書く
辺見 お会いするのは、いつ以来でしたか。
日垣 辺見さんのご本(『もの食う人びと』)がベストセラーになって、間もなく25万部に届こうとしている頃だったと思います。まだ新聞連載中に、ある週刊誌で部数を「予言」したんでしたよね。
この1年間、あまたある連載の中で私が最も感銘した、はっきりいえば嫉妬した作品は、共同通信記者の辺見庸氏が書き綴った『もの食う人びと』である。(中略)この国で『もの食う人びと』は、まっとうなジャーナリズムの誕生を告げた。(中略、単行本になったら)25万部は突破するに違いなく、そうあってほしい
(『エコノミスト』1994年5月17日号)
日垣 共同通信の中では、そんなに売れる訳ない、みたいな声があったんですか。
辺見 もちろんそうですよ(笑)。それは共同だけじゃなくて出版界もです。僕なんか、日垣さんのコラムに大笑いで、「冗談じゃねえよ」なんて言ってね(笑)。でも出版局は本当にすごく喜んでいました。
日垣 家内は新聞を全然読まないタイプなのですが、連載中には『もの食う人びと』が出る日だけは楽しみにして読んでいました。
辺見 あれは日垣さんのおかげで売れたみたいなものだから(笑)。
私の運命もずいぶん変わって、会社を辞めることにしました。
日垣 えっ?
辺見 もうかれこれ9年か10年くらい辞めよう辞めようと思って、やっと決断して辞表を書いたところです。
もともとあまり好きじゃなかったんですよね、組織ジャーナリズムが。26年もいたけれど、やっぱり合わない。新聞の常識に自分を合せるのが面倒くさくなったんですね。
日垣 でも、ほかの記者からしたら、相当自由奔放に、ほとんど出社もせず、みたいなイメージがあるんですが。
辺見 辞めたって辞めなくたって同じだろうと言われましたけど、やっぱりうっとしいところがあるんです。どんどん合わなくなって、書くのもしんどくなってきたんです。実は『もの食う人びと』連載中でも、新聞の文章じゃない、データがない、情報がないとか、内輪から反発もないわけでなかった。こうした新聞の文
法に、どうしても自分を合わせきれなかった。新聞の世界って、案外男らしくなくて、内部は時に陰湿だったりしますしね。
日垣 ビッグネームになられて、本も売れて、楽勝の退社ですね。
辺見 いや、そんなことはないです。生活は一番迷いますよ。
日垣さんもやっておられて分かると思うけど、原稿料とか印税なんて給料に比べら屁みたいなものです。給料だったら年間2回くらいベストセラーをだすくらい、古参記者はもらっている訳だから、それは大変ですよ。年間2回ベストセラーなんて書ける訳ないでしょう。一生に一回も難しい世界です。
だから僕は3年だけです。3年早めに辞めてしまう。3年ならなんとか食っていけるだろう。あとは分からない。でも3年先のことなんか誰が分かるんだというふうに思っている訳です。
日垣 僕は半年先も分からないという感じで、綱渡りをしてきました。
実は、共通の友人である沼沢均さんが共同通信の長野支局にいたとき、僕は同い歳の彼と出会いました。いまから12年ほど前のことです。
僕は大学を出てからずっと配送とか、肉体系の仕事をしてきたのですけれど、それまで記者というのは入社試験も難しくて受かりっこないと思っていました。ところが沼沢さんに会って、ああ、書く仕事っておもしろそうだなと初めて思った。書く仕事をしたらいいじゃないかと彼が言ってくれて、いまの自分がある。
辺見 彼は僕が知っている限り、後輩の中では、いわば管理型の記者世界には合わない人間ですよね。人間を愛し、人の世界にギラギラ音の聞こえてきそうなほど興味を抱いていた。
日垣 94年暮れ、ルワンダ取材の話がもちあがって、僕は彼に協力を求めました。久しぶりの再会を現地でと楽しみにしていたのですが、僕と電話で話した直後、彼は取材中の事故で亡くなってしまった……。
辺見 僕はナイロビで、それからソマリアでもずっと一緒に彼とやって、あんまり何度も戦場に行くものだから、「ヤバイと感じたら布団をかぶって寝てるものだぜ」と言ったことがありました。
信毎にもずいぶん載ったけれども、ある意味で彼はアフリカ報道を変えちゃったんですよね。途上国、第3世界というのは新聞的なバリューがいままでほとんどなかったのに、沼沢は記事の中にロマンを入れた。読者の胸を打つようなかたちをつくった。
