【ニュース】 ボルネオ島バリックパパンの日本海軍322基地に「設営班慰安所」 1942年3月11日、中曽根康弘主計中尉の「取計」で開設 防衛省防衛研究所所蔵の文書に記述 高知市の平和・資料館の調査で判明 (つづきあり。文書の写真二枚)。
中曽根康弘海軍主計中尉がアジア太平洋戦争中に「外地」で海軍の慰安所を取りはからったとして、各方面が追求してきました(本人は、いわゆる従軍慰安所ではないと否定してきました)。高知市の平和資料館・草の家は、防衛省防衛研究所に、その問題に関連した資料があることをつきとめ、10月27日午前、その文書の内容を記者会見で報告しました。その文書は、ボルネオ島バリックパパンの日本海軍322基地に海軍の「設営班慰安所」があったこと、それは、中曽根康弘主計中尉の「取計」で「土人女を集め」、1942年3月11日に開設したとをのべています。会見には、同館の岡村正弘館長、馴田正満、岡村啓佐、藤原義一の各研究員が出席しました。
【文書の所蔵先】
草の家の会見によると、その文書は、東京都目黒区の防衛省防衛研究所にあります。同所の戦史研究センター史料室で閲覧できます。請求記号は「⑤航空基地」、史資料名は「海軍航空基地第2設営班資料」(防衛研修所戦史室。表紙をあわせて26ページ)です。
この文書は、海軍航空基地第2設営班(隊長・矢部雅士海軍技師)の工営長(海軍技師)だった宮地米三氏がまとめたもので、1962年4月に、その文書の複製がつくられ、それを同研究所が収蔵してきたものです。
文書の中身は、①同班の動きの大要を書いた縦書きのもの、②その詳細を書いた横書きのメモ、③地図などです。
【文書の意味】
中曽根康弘氏は、かつて、「衆議院議員 中曽根 康弘 (海軍主計大尉)」の名で「二十三歳で三千人の総指揮官」という題名の文章を書いています。松浦敬紀編著『終わりなき海軍』(文化放送センター。1978年8月30日)の90-98ページに載っています。
これに、つぎのようなことを書いています。
・ 海軍主計中尉だった1941年11月26日、設営隊の主計長を命ぜられた。部隊を編成し、11月29日に出航した。目的地は、フィリピン、インドネシアだった。
・ 12月8日の開戦と同時に、「わが船団」は、ダバオに突入した。早速、飛行場設営の仕事が始まった。
・ その後、バリクパパンに進入した。
・ 「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。………」
この文章の「慰安所」について、中曽根氏はジャーナリストに質問されてきました。
中曽根氏は、それは、いわゆる軍慰安所ではないといってきました。
しかし、こんどの文書には、中曽根氏が「苦心して」「つくってやった」慰安所が、中曽根氏が「土人女を集め」て日本海軍の基地内につくった日本海軍の慰安所だったことが書かれています。
【文書の内容】
縦書きの文書の内容は、以下のとおりです。●の所は活字が見つからなくて打てない所、[]の中は記者の注です。(原文は略字もありますし、読み違いもあるかもしれません。引用する場合は、原文を確かめてください)
第二設営班 矢部部隊
一、編制
隊長 海軍技師 矢部 雅士
工営長 〃 宮地 米三
軍区長 海軍々医大尉 平 敏郎
主計長 海軍主計中尉 中曾根康弘
通信長 海軍兵曹長 宮西
職員 亀本技手始め 別記の通り
徴用工員 約二、三〇〇名
兵員 看護兵長 主計兵曹 通信兵等約四〇名
二、装備
1、主機械
一〇屯 八屯 六屯 五屯等の各種ローラー各輸送船
毎に積込
自動車 日産トラック 豊田トラック
大発(上陸機材運搬用)
ヤンマー(〃 )
発電機(一〇KW)
水槽車
ヤンマージーゼルエンジン
ウインチ動力付
杭打機
自転車
潜水道具一式 井戸掘機 給水パイプ等一式
トランシット、レベル、ポール箱尺等測量用具一式
ショベル、鶴バシ、ハンマー、斧、鋸[のこぎり]等土工用具一式
鋸 鉋[かんな] 等 大工道具一式
フイゴ 金敷、其他[そのた] 鍛冶道具 一式
ホースイ用具
2、材料
