中野寛次著
『声 優 論』
第二部
「ディレクターの注文」―(声優志望の若い人へ)


1.せりふについて

 「……俳優が演技のよりどころにするのは字に書いただけの脚本である。なるほど登場人物の口にするせりふは、文字通りそこに記されてはいるが、それすら肝心の耳にきこえる形―話し手の心に起きることを感じとるのに大事なその音色、高低、強弱、速度、休止など―についての指定はほとんどない。
 そういう字に書かれただけのせりふやわずかばかりのト書から自分の役の性格、他の役との関係、その内的・外的行動の『途切れぬ線』、脚本全体の意図(超課題)、その中での自分の位置や役割を読みとり、それぞれを自分の体験や知識や想像力でおぎなって、生き生きした役のイメージをつくり上げ、形にあらわすのは俳優の仕事である……。」(千田是也著「演劇入門」岩波新書)

 リアリズム演劇における演技、俳優の仕事については、千田是也先生が誠に簡潔に言い表しておられます。
 少し難しいと思いますが、(この「俳優の仕事」については、後で勉強します)しかし、せりふというものの概念は、これで把握できると思います。
 せりふは、与えられた役の人物になり切って、生き生きと表現しなければならない。演劇も映画も、テレビ・ドラマも、外国映画やアニメ、ラジオ・ドラマの声の演技も、みな同じです。勿論、それぞれに僅かな差はあります。
 例えば、舞台ではせりふは客席の隅々にまで聞こえなければなりません。日常生活での発声発音では無理です。そこで、よく声がとおる為の発声・発音が必要になります。声で空間を制御するわけです。

「映画では、どんな場合でも発音(この場合の発音とは、強調された舞台的発声・発音・抑揚を意味すると理解して下さい)しないで話すということ、しかし自然主義的(日常生活的)にではなく、リアリスティックに―単純に、自然に、文句に正しい意味を与えながら―平らな場所と高まった場所を、光と影を正しくふりわけながら、話すということにつきるのである。映画では自然にかつ表現的に―俳優によって描かれる主人公たちが、実生活のその場で話さなければならなかったように、そのように典型的に話すことが必要である……」(レフ・クレショフ著『映画製作法講座』)。

 舞台のせりふは先に述べたように、ある程度の拡大作用が求められますが、映画(やテレビ・ドラマ)ではその必要がなく、より自然に話せと教えています。
 しかし、自然に話すことが、決して日常的自然ではなく、リアリスティックにというところに、難しさがあるのです。
 リアリスティックに演じる、つまりリアリズム演技を自分のものにしていなければ、形だけの表現に終わってしまうでしょう。ラジオ・ドラマでも、アニメでもそうです。ラジオ・ドラマは聴覚の芸術ですから、せりふは微妙な心理、感情の変化まで要求されるし、息づかいひとつにも、緻密に工夫された表現が必要です。
 またアニメは、極端に誇張された表現が必要とされる場合もあります。でもリアリズム演技の基本は同じなのです。


2.声の演技

 厳密に言えば、声の演技という独立したものは存在しないのです。
 物を言うということは、あくまでも人間の身体的行動、心理的行動と切り離せない、言語的行動なのですから。
 しかしここでは、外国映画の声の吹き替えや、ラジオ・ドラマ、アニメのせりふだけの演技を、一応「声の演技」と呼ぶことにします。この場合も心理的行動はもちろんのこと、身体的行動も俳優の内面で行われているのです。
 以上を前提に、外国映画の吹き替え(アテレコとも呼ばれています)の、声の演技の説明に入ります。
 外国映画を吹き替える場合、役がすでにそこにつくり上げられ、形に表されているところから出発することに特質があるわけで、つくり上げられた結果である映像上の人物を、いかに的確に把握し、その音声をどのように最も効果的に再現、再創造するかの、努力と工夫が求められます。
 その外国映画の中で、外国俳優の演じた役を、声優が映像上の形象から、ハミ出す印象を与えることなく、また物足りなさを感じさせず、違和感を与えず、役をより生き生きと活かすため、正確な役作りと、密度の濃い演技で、日本人の現代感覚や生活感情にピッタリくるように、音声を入れ替えねばなりません。そのためには高度な演技力が要求されるのです。
 芸術的創造力が、求められます。外国映画の日本語吹き替え版を完璧なものにするには、声の演技をする声優の創造力、演技力を抜きにしては考えられません。