舐める
日垣 沼沢さんと出会ったおかげで(?)、僕は失業して、この世界に入る過程で短期間ですが、正月に塩を舐(な)めて過ごすような、どうしようもない貧乏を経験しました。
辺見 僕のこれからの生活がそうかもしれない(笑)。
日垣 ところで、もともと日本には、「塩を舐めても助け合へ」とか「塩を買つて手をねぶれ」など、貧乏を耐える俚諺(ことわざ)に、しばしば塩が出てきます。
辺見 踏ん張ったり、頑張ったり、耐えることとか言うのに塩を使う言葉は多い。でも、いまはほとんど死語じゃないですか。
日垣 実際、「手塩にかける」というような、いい言葉があるんですね。
辺見 手をかけ、面倒をみる。実にいい言葉です。
日垣 昔はみんな手をかけていたんですよ。人にも、食べ物にも。
中学のとき、野沢菜をお店で売っているのを見てショックを受けたことがあります。高校のとき、おにぎりを売っているのを見て、また小さなショックを受けた。この20年は、そんなことの繰り返しでした。
辺見 確かにそうだよね。僕らの頃はなかったものね。
日垣 ああいうものを売ったり買ったりしてはいけない(笑)。
辺見 僕は出身が宮城県で、漬物といえば塩気の強いナガナス漬けです。朝漬けなんて食ったことなかったし、物足りなかった。
昔、塩は台所の小さな瓶(かめ)に入っていて、のぞくと土でも入っているんじゃないかというような、くすんだ色をして固まりになっていた。それが塩だと思っていたし、子どもの頃、体の調子が悪いとき塩湯みたいなものを飲まされた記憶があります。塩で歯を磨くとか。
日垣 それはやりましたよ。手につけて。
辺見 何かの映画で溶鉱炉で働いている人が、塩を舐めているのを見たことがあるけど、いまはどうしているのかな。ポカリスエットか何か飲むのかな(笑)。
日垣 手に塩をつけて舐めるというのが、小さい頃けっこうありました。
辺見 あった、あった。
日垣 あれ、何でしたっけ。
辺見 何だろうね。確かにあったね。
いまだって、ゆで卵を食うときに、こっち方の手のひらに塩をふったりしない?
日垣 余ったらぺろんと(笑)。
辺見 そうそう。場所によって違うらしいけど、手についた塩をパッパッと払うでしょう。捨てるのがだめだ
というのと、塩はいずれにせよ、大地や海に戻るからいいんだという両方あるみたいね。塩は完全に自然と一体のものと考えていたんでしょう。いまは誰でも、塩なんて化学物質じゃないかと思う。
食う
日垣 僕は、旅先で脱力感を覚えたときのために必ず塩の効いた梅干しを持って行きます、昔の人が塩を携えて行ったように。
辺見 たとえば大岡昇平なんか読むでしょう。そうしたら兵隊は塩は必ず持って行きますね。僕は『もの食う人びと』でミンダナオの取材もやりました。あまりハッピーな話ではありませんが、残留日本兵がなぜ人を食ったかという話です。
行軍中もやたら塩辛いものを食いたくなる。だから小袋に塩を必ず持って行くと、大岡昇平の『野火』にも書いてありますよね。ミンダナオ島の残留日本兵もそうだった。
日垣 竹筒で持って行ったようですね。
辺見 そうです。彼らはその後、捕まって軍事法廷に連れて行かれて、なぜ人を食ったのか証言するのですが、塩分が欲しかったと。僕は半信半疑ではあるけれど、なるほどと思う。人の肉は割合と塩辛い、塩分が欲しかったとしきりに言うんです。
日垣 よくイヌイット(エスキモー)は塩の摂取量が極端に少ないと言われていますが、実際は生肉をたくさん食うことで間接的に塩分を摂っているんです。「エスキモー」とは近隣に住むインディアンの言葉で「生肉を食う人」を意味します。
ところでミンダナオでの残留日本兵の証言が真実だとして、人肉を食えば塩分が摂れると思ったのか、
それとも本能的なものだったのでしょうか。
辺見 私は本能的なものじゃないかと思う。江戸期の大飢饉のときは、親が子どもを食ったり、子どもが親を食ったりというのがずいぶん多かったようです。戦時中でも…。
日垣 どうやって食ったんでしょう。
辺見 これは書けないけど、軍医が調理したとも言われていますね。おしっこが回っちゃうから最初に膀胱を抜いた。やっぱり若いのはうまいんだっていう話も出てきます。いずれも裏付けの必要な話ではあります。
日垣 しょっぱいということは、要するに血液なんですよね。
癒す
スープは、どうしたかって?
