チチチチチチ

 朝日を全身に浴びてベッドで寝返りをうつ栗毛の少女の耳元を優しく撫でる鳥の音。

「ん〜〜」

 ぼさぼさに乱れる長い髪を掻いて、その少女は毛布を蹴って宙に浮かせると、腹筋を使って一気に、ベッドのぬくもりに未練が残らないように飛び起きる。

「今……何時だっけ?」

 自室の目覚まし時計を探して視線をクリクリと動かすが、黄金色の朝日が寝起きの少女の視界を奪う。一瞬何も考えられず、再び毛布の中に飛び込むという誘惑を少女が襲うが――。

「って、今日はあの日じゃないっ!いっけなーい、チョコレートまだ用意してない!」

 そう叫んで少女は、スリッパを履いてそそくさと、制服に手を伸ばす。しかし、次の瞬間。

ドテッ

 先ほど、蹴り上げた毛布が床に沈んでおり、そこに思いっきり足をとられ、顔面から床にキスする羽目になる。

「ったぁ」

 これが、少女にとって熾烈な戦いを告げる一日の始まりだった。

 王立ジェニス学園――。リベール王国西部、ルーアン地方にある名家の子弟が集う由緒ある学園。

 国で一番有名な英雄の娘が兄弟と共にこの学園に入学したのは2週間前、2月の頭になる。学園生活も2週間目でそろそろ日常のルーチンとしてこなせるようになっていたが、今日だけはいつもと違う日であった。

2月14日。バレンタイン。

 長い栗毛をツインテールに結った少女は額に大きなバンソーコを張って、通学路を疾走していた。授業の時間に遅れるからではない。彼女の目指す先は学園の正門に毎朝出ている学外の業者がやっている売店である。

「うわ、やっぱり混んでる……」

 少女は肩で呼吸をして、彼方にある売店へと続く乙女たちの行列を見て深いため息をつく。

「あ、エステルさん、おはようございます☆」

「クローゼじゃない、おはよう!」

 紫色のショートヘアーに、紫の澄みきった瞳――。周囲の生徒と同じ学生服を着ているが、明らかに別格と言えるほどの品をもった可憐な少女が、栗毛の少女に声を掛けてくる。彼女の発した声に、周囲がつられて振り返るほどの凛としてよく通るその言葉。すべてを包み込むような柔らかな微笑みと共に、クローゼと呼ばれた少女はエステルの頬に手を伸ばす。

「……クス、鏡を見る暇もないくらい、慌てていらっしゃったんですか?」

「え?」

「ご飯粒、ついてますよ?」

 そう言ってクローゼはエステルの頬についていたご飯粒をとって微笑む。その愛らしい微笑に周囲の2,3人の少女がつられてほわ〜と笑みを見せた。

「あはははは。ありがと、ちょっと寝坊しちゃって……」

 エステルは恥ずかしそうに頬を右手で掻くと、クローゼに微笑みを返す。

「って、あれ、クローゼもひょっとしてチョコを?」

 エステルは、クローゼがすでに買い物を済ませており、手にリボンのついた小包をもっているのを確認し言う。

「……ええ」

 クローゼは、視線をさっと右斜め下に逸らし、頬をほのかに赤らめ応えた。

「ちょっと意外かも。クローゼって皆のアイドル的な存在じゃない? 特定の男子にチョコをあげるなんて」

 エステルは、意地悪く笑って紫の君をからかう。

「ちょ、ちょっとした事情があるんです、これには……」

「どんな事情か知らないけども、もらえる子は幸せよね」

「そ、そうでしょうか?」

「そうよ、あたしだってクローゼからチョコもらえたら嬉しいもん」

「え……」

 そんなエステルの言葉にクローゼは、耳元まで真っ赤にして縮こまる。

「あたしの場合なんかは部活の連中にあげる義理チョコと義務であげる義務チョコじゃない?あんまり、ドキドキする展開は期待できないと思う。誰にあげるから知らないけど、頑張ってねクローゼ!」

