実際人はエリートではないし、またエリートである必要もない
しかし、ある種の文章を書く場合、人は、あたかもエリートであるかのように書くのでなければならない
2011 © A brief text for the disadvantaged young, my contemporaries, not knowing what their writing should be...
当サイト「エリート的な文章の書き方」は、初心者向けのサイトではありません。当サイトは、読み書きの苦手な人が問題を解決するサイトというよりも、ある程度読み書きができる人が問題を発見するサイトです。実際、当サイトは、結構ハードな読み物系のサイトになっており、それなりに文章を読める人を読者に想定した作りになっています。
ちなみに、当サイトは、このページで全てです。当サイトは、複数のページを行き来するような構造にはなっておらず、このテキスト一枚だけのシンプルな構造になっています。というのも、ぼく自身、文章を書くという行為に対して、そんなに多くの注意が必要だとは考えていないからです。それゆえ、ぼくが言うべきことは、このテキスト一枚で全て言えたと考えます。
当サイトの目的は、「エリート的な文章」の書き方を解説することです。エリート的な文章とは、
そういう文章です。この両方の要件を満たすべく、以降では、まず「段落の適切な構成」について、次に「文の構造的欠陥の是正」について、述べていきます。
なお、エリート的な文章を書く意味があるのは、コラム・エッセイ・論文等の単なる雑文以上の文章を書く人だけです。これらの文章は、ただ楽しく読んでもらうことを目的としているメール・ツイッター・ブログ等の単なる雑文とは異なり、きちんと内容を理解してもらうことを目的としているため、書く側は、読み手がその目的を達成できるように、自覚を持ってエリート的な文章(※段落の構成と文の構造の両方に配慮した文章)を書く必要があります。なので、彼らには――そしておそらく彼らだけに――、当サイトのような良くも悪くも面倒な文章作成講座は意味を持つのです。
段落とは、トピック(話題)を共有する文の集まりです。確かに複数の文を集めて改行すれば形式上は段落になりますが、重要なのは、そういった形式面ではなくて、中に入っている文がトピックを共有しているという内容面だということです。ただ複数の文を集めて切ったとしても、それでは段落にはなりません。このことは、形式段落――文章が長くなったので、この辺でそろそろ切っとくか――という奇妙な概念が存在する我が国では、特に注意が必要です。段落の中に入っているのは、単なる寄せ集めの文=烏合の衆ではなくて、トピックを共有する文=同志の集まりなのです。
段落がトピックを共有する文の集まりである以上、その構成においては、次のようなルールがあります。(あくまでも概要なので、今は眺めるだけで構いません)
トピックセンテンス(主題文または話題文)とは、各段落内において、各段落の見出しとして機能するリーダー文のことです。ここで重要なのは、トピックセンテンスは、その性質ゆえに、各段落の第1文に置く必要があるということです。というのも、見出しというのは、先頭に置かないと意味がないからです。
ぼくは長年、将来の夢が持てないでいました。おそらく、何事にも感動しない性格が災いしていたのでしょう。そのため、夢を見つけた友人たちが次々に現実を歩き始めている中、ぼくだけがまさに夢の中だったわけです。
ちなみに、上の例文では、第1文がトピックセンテンスになっています。第1文は、これから段落内で語られるトピックを端的に表現した、つまりあらかじめ要約した内容になっており、段落内の全3文の中での核になっています。他方、残りの2文は、第1文を内容的にサポートする形になっています。
ぼくは長年、将来の夢が持てないでいました。おそらく、何事にも感動しない性格が災いしていたのでしょう。そのため、夢を見つけた友人たちが次々に現実を歩き始めている中、ぼくだけがまさに夢の中だったわけです。
先日、ぼくは、母と一緒に法廷に行きました。法廷では、被告人を守るべく、まだ若い弁護士が検事と静かに議論を戦わせていました。法廷闘争にテレビで見るような激動はありませんでしたが、むしろその静寂こそが、ぼくの心に響いたのです。将来の夢がボンヤリと見えた瞬間でした。