3.日常的に学ばなければならないこと

 では、差し当たって、これから声優になるために、何を学ばなければならないかというと、俳優に必要とされているもの全てです。
 後でも述べますが、スポーツマンや舞踏家に匹敵するような、強靱で柔軟な肉体を始め、高低、大小、硬軟等を自在にコントロールできる、快いひびきをもった正しい発声、その基礎となる呼吸法、それから明晰な発音、正確なアクセント、リズム感、表現力、人間の体や声の生理学的知識、日本語に関する深い造詣を身につけるように努め、同時に映画・演劇は言うに及ばず、文学・美術・音楽ほかの芸術に親しみ、人間ならびに社会に対する認識を深め、現代に生きる人間としての鋭敏な感受性や、批評精神を養う等々を目標に置いて、日夜研鑽に励まなければなりません。
 勿論これらは、一朝一夕に学び得るものではありませんが、すくなくとも先輩たちが、十年かかって習得したものを、五年でマスターしようという意気込みと努力は絶対に必要です。


4.ディレクターの注文

 (イ)

 まず第一に、声の良さです。と言っても美声を意味しません。それがよく訓練されて、よいひびきをもち、それなりに魅力ある声であればいいのです。それからハッキリと歯切れよく喋れること。

「声に重みと香りをつけることは、それだけで驚くほど観客をひきつけることができる……」
 これはフランスの俳優教育家、演出家であったシャルル・デュランの言葉ですが、よく鍛え上げられた声であれば、声そのものに説得力が生じます。
 歌舞伎で俳優を評するのに、「一、声。二、顔。三、芝居」というのがありますが、演技力は後まわしにされ、口跡のよさ(声がよく、歯切れよく、明瞭なこと)と、減り張り(音の抑揚)のしっかりしていることが第一にあげられています。
 能楽で、世阿弥(室町時代、能楽を高度に完成させた能作者、能役者)が「花伝書」の中に述べる「言葉いやしからずして、すがたゆうげむ(幽玄)ならんを、うけたる(たけたる)達人と申すべき哉」の、「言葉いやしからずして」は、デュランの「声に重みと香りを」に、近い意味合いのものに思えます。
 このように、昔から声を鍛えることを、舞台人は重要視していました。
 歌舞伎通の老人が、昔の役者は口跡がよかったと言いますが、実際に今の人より鍛え抜かれた声を持っていたのでしょう。
 歌舞伎俳優の発声・発音訓練は、浄瑠璃、長唄等で行われたようですが、特に浄瑠璃(義太夫節)は、三オクターブの声域が必要ですし、せりふの明晰度に欠かせない、正確な子音の発音も厳しく求められるからだと思います。
 二代目市川団十郎作といわれる、歌舞伎十八番の一、「外郎売りのせりふ」は、現在でも俳優やアナウンサーの、早口早言葉、発声、発音の訓練に使われていますが、当時こういうものが作られたということは、発声、発音を含む「物言う術」が俳優術の基本と考えられていたことを意味します。
 十九世紀末のヨーロッパでも、ストリンドベリ(スウェーデンの世界的に有名な作家、劇作家、1894〜1912)がこう言っています。
「あらゆる語られる言葉というものは、俳優術の基礎となるばかりでなく、すべてである」さらに「照明の悪い舞台でも俳優のせりふが巧妙に喋られているならば、観客は面白く見ていることができる。反対にパントマイムの連続されているような身振りの芝居の場合、観客の大部分は退屈を感じるものである……」
 現代になって、劇場の照明設備、共鳴機構、拡声装置等々が改善、新設されてくると、視覚に訴える技術や音響技術に支えられ、舞台表現の幅は大きく広がりました。
 しかし、俳優の生の音声は、日本では、ややおろそかにされてきたようです。
 今日の我が国で、いわゆる口跡の良い、音吐朗々としてせりふを聞いているだけで、観客がうっとりしてしまうような、旧劇や現代劇の俳優が、果たしてどれ程いるでしょうか。
 海外のイギリス、ナショナル・シアター(英国国立劇場)、ロシアのモスクワ芸術座、フランスのコメディ・フランセーズなどで活躍する俳優たちは、伝統的な、豊かな声の芸術を維持しているはずです。
 偉大な俳優で、ナショナル・シアターの主任演出家でもあった、サー・ローレンス・オリビエは、三オクターブの声域でせりふを自由自在にあやつりました。
 その昔来日して、新橋演舞場で上演したモスクワ芸術座の舞台は、俳優たちの音声のハーモニーが、まるでオペラを聴いているかのような錯覚を観客におこさせました。
 肉体的なハンディキャップや、歴史的経緯を差し引いても、今の日本の俳優の過半数は、声の鍛錬が不足していると思えるのです。若いみなさんには、日常訓練を絶やさぬことを、特に切望します。

