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二院制補足

 今日の授業は、高校標準に比較憲法あるいは比較制度の視点を若干加えたもので、特に落としたものはないように思う。教科書を読み直し、過去問プリントを解いてみるだけで十分理解できるような内容であった。ただ一部の教室で口を滑らせた内容が気に掛かる。
 あまのじゃくの私は、テレビなどのコメンテーターの言うことのかなりの部分が気に入らない。その典型の一つが「ねじれ国会だから」云々という表現がある。
 「冗談じゃない。参議院で半数割れしているからこそ、政治家の出番があると見るべきではないか」と思うのだ。つまり、参院で多数を占め、制度的に保障されていて粛々と政権与党の必要と考える法案を議事進行表に則って提出し、議事進行していくなどというのであれば、それは官僚の仕事であろう。政治家というものは不可能を可能にしようと努力するからこそ存在価値があるのだ。その政治家が心底、国民全体のためや特定の極めて虐げられてきた人々を救済するためにある立法措置をしなければならないと信じるのであれば、彼は、場合によっては悪魔的な手段に訴えてでもその実現を図ろうとするだろう。裏面での取引も含めてありとあらゆる利用可能な手段を用いなければ実現できないこともあるだろう。参議院で賛成票が足りないのであれば、野党議員を各個攻撃してでも切り崩せばよい。それだけの話である。

 おそらくそのような執念は、私には生涯無縁だと思う。あきらめのよさが身上で生きてきた人間だからだ。

 だが、世の中に、鬼の執念でやりとげなければならない種類の課題が存在するということも理解できる。マキャベリはチェーザレ・ボルジアが幸運により君主となり、極めて厳しい姿勢で王権を維持していく姿を、そしてわずかばかりの人間関係の警戒心の緩みから没落していく様子を冷徹に描いている。漫画ながら実によく調べて描き込んでいる惣領冬美『チェーザレ』(講談社)はこれを知るに格好の材料である。大国に挟まれ、か細い自立の道を求めていたイタリア都市国家群の厳しさは、これからの日本という国家の運命とも重なり合わさる。

 ところで父教皇が病死し、自らも病に苦しむ中、政敵と妥協し、新教皇ユリウス二世が誕生する。裏切りと孤独の中疲れ果てたチェーザレは、新教皇によって攻撃を受ける。彼の頭を去来したのは、いくつもの裏切り行為や冷徹な切り捨てであり、罠の数々であっただろう。仮にチェーザレが君主としての地位を全うし、平穏の内に死を迎えていたとしても、彼の内面においては、深い後悔や消え去っていった者に対する哀悼の念であり、自己を糾弾せずにはおれなかったであろう。惣領の作品の進行は遅く、まだまだ先であり、どのように描き込むかは不明であるが、私には、どのような人間の中にもある傷つきやすい壊れやすい部分、やわらかな部分がうずいていたに違いないと想像するのだ。それでもなおかつ政治家には、達成せねばならない課題がある場合もある。

 そして、私にはそういう強い生き方はできそうにないとも思うのだった。むしろ逃げて逃げて逃げまくる方が気が楽だ。
 ただ、マキャベリに始まる近代リアリズムの政治学は、道徳的に綺麗事で語り終えるのをよしとしない。客観的観察とそこから導ける法則性を問題にしていく。

 「それでもなおかつ道徳的でありたい」という決断が政治指導者によってなされるとすればそれはすばらしいことだとも言えるが、彼が民衆のために、あるいはその子孫たちのために、達成しなければならない課題を果たし切れていなければそのことは何の価値もないという態度を取るのがリアリズム政治学というものだというのだ。

 これはわかる人だけわかればよい。庇護者の立場を取りうる子供にはわかる必要はない。親がいかなる犠牲を払い獲物を手に入れ、子に分け与えていようとも、一切の事情を知らずに平和裏にその果実を享受することに専念できる子供には想像することもできない種類の話になる。