このようにトピックセンテンスの理屈自体は簡単なのですが、ところが大抵の人は、トピックセンテンスを第1文に置けていません。たとえば、上の例文において、第2段落の第1文は、トピックセンテンスではありません。この段落を通して書き手が主張したかったことは、「母と一緒に法廷に行ったこと」などではないはずです。話の内容からいって、書き手が主張したかったことは、したがってトピックセンテンスであるのは、実際は最後の第4文「将来の夢が見えた」なのです。
ぼくは長年、将来の夢が持てないでいました。おそらく、何事にも感動しない性格が災いしていたのでしょう。そのため、夢を見つけた友人たちが次々に現実を歩き始めている中、ぼくだけがまさに夢の中だったわけです。
しかし、母に連れられた法廷で、扉は開けてきたのです。法廷では、被告人を守るべく、まだ若い弁護士が検事と静かに議論を戦わせていました。法廷闘争にテレビで見るような激動はありませんでしたが、むしろその静寂こそが、ぼくの心に響いたのです。将来の夢がボンヤリと見えた瞬間でした。
それゆえ、第2段落においては、このように、トピックセンテンスである第4文が先頭にくるような書き方*に改める必要があります。そうすることで、読み手は、第2段落に入って即座に書き手の言いたいことがわかるようになります(※トピックセンテンス=段落の見出しなのだから当然です)。他方、修正前の段落構成では、後の方まで読まないと書き手の言いたいことがわからないため、読み手は途中ずっと不安な状態で文章を読んでいかなくてはなりません。
* 厳密に言えば、トピックセンテンスである第4文のもつ「将来の夢が見えた」という考え(notion)が先頭にくるような書き方です。この考えを反映できてさえいれば、第1文の文言は何でも構いません。ここでは一応、「しかし、母に連れられた法廷で、扉は開けてきたのです。」という文言になっていますが、この文言にとらわれる必要はないということです。ところで、修正後においても第4文は第4文に居座ったままですが、この場合、第1文と併せてトピックセンテンスが2つ存在するというのではありません。トピックセンテンスは、あくまでも第1文です。第4文は、修正後においては、後述するコンクルーディングセンテンスの役割を果たしており、このことは、段落内の整合性を保つうえで「むしろ好ましい状態」となっています。
同一段落内において、全ての文は、トピックセンテンスに関連していなければなりません。まずトピックセンテンスが段落内の要点を打ち出し、続いて他の文が打ち出された要点を敷衍していく――このように、トピックセンテンスと他の文とが緊密に連携することで、段落全体は、より書き手の主張が明確化されたものになります。それゆえ、同一段落内においては、この連携を乱すような文(e.g. トピックセンテンスとは無関係な文、トピックセンテンスで述べたことを否定する文、トピックセンテンスとの関連がわからない文)を紛れ込ませてはならないわけです。
ぼくは長年、将来の夢が持てないでいました。おそらく、何事にも感動しない性格が災いしていたのでしょう。そのため、夢を見つけた友人たちが次々に現実を歩き始めている中、ぼくだけがまさに夢の中だったわけです。
ちなみに、上の例文は、リスト(■)に挙げている説明を見ればわかるように、トピックセンテンスと他の文との連携が保てています。このように、同一段落内の全ての文がトピックセンテンスとの接点を維持できていれば、すなわちトピックセンテンスとトピックを共有できていれば、段落内の整合性は保てるわけです。間違っても、トピックセンテンスが打ち出した路線から脱線した文を、同一段落内に紛れ込ませてはなりません。
なお、ここでひとつ注目して欲しいのは、表現こそ違ってはいますが、第3文が実は第1文と「ほぼ同一の内容」であるという点です。つまり、トピックセンテンス1の主張は、原因分析2を経由した後、3に形を変えて繰り返されているだけなのです。なので、段落内が整合するのも当然です、なぜなら、1から3へ話が流れているといっても、その流れは極めて緩やかで、ほとんど動いていないからです。
このように、一般に、第1文≒最終文になっていれば、段落内に整合性が生まれます。第1文のトピックセンテンス(Topic Sentence/主題文)に対し、最終文はコンクルーディングセンテンス(Concluding Sentence/締め括り文)と呼ばれていますが、実は、この「TS≒CS」は段落内の整合性をチェックするメルクマールであり、逆の言い方をすれば、「TS≠CS」は段落内の不整合性――途中で話題が逸れた、脱線した、異質な文が紛れ込んだ――を知らせるサイレンでもあるのです。段落内に整合性を生むポイントは、ひとつの等式「TS≒CS」にあります。(※段落を書き終えた後は、「TS≒CS」の整合性を必ずチェックして下さい)
