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[30238] エーテルストライカー達のジレンマ【ファンタジー】
Name: 仙戯◆97bdbc1a ID:d9a73d31
Date: 2011/10/23 00:29

■ローストビーフは好きですか?





 例えば、お前はローストビーフか、と聞かれたとしよう。
 はい、そうです。なんて答える奴はまずいない。もしいたとしたらそれは本物のローストビーフか、あるいは頭のおかしい奴かのどっちかだ。で、普通に考えてローストビーフが喋るわけがないから、そいつは頭のおかしい奴ということになる。
 いや、実際ローストビーフはどうでもいいんだ。この際関係ない。別に俺がローストビーフ大好きっていうわけではないし、ただなんとなく思いついた単語なだけだ。あまり深く考えないでくれ。
 つまりまあ、それぐらい衝撃的だったわけだ、俺にとっては。何がと言うと、そこにいる小娘が言った台詞がだ。
「ボクを相棒にして下さいよ」
 女のくせにボクである。世の中時代が進むにつれて中身が成熟した子供も増えてきているが、こいつは駄目だ。女のくせにその自覚が全くない。つまり中身も本物のガキだ。しかもこいつときたらコレが開口一番なのだ。言い方からしてもう何度も頼み込んでいるような口振りだが、初対面の初っ端からこういう言葉が出てきたのだ。失礼にも程があるだろう。正直殴りたい。
「…………」
 こいつなら絶対に自分がローストビーフだと言う。そういう頭のおかしい奴だ。状況をよく見て考えなくてもこの小娘が話しかけているのは俺しかいなかったが、それでも無視することに決める。馬鹿には近寄らない方が賢明だ。病気が移る。
 見た目が怪しい。膝の裏ぐらいまである、青みがかかった黒髪。服装は肩の露出したぶかぶかの白い長袖シャツに、白のラインが入った黒のスマートパンツ。ここまでは良い。強いて言えば髪が長すぎる気もするが個人の趣味だ。とやかく言う気はない。だが何だそのサングラスは。似合っていないにも程がある。サングラスをかけているとは言えない。サングラスにかけられている、と言った方が表現として正確なんじゃないだろうか。
 俺は横目でその小娘をじっくり頭の天辺から足の爪先までつぶさに観察した後、ぷい、と顔を背けた。
「あっ」
 小娘が抗議めいた声をあげる。文句を言いたいのはこっちだ。いきなり訳のわからん子供に『相棒にして下さい』なんて言われてひどく不愉快な気分なんだ。やってられっか。
「ねぇ聞いてます? っていうか聞こえてるんでしょ? あからさまな無視はやめてよ。大人げないじゃん。ねえ。ねえったらねえ。ねーえー」
 しつこく話しかけてくる怪しい小娘に、俺の忍耐力は一気にレッドゾーンへ突入した。
「だぁぁぁもううるっせえっ! お前なんか知るかっ! ガキは家に帰ってクソして寝てろ!」
 と、言いたいところだったが、ぐっ、と我慢した。大人の余裕という奴だ。いや違う。すまん嘘だ。
 ここは喫茶店を兼ねた仕事斡旋所だ。広い空間に、白い床と全面ガラス張りの壁。清潔感を感じさせる照明に、光を受けて輝く赤と白のテーブルと椅子。そこに腰掛けて茶を飲みながら仕事情報誌をめくる様々な種類の人々。むさ苦しいおっさんもいれば、スタイリッシュな美女もいる。装いからして一見すれば『女性に人気のデザインチックなカフェ&パーラー』という感じだが、それでもここは仕事斡旋所だ。俺のような職種の人間でも仕事をくれる特別な。
 でもまあ、穏やかな音楽がかかっていて気軽な会話が交わされているこの雰囲気は、やっぱり喫茶店と同じだ。人もたくさんいる。だから大声で騒ぐととても恥ずかしいことになる。だからだ。そうでなければこんな妙なガキにはとっくにお帰り願っているところなのだ。
「ふーん、そうなんだ。無視するんだ。へぇぇ。じゃあいいよ。それならそれで」
 そうかいそうかい。そいつは良かったな。それじゃさっさと家に帰って……っておい。どうして俺の対面の椅子に座りやがる。
「ボクの名前はマテリア・オールブライト。お兄さんはゼテオ・ジンデルさんだよね?」
 そして勝手に自己紹介した挙げ句にこっちを特定かい。やってくれる。良い度胸じゃないか。
「お前、何の用だ」
 俺はようやく声を出した。無論、とびっきり不機嫌なものを。こちとら仕事を探しながら、のんびりコーヒータイムを楽しんでいた所だったのだ。俺は一人で過ごすこの時間をとても貴重に思っている。それを邪魔したこいつは許せない。泣いて帰らせてやる。
「あ、ようやく喋ってくれた。なんだ喋れるんじゃん。何でさっきまで無視してたのさ? ボクのこと邪魔?」
 我ながらドスを利かせたつもりだったが、近頃のガキの神経は図太いことこの上ないらしい。平然としてやがる。
「ああ邪魔だな。うっとうしい。あっち行け」
 俺も努めて冷静に対応した。テーブルに広げた仕事情報誌に視線を落とし、出来る限り苛立たしい声で言ってやる。子供の遊びに付き合う気はない。例え仕事がなくて暇していようとも。
「ねぇ、ボクを相棒にしてよ」
 もう敬語が消えていた。さっきは『相棒にして下さいよ』って言ってなかったか? 子供は本当に図々しい。ちょっと口を利いてやるとすぐこれだ。
「やかましい。誰がするか。さっさと帰れ」
「やだ」
 ガキは即答しやがった。ちょっと本気でカチンときた。
「せめて理由ぐらい聞いてよ。本当に大人げないなぁ、ゼテオさん」
 待てこら。誰が『ゼテオさん』だ。お前にファーストネームを呼ばれる筋合いはないぞ。
「……ジンデルさんと呼べ」
「やだよ。ゼテオさんの方が呼びやすいし。あ、ボクのこともマテリアでいいよ。これから相棒になるんだし」
