え~と、二日にわたって同じ話を書いちゃっていいんでしょうかね。
と不安を感じつつ、まいっか。
この話のテーマは、
『個人が仕事をするレベルで見れば価値の低い「簡単な仕事」であっても、事業の仕組みそのものを他社と差別化し、独自の競争力をつければ、「事業としての価値」は低下しません。』
ということでしたね。
ヤマト運輸が競合他社を引き離して独自の地位を築くことができた理由もまさにここにあって(と私は考えています)、「物をA地点からB地点に運ぶ」という、同業者が簡単に真似できる仕事(=その会社の商品)を元に、「簡単に真似できない仕組み」を他社に先駆けて作り上げたことが成功の要因です。
で、その仕組みは何かというとそれは、
①小規模多店舗化
②人材教育(採用戦略含め)
③独自の武装アイテム
この3点だと思います。
他社が続々と参入してきた時、既にヤマトはこれらの3点で他社と明確な差別化ができていました。
もちろん、これら以外にも色々細かい成功要因はいっぱいあるでしょう。
私がヤマトを退職した以降も、色々な施策を打ち出しているでしょうし。
ただ、少なくとも宅急便開始から私が退職するまでの8年間についてはこの3点が需要な要素だったし、これがなければ今の宅急便の成功は絶対になかったと思っています。
①小規模多店舗化
一言で書いてしまうと、あ~、そういうことね、って簡単な話ですが、実際には深~い話がいっぱいあります。
何しろ私の実体験ですから。
宅急便をはじめる時、小倉社長は緻密に事業成功への道筋をシミュレーションしています。
後の小倉社長の書籍である『経営学』にも記述されていることですが、理論上、ある密度まで店舗を増やして宅配荷物を吸い上げる体制を築くことができれば十分事業は成り立つ、という仮説を立て、あとはそれを実行に移すことになるわけですが、ここからがミソです。
何しろ当時のヤマト運輸は経営不振で、銀座一等地に所有していた自社ビルを売却してなんとか資金を捻出し、新規事業の運営に当てていたほど、お金がなかった。
密度を上げるために店舗をたくさん出店しなければならないのはわかっていても、それを実行する元手がないんですね。
「お金がなければ知恵をだせ」
誰が言った言葉か忘れましたが、どこかの経営者の言葉です。
何かを新たに始めようとすると、それを成功させるためには最初はその成功に必要な何かが”無い”のは当たり前なんですね。
”無い”ところからスタートして作り上げていく、まさに”無”から”有”を作るのが経営者の仕事なんでしょうね。
私の知り合いのソフト会社の社長、彼の口癖は、
「いつまでもこんな仕事やってちゃだめだよねぇ~
何か新しい事業始めないと!」
ここまではいいんですが、そのあとに必ず、
「でもダメだよ、資金が無いから」
なぜか彼の弁によると、まとまったお金がないと事業なんて成功しない、ということらしい。
そりゃお金はあるに越したことはないけど、資金があっても成功するとは限らないし、無いからと言って成功しないとも限らない。
実際、私は以前のソフト会社で製品開発のために多額の借り入れをして、みごとに失敗し、それが原因で会社を倒産させてしまいました。
結局は熱意と工夫次第だと私は思いますけどね。
で、話は逸れましたが、当時の金欠病のヤマト運輸も知恵を絞り、目をつけたのが町の米屋さん、酒屋さんでした。
どちらも近所の家に商品を”配達する”インフラを持っています。
ここでまた現代の常識を一旦捨てて、当時の状況を想像してみてください。
今でこそ、街中にはコンビニがあって、そこで宅配貨物を扱ってくれるのはごく当たり前の光景ですが、今から30年前の日本の町の中には荷物を送れる拠点は郵便局以外には一切ありませんでした。
その郵便局も小さな小包は受け付けてくれても、ダンボールに入った大きめの荷物は受けてもらえませんでした。
「運送会社」は一般市民からは遠い存在でしかなく、一般家庭の人が大きな荷物を遠くへ送るには、JR(当時は国鉄)の貨物引受場所に持っていくしか手段がなかった時代です。
そんな時代に、”米屋”や”酒屋”がダンボールの配送貨物の受け付け窓口になる???!!!
自分の自宅まで荷物を取りに来てくれる???