さて、段落内の整合性については一応これで決着がついたわけですが、ここでひとつ大きな疑問があります――それでは話が進まないのではないか、という問題です。段落内での整合性を保つためには、段落内部で話が流れるといっても、その流れは極めて緩やかでなければなりませんでした。でも、これでは、いつまで経っても話が先に進みません。話を加速させることができないのです。
しかし、それは問題ではありません。というのも、話を加速させたい場合は、段落を改めればいいだけだからです。つまり、こういうことです――話が加速するということは、トピックにそれまでとは違った変化が生じていることを意味します。そしてトピックに変化が生じる場合には、その場合に限っては、新たな段落のもとで文章を書くことが許されるというわけです。いやむしろ、その時には、新たな段落のもとで書かなければならないのです。
先に述べたように、段落は、トピックに変化が生じた場合に改めます。トピックの変化とは無関係に、見た目の分量――視覚的な見やすさに対する配慮――から勝手に改めてはいけません。トピックの変化とは無関係に段落を改めるとそこで思考が切断され、読み手は論旨を追うのが困難になります。なので、トピックに変化がない限り、同じ段落で文を書き続ける必要があります。10行続くのであれば10行を、1行で終わるのであれば1行を続けるのが、原則です。
このように、段落の分割はトピックをキーにして機械的に行うのですが、同時に任意でもあります。なぜなら、分割のキーとなるトピックそれ自体の立て方は、書き手の任意に基づいているからです。たとえばカレーライスの作り方について書く場合、一方で「ニンジンの調理」「タマネギの調理」「ジャガイモの調理」というトピックの立て方もできますし、他方で「野菜の調理」というトピックの立て方もできます。前者は個別概念で、後者は集合概念でトピックを立てているわけです。つまり、どの抽象レベルでトピックを措定するかという書き手の任意によって、トピックの立て方は変わってくるわけです。必然的に、トピックと連動している段落の分割も、書き手の任意によって変わることになります。
さて、最後に、以上のことを、ふたつの例文を使って見ていきたいと思います。
ぼくは長年、将来の夢が持てないでいました。おそらく、何事にも感動しない性格が災いしていたのでしょう。そのため、夢を見つけた友人たちが次々に現実を歩き始めている中、ぼくだけがまさに夢の中だったわけです。
しかし、母に連れられた法廷で、扉は開けてきたのです。法廷では、被告人を守るべく、まだ若い弁護士が検事と静かに議論を戦わせていました。法廷闘争にテレビで見るような激動はありませんでしたが、むしろその静寂こそが、ぼくの心に響いたのです。将来の夢がボンヤリと見えた瞬間でした。
ぼくの夢は、弁護士になることです。その夢を見つけるまで、ぼくは長年、将来の夢が持てないでいました。おそらく、何事にも感動しない性格が災いしていたのでしょう。そのため、夢を見つけた友人たちが次々に現実を歩き始めている中、ぼくだけがまさに夢の中だったわけです。しかし、母に連れられた法廷で、扉は開けてきたのです。法廷では、被告人を守るべく、まだ若い弁護士が検事と静かに議論を戦わせていました。法廷闘争にテレビで見るような激動はありませんでしたが、むしろその静寂こそが、ぼくの心に響いたのです。将来の夢がボンヤリと見えた瞬間でした。
まず、最初の例文は、「夢が持てない」「夢が持てた」というトピックの立て方をしています。ここで重要なのは、実際にそうしているように、これらは別々の段落で扱わなければならないということです。つまり、第2段落の「しかし」以降の文は、第1段落に含めてはいけないのです。なぜなら、そこにはトピックの変化がある――「しかし」以降は、第1段落のトピックセンテンス「ぼくは長年、将来の夢が持てないでいました。」とつながっていない――からです。
けれども、次の例文では、事情が違ってきます。次の例文では、「ぼくの夢」という前とは異なるトピックの立て方をしています。この場合、「しかし」以降も同じ段落に書き込めます。いやむしろ、同じ段落に書き込まなければなりません。なぜなら、そこにはトピックの変化がない――「しかし」以降は、第1段落のトピックセンテンス「ぼくの夢は、弁護士になることです。」とつながっている――からです。
