CIVICS
H3文系で書いてもらったところ(声が出ないため予定していた討論は中止)大半の生徒が原発を今すぐにでも再開すべきだと書いていました。面倒で、次の時間の宿題をしたかったため書きやすい方を選んだという可能性もありますが、「全面凍結」とした者や世論の沈静化を待ってとした者など3名を除き早期再開の態度表明をしていました。
全般に「軽さ」を感じる文章ではあったものの、これがわれわれのやってきた教育の成果なのだという哀しさを感じつつ(そんなに軽く扱うべき対象ではないでしょう? 場面に応じた対応のできる生徒に育てるのが適当と考えるが、常に明るく楽しく反応するお笑い系・バラィティ系の席捲していたここ数十年の日本社会の世相に合わせてこられたのかもしれません。3.11以降は変わるという話もありますが。)、おもしろくも感じました。
福島第一原発の原子力建屋がふっとんだ映像を繰り返しみて、また、後にようやく明らかにされたメルト・スルーの危機や原発周辺の広範囲に居住していた人々の苦難、更に広範囲にわたって生業をすることを拒否されている人々の困惑と困窮に、まともに反応した多くの庶民は、そのショックから「もう原発は要らない」「早く無くしてほしい」という反応を強く示しています。
これは多分に正当な反応です。と同時に、多分に感情的反応でもあります。
つまり、現時点でいくら安全性を高める技術的努力を重ねていけば、同様のことを繰り返しはしないと説得しても耳に入らない状態になっていると思われます。今回の欠陥は、冷却装置の電源を失うことによって引き起こされ、予備電源の保管場所が問題であり、自衛隊の電源車が電圧が高すぎて使用できなかったことが問題だったわけですから、これを補正するのは容易なことです。更に、冷却水の配管などに地震や津波の影響はあったのかなかったのかを他の原発も含めてきっちり調査していけば、同程度の地震・津波に対しても対応できるということになります。更に、それ以上の安全係数を掛け合わせた強度のものにすることは技術的に可能な話です。
同時に、一般住民に対する情報公開や避難戦略の問題点のチェックも要るでしょう。
事故当時の関係者から集めた情報に基づくドキュメンタリーを読んでいると、東電の自衛隊や警察、首相官邸に招集された内閣危機管理センター・スタッフに対して取った態度は、とても危機に際して組織的に適切に対応していこうとするものではなかったという印象を強く受けます。印象論になりますが、やはり一度、組織の解体が必要なのではないかということを強く感じました。
それはともかく、こういう激しいショックから判断が冷静ではなく一方的に原発廃止論が出てくるのは理解できます。菅直人のような体質の政治家・運動家が見事に素早く反応していたのは理解しやすいことでした。
私の予想としては、生徒の多数もこの線に沿った反応を示すのではないかと思っておりました。その根拠として挙げられやすいのは環境(健康)破壊の観点からであろう。…とすればと考えて、「節約型・省エネ型社会に向けるべきか?」という質問を設定したのでした。
これに対する反応は、理想としては賛成しても、今すぐということは無理があるというものでした。中には、メタンハイドレード開発や米のシェールガス革命について指摘したものもあり、いきなり自然エネルギーというのではなく、天然ガスや石油、石炭を利用した火力発電でも環境負荷の少ないものの比重を高めるということで原子力発電の比重を落としても大きな電力供給の落ち込みをさせず、太陽光発電・風力発電・地熱発電等の開発を急がせるという移行を考えるというイメージを明確に伝えた回答もありました。
他方で「いいえ」とだけ書いていたり、「そんなのどうでもいい」という乱暴なものもあり、教室が訓練の場であるという前提を拒否してしまっている雰囲気も感じられました。民主主義というのは、国民の一人一人が公共的諸問題について熟慮して、対話をするということを前提に構成されています。「戦後民主主義」として私などの世代に示されてきたモデルは全くそれとは正反対の自民党議員や財界ボスなどが陰でコソコソ決めるシステムで、祭事として国会議事堂内で行われる儀式さえ整っていればそれが「民主主義」であり、与党議員は選挙区で支持者との宴席で声を聞く機会を保つことで民の声はすくい上げているというのでした。マスコミの人間は、本質論を隠蔽して「戦後民主主義」ということばを繰り返し使用することによって受け手に暗示を与え、誘導することで危うい安定的均衡を作り上げてきたのでした。