 にへへ、と笑うマテリアとやら。おいおい決定事項かよ。ふざけるのもいい加減にしてくれ。
「ちょっと待て。勝手に話を進めるな。大体、お前は誰だ? 俺に何の用なんだ? はっきり言うがさっきから訳がわからん」
「だからボクの名前はマテリアで、ゼテオさんの相棒になりたいって用件だよ? はっきり言ってるんだからちゃんと理解してよ」
 きょとんと素で言ってのけやがった。んもー、と唇を尖らせている姿はただ拗ねているだけで、別に喧嘩を売っているつもりはないらしい。台詞はこっちを舐めているとしか思えないが。
「だからそれが訳わからんと言ってるんだ、バクテリア。単細胞が考えることは上等生物の大人にはうまく理解できなくてな。悪かったな、バクテリア」
「まてりあ! マテリアだよ! ひどいよバクテリアなんて!」
 ばんばん、とテーブルを叩いて抗議する。お前なんかバクテリアで十分だ。いや、有害物質を無害な物に変えてくれるだけバクテリアの方がまだましか。
「わかったわかった。なるほどお前の名前はようくわかった。で、相棒が何だって? 何にしてくれって? 悪いが俺は見ての通り仕事を探してる真っ最中でな。子供の遊びには付き合ってる暇はないんだ。わかるか?」
 言い含めるような俺の言葉に、小娘は、もー、と憤懣やるかたない様子で溜息をつく。
「だから相棒にしてって言ってるんじゃないか。いい加減ちゃんと相手してよ、子供扱いしないでさ。ボク本気なんだよ? ついでに言うと帰る家もないしミルクを吸わせてくれるママもいないからね。だからつまんない追い返し文句だけは言わないでよ?」
 随分と慣れた対応だな、と少し驚いて俺は仕事情報誌を閉じた。この反応からすると、既に何人かに同じ事を頼み込んで断られてきた口だな。それで今度は俺のところってわけか。なるほど。そこまで言うなら真面目に応じてやろうじゃないか。俺はマテリアという少女の顔をじっと見つめる。
「お前を俺の相棒にしてくれ……って本気でか?」
 マテリアはうんうんと頷く。サングラスのせいでやたらと無表情に見えるが、仕草だけは多彩な奴だ。
「じゃあ本気で返事するが、絶対に駄目だ。よしこれで解決したな悪いが他の奴を当たれそれじゃあな」
 再び仕事情報誌を開く俺。返答など最初から決まっていたのだ。
「うわあ無情じゃないかそれぇっ! もうちょっと何かないの!? なんでそんな事を言うんだ理由を聞かせろよとか! ボクが一生懸命話しかけた意味ないじゃん!」
 ばんばんばんばん、とテーブルを連続で叩く。うるさいったらありゃしない。騒ぐな。
「ンなことは知らん。大体ここは子供が来るところじゃないし、相棒探しをするところでもないし、そもそもドリンク一つ頼まん奴にいていい理由はないだろうが」
 かく言う俺の手元には、ここで一番安いメニューのブレンドコーヒーがある。いや、言い訳ではないが、別に安いから頼んでいるわけではない。安い割にけっこうイケるのだ。だからこれを好んで注文しているのであって、貧乏なわけではない。金持ちってわけでもないが。
「いいよわかったよじゃあちょっと注文してくるから待っててよね!」
 言うが早いか疾風の如く販売カウンターへ走っていく。ここは販売カウンターの右側で注文した物を受け取り、金を払う。食器などは左端で返却する。テーブルはどこに座ろうと自由だ。ドリンクだけではなく、簡単な食事も頼める。
 さて。ここで俺はまだ残っているブレンドコーヒーをあっさり諦めた。やっぱり子供の相手なんかしていられないのだ。実際、さっきから周囲の視線が煩わしい。何も考えずにあの小娘がテーブルを叩くから何事かと思われてしまったのだ。このまま逃走……というと語弊があるので、戦略的移動という表現が好ましい。立ち上がり、椅子の背にかけていた黒のジャケットを手に取る。素早く袖に腕を通すと仕事情報誌を丸めてポケットに入れて、出入り口へと何気なさを装って歩き出した。途端、
「ああぁ────────ッッ!?」
 見つかった。湯気を立てるカップの乗ったトレイを両手で持ったサングラスの少女が、顔の下半分を口だけにして大声を出す。もちろん他の客の視線はあいつに行って、次にこっちへ移る。冗談じゃない。目立つのは嫌いなんだよ。
 俺はテーブルとテーブルの間を走り出した。背中に怒声が降りかかる。
「待っててって言ったのにぃ────────ッッ!」
 勝手なことを言う。了解したと返事した憶えはない。それはお前の思い込みだ。これが世の中の厳しさというものだ。わかったかふはははは。
 両手が塞がっている奴は簡単には追いかけてこられまい。俺は出入り口の扉を開けると、そのまま喫茶店兼仕事斡旋所を悠々と出て行った。

「んもー! わかっちゃいたけど本当に行っちゃうんだから!」
 ボクは憤然とさっきの席に戻って腰を下ろした。注文した紅茶をトレイごと、でも気持ちとは裏腹に丁寧にテーブルに置く。テーブルのちょっと向こうにゼテオさんが置いていったブレンドコーヒーもある。
 ああいう性格だっていうことは知ってはいたけど、本当にろくでもない男だと思う。ゼテオ・ジンデルという人は。でも彼じゃないとダメだということも視えている。どうにもならないかな、このジレンマは。
 紅茶に砂糖をたっぷり、ミルクもとっぷり。ぐるぐるかき混ぜる。立ち上ってくる甘い香りが、脳みそがとろけそうになるぐらいに幸せ。
 さて。どうしてくれようか。とりあえず紅茶は勿体ないから飲んで行くけどさ。あのゼテオ・ジンデルにどうやってボクを相棒にさせるか。
 サングラスの薄暗くなった視界で、カップの中のミルクティーがくるくると回っている。
「うーん……」
