宗祖日蓮大聖人直筆『立正安国論』
The Dai-Gohonzon of the High Sanctuary of Honmon in Hoando of Taiseki-ji Temple is the imitation built at later generations.
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大石寺・早瀬日如(法華講夏季講習会)の発言
また折伏も同じです。「祈りとしてかなわざるなし」と言われますけれども、祈りがかなうか、かなわないか、つまり折伏ができるかできないかは、結局は我々の信力・行力如何なのです。我々が強盛なる信力・行力を持って行じていけば、折伏はできるのです。
そもそも、折伏はやればできるのです。できないのは、やらないからなのです。
この発言を逆引きすれば、「折伏できないのは信力行力が弱いからだ」と云うことになります。
果たして、「信力行力が強ければ折伏はできる」と短絡的に断言して良いものなのでしょうか。大聖人、日興上人、日目上人から説法を受けた衆生は必ず入信したのでしょうか。
日如の説によれば、大聖人、日興上人、日目上人の信力行力が強盛でないから折伏ができなかったことになります。このカルト的指導に疑問を持たない信者も信者だ。
たとえ強盛な信力行力を持って折伏をしても、相手が逆縁の性であれば折伏を成就することはできません。「祈りは叶う」というのは魔法ではないのですから、何でもかんでも叶うと思い込むのは邪智驕慢だからです。
だいたい、日如は邪智謗法の衆生に対して一人たりとも折伏したことがないじゃないですか。
一人の人を折伏し導くことがどれだけ大変な労苦であるのか。大石寺の坊主は腹の底から感じてはいない。それは四安楽に胡坐をかいた特権貴族の目線しか持ち合わせていないからだ。
「祈りは叶う」というのは、法華経の行者の大確信、振舞による事なのです。
大石寺は偽戒壇本尊・偽血脈・偽教義で維持経営している教団ですから、日道まで遡っても「法華経の反逆者」はいても、「行者」は一人もいないのです。
大石寺の信心では四力成就しない。これを顕著にした例が、日達の願いも虚しく、阿部日顕が自己申告で猊座に就いてしまった事です。日達は阿部信雄の姑息性や変節漢ぶりに嫌悪感を抱いていた。そして「次は光久」にが日達の望みであった。
折伏体験を持たない日如ら宗務院の傲慢坊主連中の指導を真に受けてやっていたら、法華講員は結局馬鹿を見るだけだ。
「折伏はやればできるのです。できないのは、やらないからなのです」、こんな思考で折伏が成就するなら、広宣流布は日目上人の時代に達成されているわ。
ねぇ袋の寛ちゃん!、そんなパフォーマンスの丑寅勤行なんか止めて、「夜の下種拡大」が自慢の武勇伝なのでしょうから、池袋の駅前に出て自ら下種折伏をやってみてはいかがですか。千人に一人くらいティシュを受け取ってくれますよ。創価学会の青年部と激論を交わしたらいいじゃないですか。
大勢の共を連れなければ、ひとりでは何もできないのですか。
こんなんで「大聖人と不二の尊体」???
法華講のみなさん、
冷静に物事を見極めてください。
史実を知ってください。
真実を突き止めてください。
錯覚から目覚めてください。
法華講員の信心、大石寺の信仰では、日蓮大聖人に会えないのです。
また折伏も同じです。「祈りとしてかなわざるなし」と言われますけれども、祈りがかなうか、かなわないか、つまり折伏ができるかできないかは、結局は我々の信力・行力如何なのです。我々が強盛なる信力・行力を持って行じていけば、折伏はできるのです。
そもそも、折伏はやればできるのです。できないのは、やらないからなのです。
この発言を逆引きすれば、「折伏できないのは信力行力が弱いからだ」と云うことになります。
果たして、「信力行力が強ければ折伏はできる」と短絡的に断言して良いものなのでしょうか。大聖人、日興上人、日目上人から説法を受けた衆生は必ず入信したのでしょうか。
日如の説によれば、大聖人、日興上人、日目上人の信力行力が強盛でないから折伏ができなかったことになります。このカルト的指導に疑問を持たない信者も信者だ。
たとえ強盛な信力行力を持って折伏をしても、相手が逆縁の性であれば折伏を成就することはできません。「祈りは叶う」というのは魔法ではないのですから、何でもかんでも叶うと思い込むのは邪智驕慢だからです。
だいたい、日如は邪智謗法の衆生に対して一人たりとも折伏したことがないじゃないですか。
一人の人を折伏し導くことがどれだけ大変な労苦であるのか。大石寺の坊主は腹の底から感じてはいない。それは四安楽に胡坐をかいた特権貴族の目線しか持ち合わせていないからだ。
「祈りは叶う」というのは、法華経の行者の大確信、振舞による事なのです。
大石寺は偽戒壇本尊・偽血脈・偽教義で維持経営している教団ですから、日道まで遡っても「法華経の反逆者」はいても、「行者」は一人もいないのです。
大石寺の信心では四力成就しない。これを顕著にした例が、日達の願いも虚しく、阿部日顕が自己申告で猊座に就いてしまった事です。日達は阿部信雄の姑息性や変節漢ぶりに嫌悪感を抱いていた。そして「次は光久」にが日達の望みであった。
折伏体験を持たない日如ら宗務院の傲慢坊主連中の指導を真に受けてやっていたら、法華講員は結局馬鹿を見るだけだ。
「折伏はやればできるのです。できないのは、やらないからなのです」、こんな思考で折伏が成就するなら、広宣流布は日目上人の時代に達成されているわ。
ねぇ袋の寛ちゃん!、そんなパフォーマンスの丑寅勤行なんか止めて、「夜の下種拡大」が自慢の武勇伝なのでしょうから、池袋の駅前に出て自ら下種折伏をやってみてはいかがですか。千人に一人くらいティシュを受け取ってくれますよ。創価学会の青年部と激論を交わしたらいいじゃないですか。
大勢の共を連れなければ、ひとりでは何もできないのですか。
こんなんで「大聖人と不二の尊体」???
