Hatena::ブログ(Diary)

誰が得するんだよこの書評 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2010-05-03

「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたら

どうなるんだろう。

というわけで、ニーチェ「善悪の彼岸・道徳の系譜」の解説です。ニーチェ哲学政治学をやるのなら必読だと思うのですが、いかんせん文学的な表現が多すぎて何を言っているのかよくわかないと投げ出す人もいるんじゃないですかね。というわけでニーチェの思想で一番使える「相対主義」にしぼって説明します。


通常の哲学ニーチェ哲学の違い

哲学形而上学とも呼ばれています。メタフィジカルな学問だというのです。つまり物理的・現実的(フィジカル)なことにたいしてどのように人間が取り組むかという、現実(フィジカル)より上位(メタ)の構造・ルールについて研究するのです。たとえば、人間の肉体がどのような仕組みで動いているかというのはフィジカルな話ですが、人間はどのように生きているのか・どう生きるべきなのかというのは、メタフィジカルな話です。

さて、ニーチェがやっているのは通常のメタフィジカルな話ではありません。そのようなルールがなぜ生まれるのか・ルールを支配しているルールとは何なのか、という話なのです。いってみればメタ形而上学です。


なぜ人を殺してはいけないのか

たとえば「人を殺してはいけない」というルールについて考えます。「人殺しは絶対的な悪だ」「法律で裁かれるからやめとけ」「殺人者はキモい」「自分が殺されてもいいのか。社会にとって殺人は迷惑なんだよ」などなど、いろいろな意見があるでしょう。しかしこのレベルで善悪を議論しても絶対に決着はつきません。たしかにこれらの意見は常識的であり、市民の良識にかなう立派な主張です。しかしこう反論されたらどうでしょう。

「人殺しは絶対的な善だ。おれはそう信じている」「法律で裁かれたっておれは別にかまわない」「殺人をキモいと思うやつもいるが、おれはそうは思わない」「逆に社会の常識は殺人者にとっては迷惑だ」

こんなことを言ったら、ドン引きされるでしょうし、議論の最中においては「そういう考え方は間違っている。キチガイもほどほどにしろよ」という人格攻撃がはじまるでしょう。しかし、そういう人は殺人を肯定する論理を決して崩すことができません。ただ相手をキチガイだと罵ったり、根拠も提示せずただただ間違っていると否定するばかりです。

ここは重要なポイントです。要するにどちらも「自分がそう思っているから、自分の意見は正しいんだ」と主張しているだけなのです。つまり議論をしているのではなく、自分たちの信念こそが正しい・自分たちが信じていることこそが《真理》だと宣言しあっているだけなのです。要するにこれは自分たちの《信仰》を相手に強要しているだけなのです。


議論に見せかけた《信仰》VS《信仰

一見議論をしているように見せかけて、実は《信仰》や願望を垂れ流しているだけ、というのはひどく滑稽です。野球にたとえるなら、試合をしていると見せかけて、実際はお互い選手宣誓しあってるだけという状況です。言葉のキャッチボールはおろか、そもそもゲームのルール自体をよくわかってません。感動的な選手宣誓をすれば、それがそのまま事実となり、自分たちの勝利につながると素朴に信じているのです。

困ったことにこの野球にはジャッジがいません。いるのは観衆だけです。これらの観衆は、より自分たちに都合のいいスピーチをしたほうを「勝者」にしようとします。選手は野球もせず、ただスピーチしているだけなのに、どうやって「勝者」を決めるというのでしょう? 

答えは簡単です。気に食わないほうを暴力でボッコボコにするのです。

殺してしまえば「死人に口無し」というわけです。狂人のレッテルを貼って社会的に抹殺するのも同じです。そうすれば、自動的にもう一方が不戦勝となります。もちろん、この乱闘騒ぎに選手自身も参加しています。「野球しろよお前ら」とツッコミをいれる人は一人もいません。歴史上初めてのツッコミは、ニーチェが行った道徳批判ですが、その声はあまりにも小さいので、今も世界各地でこの乱闘騒ぎは続いています。


信仰》を自覚し、《真理》を相対化しよう

「人を殺してはいけない」というのも、やはり《信仰》にすぎません。その《信仰》を世の中の大多数が共有すると、《真理》だとされます。しかし、実際はその教区限定の《真理》なのです。教区の外には、異なる《信仰》をもつ人だっているのです。信者たちは、異なる信者を批判するとき口々にこういいます。「自分たちの言っていることこそが《真理》だ。だって《真理》なんだから」。そして相手を異端者だと侮蔑します。

しかし同時に異端者というレッテルを貼られた人も、相手のことを同じように異端者だと思っているのです。そして自分たちの《信仰》こそが《真理》だと疑わないのです。

もうここまでくればお分かりでしょう。ありとあらゆる《真理》の起源は、そう信じているという《信仰》です。《真理》とはその定義上、絶対確実100%永久不変的に正しいもののはずですが、実際はある教区の中でそう信じられているだけです。絶対確実100%永久不変的に正しいから、絶対確実100%永久不変的に正しいのではありません。「絶対確実100%永久不変的に正しい」と信じて疑わない信者たちがいるからこそ、その教区の中で、絶対確実100%永久不変的に正しい、ということになっているのです。


《真理》性を議論するのは、政治ゲーム

通常の哲学では《真理》を相対化できませんでした。多くの哲学者は、あるテーマを与えられるとその《真理》性を熱心に議論してきました。それがいかに正しいか・正しくないかの議論を続けることによって、その《真理》性がはっきりとわかるはずと純朴に信じていたのです。

しかし悲しいことに、どちらの主張も、それが自分たちの《信仰》から生まれていることに気づきませんでした。結局この議論は、論旨とは関係なく声の大きな意見が勝ち残るという、きわめて政治的なゲームとなりました。

学者の間でもこうですから、実際にそれが社会的な議題となったときは、完全に政治ゲームとなります。自分たちとは違う《信仰》をもつ相手を異端として排除し、自分たちの《信仰》を唯一の《真理》だと偽装するパワーゲームです。その《信仰》が正しいから《真理》となったのではありません。その《信仰》がほかの《信仰》を踏み潰す権力を持っていたからこそ、《真理》となるのです。


《真理》を捏造するルールを議論すべき

さて、《真理》性を議論するのが結局は政治的なゲームにしかならないとするなら、メタフィジカルな学問に意味はあるのでしょうか? どんなにそれらしい口ぶりで議論しても、《信仰》のなすりつけ合いにしかならないのでは無駄ではないでしょうか? そこでニーチェはこう考えます。ならば、信仰》がいかにして一般的な《真理》へと化けたか、その過程を研究するべきだ。《真理》がいかにしてでっち上げられるか、そのルールを議論すべきだ。

《真理》がどのような層にたいして都合よくできているかを調べれば、その起源がわかります。つまり、どんな信者たちの《信仰》だったかがわかるのです。さまざまな道徳を研究し、その系譜をたどることで、どのような《信仰》が《真理》へと化けやすいかもわかるでしょう。


権力への意志

権力者が、いかに自分たちの《信仰》を《真理》へと転換させ政治ゲームに勝利してきたかを理解するのは、とても重要です。他のゲームの参加者の行動が読めれば、自分に有利なようにゲームを進めることができるからです。黒い考え方でいやなのですが、誰もが好むと好まざるに関わらず、この政治ゲームに参加しています。「なにかを正しい」と考えていたら、それがすでに政治ゲームの参加表明です。たとえば誰もが《真理》だと思っている「人を殺してはいけない」という考え方は、殺人者(軍人を含む)には当てはまりません。そんな例外を認めたくない人達は「人を殺してはいけない」をより《真理》らしく偽装するために、例外を抹殺します。同類を集めて組織を作り、社会的な権力を握って、異端者を排除しようとします。逆に異端者のほうが組織力で上回り、自分たちのほうが抹殺されたりもします。共同体内部の小競り合い、国家規模の戦争、宗派同士の対立……これらは正義のための闘いだ・《真理》のための必要悪だなどと紹介されますが、結局は政治ゲームです。

