<この国はどこへ行こうとしているのか>
「--そうですね、死と同じかもね」。今にも雨が落ちてきそうな薄暗い午後、東京郊外の自宅で、柄谷行人さん(70)は静かに語り始める。福島第1原発事故をどう受け止めたか、との質問への答えだった。「原発で事故が起こるとどうなるか、ということは昔から本で読んではいたんです。だから予想できたことなのに、分かっていたはずなのに、実際に起こってみるとそれに対して何も考えてこなかったな、と感じる。自分の死もそういうものでしょう」
思想、経済、文学、政治、科学--さまざまなジャンルをアクロバット的に行き交い、硬質な文体で論じてきた知性は「フクシマ」からしばらくの間、原発についての本以外、何も読めなくなってしまったと言う。原発建設に対して何もしてこなかったことに忸怩(じくじ)たる思いがある、とも。
その柄谷さんが今、ことあるごとに強調しているのが「デモの重要性」だ。単に参加を呼びかけているのではない。自ら一人の市民として、反原発デモに繰り返し足を運ぶ。国内でデモ隊の列に連なったのは60年安保以来、約50年ぶりのことという。
震災後、日本人の我慢強さや規律正しさを称賛する海外の声があった、と国内メディアは得々と報じた。柄谷さんはこの見方に異を唱える。「震災と津波についてはそうかもしれませんが、原発事故は違う。米国でも韓国でも知人は、普通なら怒り狂うはずなのに、なぜあんなに日本人はおとなしいのかと言っていた。国策によって進められた原発でこれほどの被害が起き、放射性物質を垂れ流しているのに、抗議もせずに耐えている日本人を外国人は理解できなかったんです」。だから、自身も参加し、1万人が集ったという9・11脱原発デモを報じる海外メディアの論調には、安心した感じがあった、と言う。「僕が見たのは米国と英、独、仏ぐらいだけど。やっと自分たちが理解できる行動を取るようになった、とね。扱いもでかかった。ひょっとしたら日本のメディアよりも」
脱原発を求める声の高まりがデモの拡大につながった。しかし、デモだけで世の中が変わるのだろうか。それが選挙での投票結果につながらなければ、具体的な政策には影響を与えられないのでは?
「逆です。議会制民主主義、つまり代議制のもとで有権者として投票しているだけではだめなんです」。脱原発デモの中に身を置き、思い起こしていたのは哲学者、故・久野収さんの「デモのような直接行動がなければ、民主主義は死んでしまう」という言葉だった。
「代議制は放っておくと寡頭制になる。今の自民党だって民主党だって世襲じゃないですか。世論調査もテレビの視聴率と変わらない。みんなが気に入るようなことをちょっと言えば上がる。マーケットリサーチみたいなもので、これを民主主義と呼ぶのは間違いだ。要するに消費者がやっていることであって、お客さん民主主義。投票だけするのも同じことです」
柄谷さんが福島第1原発事故に重ねて見ているのが、足尾銅山(栃木県)の鉱毒事件だ。1880年代に開発された足尾銅山は、精製時に発生するガス、排水を汚染した鉱毒で周辺の環境を壊し、多くの犠牲者を生んだ。目を向けたきっかけは、まさに今回の震災で、廃棄物の堆積(たいせき)場から渡良瀬川に土砂が流出したことだった。「100年以上たってもまだ残っていて、今回の地震で堆積物が川に流れた。核廃棄物の怖さはこの比じゃないよ」。どん、とテーブルをたたく音がして、声の調子が一段と高まった。
銅山と原発の共通点はそれだけではない。「国策民営」という背景も同じだ。「銅は外貨獲得源であると同時に、砲弾などに使われた戦争に必要な物資です。原発も同じ。核兵器のためにも質のいいプルトニウムがほしいということが裏にはあったと思う」
時代背景も重なって映る。19世紀末、欧州では「第2次産業革命」と呼ばれる重化学工業分野などの技術革新から、巨大資本による独占が進んだ。行き場を失った欧州列強の資本は資源と投資先を求めてアフリカ、アジアへと向かう--帝国主義の時代だ。「21世紀の今も、世界資本主義は同じように行き詰まり、どこへでも向かって勝手にやりまくる。言葉の上では新自由主義と言われますが、僕は新帝国主義だと思う」
「資本=国家」は自らの生き残りのため、個人の意思を超えて生き物のように動く。戦争にも原発にも経済合理性はないが、それでも止められない。そして、戦争では軍需産業が、原発では電力など関連業界がもうかる--と柄谷さんは説く。「だから、僕らはそれに抵抗する。資本、国家の論理に巻き込まれないために、市民はただ『ノー』と言い続けることが必要なんです」
9月11日の東京・新宿のデモでは、12人の参加者が逮捕されたが、22日までに全員釈放された。同29日、柄谷さんは抗議声明の起草者の一人として会見に臨み、「根拠のない強引な逮捕」と警察を強く批判した。「逮捕以外にも警察の嫌がらせはすごい。道路交通法をたてにしているわけですが、道路交通と基本的人権と、どっちが大事なのか。車なんて別の道を通せばいい。マラソンではそうしているんだから。人権は“別の道”を通れないんですよ」
批判の矛先は国内メディアにも及ぶ。「復興、復興と、もう一度経済成長が可能であるかのように論じている。資本主義は行き詰まっていて、発展の余地はない。これからの世界では低成長は避けられない。だったらエネルギー使用を減らせばいい」
険しいその口調が、デモで顔をあわせる若い参加者たちに話が及ぶと、とたんに柔らかくなった。「彼らには成長幻想もないし、ぜいたくなんてうらやましくない、という人が多いね。僕の影響じゃなく、分かっているんだと思う。原発で電力を確保して経済大国日本を、とは考えない。経済成長とは関係ない豊かさというものがあるんだ、と。だから僕は素直に称賛しているんです。彼らはいい」
とはいえ、ネット全盛の時代に、デモはこの国を変えるほどの力になり得るのか。
「デモに参加するのに要るエネルギーは大変なもの。とすれば、参加者1人の背後には、同じ思いの人が100人はいると考えるべきです。10万人のデモの後ろには1000万人がいるんです」
そして、いたずらっぽく笑ってこう結んだ。
「歩くっていうのはサルからヒトへの進化の第一歩、人間になったということそのものなんです。そんなものをハイテクにしたって、しょうがないじゃないですか」【井田純】
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■人物略歴
1941年、兵庫県生まれ。東京大大学院修士課程修了。法政大、近畿大教授などを歴任。「内省と遡行」「トランスクリティーク」「倫理21」「世界共和国へ」「世界史の構造」など著書多数。
毎日新聞 2011年11月4日 東京夕刊