[アメリカウォール街での大規模デモで逮捕者約400人というニュースは、イギリスに続いて高失業率や金融危機の責任も取らない身勝手な金融界への抗議デモが起きているようです。中間層が崩れ、貧困化しているという現象は我が国にも見られる現象で、市場原理主義の当然の帰結ともいえるものです。これは国家が一定水準の医療や介護、教育、保育サービスを保障できなくなり、失業対策や貧困対策も行き詰まる危険性を含んでいます。それを敏感に察知した若者層が反応しているのではないでしょうか。]
上に私などの感じてきた「戦後民主主義」の欺瞞に反発を感じるとして、それに対してニヒリズムに陥ることは得策ではありません。何の解決にも結びつかない。やはり、本来的な民主主義に向けて社会を変えていかないといけないのではないでしょうか。それだけにデマゴーグに注意したい。
だからよく考えてみましょうという訓練をしているのです。「どーでもいい」と心底考えるのであれば、その結果に対しても責任ある引き受けをしてくれさえすればいいと思います。無責任な「原発全廃」スローガンが大きな支持を得て、不細工な20年間原発凍結決定を国会でしたとします。停電や電力供給制限があったとしてもまあ耐えられるだろうし、慣れるかもしれません。しかし、産業はどうなるのでしょう。ゆっくりと省資源の生活スタイル、消費抑制型のリサイクル社会に適応していけばよいのですが、そうではなく早いスピードで生産・販売の中心を企業がアジアに転換していくとき、ある世代は急激に就労機会からはじき出されたりアジアへの出稼ぎを強いられたりすることになります。準備もなく放り出された彼らの生活はどうなるのか。政治はそういったことにも無責任では困ります。しかし、とりあえず「どーでもいい」人は自分がそのような運命に巻き込まれても文句は言えないという覚悟はもっていただきたい。
節約型・省エネ型社会までは考えていないという生徒の多くも、「電力不足が産業の海外脱出を促進しないか?」という趣旨の質問に対しては、あまり切実な反応はせず、「そう(産業の空洞化)なっても、政府は何もできないだろう」「電力不足が問題になる前にそうなっている。防ぎようのない傾向だ」といった回答が目立ちました。既に起きている事は「所与」の条件でそれを自然なもの、仕方のないものとして受け入れるというわれわれ(じじい)世代でも普通の反応です。
「税制見直しで対応」や「クリーン・エネルギー開発に雇用機会を増やす」ことでいくらかの緩和策は取れると記入している例もあります。もしかすると、われわれが安易に「仕方がない」とか「諦めよう」と口にするのは、単に知識がないだけのこともあり得るのではという感想をもちました。
おそらく日本のエネルギー政策は、これまでの原油供給が政治的に止められた場合の安全保障の視点、二酸化炭素排出規制の観点・環境保全の観点からの視点に加えて健康被害の観点が加わったのは間違いないでしょう。しかし、3つ目は、「危機管理」という観点に移行させることもできるかもしれません。そうなれば、論点はいかに安全保障を高め、それを宣伝や洗脳ではなく、科学的説明から多くの人に説得するかの問題に置き換えることができます。おそらく、エネルギーを大量に必要とする経済テイク・オフをはかるアジア諸国は、どんなに原子力の危険性を説いても原発開発を推し進めるでしょう。そうなれば高度の技術力をもつ日本は、むしろ、その原発の安全性を高める役割を担う方がベターなのではないかという議論もあると思います。また、核廃棄物の処理技術開発という面も真剣に取り組まなければならないし、放射性物質の影響力を下げる技術の開発も日本人ならば得意とする分野です。
