1990年代初め、湾岸戦争の爆撃で廃虚と化したイラク・バグダッドの家庭に「ゲームボーイ」が転がっていた。日本の任天堂が製造・販売したこのゲーム機は、原形をとどめないほど潰れていたがゲームの音だけは鳴り響いていた。任天堂を53年にわたって率いた3代目社長・山内溥氏が「子どもたちが持ち歩くゲーム機は、絶対に壊れてはいけない」と強調してきた成果だった。当時、バグダッドの家庭で発見されたゲームボーイは現在、米国ニューヨークにある任天堂の展示館に展示されている。
任天堂は、囲碁ゲームを他社よりはるかに遅い2008年に発売した。アマチュア囲碁6段の山内社長が、ゲームの設計を担当するプログラマーに「私がゲームをやってみて、負けたときに発売する」と注文を付けたためだ。山内社長は早稲田大在学中の1949年、花札やカードゲームを製造していた中小企業「任天堂骨牌」を祖父から譲り受けた。1889年に創業した同社は「任天堂杯花札大会」を主催するほど、順調に業績を伸ばしていた。
山内社長は60年代、テレビの普及によって花札が売れなくなったため、モデル業や運輸業などに事業を拡大したが失敗した。そこで本業の「娯楽」に専念し、玩具やゲームの製造業を手掛けた。70年代、米国ではショッピングモールに設置されたゲーム機にコインを入れてプレーする「アーケードゲーム」が人気だった。これに目を付けた任天堂は、カラーテレビに接続してプレーする家庭用ゲーム機を開発した。80年代には天才的なゲームクリエイター、宮本茂氏が相次いでヒット商品を生み出し、米国に進出した。
85年には家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」用ソフト「スーパーマリオブラザース」を発売し、大成功を収めた。89年には携帯用ゲーム機「ゲームボーイ」を発売、90年代初めには新型家庭用ゲーム機「スーパーファミコン」が5000万台の売り上げを記録した。2002年に山内社長が退任した後も、携帯用ゲーム機「ニンテンドーDS」や家庭用ゲーム機「Wii」など世界的ヒット商品を生み出し、業界1位の座を守った。09年には売上額1兆4400億円、営業利益5300億円を記録した。社員一人当たりの売上額は、トヨタ自動車の5倍の10億円に達した。
そんな任天堂が、今年4‐9月期の決算で573億円の赤字を計上した。世間がスマートフォンによる革命の渦の中で、開放と融合を模索し続けているのに対し、ゲーム機という枠にこだわったためだ。スマートフォンでさまざまなゲームが無料で楽しめるようになったことで、人々が1台20万ウォン(約1万4000円)以上もするゲーム機に背を向けたのだ。任天堂という社名は「(最善を尽くし)運を天に任せる」という意味を持つ。だが、山内前社長は「われわれが市場を作り上げるのであって、市場調査など意味はない」と豪語していた。今や、任天堂の敵はそんな高慢さと閉鎖性だと言える。