「ありがとうございます、エステルさん」

 クローゼは微笑む。そして、まだ長い売店までの列を一瞥すると、会釈して校舎へと足を向けた。

 ――迫りくる最悪に、まだ少女たちは気づいていなかった。















王立ジェニス学園 第一話「血のバレンタイン デイ」















「……つまりねレーヴェ。姉さんが、冷凍マグロをバレンタインデーに送ってきたのは、多分、素で冷凍チョコと間違ったんだ、前にも勉強道具一式を送ってって頼んだら闘魂ハチマキを3ダースほど送ってきたことがあった。だから悪意はないよ。多分……」

「フ……言われるまでもなく、あいつの性格は俺が一番知っているつもりだ。だが……」

 王立学園、昼休み。クラブハウスの2階にある剣道部の一室では、短い漆黒の髪に鋭い瞳を輝かせている少年と、白髪に燃えるような赤い瞳をもつ少年――といっても後者の方が年上だろう。が、巨大な木箱の中身を冷ややかな目で見据えながら、ドス低い声で、言葉を交わしていた。部屋の中が生臭く、スモークが充満して悪の秘密結社のようになっているのは、冷凍マグロとドライアイスの夢の競演によってなせる業である。

「――見ろ。ヨシュア、このマグロを。胴体にはハートマークのイチゴシロップが掛かっている。そして愛しのレーヴェ&ヨシュアと書いてある」

 涙目で冷凍マグロを指差すレーヴェと呼ばれた少年。高等部の3年生にして剣道部のエースであり、3年連続で大陸選手権に優勝している実力者である。

「……う」

 ヨシュアと呼ばれた黒髪の少年は、高等部の一年でエステルの兄弟として2週間前に入学したばかりである。しかし、剣道部に入部しすぐに一年生の中ではズバ抜けた強さを持っていることを周囲に認めさせた。このレーヴェとヨシュア、実は幼馴染で、久々に学園で再会したのである。

「これはかなりグr……いや、面白い趣向だよね、さすがカリン姉さん」

 ヨシュアは、シロップを見た瞬間思考を停止させてドライアイスより冷たい視線でマジマジと言い放つ。

「鬼炎斬か!?俺に鬼炎斬を使わせたいのかカリンは!?ああいいさ、ならば食らうがいい!!」

 今度こそ、滝のような涙を頬に流しレーヴェは取り乱して竹刀を取り、振り回す。

「待ってよレーヴェ、そんな技使ったら」

ジュワアアアアアアアアアアアア

 刹那、ステーキが焼けるような音、次いで流れる香ばしい香り――。

「やってしまった……バレたらまた部活停止処分になってしまう」

 ヨシュアはボソと言って頭を抱える。一方のレーヴェは、竹刀で器用にマグロの解体を続けていた。



「またお前たちか」

 とてつもない音を聞いた教職員の一人が剣道部の部室のドアを乱暴に開け、腕を組んで部屋の中を視線で探っている。エステルと同じ栗色の髪をもった中年紳士。ではあるが、目には完全に怒りの火が灯っていた。

「こ、校長…」

「……父さん」

 ヨシュアとレーヴェは、その男の眼差しを見て固まる。学園最強の男。校長にしてリベールの英雄であるカシウス・ブライトはその目を光らせて、ビショビショになった床を拭くように息子とその幼馴染に命令する。

「この2週間で4度目だ。いい加減、罰を与えんとな」



 ――剣道部室に強い風が吹いた。



「はい。アガット先生、あーんしてください」

「いくらなんでもやめろ、チビスケ。俺たちは教師とせいtうわなにをするやめ」

 一方の校舎の屋上では、赤い髪にバンダナを巻きガクランを着たいかにも古風なガキ大将という感じの男が、初等部から上がってきたばかりの小さな女の子に、チョコレートケーキを口に運ばれ、戸惑いの声を漏らしていた。

「一生懸命作ったんですけど、もしかしたらアガット先生には甘すぎちゃったかも……」

「いやまて、俺が言ってるのはそんなことじゃねぇ、んぐんぐぅ」

 なんだかんだ言いながらも、少女が差し出したケーキを口に含みながら、アガットと呼ばれた男は応える。ガクランにバンダナという不良全開ないで立ちだが、この男、体育の教師である。この少女、ティータが初等部から上がってきてからは、変態ロリ教師アガットの異名を取るようになっていた。