 現在の政治家に果たして、上に触れたような迫力があるかといえば怪しい。きれいな言葉で飾られた瞬間瞬間はあるものの、執念として果たすべき課題をもつものか疑いたくなることも多い。しかし、今後世界中が緊張感を帯び、生き残るための戦略的行為が大きな比重をもってくるならば、再び迫力ある政治家の必要とされる時代に突入するだろう。(10.6)

過去問をみておく  国会

 配布した問題プリント1.は、衆議院の優越に関する設問。法律案の審議に関しては衆議院の先議は憲法で決められていない(予算と条約の承認についてはある)。また、国務大臣には民間登用といって国会議員以外から指名される場合もある。アメリカ合衆国連邦議会では厳格に議員資格のない者の出席を原則認めないので、大臣や大統領が議会開催中行動が縛られるということはない。日本の場合、出席を求められる(63条)。
 2.議員特権については次回学ぶ。
 3.衆議院の解散@は7条解散というやつで、ある時期からこういう解釈が通るようになってきた。それまでは吉田内閣のバカヤロウ解散のように、内閣不信任決議をさせて対抗策として衆院解散措置を総理大臣が取るという手続きをしていた。B10日以内に解散か総辞職かを決め、40日以内に総選挙し、その30日以内に特別会招集で総理大臣を指名すると憲法に規定がある。
 Cは誤り。参院の緊急集会の規定がある。
 4.C弾劾裁判の対象となるのは裁判官である。内閣総理大臣には国務大臣の罷免権があり(68条)、内閣は連帯して国会に対し責任を負うので、総理大臣の任命責任を追及されるということは起こる。
 5.@緊急集会の決定は国会開催の後10日以内に衆議院の同意を必要とする。A正解。両院協議会は予算の審議については開かれねばならない。法律案の場合は、衆議院が「開くことを求めることを妨げない」。B国民投票の制度はない。憲法改正手続きのみ。Cそれぞれの議院に国政調査権はある。参院が衆院の同意を得る必要などない。

 6.憲法の規定について問うている。@「最高裁裁判官の任命は内閣が行う」と規定があるだけ。国会の承認など書いていない。A憲法第80条に10年とある。B最高裁規則制定権は憲法に規定がある。77条。国会の承認など書いていない。Cが正しい。
 7.@は選択的夫婦別姓反対の根拠になる。解は@
 8.第58条第2項に@は規定がある。解は@
 9.「仕組みを考えることができる」ということで、実際に日本で行われているしくみを問う問題ではない。「議会には代表されにくい利益」という点に着目して考えればよい。@の主要業界団体は既に現在のしくみにおいて自己の利益を反映してくれる候補者を立てたり、既存の候補あるいは議員に圧力を加えることができる。
 Aのようなクウォーター制(割り当て制度)をとっている国もある。Cフランス地方議会の場合は、より明確に女性候補が人口割合(男女比)を下回る場合、その政党の立候補資格を失わせるような選挙制度を採って女性議員に助勢している。@が不適当で解。
 10.@緊急集会は参議院。A内閣総理大臣の指名は国会の権限。B第70条と71条に規定がある。C副総理の指名は常にあるわけではない。正解はB
 11.@民主党が政権をとってこの手法がとられた。教科書に説明はないが、正しい。A問責決議権は参議院にあり、菅内閣に対して自民党を中心に検討されていたというニュースが一時期よく流れていた。B国務大臣の罷免は内閣総理大臣の権限。C国務大臣には国会議員でない者が任命されてもよいし、参議院議員が任命されている場合、衆議院における表決権はないし、その逆に衆議院議員の国務大臣は参議院において表決に参加できない。正解はB