 やっぱり追いつめてやるしかないかな。とりあえず正攻法──だったと思うんだけど──は失敗したし。こうなったらボクが本気だって証を見せるためにも、ガッツリ追い込むしかないと思う。
 紅茶を飲む。糖分が頭に昇ってる感じ。くぅぅぅ、冴えてくる冴えてくるっ。
 まあ実際問題、ボクが〈エクステンド〉って名乗ればすぐに話を聞いてもらえそうな気もするんだけれども。それはそれでなんか嫌だし。なんかムカついてきたから絶対まともに話を聞いてくれるまで正体明かしてやんないことにしよう。とか思う。
 目を閉じて、紅茶を飲みながら、彼を思う。ゼテオ・ジンデル。真っ黒な髪と金色の眼。まるで狼みたいな顔。髪の毛と同じぐらい真っ黒なカッターシャツとズボン。あと椅子にも真っ黒なジャケットがかかっていたっけ。真っ黒くろすけだ。でも背は高そうだったな。
 ボクと同じ〈エクステンド〉の人。
 彼と一緒にいた方が良い。それがわかっている。ボクの目にはそれが視える。
 なら、その彼と一緒にいるのに最適なのは? やっぱり相棒っていうのが一番じゃないだろうか。彼の職業を考えると。性格的にはダメっぽいけど、そこは我慢しよう。
「ふむ……」
 っていうかこのミルクティー美味しいし。ちょっとビックリ。また来ようっと。
 うん。そういうわけで彼に再会するための未来を視よう。紅茶を飲んだ後、ここを出て、ばったりと彼に出会う未来を。その通りに行動すれば、おのずと未来は描かれるはずなんだから。ま、もっと言えばちゃんと相棒にしてくれる未来を視たいところなんだけど、それは無理っぽい。ボクの実力不足なのか、それとも能力の限界なのか。わからないけれど。
 よし決まった。こくこくっと喉を鳴らして一気にミルクティーを飲み干す。カップを空けると、ゼテオさんのコーヒーと一緒にトレイに乗せる。立ち上がって二つのカップを返却口に……ってあれ? どうしたんだろ?
 なんかみんなボクを見ている。全員とまではいかないけれど、テーブルについているほとんどの人が『大丈夫かしらこの子?』的な視線をボクに向けているのである。
「? ……なんですか?」
 試しに一番近くにいた女の人に聞いてみた。するとその人はちょっと驚いたみたいだったけど、わずかに視線を逸らして言葉を選ぶような沈黙を置いてから、
「あ、あたしね? 女の人生って男だけじゃないと思うわよ?」
 となんだかわからないけれど助言のようなものをくれた。
 はて? もしかしてボクは周りの人達にもの凄い勘違いをされているのだろうか?
 ま、いいか。別に無理して解くような誤解ではなさそうだし。適当に、
「ありがとうございます」
 と満面の笑顔──と言ってもサングラスでよく見えないだろうけど──で返しておいた。女の人が目をぱちくりとさせる。あんまり長く見ていると思わず吹き出してしまいそうだったので、そのままトレイを返却口に持って行った。
 そうこうしている内にボクの目が本領を発揮して、これから向かうべき場所を教えてくれる。そこに行けばもう一度ゼテオ・ジンデルに会えるはずだ。出入り口に向かいながら、ボクは心の中で固く決意する。
 絶対追いつめてやる。もとい。
 絶対相棒にさせてやる。

 俺ことゼテオ・ジンデルの職業が何であるかと言えば、大まかには傭兵業ということになる。いや、それ以外にも細々とした仕事をこなしてはいると言えばいるんだが、やはり一番の収入源は傭兵業になる。
 このど真ん中に巨大な塔を押っ立てて象徴にしているサーゲトワという国は、別に戦争をしているわけではない。世界……というか惑星レベルで見ればそこかしこに戦争はあるが、それだって俺には関係ない。実際問題、星の裏側ではでっかい戦争が始まって世界情勢的には大騒ぎなんだが、そこまで行ってドンパチやるつもりは俺にはない。
 目立たない。俺は仕事をやる上でそこを重要視している。この稼業では強い奴、賢い奴はとにもかくにも目立つ。そしてとんでもない早さで消えていく。当然だ。戦場で腕が立つ奴、頭が切れる奴が敵側にいるってわかったら普通どうする? 集中的にそいつを叩こうとするだろう? そういう状況を打破出来るほど強い奴か賢い奴なら問題ないんだろうが、そんな奴はほんの一握りだ。俺はそんな馬鹿な自滅の道を行く気はない。
 本当に強い奴ってのは実力を隠すものだ。『相手を知り己を知れば百戦危うべからず』って言うだろう。相手にこっちの能力を知られるっていうのはそれだけヤバイってことだ。だから本当に強くて今でも生き残っている連中は、誰にも自分の底を見せないでいる奴なのだ。そういった悪知恵を含めてのものが『本当の強さ』ってやつだ。筋肉や技術だけが強さじゃない。
 賢い奴だって、それと悟らせないから『実は頭の切れる奴』ってなるんだ。突き詰めれば、頭の良い奴は誰かを騙せる奴だ。だからそういう奴は普段から周囲を欺いている。馬鹿な振りをして、決して素顔を見せはしない。警戒されていては騙すことが難しくなるから。だから常日頃から頭の鈍い奴の振りをする。臥龍って言葉があるだろう? 賢い奴はどんな時だって伏線を張って、そうとは見せずに、のらりくらりとしているものなのだ。でもって機会が到来した時にしかその本性を現さないのである。
 というわけで、俺は目立つことを好まない。自分にどれだけ実力があろうと、それを誇示するなどもってのほかだ。ひっそりと地味に傭兵を続けて、いつかは「あいつ、なんだかんだと生き残ってるよな。堅実な奴だ」なんて言われるのが俺の目標だ。くだらないとか言うな。一発派手に稼ぐより、確かな実績の方が将来的には有効なんだよ。傭兵って職業は。