この政治ゲームはそのゲーム性を意識するだけで、ある程度うまく立ち回れるようになります。それがどんなゲームでも、ルールに無知な人間は利用されるだけですから。

ニーチェは、政治ゲームで優位に立ちたいという欲望を「権力への意志」と表現しました。この「権力への意志」を弱肉強食の非倫理的な概念だと批判する人もいますが、本来「権力への意志」はそれが善いか悪いかといった道徳的な話ではありません。むしろ「権力への意志」を持ち、政治ゲームに勝った《信仰》だけが《真理》となり、善いとされるのです。この意味で「権力への意志」は、善いか悪いかといった対立の向こう側(善悪の彼岸)にある事実と言えます。


政治ゲームの功罪

さてここからはニーチェの思想に対する私の意見です。ぶっちゃけて言うと私はニーチェ的な思想は好きでありません。「人を殺してはいけない」という道徳が単なる《信仰》だなんて、吐き気がするほど感情的な反発を覚えます。それに私には政治ゲームの勝者があまり幸福そうに見えないのです。自分がそんな黒いゲームの参加者だなんてことは夢にも思わない、頭ん中お花畑の人間のほうが幸福なのかもしれません。またいいように利用されてるだけの人、誰かの手のひらの上で踊らされているだけの人だって、案外楽しくやっているかもしれません。(カート・ヴォネガット「タイタンの妖女」参照)

政治ゲームの弱者でも、自身の《信仰》の中に幸福を見出すことができます。キリスト教のように、政治ゲームの弱者のために作られた《信仰》はたくさんあります。個人の人生の中では《信仰》が政治ゲームと相克するのです。《信仰》をもとにした妄想ゲームが政治ゲームを乗り越えることだって十分ありえます。

妄想ゲーム:政治ゲーム = ニュートン力学量子力学 と対比するとわかりやすいかもしれません。現実は全て政治ゲームです。「リンゴが木から落ちる」というニュートン力学的な現象だって全て量子力学に従います。しかしいちいちシュレディンガー方程式をときながら生きるのが超絶面倒くさいように、政治ゲームを意識して生きるのはしんどいし面倒くさいです。大衆の《信仰》にとけこんで、一緒に妄想ゲームやってるほうが楽だし、気持ちよく生きられます。あたかもニュートン力学で日常のほとんどの問題が解決してしまうように、妄想だって日常では「使える」道具なのです。むしろ妄想ゲームにこそ、ぐちゃぐちゃに絡み合った政治的対立の解があるような気もします。(山本弘「アイの物語」参照)。


妄想ゲームと政治ゲーム

政治ゲームに自覚的に生きるのも、あえて無自覚的に生きるのも、あなたの自由です。しかし、妄想ゲームか政治ゲームかという単純な二元論では現実を把握できません。政治的にうまく立ち回るためにあえて愚昧な宗教に入信するという打算、環境をとにかく守りたいという盲信がついには国家や経済を動かすという世界情勢などなど……。

妄想ゲームと政治ゲームの相克をいかに生きるか、というのは思想的に大きな問題ですし、私が小説に期待しているテーマでもあります。




参照

とつげき東北「神話から現実へ!」
相対主義についての簡潔で説得力のある考察です。ただ私はここまで突き抜けられません。

[書評]中学生からの哲学「超」入門 ― 自分の意志を持つということ(竹田青嗣): 極東ブログ
「《真理》性のように議論しても無駄なテーマは考えるな」「自己ルールの再編により個人的幸福を得るべき」というのは本論とかなり近いです。

池田信夫 blog : 偽のニーチェ - ライブドアブログ
本当に相対主義を貫くなら、自己啓発カルトも、ニーチェ自己啓発批判も「権力への意志」からくる強者への反逆という点で大差ありません。自己啓発カルトは、たとえその起源が弱者のルサンチマンからくる奴隷道徳でも、信者の中では《真理》として偽装されきっており、それを批判するのもまた権力への嫉妬からくるルサンチマンとして見えてしまいます。とはいえ自分の立場に合わない人をカルト扱いして批判するのは、政治ゲームのプレーヤーとしてたいへん合理的であります。ニーチェ解釈について大きな異論はないです。

司法への道司法への道 2010/05/03 15:22 初めまして。Twitterでフォローさせて頂いています。
法学をやっていると、哲学が非常に興味深く感じられます。
ニーチェについてはまだ不勉強ですが、さまざまな不確実な要素を除外していくと、人を殺してはいけないというのは信仰であるという考え方も、ある意味で素直であるとは思います。

非常に分かりやすい記事で、興味深く拝見させて頂きました。
これからも、楽しみにしています。

daen0_0daen0_0 2010/05/03 18:45 どうもありがとうございます。
法哲学者の森村進は「自由はどこまで可能か」において、法の根拠をたどっていくと人々が持っている直観であると言っていました。つまりそれ以上なぜそれが正しいのかをさかのぼれない信仰みたいなものですね。そうした直観(信仰)の信者たちの内輪のルールとして法があるというのですが、僕も同感です。

ただいくら法が原理的には相対的なものであったとしても、法学村においてはいろいろと踏襲しないといけない「しきたり」があり、そういった「しきたり」を吸収するには無邪気な《信仰》にくるまっていたほうが得なのかなとも思います。卑近な例ですが刑法の試験で可をとってしまったので、やはりもうちょっと法学を絶対自明のものとして受け入れないといかんと反省しましたw 哲学や思想はたしかに面白いですが平穏な日常を生きる上ではあまりメリットがないかもしれません。

司法への道司法への道 2010/05/03 23:10 そうですね。
法を相対的なものとして捉えたとしても、相対的なものであるという前提でなされる哲学的議論というものは、実定法解釈および法解釈の方法論に応用され、その根底をなしていることは多いと思います。

例えば、憲法においても「人権」論では哲学的議論を前提とすることが欠かせませんし(Dwoikinの切り札としての人権等は有用だと思います)、民法における法解釈論争では、ポパーやハーバーマスの議論が重要な前提となっていることは、有名なところだと思います。

その意味で、私は法学村の「しきたり」というものも、思想や哲学と深く結びついており、むしろそのような勉強をしてからのほうが法学というものはよく理解できるものだと思っています。

ただ、直ちに何かのメリットがあるかというと、難しいかもしれません。
少なくとも資格試験等では、別になくたってなんとかなるということがほとんどだと思います。

権藤権藤 2010/05/04 13:53 安定した環境においては安定した信仰が真理とさしてかわらないけど、急激に環境が混ざり異文化と触れ合う現代はニーチェのように一回まっさらにすることって大切。大切なのは現実と信仰をあわせること。

sickboysickboy 2010/05/04 16:15 今NHKのJUSTICEにハマっているので、大変興味深く読ませて頂きました♪
マイケル・サンデルの話にはニーチェは出て来ていませんが
(これから出てくるのかも解りませんが)哲学と言うのは
必ずこういう議論へ行き着くのかな・・・と。

今までは遠かった哲学の世界も、実は意外に身近なものだったんだなぁ~と
つくづく思います。これから番組を観進める上でも大変参考になりました。
ありがとうございます♪

togetoge 2010/05/04 22:07 で「殺人=駄目」に対する回答(信仰の押し付けにならない)は?wいかにもそれに対する回答があるような題名だなw

dragonsprtdragonsprt 2010/05/04 23:22 >>toge
「人殺しがだめってのは単なる信仰だから、その質問に答えはないよ」


ところで、筆者が
「人殺しは悪というのは単なる信仰」に反発を覚えるというのは、
形而上と形而下の問題を一緒くたにした話であって、
せっかくニーチェを読んでてもこのレベルの意見を言ってしまうのは残念だね。

人間が動物の一種だということは知ってると思うけど、そのことをもう一度想像してみ。


あと、ニュートン力学・量子力学とのアナロジーで
妄想ゲームに政治的対立の解がある可能性があるみたいな結論出してるけど、
妄想同士が妄想的対立を生んでる現状を無視してるのは意図的なの?

