2011-10-31
■本屋さんに行きたくて
すっかり本屋に行かなくなった。
いや、正確に言うと本屋には良く立ち寄る。
けれども、「よし、今日は本屋に行くぞ」と思う機会が以前に比べてずっと減った。
そう気づいたのは、しばらく会社を休んで一週間が経過した頃だった。
ある日突然、頭が割れるように痛くて、眠れなくなった。
あまりにも痛いので頭痛薬を飲んだけど、ぜんぜん効かない。
すぐに医者に行って診てもらったが、脳に異常はないという。
念のため、頭部のCTと頸部のレントゲンも撮ってもらったが脳腫瘍やそういう病気ではないらしい。
とりあえず薬を貰って、医者には「働き過ぎですな」という、どうにも投げやりな診断をされ、一週間は仕事を休むように言われた。
「頭を使わないように」
医者はそう言ったが、頭を使わないで生きる方法なんかわからない。
原因がよくわからないまま頭痛だけするというのは想像以上に辛いものだった。
もっとより悪い病気なのではないかと疑心暗鬼になり、それがさらに頭痛を悪化させた。
薬も効いてる感じが全然なかった。
いつも午前1時に目が覚めた。
昼間ずっと寝ているのだから当たり前だ。
酷い時は頭痛で何度も夜中に目が覚めた。
薬と酒の相性が悪いので、酒も飲めなかった。
一日一人で過ごして、やることもなく、ただぼうっとしていた。
まるで囚人だ。
たまに飯を腹に入れるために町へ出る。
しかし太陽の眩しさはさらに頭痛を悪化させた。
できるだけ目を開かないようにして、近くのコンビニに行き、そして家に戻る。
それぐらいしか気分転換がない。
あとはひたすら、眠り過ぎないように何もせず時間が経つのを待った。
コンピュータの使用もできるだけ避けるよう言われた。
言うまでもなく、これが一番辛いことだった。
数日も服薬治療を続けると、昼間の数時間は頭痛がひいて動き回れるようになった。
その間だけ、会社に顔を出してどうしてもしなければならない仕事だけ手早く片付ける。
しばらく働いていると、またあの頭痛がやってきた。
目を開けているのすら辛くなる。
そうやって気がつくと一週間が経っていた。
本当なら、僕はいまごろ機上の人となって、アメリカ西海岸に向かってる筈だった。
けれども出張はキャンセルした。
遠く海外で万が一のことが起きると対処が大変だからだ。
そのうち薬の飲み方を覚えた。
頭痛がしてきてからでなく、頭痛がし始める前兆のようなものが感じられるようになった。
左目の奥のほうが、チリチリと疼くのだ。この段階で薬を飲めばほぼ最悪の頭痛は回避できる。
それでようやく頭痛が落ち着いて来て、夜中に目覚めても激しい痛みを感じなくなって来た。
来週からは仕事に戻らなければならない。
先週休んだぶん、うんざりするほどの会議が溜まっていた。
明日に備えて、頭を使う訓練でもするか。
それからふと、思ったのだ。
「本屋さんに行きたい」と。
たいていの買い物はAmazonで済ませる。
けど、Amazonで買える本には限界がある。
どれだけ協調フィルタリングを発達させようと、いや、そうであればあるほど、偶然「これは!」という本を見つけることは難しい。
子供の頃は田舎に住んでいたから、たまに親父の出張にくっついて新潟市や東京などにたまにでてきて、都会の紀伊国屋や書泉といった大きな本屋さんに行くと感動したものだ。
たとえば、田舎の本屋でも、本の名前と出版社さえわかれば、本は取り寄せてもらえる。
Amazonほど便利ではないが、これでたいていの本は手に入るのだ。
けれどもこのやり方では、本当に出会いたかった本に出会うのはなかなか難しい。
僕は長岡市の主要な書店のコンピューターの本のコーナーは全て立ち読みで内容を把握してしまったか、買ってしまった本ばかりになってしまって、「これは」という本にはなかなか出会えない時期があった。
そういうときに「これは!」という本を見つけて興奮して眠れなくなるという、夢まで見るほどだった。
逆に、こうした「これは!」という本を見つけられなくなったのが、そもそも僕が雑誌に原稿を書いてみようと思ったきっかけでもあった。
僕が読みたい内容を自分で書いて、雑誌社に製本してもらうのだ。
そういう「これは!」という出会いと発見が、都会の大きな書店には溢れているのだった。
だから僕にとって、都会の本屋さんというのは、まるで宝島のように見えた。
とにかく本が好きで、学校をさぼっては図書館に行き、学校の行き帰りには毎日書店に寄った。
田舎の書店は狭いから、コンピューターの本がある棚は、せいぜい、ひとつかふたつだった。
だから必然的に、僕はなんの関係もないジャンルの棚も見て回った。
宗教や哲学、心理学、社会情勢や日曜大工、もちろん文学もあった。
そういうなかでも、「これは!」という本に巡り会えることがあった。
そうして偶然出会ったいろいろな本が、僕という人間を作っているのだった。
ところがいざ東京に出て来て、今は日本最大の書店街のすぐそばに住んでいるというのに、本屋さんにはめっきりいかなくなった。
それは何もAmazonのせいではない。
昔に比べて、僕は圧倒的に本を読まなくなったのだ。
昔は、歩くときですら本を手放せなかった。
家の近所では、なんとか金次郎、なんて徒名をつけられていたらしい。
勉強はできるほうではなかったから、周囲から見たらなおのこと異常だっただろう。
そう僕は別に本を読んで勉強しているわけではなかった。
ただ本から得られる圧倒的な体験。