法華講のみなさん、
冷静に物事を見極めてください。
史実を知ってください。
真実を突き止めてください。
錯覚から目覚めてください。
法華講員の信心、大石寺の信仰では、日蓮大聖人に会えないのです。
9月4日、天候に恵まれる中、大本山妙本寺第五十世日桜上人第三回忌法要が客殿において営まれた。
法要前日夕刻の御開扉では当代貫主日誠上人より先代上人の行蹟が披露され、
「日桜上人がその晩年に、天台大師の行体に鑑み百万遍の口唱題目を二度行われ、題目の法悦に歓喜されていた」等等のお話しを戴き、参拝者は日桜上人の行蹟に感動を抱いた。
第三回忌法要は日誠上人の導師により正午過ぎから営まれ、富士門流の各本山から貫主上人と縁故の寺院から諸師が参列され、妙本寺の信徒の多数が参列した。
式次は読経・焼香・口唱題目と続き、日誠上人より参列の方々への謝辞と縁故寺院の由緒についてお話しがなされた。最後に、開基総代より謝辞があり法要は滞りなく終了した。
日蓮大聖人・日興上人・日目上人・日郷上人以来の代々相承の法脈が、これからも百代二百代と相承されゆく事が日桜上人への報恩謝徳になるものと拝する。
大聖人に石油加工品(プラスチック)を供え、「これで良い」と洗脳され思い込んでいる学会員は自分たちの異常性に気づいていない。
華・香・灯明の三具足を信仰の化儀として弁えていないことの証左であろう。
樒がもどきでOKならば、仏飯も果物も蝋やプラスチックで作った食品サンプルで事が足りるのであろう。
石油加工品でOKということは、その安置している本尊に大聖人の仏身を観じ拝していないからだ。
「大聖人直結」だの、「御書根本」だのと吠えたところで、所詮この程度でしかない。ことわざにも「仏造って魂入れず」とあるのに、宗教と名乗る処がこの有様では恥の上塗りだ。
大石寺日寛が書いた偽曼荼羅を細工印刷した変造コピーだから、創価学会発行の本尊もまた偽曼荼羅だ。偽曼荼羅を御本尊としているから、「もどき」で事を済ますような横着がなじむようになる。
偽曼荼羅だから造花樒OK。何でもかんでも学会流に変えてしまうのであろう。
創価学会の信者さん、
あなたは石油加工品を出されて食べる気がしますか?
大聖人様に石油加工品をお出しできるのですか?