たとえ妄想が対立を生まなくても、現実として
政治的利害の無い聖人君子よりも利害のかかった人間が妄想の発案者になることの合理性は
意図的に無視してるの?

あなたの意見とやらは
○○教会に心を奪われた娘に「あなたは私の親じゃない、本当の親は韓国にいます」と
言われた両親は吐き気がするほど感情的な反発を覚えるだろね。

木村木村 2010/05/05 06:44 脳内だけで頭でっかちに考えてると人殺しなんて大したことがないように思えるが、実際人を殺そうとしたら抵抗されるし、殺すという行為自体が気持ち悪いし、死体は汚いしで、人間は生理的に人を殺すことに拒否感をもつようになっている。
戦場のような人殺しが許容される空間で、軍人として訓練された人間であってもなかなか人を殺せないというのが今までの研究で明らかになっています。

人殺しは行けないというのは信仰じゃなくて、人間の動物としての部分で「生理的に受け付けない」というのが正解です。

hathat 2010/05/05 10:34 人を殺しても良いけど、その代わり罰を受けるよ。
て単純なことだと思うんだけどなぁ。

人を殺すと気持ち悪いとか言うのは、その人が今日まで知識や感情、経験をつんできたからでしょう。
例えが悪いですが、生まれたばかりの子供にとって、目の前の人がいきなり溶けて無くなっても気持ち悪がらないでしょうね。それが非常識であることが解らないのだから。

木村木村 2010/05/05 10:43 赤ん坊でも死体の外見や匂い・血は嫌がりますよ。
溶けてなくなるなんていう非現実的な状況ならそりゃ気持ち悪いもくそも無いでしょうけど。
人の死は汚くて気持ち悪いもんなんですよ。その大前提に立たずに頭の中で死をこねくり回すからわけがわからなくなる。

哲学とは哲学とは 2010/05/05 10:49 >人の死は汚くて気持ち悪い。
確かに普段はそう思うかもしれません。
しかしそれは我々がそう思っているだけのこと。
本当にそれがすべての出発点となるべき大前提かどうかは、言えないという風に考えていかなければ、哲学はできませんよ。
哲学とは何となく確からしければそれで良いというものではないです。

bywordethbywordeth 2010/05/05 11:19 人を殺すことは文化的・社会的に許容される場合も多いのだから、実例を出すとわかりやすいと思いますよ。(正当防衛だったり、死刑執行だったり、江戸時代なら「仇討ち」など。「不倫」に対する私刑として認められていたり、戦争中など。大抵、何らかの「社会」で強力にコントロールしていますね。)

木村木村 2010/05/05 11:21 >本当にそれがすべての出発点となるべき大前提かどうかは、言えないという風に考えていかなければ、哲学はできませんよ。

まさに哲学ですね。思考ゲームとしては面白いけど、現実から遊離して現実に対して何の力も持たなくなるという。そんなんでは子供の質問に答えることすらできません。

哲学とは哲学とは 2010/05/05 11:25 >子供の質問に答えることすらできない
それはそうかもしれませんね。ただ、相対的な考え方が我々の「常識」を説明できないのであれば、哲学的な議論を受け入れた上で、我々はどうするべきなのかということを考えていくのが大事なのかもしれません。
倫理学等は、その点で考えてみる価値はあるのかもしれません。

とつげき東北とつげき東北 2010/05/05 11:49 参照先に追加していただいた「とつげき東北」です、はじめまして!
ありがとうございます。

ニーチェの道徳の系譜、善悪の彼岸については、岩波を推薦したいです。
木場 深定さんの訳がものすごく強度高いです。

道徳の系譜 http://bit.ly/aktPUw
善悪の彼岸 http://bit.ly/97xF8P

それらが終わったら、
権力への意志 http://bit.ly/bMxSG1
に進むのかなと思います。

とつげき東北とつげき東北 2010/05/05 11:52 ちなみに、「なぜ人を殺してはならないの?」への回答については、このコメントのURLに私が簡単に解説したものがあります。

素晴らしい素晴らしい 2010/05/05 13:24 ニーチェの名前を知ってても、難解に見えるその思想を正しく理解してる人は少なくて、さらにそれを平易な文で他人に説明でき
る人はほとんど希少価値。
なので、この記事には素直に賛辞を送りたい。

ただ、なんでニーチェはこう考えなければならなかったかの背景が入ってれば、もっとポイント高かった。
ニーチェ自身の性格も影響しているとはいえ、思想を好みで選べる平和な現代の日本とは大分事情が違っていたわけで。

て 2010/05/05 14:04 人を殺してはいけないという倫理の根拠が、そこそこ強固だけど絶対じゃない脆弱なものである、と知ることに意義があるのでしょう。

また、生理的嫌悪感は確かに直接人を殺すことを抑止する力にはなりますが、われわれが先進国で生きるための搾取が世界のどこかで人を死に追いやっている「間接的殺人」はまるで抑止できない。
「人を殺してはいけない」というフレーズの普遍性を担保するには、生理的嫌悪感の効果は局所的、限定的で、両者には大きな隔たりがあります。

daen0_0daen0_0 2010/05/05 15:47 >司法への道さん
>民法における法解釈論争では、ポパーやハーバーマスの議論が重要な前提となっている。
知りませんでした! 勉強になります。


>権藤さん
たしかに高度経済成長期の日本なら相対主義の有用性はすごく低かったでしょうね。


>sickboyさん
役に立ったようでなによりです。


>togeさん
僕たちが「人を殺してはいけない教」の信者だからです。中には「ヒャッハー! 汚物は消毒だ~」と言ってしまうような異教徒もいるでしょうが、そういった輩は権力をもっていないため、この《信仰》は十分に《真理》らしく機能しています。

daen0_0daen0_0 2010/05/05 16:04 >dragonsprtさん
「人間が動物の一種」だからなんなのかよく分かりませんが、dragonsprtさんは進化心理学的なアプローチで道徳をとらえているということでしょうか?
つまり、「同族殺しに精を出す利己的な個体」は淘汰され、「同族に愛と友情をもつ利他的な個体」のみが生き残った。だからヒトはヒトを殺さないのだ、と。
しかしそれは、人が人を殺さない理由にはなっても、人が人を殺しては《いけない》理由にはならないように思います。つまり、「どうであるのか」と「どうであるべきか」の違いですが。もちろん、人が人を殺しては《いけない》という規範的な命令の起源が、そうした適応上の合理性にあることは認めますが、それだけで規範的な議論が終るわけではないでしょう。
間違っていたらすみません。

