日本人ほどテスト(検定)やマニュアル好きの国民もそうそうないのではないか。資格試験や入学試験はある意味で仕方のないところがあるが、それ以外に、語彙力検定とか、文章能力検定とか、○○検定がどんどんできていく傾向にある。

いわゆる「お墨付き」というものが欲しいのは理解できなくもない。しかし、だれがどんな基準でそのテストを作ってそのお墨付きとやらを与えているかを考えてみると、とたんに鼻白んでしまう。何のことはない、財団法人とやらの元高級官僚の天下り先が多く、それらの方がたが一体どんな革新的なお仕事をされてきたのかも分からないことが多い。

もしも、神がいらっしゃるなら、私は神の前でテストされても、それをうべなえるだろう。そして、私を「希望」として育ててくれた両親のするテストならば、謹んで受けてもいい。最後には私の家族がするテストならおそるおそる受けてもいい。最後のところでは絶対に不合格だろうけれど。

誓っていうが、私はテストそのものが嫌いでも,不得意であったわけでもなく、全く逆であった。

そして、マニュアルである。入試などのテストを仕方なくかいくぐるためのマニュアルであるなら、ある程度は必要性を理解できる。だが、最近では就職のマニュアル、結婚のマニュアルすらあるという、信じられないような時代だ。

マニュアルによって作られたものは、均質化してしまう。そもそも、そのためにあるのだから。工業製品ならそれが求められるだろう。だが、人材とか文章のようなものは、あくまでも均質化とは逆のものが求められている。文章もまたしかりであり、かつて拙著にも書いたように、「作文ほどマニュアルから遠いものはないのである。」

かつて力道山というプロレスラーがいた。その在日韓国人の母親が拙い文字で彼に書いたというハガキをある本で見たことがあり、忘れられない。そこには、字の間違いすらあり、作文としてはまったく不合格だろうが、なによりも息子に対する母の本物の愛情が表現されていて多くの人の心を打つ。文字や漢字の間違いなどは二の次のことであり、文章とはそのようなものだろうと私は強く思う。二の次のことばかりあれやこれやと詮索することで、心が失われてしまう作文指導があるとすれば、それはひどすぎるというものだ。

まして、千年以上の伝統のある言葉や文章に、偉いお役人さんのお墨付きなんかいらない。余計なお世話というものだ。私たちは人間なのだ、動物でもロボットでもない。もっと人として堂々と生きよう。そして、その力を与えるための学校教育ではなかったのか。