油類、ガソリン、重油、泥油
砂利、川砂、各輸送船下積
セメント、組立家屋用 合掌 パネル
防虫網、蚊帳、穴ドラム缶、洗面器、風呂桶(小判型)
ローソク 携帯電気入
●[「飛行」の印]場滑走路整備用 鉄板
波形鉄板 天幕
木材類、電柱、仝腕木 丸太
鉄筋 釘 等
3、糧食
職員及工員分として約二、五〇〇名分二ケ月分積込
軍医長 約二、五〇〇名分の医療準備
主計長 糧食の外戦地にて使用すべき軍票を
準備する
5、設営後の状況
ダバオ上陸設営出航迄[まで][一九四一年の]十二月二〇日-一月一四日迄[一月十四日まで]
二五日餘[よ]の短い忙しい日々であった 整備出来次第
攻撃に取かかつた状況で休息の暇がなかった
第二次進出も後発し来多[きた] 朝日山丸 金那摩山丸 日帝丸
等に工員約六〇〇名及設営機材を搭載し来多[きた]ので
そのまゝ進出した次第であった ダバオは邦人二〇、〇〇〇余
カンキンされて居[い]て占領と仝時[どうじ]に釈放され設営に協
力して呉れ多[くれた]
バリクパパンでは●[「飛行」の印]場の整備一応完了して攻撃機による
蘭印[オランダ領東インド]作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風
で又[また]日本出港の際約二ケ月の旨申し渡しありし為
昄心矢の如く[帰心矢のごとく]氣荒くなり日本人同志けんか等起る
様になる
主計長[中曽根康弘・海軍主計中尉]の取計で土人女を集め慰安所を開設氣
持の緩和に非常に効果ありたり
6 所見
一 急速に取集めた機械類の為か其[その]當時の実力
の不備の為か新品の機械なるにも拘[かかわ]らず故障続
出、上陸して●[「飛行」の印]場に運搬する途中にて故障し相当苦
しむ
ダバオに於[おい]ては土民は排他的眼にて我方に対して居[い]たので
不安があつたがバリクパパンにては非常に好意を持つて
接して呉[く]れ 協力して呉れ多[くれた]
横書きのメモと地図から読みとれることは、つぎのとおりです。
海軍航空基地第二設営班の任務は、フイリッピンのダバオ、ボルネオのバリックパパンに「敵前上陸」して、飛行場、居住施設の整備をすることでした。
同班は、アジア太平洋戦争開始(1941年12月8日)の前の11月29日、呉軍港を出港しました。
まず、12月20日、ダバオに上陸して海軍313基地に陣取ります。
「313基地(ダバオ) 作業」の項目に「慰安所 組立家屋建設」の記述があります。
同班は、313基地に1500人を残して、その他の人員で、1942年1月24日、バリックパパンに上陸し、海軍322基地に陣取ります。
「322基地(バリックパパン) 作業」の項目に「(設営班用)→慰安所(組立家屋)建設」の記述があります。
1942年3月11日、晴れ、「慰安所(設営班)開設」の記述があります。
「322基地(バリックパパン) 完了時の状況」と題するバリックパパンの海軍322基地の地図に「設営班慰安所」がえがかれています(写真は、その地図と、それをアップ=次ページに掲載)。
これを見ると、「設営班慰安所」全体は垣で囲まれていて、組立家屋、接収した民家、天幕、トイレがあることがわかります。
【草の家の主張】
草の家は、この日の会見で、中曽根氏の軍慰安所への関与の件は国際的にも問題視されてきたものであり、中曽根氏に、この問題の全容をみずから明らかにすべきだと働きかけていくとしています。
【その他】
なお、東京都目黒区中目黒2の2の1の、防衛省防衛研究所戦史研究センター史料室については、以下の同研究所のホームページでごらんください。
この文書は、一部を除きコピー可となっています。ただし、コピーが届くのに3週間ほどかかることがあります。
http://www.nids.go.jp/military_archives/index.html
(文責・藤原 この記事についてのお問い合わせは bqv01222@nifty.com )
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