 というわけだから先刻のマテリアとかいう小娘は俺にとって疫病神以外の何者でもなかった。あいつが出てきたせいで、あの場でやたらと目立ってしまった。それでなくても俺は他人に目を向けられるのが嫌いなんだ。他人なんざ俺の人生には関係ない。世の中、物珍しさだけで介入してくる馬鹿だっている。だからどんな時だって目立つのは嫌いなんだ。
 街を適当にうろついて落ち着ける場所を探す。戦争に行かない傭兵がする事と言えば、代表的なのは警備員かボディガードだ。勿論、そうそう転がっている仕事じゃない。だから先程みたいな仕事斡旋所や情報誌で探していたりする。戦争中の国ではないとは言え、世の中はまだまだ物騒だ。安全のために金を出す奴はごまんといる。だが、そのくせ仕事は簡単に転がってはいない。この辺りが傭兵業の辛いところだ。誰かそんなジレンマをどうにかする社会機構でも作ってくれないものか。とは、傭兵仲間が常々ぼやいている文句だ。まあ、俺は傭兵が必要な社会ってものがそもそも間違っていると思うんだがな。
 いや、これは当の傭兵が言う台詞じゃないか。
 石畳の大通りを抜け、別の仕事斡旋所を目指す。さっきの所と違って小さいし喫茶店もないが、あっちに行っていない仕事があるかもしれない。あの小娘がついてきていないか、チラチラと背後を気にしながら俺はそこへ向かった。
 まさかそこで再会しようとは。
「遅かったね、ゼテオさん」
 扉を開けた途端。俺の視界に入ってきたのは、でかすぎるサングラスに取り憑かれたような少女。
「……お前、なんでここに」
 一瞬だけだが心に空白が出来て、俺はそんな馬鹿な事を口走った。何かを言う必要などなかったのだ。こいつの顔を見た瞬間にきびすを返せば良かったのである。
 小娘は口の端を、にやり、と吊り上げて、
「あのね、それは実はね」
「いや、いい。やっぱり興味がない。それじゃあな」
 すっぱり斬り捨てると俺は背中を向けて走り出した。残念だがここは戦略的移動だ。ここでまで目立つのは絶対に避けたかった。
 どうせまた「あー!」などと大声を上げるものと思っていたんだが、意外にもあいつは静かだった。気になって走りながら背後を一瞥すると、
「ふふん」
 という感じで腕を組んで出入り口に佇んでいるではないか。なんだあの笑みは。
 まあどうでもいい。走ってりゃ追いつくこともできないだろう。念のため、遠回りして別の仕事斡旋所へ向かおう。
 が、そこでも再会する。出入り口の傍らで待ち伏せていた小娘は片手を上げると、
「やっ、ごくろーさんっ」
 今度は問答無用で戦略的移動である。何故だ? 何故あいつが俺より先にあそこにいるんだ?
 この街には俺が知る限り五つの仕事斡旋所がある。先回りするにしても、その予想が当たるのは四分の一の確率しかない。それが二度も連続で正解するものなのか? それとも地図でルートにあたりをつけられているのか? 何にせよ自分の行動が読まれるっていうのは、随分と癪に障るものだな。
 じゃあその予想を完全に裏切ってやろうではないか。次に行こうと思っていた仕事斡旋所をやめにして、最初の場所へ戻ることにする。喫茶店兼仕事斡旋所のあそこへ。まさか一度行った場所に戻るとは思うまい。
 が、しかし。
「ねぇ、そろそろボクの話を聞く気になってくれたかな?」
 いやがった。しかも物陰に隠れてやがった。人が再度ブレンドコーヒーを注文して腰を下ろしたところで現れやがった。すぐには逃げないだろうっていう状況になってから出てきやがったのだ。
「……お前な」
「残念。ボクからは逃げられないよ。さぁボクを相棒にして一緒に仕事に連れてって。でなきゃここで大騒ぎして目立たせちゃうよ? ゼテオさんの名前連呼しちゃうよ? ロリコン傭兵だって」
 なんつー脅し文句だ。しかし俺に対して有効であることは否定出来ない。そんな目立ち方など死んでもゴメンだ。
 多分、俺の顔は妙な表情になっているのだろう。サングラス越しにそれを見た小娘は楽しそうに口元を綻ばせ、
「ほおら、相棒にしてくれたら静かにしていてあげるって言ってるじゃん。話聞いてくれたらなんで先回り出来たのかも教えてあげるしさ。大人しくした方が身の為だよう?」
「まったくもって興味ないんだがな」
 他人なんてどうでもいい。これは嘘偽りない俺の本心である。だが、現状ではそうも言っていられないようだった。
「仕方ない……話は聞いてやる。それだけだ。相棒とかふざけた事は言うな。後、あんまり時間とらせるなよ」
 不機嫌丸出しで言ってやる。本当は聞きたくないのだ、という空気を言外に迸らせてやる。が、この小娘には効きはしなかった。
 腰に両手を当てて、実に嬉しそうに、
「うんうん、最初からそう言えばよかったのに。余計な手間を取らせるもんじゃないよ、全くぅ」
「…………」
 言いたいことが幾十幾百と脳内に溢れ出したが、全部封印した。ああ、満足げなその顔がひどく気に入らない。殴りたい。
「じゃ、ボクもちょっと注文してくるね。今度また逃げたら容赦なくゼテオ・ジンデル名義で騒ぎ立てるからねっ」
 他人名義で騒ぎ立てるっていうのはどういう意味なんだ。本当に訳のわからないことばかり言う奴だ。
 仕方ないから大人しくブレンドコーヒーをかき混ぜながら、あいつが戻ってくるのを待ってやる。砂糖もミルクも入れない主義なので、かき混ぜるという行為に意味はない。ただの時間つぶしであり、周囲への誤魔化しだ。
 なんと言えばいいのだろうか。周囲のこの視線の束は一体何なのか。軽蔑でも好奇心でもない、妙に生暖かい目が多い気がする。針のむしろに座らされている、とまではいかないが、やけに居心地が悪い。
 ふと見ると、見知らぬ女が販売カウンターへ向かうガキに「良かったね、仲直り出来て」などと話しかけていた。どういう意味だ? もしかして俺とあいつ、もの凄く勘違いされていないか?