物事の事実と真実を見失っている創価学会員は実に哀れだぁ。
一度この《価値[再]創造》(創価学会における素晴しき体験と・・・)サイトを開いてみてはいかがか。
8月15日正午より札幌談所において主管鳥本雄行尊師の導師の基、盂蘭盆並びに戦災殉難者供養会・東日本大震災殉難者供養会が懇ろに営まれた。この模様は全国の拠点会場に同時中継され、多数信徒が読経唱題を唱和し異体同心の供養会に参集した。
本年は特に3月11日の東日本大震災により二万人以上の方々が殉難され故精霊が初盆となることから、五輪塔婆が建立され慰霊の祈りが捧げられた。
法要は読経・焼香と続き題目口唱、報恩謝徳の御観念、御塔婆供養の回向と如法に勤修された。引き続き『崇峻天皇御書』が奉読され、主管尊師より『盂蘭盆に臨みて』をこれから毎年読み続け、真の盂蘭盆の意義をそれぞれの人生に体現して戴きたいとの指導があり、更に「心の財」について「信仰の心を第一として、善を求める心、剛き心、持続の心が大切である」との指導を戴いた。
清々しく盂蘭盆を迎えることができた私たちは更なる精進を大聖人様にお誓い申し上げた。
本年は特に3月11日の東日本大震災により二万人以上の方々が殉難され故精霊が初盆となることから、五輪塔婆が建立され慰霊の祈りが捧げられた。
法要は読経・焼香と続き題目口唱、報恩謝徳の御観念、御塔婆供養の回向と如法に勤修された。引き続き『崇峻天皇御書』が奉読され、主管尊師より『盂蘭盆に臨みて』をこれから毎年読み続け、真の盂蘭盆の意義をそれぞれの人生に体現して戴きたいとの指導があり、更に「心の財」について「信仰の心を第一として、善を求める心、剛き心、持続の心が大切である」との指導を戴いた。
清々しく盂蘭盆を迎えることができた私たちは更なる精進を大聖人様にお誓い申し上げた。
「 八月十五日、盂蘭盆会に臨みて」は主管尊師が立正安国論上呈七百五十年の時に講じたものですが、今回掲載するに当たり、主管に加筆編集をお願いし改めて講じていただきました。
宗祖大聖人『盂蘭盆抄』に曰く、 (御抄参照の事)
仏説いて云く汝が母は・罪ふかし・汝一人が力及ぶべからず、又何の人なりとも天神・地神・邪魔・外道・道士・四天王・帝釈・梵王の力も及ぶべからず、七月十五日に十方の聖僧をあつめて百味飲食を調へて母の苦をば救うべしと云云。目連・仏の仰せのごとく行いしかば其の母は餓鬼道一劫の苦を脱れ給いきと、盂蘭盆経と申す経にとかれて候。其によりて滅後末代の人人は七月十五日に此の法を行い候なり、此は常のごとし (乃至)しかるに目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立ちどころに投げ捨てて南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す、此の時こそ父母も仏になり給へ。故に法華経に云く「我が願既に満ち衆の望も亦足る」云云。目連が色身は父母の遺体なり。目連が色身仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ。
《 盂蘭盆の説示から学ぶ 》
『盂蘭盆経』はその真偽について意見が分かれており、現時の仏教界においては偽経ではないかというのが、大方の見解であるようです。しかしながら、『盂蘭盆経』が仮令、釈迦如来の直機の説経ではないとしても、久遠元初自受用身である大聖人が流通分として御手に取られたからには、久遠元初の盂蘭盆経として会通されることを門下は信解すべきであります。
一般世間で盂蘭盆と云えば、「亡き精霊を迎える送る、地獄の蓋が開く、墓参をする、塔婆を立てる、坊さんにお経をあげてもらう」などが一般的ですが、どれもこれも盂蘭盆の本義を得ず枝葉の域に終始しているのが現状であります。
釈迦如来の弟子である目連尊者は、慳貪の科により餓鬼道の苦涯に沈む母親の青提女を自力本願の神通力で救おうとしたが、この通力は却って仇となり青提女を一層の苦涯へと沈めてしまった。この愚行を如来へ懺悔し青提女の救済を願ったところ、如来は七月十五日の法会を指南され、如来が仰せの如く目連は法会を行い、回向を受けた青提女は餓鬼道一劫の苦を脱れたのである。目連はこの法会の御利益に歓喜し、この法会の歓喜を他の方々にも展転して欲しいと如来に願い、如来は目連の志しを盂蘭盆会として定め、後代までも永く修するよう指南されたのであります。
この盂蘭盆の説示より先ず心得るべきことは、
一、如来へ指南を仰がず母親だけの為に勝手な通力を使い、これが仇となったこと。
二、過ちを懺悔し、如来へ指南を願ったこと。
三、指南通りの法会を修して餓鬼道一劫の苦を脱れたこと。
四、この歓喜が多くの衆生へ展転されることを願ったこと。
五、目連が法華経で成仏を遂げ、この事が即父母の真の成仏となったこと。
次に、これらの心得を我等が信行にあてて考えてみることが大切であります。
