意識ってなんなんでしょうかという提案です
いろんなところで使われていますね、たとえば私はサッカーが好きなのですが
明らかに本田君が入ったことで今までの日本代表になかった「ゴールへの意識」が変わっているのが素人の私にもわかります、普通は見えないものなのにね
また事故や病気でよく「意識が戻った」というような表現を聞きます
どうでもいい話かもしれませんが昔むちゃくちゃ考えたことがあります
親友が自動車事故に遭い「意識不明の重体」に陥りました、心臓は動いていてお医者さん的には「あとは意識がもどるかどうかが問題」という状態が一ヶ月続き、結局24歳という若さで亡くなりました(合唱)
そのときに感じたのが「心臓より意識が重いのか?」という素朴でばかな疑問でした、大事かどうかは科学的には知りませんし、興味はないですが^^
それからというもの自分の意識が今の今どこを向いているかといったことを半年ほど観察しました(変な奴ですねw)一人山にもこもりました(爆)
詳しくは書きませんが、出てきた答えが、意識というものは肉体とか心とかからではなく、どこか違うところからつながっているという結果だったことがあります
後に信頼する修行僧のひとが私に「修行とは意識を変えることだ」とつぶやいた言葉になぜか脳天をぶち抜かれたような衝撃が走ったことがあります、「意識を変える???」
キリスト教の真我意識、そして自我意識、潜在意識、、、、なにこれ??と
たとえば宗教とはとの質問に「そらあ神さんにお願いすることやんかいさ」と思う人もいるでしょう「救ってくれるところ」かも「心のよりどころ」もあるかもしれませんし「宇宙との一体」と思う人もいるでしょう
これってある意味意識の違いと思います、たとえ誰かから学んだとしても意識の違いだと思います、またこの意識の違いにどれが高い低いという意味ではなく、「現世利益でんがな」という意識の人に「総てはひとつなのです」と説いても「アホちゃうか」となります、どちらが上や下ではなくそれがそれぞれの捉え方であってその意識を無理やり「あんたはんは間違ってる!無知?」ではだめでしょうということです(上手く書けません)
つまり幼稚園児に大学の問題は理解できず、その幼稚園児もその進化過程であっていつかは必ず大学を卒業するというだけなので、幼稚園児がだめではありません
だから何回も書きますがこれは私個人の認識です、皆が今こう思わなければならないというような意味合いでもなく強制でもなく私が進んでいるということでもなく正しくもなく間違いでもなく、できれば参考程度に読んでいただければと書いています
その意味ではリーマン信者さんはかつて私もそうだったようにその人の進む過程を魂のレベルで自ら選んで進んでいるのですが、できれば早く進んでほしいといったところです
わたしはこの意識が「大いなる意識」または「ただひとつの生命」「唯ひとつの宇宙」あまり書きたくないですが「神」から繋がっていると考えます
わかりやすく書けば、神や宇宙や仏と呼ばれるものがこのただひとつの生命であり、ここから私たち個々の肉体を通して外の世界を見ているような感じです
前にも書いた?かもしれませんが、どこかで読んだか聞いた話に映画の話があります
主人公が私の映画を私(神の側面)が観ています、この主人公の私が実際にこの世にいる(と錯覚してる?)私です、そしてそれを観ているのが本来の私です、、ややこしい?