「はい、次はミルクティーです、水筒でもってきちゃいましたー。お、お口に合うといいんですけど……」

 ティータは、水筒からコップに入れたミルクティーをペロリと舐めて、温度を確認するが、ミルクティーがチョコとよほど合ったのか、頬を真っ赤にして満天の笑みを浮かべる。

「お、美味しいですー」

 ティータが幸福宣言を高らかにし、次はそのコップをアガットの口に運ぶ。

「ひ、人の話を聞け、んぐんぐ」

 またアガットは何も言えずに、ティータの差し出したミルクティーを飲み干す。

「……これで全部だな、チビスケ、とりあえず俺の話を聞け」

 無理して一気で飲んだのか、アガットは肩で荒い息をして、ティータの両手を次のケーキに向けさせまいと握り、改まって言う。

「……はい?」

 ティータはにっこり笑って嬉しそうに、応える。

「いいか、俺はこれでも一応教師でお前は生徒でまだ13歳だ。こんな風に、イチャイチャしているのが周囲にバレたらマズイ事になる」

 アガットは言うが、学園内で知らないものはすでにいない。未だこのことが明るみなってないと思っているのは、活字とは無縁のアガットくらいなものだった。何故なら、毎週学園新聞に膝枕シーンやあーんしてくださいシーンの写真が嫌というほど掲載されているからだ。二人は気づいていないが今も、屋上の隅でカメラが二人を狙っているのである。

「あのあの、どんな風にまずいことになるんですか?」

 ティータは不思議そうに首を傾げる。

「まず、俺はいろんな意味でいろんな方面からの圧力で社会的に抹殺される。PTAやJASRAQ等、恐ろしい組織が学園を監視しているんだ。そしてお前も嫁の貰い手がなくなるぞ」

 その言葉を聞いてティータは少し考え込むと、急に耳まで真っ赤にして目を見開くとアガットの瞳を覗き込んでくる。

「……それがアガット先生……いえ、アガットさんのお返事ですか?」

「はぁ?」

「ふ、ふ……」

 ティータは下を向いて、もじもじと小さく唇を動かす。

「おい、どうした具合でも悪いのか?」

 アガットは心底不安になって尋ねる。全くこの場の空気が読めなかった。自分の言ったセリフでどうしてこの少女がこんな反応をしてくるのか理解できないのだ。

「ふ、ふつつかものですが、よろしくお願いしますっ!!」

 ティータは、小さな手でぎゅーとアガットの手を握り返して、そう叫ぶ。

「おい、どうしてそんな話になった」

「お嫁さんにいけないって事は、アガットさんが貰ってくれるんですよね?」

「なにをきいてやがった!話の趣旨が全く違うじゃねえか!」

 アガットもさすがに、顔を真っ赤にして叫ぶ。

「ええっ!?」

 ティータは、幸福に満ちた笑みを凍らせて応える。

「俺が言いたいのはだ……」

 アガットはそんなティータの反応を無視して言葉を続けようとするがそこで、固まる。 ――今にも泣き出しそうなのだ。ティータが。

「えぐっえぐっ」

「ちょ、ちょっと待てチビスケ、なんでそこで泣く?」

「アガットさん、私とは、あ、遊びだったんですか?チョコレート貰ってくれたから、私てっきり」

 ティータは涙を両目にためて、顔を真っ青にして不安げにアガットを見上げている。

「いや、ちょ、チョコレートもらったくらいでなんでそこまで話がエスカレートすんだ?」

「……知らないんですか?」

「なにがだ?」

「ジェニス学園では、一年生のバレンタインデーにチョコレートを貰ってくれた男子と添い遂げるって校則があるんです、だから一年生の女の子は学園生活を左右するバレンタインデーに一生懸命チョコレートを作ったり、買ってきたりするんですよー」