「妄想同士が妄想的対立を生んでる現状」については、ジョン・グレイ「アル・カーイダと西欧」などの書評で述べたので本論では省きました。
http://d.hatena.ne.jp/daen0_0/20100427/p1

daen0_0daen0_0 2010/05/05 16:15 >木村さん
最近の脳科学では木村さんと同じような立場で道徳を説明しています。
(脳科学者)マイケル・ガザニガ「脳のなかの倫理」では、ミラーニューロンと呼ばれる脳内の神経について解説しています。
ミラーニューロンは他者の感覚を「自分の感覚」として認識してしまうので、他人が痛がっているとき実際に自分も痛く感じるそうです。この共感器官があるため、僕たちは「他人が痛がることはしない」という利他主義を利己的に体現することができます。殺人ほどの苦痛なら、脳内のミラーニューロンも「おい!やめろって!めっちゃ痛いから!」と共感し、結果として「生理的に受け付けない」わけです。

脳のなかの倫理 / マイケル・ガザニガ
http://d.hatena.ne.jp/daen0_0/20100327/p1


>hatさん
赤ちゃんにもミラーニューロンが形成されているかどうかで、生理的な嫌悪があるかないかは決まるでしょうね。

daen0_0daen0_0 2010/05/05 16:25 >哲学とはさん
僕も同じく懐疑が哲学のスタイルだと思います。


>bywordethさん
どのような場合に戦争が許されるのか、という問題もまた重要ですね。ただそのようにして倫理/道徳をつきつめていっても、ウォルツァーみたいに煮え切らない見解になってしまう気がしました。

戦争を論ずる――正戦のモラル・リアリティ / マイケル・ウォルツァーhttp://d.hatena.ne.jp/daen0_0/20100425/p1

daen0_0daen0_0 2010/05/05 16:28 >とつげき東北さん
はじめまして! 黒とつのファンです。「超・入門 科学する麻雀」 は買いましたよw 「権力への意志」は今度読んでみます。ありがとうございました。

daen0_0daen0_0 2010/05/05 16:38 >素晴らしいさん
ありがとうございます。ニーチェがなぜ相対主義にいたったのかはよくわかりません。キリスト教の《真理》性を攻撃したのも、単にニーチェの内なる《真理》からすると悪臭のようなものだっというだけで、自分の趣味とは違うというだけで他人の趣味を口汚く罵っている人と一緒ではとも思います。


>てさん
>先進国で生きるための搾取が世界のどこかで人を死に追いやっている「間接的殺人」はまるで抑止できない。
僕もまったく同意見です。具体的には以下のエントリで書きました。

現代SFで学ぶ相対主義
http://d.hatena.ne.jp/daen0_0/20090107/p1

ksknkymksknkym 2010/05/05 20:28 >《信仰》を自覚し、《真理》を相対化しよう
この「相対化」は、どういう意味で使われているのでしょうか?
別の言葉に置き換えるとしたら、何か適当でしょうか?
ご教示いただけますと幸いです。

oo 2010/05/05 20:38 人を殺してはいけないのは法律で決まってるからでしょう。
死刑も法律で決まっているわけですしね。

ぴかちゅうぴかちゅう 2010/05/05 22:31 はじめまして。通りすがりのポケモンです。突然のコメント失礼致します(何か問題がありましたら削除をお願いいたします)。
私はニーチェについても相対主義についても詳しく存じないのですが、彼のいう「政治的ゲーム」(これがニーチェ自身による用語か否かは存じ上げませんが)というのは、些か「真理」の形成過程の説明としては一面的であるように感じました。
確かに「真理」とは最早「信仰」に過ぎないでしょう。しかし、だからと言ってそれらの信仰が通釈不能であるということにはなりませんし、対立した「信仰」同士が一定の同意を獲得することは不可能ではないと思います。その点で「権力への意志」を「信仰から真理へ」というプロセスの唯一の要素として見なしうるのか、という疑問はあります(もっともニーチェはこのようなことを主張しているのかは分かりませんが)。
「信仰」同士の戦いは暴力によって決着するしかない、というのは誤りであり、もしそうだとしたらおよそ何の議論も成立しません。議論によって互いが自由に発話し、合理的根拠に基づいて発言し(「合理的根拠」とは何なのか、と問われればそれについては口をつぐまざるを得ませんが、しかしそれは後で決めれば良いことです)、互いの意見を遮ることなく傾聴し、かつ理性的な討論が行われるならば、「信仰」同士が普遍的で客観的な合意を得ることは可能であると思います。
しかし話はここにとどまらないわけで、そうやって獲得した「合意=真理」は、固定化されれば直ちに暴力に堕することになります。人間理性が完全ではない以上、議論は合意を経ても終結することなく、常に新たな意見を自由に認め、粘り強い対話を永遠に繰り返すことが必要となるでしょう。ここにおいては、最終到達地点としての「真理」には永遠にたどり着けませんが、それでも暫定的な、「今までよりましな」真理が得られる可能性があります。そしてこの暫定的な「真理」は、可謬であることが自覚され、かつそれに対する反論を許すことで、暴力性を緩和(無化ではありません)することができるのではないでしょうか?

あらゆる真理が信仰であることを理由に真理への探求を停止するのは、私には背理としか思えません。真理は彼方に存在しているがたどり着くことが出来ず、我々はそこにたどり着こうとただ永遠にもがく(議論する)だけ、というのが、「真理」の正しい姿なのではないかと思います。つまり、真理は静的状態ではなくて、動的過程として定義するのが適切なのではないでしょうか?

殺人についても一緒で、我々にできることは殺人が善であるか悪であるかについての普遍的結論を得ることではないと思います。我々にできることは、この問に結論がないことを知りながら、議論を只積み重ねていくことだけではないでしょうか?しかしそれは無意味な積み重ねではなく、それは漸進的な進歩であるでしょう。殺人に反対する方々は、人間の不可侵の権利を掲げるかもしれませんし、その違法性を根拠とするかもしれません。殺人に賛成する方々は、それが自己の効用を最大化したり、復讐の自由を主張したりするでしょう。それらは「みんなちがって、みんないい」のではないでしょうか。重要なのはそれらが皆互いを排斥することなく、対話を続けていくことだと思います。その可能性すら否定してしまっては、社会は自壊し、カオスが到来してしまうでしょう(相対主義者の方々にあっては、普遍的な善悪・正義不正に懐疑的になるあまり、それらへの代替案を提示する方々もいらっしゃるようですが、私見によれば、そのような試みは相対主義が巡り巡って超独断主義に陥るか、ないしは否定したはずの当の道徳・正義の議論へと舞い戻ってしまうように思えます)。

aasaas 2010/05/06 01:04 非常に興味深く、エキサイティングな文章をありがとうございます。
これからも更新を楽しみさせて頂きます。
http://swinglike.ojaru.jp/

て 2010/05/06 01:48 相対主義というのもいろんな立場があるように思います。
あらゆる価値観に対して、「すべて平等に意味がない」という悲観的ニヒリズムや、「すべて平等に意味がある」という八方美人的態度は、一番単純なタイプの相対主義です。
しかし、もっとうまい相対主義との付き合い方として「すべて平等に意味がありえた、けれど今この人生では敢えてこの一つを選ぶ」という積極的ニヒリズムもあります。

ちょっと前にノーベル物理学賞絡みで「自発的対称性の破れ」という言葉が話題になりました。いくつかの可能性が当確率に起こり得ながら、そのうちの一つが偶然選ばれて現在に至る、というものです。そこでは、何が選ばれるかではなく「何かが選ばれる」ということ自体に意味があります。
あるいは、この世にはたくさんの女性(男性)がいますが、その誰もを特別に愛する可能性がありえた存在として尊重しつつ、そのうちの誰か一人を現実に愛する、という態度にも似ているかもしれません。

