この国の「言語政策」がまったく見えてこない。
1外国人のための日本語教育、
2母語の教育としての国語教育
3外国語教育としての英語教育
端的に言ってこれらの三つの言語教育がばらばらに何の関連もなく進んでいるように思えてならない。少なくとも、後の二つ、つまり国語教育と英語教育には緊密な関連があってしかるべきなのに、今年度から実施された小学校における英語教育の導入は、母語の教育すなわち国語教育とどう関わってくるのか何も見えてこない。国語教育で作文嫌いと本の一冊もまともに読めない子どもたちを作り出しているのみではない。英語教育では中学生の三年生にもなると三分の二の生徒が英語嫌いになっていると聞く。むごいというか、ひどすぎる。これは私見でしかないが、英語と国語は同じ教師が同時に比較対照して教えるのがベストだと思う。
そのような文科省の無為無策を反映しているのか、ご両親ともに日本人なのにインター・ナショナル・スクールへの入学者が都会では数多くいらっしゃる。英語で教育し将来はアメリカの大学にいれようというお考えであるのは分かるが、きちんとした言語戦略をもたないと、英語も日本語もまともにできない子どもが育つ恐れがある。国語専科教室では、ずいぶん以前から、見かねてそれらの生徒たちの日本語教育をサポートしている。
あるいは、1外国人への日本語教育の世界では、橋本進吉が戦前に確立した文節文法=学校文法は、とうの昔に否定されているのに、2母語の教育としての国語教育では、いまなおそれが絶対視されてテスト問題などに出され続けている。これを東大という学閥支配の闇とでも言えばよいのだろうか。それにしても、犠牲になる生徒たちが哀れである。
結論を言うなら、もう私たちは各家庭とか個人レベルでの「言語戦略」というものを持たざるをえないとうことに尽きる。この分野でも、優秀なはずの官僚は、国家運営には不可欠のはずの言語政策すら出せないことが分かってしまったからである。学校の「国語」や「作文」ができたからと言って、あるいは、日本のいわゆる難関学校にペーパー入試で受かったからと言って、それらは、ほとんど何の価値も持てない時代にもはや既になってしまっている。高学歴ワーキングプアがそれをあますことなく実現しているだろう。
低学年の子には、本にたくさん親しむこと。そして、しっかりしてきたなら、三角ロジックのようなトレーニング
とさらにたくさんの読書。それでいいのではと思っております。