子は幸せよね」 「そ、そうでしょうか?」 「そうよ、あたしだってクローゼからチョコもらえたら嬉しいもん」 「え……」 そんなエステルの言葉にクローゼは、耳元まで真っ赤にして縮こまる。 「あたしの場合なんかは部活の連中にあげる義理チョコと義務であげる義務チョコじゃない?あんまり、ドキドキする展開は期待できないと思う。誰にあげるから知らないけど、頑張ってねクローゼ!」 「ありがとうございます、エステルさん」 クローゼは微笑む。そして、まだ長い売店までの列を一瞥すると、会釈して校舎へと足を向けた。 ――迫りくる最悪に、まだ少女たちは気づいていなかった。
「……つまりねレーヴェ。姉さんが、冷凍マグロをバレンタインデーに送ってきたのは、多分、素で冷凍チョコと間違ったんだ、前にも勉強道具一式を送ってって頼んだら闘魂ハチマキを3ダースほど送ってきたことがあった。だから悪意はないよ。多分……」 「フ……言われるまでもなく、あいつの性格は俺が一番知っているつもりだ。だが……」 王立学園、昼休み。クラブハウスの2階にある剣道部の一室では、短い漆黒の髪に鋭い瞳を輝かせている少年と、白髪に燃えるような赤い瞳をもつ少年――といっても後者の方が年上だろう。が、巨大な木箱の中身を冷ややかな目で見据えながら、ドス低い声で、言葉を交わしていた。部屋の中が生臭く、スモークが充満して悪の秘密結社のようになっているのは、冷凍マグロとドライアイスの夢の競演によってなせる業である。
「あれはどーみてもカリンさんじゃないでしょっ。どうしてもやるというのならっ。くらいなさい!大極輪!!」
ヨシュアは、周囲の惨状を見て言う。エステルに吹き飛ばされた生徒は天井に突き刺さっていたり、壁にめり込んだりしている。クローゼに凍らされた残りの生徒も、悲劇的な姿を超越し、喜劇のような格好で固まっていた。……どう見てもやりすぎたのは、エステルとクローゼである。
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