価値観や真理について、あらゆる可能性に思考を巡らせながら、その上である一つを選択した自分を肯定する、ということは可能です。
そこには、素朴な真理の追究(自分が真理と思うか否かに関わらず客観的に正しい真理があるはずだ、とする受動的な態度)を超えた、もっと能動的な態度、強い自己と、狂信に陥らない注意深さがあります。

高晋高晋 2010/05/06 16:53 どんな時代でも信仰が真理へと自然に変わっていき、それ同士がぶつかるということは、
例えて言うならば「今既に発射された弾丸が、その行き先に立っている人に当る」というような自明の事を考えているような気がしてなりません。
それよりも「どうして弾丸が発射されたのか」、つまり人を殺してはいけないと言う観念がどうして一定の集団内の信仰となるのか教えて欲しいです。
タイトルを見て、ニーチェはそのことに関してどのように考えていたのかが読めるのかと思って来ましたが、言及されていませんでした。

まさまさ 2010/05/06 17:14 人間という生物の活動を他律的要因で停止させることは悪です。

以上

daen0_0daen0_0 2010/05/07 16:07 >ksknkymさん
「相対化」とは、絶対的なものではない、程度の意味です。


>oさん
ではなぜ「人を殺してはいけない」という法律があるのか、と問われたらどう答えればいいのでしょうか。

daen0_0daen0_0 2010/05/07 16:19 >ぴかちゅうさん
結論から申せば、まったく同意です。コミュニケーションを通して主観的な《信仰》同士の妥協点が見つかり、その妥協が暫定的なルールになり、《信仰》同士の血みどろ洗脳合戦を回避できるというのは、まったくその通りだろうと思います。
ただ《信仰》同士がかけ離れた位置にあると妥協点はありませんし、妥協するよりも闘争したほうが部分的には得の場合もあるので、その辺りでパワーゲームの出番なわけですけど。

daen0_0daen0_0 2010/05/07 16:39 >てさん
客観的価値が相対化されたので、主観的価値が絶対化されるということでしょうか。ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」の中で登場人物に「神がいなければ、すべてが許される!」と言わせたように。


>高晋さん
それはやはり弱者の強者へのルサンチマンが禁欲的な道徳を生んだからでしょう。強者にしてみれば弱者をいたぶって何が悪い、搾取して当然だ、というわけです。が、弱者にしてみたらこれは都合が悪い。純粋に権力的な闘争になったら弱者は必ず負けてしまうので、その闘争を道徳というゲームで塗り替えます。この道徳というゲームのなかで殺人は「いけないこと」とされ、かくて弱者は強者を《悪い》と道徳的に批難することができます。
ただ道徳の誕生した経緯についてはマイケル・ガザニガ「脳のなかの倫理」やフランス・ドゥ・ヴァール「利己的なサル、他人を思いやるサル」などがより説得力あると思います。


>まささん
そこで議論を止めるのが日常生活においてもっともコストパフォーマンスのいい解答ですよね。道徳の起源なんてぐじぐじ考えるのは非生産的です。

daen0_0daen0_0 2010/05/07 19:24 >aasさん
ありがとうございます。誰かは得するんだよこの書評に改名させていただきます(うそです
が)。

乱咲乱咲 2010/05/07 23:55 記事拝見させていただきました。

「人を殺してはいけない」=《信仰》というのは、
いわれてみると確かにそのような気がします。

まぁ、だからといってどうなのだといわれてみれば、そこで終わりにできるのが悲しいところですが。。。

ぴかちゅうぴかちゅう 2010/05/08 01:51
daen0_0さま
私のような不束者にレスポンドして下さりありがとうございます。
その上で少々疑問に思ったことがあるのですが、「《信仰》同士がかけ離れた位置にあると妥協点はありません」とのことですが、そもそも妥協点があるか否かは信仰の内容に依存するのではなく、議論における当該信仰の主張者の態度に依存するのではないでしょうか。討議が終わりなき動的過程である以上、仮に各信仰の主張者がリーズナブルな根拠を持ち、互いの主張を聴きあうのであれば(そしてそれに則り理性的に討論するのであれば)、「我々の信仰間には妥協可能性がない」というような態度は討議の本性上採りようがないと思います。というのも、かかる態度はそれ自体が「互いの主張を聴きあい、理性的に討論する」という、議論参加者に求められている資格を失っていることになるからです。もしかかる態度が討議において採られることがあるならば、それは討議が失敗したのではなく、そもそもそこに「討議」がなかった、と考えるべきです。それは(語の本来の意味で)議論以前の問題であり、またパワーゲームとはあまり関係がないのではないと思うのです。また単純に考えましても、動的過程であるはずの議論において、静的な「この二つの信仰間には妥協可能性がない」なる結論が採られることは、議論の「本性」(定義)上ありえないことといわざるを得ません。

例えば殺人について討議している場に、突如「私は神であり、私の主張は全て正しい。そして神である私によれば、殺人は全て善である」という(奇妙な)人が乱入してきたとします。討議の場において彼は主張の根拠の説明などを求められることになるでしょうが、その際に彼は常に「私が神だからだ」と主張したとしましょう。このような彼は「非説得的」だと非難され、議論から追い出されることになるでしょう。
ところでこの場合に起こっていることは「信仰間の政治的なパワーゲーム」でしょうか?私はそうではないと思います。ここにおいては、神を名乗る彼の思想は「誤っている」とされるわけではありません。また神を名乗る彼が議場に入れたことからも分かるように、暫定的に鼎立された殺人についての道徳的原理に対しては何人も異議を申し立てることが出来ます。それにもかかわらず彼が追い出されるのは、彼の意見が議論の公的空間において求められる資格を満たしていないと判断されたから、ただこの一点に尽きます(それ故彼が説得的に自己が神であることを証明できれば、彼の意見は喜んで容れられることとなるでしょう)。言わば彼の思想は、既存の道徳からピストルを突きつけられたから断念されたのではなく、議論場に入る際のボディチェックに引っかかっただけなのです。そしてこのボディチェックを行っているのが「道徳」として現に鼎立されている信仰ではないことは、このルールが一切の信仰が議論に入る前に規定されているという仮定からも明らかに察せられます(この点においても、神を名乗る彼の思想が排斥されたのは、単なるパワーゲームのためではないことが傍証されるのではないかと思います)。

このようにして排斥された思想は、しかし死亡宣告を下されたわけではありません。議論場から追い出された彼はそれでもなおあくまで自らが神であると信じる自由を持ちます。そして彼は、議論場以外においては常にそれを誰に対しても主張することが出来るでしょう(その結果彼に友人がいなくなるかもしれませんが、それはここでは問題ではありません)。この時仮に良心的な友人が「君の意見は説得的でない。そもそも君の意見は道徳と反しているではないか」と主張したとしても、彼にはそれを拒む自由があります。仮にその友人が暴力によって彼の主張を改めようとしたならば、その行為は(如何に彼の主張が議論場の道徳と一致していたとしても)暴力的であり、非道徳的なものとなるでしょう。何故ならば暴力を行使するその一点において、彼の友人は彼との対話を拒んでいるのであり、かつ道徳を静的な真理として標榜しているからです。
ニーチェが言っている道徳=信仰の「パワーゲーム」とはこれを指しているのではないか、と私には思われるのです。が、上述したようにこのような道徳による暴力は確かに暴力的であり何ら真理に値しないものではありますが、それは議論場の外の問題であり、議論による非暴力的な「道徳」の定立可能性の問題とは本質的に関係がありません。仮に彼に合法的な抵抗可能性がなかったとしたら(つまり友人の暴力的な道徳の押し付けに対し、一切の救済が残されていないとしたら)これは確かに問題でしょうが、それは議論場の外において「自由」が担保されていないのが問題なのであって、「道徳」が暴力を標榜するといった問題ではありません。また議論場内において暫定的に定立された真理としての道徳(これは当然可謬的であり絶えざる議論による修正を要請します)によって大衆が感化され、彼らが正に塊(mass)となって神を名乗る彼に改心を強要してくることがあるにしても(とつげき東北氏の論考からはこの現象に対する憎悪の念が感ぜられますが)、それは道徳そのものの問題というよりは大衆の問題です(私は問題が違うといっているだけで、この「大衆の問題」もまた大きい問題として存在することは否定しません。しかし、それはここではない別の議論で語られるべきことです)。要するに、パワーゲームという発想は、上記のような「道徳」と「自由」・「大衆」の問題を、全て混同してしまっているのではないか、と思われるのです。