「うん、ありがとうございます」
 いや何でお礼なんか言ってるんだ。ちょっと待て。激しく待て。お前か。お前のせいなのか。戻ってきたら文句つけてやるぞ。俺はそういう勘違いをされるのが目立つことと同じぐらい大嫌いなんだ。ああもういいからさっさと注文してこっちへ戻ってこい。
 と、やきもきしている俺の視線の先で、真っ白な服を着た男がガキの隣に現れた。突然ふらっと出てきたように見えたのは、そいつが足音を立てていなかったからだ。そうわかった瞬間、いきなり嫌な予感が俺の背筋を駆け上がった。
 男──といってもまだ子供だ。少年と呼んでいいだろう──がいきなり小娘の片腕を掴んだ。
「へっ?」
 驚いて振り返る小娘。少年はここからじゃ横顔しか見えないが、随分と真剣な目で小娘を見つめている。
「……っ!?」
 少年の顔を見た途端だった。小娘の表情が劇的に変化した。嫌悪、そして怒り。ああ、ものすごい勢いで胸騒ぎがするぞ?
 小娘は少年の手を振りほどこうして、出来なかったようだ。女子供の力じゃ簡単にほどけないぐらい力を込めて掴んでいるらしい。
「はなして! 離してよ! ちょっと……ゼテオさぁん! ゼテオ・ジンデルさあん!」
 はい嫌な予感的中。小娘は俺の名前を大声で呼びやがった。あいつの甲高い声が店内中にこだまする。
 はっきり言ってやろう。腹が立つ。大声で俺の名前を呼んだ女のガキにもムカツクが、それ以上にはらわたが煮えくり返るのは、こんな時、こんな場所で、あんな真似を始めた男のガキの方だ。何も今でなくても良かっただろうに。俺がいなくなってからなら好きにすれば良かったものを。
 ここで逃げたらゼテオ・ジンデルの傭兵としての名前が地に落ちる。そうなれば俺は食いっぱぐれる。目立ちたくはないが、評判を落とすよりはマシだ。地味にブッ倒してここからさっさと逃げる。それでいこう。
 俺は無言のままコーヒーカップを手に持って、中身を床にぶちまけた。水音に周囲の何割かがこっちに目を向ける。少年だって耳で反応したことだろう。その隙を狙って電光石火。
 コーヒーカップが一直線に少年の側頭部に炸裂して砕け散った。
「!?」
 一瞬の出来事だったから、ほとんどの奴には一体何が起こったのかわからなかっただろう。少年本人にもな。それでも頭への衝撃は人体に大きな影響をもたらす。掴む力が緩んだのだろう。小娘がようやく腕を解放されて、こちらへ逃げてくる。さっ、と俺の背後に隠れると、
「助かったよ……ねぇ、助けてくれたってことは」
「勘違いすんな。成り行きだ馬鹿。冗談じゃねえぞまったく」
 頭を押さえてふらふらしている少年は、しばらくは回復出来ないだろう。その間に逃げるのが得策だな。
「行くぞ」
 小娘の手を引く。とりあえず場所を変えて、こいつの話を聞いて、それで終わらせよう。
 それにしても、どうして一銭にもならんのにこんな事をしなければいけないんだ。今日は厄日か?