で、その映画は私の身体は映りません、私の目線にカメラがあります、こんなシーンの画像ってよくありますよね
本来なら実相の私は分離感もなく無垢な魂の私ですつまり覚者です、その覚者の私が映画があまりにもリアルなのでまるでそこにもう一人の私(個人)が実際に存在しているように錯覚している状態です
その私と私を結んでいる(これも変な言い方ですが)のが意識です
亡くなると肉体は灰になりますが意識(魂)が次の表現場所に逝きます
幽界で天国と思うところへ逝くのも地獄へ逝くのも意識の違いです、魂の汚れ具合ではないです
そして現状の私たちの状態が制約された意識状態です
参照している側の私はこの個人の私に焦点が合っているために、外から入ってくる情報(世界)があるために、分離という波動の生じていない精妙な意識(キリスト教で言う真我)が五感という雑音にかき消されるように潜在意識の奥底に潜ってしまって、個人という制約された意識、つまり自我意識だけが表面に知覚されているということです
そして魂に垢などつかず、どのような人も魂のレヴェルでは純粋無垢な光を放っているのですがこの自我意識がそれを曇らせている、フィルターを通していると感じます
とうぜんこんな話は聞く人によってはトンデモ話ですし、ここにはもっと複雑な説明がいることも事実ですので、、あしからず(笑)
人間の心の中で造り出される観念で宗教や真理を把握しようとするとそこに議論や理論的な考えが生まれます
説明は難しいですが^^
理論的というものは西欧では当たり前なのですが、答えがないものに対して行うものです、んーなんと言うか^^
たとえば私は真理は目の前に在ると感じています、それを観るのが本来の意識状態です、因って真理を示すにはそれだけで事は足りるというか自分自身が観る(体験する)しかないと考えます
そこに理論的な証明はありません、リーマン氏の真理はもちろん示しているでしょう、でも信者には実感として把握できないので理論で捉えるしかありません、理論には好きや嫌いや有名やからとか心の状態からも生まれますし、信者側の意識や過去の経験などによって総て違います
要するに理論的に真理を考える?ようなことができるのかどうか、またたとえば釈迦が「十方無限世界即ち我の身体成り」と実感したことを言葉にして伝えることができるのかどうか、これは言葉を超越した体験だと思います
あらゆる宗教はこの総ての人に内在する叡智(いわゆる神の意識)に因るのではなく、観念として捉え、伝えていかなければいけない(なかった)ところになにか大きなヒントが隠されているように思います
「意識を変える」なかなか困難な問題かもしれませんね(笑)
『その日を境に、私には、私自身の無形の自己と異なるものは何も観えませんでした。そしてその自己の中には、全宇宙が小さな泡のように存在しているのです』マータ・アムリターナンダマ
あ!
すいません、今日から検証という立場を省いていきます
ただ今までみんなのブログというような場所でしたので、このブログは強く私個人のブログではないと私自身認識しています
もし、やっぱりこの検証ブログが抜けないようならまたそれが私のルール違反ならその時点で閉じさせてもらいたいと考えます
もちろん愛する(笑)リーマンさんの話題も時折入るかもしれませんが。。。。
面白いかな?と思ったらおしてください
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いろんなところで使われていますね、たとえば私はサッカーが好きなのですが
明らかに本田君が入ったことで今までの日本代表になかった「ゴールへの意識」が変わっているのが素人の私にもわかります、普通は見えないものなのにね
また事故や病気でよく「意識が戻った」というような表現を聞きます
どうでもいい話かもしれませんが昔むちゃくちゃ考えたことがあります
親友が自動車事故に遭い「意識不明の重体」に陥りました、心臓は動いていてお医者さん的には「あとは意識がもどるかどうかが問題」という状態が一ヶ月続き、結局24歳という若さで亡くなりました(合唱)
そのときに感じたのが「心臓より意識が重いのか?」という素朴でばかな疑問でした、大事かどうかは科学的には知りませんし、興味はないですが^^
それからというもの自分の意識が今の今どこを向いているかといったことを半年ほど観察しました(変な奴ですねw)一人山にもこもりました(爆)
詳しくは書きませんが、出てきた答えが、意識というものは肉体とか心とかからではなく、どこか違うところからつながっているという結果だったことがあります
後に信頼する修行僧のひとが私に「修行とは意識を変えることだ」とつぶやいた言葉になぜか脳天をぶち抜かれたような衝撃が走ったことがあります、「意識を変える???」
キリスト教の真我意識、そして自我意識、潜在意識、、、、なにこれ??と