言うなれば、神を名乗った彼は、道徳以前の議論規則によって、個人的な領域へと戻されただけのことなのではないでしょうか。つまり議論場の人々は(という表現を用いると、パワーゲームの勝者が道徳を押し付けているように聞こえますが、先述したようにそうではありません)、「あなたは確かに神かもしれない。私たちにはそれは否定できない。しかしかといって私たちはあなたの意見を認めることも出来ない。だからそれは他で(外で、例えば彼の友人達に、彼の家族達に、彼の同僚達に、などなど)主張してください」と言うわけです。一方で公けの領域(というべきかどうかは分かりませんが)に残った議論者たちは、新たな参加者に常に門戸を開きながら、理性的な討論を続け、彼方にある真理を目指して、終わることのない議論を続けるのです。私が「妥協点を見つけよ」と言っているのはこの部分についてです(一般人が普段持っている思想に一々妥協点を見つけろ、と言っているわけではありません)。

この道徳思想の公私への「事業仕分け」作用も、パワーゲームと呼ぶことはなるほど不可能ではないでしょう。というのも、神を名乗る彼からすれば、自分の意見がよくわからんエリートみたいな奴らに「あなたの意見を認めることも出来ない」などと言われて排斥されたからです。が、先にも述べたように、彼が参加を拒絶されたのは彼のせい(これは責任を彼に押し付ける言い方ですので、より正確には「彼の意見の特殊性」のため、と言った方が良いでしょう)であり、しかも彼はその道徳を持つなと言われたわけではありません。ただ「議論場では」黙っていろ、と言われただけです。そして彼は意見を修正するならば再び参加を歓迎されることとなるでしょう。一方彼は拒絶されたことに腹を立て、議論場に唾を吐いて立ち去り、自らの友人達に再び自らの神性を主張する生活へと戻ることも出来ます。ですからこの「事業仕分け」は、確かに何らかの権力の仕業には違いありませんが、パワーゲームというものとはおよそ性格をことにしていると思われます。というのもこの権力は、彼の内心を変化させたわけでもありませんし、また彼の思想が彼において「道徳」(ここでこの語を使う必然性はありませんが、何となくカッコいいから使わせていただきます。本来はこれは「行動格律」や「人生哲学」と表現したほうが良いでしょう)になり得ないことを主張してもいないからです(ですからdaen0_0さまが私へのレスポンスの後半にて指摘なさっている「妥協するよりも闘争したほうが部分的には得の場合もあるので、その辺りでパワーゲームの出番」である、というのは、この意味の私的な道徳においては全く正当だと思います。しかしそれはあくまでこの意味の道徳においてのみ正当なのではないかと思われるのです)。それはただ単に、彼の思想は「普遍的・客観的な」ないしは「公的な」道徳にならないと言っているだけです。
そうするとここで問題となるのは、「事業仕分け」を行う議論場のルールそれ自体、つまり「相手の意見の傾聴」「理性的討論」といった用件の明確化、そしてそれらが普遍的に妥当することの証明、になるでしょう。というのも、仮に神を名乗る彼の意見を排除しているのが暫定的に成立している「道徳」でないといったところで、では誰なのか、という問に「議論以前のルールだ」と答えることは、問題の先送りにしかなっていないからです(つまり今度はパワーゲームの対象は、「信仰vs信仰」の問題から「信仰vsルール」の問題へと、その構造を保ったまま移行するのです)。しかしこれについては、用件の曖昧さがある種の答えを示唆してくれるでしょう、というのは上記の要件が曖昧であることは、逆に上記要件の指示対象が場合によって異なりうることをも含意し、場合に応じた柔軟なルールをも提起しえます。

なお道徳の場合、議論場で絶えず議論されている道徳が一般人の内面規範として成立するか、ということは、(既に大衆の問題について触れた際にも明らかにしたように)本質的には別問題です。しかしこの成立を論証することは決して不可能ではないと思われます(例えばジョン・ロールズなど)。このようにして内面化された道徳は不変的なものではありえないでしょうが、かといって押し付け的なものでもないでしょう。それは公的な議論の空間による討議過程それ自体として、「客観的な道徳」となることができるでしょう。まあこれは傍論になりますが・・・

daen0_0daen0_0 2010/05/10 20:49 >乱咲さん
実際にそうした視点が必要なのは、国際法の分野など、ごく限られた領域ですね。
日常の多くでは「だからどうした」ですませることのできる話です。

daen0_0daen0_0 2010/05/10 21:15 >ぴかちゅうさん
レスが遅くなりました。この議論場モデルは要するに、僕が使っている「道徳」と違う定義の「道徳」の解説だという感じがするんですよね。
そこも自分でははっきりとわからないので憶測になるんですが。

1.「議論場内において暫定的に定立された真理としての道徳」は暴力的なものではない。相手の《信仰》を迫害して殲滅するようなパワーゲームを引き起こす原因ではないし、権力者が気に食わない他者を洗脳/抑圧するための道具でもない。

2.議論場から排除された人も「言論の自由」が保障されている限り、彼は自己の《信仰》を政治的に潰されたわけではない。

という二点から、「道徳」の政治性を否定したのだと理解しています。

ですが僕がわからないのは。
1.議論場とはどこにあるのか?
2.誰かの意見を「議論の公的空間において求められる資格を満たしていないと判断」する議論場の人たちは、議論場が複数ある場合はどうするのか?
(つまり、イスラム過激派の議論場と近代合理主義の議論場があったとして、おそらくお互いのメンバーが相手のメンバーを「議論の公的空間において求められる資格を満たしていないと判断」するはずです。)
という点です。ぴかちゅうさんの議論場モデルは国内政治レベルだと妥当しそうなんですが、国際政治や、議論で意思決定する慣習が確立していないミクロな人間関係のレベルではどうなるのかちょっとよくわかりません。

たまたまたまたま 2010/05/11 13:17 そもそもやってはいけないことなんてないんじゃないでしょうか。

今やってはいけないとされていることは処世術的にやらない方が
得であるとかうまく立ち回れるという程度のことだと思います。
社会やみんながやらない方がいいと思ってることはやらない方が
得で、みんながやった方がいいと思ってることをやるのが得だから。

つまりは処世術なんだと思う。

daen0_0daen0_0 2010/05/12 21:54 >たまたまさん
そうすると全ての「やってはいけない」というのは「やると損をする」の言い換えにすぎないということになりますね。