 ティータはポロポロと涙を流しながら、上ずった声でそう説明する。

「いやまてまてまて、俺はそんな校則きいたことねーぞ」

「……アガットさん、校則一つでも知ってますか?」

 ティータは、かなり長い時間考え込んでそう尋ねる。

「……そういや1つも……しらねえ」

 重剣のいや、変態ロリ教師アガットの胡散臭さはここに極まっていた。

「それなら……」

 ティータは涙をぬぐって決意が篭った瞳で言う。

「それなら、なんだ?」

「わ、私がっ!教えますから、あのあの……で、ですからっ……」

そこで言葉を遮って、アガットに鼻先が触れるくらいまで接近し、ぎゅーと硬く目を閉じる。

「お、お、おい」

 アガットがとっさに顔を引こうとした瞬間。

 グサッ

 何かが彼の後頭部に突き刺さった。――吸盤つきの矢、ボウガンから放たれたであろうそれ。

 そのお陰で、アガットの唇は彼の意思とは関係なくティータの額に触れる。

「あっ……。……アガットさん……大好きです」

 ティータが漏らした声。それと重なって屋上の給水塔の影から舌打ちする声が聞こえた。

「チッ、ミスった。額になってしもーた。もうちょいでめっさおもろいシーンが激写できたのに、残念やったわ……」

 緑の逆立った髪に、白い特殊な制服を着た男。写真部特務部隊、盗撮騎士団で第5位に位置するケビンは、この二人のとろけるような甘いシーンを意図的に作り出し、学園新聞に晒してきた張本人である。

「ま、この超高精度MP3レコーダーが最後の譲ちゃんの決定的なセリフをとったからよしとするか」





 大変ご都合主義な話だがジェニス学園には、中・高等部一年のバレンタインデーにチョコレートを貰ってくれた男子と添い遂げるという校則がある。その為に、毎年のバレンタインは熾烈な男子争奪戦が繰り広げられる。何しろここで敗北すると学園生活が灰色になってしまう可能性もあるのだ。

――放課後。

「何故俺までも、ヨシュアに付き合って、女装をしなければならないのだ?」

「こうなった原因はレーヴェだと思うけど。それにまるで僕が女装好きみたいに聞こえるじゃないか」

「……違いあるまい。女装をしたお前はまるでカリンに瓜二つだ。よく似合うぞヨシュア」

「それは聞き捨てならないよ、レーヴェ」

――クラブハウス屋上。

 カシウス校長から、女装して一日おとなしく過ごせ、と命じられたヨシュアとレーヴェは、午後の授業をサボって、日没の瞬間を待っていた。

「とにかく、この格好で男子寮までは帰れない。闇に紛れていくしかないね」

「フ、お前らしいな。だが、俺は用事があるのでな、先に帰らせてもらうぞ……」

「まさかその格好で?」

「屋根を伝って帰れば問題はない」

 レーヴェは微笑んで、そう言うとすぐさま屋上の床を蹴って校舎の屋上へ跳ぶ――。

「……さすがレーヴェだね」

 その後姿を見送るヨシュア。そしてドレス姿のヨシュアもそれに続く。

 しかしレーヴェの後を追って、講堂の屋根に差し掛かった瞬間。

「まあ……」

 背後から女子生徒の声が聞こえてきてヨシュアは凍りつく。

「クス……よくお似合いです、ヨシュアさん」

 微笑みに携えられた柔らかい言葉。これだけ人の心を和ませる声を出せる人物は学園に一人しかない。

「……ク、ク、クローゼ!?」

 クローゼは、渡り廊下から講堂の屋根に登っているヨシュアの姿を見つけ、割と簡単に登れるようになっているそこへ、ひょいと登ってくる。

「今日、午後から授業にいらっしゃらなかったので、どこにいるのかと探していました。……あの……それは前にお芝居でつかった服ですよね?その礼装がお気に入りになのでしょうか?」