また、2つ目の論点も単に地球温暖化・二酸化炭素排出低減だけの問題ではなく、低エントロピー型社会への転換まで指向するのであれば、産業のあり方そのものまで問い直し、都市中心からの転換にまで進んでいくテーマになります。われわれは高齢化社会の問題をどう解決するかという課題にも直面し、高齢化率の異常に高い限界村落の解決に多様な取り組みがあり成功例を見ていくとき、高齢者自身が生産者であり続け、その土地の特産品を支えていくことによって子供をもつ家族を呼び寄せ、後継者を作り出すことで高齢化率を著しく下げている事例に気づきます。多くは葉っぱビジネスのような地域特産品を販売ルートを築くことで成功したり、ブランド米開発や耕作放置田での自然耕法導入で無農薬の付加価値を加えつつ効率化もはかるといった工夫が新規参入者を招いているような事例です。また、低価格競争を回避し、独自の技術力とデザイン力で高付加価値商品を開発した工業部門や職人が大阪から離れ、豊岡や篠山に拠点を設けるといった現象も注目されます。
これは産業の空洞化にどう対処するかに対する一つの答えの出し方でもあります。
原発再開の時期についての回答は概ね早いほうがよいというものです。私は、これに対する一つのデータとして、一番悪いのが凍結したままというものだということを示す、抜き取った燃料棒の冷却費用が高いものにつくということを以前紹介したと思います。それを覚えていた生徒は、上の設問に対する態度から、早期操業再開の結論を導いたり、原発の解体という結論を導いたものと思われます。現実には解体にも多額の資金が必要となり、更には、解体した残骸の長期保管費用が必要です。その費用を税金で賄うのか電気料金に付加するのかの問題も出てきます。
こういった諸々の費用についても冷静な議論と情報公開がまずは必要であり、そうした努力を当然とする社会への転換が必要なのではないかという気がします。
私が菅直人元総理や枝野幸男元官房長官を認めないのは、福島第一原発事故当時、情報を完全に隠蔽したことにあります。彼らの行動を検証するのが困難なほど行政組織の幹部たちの集まる内閣危機管理センターの幹部会議室から抜けてセンター奥の総理専用室に籠もり、原子力安全委員会幹部ら少数の者、つまり視野を狭めて、密室での決定を上意下達で各セクションに十分な理由も告げずに命令していった異常な意思決定にあります。自分たちの能力を過信した危険なやり方です。これについては国会議員は与野党を問わず、責任を明確にしていくべきだと思っています。
こうした決定は、多くの現場の混乱を生み出し、住民の行動に困惑をもたらしています。危機管理では、正確な現状に対する情報提供は極めて重要な要素になるはずです。何のために隠しに隠す必要があったのか。また、アメリカ政府の助言というものがどの程度、首相や官房長官らに影響力をもったのかも明らかにしてもらいたいものです。われらが独立国家の国民であるのか否かに関わる重要な問題です。
判断基準は明確です。科学的事実に基づく、論理的判断であったか否か。それとも感情的な判断や思い込みに基づく判断ではなかったかということです。
そうした情報公開が民主党政権のままでは得られないようであれば、政権交代を再び求めればよいと私は考えます。国民感情に媚びる言動を取ることが国民を大事にすることではないのです。あらゆる瞬間に国民の生命・生活を守るための努力をすることが優先します。
そして、それを後刻、検証できる態勢が作られていなければ、それは後ろめたいものがあると受け止められても仕方のないことだというのが、いやしくも公共性の高い内閣や行政機関の基本的立ち位置でしょう。無論、細々した金の使い道や書面表現などで揚げ足取りをするというのもどうかと思います。少々の事は余裕を持って見ればよいことです。しかし、大きな災害や危機管理に対する対応は些細な事ではないでしょう。(10.5)
おそらく生徒は私に対して「ならば先生あなたはどう考えるのですか?」と聞いてもおかしくないでしょう。原発を維持発展させるべきなのか、それとも全廃すべきなのか?