たとえば宗教とはとの質問に「そらあ神さんにお願いすることやんかいさ」と思う人もいるでしょう「救ってくれるところ」かも「心のよりどころ」もあるかもしれませんし「宇宙との一体」と思う人もいるでしょう
これってある意味意識の違いと思います、たとえ誰かから学んだとしても意識の違いだと思います、またこの意識の違いにどれが高い低いという意味ではなく、「現世利益でんがな」という意識の人に「総てはひとつなのです」と説いても「アホちゃうか」となります、どちらが上や下ではなくそれがそれぞれの捉え方であってその意識を無理やり「あんたはんは間違ってる!無知?」ではだめでしょうということです(上手く書けません)
つまり幼稚園児に大学の問題は理解できず、その幼稚園児もその進化過程であっていつかは必ず大学を卒業するというだけなので、幼稚園児がだめではありません
だから何回も書きますがこれは私個人の認識です、皆が今こう思わなければならないというような意味合いでもなく強制でもなく私が進んでいるということでもなく正しくもなく間違いでもなく、できれば参考程度に読んでいただければと書いています
その意味ではリーマン信者さんはかつて私もそうだったようにその人の進む過程を魂のレベルで自ら選んで進んでいるのですが、できれば早く進んでほしいといったところです
わたしはこの意識が「大いなる意識」または「ただひとつの生命」「唯ひとつの宇宙」あまり書きたくないですが「神」から繋がっていると考えます
わかりやすく書けば、神や宇宙や仏と呼ばれるものがこのただひとつの生命であり、ここから私たち個々の肉体を通して外の世界を見ているような感じです
前にも書いた?かもしれませんが、どこかで読んだか聞いた話に映画の話があります
主人公が私の映画を私(神の側面)が観ています、この主人公の私が実際にこの世にいる(と錯覚してる?)私です、そしてそれを観ているのが本来の私です、、ややこしい?
で、その映画は私の身体は映りません、私の目線にカメラがあります、こんなシーンの画像ってよくありますよね
本来なら実相の私は分離感もなく無垢な魂の私ですつまり覚者です、その覚者の私が映画があまりにもリアルなのでまるでそこにもう一人の私(個人)が実際に存在しているように錯覚している状態です
その私と私を結んでいる(これも変な言い方ですが)のが意識です
亡くなると肉体は灰になりますが意識(魂)が次の表現場所に逝きます
幽界で天国と思うところへ逝くのも地獄へ逝くのも意識の違いです、魂の汚れ具合ではないです
そして現状の私たちの状態が制約された意識状態です
参照している側の私はこの個人の私に焦点が合っているために、外から入ってくる情報(世界)があるために、分離という波動の生じていない精妙な意識(キリスト教で言う真我)が五感という雑音にかき消されるように潜在意識の奥底に潜ってしまって、個人という制約された意識、つまり自我意識だけが表面に知覚されているということです
そして魂に垢などつかず、どのような人も魂のレヴェルでは純粋無垢な光を放っているのですがこの自我意識がそれを曇らせている、フィルターを通していると感じます
とうぜんこんな話は聞く人によってはトンデモ話ですし、ここにはもっと複雑な説明がいることも事実ですので、、あしからず(笑)
人間の心の中で造り出される観念で宗教や真理を把握しようとするとそこに議論や理論的な考えが生まれます
説明は難しいですが^^
理論的というものは西欧では当たり前なのですが、答えがないものに対して行うものです、んーなんと言うか^^
たとえば私は真理は目の前に在ると感じています、それを観るのが本来の意識状態です、因って真理を示すにはそれだけで事は足りるというか自分自身が観る(体験する)しかないと考えます
そこに理論的な証明はありません、リーマン氏の真理はもちろん示しているでしょう、でも信者には実感として把握できないので理論で捉えるしかありません、理論には好きや嫌いや有名やからとか心の状態からも生まれますし、信者側の意識や過去の経験などによって総て違います
要するに理論的に真理を考える?ようなことができるのかどうか、またたとえば釈迦が「十方無限世界即ち我の身体成り」と実感したことを言葉にして伝えることができるのかどうか、これは言葉を超越した体験だと思います
あらゆる宗教はこの総ての人に内在する叡智(いわゆる神の意識)に因るのではなく、観念として捉え、伝えていかなければいけない(なかった)ところになにか大きなヒントが隠されているように思います
「意識を変える」なかなか困難な問題かもしれませんね(笑)
『その日を境に、私には、私自身の無形の自己と異なるものは何も観えませんでした。そしてその自己の中には、全宇宙が小さな泡のように存在しているのです』マータ・アムリターナンダマ
あ!
