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「楡家の人びと」などの純文学から、ユーモアあふれるエッセーの「どくとるマンボウ」シリーズまで、幅広いジャンルで80歳を過ぎても旺盛な執筆活動を続けた作家の北杜夫さん。
24日、84歳で亡くなりました。
北杜夫さんは、実は文学界きっての昆虫好きとしても知られています。
生前の北杜夫さんに取材した、科学文化部随一の昆虫好きの斎藤基樹記者が、知られざる北杜夫さんの一面をお伝えします。
北杜夫さんが集めた昆虫
北杜夫さんとの出会い
私(斎藤)は、3年前、栃木県日光市で開かれた、北杜夫さんが集めた昆虫を一堂に集めた初の「どくとるマンボウ昆虫展」を取材した際、北さんにインタビューを申し込みました。
北さんは、このころ体調を崩してテレビの取材はほとんど受けていませんでしたが、私自身、子どものころから昆虫が大好きで、北さんが集めた虫の標本が残されていることを知って、「昆虫への思いを聞かせて欲しい」と手紙を出したところ、快く受けてくださいました。
インタビューの場所は自宅の書斎。
持病の腰痛のため歩くのもつらそうで、当初は長い時間の取材は難しいかと思いましたが、ひとたび大好きな虫の話になると目を輝かせて、遠い昔の記憶を楽しそうに語っていただいたのがとても印象的でした。
「私の生まれた東京・青山の辺りは、まだ原っぱがあったんですね。夕方になるとギンヤンマがやってきて、大きな子どもが餅ざおで捕ったもんです。虫は子どものときから好きでした。」
「僕は初めのうちは本気で昆虫学者になりたいと思っていたぐらいですからね。ですから、大学を受験するとき、旧制高校っていうのは勉強しないのが普通ぐらいの時代でしたから、とても医学部は無理だと思って動物学を受けたいと言ったら父に猛反対されて。」
専門家も驚く膨大な昆虫コレクション
「どくとるマンボウ昆虫展」からは、北さんの旺盛な好奇心の「源泉」がかいま見えるようでした。
会場には北杜夫さんのエッセーや、小説に登場するさまざまな昆虫が展示されています。
40年以上前に発表された「どくとるマンボウ昆虫記」。
北さんが虫を追いかけた若いころの思い出をつづった作品で、この中にはこんな一節があります。
「ある年の夏の終わり、私は燕岳から大天井へゆく尾根道にねそべっていた。すでに豊かだった夏は移ろうとしていた。尾根道をたどりだすと、幾匹かのミヤマモンキチョウに出会った。」
これが、そのとき捕まえたミヤマモンキチョウ、そのものの標本です。
北さん手書きのラベルには、「ツバクロ」、「1947年」の文字が記されています。
展示会の企画担当者が驚いたのは、北さんが研究者ですら集めない虫まで、手当たりしだいに大量に採集していたことです。
標本は実に600種、1600点に上ります。
担当者は「3年くらいの間に600種類も、戦後間もない食糧難の時代で、お腹を空かして、これだけ集めたというのは信じられない」と驚嘆していました。
インタビューで北さんは「好奇心こそが人間を動かす最初の力だ」と話しました。
一方で「今思うと自分でもこの執念は不思議です」とも話していました。
展示されている標本には、絶滅の危機に瀕している「チャマダラセセリ」も含まれていました。
昆虫を通して人を見る
北杜夫さんが旧制高校時代を過ごした長野県松本市。
60年前に、北さんがチャマダラセセリを採集した場所です。
地元の博物館の館長、丸山潔さんに案内してもらいました。
かつてチャマダラセセリは、高原の里山に生息していました。
しかし、今では里山の多くは荒れ果て、チャマダラセセリが生息する環境は残されていません。
若いころに無我夢中で集めた数多くの昆虫たちは、作家・北杜夫さんの原点になっています。
北さんは、こう話しました。
「宇宙飛行士が宇宙に行って地球のことを改めて考えるように、外国なんかを少し旅するとそれと日本を比較して日本はどういうものかってことを知る、いくらかの手がかりにはなると思うんですね。」
「昆虫はものすごい種類があり生態もさまざま。人間はホモサピエンスで1種類だけど、昆虫と人とを比較して何か人間を見る目が、大げさですけど、少しは高まったと思っています。」
北さんへのインタビューは、予定時間を超えて1時間以上に及び、大好きな虫の話を終えた北さんは、インタビュー前よりも生き生きとした様子でした。
「どくとるマンボウ昆虫展」は好評を博し、現在に至るまで全国のおよそ20か所で開かれています。
北さんは、たびたび会場を訪れてファンと交流しており、今月1日にも長野県軽井沢町で開かれた「どくとるマンボウ昆虫展」でのトークショーに参加し、サイン会も開催しました。
また先月には、北さんが旧制高校時代を過ごした松本市で開かれた日本昆虫学会の大会の会場で、北さんが特に好んでいたコガネムシの仲間で、最近、西表島で発見された新種「マンボウビロウドコガネ」の標本が展示されました。
この虫は北さんと親交のあった昆虫研究者が命名したものです。
北さんは、地球上で最も数が多い生き物の昆虫を通して人とこの世界を見ることで、常人には無いユニークな視点と洞察力を持っていたのだと思います。
科学的見識を持った精神科医師であり、優れた言語感覚を備えた文学者であり、希代のユーモリストであった北さんを形容することばはいろいろあるでしょうが、虫好きの私としては、北さんの「好奇心旺盛な虫好き」の一面をかいま見ることができたことが、大きな財産になったと感謝しています。
マンボウ先生、今ごろは空の上でどんな虫と戯れているのでしょうか。
(10月26日 19:50更新)
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