 小娘は、きゅっ、と俺の手に柔らかい感触を返してきた。一瞥するとこいつは笑顔で、
「うん、ゼテオさんに任せるよ。よろしくねっ」
 などと、これから相棒としてよろしくね、みたいな感じで言いやがった。まずい。今、俺の中で『こいつやっぱり捨てていこうかな』って誘惑が。だが置いていくわけにもいかない。どうしたもんだ、このジレンマは。
 周囲の客共も総立ちの大騒ぎだ。女がいるにも拘わらず悲鳴一つ上がらないのは、ここがまがりなりにも『特別な』仕事斡旋所だからだろうな。
 少し見回すと、すぐそこにどこかで見たような顔があった。名前は覚えてないが、一度か二度、仕事現場であったことのある男だ。あちらもこちらの視線に気付いて、口を『あ』の形にした。どうやら憶えていてくれたらしい。だがそれがお前の不幸だ。
「すまん、よしみでここは一つよろしく頼む」
「え? ちょっ、おまえ、あっ!?」
 言い置くと俺は小娘の手を引いて走り出した。悪いな、名前も覚えていない仕事仲間よ。運の悪い俺の代わりに不幸になってくれ。
「うわあっ!?」
 せっかく走り出したというのに、小娘はそこらの椅子やテーブルに何度も脚を引っかける。鬱陶しい。
「っあ──わぁおっ!?」
 ひょい、と片手で宙に浮かせて、肩で抱き上げる。これで良い。多少重いがこっちの方が迅速に動ける。
「あれれ? ちょっとこれどうなってるの? よくわからないんだけど……」
 俺の肩にタオルのように引っかかっている小娘の言葉なんて無視だ。じたばた動く脚を押さえて、再び走り出した。
 扉を蹴飛ばし、出入り口から飛び出す。
 騒動のざわめきを背にして石畳の上を駆け出す。でもって、しみじみとこう思う。
 目立つのとガキは大嫌いだ、と。


 大通りを人間一人担いだまま走るなんて有り得ない。だから俺はすぐに裏道へ飛び込んだ。
 日陰にあってぬかるんだ地面を一気に駆け抜け、さらに建物同士の隙間へ滑り込む。
 そこでいったん足を止めて、小娘を肩から降ろした。
 そんなに離れているわけではないが、ここまで来ればひとまずは大丈夫だろう。あちらに人数がいて、大勢で探し回されれば見つかるかもしれないが。どうせ少年一人だろうしな。
「はう……あう……うう?」
 地面に降ろしてやった小娘は、目を回したのか、ふらふらしている。まぁ俺だってそれなりに一生懸命走ったからな。それこそ肩に担いだものを気遣う余裕もなく。それはよく揺れたことだろう。
「あふぁ……ほおおっ?」
 足下がおぼつかない小娘は、頭を大きく振りながら壁に寄りかかった。バランス感覚がおかしい時は体の操作がおおまかになってしまうものだ。見ていると、予想通りに小娘は壁に軽く頭をぶつけた。その際、こつん、とでかすぎるサングラスが石の壁に当たる。
 ずるり、と落ちた。
「あっ」
 その瞬間、冷水でも浴びせかけられたように小娘は慌てた。落ちていくサングラスをわたわたと掴もうとして、失敗に終わる。
「……!」
 俺は息を呑んだ。小娘がサングラスの下に隠していたものを見てしまったのだ。
 それは異彩の瞳。
「お前」
「あっ、やっ、そのっ」
 動揺する顔に填め込まれた二つの眼球。その瞳はグラデーションをかけたように常に色が変化していた。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。つまりは虹色。ゆっくりと時間が進む毎に色合いを変えていく、不思議な瞳。それが印象的なのは、何も色が変わるからだけではない。
 淡く輝いているのだ。
 虹色の瞳、それ自体が光を放っている。だからこんなにも印象的なのだ。
「えっと……あ、あはっ☆」
 異色を放つ双眸を隠そうとして失敗した小娘は、追いつめられたように頬を引きつらせて、無駄に茶目っ気のある動作で笑って見せた。アホか。それで誤魔化したつもりか。
「あはじゃねえだろ。バカかお前は。その目は何なんだ。隠してたってことは何かあるんだろ」
「あは、あははは……」
「笑うな。さっきの奴もそれに関係があるんだな?」
「えーっと……なんて言えばいいのか……」
 俺は小娘に近づいて、その片腕を掴んだ。ぐっと力を込める。絶対に逃がさない。意地でもその目のことを聞き出してやる。
 七色。虹色。それは他でもない俺と同じ色だ。見逃すわけにはいかない。絶対にその正体を暴いてやらねば、俺の心はもう止まりそうになかった。
「話せ。なんだその目は。お前は何者だ。どうして俺に近づいてきた。何が目的なんだ」
 もう片方の手で小娘の頬を挟む。顔を近づけ、七色に変化する瞳に視線を射込む。小娘の顔からはもう笑みは消えていた。
 俺は殺気も隠さずに言い放った。
「言え。さもなけりゃお前を殺す」

 殺すときたよ。
 どうしたものか。奇策を弄しすぎて思わぬ邪魔が入って予想外の展開になっちゃった。やっぱり最初から素直に説明しておけばよかったかなぁ、と後悔する。でも、ゼテオさんが真面目に聞いてくれていたとは思えないし。これはこれで良かったのかも。
 ああでもほっぺたが痛い痛い痛い、
「いたひ、いたひ、はなひてっ」
 ボクが涙目でそう訴えると、ゼテオさんは頬を掴む手の力をやや弱めてくれた。それでもしっかりとボクの顔を離さないあたり、どうも逃がすつもりは毛頭ないみたいだ。
 じゃあまぁ会話の主導権ぐらいは握らないと。ボクは無表情になったゼテオさんの顔を上目遣いで見上げ、余裕のある口調で、
「……ふーん。この目に反応するって事は、やっぱりゼテオさんも関係あるんだ?」
「質問しているのは俺だ」
 いきなり頬が締め付けられる。
「ひたひっ! ひたひほっ!」
 痛い、痛いよ! ら、乱暴だあ! こんなの横暴だあ!
「ぅひーっ」
 幸い、責め苦は数秒で終わった。ボクは自分の頬をさすりたいのを我慢しながら、
「うー……暴力による支配は反抗心を生んでいつかは革命を起こされるんだよ……あ、言います言います言いますから力入れないでっ!」
 文句一つ言っちゃいけないらしい。すぐに力がこもる気配がしたから、ボクは慌てて弁解した。本当にろくでもない男だよ、もう。
 ボクはいっそ頬を掴む手にもたれ掛かるようにして、投げやりな気持ちで説明した。
「じゃあ単刀直入に言いまーす。ボクは見ての通り『EXTEND・CHILDREN』でーす。この眼は〝フェアリーアイ〟と言いまーす。色んなものを視るのが得意でーす。ゼテオさんの行き先もこの眼で先読みしてましたー。それで先回りできたのでーす。ついでに言うとあなたがボクと同じ〈エクステンド〉っていうのも知ってまーす」
「真面目に喋れ」
 顎が、ごきっ、と鳴った。
「ひづっっ!?」
 目の前で火花が散るほどの激痛だった。瞬間、ボクは全力でゼテオさんの手から頭を逃がした。彼の方も捕まえておく意志をなくしてくれたようで、それはすんなりと成功した。にしても痛かったー! ひどい!