私は答えられなかったかもしれません。
考えてみれば、われわれオジン世代も、自分が物心ついてから最終的に拠るべき価値というものを明確に意識していたかというとかなり怪しいような気がします。私など幼い頃より柳田流民俗学に馴染み、その新国学ともいうべき先祖崇拝の価値に慣らされてきました。また、それへの反発も通常の人たちに比して強いと思います。
それでも、わが国の伝統的価値に鑑みて原発に対して云々ということはとても言えそうにありません。
ドイツのような「森への指向」のような価値から原発反対を導き出すような強力な価値をもっていない気がします。フランスの根強い近代科学信仰、ジューヌ・ヴェルグ以来の、エッフェル塔以来のとんでもない科学技術へのあこがれから原発擁護をすることもありません。
あるとすれば、単純なアメリカ追従という価値(?)だけ。
野田総理の言動にはその色彩が色濃く表れています。閣僚たちも同じで、安住財務相が嬉々としてギリシア財政難救済のための債券購入を検討するというニュースも不愉快な映像でした。誰の金だと思っているのでしょう。おそらくもしも購入する債券がギリシア政府発行のものならデフォルトで紙くずになりますね(欧州銀行発行のものだとしてもEU解体だと同じ運命。それを避けるために追加引き受けするのだが、そんなに簡単に引き受けていいのか?国民の意思の確認はもっと重く見るべきではないのかと感じた)。何千億円引き受けるつもりかしりませんがそんな余裕が日本にはなく、増税するのではなかったのでしょうか。
ニューヨーク・ウォール街でデモをしている若者たちのような気分になってきました。
話は脱線しています。ともあれ、原発維持に賛成か反対かと問うてみて、自分の中にこれを明確に判断するような基準となる価値が見あたらないのに気づきます。そしておそらく。それは私個人の問題でなく、戦後日本人の共通の話なのではないかという気がします。
今、ショックを受けて原発全廃を叫んでいる人たちも腰の据わった循環型環境社会希求者なのかどうか? うちの娘は自然食品の本格的な愛好者ですが、ぽっとん便所を不潔としていやがっていました。つまり江戸時代のように人糞まで肥料として田んぼ畑に戻す覚悟まではないわけで、流行ファッションとしての自然食品は受け入れても…と少し皮肉な目で見ています。無論これは端的に示しやすい例として挙げているのであって、簡易水洗にしてその後肥料化してもいいではないかなどという議論は関係ありません。
そもそもネットで商品注文する快感や携帯電話の便利さを享受し続けて、なおかつ完全な循環型社会を実現というようなことは可能なことなのかどうか?