 クローゼは、嬉しそうにヨシュアに近づくと彼が着ているドレスを見て言う。

「そ、そんなんじゃないんだ……これには深いわけが」

上ずった声でヨシュアはこたえる。決してクローゼの方に視線は向けない。いや向けられない。

「ヨシュアさん」

「な、な、なに?」

「私、女装したヨシュアさんも素敵だと思いますよ。素直に可愛いって思いますから」

 クローゼは、さらりと言葉を続けるが、ヨシュアの脳みそはそれで溶解を始めていた。

「う……ううっ」

 ヨシュアは、言い訳すら思い浮かばずその場で涙を流す。

「実は今日ヨシュアさんを探していたのは、大切な用事があるからなんです」

 クローゼは、微笑みを保ったまま少年に近づきハンカチをポケットから取り出してその涙を拭う。

「大切な用事?」

「ええ……実は……」

 そこでクローゼは可愛らしい瞳を右斜め下に落として、息を呑む。

 この異様な雰囲気にヨシュアも何かを感じたのか、ゴクリと喉を鳴らし、クローゼの次の言葉に備えた。

「そ、そのなんと申しますか……。う、受け取っていただきたいものがあるんです……」

 意を決して顔をあげたクローゼはすでに耳まで真っ赤に染まっていた。

「ま、まさか……」

 ヨシュアはそう言って一歩退く。それを追うようにポケットから小さなリボン付きの小包をもったクローゼが足を踏み出す。 

ギシッギシッ

 まるで戦闘の際に間合いを取り合うような二人の動きに、人間の体重を支えるようにはできていない屋根が悲鳴をあげる。

「こ、これ……チョコレートです」

「う、うん……」

 ヨシュアは知っていた。クローゼが手にしているものの意味を。午前中はクラス中その話で持ちきりだったからだ。

「で、でも落ち着いてクローゼ、本当にそんな大切なものを僕なんかに渡していいの?」

 ヨシュアは、頭の中がパニックになっているが必死にクローゼを嗜める。その動機は、この後同じように迫り来るであろう、姉弟の存在が脳裏に釘を刺したからだ。

「も、もちろんですっ」

 クローゼの声も思いっきり上ずる。

 その刹那。

 バキッ

 ド派手な音と共に、クローゼが踏み出した先の屋根が抜ける。



「キャアッ」

「危ないっ」

 講堂内に向かって転落するクローゼを追ってヨシュアは、屋根に空いた穴に飛び込む。そして空中でクローゼを抱きかかえて、自らが下になって受身の態勢をとる。

 タイミングが良いのか悪いのか、講堂内では部活動が行われており、たまたま敷いてあったマットの上に二人は落ちることができた。無論、これはタイミングが良かったと言える。だが――。

「あんた達、なにやってんの……」

 殺意の篭った声。落下地点にエステルがいたのは史上最悪のタイミングであると言えた。

「私、ヨシュアさんの事が好きです……」

 その殺気、そして二人に注目する講堂内にいた数十人の生徒達の存在を完全に無視し、ヨシュアの腕の中にいるクローゼは、うっとりした目でヨシュアの顔を覗き込んでそう宣言する。恐怖の後の安堵感が彼女を完全に二人だけの世界に隔離していた。――周囲にその言葉を聞かれることの意味も今のクローゼには考えることができない。

「えっ、ええっ!?」

 ヨシュアを含むその時講堂内にいた生徒数十人が一斉にあげた驚愕の声。

「あ、あ、あんで(ry」

 エステルは脊髄反射でそう声を出すが、そこで言葉を失った。栗毛の少女を襲う目眩。それは最強の敵の出現を意味していた。成績優秀で運動神経もよく美人かつ可憐な学園のスーパーアイドルが、突如として他に障害などなかったエステルとヨシュアの仲に割って入ってきたのだ。

「ぐはっ」

「ば、ばかな……クローゼちゃんが、女の子に告白だと!?」

 ヨシュアの正体を知っている男子たちは、口々に吐血のセリフを吐きその場に崩れ落ちる。一方でヨシュアの女装を見抜けない男子たちは、目を剥き出しにしてその場で固まる。また無言で一部始終を見ていた女の子たちも、エステルの反応を見て胸の鼓動を強める。乙女の感が告げているのだ。――ここが修羅場になると。