信仰のあり方に我流は禁物であります。馴れてくると仏様の教えよりも自身の感覚や経験のみで信心をする者がいますが、どんなに年数を重ね業績があろうとも、末代の衆生は法華初心位での成仏でしかありえません。生命に潜在する傾向性から起こる慢心を戒め、不信・狂信とならないよう常に師を仰ぎ仏道を求めるべきであります。
「相構へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからずと仏は記し給ひしなり」
また仏教を修する者が、我が肉親のみの救護にしか力を注がないとするならば、これは仏の大慈悲と四恩報謝を軽んずる愚業であり、到底仏道を成就することはできません。自他共にという大乗の精神を拝し衆生無辺誓願度を自身の振舞いに現ずることが修行であります。
「汝須く一身の安堵を思はば先づ四表の静謐を祈るべきものか」
人は全知全能の神ではありません。失敗や過ち或いは過失ということもあります。過ちを過ちとして素直に認め自省し、謝罪することが大切です。師に対して過ちを懺悔できることが、先ず信仰の道であります。また自省し謝罪した人を抱擁する度量も大切であります。お互いに些細な過ちは信心をしていてもあることなのです。法華経には悪人成仏が説かれているのですから、仏弟子檀那ならばこの義も慈悲の一分として他の人々の菩提を祈り接していくことが大切なのであります。人の過ちを許すことは大善であり、このことが互いの信仰道へと昇華されることを願い、異体同心を感じようではありませんか。
「浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし、重き過ちならば信心をはげまして消滅さすべし」
信仰による利益・功徳を感じながら、この歓喜をただ独りの内緒事にするならば、これは仏恩を蔑ろにする餓鬼道慳貪の同類と言わざるを得ません。我が先祖の成仏だけに執らわれて、衆生の恩に報いる身口意の行体を欠くとするならば、亡き精霊にとっても、また回向を志した当人にとっても真の仏果を成就することはできないのであります。
つまり盂蘭盆会は、功徳の歓喜を衆生に伝える化他行がこの本義であり、我が先祖だけの供養儀式のみに終始するならば、全く此の経説の本意を欠くことにしかならないのです。『法華経化城喩品』 に「願わくは此の功徳を以って普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」と説かれる如く、盂蘭盆会の功徳が世界乃至法界の万霊と衆生に回向されることを真剣に願い、この盂蘭盆会の歓喜を布教に資することが我等の大切な使命であります。
また、「塔婆さえ立てていれば供養になる、先祖も喜ぶ、塔婆の功徳は甚甚無量、」などと、精霊供養の一面だけを殊更に誇大強調して、「塔婆しか供養の方法がない」などと大石寺の坊主は云いますが、これは塔婆の本数増加を目論む金儲け目当ての塔婆餓鬼坊主であります。
(塔婆供養の意義は深く、この化儀は特に留意しなければなりませんので、後日に委細を述べます。塔婆供養は先ず建立願主の心地が大切であり、この心地が定まって建立されるならばその功徳は莫大であります。)
更に、この大聖人の御教示を拝すれば、
「目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立ちどころに投げ捨てて南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す、此の時こそ父母も仏になり給へ」
法華経と申す経とは、「南無妙法蓮華経日蓮大聖人」この二尊一体の御本尊に会い出でて、信心の血脈を違わず信仰に徹することであります。つまりは大聖人の化法並びに、日興上人・日目上人の化儀を尊信し拝することであります。
正直捨方便 投げ捨ててとは、謗法を厳戒する志しであり、自身の性根に潜む煩悩や執着を潔く捨てることであります。しかし末代の衆生は三毒強盛の性でありますから、仮令信心をはじめたとしても、己が知慮経験に固執して師弟子の道を違える者が多々いるのです。このような煩悩・業・苦に溺れ右往左往していると、成仏どころか、堕獄の因にもなり兼ねないのです。物体としての謗法物は捨てることも容易にできますが、生命に染み付いた性根の謗法払いは口で云うほど簡単にできるものではありません。信仰に精進しその賜物として性根の謗法払いができると云っても過言ではありません。
南無妙法蓮華経と申せしかばとは、題目の意を心得て唱え弘めることであります。この題目の意とは、大聖人、日興上人の御意を拝し帯することであります。大聖人の御意に反する題目は謗法でしかありません。