すいません、今日から検証という立場を省いていきます
ただ今までみんなのブログというような場所でしたので、このブログは強く私個人のブログではないと私自身認識しています
もし、やっぱりこの検証ブログが抜けないようならまたそれが私のルール違反ならその時点で閉じさせてもらいたいと考えます
もちろん愛する(笑)リーマンさんの話題も時折入るかもしれませんが。。。。
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現実には、文字や言葉に絡みつきその人本来の天真爛漫さを識神により覆っている人が多いなあ
「極意とは、おのがまつ毛の如くにて、近くにあれど見つけざりけり」
いろはさん。意見はそれぞれですが共に己が宇宙を爆発させよう。それぞれを高めあう為に。
10-26 20:41:08
10-26 23:34:24
10-27 09:04:31
の三つのコメントを新たに書きました。
まあ、いつものように、スルーされるかもしれませんが。
貴方が一方的に相手に対する幻想を抱き、それをもって高く評価したり、低く評価しても、相手には何の関係も無いことですよ。
伊勢白山道に対しても、貴方は同じことをやってきた。
それが貴方の求道やハートの安寧のために、何の意味があるのでしょうか?
貴方は何度も、私に対して意見してきた。
貴方の基準によれば、それは私に対して法を説いたことになります。
しかし、実態は勘違いや曲解や捏造による難癖ばかり。
それを指摘すると、ジョークで誤魔化したり、悪態をついたり、捨て台詞を吐く。いつもそのパターンです。
仏陀の殺人と自己との比較の件でも、貴方は極めて悪質な捏造を行なった。
これの何処に「法は人を説け」の模範があるのでしょうか?
貴方は知識を振りかざしているだけであり、相手のことをまともに見ないで、粗末にする。
貴方は鬼の首を取ったかのごとく、被った・被らないの件にも言及していましたが、貴方が人を評価する基準は、所詮その程度のものですか?
しかも、具体的にどのコメントが被ったのかの質問には答えない。
仮に被っていたとしても、貴方の再度のコメントの内容のパターンを見れば、貴方自身が相手のことを何も理解していない。
「法は人を見て説け」
人に低評価するのは、つまらんと感じたときのみ。
行蔵は、我にあり、当然相手には、何の関係は、無い。
伊勢白山道での事は、当事者でないハートさんがごちゃごちゃぬかすな。
ジョーク、悪態、捨て台詞だと思えば、相手にしなければよかろう。こちらの感化があなたには、通じないし、ハートさんの言葉も僕は、感心しないそれだけの事なのでは。
ねつ造だとか曲解は、意味が解からんが気に入らんかったら謝る。「ごめんなさい。」それにしても被害妄想がひどすぎるのでは。
法は人を観て説けは、あなたが、自己の正義を押し付けて迷惑に思う方が現実に居るからそう書いただけ。
被ったかぶらないは、前のあなたへの回答。
俺も勘違いしているかもしれないしあなたもそうかもしれない、だから細かく書かない。
俺は、確かに人の事を理解していない、しかしそれはハートさんも同じ事。理解していると称すれば傲慢なだけ。奢れば滅びる。ならばお互いに足元を見なければならない。
当時、ある人物が、伊勢白山道に関する問題に陥っており、私が解決に協力したことがキッカケです。
その後、何人かの読者からも相談を受けるようになり、エネルギー修復のお手伝いをしたこともあります。
そもそも、この問題は、直接的な当事者であるかどうかは関係ありません。
求道という観点から、当事者以外の人が考察するのも意味があります。
被った・被らないは、「霊視能力」という記事の件ならば、時間的に有り得ないこと。
前回の記事のことなら、私が「最初」に書いた複数のコメントは、貴方とは関係ない。
いろはさんの過去記事に関する意見です。
その後、貴方が明らかに私の意見を取り上げて批評したときは、私も名指しでコメントしました。
迷惑に思う人もいるでしょう。
しかし、画一的な手法で誤魔化す姿勢は、私は看過しませんよ。
同じような問題が、伊勢白山道にも存在し、いろはさんのブログにはその問題を体験した人も集まっていますから。