「ちょ、ちょっとクローゼ、じょ、冗談……よね?」

 エステルは笑みになっていない引き攣った微笑みを携えて尋ねる。

「……あ、あの。い、いつから皆さん、そこにいらっしゃいました?」

 エステルに声を掛けられて初めてクローゼは我に返る。周囲を不安げに見渡すその視線。――今の告白をこれだけの数の人に聞かれていたという事実。

「も、もしかしてずっと聞いていらっしゃったんですか?」

 ただでさえ真っ赤になっているクローゼの頬がさらに茹で上がったようになる。目が潤んでいるように見えるのは気のせいじゃないだろう。

「あんた達が降ってくるところから、聞いてらっしゃったわよ!」

「エステル、聞いて欲しい、これは違うんだ」

 何が違うのかと問い詰められれば一貫の終わりであるその言葉をヨシュアは必死に紡ぎだす。

「……ヨシュア、あんたは黙ってて」

が、エステルは女装してる弟の存在を一瞥すると、再びクローゼに目を向ける。

「ねえ、いい加減離れたら?皆見てるんだけど」

 未だに密着している二人にエステルはジト目で続ける。

「あっ、ご、ごめんなさいヨシュアさん」

 クローゼは、はっとなって自分の格好を見る。マットに倒れているヨシュアの上に圧し掛かっているように抱きついている体制になっているのだ。これを写真に撮られたら、クローゼが押し倒したと言われても反論はできまい。

「い、いや、クローゼに怪我がなくて良かったよ」

「……何か勘違いがあるようなので言っておくわ」

 再び二人の世界を形成しようとしているクローゼに向けてエステルはドスの聞いた声で言う。

「ヨシュアは、毎年ずーっと、あたしのチョコを食べてバレンタインを過ごしてきたのよ。今更、他の女の子からチョコを受けとる筈がないわ、ねーヨシュア?」

 静かに、そして勝ち誇るよう腰に両手をあててふんぞり返ってエステルは続ける。

「甘いチョコが出てきたことはなかったけどね……」

 ヨシュアはそれにボソッ反論するが、エステルに睨まれて押し黙らされた。

「あの……つまりエステルさんもヨシュアさんのことが好きなんですか?」

 クローゼは真顔でエステルと対峙し、そう問いかける。

「……べ、べ、べ、別に、あたしはヨシュアの家族ってだけで、そんな……好きってわけ……」

「好きではないんですね?」

 突然の直球質問にエステルが顔を赤らめるが、それに容赦なくクローゼは重ねる。

「す、す、好きよ……」

 消え入りそうな声でもじもじとエステルは続ける。

「えっ」

 それに驚きの声を出したのはクローゼではなくヨシュアだった。クローゼは表情を変えずエステルの次の言葉を待つ。

「好 き だ っ て 言 っ て ん の よ 文 句 あ る !?」

エステルは、目をぎゅっと閉じて講堂内で何度も木霊するような大声で叫ぶ。

「……そうですか」

 クローゼは、その言葉を静かに受け止めて目を閉じる。

「ならば、学園のバレンタイン伝統に従って決闘で決着を付けましょう……」

 クローゼはそう言って、床に転がっていた竹刀を手に取り構え、そして目を見開いて言う。

「なによ? 決闘? クローゼ剣なんて扱えるの??」

 エステルはフフンと鼻で笑って、同じように床に落ちていた長い棒を手にする。クローゼは可憐ではあるが、それは同時に華奢という意味でもある。エステルはクローゼの手よりも二回りは太い自らの腕を捲くり構える。

「私は愛する者の為に命を掛けて戦う覚悟です!」

「あ、愛する者ですってぇぇぇ!?」

「はい、ヨシュアさんは転落する私を命を掛けて守ってくれました。ですから、私もヨシュアさんの為に命を掛けます!」

「あ、あの……僕の気持ちは……?」

恐る恐るヨシュアは二人の少女に尋ねる。

「うっさいっ!」

「お静かに!」

と凄い剣幕で叱られ再び黙らされるヨシュア。そしてその掛け声が戦闘開始の合図となった。

 エステルとクローゼはお互いに間合いを維持しながら、武器を構えて円を描くように地面を蹴る。しかしリーチの上では明らかにエステルが有利であり、栗毛の少女は先制のそして決め手の一撃としてクローゼの足を狙い、長い棒を振るう。エステルにしては、思いっきり手加減した一撃だった。だが――。