 他の過去問

国会議員の特権  不逮捕特権(第50条)と院内発言・表決の自由(免責特権・第51条)に歳費特権(第49条)が挙げられる。
 前2つは、歴史的な意味を考えなければ理解できない。それほどわれわれは古い層の上に立っているという認識がないといけないのだろう。王制や貴族支配から脱却した時代の原理なのだ。そして、少し考えてみれば、「アラブの春」などといわれる動きがあり、それは、王制を軍が倒した後の独裁政治に対する民衆の反対運動であり、未だ完成していない状態を意味しているのだ。
 だから、「もう古い」というのは適切ではないということになる。
 英仏の絶対王制が確立されようとしている時代。身分制議会は開かれていた。あるいは開かれることもあった。その場合、王あるいは内閣の議会に対する提案に反対の議員を逮捕してしまえば、増税であれ、開戦決議であれ簡単に議会の支持をとりつけることができることになる。また、実際にそういう動きはあったのだろう。そこで、犯罪容疑を理由に議院を逮捕することは会期中は認めないという原則は意味を持ってくる。
 現在も、議院に対する逮捕令状は慎重に出されているはずだし、会期中の場合、議員の所属する院の議長の許諾なく逮捕はできない。ただし、この意味の理解は薄れ、マスコミが騒げば安易に逮捕する傾向がみえないでもない。逆に、国会議員の中にはそれほど金が必要なのか、詐欺事件や贈収賄事件に関与する人が人口比でいえば多くいることにもあきれる。また、政治権力の怖さが見えにくくなっていて、権力者の起こした戦争にかり出され生命を奪われることも過酷な税負担にあえぐ姿も実感しずらいという面もあるかもしれない。

 院内発言・表決の自由というのは、逆に、身分制議会時代どうなっていたかを知らないと理解できないだろう。中世ヨーロッパでは、議院は、様々な職能集団(ギルド)の代表者で、委任代表ということになっていた。つまり、議会で賛否の態度表明をするに際しては、自分を選出した母体組織の意思決定に従うというものになっていた。勝手に自分の考えで票を投じるわけにはいかなかったのだ。
 それに対して、近代議会は、国民代表の原理を前提にして成り立っている。つまり、議院選出に際して、彼らは国民全体のことを考えてふさわしいと思われる人物に一票を投じるよう薦められ、また、選ばれた議員は国民全体の代表としてふるまうことが求められるというフィクションが設定されている。つまり、議員は、その選挙区の代表者でもなければ選挙に応援してくれた組織の代表者でもないという原理に基礎を置いているからこそ、彼ら議員は自由に議論し、自由に賛否の意思表明できるということになっているのだ。
 したがって、国会の委員会や本会議でどのような発言をし、表決をしたとしてもそれを理由に訴えられることはないということを憲法が明らかにしているということなのだ。
 現実は、そのようには動いていない。議員の多くは、次の選挙でも立候補し、再選されることを期待している。すると、その選挙において彼または彼女を支持してくれそうな選挙民あるいは団体の意向に敏感ならざるを得ない。それはギルドのような明確な所属団体と意思統一の仕組みをもつ状況とは異なるけれども紐付き状態になっているのが現実だということになる。

 歳費特権については、合計3,429万480円/年[議員 130万1000円(月額)議長 218万2000円(月額)と国会議員の歳費、旅費及び手当等に関する法律が決めている。これに議会雑費・文書通信交通滞在費・期末手当を加えたものの平均値]それ以外にJR全線無料(新幹線、特急、グリーン車も可)、航空機無料(月4往復までは無料)、議員宿舎(民間相場からみると格安の値段(新赤坂の場合3LDKで9.2万円/月。相場は50万円/月ほど))といったものも利用できるのでなかなかたいしたものだと言われている。
 国民の負担ということでは、これに議員の公設秘書(2人)の給与なども加わる。会派の人数に応じて議員用自動車も割り当てられる。
 ならば国会議員は贅沢できるかといえば、実際には秘書は10人は必要で、地元の祭りがあればそれなりの負担もするし、細々とした出費があって、新人議員などは赤字だという話だ。それでもなり手はたくさんいて、何代にもわたって世襲しようとするのだから悪くはない商売になっているのかもしれない。
 無給ではいけないのかという疑問に対しては、それでは金持ちしか議員になれなくなるではないかという反論がある。