「ひどいよ! 痛いじゃないか! ボクちゃんと説明したじゃんっ!」
 涙目でほっぺたを両手で押さえながら、断固抗議する。理不尽だ。ボクは何も悪いコトしてないのに。
「やかましい。俺を騙そうとした罰だ。甘んじて受けろ」
「そんなの無茶苦茶だよっ」
「で、それが俺に相棒にしてくれって言ってきた理由か」
 それは質問じゃなくて確認だったから、ボクは答えなかった。代わりにもっと別のことを話す。
「さっきの男の子、アレス・フォルスターって言うんだけど。『水晶機関』って名前は聞いたことあるでしょ? エーテルストライカーを保護って名目で閉じこめて調教するところ。そこの人なんだ。でも、あの子も〈エクステンド〉なんだよ? あっちの考えに染まってるから全然話聞いてくれないけど。で、もうわかっていると思うけど、ボク狙われてます。追われてます。捕まるの嫌です。だからあなたに助けを求めに来ました」
 ボクがそこまで言うと、ゼテオさんは大袈裟な溜息をついて見せた。
「あのな。俺は傭兵だぞ。それぐらいわかってるんだろ?」
「うん、そう言うと思った。お金出すんならいくらでも依頼として請け負ってやる、ってんでしょ? でもそれはダメ」
「なんでだよ」
「ボクお金ないから」
 単純明快、簡潔すぎる答え。ひくっ、とゼテオさんのこめかみが一度だけ脈打った。あー怒ってるなこれ。短気だなぁ、しかも自覚してないんだろうなぁ。困るよねぇ、こういう人。
「……それで相棒ってわけか。なるほど、納得はいった」
 でも怒鳴ったりして大人げないところを見せる愚は避けたみたい。一生懸命、怒気を抑えてるのがわかる声でゼテオさんは言う。ボクは軽い調子で、
「でしょ? お金ないんだけど助けて欲しい時は、やっぱり親しい友人とかになるしかないじゃん? じゃあゼテオさんちょうど傭兵だし、他にも色々やってるし、相棒ってアリかなーとかね。あ、でも、こう見えてもボクちゃんと役に立つよ? 実際、ゼテオさんのこと先回りして追いつめたでしょ?」
 これは誇ってもいいはずだ。実際、ゼテオさんはボクの力に困っていた。事実は雄弁な説得力を持つね。
 案の定ゼテオさんは少し唇を尖らせて、ふん、と顔を逸らした。やはりボクの実力を認めざるを得ないのだろう。
「そんなことはどうでもいい。それより、聞きたいことはまだある」
「なになに? この相棒に何でも聞いてよ」
 ぴくん、とまたこめかみが脈打つ。わっかりやすい人だなぁ。ちょっとおもしろい。もっとからかっちゃえ。
「相棒には包み隠さず何でも言うよ、だって相棒だもん」
 笑顔全開、媚び最大。最高の猫をかぶってボクは言う。すると、ぴくぴくん、とゼテオさん。あんまり刺激すると爆発しちゃいそうだし、さっきみたいに痛いコトされたら嫌だからこれぐらいにしておこうかな。
 ゼテオさんは苦虫を百匹ぐらい噛みつぶしたような顔で、
「誰も相棒にするなんて一言も言ってないけどな」
「じゃあ質問には答えないよ?」
 にやり、とボクが言うと、彼の金色の瞳が不気味な光を放つ。
「……ほう。じゃあもう一度痛い目にあうか? それともさっきの奴に突き出されたいのか?」
 やれやれ。やっぱり乱暴で横暴で理不尽な人。でも、後者に関してはちゃんと言い返せる。
「そんなことしたらゼテオさんだって捕まっちゃうよ?」
「! そこだ。そこが聞きたい」
 急にゼテオさんが勢いよく質問を突き出してきたので、ボクは驚いてしまった。え、いきなり何?
「俺は本当にその〈エクステンド〉って奴なのか?」
「へっ?」
 何かと思えば。そんな質問。どうしてそんなことを聞くのか、ボクにはさっぱりわからない。
 もしかしてわかっていないのか、この人は?
 ボクはわざとらしいほど、まじまじとゼテオさんの顔を眺める。
「……えっと。念のために聞くけど、エーテルストライカーってわかるよね?」
 むっ、と眉根を寄せるゼテオさん。良かった、これは知っているみたい。
「馬鹿にするな。エーテルを扱える奴のことだろ」
 エーテルっていうのはいわゆる自由要素、未知の元素とか言われているアレである。その実体はまるで解明されていないが、この遺産世界では先天的にエーテルを操ることの出来る人間がごく稀にだけど生まれる。それを自分の意志である程度扱える人のことをエーテルストライカーって呼ぶのだ。
「なのに〈エクステンド〉を知らないの?」
「それも知ってる」
 『EXTEND・CHILDREN』──略して〈エクステンド〉。稀なエーテルストライカーの中でもさらに珍しい存在を指す言葉。本当かどうかわからないけれど、世界を左右する力を持っている、って言われている。
 その特徴は色。ボクの瞳のような七色、虹色がそれである。
 エーテルストライカーにはそれぞれ固有の色がある。例えば歴史上の人物で言えば、積層国家シュヴァルツの解放戦争における英雄『アスラーダ・エンドウィズ』は、燃えるような紅蓮のエーテルを持っていたと言うし。地底帝国スレイドニブルの八代目皇帝ラル・ドルド・グラングニルは、妖しい毒霧のような紫のエーテルだったって聞く。
 でも〈エクステンド〉は過去に例のあるどの色とも関係がない。七つの色を持つ、得体の知れないエーテルストライカーの中でも、さらに正体不明の存在。俗な言い方をすれば、レア中のレア。極めて希少価値の高い生き物なのだ。
 まあ、こんなものは常識だ。宝石の中で何が一番高くて硬いのか、そんなのは小学生だって知っている。それぐらい当たり前な知識。
「なのに、自分が〈エクステンド〉なのか……って。訳がわからないよ。なにその質問? ボクに一体何を求めているわけ?」
 半ば呆れ気味でボクは言った。〈エクステンド〉であることを本人が知らないはずはない。だって、エーテルを見れば一発でわかるんだから。実際、ボクだってゼテオ・ジンデルという人に虹色のエーテルを視たからこうやって近づいてきたのだ。
 その本人が一体全体どうしてこんな訳わからないこというかなぁ?