   国際的に著名なあるバレリーナは、三歳の時から三十数年、一日5時間のレッスンを欠かしたことがなかったそうです。
 バレリーナに限らず、声楽家、ピアニストその他、芸術に携わるすぐれた人は、連日のレッスンを決して欠かせないのです。スポーツ選手も同じです。
 その点、日常訓練を怠りがちなのが、若い俳優諸君でしょう。これは演技者としての地位を、自ら卑しめているのです。あらゆる分野の芸術、芸能の世界に生きる人のうち、題意線で活躍している人々の多くは、苛酷なまでの厳しい自己鍛錬の過程を経てきているのです。

 ある時期まで、発声も発音も悪く、全く下手だった俳優が、何年か後には全く別人のような、すぐれた俳優になっている事実をディレクターは知っていますし、逆に訓練不足のために、実力の低下していった人々をも数多く知っています。日常の訓練と向上心が、俳優にとっていかに重要なものか、ディレクターは仕事を通じて、知らされているのです。


 (ロ)

 次にディレクターが求めるのは、吹き替える映画と、与えられた役に対する的確な理解力、つまり映像を深く読みとれる能力とでも言いましょうか、芸術的理解力と判断力です。
 これは、日常的に、映画、演劇、文学、音楽、美術等の芸術に数多く接し、その芸術的感銘の理由、また娯楽性の秘密の探究、疑問の究明等、自己の内的作業を通じて、常に何かを自分の内部に吸収し続ける努力を意識的に行うところから出発します。それが良いものと悪いもの、本物と偽物の違いを識別できる能力を培います。
 先に「1」で引用した千田先生の文にある「……その中で、自分の位置や役割を読みとり……」の仕事を、高度なレベルでやれるか、低い次元でしかできないかが、この日常生活での芸術に対する態度(ひいては、人間や社会に対する態度)で決定されてくると思います。
 特に外国映画の声の演技の仕事では、キャスティングの段階から、具体的な演出の仕事が始められていますから、なぜこの役が自分に与えられたか、そしてどのような表現を求められているのかというディレクターの意図を、正確に読みとらなければなりません。
 対象とする外国映画の監督、俳優の意図、及び日本語版ディレクターの意図を映像と台本から、深く正しく読みとる能力があるかないかが、単なる物真似演技に終わらせるか、或いは俳優としての創造的演技を産み出すか、つまらなくするか面白くするかの別れ道になるでしょう。
 また、誤解や意見の食い違いをなくす為に、疑問があれば直ちにディレクターに質すべきです。


 (ハ)

 本番前のテストや対話で、ディレクターは声優が正しく理解し判断したかどうかの点検と、最終的な方向づけ(ダメ出し)を行い、完成度の高い表現を求めます。
「ある役の、ある場面における、そのせりふには、たったひとつのイントネーション(抑揚)しかない」と、スタニスラフスキーは言っていますが、まさに「それ以外にはない」という表現を、ディレクターは注文するのです。
 日本語のせりふの表現に変える際の論理的、感覚的な不調和を埋め、さらに映像の本質を引き出すために、「役の内的、外的の途切れぬ線」を追い、また、説明的、類型的になりがちな性格描写を避けて、自然な特徴づくりを行いつつ、感情過多にもならずに、観る者のカンにピタリとくるような、せりふの表現を求めるのです。
 その役のその場(シーン)の、それ以外には考えられない、せりふのイントネーションを、ディレクターは求めているのです。