 地方議員については、無報酬を原則とし、早朝や夕方から議会を開くという制度の国も結構ある。アメリカのいくつかの都市でもそうだ。勿論、何なんかの有給議員が時間の掛かる調査や調整の作業を行う必要もあり、また、交通費・事務経費など実費は支給されることになってはいる。名古屋市長はこの制度導入を主張して市議会と対立している。

 本来、マス・メディアは、議員の果たした役割と受け取る報酬との釣り合いについて取材報道をすればよさそうなものだが、マズイことがあるのだろう。

 アメリカ連邦議会議員の報酬は日本に比べて低いし、大統領を初めとする閣僚の報酬も日本より低いとされている。しかし、彼らの多くは、任期が終われば就く民間ポストでは極めて高額の報酬を得ることになっている。大統領や国務長官の場合、大企業顧問を兼任して、そのそれぞれが破格の報酬を出す。また、世界中を講演して回り、その講演料も極上である。
 日本の江戸時代、老中は経済的にはあまり高い報酬を期待できなかったが、付け届けが高額になった。誰か専門家があの大塩平八郎の役宅の規模の分析をして、大阪町奉行筆頭所与力というものがどれほど多額の付け届けを受け取っていたかの推計をした論文を書いていたが、そういうシステムになっていたのだろう。
 高級官僚の天下りというシステムも上のアメリカ式と江戸式のハイブリッド方式なのかもしれない。

 人間は、金だけで動くものとは思わない。名誉や仕事の面白さ、多くの人の評価によっても動く。それらを一人の人間が一手に受けるよりは、ある者は金、ある者は地位、ある者は名誉、…と分散しているシステムの方が、能力のある当人としては不満はあるにしても、うまく作動するシステムではないかという気もする。(10.16)

国政調査権

 教科書の記述で十分。
 国政調査権は各議院(衆議院と参議院)が別個に独立して行使する権利。
 委員会中心主義により、各議院の委員会を通じて行使される。
 「国政」の範囲は広く、立法・行政・司法を含むが、一般に司法権の独立により現に訴訟係属中の裁判や裁判官個人の資格等には及ばず、また純粋な個人のプライバシーを侵害することはできないとされる。[浦和事件では参議院法務委員会が過去の裁判について、被告人および検察官、裁判官を呼び出し証言を求めた。これに対して最高裁は司法の独立を脅かすものとして抗議。学会で議論が起こった。]