ぴかちゅうぴかちゅう 2010/05/13 02:50 daen0_0さま
レスポンドありがとうございます。不束者ながら、力の及ぶ限り応答したいと思います。
先ず1つ目の批判についてですが、議論場というのは確固としてどこかに存在するのではなく、各人の関係性のネットワークの中に存在するものです。ですから同じ人間と同じことを話していても、その会話における各人の態度(これは態度が「合理的」か否か、乃至は相手の意見を聴くか否か、ということです)、そしてその会話が開かれているか(これは明示的に言明しなかった私にも責任の一端があるかと思われますが、議論場の議論には誰でも参加できねばならない以上その議論は開かれていなければなりません)、によってそこに議論場が成立したりしなかったりします。例えば女子更衣室の中で女性2人が男性蔑視的発言をした場合と、その女性2人がその主張を著書の形で出版した場合とでは意味合いが異なるわけです。議論場という私の比喩は些か誤解を招くものであったことは自戒せねばならないことですが、議論場は上述の如くどこにでも存在しえます(そしてどこにもないかもしれません)。
で、このような議論の場が形成されうるか、というのは本来私の議論の範疇外の問題ですが、しかし現に未知なる人間同士のコミュニケーションが万人により閲覧可能な空間として他ならぬこのネットが顕現している以上、かかる公論の場の実現は強ち不可能と一刀両断できるものでもなさそうです。例えば私はdaenO_Oさんを知りませんし、daenO_Oさんも恐らく私をご存じないでしょうが、にもかかわらずここにおいては(多分)生産的な議論が成立し、そしてこの議論は誰もが見ることが出来、かつ誰もがこれにコメントをすることが出来ます。私はネットこそが議論場である、と言いたいのではなく、かかる場はこのようにして成立しうる、ということが言いたいのです。
とは言え、上述したような自らの意見を自己批判してみますと、やはり問題がないわけではありません。例えば「2ちゃんねる」においてははっきり言って生産的な議論がなされているとは思えないのですが、にもかかわらずあそこの議論は基本的には開かれています。そして万人に参加可能であるということも確かです。あそこに欠けているのは態度の問題、つまり自分の意見をきちんと説明し、相手の意見を聴取する、という態度です。それ故「2ちゃんねる」は公的議論場ではないことになりますが、この事実はどれほど議論譲渡して優れた場が提供されても、そこに本当に議論場が形成されるかは結局態度の問題に還元されてしまう、ということを含意します。そこで態度を規律するルールが必要となりますが、これはその定義上一種の道徳であり、その規定方法は簡単ではありません(そもそも道徳をどのようにして議論して暫定的に決定するか、ということを論じているのですから、そこにおいてこのような道徳の問題が混入することはある意味背理ですらあります)。と結局これは、異常にモラルの高い個人を常に要求し続けるか、あるいは大きな集団ではなく小さな(それこそ村単位の)集団でしか適用できないような話かもしれません。
とはいえこれについては、議論場で議論しようとする道徳とは性質が違うものですから、何らかの非抑圧的な規定方法があるのかもしれませんが・・・(それをやろうとしたのが、例えば社会契約論であったり、ジョン・ロールズであったりです。)あるいは、現実問題として道徳の定立可能性を論ずる際には、やはり一定の人間枠組みが既に多くの人に共通のものとして形成されていることを前提しても問題ないように思います。道徳について論じている場に「私は神だ」と名乗る者が現れる場合については既に検討しましたが、同様にその議論場に「jkふぁzwerpfklcxiowとぉががこkjqzef」と述べる人物が現れた場合、あるいはいきなりライオンが乱入してきた場合、などを考え始めたらきりがありません。ライオンが人間を食べようと牙を向けているのを見てライオンを銃殺した際に、「お前はライオンが公的議論に参加する機会を暴力により奪った。これでは議論場は真に開かれてはいないではないか」と論ずる実益があるでしょうか?乃至は「文字通り万人が同意する道徳が出来たかて、それはグラジオラスの意思を反映していまい。つまり人間はグラジオラスやベニテングタケに対してパワーゲームを仕掛けていることとなる」と述べてどうなるのでしょうか?(所謂環境問題への配慮や、意思能力の欠如という問題はここで論ずるには大きすぎますから、今は措いておきます。更に意思という概念を否定する哲学的立場もありますが、ここでは人間態度の共通性の策定をすることが全て暴力的か、という問題を扱っているので、その哲学はあまり関係がありません)
以上の自省的に掲げた問題は、私が提示した反論にもかかわらず完全には解決していません。しかしこの問題に解決策があるのか(勿論普遍的な解決策などありませんが)、ということを探求していくことそれ自体にはなお意味があると考えます。少なくとも、「道徳はパワーゲームである」として道徳定立可能性を諦めるよりは(それも一つの貴重な哲学的態度だとは思いますが)。

2つ目の批判につきましては、まさにおっしゃる通りであると思います。私が国内政治に限定するような書き方をしてしまうのは、道徳が権力を標榜して他者の信仰を抑圧するようなケースというのは国際政治よりも寧ろ国内政治においてよく見られるだろう光景だと思ったからなのですが、国際政治という自然状態的状況においては私が述べたような議論体系は成立し得ないかもしれません(その代わり、道徳のパワーゲームも起こるかどうかは微妙ですが)。アリストテレス的に国家を自足的な狭い存在として捉え、「イスラーム原理主義と近代合理主義との間で対話なんてせずに、双方経済的交易だけして勝手に生きていればいいじゃん」と割り切れるならばそれも一つの選択肢でしょうが、しかし昨今の国際政治経済体制の複雑化(そしてそれに伴う国際経済と国際政治との不可分の結びつき)などを見るに、どうもそうあっけらかんとはしていられなさそうです。この辺りの議論は私自身不勉強ですので何も知見を持っていないのですが、こういった話は昨今政治哲学界で話題のグローバル・ジャスティス論が一定の示唆を与えてくれるのかなと思っています。

daen0_0daen0_0 2010/05/14 00:03 >ぴかちゅうさん
議論場がいったん成立すると、ぴかちゅうさんのおっしゃる通り、あまり政治性のない「合理的な」人間による開かれた対話というものも可能になると思います。
ただやはり議論場の成立過程において、「合理性」の名の下に都合の悪いものを排除するような権力的な状態があるように思えるんですね。
「異常にモラルの高い個人を常に要求し続けるか、あるいは大きな集団ではなく小さな(それこそ村単位の)集団でしか適用できないような話」というのは、まさにそういう状態のことだろうと理解しています。

とすると、
「一定の人間枠組みが既に多くの人に共通のものとして形成されていることを前提しても問題ない」わけではないでしょう。
むしろそのような議論のための最低限必要な「合理性」をいかに僕たちが用意できるかが課題となります。
「神を名乗る狂人」や「ベニテングダケ」を排除するのは一見問題ないかもしれませんが、それらの排除と同じ論理で、過去の議論場からは「肌の色の異なる人」・「女性」・「同性愛者」・「少数民族」が排除されてきたのですから。