そして彼らは、その伊勢白山道のことを批判しているのですから、当然、自分達が同種の問題を犯したときは、そこに真正面から対峙するのが筋です。
その筋を通さない者が、私のコメントを迷惑に感じようと、それは以前と同じエゴが繰り返されるだけです。
何も解決していない。
方法論そのものは異なっていても、本質は同じですから。
何度も言うようですが、私は強い口調で書くときがありますが、自分の正義を押し付けることは出来ません。それは承知の上です。
それでも私の意見が「押し付け」だと執拗に言い続けるならば、貴方自身の過去のコメントを全て振り返ってください。
おめえさんは、ごちゃごちゃうるさいし、しつこい。カラっっとさっぱり、さわやかに行かれんのですか。本当に長物のように絡む。失礼。
ハートさんは、まだ若者か?。躁が広がり過ぎる。言葉が悪いか、熱くなりすぎるってことよ。しかしハートさんの知識の押し売りは、嫌いだが、熱いハートは、感心する。
まあこの場で議論してもお互いの正義のぶつかり合い。無駄、無駄。
ハートさんとは、直に会って話もしたいものだ。酒が飲めるなら、飲みながらでも良いぜ。
議論に矛盾が有れば、拳で語るのも良し。ただし、僕弱いから、痛くしないでね。♡。あ、冗談は、通じないのでしたね。
いずれにしても、ここの議論は、徒労。
ハートさん、ご自身でブログを造られたら方が良いのでは。
決着をつけたければお前さんの勝ちで良いよ。
「いや〜ハートサンの論理に感服しました。」涙。
「書きたいことを書いている」などと勘違いしている人の話は、私にとって無意味です。
数ヶ月前の話でしたが、貴方は突然、私のコメントに絡んできた。
その後も度々、私のコメントに絡んできた。
そういう時は、基本的に私も反論する形で、お付き合いしますが…。
あと、貴方のような人に、知識の押し売りする気はありません。
私は言ってることの本質は、「各自のハートに照らして、やりたいことをやって、人生を楽しもう」だけです。
あと、地球とか邪気とか地獄の件で、今でも根に持っているのかもしれませんが、
元々、私の例の話は、貴方一人に限定されたものではなく、もっと広い視野で書いたコメントです。
もちろん、貴方の文章も引用しましたが、
昔、なたれすという偽善者の問題を取り上げた時からの累積的なものです。
俺のコメントがくだらなければ引用することもくだらない。無意味な事に意味が有ることを知らない事が面白い。
絡んだのは、霊視の件のみ。後は、あなたの被害妄想。
地球の痛みの件は、少々あなたをカラカッタダケ。
「それは、とてつなく苦痛であり。痛みの上に更に乗る痛み。このまま発狂するのか。それ良し、全てを受け入れた。精神がズタズタに引き裂かれる彼方にその意思が有った。雄渾な意志は、痛みなどモノともせず黙々と、その運行を成していた。」
くくく、偽善者を造るのは、己がプライド。人は、同じ木の実。
まあいいさ。酒が飲めるのであれば、仲良く飲みに行こうぜ。おいらは、あんたが、酒が飲める人で安心したさ。
正し、飲みに行っても絡まないでね。僕、気が弱いから♡。
それは相手がネガティブではなく自分で作りだしてるとも言えますな
いろはさん、調和のとれた良いブログになれと応援してます。ま、自分の学びに障壁になるんやったら気にせずやめるのも自由意識ですさかいに
頑張っておくれやすw
直接、名指ししなければ、後でいくらでも言い逃れが出来る。
たとえ私のことを意識したコメントでなかったとしても、私のコメントに関連する要素が含まれていた場合、私はそれを読み、意見を書く。
当たり前の話だ。
そして、そのコメントに対して、貴方も今度はかなり直接的に反応してくるが、その内容は、更に輪をかけて酷いものになっている。
故に、貴方の言い訳は一切通用しない。
だが元々、相手の話を理解していないため、その「正反対の概念」も、頓珍漢なものになる。
今回のコメントでいうなら、「偽善者」という言葉に対する反応だ。プライド云々と。
そんなことばかり何十回も続けてきたわけだ。
こんなコメントを「書きたいから書く」とは、どれほど己のハートを粗末にしているんだろうと思う。
私も相手のことを誤解するときはあるが、少なくとももっと真剣に相手の話を理解しようという努力はしている。