 国会への証人喚問は国政調査権の具体例の一つ。

 参考までに触れておくと、国政調査権が確立したのは英国でクロムウェルのアイルランド征服について議会は調査をする権限があるとしたのを嚆矢とする。アメリカでもワシントン大統領時代に、軍隊が無名酋長率いるインディアン部隊に負けたセントクレア事件について議会が資料提出を求めたことに始まるとされる。米では、冷戦開始時にマッカーシー旋風という事件があった。言動が共産主義シンパ寄りだと避難するもので、敵であるソビエト・ロシアのスパイの容疑があるとして委員会に喚問された。上院のマッカーシー委員会に喚問されたというだけで公職を追放されたり、社会的迫害を受けるようなことが起こる。集団ヒステリーの事例として有名な事件だ。
 映画監督・俳優としてのチャップリンはマッカーシー旋風に巻き込まれ、「赤狩り」の対象となり英国さらにはスイスに妻子を連れて移る。ハリウッドがアカデミー特別賞を与え、復権を求めたのは20年も後のことだったはずだ。映画界においてはマッカーシー旋風を利用して足をひっぱり、のし上がろうとした人間がかなりの数に上った。酷いのは、ラジオのニュースで原稿を読んでいたアナウンサーが自分の名前を見つけ、そのまま別のアナウンサーに交代して去ったというような例まである。後に大統領になったレーガンは、三流のカーボーイ・スターだったが、俳優組合の活動家としてマッカーシー旋風にうまく立ち回ったことでのしあがった人間だった。
 ハリウッドでは、『追憶』『イナゴの日』『真実の瞬間』『グッドナイト&グッドラック』などマッカーシー旋風を題材とした名画も作られている。私の世代だと『追憶』はたまらない情感を持って迫ってくる。本来歌手として一流の人気を誇ったバーブラ・ストランサイトが主人公の女性で、社会運動家である。女学生の頃から働きながら、抗議のビラ配りを続けていた。金持ちの息子で脚本家志望の美青年の役をロバート・レッドフォードが演じる。大学生の頃から注目され、作品が売れ始める。ちょっと変わった女の子に興味を抱いた青年は、やがて激しい恋に陥る。ハリウッドに招かれ、そこでの社交界の中心に夫婦はなる。そこにマッカーシーイズムの嵐が吹き込んでくる。友人の脚本家が反共運動の餌食になり、彼を支援するデモを妻は組織して活動を始めるが、会社の幹部から注意を受けた夫は、運動を止めるように伝える。激しく反発した妻はそれでも押し切ろうとするが、他の妻たちはついてこなくなる。夫には離婚を申し入れ、ハリウッドを離れる。
 それから数年後、ブロードウェイに招かれ、新しい妻と新作の開幕の挨拶のために劇場にやってきた夫は、路上でビラ撒いている分かれた妻の姿を認める。カメラはスローでパンし、音声は途絶える。泣くところだ。分かれた妻はジーンズに粗末なセーターながら表情は生き生きしている。そして小さな子供を連れている。車から夫は離れて彼女に近づいていく。「もしかしてこの子は…」「そうあなたとの子供」と言いつつも、ビラに神経を戻す元妻。立ち尽くす夫は、やがていぶかしげに見守る新しい妻の元へ…。

 私は英語の歌は歌えない。歌詞がだんだん余ってくる。ただ、バーブラの『追憶』だけは歌いたくてたまらなくなる曲だ。

 アメリカにおいても、国政調査権を派手にパフォーマンスとして行った結果が、気に入らない人間を追い落としたり、自分がポストを得たいために密告するといった嫌な行為の手段として利用するということにつながった事例として扱われてきた。
 ただし、中西なんとかのように保守主義の立場から正当化する立場もある。反共運動は正しかったのだという主張である。ウォルト・ディズニーのように共産主義とアニメーションは両立しないと考え、反共闘志となった例もあり、面白い。いずれにせよ、激しく特定の主張や考え方を排除する偏狭さはやはり社会病理的と言えそうである。
 日本の国政調査権の行使は総じてパフォーマンスに走り、実効性がないと評される。マッカーシィズムに陥る危険性は孕んでいるといえそうではある。

 安定した地道な調査を継続できない国勢調査のあり方に対して、北欧などでお馴染みのオンブズマン制度を衆参両院共通に設置しようという提案もある。
 オンブズマンとはスウェーデン語で「代理人」という意味で、スウェーデンでは国会、ひいては国民の代理人として、行政活動の監視、監察を常に行う重要な役職だ。

 スウェーデン国会は通例4人のオンブズマンを任命し、彼らに大きな権限を与え、行政活動の監察を行わせている。4年任期。
 オンブズマンの権限は大きく、いつでも行政施設への抜き打ち検査が行える。オンブズマンの調査に対する拒否はそのまま刑事罰になる。

 市民がオンブズマンに直接申し立てをすることができる。告発も数年に1回あるかないかで、それでも1割、件数にして年300件以上の市民の申し立てに対して行政や国会に警告や申し立てを行っている。