前置きが長くなり申しわけない。昼過ぎまでのこの労働のあとに、鉱員クラブの食堂で、それは出たのである。
私はその前にふがいなさをのろいながら、シャワーを浴びた。口から、黒い汁をタコみたいに吐きつづけた。(中略)そして、スープを飲んだ。(中略)なんだか優しい日本の田舎の味がして、喉がゴロゴロ鳴りだしそうだった。
セロリ、パセリの根もベースになっているかもしれない。それに、唐辛子の適度な辛さが、疲れた体を気持ちよく刺激した。
「世界一だ」
私はうなった。
(『もの食う人びと』より)
辺見 ポーランドの炭坑で、600メートルくらい下まで潜っていると、真っ黒になっちゃうんです。暑くて、もうめちゃくちゃな汗をかきます。上がって飲んだときのスープが世界中で一番うまかった。それが実は塩辛い。ポーランドは岩塩がいっぱいとれる。おそらくいい塩を使っているんでしょう。うまかったというのは、それをすすっているともう元気になっちゃうからだと思います。
日垣 確かに塩にはそういう、瞬間的に力づける何かがありますね。
海外に行くと無性におにぎりを食べたいとか、味噌汁飲みたいとかありませんか。
辺見 いや、ありますよ。あるけれども、僕は先の見えない旅をするでしょう。日本食を考えるのが一番よくないんです。未練が残りますから。だから、基本的に食い物はその場で調達する。梅干しなんか持って行かない(笑)。
にぎり飯と言えば、僕は記者時代の最初は5年間びったり警察ばかりやってた。事件だけでなく、事故をやりますでしょう。たとえばタンカーの火災なんかで、何人も死んじゃって、レンジャー部隊とか警察とか消防士の人たちが徹夜で仕事をしているでしょう。そうすると、炊き出しが来るんです。人がいっぱい死んでいるんだけど、食うとこれがうまい。塩をつけただけのおにぎりなんだけど、ぐったりしているのが元気になっちゃう。あれは本当にすごいね。
日垣 僕も阪神大震災の直後から、神戸のラジオ局に寝泊りしていたんですが、差し入れから何から食えるものは毎日ひたすら朝、昼、晩ともコンビニ物ばかり。どんどん腹に力が入らなくなってきて、結局僕は誘惑に負けて炊き出しに並んでしまった。炊き出しのおにぎりと豚汁を食べたとたんに元気になりました。
辺見 僕は高血圧なんです。ここのところずっと山谷のドヤ街に行ったり、取材のため土方をしていて、高血圧であることに気づかされたのです。僕は4時に起きて寄せ場なんて行けないから、寝ないで徹夜して行く訳です。そうするとえらく上がっているんです、血圧が。ついにドクターストップ。医者が塩分を少し控え目にした方がいいと言うから、ふだんあまり塩を摂らないようにしている。降圧剤飲んで塩分を控えていると声も低くなって、何かやる気がしなくなって、ほとんどわびさびの世界(笑)。そのうえやっぱりコンビニ食。たまに講演とか取材で地方に行くでしょ。そうすると逆に元気になっちゃう。ちゃんとしたものを食うから(笑)。
減る
日垣 加工食品とか、コンビニ食って、どうして元気が出ないんでしょうね。
辺見 防腐剤のせいじゃないかな。野菜なんかも一回薬品に通すと言うんだよね、虫を入れると死んじゃうような。僕らは本当にモルモットみたいだね。仕事へのエネルギーも性欲もなくなっちゃう。
日垣 昔は塩が防腐や消毒の役割を担っていたはずです。それがいまでは日本人の平均的な食生活で、半世紀前までは絶対に摂っていなかった防腐剤や化学調味料や化学薬品などで毎日11グラムにもなる!