新たな段落を始めるにあたっては、その第1文を唐突な書き方で始めてはいけません。段落内で文同士がそうであったのと同様、段落間においても、読み手がちゃんと論旨を追えるように、段落同士で連携が保たれてなければならないのです。それゆえ、新たな段落を始めるにあたっては、その段落が前の段落とどう関係しているのかが、その段落の第1文に明示されていなければなりません。
ぼくは長年、将来の夢が持てないでいましたおそらく、何事にも感動しない性格が災いしていたのでしょう。そのため、夢を見つけた友人たちが次々に現実を歩き始めている中、ぼくだけがまさに夢の中だったわけです。
先日、ぼくは、母と一緒に法廷に行きました。法廷では、被告人を守るべく、まだ若い弁護士が検事と静かに議論を戦わせていました。法廷闘争にテレビで見るような激動はありませんでしたが、むしろその静寂こそが、ぼくの心に響いたのです。将来の夢がボンヤリと見えた瞬間でした。
すなわち、このような書き出しをしてはいけないのです。第2段落の書き出しはあまりに唐突で、第1段落とどう関係しているのかが、まるでわかりません。第1段落に続く第2段落で、なぜいきなり「先日、ぼくは、母と一緒に法廷に〜」という(それまでとは)全く関係のない話題になるのかが不明なのです。このような読み手を困惑させるような、段落が単なる箇条書きに見えてくるような書き方をしてはいけません。
ぼくは長年、将来の夢が持てないでいました。おそらく、何事にも感動しない性格が災いしていたのでしょう。そのため、夢を見つけた友人たちが次々に現実を歩き始めている中、ぼくだけがまさに夢の中だったわけです。
夢が持てるようになったキッカケは、先日、母と一緒に行った法廷でした。法廷では、被告人を守るべく、まだ若い弁護士が検事と静かに議論を戦わせていました。法廷闘争にテレビで見るような激動はありませんでしたが、むしろその静寂こそが、ぼくの心に響いたのです。将来の夢がボンヤリと見えた瞬間でした。
新たな段落を始めるにあたっては、その第1文に必ず、前段落との関係がわかる記述がなければなりません。前段落との関係がわかる記述とは、そう書く根拠が前段落中にある記述です。たとえば、上の修正例の「夢が持てるようになったキッカケは〜」という記述は、前段落中の「夢が持てないでいました」や「夢の中だった」という記述を、そう書く根拠としています。言い換えれば、第2段落の第1文に「夢が持てるようになったキッカケは〜」なんていう記述が存在する*のは、前段落中に「夢が持てないでいました」や「夢の中だった」という記述があったからだと言えるということです。他方、修正前の例文は、そうではありません。これは注目すべきことですが、「先日、ぼくは、母と一緒に法廷に〜」と記述する根拠は、前段落中のどこにもないのです。
* このような記述が存在するからこそ、なぜ次に「母と一緒に法廷に行った」という話になるのかもわかるわけです。その一方、修正前の例文では、このような記述が存在しないがゆえに、なぜ次に「母と一緒に法廷に行った」という話になるのかがわからないわけです。両者に差を生んでいるのは、段落間の連結器の役目をする記述の有無です。
段落の構成について結論として言えることは、結局、段落の構成とは、各段落の第1文の構成に他ならないということです。というのも、第1文には、そして第1文だけには、段落を構成するうえでの重要な役目が集中しているからです――すなわち、1)「段落の見出しとしての役目」、2)「段落同士を繋ぐ連結器としての役目」です。それゆえ、文章を書くうえでは何より、各段落の書き出しに注意する必要があります。各段落の第1文は当該段落の見出しとして通用するか、各段落の第1文には前段落との関係がわかる記述が含まれているか、これらを、文章を書きながら逐一チェックする必要があります。各段落の第1文が「見出しかつ連結器」になっていなければ、いくら誤字脱字がなく美辞麗句に富んだ文が散りばめられていたとしても、文章としては失格です。