ただそうした「合理性」を持つことはなかなか難しい。「合理的」とは、この文脈において「近代的」と言い換えてしまっても通じますが、まさにそうした人類共通の普遍的な枠組みがあるという考えが、対立の火種になっているのが現状です。
参照:ジョン・グレイ「アル・カーイダと西欧」
http://d.hatena.ne.jp/daen0_0/20100427/p1

pikachupikachu 2010/05/19 00:42 daen0_0さん
先ず、「議論場の成立過程において、「合理性」の名の下に都合の悪いものを排除する」ことを「権力的」と呼ぶことが適切であるとしても、そのことに何か問題があるとは思えません。かつてより述べているように、合理的(reasonable)ではない個人は議論においてその意見の正当性・客観性(objectivity)・不偏性(impartiality)を主張できないだけであって、別に生活するうえでは何も問題はありません(彼に思想の自由があるならば)。そして合理性の名の下に大量の意見が討議から排除されるにしても、それは「合理性」概念の定義づけレヴェルの問題であって、議論場モデルの問題ではないと思われます。つまり「合理的」であることを「自らの意見の客観性をどのような立場の者にも納得しうるように論理的に説明すること」と定義すれば、結果として議論に参加できる人々の数は減少してしまい、このような状況下において定立される道徳は(仮に可謬的であるという留保が付くにしても)果たして差し当たり普遍的な「道徳」たりうるのか、という疑念が出てくることになるでしょう。しかし逆に言えば、誰がどのように議論に参加するのかは「合理性」概念を適当に調節することで制御しうるのあり、この概念の定義づけを適切に行えば、「肌の色の異なる人、女性、同性愛者、少数民族」が議論から排除されることはないと思われます(そしてなお排除の構造が残存するならば、再び合理性概念を修正すれば良いだけの話です)。
で、このような合理性概念が曲がりなりにも現実に定義可能であるかというと、私は不可能ではないと考えます。それが「一定の人間枠組みが既に多くの人に共通のものとして形成されていることを前提しても問題ない」という文の意味です。つまりこの言明は、「合理性」概念の定義づけが可能である、ということを示しているだけであり、その具体的内容は不透明なままにしておいてあるのです(それを不透明にすることで、むしろ合理性概念をflexibleにすることが出来、上で言ったような調節が可能となります)。で、この定義づけを行うことは私の議論の範疇外です(これはメタレヴェルの議論ですので。そういうことは他の方がやってくださるでしょう)。ただこれの定義づけをきちんと行わないと、この議論場の入り口に属する参加要件がそれ自体道徳的な様相を帯びている以上、まさにニーチェが批判したような「権力による道徳の押し付け」になってしまうでしょう。私が「異常にモラルの高い個人を常に要求し続けるか、あるいは大きな集団ではなく小さな(それこそ村単位の)集団でしか適用できない」と言うのは、現実にはこういう入り口レヴェルの道徳は、こういった集団以外においてはパワーゲームとして押し付けられてしまうかもしれない、ということを意味しているわけです(ですが、それは現実論の問題ですので、比較的どうでも良い話です。更に同じ現実論の問題として言うならば、「一定の人間枠組みが既に多くの人に共通のものとして形成されていることを前提しても問題ない」でしょう。何故ならば現実世界の誰もグラジオラスを人間だと主張しないからです。そしてそうであるからこそ、上で述べたように、合理性概念が人間の一定程度の共通性を前提としつつ成立しうる、ということを想定しても非現実的ではない、ということになるのです)。

また、合理性というのは「近代的」とか「論理的」ということではありません。これの原語がreasonableということからも察されるとおり、これは説明が説得的かどうか、という意味です。だから別にイスラーム世界ならイスラーム世界の、未開部族なら未開部族の「合理性」が存在します(その世界の中でも更に細かく分かれるのかもしれませんが)。で、私が1つ前の書き込みにおいて「国際政治においては私の議論枠組みが成り立たない可能性がある」と示唆したのは、そういう各文化間で「合理性」概念が違うために、各文化間でそれについてのすり合わせが難しいのではないかと思われるからです。ただしこれですら、そのような各文化間においてその概念の定義づけ(即ち公的議論空間における意見表明の前提とされるreasonableness)と、更にそれに加えて意見内容のacceptabilityとをすり合わせることは強ち不可能ではないと思われます(そういうことを論じているのが、私の意見にも記したglobal justice論だと思われますが、そこでも書いたとおり私はこの分野については明るくないので良く知りません)。問題となるのがreasonablenessとacceptabilityである以上、そこでは道徳の唯一解などは示されませんが、にもかかわらずここでは道徳が成立することになるはずです(だからこそこの議論は、“diversity of way of life and regimes is a mark of human freedom, not of error”(John Gray, Two faces of liberalism, Polity press, 2000, p.139)というグレイの見解とも合致しえます。グレイが批判しているのは、単一普遍の内容を持った正義の枠組みを押し付けることだと思われ、だからこそ彼はロールズを批判するわけですが、私の議論はそういうことを意図しているのではありません)。

daen0_0daen0_0 2010/05/20 01:34 >pikachuさん
おそらく、ぴかちゅうさんと同一人物だと思われるのでそれを前提に話を進めます。
僕とぴかちゅうさんの見ている世界はたぶん一緒で、その表現が違うだけだと思います。つまり、言葉の定義が微妙に違うので、言葉の組み合わせによって同じ世界を描写しようとしても異なる組み合わせになってきてしまうのだろう、と。

1.道徳の定義
ぴかちゅうさんの「道徳」の定義は、議論場において形成させる暫定的なルールであり、僕の定義では、そのルールを《真理》だとかつぎあげる大衆のおしつけがましい布教も含めて「道徳」であるとしています。もちろん、ぴかちゅうさん的な「道徳」も存在していることは認めますし、そうした「道徳」のあるところでは、たしかに「「信仰」同士の戦いは暴力によって決着するしかない、というのは誤り」になると思います。

2.合理性の定義
ぴかちゅうさんの定義によると「説明が説得的かどうか」であり、文化や議論場の数だけ多様な合理性がありうるとのことでした。これについて同意します。

3.僕の問題意識について
ぴかちゅうさん的な「道徳」は、別に放置していても無害で問題がないと思うのですが、大衆がその「道徳」に基づいて政治的に動くことは社会的な影響が大きく、あまり放置することもできません。「道徳」が必ずしもパワーゲームを生みだすわけではないですが、「道徳」に起因するパワーゲームはその紛争解決が困難です。またパワーゲームの道具として、自分の立場を補強するために「道徳」が利用されることもあります。ぴかちゅうさんによれば、それは大衆の問題であり、「道徳」の問題ではないということですが、僕はそんなにすっぱり割り切れるのかなあと考えています。(僕にとって道徳的とは、ほとんど大衆的と同じくらいニュアンスをもつ言葉です。)まあしかしそれは個別具体的なトピックにおいて議論すべきなのでしょう。

 2010/05/20 03:39 実存論的な読み方したらこういうとらえ方にならないかな。
『ニーチェの遠近法』とかもよんだら良いかもしれません。

daen0_0daen0_0 2010/05/20 12:37 今度読んでみます。

たまたまたまたま 2010/06/06 17:31 >そうすると全ての「やってはいけない」というのは
>「やると損をする」の言い換えにすぎないということになりますね。
そのとおりです。絶対にやってはいけないことをやると
ものすごく損をするということです。

プラフマンプラフマン 2011/08/21 19:14 一つの議論が大きく
肥大していくのはよくある場合ではありますが
実に素晴らしい有意義な議論だと思います
互いの意見に断定するわけでもなく 聞く態度に感服すら覚えます

自分は無知ゆえ 否定も肯定もできませんがあらゆる事がこうやって基準ができていけばいいなぁっと思ってしまいます

daen0_0daen0_0 2011/08/21 23:17 どうも。どちらが正しいかよりも、異なる立場がどういった軸で分かれていて、どういった点で共通しているのかを探ることのほうが重要だと思っています。
真理の探究者ではなく、異なる真理同士の測量士がいいな、と。

スパム対策のためのダミーです。もし見えても何も入力しないでください
ゲスト


画像認証

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/daen0_0/20100503/p1