情報を飲み込み、刺激され続ける快感に身を委ねていただけだった。
自転車で登下校するときでさえ、本を読んでいた。
いやこれはものすごく危険なので、お勧めは絶対に出来ないが、それほど本を読み続けていた。
当然、授業も聴かずに本を読んでいたから、授業からはどんどん置いてけぼりになった。
今はどうか。
ケータイがある。
「ねえ、どうしてケータイを見てるの?」
誰かと食事をすると、決まってこう聞かれた。
それが無作法なのだと気づくのに、かなりの時間がかかった。
でもケータイならまだいい方だ。
それ以前なら、僕は本を読んでいただろう。
それは無作法というレベルではなかったはずだ。
ケータイで、別になにか意味のある情報を見ているわけではない。
TwitterやTumblr、Facebookその他もろもろの、「ここにはない情報」に身を委ねているだけだ。
いまや「これは!」という発見は、Twitter上にある。
ただしその刺激は、何日も頭をぐるぐる周り、僕の人生を変えるほどのものではなくて、ほんの一瞬、「へえ」という間抜けな音を僕の口から漏れされる程度のものが大半だった。
それで僕はどんどん本から遠ざかって行くのだった。
医者から「コンピューターにしばらく触るな」と言われて、それでも触らずにはいられなかったが、現実問題として、触っていると頭痛がしてくるので触れなくなった。この「コンピューター」には「ケータイ」も含まれた。
それでできるだけコンピューターに触れない。という生活をしばらく続けているうちに、ふとなんの前触れもなく、「本屋さんに行きたい」という感情が生まれて来た。
今でも決して「本屋さん」に行ってないわけではない。
むしろ他の人よりは頻繁に行く方だと思う。
けれども今の僕は、なにか人生の真実を見つけようだとか、すごい発明だとか、そういうもののために本屋さんに行こうという意識をまるで捨て去っていた。
仕事は、いまのところ上手く行っているし、欲しいクルマやカメラも買える。
行きたいと思う場所は、世界中どこであっても行くことが出来る。
それなのに、いざなにか行動しようとすれば、やるべきことはうんざりするほどある。
そういうときに、のんびり本なんか読んでいられない。
Twitterのように、隙間時間にパッと見て、瞬間的に「へえ」と言って、それからすぐ仕事に戻れるようなツールは理想的だ。
でも、だからこそ、僕はもっと「これは!」という本を探しに行くべきじゃないか。
「こんな本が読みたかった!」と夢にまで出てくるようなすごい本を探し出して、貪欲に知識の海に身を沈めてみるべきじゃないか。
読みたいと思う本はだいたい読んだ、と思っていた。
欲しい「知識」はだいたい手に入れた、と思った。
それで「知識としての本」を読むことをやめ、情報の快楽に身を委ねる方法としてTwitter中毒になっていった。
こんなふうに「本屋さんに行こう」と思わなくなった自分というのは、要するに老いた自分なのだ。
それは知識への意欲を失い、日々の作業に忙殺され、欲望をもっと手近でインスタントなもので満たそうとする、魂の堕落なのだ。
頭痛でコンピューターと離れてから、初めてそれに気づいた。
これは由々しきことだった。
それで本屋さんに行きたいと思って、本屋さんに行ってみた。
「本屋さんに行きたい」と思って本屋に行くというのは、いつものようになんとなく書店を覗く、というのとは質的に違うような気がした。
これは間違いなく老いだと思う。
年を取ると脂っこい食べ物が苦手になるように、酒にすぐ酔ってしまうように、僕は本に酔い易くなった。
意識して「本屋さんに行こう」と思うまで、僕は本屋という場所には足を運んでいたが、そこで「新しい発見」をしてやろうと貪欲に目を皿のようにしてウロウロする、ということはしなくなっていた。
それで本屋さんにたどり着いて、敢えて僕が普段苦手としているジャンルを見てみることにした。
生物学のコーナーだ。
すると、面白い本を見つけた。
生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)
http://www.amazon.co.jp/dp/4061498916/
無生物はどこから生物になるのか、というのは僕が持っている根源的な問いのひとつだ。
これを真っ正面から扱った新書があるなんて、知らなかった。
とりあえずこの本を買った。
それから本屋さんを何軒かはしごして、それでとりあえずは満足した。
他に買ったのは、本田宗一郎の伝記・・・これも何冊も読んだが、また新しい伝記と、小説。
こういう、本当にまとまった考察というのは、ネットにはなかなかない。
せいぜい、奇特な個人のブログが見つかる程度だ。
まだ長時間文章を読むと頭痛がしてくる。
目を酷使するのがいけないのかもしれない。
頭痛がなおったら、少しずつ読んで行こう。
書店にはまだまだ、見てない棚がいくつもある。
そういう棚をしらみつぶしに見て行くのも面白い。
そう思って町に出ると、少しだけあの頃感じたような輝きが戻って来たような錯覚を覚えた。
世の中にはまだまだ面白いことがたくさんある。
たった一度きりの人生じゃ、この巨大な遊園地を到底遊びきれないだろう。
それでもせっかく生まれて来たんだから、キラキラした知識の海のなかで、できるだけたくさんの体験をしてみよう。
そう思った。
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