さて、これで段落編は終わりですが、最後に、文章作成における段落の意味について少々。ぼくは、この「エリート的な文章の書き方」において、最初に段落編を持ってきました。それは、文章というものが単なる文の集まりではなくて段落の集まりである以上、段落をいかに構成するかという思考こそが文章作成そのものに他ならないと考えるからです。つまり、文章作成とは、作文ではなく作段落に他ならないわけです。人は、段落の構成がマトモであれば、たとえ文の構造がマズくても文章を理解できますが、逆に段落の構成がマズければ、たとえ文の構造がマトモでも文章を理解できません。確かに、形式上文が連なってさえいれば、我々が文字を理解することができる以上、個々の文の意味は理解できるかもしれません。しかし、文章全体として見た場合、その意味を理解することは困難なはずです。つまり、「要するに何が言いたかったのか」を説明しろと詰問された場合、急に回答が困難になるはずです。文章とは、段落単位で話を進めていくものであって、個々の文単位で話を進めていくものではありません。なので、文章作成とは、何より段落作成でなくてはなりません。間違っても、文作成に、つまり文字どおりの作文――文を作る――になってはいけないのです。
『フレイム、ネチケット、そしてプライド――ネット上での対人トラブルにおける本質的な問題』
コミュニケーションをめぐる対人的なトラブルがネット上で発生するたび、メディアでは、みんなで共有しておくべきネット世界における一般常識やマナー、いわゆるネチケットという概念が持ち出されます。ネチケットには、文字情報に対するリテラシー(※物事の真偽や真意を咀嚼できる能力)の重要性から掲示板での発言の仕方、広くは個人情報の防衛に至るまで、様々な人間が入り乱れる複雑なネットの世界を安全に快適に泳いでいくための知恵が収められています。もちろん、ネチケットとは、礼儀作法を意味するエチケットをもじった造語に違いありません。
しかし現実問題、ぼくが掲示板やメーリングリストやSNSなどに参加していると、相変わらず、参加者同士の感情的な衝突、俗にフレイム(flame/炎上)と呼ばれる現象を目にすることが少なくありません。そこが、2ちゃんねるのようにフレイムをネタとして楽しむタイプのサイトであれば全く問題ないのですが、そうではない健全なサイトでも、大真面目にベタなフレイムが繰り広げられているから頭が痛いものです。なぜなら、まだまだ未熟な子供とは違って、彼ら参加者は、他人にウダウダ言われなくてもネチケットなど十分知り得ているはずの、また彼ら自身そう自負しているであろうはずの、いい歳した大人に違いないからです――彼らの中心でネチケットをさけんでみても、単に笑われるだけでしょう。
根本的な問題は、ネチケット云々ではなく、参加者各自の「場に対する関わり方や認識」のような気がします。掲示板やメーリングリストやSNSなどは、基本的に情報交換や会話を楽しむ場所であって、他人と競って自己を顕示したり自己の正当性を披瀝したりする場所ではないはずです。つまり、それらにおいては、誰の情報や発言が正しいのかを決めるのが目的ではなくて、全体的な言葉のやり取り自体を楽しむのが目的であるはずなのです。それを阻害しているのは、ネチケットに対する理解不足ではなくて、むしろ、参加者各自の「つまらないプライド」であり「いびつに肥大化した自我」であるような気がします――これは、彼らがそれなりの常識や知識を持った人間だからこそ発生する逆説的な問題なのでしょう。それゆえに、事態は深刻なのです。
他人から突っかかったようなレスが付いたとしても、なぜ最初に『返信ありがとうございます。』の一行が添えられないのか、他人から情報漏れを指摘されたとしても、『知ってましたよ。』ではなく、なぜ嘘でも『フォローありがとうございます。^^)』の一言に切り替えられないのか――問題は、そんな単純なことだと思います。いずれも、お互いが自己の正当性や物事の成否を執拗に持ち出せば、場が荒れることは必至です。掲示板やメーリングリストやSNSなどは一体何をする場所なのか、自己を弁護し顕示する場所なのか、それとも情報交換や会話を楽しむ場所なのか、その辺に対する理解が不足していることが、ネット上での対人トラブルにおける本質的な問題なのではないかと、ぼくは思います。本当はどっちが正しい、誰が正しいというのは、本来、話の中心に置くべきバイタルな問題ではないような気がします。
文内において、各要素はそれぞれ対応する受け手を持っている必要があります。たとえば、主語/主題に対してはそれに対応する述語、形容詞に対してはそれに対応する名詞、といった具合にです。
× コミュニケーションをめぐる対人的なトラブルがネット上で発生するたび、メディアでは、みんなで共有しておくべきネット世界における一般常識やマナー、いわゆるネチケットという概念を知っておく必要があります。