此の時こそ父母も仏になり給へとは、貴方自身が成仏の本懐を遂げる、その功徳が即座に回向されて亡き父母も成仏するのであります。時に事に、精霊供養を志し功徳善根を積むことは貴い行体ではありますが、未だ苦涯や中有を彷徨う亡き精霊を真に死の成仏へと導く方途は、貴方自身が即身成仏の本懐を遂げる、これ以外に道はありません。
《 八月十五日と盂蘭盆会 》
日本国の世情に眼を向ければ、八月十五日はお盆であり、終戦記念日であります。前の大戦では兵士・民間人の約三百万人が死亡し、世界中では途轍もない多くの人員が大戦の犠牲になっているのであります。近代の人類史を遡っても、一つの期間にこれだけ大量の人員が死した事例は他にありません。しかもその死に直面した大多数の方々が、生ける意に反して唐突に死を強要され、無念や遺恨、悲しみと苦しみの嗚咽を吐き、壮絶なる肉体的激痛を極めて息を引き取ったのであります。
日本国においても他国から攻められ、特に昭和二十年の東京大空襲・沖縄玉砕・広島長崎の原爆等々の戦災により多くの民間人も犠牲となられました。しかしまた、明治以降の大日本帝国軍が他国に軍事侵攻し、多くの他国民を殺戮したことも史実であります。帝国国家神道という邪教の思想が魔者となって戦争を行った結果、日本国は因果応報と云うべく、国土民衆は荒廃を極め悲惨な状態での昭和二十年八月十五日、天皇より降伏・終戦が宣旨された。
この終戦の八月十五日・お盆の八月十五日、そして釈迦如来の入滅が十五日、これらが重なり合うことは単なる偶然なのであろうか。否、凡夫には不可見有対色の偶然とおもわれる事柄であっても、仏の御照覧の前には邪智謗法の国としての因・縁・果という一貫した十界三千の妙理が見出されていることを我等は感ずるべきであります。
これら苦涯を極めて死した数多の精霊の念は、凡夫の知慮では測り知ることのできない、巨大で捻れた因縁となって戦後数十年を隔てた今日に至っても国土海里に充満しているのであります。天下万民が諸乗一仏乗となりて妙法が回向される立正安国が進展しなければ、この精霊の因縁が世情に災難となり多大な影響を及ぼすことは必定であります。故にその現証として既に、国家・国際規模での紛争・生活・経済・環境等々に大問題や事件が多発し、人類絶滅の危機までもが科学的に論じられる事態にもなっているのです。
以って戦後六十数年の今日、世界三大宗教は各々が教派の利害を主張し抗争に三財を費やしても、ただ一人の民衆も、ただ一体の精霊も真に救い導いてはいない。
終戦記念日に日本国政府が追悼会を催して木柱に霊を託し、黙祷献花を捧げた処で精霊は青提女の如く苦涯に沈んだままである。今、生ける現代の人らは、その環境国土世間が戦災犠牲者の人柱の上に成り立っていることを感じず、利己と才覚に酔い自惚れ、真実を求めずして小手先の供養式を選ぶなどは、生ける人らの自己満足に過ぎ ず、仏教に照らせば畜生道の人頭鹿である。
この現実を踏まえた時、立宗より七百五十余年を経歴すると雖も邪智謗法は国土に充満し、立正安国への進展はほんの僅かでしかない。三百万が何千万がの精霊は未だに法味に飢え、妙法経力の回向を血の涙を流して待ち続けているのであります。
大聖人は「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」と。
かかる精霊の回向を主是とせず、邪智謗法の本国で八月十五日に盂蘭盆法要と銘打ったところで、何が盂蘭盆会の仏意に叶うのでありましょうか。
日蓮系と称される立正佼成会・創価学会・日蓮正宗・身延派等々の宗派教団も、御本佛大聖人に違背し悪戯に自教団の正当性を誇示するばかりであり、信順する教団はただ一山の少数でしかない。
大石寺の寺寺の何処が、八月十五日の意義に鐘を打ち、南無妙法蓮華経日蓮大聖人を頼みの綱として供養を捧げているのか。盂蘭盆法要の看板を掲げる寺はあっても、戦災犠牲者の供養を標榜する寺は一処もない。
日本国並びに世界にとっての大事である戦災犠牲者の回向に主眼を置かず、ただ体裁を繕うが為に、或いは大名の墓を巡り、或いは八尺三尺の塔婆を書きなぐり、或いは法界万霊を詐称して経を上げ盂蘭盆法要を自慢した処で、何が「正しい宗教」でありましょうか。何が「乃至法界平等利益」でありましょうか。
盂蘭盆法要と自称するだけで内心はお盆の金集めに意識が高ぶり、塔婆餓鬼・経廻り餓鬼なっている坊主らに日蓮大聖人日興上人の魂はなく、立正安国などはできる訳がありません。所詮大石寺の法主坊主らは、出鱈目本尊・偽血脈に執着するだけの食法餓鬼である。
貴殿等はその人生において何度のお盆を、終戦記念日を迎えられましたか。
その幾度ものお盆は、仏意に適っていたと大聖人様へ報じられますか。
回向菩提を願うせっかくの志しも、ここで本物真実に眼を開かずして旧来からのあり方を踏襲するならば、与同罪を免れ難く、亡き精霊も法味から遠離することは必然であります。日蓮正宗大石寺の、創価学会の、これら教団の偽装本尊を用いて行う法要儀式は、苦毒にはなっても、功徳善根にはならないのであります。