 オンブズマン制度を導入する国はイギリス、フランス、スペイン、ニュージーランドなどに広がっている。(10.20)

倫理面での議論について

 デイベートに対する疑問というのを一部の生徒に説明したことがある。これについてはいずれ丁寧に説明しなければならない。いまは簡単に触れておく。
 おそらく中高の教室にデイベートを持ち込んだという点では私は最も早い部類に属すだろうと思う。そして、すぐに「これは違う」と判断した。また、知り合いに、デイベート甲子園出場の日に発病したというか、精神錯乱を起こした高校生がいて、疑いを強めた。(逆に、女子大生のディベーターにちょっと魅力を感じたという逆の経験もあるのだが)

 確かにあるテーマについて論点を明確にする作業としては、裁判における対審のような形式で論を進めていくというのは能率的な面もあるのだが、場合によってはそれは人間にとって重要な一面を犠牲にしてしまうこともある。ちょうどアメリカ社会がとんでもない訴訟社会に陥ってしまうようにである。
 物事をたとえば「鯨を食べることは悪いことである」という意見か「鯨を肉も油も骨も利用し尽くすことはいいことである」という意見かを対立項としてとらえ、それぞれ賛否の立場を入れ替えて考えてみようという作業は、両サイドから物事を見る機会になるではないかといういい方もできるのだが、「それでキミの本心は」ということになったとき、どうしようもなく自分の意見こそ正しいと拘泥してしまっているではないかという現実の方が気になるのだ。
 鯨や海豚をペットのように見なす人間にとってそれを殺して食べるのは野蛮で残酷という判断しかできない。逆に、捕鯨にロマンを感じてきた伝統をもち、その料理にも工夫を凝らしてきた文化をもつ者にとっては、反対する側のも論理の奇妙さが気になって仕方がない。牛や豚の肉を食べるのは、それらを食用に飼育してきたのだから許されるという論理も、殺して食べることには変わりがない上、狭い畜舎内に閉じ込めて、人間がいろいろ規制を加えて生かしているという行為こそ残酷そのものだという見方だってできるのだ。
 なにかが違うと私は感じてきた。

  『世界屠蓄紀行』などといういい本が出ている。どうやってみても生き物の生命を絶ってわれわれは食料にしている。菜食主義者だって植物の生命を殺しているのだ。だから仏教やその母体となったバラモン教などでは、人間が死んだなら別の生き物になって生まれ変わることを繰り返すという発想が出てくるのだ。輪廻というやつだ。仏教では、動物も植物も人間も同じ次元で仏性をもつとされる。
 会田雄次というルネサンス期の研究者は、キリスト教では人間とそれ以外の生命体との間にランクをつける。そして、神は人間以外の生き物を人間のために造ったという都合のよい解釈をしたがる。更には、人間の間にもキリスト教徒とそれ以外というような差を付ける。こういうことを指摘して、彼がオランダ人の捕虜としてシンガポールあたりで収容所で酷い目にあった体験を記している。オランダ人士官の現地妻のために川からバケツで水を汲まされるのだが、現地妻は男の捕虜の前で平気でまっ裸になって身体を拭くというのだ。これは日本人を人間と見なしていないからできることだろうという解釈であったと記憶している。

 逆に、日本人の側には欧米人には通じにくい無意識の行為がありそうな気がする。鯨という巨大な生き物に、土佐や和歌山の挑んだことのある土地の漁師は特に、ある種の尊崇の念やあこがれの感情を抱いていたのではないだろうか。その偉大な存在を体内に取り入れることには、単に旨いものを食べるというだけではない感覚が伴ったかもしれない。むしろ、この場合、鯨を大切な存在としているのだ。アイヌの熊に対する感情に重ねて見ているのだが、正しいかどうかは自信がない。
 もっとも私のような末端の人間では、ただひたすら一度食べた鯨のおのみの旨さが忘れられないだけの存在になってしまうが。あれはその後食べたトラフグの刺身(テッサ)以上であった。下関・長府にシーズンにまた行かなければと思う。