それが日本人の塩の摂取量に匹敵するんだそうです。
辺見 ふぅ。
日垣 子どもたちにアトピーが出ないほうが不思議だということです。最近の少子化も関係あると思う。
辺見 精子の数も減ってきてるんだってね。
日垣 1938年と半世紀後の1990年に、21ヵ国の1万5000人の精子数を調査したら、1938年には1ミリリットル当たり1億2000万(匹?)で、ところが90年のでは平均して6600万しかないらしいです。ゴア副大統領の受け売りですが(笑)。
怒る
辺見 山谷の話をちょっとしてもいいかな。
山谷のドヤ街にはいま、かつての2倍くらいに人が増えています。リストラだけじゃない。管理からはみ出てくる人たちがすごく増えているんです。昨日まで教頭先生でもやっていたような感じの人もいる。まだズボンの折り目があるような人が段ボール箱を持って歩いているんです。若いのもけっこう増えてきています。
60〜70年代に比べて顕著な違いというのはいったい何かというと、彼らは自分がいまそういう窮状にあるということについて、世の中のせいだとか全然思っていないということです。全部自分が悪かったというふうに思っている。60〜70年代には、ジャイアンツが連敗したのも世の中のせいにして交番を焼き討ちしたりして、いちいち騒動を起こしていたんです。
日垣 怒りのエネルギーがあった。
辺見 彼らは賞味期限の切れた弁当とかをコンビニからもらって食ったりしていますが、かつては、にぎり飯しか食っていなくたって、戦うというか、もっと暴れていました。いまは非常にもの静かです。むしろ僕が住んでいた虎ノ門のあたりのほうが、どこか切れかかったもの、狂気じみたものがあるけど、山谷にはないです。内省して、自分がこういう窮状にあって、妻や子どもと別れて完全に根無し草になっているのも、自分の生き方が悪かったからだというふうに思っているんですよね。
それは何なのか。食い物と塩のせいじゃないかと思うときがある。昔は自然塩を食っていたでしょう。70年代の半ばくらいから、さらさらし過ぎて料亭の入り口にやる「盛り塩」にもならない、精製の行き届いた化学物質みたいな塩を食うようになった。それと彼らが戦う意志を失っていく過程が似ている。
日垣 怒りがなくなったというのは痛切にお感じになりますか。
辺見 すごく思いますね。山谷だけがそうというのではなくて、たとえば都心のわれわれの世界でも本当
にないと思う。怒るべき問題があるのに、です。何かの責任を問うていくときの勢いや力がまったくない。これは社会学的、社会心理学の問題だけじゃなくて、けっこう食い物に関係あるのかなと思ったりしますよ。
日垣 大人が怒らなくなった、というより怒れなくなった。周りを見ていても、子どもを本気で怒れる親父が本当に少なくなっている。塩は戦意とか性欲にもエネルギー源として関わっているのでしょう。相撲取りでも塩を舐めたり、顔をパンパンとやったりとか、かなり戦闘意欲を鼓舞している。
塩の研究をしている人たちは、どうも最近の子どもたちがやたら骨が折れたりとか、へなへなと優しくなったりということに関係があるんじゃないかとも言っています。精製塩にはカリウムがない、マグネシウムがない、にがりもない。
曲がる
辺見 1972年に塩田が完全になくなるでしょう。
日垣 前年に塩業近代化促進法が成立し、72年には、それまで27ヵ所もあった塩田を全部一斉につぶしてしまった。僕はあれが現代日本の曲がり角だったと思います。
それまではずっと瀬戸内海でとれた塩とか、岩手でとれた塩とか、それぞれ地酒みたいに地物があった。それが塩業近代化促進法で全滅。どの政党も反対していないのです。砂糖はなくても死なないけれど、塩はないと死ぬ。にもかかわらず塩というものが政治の課題にもならないし、塩田の復活!なんていう政党は一つもない。