○ コミュニケーションをめぐる対人的なトラブルがネット上で発生するたび、メディアでは、みんなで共有しておくべきネット世界における一般常識やマナー、いわゆるネチケットという概念が持ち出されます。
この例文では、「メディアでは」に対する受け手が欠落しています。実際、述語と組み合わせてみても、「メディアでは〜知っておく必要があります??」といった具合に照応が合わず、文が捻(ねじ)れてしまいます。つまり、「メディアでは」は、同一文内に適切な受け手がなくて宙に浮いているのです。一般に、文を長々と引き延ばしがちな人は、自分がどう文を書き出したのかを忘れてしまって、受け手を落とす傾向があります。
受け手の欠如は、文の各要素の照応をチェックすることで確実に防げます。たとえば、修正例において「メディアでは」の照応をチェックしてみると、「(メディアでは)-(持ち出されます)」でペアが成立する――「〜では〜(が)持ち出される」で意味が通じる――ことがわかるはずです。このように、文章を書いた後には、宙に浮いた要素がひとつもないように、文の各要素の照応を責任をもってチェックする必要があります。
文内では、できるだけ視点を固定する必要があります。ここでいう視点とは、個々の動詞に対する主語――より正確に言えば主題――を意味します。したがって、視点を固定するとは、主語を固定するという意味です。
× レポートや論文等の文章は、ただ楽しく読んでもらうことを目的としているブログ等の雑文とは異なり、きちんと内容を理解することを目的としているため、書く側は、自覚を持ってエリート的な文章を書く必要があります。
○ レポートや論文等の文章は、ただ楽しく読んでもらうことを目的としているブログ等の雑文とは異なり、きちんと内容を理解してもらうことを目的としているため、書く側は、自覚を持ってエリート的な文章を書く必要があります。
問題は、最初「書く側」を主語として始まったはずの文が、なぜか途中で「読む側」を主語とした文に入れ替わっている点です。事実、最初は「読んでもらう?? 誰が?? ⇒ 書く側が」だったはずなのに、途中から「理解する?? 誰が?? ⇒ 読む側が」になっています。つまり、何の前触れもなく、「書く側」から「読む側」へと途中で視点が移動しているわけです。こうなると、「書く側」という主語を念頭において読み進めていた人間は、途中「理解する」で急にカメラワークが変化するので戸惑います。
視点の移動は、各動詞に対する主語を補いながら文を読み返すことで防げます。たとえば修正例でチェックしてみると、「読んでもらう?? 誰が?? ⇒ 書く側が」「理解してもらう?? 誰が?? ⇒ 書く側が」といった具合に、視点の移動は起きていないことがわかります。
表記は、完璧に揃える必要があります。普通に書いていて自然に揃うわけではありません。意識的に揃えるのです。
× 子供の学歴は、親の学歴や親が教育にどれだけ関心を持っているかという問題に影響されるだけでなく、親の収入の影響も受ける。このことは、次の事実を意味する:有利な家庭の子供は3ボールの状態から競争を始めるのに対し、家庭環境が悪い子供は、2ストライクの状態から競争するという事実である。
○ 子供の学歴は、親の学歴や親の教育的関心に影響されるだけでなく、親の収入にも影響される。このことは、次の事実を意味する:有利な家庭の子供は3ボールの状態から競争を始めるのに対し、不利な家庭の子供は2ストライクの状態から競争を始める、という事実である。
# 両者の違いは歴然のはずです。前者は途中で何度もタドタドしくなるのに対して、後者は最後までスムーズです。
修正ポイントは、全部で5点です。まず第1文目は、次の2点です。
前者に関しては名詞化されている部分を動詞化することで、後者に関しては言い回しを「親の◯◯」に統一することで、ゆらぎは解消します。
そして第2文目は、次の3点です。
なお、読点に関しては、次項で改めて説明します。
× 段落は、トピックに変化が生じた場合に改めます。話の変化とは無関係に、見た目の分量から勝手に改めてはいけません。話の変化とは関係なく段落を改めるとそこで思考が切断され、読み手は論旨を追うのが困難になります。なので、話題に変化がない限り、同じ段落で文を書き続ける必要があります。
○ 段落は、トピックに変化が生じた場合に改めます。トピックの変化とは無関係に、見た目の分量から勝手に改めてはいけません。トピックの変化とは無関係に段落を改めるとそこで思考が切断され、読み手は論旨を追うのが困難になります。なので、トピックに変化がない限り、同じ段落で文を書き続ける必要があります。