「せいっ」

 意外にもクローゼはなんなくその一撃を払い、とてつもない勢いでエステル目掛けて突きを放つ。

「えっ!?」

 面食らったのはエステルだった。とてもあの華奢で奥ゆかしい性格の女の子が繰り出すような一撃ではない。それは剣道部でエースクラスの実力といっても過言ではないほどの強烈な一撃であった。エステルは、たまらず左手でそれを払って後ろに飛ぶが、竹刀でなかったら、それでこの戦いは終わっていたという程の衝撃を腕に負う。

「ふ、ふーん。な、なかなかやるじゃない……」

 ニヤリと笑みを溢しエステルは、全力で戦える相手に出会ったことを素直に喜ぶ。

「ヨシュアさん、私に力を貸してください」

 クローゼは祈るように言って、再び剣を構えなおす。

「冗談じゃないわよっ、ヨシュア、クローゼに力なんて貸したら許さないんだからっ!」

「……この状況で、僕に何ができると言うんだ」

 二人の争いをオロオロと眺めていたヨシュアは、今度こそ泣きながら言う。

「とっ、とにかく、ヨシュアはあたしのものよっ!」

「い、いいえ、ヨシュアさんは私のものですっ!」

 そう叫んで再び二人の少女は刃を交える。本気なったエステルでも実力は全くの互角で、競り合いになったり、打ち合いになったりしても一向に決着がつく気配がない。

「あたしのヨシュアあたしのヨシュアあたしのヨシュアあたしのヨシュアあたしのヨシュアあたしのヨシュアあたしのヨシュアあたしのヨシュアあたしのヨシュア!!」

「私のヨシュアさん私のヨシュアさん私のヨシュアさん私のヨシュアさん私のヨシュアさん私のヨシュアさん私のヨシュアさん私のヨシュアさん!!」

 二人は肩を大きく動かして荒い息をしながらも叫び獲物を振るう。もはや意地と意地とのぶつかり合いといってよかった。

 刹那。その均衡を破る強烈なプレッシャーが講堂の扉を消し飛ばす。

 金属製の重い扉を粉々にして、講堂に飛び込んできたのはレーヴェ。検定の異名を持つ資格試験の天才にして、大陸最強の剣道家である。

「レ、レーヴェ! 助けに来てくれたんだね!」

 ヨシュアは兄貴分の登場に歓喜に打ち震える。

「カ、カリン……」

「え?」

 その検定の真っ赤な目は、いつもよりも怪しく輝いて舐めるように女装しているヨシュアを見る。

「カリン好きだァァァァァァァァァァァッ!!」

「え”え”え”え”」

 先に家に帰った検定に何があったのか。目は完全に逝っている

「ちょ、レーヴェ、何があったんだ!? はっ!!!」

 ヨシュアはカリンカリンと叫びながら、じりじりと物凄い形相で迫りくるレーヴェを見て、何かを思い出す。

 ――あの冷凍マグロに姉さん何か仕込んでおいたな。

 レーヴェは何故急いで帰路についたのか。そう、解凍したマグロが傷む前に調理して食べたのだろう。だが、ヨシュアにしてみればそれは軽率極まりない行動だと言えた。まず、あの姉が送ってきたものは科学特捜本部で鑑定してもらわなければ絶対に食べてはならない。それは、ハーメル村、鉄の掟7か条に本当に書いてある条文である。