ドイツ人の自然愛好はかなり徹底しているし、リサイクル・リターナル運動の徹底ぶりも凄まじいものでしょ。自動車を一定区画内に入れないとなったら本気で取り組み、自転車のための専用レーンも作るし、自転車を持ち込める市街電車や無料貸し出し、乗り捨て自由の自転車システムも普及努力をするし、元々学生はリュック担いでヨーロッパ中を旅する伝統は廃れていなかったし、と伝統的生活スタイルを保ち続けていて、それに対する国民的合意があって、その上に脱原発という態度決定が来ます。
なんとなく、日本人の上っ面だけのフラフラした脱原発の言動とは違う気がしてしまうのです。
じゃあ。「俺は物心ついたときに『鉄腕アトム』が『少年』で連載されはじめ、アトムと共に成長した」と威張ることはできるのですが、実際私はずっと連載雑誌を購読し続け、テレビでアニメ放送が始まったときから見てきた(細かいこというと手塚治虫漫画は、『少女』連載の「リボンの騎士」立ち読みから始まります)のですが、だからといって、単純に科学万能主義を信奉しているわけでもありません。そもそもアトムのエネルギー源って何だったのでしょうね? 原子力に関係あったかなあ? 確か超小型原子炉だったような気がするのですが。
原子力発電は本来絶対に安全な技術だと言い切るには、あまりに酷い、東電などの下請け・孫請け企業の社員に対する使い捨てぶりを知りすぎています。放射線に晒され被曝しても、それを無視してきた長い歴史があるじゃないですか。今回の事故においても同じことなんですが。それを隠してはいけないと思います。以前起こった東海村の原発事故のとき、おそろしいことに素手にバケツで核燃料に触れる水を汲んでいたりしたのが発覚したのでした。ちょっと不正確な表現になってしまいましたが、調べてみてください。ここでも被害に遭った労働者は何次もの下請け関連企業に雇われた労働者でした。北朝鮮のことは言えない話です(あちらはプールに浸かってしまうのでもっと凄い)。
小学生の頃、始まったテレビ放送の多くはアメリカからの輸入作品だったのですが、『名犬ラッシー』とかでオープニングで少年とコリー犬とが芝生を横切ってスイング・ドアを押し開けてリビングに飛び込み、大きな冷蔵庫を空けて1g瓶の牛乳をコップに入れて飲むシーンが毎回繰り返されます。無論、犬は牛乳をコップに入れません。少年だけ。
たいしたこともない建て売り住宅なのに、なんとなくアメリカの庶民の豊かさに圧倒されていました。それから30年、気がつくと日本の新興住宅地にはあのときテレビのブラウン管上に見たような住宅が建ち並ぶことになります。大型電気冷蔵庫も当たり前にあって、コリー犬まで飼っている家庭も多くあって不思議な気分になりました。
当時、いくら文献上で読み返してみても理解できなかったショッピング・モールもそこら中にでき、一発で理解できるようになりました。郊外都市なるものも『孤独な群衆』の加藤秀俊の訳注通りのものとして出現しました。
要するに1970年代80年代日本社会とはアメリカ50年代のコピーだったのです。60年代にちょっと古いテレビ・ドラマの輸入版で見たままを無意識に写し取った風景を作り上げていったのでした。まあ、あちらさんだって、長い間パリの風景を真似たりしていたわけですが。
要するに、思想もへったくれもなくて物まねやってきたんじゃないかと思うわけです。ずっと「そのどこが悪い」と居直ってきたのが高度経済成長期。「現に豊かになって誰もが幸せじゃないか」というわけでした。
でもやっぱり情けないですよ。もう一度「武士道」でも何でもいいですけど、根本的価値から社会のあり方、未来への選択を整理し直してみましょうよ。
[以下の部分は補足説明を必要とする記述になっている。いつか学習させなければならない知識も含まれているので、これはこのままにしておき、後日再び触れたい。]
元和偃武以来武士はもはや戦闘員ではなくなっています。『葉隠』はそんな武士の置かれた立場を徹底的に考え抜いたものでした。死ぬことを本分とする存在が武士だとしながらも、何に向かうべきか指図し土地を安堵してくれる君主はもはや存在しないのです。それについては醒めています。その死の向かうところは無意味です。無駄です。
無常を生きる。
そんな感覚がそこにはあります。同時に自己を無にして、誰かのために尽くすことの尊さの感覚があります。
たとえばこの感覚を基礎にして考えていくとすれば、放射能に汚染されようがなんだろうが、われわれは自分の運命づけられた土地において、子や孫のためにも、住みよい共同体を作ってきたにも関わらず、外的要因がそれを破壊するのであれば、徹底的にそれと戦うしかないという決意につながるような気がします。それ以上書くと私の嫌いな『忠臣蔵』の続編みたいな話になりそうです。この話は止めておきます。