そんなこと、誰も想像などできない、まさに思いもよらなかったことなんですね。
当時、入社したての私は、その会社の新たな方針に従い、支店の若手営業担当者たちと分担して宅急便取次店開拓に乗り出しました。
実際の開拓活動は、当時配属された支店の所在地、大田区界隈の全ての米屋さん、酒屋さんに無差別勧誘訪問を行ったわけですが、これがなかなか大変でした。
「荷物の配達だぁ?ふざけんな!、酒屋が運送屋の片棒なんか担げるわけねぇだろ、出てけ!」
と、けんもほろろに追い返されることも多かったのですが、中には、
「ほ~、面白そうだね。やってみようかな」
というお店もあり、少しづつですが、取次店を開拓していくことができました。
花咲じいさんの昔話ではないですが、人間というのは欲深い生き物ですね。
勇敢にも、先行して取次店契約を交わしてくれたお店が実際に宅配の取次ぎ(発送荷物の受付だけでなく、配達もやりました)を始めると、彼らが想像していたよりも扱う荷物の量はどんどん増えていき、中には本業の儲けを超えるほどの取次量をこなす店舗も出てきました。
すると、その成功を見聞きした、当初は我々を店先で追い返したようなお店も
「取次店をやらしてくれ」
と言ってくるようになりました。
あんなに儲かるんなら自分の店でもやろうか、
という、欲深い考えですね。
「最初に始める」というリスクをとらず、
「隣のあの人がうまくやってるから真似して自分もいい思いをしよう」
ということなのでしょうが、総じてそういったお店は取次ぎを始めても扱い量はたいして伸びなかったように記憶しています。
そのオチは花咲じいさんの教訓の通りです。
そうやって町の中のあちらこちらの米屋さん、酒屋さんで「宅急便」という見慣れない看板(当時は当然CMなどやってませんでしたから)を掲げたお店が増え始めると、運送屋さんがだんだん一般の人達にとって身近なものになり始めました。
それまではトラックの運転手さんはなんとなく怖そうな存在でしたが(実際、そうでした!)、宅配荷物を配達してくれる大和運輸さんの運転手さんは愛想もいいし丁寧だし、ということで、それまでにない安心感も与えることができたんだと思います。(ここは②人材教育で説明しますが)
そんなふうに、大和運輸の「宅急便」が身近なものになり始めると、次にはそれを一気に広める現象が起き始めました。
ここだけはネット社会の現代とも現象は一致しています。
それは「口コミ」です。
「口コミ」という現象は当時も今もありますが、ここでまた現代の常識を捨てて、当時の状況を想像してみてください。
今はネットが普及しており、何かの情報は瞬時にして日本国中に行き渡りますが、当時はネットなんてありません。
「宅急便」なんて言葉はほとんどの人は知らないし、それを知ってもらうためのテレビコマーシャル等もまだやっていませんでした。(そんな金は無い!)
そういう状況下での口コミは、まさにその名の通り、「人から人へ直接の言葉を通じて伝わる」ということです。
「人から人へ直接の言葉(あるいは手紙)を通じてしか、情報は伝わらない」
ということです。
メールやブログ、ツイッターなど、瞬時に1対多(しかも膨大な”多”)で情報が伝わることなど有り得ず、一人の人が他の人に口頭で情報を伝え、その人が別の人に情報を伝え、さらにその人が別の人に伝える、ということでしか情報が伝わらない環境下です。
そんな原始的(ってことは僕も原始人か!)な環境下にもかかわらず、「大和運輸の宅急便」は口コミでどんどん広まっていきました。
これって、今考えるとすごいことですよね!
街中に取次店ができ、個人の荷物の集荷も配達もやってくれて、しかも郵便やJRなら配達に1週間くらいかかっていたのに、翌日には先方に届いてしまう。
その荷物を受け取った人はその配達の早さに驚く。
運転手の態度の良さにも好印象を持つ。
「宅急便って、いいわよぉ、便利よぉ~」
と、主婦達の間で話題になっていったのも想像できますよね。
宅急便が広まったのは、CMで知名度が上がったからでは?、という一般的な想像とは異なり、実際は、「口コミで知名度が上がり、扱い量が増え、収益が向上したので、ようやくCMを打つことができるようになった」ということなんです。
もちろん、CMを打ち始めたことでさらに知名度が上がり、扱い量がまた増える、というその後の好循環にはつながっていったのも事実でしょうが、原点は「口コミ」だったんです。
え~と、あまりに長くなりすぎましたね。
小規模多店舗化で最初の集配体制を整え、人材教育によって顧客に好印象をもってもらえるようになり、宅急便の良さを広めることに成功したわけですが、その人材教育についても当時の常識を覆すような施策を実行していました。
すみません、その続きはまた明日、ということで・・・