 しかし、口で言うのは簡単ですが、これは至難の業です。表現技術の習得は、短期間で身につくはずがなく、毎日毎日の地味で辛抱強い訓練の連続(意識的な修練の蓄積が、やがて潜在的な―無意識的な演技表現の活用に、つながるのです)と、現場経験(スタジオと舞台)の蓄積量を抜きにしては考えられないことを、よく認識して下さい。
 そこで、練習量や経験の少ないみなさんが、実習などで現場に立ったとします。そしてある程度、映像や与えられた役や状況等を正しく理解し判断したとして、演技表現を行うとします。
 でも、その結果は、みなさんが、精一杯正しく演じたつもりのものが、全くそのようには表現されていない場合がほとんどです。
 訓練不足、経験不足は勿論ですが、それ以上に、ある潜在的な自意識の作用が働いているのです。
 「これからいよいよ演技をするのだ。この役になりきるのだ」という身構えからくる緊張、トチるまい、うまく演じなければならない、声が楽に出るかどうか等の一種の責任感、不安感からくる過度の心理的緊張が、生理的な筋肉の緊張を招き、呼吸、発声、発音にまで影響を及ぼし、さらには創造力や感情に蓋をして、自由な表現を抑えこんでしまうからです。
 これも後に学びますが、スタニスラフスキー・システムや、アクターズ・スタジオのメソード演技では、そのために、筋肉の抑圧の克服を初歩的な訓練に組み込んでいるのです。

 とりあえず、現場では、恥をかくことを決しておそれない勇気が必要です。羞恥心などはかなぐり捨てるのです。
 現場に立つ以上、あくまでもプロフェッショナルの意識を持つことです。

   どんなベテランでも多かれ少なかれあがるものです。ただ、ごく自然にそれをコントロールしているのです。
「舞台に出る前にぜんぜん興奮しない人、それは芸術家ではない」と、スタニスラフスキーも言っています。
 そして、やらなければならないことに、注意力を集中させて、必要以上の筋肉や心理の緊張をやわらげ、理解し、判断し、感じたところのものを臆することなく、精一杯演じてみること。中途半端な表現が一番いけません。
 さらにその都度創意工夫をこらす努力を怠らないこと。たった一言のせりふでも、その他大勢のいわゆるガヤのせりふでも馬鹿にせず、一つ一つの仕事を自分のものとして、大切にすることが肝要でしょう。

 俳優の権利を守る「日本俳優連合」の組織者で、大ベテランの俳優でもあった、久松保夫氏は、外国映画の声の演技についてこう言われていました。
「……目は、台本のせりふを追うと同時に、映像上の俳優の表情、行動を追い、その身体的、心理的リズムにのり、片方の耳は、レシーバーから聞こえるトーキー音(サウンドトラック)のせりふの微妙なニュアンスを聞き分け、もう一方の耳では、相手役の声優のせりふのイントネーションをとらえて相手役と交流しつつ、マイクを通して自分のせりふを表現する……」
 このように複雑な技術は決して即席で身につくものではありません。
 くどいようですが、あくまでも日常的な不断の訓練、研究を倦まずたゆまず、情熱を失うことなく持続すること。
 常に高い目標に向かって努力を惜しまないこと。

 結局、この道上達の秘訣は、学問の修得や、その他あらゆる技術、技芸熟達の秘訣と何ら異なるところはないのです。


5.再び、外国映画やアニメの声の演技について

 さて、ここでもう一度、声の演技というものが、独自に存在するものではないという問題に立ち戻りましょう。
 確かに、舞台演技、映画演技、テレビのスタジオ・ドラマの演技、声だけの演技を比較した場合、それぞれ細かい技術的な違いはありますが、それはごく瑣末的なものなのです。人間をどうとらえ、どう表現するかということでは全く同じです。演技はひとつです。

 ドイツの名優として知られたウィンターシュタインは、「舞台向きタレントといわれるものも、映画向きタレントといわれるものも、実際にはないのである。あるのは、俳優のタレント(TALENT:この場合のタレントは、本来の意味の才能、能力を意味します)だけである」と言っていますが、これに外国映画、アニメ向きタレント、または、声の演技向きタレントと言われるもの、を付け加えて考えてみるべきでしょう。
 そして能力(タレント)は、自ら開発するものであることを、自覚して下さい。

   最後に、アメリカのアクターズ・スタジオ(モンドメリィ・クリフト、マーロン・ブランド、ポール・ニューマン、ジェイムズ・ディーン、アル・パチーノ、その他多くの大スター、名優を世に送り出した、国際的に有名な演技研究所)を主宰した、俳優教育家、演出家のリー・ストラスバーグの言葉を引用します。

 「俳優がめざすゴールは、『その人の理解したもの』へ、どのようにして、『その人の魂を吹き込むか』ということである」

                               ―以上―

                  中 野 寛 次



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