今度の例文も修正ポイントは複数あるのですが、根本的には次の一点です。すなわち、言葉が統一されていない点です。言葉とは、ある概念を表すのに用いる用語のことです。修正前の例文においては、同じことを表現するのに、この用語=言葉が、気分によって使い分けられているので、とても戸惑います。言葉を使い分けるのは、そうするだけの必然性がある場合に限ります。それ以外では、たとえ不恰好でも、意識的に同じ言葉を使い続ける必要があります。表記の不統一を、語彙の豊富さや表現の多彩さと勘違いしてはいけません。
読点というものは、文構造を反映した打ち方をする必要があります。この意味で、読点とは、いわば読み手のために引く補助線です。書き手の息継ぎではありません。よく考えもせずに息継ぎ感覚で打っていると、読み手の文構造の把握を妨げるような箇所に読点を打つ危険があります。
× 読点とはいわば読み手のために引く、補助線です。
○ 読点とは、いわば読み手のために引く補助線です。(※読点 = 読み手のために引く補助線)
たとえば、上の例文は、文構造を正しく反映していません。というのも、例文の構造的な意味は、「主題と内容」だからです。したがって、この文構造を正しく反映するには、主題と内容とを視覚的に目立たさせる箇所に――すなわち主題「読点とは」の直後に――読点を打つ必要があります。
× 読点とは、いわば読み手のために引く補助線であり、文章の読みやすさはその打ち方に、大きく左右されます。
○ 読点とはいわば読み手のために引く補助線であり、文章の読みやすさはその打ち方に大きく左右されます。 (※読点とは補助線である ←並列→ 読みやすさはその打ち方に左右される)
今度の例文も、文構造を正しく反映していません。つまり、先の例文では通用した打ち方が、今度の例文では通用しないわけです。というのも、例文の構造的な意味は、「並列」だからです。したがって、この文構造を正しく反映するには、何と何とが並列されているかを視覚的に目立たさせる箇所に――すなわち前半部分を書き終えた直後に――読点を打つ必要があります。
さて、読点に関して最後に指針として述べたいのは、読点を打たないことの重要性です。打たなければ文の構造が把握しにくい場合を除いては、読点は基本的に打たないことが重要です。というのも、読点を打つことで、読み手の思考を分断してしまう危険があるからです。この意味で、読点を打つことは、読み手の思考にくさびを入れる迷惑な行為だと言えましょう。たとえば次の例文――「この意味で、読点を打つことは、読み手の思考にくさびを入れる、迷惑な行為だと言えましょう。」において、3番目読点は余計です。なぜなら、「くさびを入れる」は、直後の「迷惑な行為」に掛かっていくからです。世間でよく言われる「読みやすさを考えて適度に読点を打つこと」というアドバイスは、少々楽観的過ぎます。
読みにくい文を生む最大の原因は、中止法の使用です。中止法とは、文を終止形で一度終わらせずに連用形で後ろへ繋げていく文接続の方法です。つまり、「吾輩は猫である。」とはせずに「吾輩は猫であり、」とするような文の引き延ばし方法のことです。べつの言い方をすれば、中止法とは、本来分かれていてもいいはずの複数の文をひとつに連結する文接続の方法です。そのため、文は長く複雑になります。だから、読みにくくなるわけです。
△ 読みにくい文を生む最大の原因は、中止法の使用です。中止法とは、文を終止形で一度終わらせずに連用形で後ろへ繋げていく文接続の方法で、「吾輩は猫である。」とはせずに「吾輩は猫であり、」とするような文の引き延ばし方法のことです。べつの言い方をすれば、中止法とは、本来分かれていてもいいはずの複数の文をひとつに連結する文接続の方法で、そのため文は長く複雑になり、読みにくくなるわけです。
中止法の主たる弊害は文を長く複雑にするという点にあるのですが、実はべつの弊害があと二つあります。ひとつは、接続関係を示す言葉を消すという弊害です。実際、中止法を使用した例文では、元の文章には存在していたはずの「つまり」や「だから」が消されています。このように、中止法には文の接続関係を示す言葉を消すという弊害があるので、知っておいてください。中止法を使用した文が読みにくい原因は、読み手の理解の助けとなるはずの接続関係を示す言葉を消してしまうという点にもあるのです。もうひとつは、他の問題群を誘発するという弊害です。実のところ、「受け手の問題」も「視点の問題」も「表記の問題」も「読点の問題」も、中止法を使用すれば、それだけ問題の発生率が高まります。どんどん長くなっていく文に対して、書き手の頭脳――文の整合性を維持する能力――が追いつかなくなってくるわけです。