72年というのは、グアム島で横井庄一軍曹が保護されて「戦後」を全国民が確認して幕が開き、札幌オリンピックで高度経済成長の繁栄を確かめ合い、浅間山荘の銃撃戦があって、直後に集団リンチ殺人事件が発覚して学生運動が終息します。そのあと田中角栄内閣ができて、日本列島をブルトーザーが駆け巡り札束が舞い、日中国交回復があった。
辺見 沖縄返還も同じ年でしたよね。
日垣 ええ。沖縄の塩田も本土復帰に伴って、全部の塩田をつぶすことが復帰の条件の中に入っていた。
なぜ日本全土の塩田を破滅させたのかというと、塩の価格を安定させるとか、台風の被害に強くするとかが官僚の説明でしたが、実際には現在日本がかなりの割合で塩を輸入しているメキシコのほうがよっぽどハリケーンなどの影響が大きいのに、そういう危険性は全部、他国、特に途上国に背負わせてしまった訳です。
辺見 人的コストが高いということが日本の労働構造自体や生産構造自体を変えていく。G7の国の中でも際立って異様な国になっちゃっているんです。
1982年に日本の第1次産業は10%を切って、いまに至っては穀物需要の77%を輸入に頼っています。日垣さんが言われたように、塩もそうなんだってね。国内で満たしているのは14%くらいしかない。
日本では野菜とか食品全体が、要するに「わしら食うからお前らつくれ」という発想です。それに気づいて若干の反省が出てきているのがいまな訳だけど。
とにかくこの国はものをこしらえる、手ずからつくるということを放棄したんだね。
働く
日垣 フランスのブルターニュの塩田では、(野球場整備用の)とんぼみたいなものを使って塩を収穫する。フランスでは脱サラして塩田で働き始める人も少なくないと新聞記事に出ていました。その人たちはまず塩田職人学校に行くんです。塩田職人学校というのがフランスにもドイツにも、ちゃんとある訳ですね。1年半しっかり勉強もし、技術をちゃんと身につけないと、そういうところで働けないのです。
日本の場合は塩田を完全に全部だめにした訳ですから、脱サラ組にきてもらおうにもきてもらいようがない。そもそも日本は職人を大切にしなさすぎる。
辺見 塩田で働く労働者を浜子と言ったかな。炭鉱労働者とともに足腰が強くないとできないきつい仕事の代表だった。
日垣 塩田での仕事は、もちろん重労働なんですけれども、ものすごく太陽が豊かで、風も必要、大地の上で誇りを持って仕事をしている。おそらく脱サラしていく人というのは、そういうことに対して欲望みたいなものがあると思うんです。
辺見 額に汗して働くというのが労働の基本形だった。いまはエアコンがあって、真夏でも汗一つかかないでやるものだから、ひとしきり働いたあと、ああ塩辛いものを食いたいという感覚から遠く隔たってしまった。体を使って直接ものをこしらえるということを放棄した国にとっては、いわゆる化学的な塩分を摂取するだけでよくなっちゃったんじゃないかな。
日垣 半導体の生産現場で「ナトリウムショック」という言葉があります。よく宇宙服みいたいなものを着てやっているじゃないですか。髪の毛が落ちるとか、物理的なああいうものは落ちても実際には困らなくて、何が困るかというと、ナトリウムが一番いけないのです。半導体が最も嫌うのはナトリウムで、要するに人間が生で触るのが一番いけない。
辺見 汗がいけないんだ。
日垣 ええ、塩化ナトリウム。要するに人間の汗を徹底的に排除しなければいけないのです。これは、今日ずっと話してきた労働疎外の最たる光景という感じで、決して偶然じゃないと思います。汗が一番まずいという実態が日本の経済を、ある意味では支えている。
辺見 全くそのとおりだな。僕はいま、そのことにすごく関心がある。それが単に身体的な労働形態だけでなくて、日本人の発想まで変えてしまったんだと思います。言葉の空洞化も、汗を嫌うからかもしれない。