貴方はどうしても「被害者意識」という言葉で片付けたいようだが、私が言わんとすることは別のところにある。
私に対するレスであるか否かに関わり無く、貴方は私のコメントと共通する話題のコメントを何度も繰り返した。
私が以前、リーマンの背後の地霊や、大国主命やスサノオについて洞察したときも、貴方は数時間後に同じ神々の名前を挙げて、持論を展開していた。
私がその時のブログ記事とは異なる分野の話をした時も、貴方は数時間後には私と共通する話題を持ってきた。
要するに、貴方はブログ主の記事の流れに沿ったわけではなく、私の異質の話題と同じ分野のコメントを書いてきた。
その例が何度もある。
意識するから強力になるのではなく、その際の在り方が左右する。
意識した対象に囚われるなら、確かに対象は強力になることもある。
だが、意識したものを「真に理解」するならば、それは解放への道になる。
理解していない場合、対処法も明確にならない。
そのまま相手が勝手に消えてくれるとは限らない。
ネガティブの原因が自己内部にあった場合、未解決のまま取り残される。
過去の話も止めにしましょう。
正しくても、さまざまな捉え方があります。
お二人とも、素晴らしいお方のようですので
せっかくの、霊格が台無しですよ^^
もう、これ以上 引きずるのは、どうかと思います。
いろはさんのブログなので、いろはさんの判断で削除対象や排除、書き込み禁止にされる事は仕方ないですね。
お忙しい中、お手を煩わせてしまい、誠に申し訳ございません。
「なりすまし」…。
人の名前を利用した人には、正直、怒りはあるが、一方的に責める気持ちにもなれない。
ただ、どうやら私は、常に冷静でスマートで格好良く…というわけにはいかないようですね。
自分が被害を受けたとはいえ、私は最近、自ら狙われるようなコメントを書いていたのも事実。
おまけに今回、管理人さんのお手を煩わせてしまったことも確実。
その恩義もあり、今後はストレートな批判的コメントは止めようかとも考えました。
しかし、猫なで声のような穏やかなコメントは、どうにも書いていて気持ち悪い。ハートが窮屈に感じる。
私は求道精神を忘れての中傷目的のコメントは書かなかった。基本的には。
周りには、単なる罵倒のように見えるかもしれませんが…。
しかし、予定していた原稿の投稿は、最新記事のコメント欄に投稿するのは止めようと思います。
一番目立つ場所ですから。
古い記事のコメ欄では毒舌を吐くかもしれませんが、もし単なる誹謗中傷だと管理人さんが判断された場合は、削除していただいて構いません。
人のふり見て我がふり直せ。私も気を付けよ。
コメントだけじゃ、誰がどんな人かなんて分からないし。決めつけるのも良くないからね。
この記事のいろはさんの気持ちも。。
あまりにも意識を意識してませんでした、「意識を変える」ほんとに簡単なようですが至難の業ですね、無意識も意識ですからね
すべての意識の源泉が神に繋がっています。
優劣に見えるのはAからBを見た状態。
360度から見て初めて何かが分かるものです(これが基本)
正誤・善悪・正邪・・どちらが正しいなんてありえない。正しそう、悪そうに見えるだけ。
その偏った見方をさせる「心」とは3次元感覚のポログラムに過ぎない。
心を見る「意識」が本当の本体。
そっと示すのが無難。
後は本人に懸ける(懸かる)だけ。
他人に出来るのはそれだけ。
みんな自分の人生を抱えているからね。
簡略化すればそれが本質!
いろはさん、ありがとう〜
まったく同感です、この件についてはわたしなりの解釈を記事にしたいと思います^^
己自身の過失を観るに日常生活の中での言動や思念にいつでも、どこでも己自身の過失を自覚したらこれを改めるようにするべきで、人の過失を顧みる暇がなく、たとへ人の過失を見ても、自分もこのような過失が有るのではないか、自らが気がついて無いのでないかと必ず、自分の心、自分の行いを省みて自らを戒め、人の非を責める暇を造っては、ならないと考えます。
振り返ってみれば、道を修める事は、自己に忠恕であることが大事であります。「誠 敬 謙 忍」
Jさん、僕もまだまだです。ありがとうございます。