 それで、「捕鯨に賛成か反対か」はどうなるんだといえば、正直なところ、私にとってはどうでもいい話であるような気がする。捕鯨が禁止されれば死活問題という状況にもないし、反捕鯨運動で活動費支援で潤っている側の人間でもないしだ。そして、横からみていてその対立はデイベートを繰り返しても消えはしないんじゃないかと思う。

 つまり何かの解決にはあまり役に立たないんじゃないかと思うのだ。
 こんなこと言い出したのは、今度、議論をしてもらおうという土曜講座を運営しなければならないからだ。

 実は、流行のマイケル・サンデルにも、うさんくさいものを感じていて、彼が超頭のいい人なんだろうとは思うのだが、何か騙されている気がする。そもそもトロッコが引き込み線に入ると工事している人間が2人いて、彼らが死ぬことになってもトロッコの5人は助かるなんて状況が人生に何回遭遇するというのだ? そういう不自然な設定で真面目な顔して説得できる能力というのは相当なもんだと思う。
 総じて英米の社会哲学にはその手の技法が継承されていて法哲学の演習を受けているときから気になっていた。

 じゃあ。何なら気にいるんだと聞かれると説明がむずかしい。そいつを今度試みたいわけだ。多分、鷲田清一さんが『〈弱さ〉のちから』で示されたような人間理解と関わるものと考えてきた。
 そんなところに出くわしたのが岩田健太郎『ためらいのリアル医療倫理』(技術評論社)だ。この人の議論は徹底して、患者を前にした医師という視点で、そのとき自分はどうするのが正しいのかと自問していく。彼は、「…すべきか」を賛成か反対かの二者択一で考えることを否定する。医療の現場では、程度の問題が重要になる場合も多い。それを丁寧に考えないでイエスかノーかで態度決定を迫るのは医療現場を知らない人間の傲慢だと指摘している。

 また、倫理的判断をし、態度決定をした後でも、そのことにたいするためらいや後ろめたさ、有責性を残している。かつ、現場で働き続けるということはそれらを忘れて作業に没頭するということでもある。そういったリアルな描写を繰り返している。

 多分、ある種の優等生は、どこかの国の権威を持ち出してきて、自分の頭で考え、肌で感じることはしないで納得できるのだと思う。すぐにWHOの倫理規定によるととか引用してくる本がどれほど多いことか。

 さて、どのようなテーマをどのように受講者の前に提示すれば伝わりやすいか。困った。(10.18)

棲み分け理論

 現在、高校「生物」で今西錦司の「棲み分け理論」を習うことはあるまい。それでも彼の指摘は鋭いと思う。「ニッチ」などという彼の用語はいまや経営関係でも当たり前に使うようになっている。要は、適者生存というけれども、生物の環境に対する適応の様態は多様で、かならずしも食うか食われるかの争いではなく、不思議なことに同様の環境内に棲み着いた生物もエサは特定化して競合しなかったり、生活時間帯を夜と昼とで分けていたり、砂地に棲むものがいれば岩場に棲むものがいるといったように共存できるようなことが多いという発見を示したものだ。
 以前にも書き込んだように、生存競争、適者生存というと「弱肉強食」と連想が働いてしまうのだが、環境への「適応」=強者とは限らないのだ。むしろ、環境が激変した場合、弱者の方が適応し、生存率が高かったりするから不思議だ。

 一般に、環境が大きく変わる場合、生存のためのリスクが増えると考えられる。この場合、多様であることが、その種が生き残る可能性を増やすと考えられる。既存の環境に十分に適応的で、それゆえ繁殖した種は非多様になる傾向がある。安定的な環境下ではそれでよいのだが、環境が変動しつつあるときには、全滅の危機につながりかねないことになる。
 日本をとり囲む国際環境が安定的というのが適切でないならば、冷戦構造のシビアさはあってもずっと同じような条件であったときには、それまでの条件下での競争になるので、単純にそれに見合った既にわかっている対応策をより効率的に実行した個体や組織体が成功を収める可能性が高かった。
 グローバル化として語られたアメリカ化した自由競争や徹底した合理化によるコスト・ダウンが成功を収めるとしたのは、こういった条件下での話ではないかと思う。

