フランスの記号学者ロラン・バルトに、「声のきめ」というエッセイがある。ここで彼は、フランスの往年のバリトン歌手パンゼラとドイツのフィッシャー・ディースカウの歌を対比させている。その対比は、フランス歌曲とドイツ歌曲、またリエゾンや曖昧な母音に彩られたフランス語と炸裂する子音により分節されたドイツ語との対比でもある。
シューベルトを歌うディースカウの声からは、まっすぐに魂(息・気)が語りかけてくる。そこにはたしかな情感の伝達、表現がある。ところがパンゼラの音楽(例えばフォーレの歌曲)からまず感じとられるのは、子音の間を縫ってざわめく母音たちの戯れ。息ではなく舌、喉、鼻が、われわれの耳に聞こえてくるのである(鋭い又は鈍いエ、張りつめたユ、壊れやすいア、そして鼻音)。
それは、「意味」としてはっきりと捉えうる以前の何か、聴く者を誘惑し悦楽へと導くもの、歌う声における身体(物質性)のようなものである。声によって開かれるこの「意味生成性(シニフィアンス)」の魅力を、もうフランス人でさえ忘れて久しい。分かりよい劇的な音楽がもてはやされるようになって、フランス歌曲は滅びたのだ、とバルトは哀惜する。