このように、中止法には多数の弊害があるので、その使用には注意してください。子供のようにイチイチ<丸>で閉じる必要はありませんが、それでも一度どこか<丸>で閉じられる箇所はないのかと、文を見返すことは必要です。文に重厚さを与えるのに中止法は便利ですが、一方で読み手にそして自分にも負担を与えるので、頼りすぎには注意してください。
文章作成に関して最後にぼくが強調したいこと、それは、無駄を削除する必要性です。「文章の書き方」は約10日で書き上げましたが、約10日といっても、それは執筆と推敲とに費やした期間ではありません。執筆と推敲と削除とに費やした期間なのです。なぜなら、書き上げた文章には、間違いも多数含まれていることながら、無駄も多数含まれているからです。無駄には、無駄な言葉から、無駄な文、無駄な段落、そして無駄な内容*1に至るまで、様々なレベルがあります。真に怖いのは、もしこれらの無駄を放置し書く必要のないことまで書いていると、本当に自分が主張したいことがそれらのゴミに埋もれてしまうということなのです――無駄を削除するのが必要な理由は、ここにあります。
無駄を削除する際のひとつの指針は、<書くべきこと>と<書きたいこと>を区別することです。前者が読み手にとって必要な記述(necessary)であるのに対し、後者は書き手にとって必要な記述(accessory)でしかありません。なので、自己満足に過ぎない<書きたいこと>というのは、読み手の理解を妨げる邪魔な枝葉として大胆に削除する*2必要があります。そうすれば、より主張の明確化された文章が、言わばエッセンスの凝縮されたスープができます。間違っても、書き手の自己満足に過ぎない<書きたいこと>によって、読み手に必要な<書くべきこと>が見えなくなることがあってはいけないのです。
以上を、まとめとして、アフォリズム的に述べれば、次のようになります。
*1 結局、当サイトが公開できたのは、実際に書いていた内容の半分くらいでした。つまり、もう半分は捨てたわけです。このような啓発的なサイトにおいて、網羅的――e.g. あれも注意これも注意、このケースにおいてはそのケースにおいては――というのは、やはり全く意味のないことでした。いやそれどころか、網羅的であることは、それ自体で常にそして既に誤りなのです。たとえば、「人に好かれるための50のルール」というのは、どう考えてもマトモではありません。そんな風に事柄を枚挙していると、重要度において全てが同じウエイトを持っているように見えてしまうため、結局、読み手には全てが印象に残らなくなるはずです(そもそも50も咀嚼できない)。だから、網羅的であることは、その内容に関わらず、常に既に誤りだというわけです。一般に、HowToものやマニュアルものは、内容の薄いものほど価値があります。「人に好かれるための5つのルール」であれば、きっと読む価値があります。
*2 正式に提出する文章であれば、少なくとも、これ(↓)くらいの簡潔さは必要です。ただ、他人に読ませようとするなら、どうしても修正前のような甘ったるさが必要になってきます。そして、ぼく自身、いまだにその罠から抜け出せていません。
文章作成に関して最後にぼくが強調したいことは、無駄を削除する必要性です。というのも、書き上げた文章には、間違いだけでなく無駄も多数含まれているからです。無駄には、無駄な言葉から無駄な内容に至るまで様々なレベルがありますが、真に怖いのは、もしこれらの無駄を放置していると、本当に自分が主張したいことがそれらのゴミに埋もれてしまうということです――無駄を削除するのが必要な理由は、ここにあります。
無駄を削除する際のひとつの指針は、<書くべきこと>と<書きたいこと>を区別することです。前者が読み手にとって必要な記述であるのに対し、後者は書き手にとって必要な記述でしかありません。なので、自己満足に過ぎない<書きたいこと>というのは、読み手の理解を妨げる邪魔な枝葉として大胆に削除する必要があります。そうすれば、より主張の明確化された文章ができます。
当サイトの作成にあたっては、以下の文章読本を読んでいます。お薦めできるものに関して赤字で示していますので、よろしければ一読してみてください。
ちなみに、この分野で最強との呼び声が高いのは、――ぼくも異論はありませんが――『理科系の作文技術』です。