 それが環境がいつペン死、不安定で不透明になっていくと、話は変わってくる。一見、不合理・非能率・非効率に思える多様性の保持は、リスキーな環境では生き残り戦略としてむしろ有効ということになってくる。[大阪の橋下氏の「大阪都構想」や「二重行政批判」を耳にする旅に違和感を感じてきたのはこのような文脈でのことでもあった。]

 それはさておき、学内での異質分子の存在についてであるが、実はあまり嫌いではない。それは上のような多様性支持に関わるからでもある。
 なぜ真面目でおとなしい優等生でなければならないのだろう。まなけものは当然のことながら総じて成績は悪くなる。趣味に走り、深みにはまる場合も時間的に成績を下げる要因をもたらす。その他いろいろ問題を抱える生徒の方が圧倒的多数派だろう。それでいいと私は大本のところでは思っている。確かに受験に成功する率という話をすれば、不利にはなるだろう。しかし、寿命の延びてしまった時代に生きているのだもの、そんなに急いで結果を出さないと困るということもあるまい。大学やそれ以降で自分に向いた進路を見つけ出した者は、大きく育っている。それでいいのではないか。
 そして、環境が激変するとすれば、それまでに見向きもされなかった才能・資質が新しい環境への適応を容易にすることもあるだろう。そういう萌芽に気づけたならば教師としては幸せなことだと思う。(10.17) 

ニュースの話題から

 テレビのニュースで見たのだが、宮城県の伝統工芸品、「雄勝硯(オガツスズリ)」は600年の伝統を誇る伝統を保ち、国内の90%のシェアーを誇っていた。そこに震災津波である。硯組合の理事長を務める、澤村製硯の澤村文雄社長(63)も自宅も事務所・工場もすべて根こそぎ倒され、彼自身も木の上によじ登ったものの水は首まできて、そこで止まったので助かったという。震災前に比べ、雄勝地区の人口は4分の1にまで減り、現地に残り復興を目指そうというのも3社だけになった。そこで、1つにまとめて融資を受け、再建を図ろうと動いている。
 ニュースでは、4日から東京で始まった、「フランス料理で被災地を応援しよう」という催しの紹介から始まる。被災地の宮城県・塩釜市から参加する、赤間善久シェフの売りは、東北の食材を生かしたシーフード料理に加え、漆黒の硯石を使った皿だと続けられる。

 新たに共同の作業場を作り、材料の調達や製造・販売を一手に手がけることを決め、みんなが戻ってくる基盤づくりに励もうというのが澤村理事長の計画だが、それについては資金が要る。

 それに対して支援の期待をしているのが、災害支援を手掛ける東京のNPO法人「シビックフォース」。理事長が相談をしたところ、知恵だけでなく資金面の支援も行うため今月、投資ファンドを設立することにしていると紹介していた。5億円を寄付などで集め、雄勝硯組合にも支援をしたいとのこと。

 こういうエンジェル・投資家の活動に注目したい。本当は、生徒会などが政府系機関に寄付を託すのはいかがなものかという疑問をもっていた。天下りの温床となってしまっている機関に果たして本来の困窮している人たちを効果的に支援する能力やアイデアなどあるのかという疑問があったからだ。
 さりとて、これからどうなるかわからないNPOを信じていいものかも分からない。しかし、たとえばこのシビックフォースや直接支援活動をするのではなく、様々なNPOへの資金配分の業務をしているジャパン・プラットフォームなどの活動をもっとメディアも報道してくれると助かる。

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