「ま、待ってレーヴェ、僕はヨシュアだ。カリン姉さんじゃない……」

 ヨシュアは真っ青になって続ける。だが、講堂の鏡に写る自分の姿を見て絶句した。どう見ても姉に瓜二つなのだ。

「エ、エステルさんっ!」

 クローゼが乙女の直感で愛する者の危機を察する。今ヨシュアに襲い掛かっているのはエステルなど比較にならないほどの力をもった狂気であると。

「いいわ、ここはヨシュアの操を守るために共闘しようじゃない!」

 腰を抜かして恐怖に戦くヨシュアを守るように、エステルとクローゼがレーヴェの前に立ちはだかる。

「どけ。俺はカリンの為なら修羅にもなる」

 殺気を灯した目で邪魔者を排除しようとレーヴェは、帯刀していた刺身包丁を抜く。――やっぱりマグロを調理していたようである。

「あれはどーみてもカリンさんじゃないでしょっ。どうしてもやるというのならっ。くらいなさい!大極輪!!」

 エステルが全身を回転させ、レーヴェに突進する。――周囲の生徒もその旋風に巻き込まれ、数人が宙に舞うが当然エステルは気にしない。外野の男子生徒からからはどう見ても超電磁タツマキだろうアレ。とのツッコミが入るがエステルはそれも無視して、手にある獲物をレーヴェに叩きつける。――だが。

「この程度でこの俺を止めるつもりか?」

 レーヴェは心底、笑い、あきれた声で言う。

 検定はエステルの最終奥義と言ってもいいそれを人差し指一本で止めてみせた。

「あ、明らかにいつもより強い……」

 ヨシュアが真っ青な顔でつっこむ。このレーヴェという男。カリンが絡むと見境がなくなる。普段は非常にクールでスマートな男だが、姉の前では茹蛸のようになっている姿を子供の頃から何度もヨシュアは見ていた。

 一方で、数年前に謎の軍隊が村を襲撃してきた際には、干してあったカリンの下着を戦利品として持ち帰ろうとした蛮兵に激怒し、その軍をたった一人で皆殺しにした事もあった。

「い、今です、コキュートス!」

 その刹那。クローゼのよく通る声。講堂全体を取り囲む極寒の瘴気が、その場にいる生徒達をカチンカチンに凍らせた。さっき共闘すると約束したエステルも、どさくさに紛れて凍らされていた。だが、ただ一人、レーヴェだけはそのアーツの威力を受けて微笑んでいる。

「フッ、この程度の冷気、カリンの作る特製アイスクリームの異様な冷たさに比べれば、まだ心地よいわ」

「そ、そんな……」

「確かにあのアイスは冷たいよね……」

 水系最強のアーツを受けても全くダメージを受けないレーヴェに、ヨシュアは呆れた声で言う。

「でもレーヴェ、これはやりすぎだ」

 ヨシュアは、周囲の惨状を見て言う。エステルに吹き飛ばされた生徒は天井に突き刺さっていたり、壁にめり込んだりしている。クローゼに凍らされた残りの生徒も、悲劇的な姿を超越し、喜劇のような格好で固まっていた。……どう見てもやりすぎたのは、エステルとクローゼである。

「さあ、カリン、行こう」

 氷のような目をした男が見せる満天の笑み。

「やめてよね、僕が本気で逃げたらレーヴェが適うわけないだろ?」

クローゼの肩に手を回し、唯一無事であった少女を守るようにヨシュアは言う。そして、その言葉が終わると同時にレーヴェとヨシュアは床を蹴った。





 ――ハァハァハァ

 ヨシュアの荒い息の声だけが木霊する森の中。――学園の裏にある旧校舎。クローゼを抱きかかえたヨシュアはレーヴェから逃れる為に、ここまで全力で疾走してきた。

「も、もう大丈夫だよクローゼ」

 と、抱きかかえていたはずのクローゼを見た瞬間。

「う、うわあああああああああああああああああああああ」

 いつの間に入れ替わったのかは分からない。もはやページの都合上とか思えない展開だが、そこには両目にハートマークを浮かべるレーヴェが抱きかかえられていた。

「カリン……こんなにも俺のことを……」

 レーヴェは、涎をジュルリと垂らし、ヨシュアに迫る。

「で、でもまだ僕の方が速いはずだ!」

 言ってヨシュアは再び床を蹴るが。

 どってーん

 着ていたドレスの裾をレーヴェに思いっきり踏まれ、顔面を床に強打する羽目になる。

「……カリン」

 キラキラを目を輝かせてレーヴェが迫ってくる。

「うわなにをするんだわせdrtfyぐh」



 ――聖なるバレンタイン。この日、旧校舎から一晩中、悲鳴が鳴り止まなかった。

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