宗祖大聖人『立正安国論』に曰く
悲しいかな、皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る。愚かなるかな各悪教の綱に懸かりて鎮に謗教の網に纏はる。此の朦霧の迷ひ彼の盛焔の底に沈む。豈愁へざらんや、豈苦しまざらんや。汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国也、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土也。宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。此の詞此の言信ずべく崇むべし。
貴殿等が仏意に心眼を開き、真実なる南無妙法蓮華経日蓮大聖人の御本尊と御教えを信仰されるよう祈ります。
東日本大震災で殉難された諸精霊の五輪塔婆を建立申し上げ、仏果菩提をお祈り致します。
札幌談所 鳥本雄行
宗祖大聖人『盂蘭盆抄』に曰く、 (御抄参照の事)
仏説いて云く汝が母は・罪ふかし・汝一人が力及ぶべからず、又何の人なりとも天神・地神・邪魔・外道・道士・四天王・帝釈・梵王の力も及ぶべからず、七月十五日に十方の聖僧をあつめて百味飲食を調へて母の苦をば救うべしと云云。目連・仏の仰せのごとく行いしかば其の母は餓鬼道一劫の苦を脱れ給いきと、盂蘭盆経と申す経にとかれて候。其によりて滅後末代の人人は七月十五日に此の法を行い候なり、此は常のごとし (乃至)しかるに目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立ちどころに投げ捨てて南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す、此の時こそ父母も仏になり給へ。故に法華経に云く「我が願既に満ち衆の望も亦足る」云云。目連が色身は父母の遺体なり。目連が色身仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ。
《 盂蘭盆の説示から学ぶ 》
『盂蘭盆経』はその真偽について意見が分かれており、現時の仏教界においては偽経ではないかというのが、大方の見解であるようです。しかしながら、『盂蘭盆経』が仮令、釈迦如来の直機の説経ではないとしても、久遠元初自受用身である大聖人が流通分として御手に取られたからには、久遠元初の盂蘭盆経として会通されることを門下は信解すべきであります。
一般世間で盂蘭盆と云えば、「亡き精霊を迎える送る、地獄の蓋が開く、墓参をする、塔婆を立てる、坊さんにお経をあげてもらう」などが一般的ですが、どれもこれも盂蘭盆の本義を得ず枝葉の域に終始しているのが現状であります。
釈迦如来の弟子である目連尊者は、慳貪の科により餓鬼道の苦涯に沈む母親の青提女を自力本願の神通力で救おうとしたが、この通力は却って仇となり青提女を一層の苦涯へと沈めてしまった。この愚行を如来へ懺悔し青提女の救済を願ったところ、如来は七月十五日の法会を指南され、如来が仰せの如く目連は法会を行い、回向を受けた青提女は餓鬼道一劫の苦を脱れたのである。目連はこの法会の御利益に歓喜し、この法会の歓喜を他の方々にも展転して欲しいと如来に願い、如来は目連の志しを盂蘭盆会として定め、後代までも永く修するよう指南されたのであります。
この盂蘭盆の説示より先ず心得るべきことは、
一、如来へ指南を仰がず母親だけの為に勝手な通力を使い、これが仇となったこと。
二、過ちを懺悔し、如来へ指南を願ったこと。
三、指南通りの法会を修して餓鬼道一劫の苦を脱れたこと。
四、この歓喜が多くの衆生へ展転されることを願ったこと。
五、目連が法華経で成仏を遂げ、この事が即父母の真の成仏となったこと。
次に、これらの心得を我等が信行にあてて考えてみることが大切であります。
信仰のあり方に我流は禁物であります。馴れてくると仏様の教えよりも自身の感覚や経験のみで信心をする者がいますが、どんなに年数を重ね業績があろうとも、末代の衆生は法華初心位での成仏でしかありえません。生命に潜在する傾向性から起こる慢心を戒め、不信・狂信とならないよう常に師を仰ぎ仏道を求めるべきであります。
「相構へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからずと仏は記し給ひしなり」
また仏教を修する者が、我が肉親のみの救護にしか力を注がないとするならば、これは仏の大慈悲と四恩報謝を軽んずる愚業であり、到底仏道を成就することはできません。自他共にという大乗の精神を拝し衆生無辺誓願度を自身の振舞いに現ずることが修行であります。
「汝須く一身の安堵を思はば先づ四表の静謐を祈るべきものか」
