桜井淳のこれまでの飯田哲也さん小出裕章さん今中哲二さんとのやり取り
テーマ:ブログ私は、これまで、福島県と、まったくかかわりがなかったわけではありません。2002年2月12日に、福島県福島市で開催された、「第13回福島県エネルギー政策検討会」で、「原子力発電所の高経年化について」と題する招待講演を行いました(「桜井淳著作集第4巻市民的危機管理入門」、p.614(2005))。(その後、福島県議会主催の講演会でも「軽水炉の安全性-特にプルサーマル-」についての招待講演を行いました。)
「第2回福島県エネルギー政策検討会」で、環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也さんも招待講演をしていました。その直後、飯田さんの提案と取りまとめによって、飯田哲也・桜井淳・吉岡斉・米本昌平さんらとの連名で福島県知事へ提言書を提出しました(同上)。それを契機に、飯田さんとは、継続的に、意見を交換しました(同書、pp.507-513)。
つぎに、飯田さんと顔を合わせたのは、2002年11月2日、福島県郡山市で開催された日本弁護士連合会主催の緊急シンポジウム「東電不正問題と日本のエネルギー政策」でした。お互いにパネリストでした。その時、弁護士の河合弘之さん(総合司会)と海渡雄一さん(パネリスト)とも知り合いになりました。その直後に、河合さんと海渡さんから、浜岡訴訟の映像証言の依頼があり、協力しました。私は、シンポジウムまで、日本弁護士連合会とは付合いがありませんでした。真相は知りませんが、私をパネリストに推薦したのは、飯田さんではないかと思っています。
飯田さんとは、そのシンポジウム後、2回ほど顔を合わせました。私と飯田さんは、原発の安全性やエネルギー政策において、考え方が非常に近いと感じています。
私は、昔から、京大原子炉実験所の小出裕章さんと今中哲二さんの名前は知っていました。しかし、忙しさに流され、直接のやり取りはしませんでした。しかし、2008年冬頃、今中さんが、私の事務所主催の学術セミナーに参加したのを契機に、やり取りするようになりました。今中さんだけでなく、小出さんともやり取りをするようになりました。
私は、2009年前半(CY)、今中さんと小出さんと頻繁にやり取りをしました。多くの疑問もぶつけました。そのたびに誠実な返事がありました。ふたりの考え方がよく分かりました。人間的にもすばらしく、能力的にも東大教員よりも上だと受け止めました。
そのため、2009年秋に開催される科学技術社会論学会研究大会で「ワークスタディ」セッションで研究発表をしようと提案しました。しかし、小出さんは、どの学会(原子力学会脱退)にも不信感を持っており、今中さんも分野外の学会と位置づけ、結局、研究発表は、実現できませんでした。結局、私単独で、「ベック「危険社会」に象徴されるリスク管理社会の情報の発信法と信頼性」(「科学技術社会論学会第8回年次研究大会予稿集」、pp.40-43(2009))と題し、小出さんや今中さんを高く評価する内容の研究発表をしました。
そして、最後に、「地震国日本で数多くの原発を運転するのであれば、スリーマイル島原発事故並みの炉心溶融は覚悟しておかなければならない」と結論しました。2009年以前にもそのようなことを主張していました(前出著作集参照)。2010年秋の同学会第9回年次研究大会でもそのような主張をしました。それから、わずか、半年後に、福島第一原発事故が発生しました。
私は、2000年以降、社会科学で原著論文を書いたり、東大大学院で社会科学の研究をする過程で、昔に比べ、考え方か大きく変わりました。原研や安解所や原産(兼務非常勤)の頃の私とは違います。東大駒場から東大本郷に移り、考え方(哲学と方法論)が、さらに、大きく変わりました。その成果は、今後、原著論文や学術書として、示したいと考えています。
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