人は全知全能の神ではありません。失敗や過ち或いは過失ということもあります。過ちを過ちとして素直に認め自省し、謝罪することが大切です。師に対して過ちを懺悔できることが、先ず信仰の道であります。また自省し謝罪した人を抱擁する度量も大切であります。お互いに些細な過ちは信心をしていてもあることなのです。法華経には悪人成仏が説かれているのですから、仏弟子檀那ならばこの義も慈悲の一分として他の人々の菩提を祈り接していくことが大切なのであります。人の過ちを許すことは大善であり、このことが互いの信仰道へと昇華されることを願い、異体同心を感じようではありませんか。
「浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし、重き過ちならば信心をはげまして消滅さすべし」
信仰による利益・功徳を感じながら、この歓喜をただ独りの内緒事にするならば、これは仏恩を蔑ろにする餓鬼道慳貪の同類と言わざるを得ません。我が先祖の成仏だけに執らわれて、衆生の恩に報いる身口意の行体を欠くとするならば、亡き精霊にとっても、また回向を志した当人にとっても真の仏果を成就することはできないのであります。
つまり盂蘭盆会は、功徳の歓喜を衆生に伝える化他行がこの本義であり、我が先祖だけの供養儀式のみに終始するならば、全く此の経説の本意を欠くことにしかならないのです。『法華経化城喩品』 に「願わくは此の功徳を以って普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」と説かれる如く、盂蘭盆会の功徳が世界乃至法界の万霊と衆生に回向されることを真剣に願い、この盂蘭盆会の歓喜を布教に資することが我等の大切な使命であります。
また、「塔婆さえ立てていれば供養になる、先祖も喜ぶ、塔婆の功徳は甚甚無量、」などと、精霊供養の一面だけを殊更に誇大強調して、「塔婆しか供養の方法がない」などと大石寺の坊主は云いますが、これは塔婆の本数増加を目論む金儲け目当ての塔婆餓鬼坊主であります。
(塔婆供養の意義は深く、この化儀は特に留意しなければなりませんので、後日に委細を述べます。塔婆供養は先ず建立願主の心地が大切であり、この心地が定まって建立されるならばその功徳は莫大であります。)
更に、この大聖人の御教示を拝すれば、
「目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立ちどころに投げ捨てて南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す、此の時こそ父母も仏になり給へ」
法華経と申す経とは、「南無妙法蓮華経日蓮大聖人」この二尊一体の御本尊に会い出でて、信心の血脈を違わず信仰に徹することであります。つまりは大聖人の化法並びに、日興上人・日目上人の化儀を尊信し拝することであります。
正直捨方便 投げ捨ててとは、謗法を厳戒する志しであり、自身の性根に潜む煩悩や執着を潔く捨てることであります。しかし末代の衆生は三毒強盛の性でありますから、仮令信心をはじめたとしても、己が知慮経験に固執して師弟子の道を違える者が多々いるのです。このような煩悩・業・苦に溺れ右往左往していると、成仏どころか、堕獄の因にもなり兼ねないのです。物体としての謗法物は捨てることも容易にできますが、生命に染み付いた性根の謗法払いは口で云うほど簡単にできるものではありません。信仰に精進しその賜物として性根の謗法払いができると云っても過言ではありません。
南無妙法蓮華経と申せしかばとは、題目の意を心得て唱え弘めることであります。この題目の意とは、大聖人、日興上人の御意を拝し帯することであります。大聖人の御意に反する題目は謗法でしかありません。
此の時こそ父母も仏になり給へとは、貴方自身が成仏の本懐を遂げる、その功徳が即座に回向されて亡き父母も成仏するのであります。時に事に、精霊供養を志し功徳善根を積むことは貴い行体ではありますが、未だ苦涯や中有を彷徨う亡き精霊を真に死の成仏へと導く方途は、貴方自身が即身成仏の本懐を遂げる、これ以外に道はありません。
《 八月十五日と盂蘭盆会 》
日本国の世情に眼を向ければ、八月十五日はお盆であり、終戦記念日であります。前の大戦では兵士・民間人の約三百万人が死亡し、世界中では途轍もない多くの人員が大戦の犠牲になっているのであります。近代の人類史を遡っても、一つの期間にこれだけ大量の人員が死した事例は他にありません。しかもその死に直面した大多数の方々が、生ける意に反して唐突に死を強要され、無念や遺恨、悲しみと苦しみの嗚咽を吐き、壮絶なる肉体的激痛を極めて息を引き取ったのであります。
日本国においても他国から攻められ、特に昭和二十年の東京大空襲・沖縄玉砕・広島長崎の原爆等々の戦災により多くの民間人も犠牲となられました。しかしまた、明治以降の大日本帝国軍が他国に軍事侵攻し、多くの他国民を殺戮したことも史実であります。帝国国家神道という邪教の思想が魔者となって戦争を行った結果、日本国は因果応報と云うべく、国土民衆は荒廃を極め悲惨な状態での昭和二十年八月十五日、天皇より降伏・終戦が宣旨された。
この終戦の八月十五日・お盆の八月十五日、そして釈迦如来の入滅が十五日、これらが重なり合うことは単なる偶然なのであろうか。否、凡夫には不可見有対色の偶然とおもわれる事柄であっても、仏の御照覧の前には邪智謗法の国としての因・縁・果という一貫した十界三千の妙理が見出されていることを我等は感ずるべきであります。
これら苦涯を極めて死した数多の精霊の念は、凡夫の知慮では測り知ることのできない、巨大で捻れた因縁となって戦後数十年を隔てた今日に至っても国土海里に充満しているのであります。天下万民が諸乗一仏乗となりて妙法が回向される立正安国が進展しなければ、この精霊の因縁が世情に災難となり多大な影響を及ぼすことは必定であります。故にその現証として既に、国家・国際規模での紛争・生活・経済・環境等々に大問題や事件が多発し、人類絶滅の危機までもが科学的に論じられる事態にもなっているのです。
以って戦後六十数年の今日、世界三大宗教は各々が教派の利害を主張し抗争に三財を費やしても、ただ一人の民衆も、ただ一体の精霊も真に救い導いてはいない。
終戦記念日に日本国政府が追悼会を催して木柱に霊を託し、黙祷献花を捧げた処で精霊は青提女の如く苦涯に沈んだままである。今、生ける現代の人らは、その環境国土世間が戦災犠牲者の人柱の上に成り立っていることを感じず、利己と才覚に酔い自惚れ、真実を求めずして小手先の供養式を選ぶなどは、生ける人らの自己満足に過ぎ ず、仏教に照らせば畜生道の人頭鹿である。
この現実を踏まえた時、立宗より七百五十余年を経歴すると雖も邪智謗法は国土に充満し、立正安国への進展はほんの僅かでしかない。三百万が何千万がの精霊は未だに法味に飢え、妙法経力の回向を血の涙を流して待ち続けているのであります。
大聖人は「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」と。
かかる精霊の回向を主是とせず、邪智謗法の本国で八月十五日に盂蘭盆法要と銘打ったところで、何が盂蘭盆会の仏意に叶うのでありましょうか。
日蓮系と称される立正佼成会・創価学会・日蓮正宗・身延派等々の宗派教団も、御本佛大聖人に違背し悪戯に自教団の正当性を誇示するばかりであり、信順する教団はただ一山の少数でしかない。
大石寺の寺寺の何処が、八月十五日の意義に鐘を打ち、南無妙法蓮華経日蓮大聖人を頼みの綱として供養を捧げているのか。盂蘭盆法要の看板を掲げる寺はあっても、戦災犠牲者の供養を標榜する寺は一処もない。
日本国並びに世界にとっての大事である戦災犠牲者の回向に主眼を置かず、ただ体裁を繕うが為に、或いは大名の墓を巡り、或いは八尺三尺の塔婆を書きなぐり、或いは法界万霊を詐称して経を上げ盂蘭盆法要を自慢した処で、何が「正しい宗教」でありましょうか。何が「乃至法界平等利益」でありましょうか。
盂蘭盆法要と自称するだけで内心はお盆の金集めに意識が高ぶり、塔婆餓鬼・経廻り餓鬼なっている坊主らに日蓮大聖人日興上人の魂はなく、立正安国などはできる訳がありません。所詮大石寺の法主坊主らは、出鱈目本尊・偽血脈に執着するだけの食法餓鬼である。
貴殿等はその人生において何度のお盆を、終戦記念日を迎えられましたか。
その幾度ものお盆は、仏意に適っていたと大聖人様へ報じられますか。
回向菩提を願うせっかくの志しも、ここで本物真実に眼を開かずして旧来からのあり方を踏襲するならば、与同罪を免れ難く、亡き精霊も法味から遠離することは必然であります。日蓮正宗大石寺の、創価学会の、これら教団の偽装本尊を用いて行う法要儀式は、苦毒にはなっても、功徳善根にはならないのであります。
宗祖大聖人『立正安国論』に曰く
悲しいかな、皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る。愚かなるかな各悪教の綱に懸かりて鎮に謗教の網に纏はる。此の朦霧の迷ひ彼の盛焔の底に沈む。豈愁へざらんや、豈苦しまざらんや。汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国也、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土也。宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。此の詞此の言信ずべく崇むべし。
貴殿等が仏意に心眼を開き、真実なる南無妙法蓮華経日蓮大聖人の御本尊と御教えを信仰されるよう祈ります。
東日本大震災で殉難された諸精霊の五輪塔婆を建立申し上げ、仏果菩提をお祈り致します。
札幌談所 鳥本雄行