「エーテルの色見ればわかるじゃん。え? っていうかゼテオさん、ちゃんとエーテルストライカーだよね?」
 エーテルストライカーにちゃんともくそもないんだけどね。すると、彼は無言で顔を逸らした。え、何その反応? もしかして、もしかする?
「……違うの?」
 自分でも驚くぐらい落胆の声がこぼれ落ちた。だって、そりゃないよ。そりゃこの瞳で一般人とは違う感覚でゼテオさんを見て、そうだと思ったのはボクの勝手。でもってボクも人間だから、たまには間違えることぐらいある。けれども。
「答える義理はねえな」
 冷たい声でゼテオさんは言った。そうやって誤魔化すってことは、やっぱり違っていたのかな? いいや、そんなはずはない。自分を信じるんだマテリア・オールブライト!
 この人は何かを隠しているんだ。きっとそうだ。ボクの目に狂いはない。多分!
「……そもそも〈エクステンド〉が何で生まれたのか、知っているよね? 自然発生じゃないんだよ、ボク達は」
「ああ」
 これもまた常識問題。〈エクステンド〉は他のエーテルストライカーと違って人から生まれ出る存在じゃない。
 作られた存在。もうここにはいない創造主が七体だけ大昔につくった、と言われている。言われている、というのはそれがあくまで噂であって、真実であるかどうかは不明だからだ。
 創造主の名前は不明。製造年月日も不明。一説によると〈エクステンド〉をつくりだした創造主はボクら七人を生み出した後、そのまま月の向こうにある別世界へ旅立ったのだという。どんなメルヘンだ。ボクはこの説にツッコミを入れる事やぶさかではない。
 空に浮かぶ月が別空間に繋がる『穴』を塞いでいる、というのはおとぎ話だ。
 とはいえボク自身、いつ何処で生まれたのか憶えていないし、両親がいた記憶もない。気が付けば『水晶機関』に保護されていた。さっきボクを捕まえに来たアレス・フォルスターと一緒に。彼もまた両親を持たなかった。だからボクらがつくられた存在っていうのはきっと本当のことなんだろう。そう思う。まあ、実は両親に捨てられただけ、という可能性もあるにはあるんだけど。それはそれでヘビーな話だよ。
 ボクは腰に両手を当てて、ちょっと怒った声で、
「じゃあ聞くけど。ゼテオ・ジンデルさんのご両親はご健在・な・ん・で・す・か?」
 いるはずがない。今この瞬間にも、ボクの目には断片的に彼の過去が視えている。そこに両親っていう単語は一切存在しない。両親なら元気すぎてピンピンしてるぜ、なんて言ったらそんなのは真っ赤な嘘に決まっている。
「いないな」
 短くゼテオさんは答えた。何かを抑え込んでいるような声だった。一体何なんだろう、この人は。そう──ボクの中からどんな答えを引き出そうとしたのか、それがわからない。一体どんな答えを望んでいたんだろう。
 〈エクステンド〉であることが嫌なんだろうか。それはわかるけど。でもやっぱり「俺は本当に〈エクステンド〉なのか?」って質問はどう考えてもおかしいよ。
「ねぇ、ちゃんと真面目にボクの質問に答えてよ。ゼテオさんはエーテルストライカーで、〈エクステンド〉で、傭兵で、理不尽で乱暴で横暴な人だよね?」
「喧嘩売ってるなら買うぞお前?」
「ちっ……素直に認めればいいものをっ」
 最後につけた本音がやっぱりまずかったか。ボクは指を鳴らして悔しがる。
「ったくいい加減に……ああ、もういい。わかった。俺の用事は終わった。お前もう帰れ」
 ゼテオさんは何かを言いかけたが、急に飽きたような溜息をついて、しっしっ、と犬を追い払うような仕草をした。それに対して、ボクは本気で心の底から驚いた。な、何言っちゃってるんだよこの人ー!
「なにそれ! ボクの用事はまだ終わってないよ!? ボクを護ってよ! 帰りたくないんだ、あんな所!」
 ボクの必死な訴えを、ゼテオさんは、はっ、と息を吐いて一蹴する。
「俺の知ったことか。金がないなら大人しく捕まってろ」
 その冷然たる言い方ときたら。温厚なボクも流石に怒る。
「んなっ……!? 鬼! 悪魔! 人でなし! このゼテオ・ジンデル!」
「人の名前を鬼悪魔と同列に並べるな!」
 向こうもさすがに頭に来たのか、大声で言い返してくる。けど負けるものか。絶対に負けないんだから!
「並べるよぅ! ボク達仲間じゃないか! 助けてくれたっていいだろ!?」
 ゼテオさんは少し冷静さを取り戻したのか、頭の上で鬱陶しそうに手を振り、
「知らねぇな。俺はエーテルストライカーでもなければ〈エクステンド〉でもない。残念だったな他を当たれ」
 ふん。そんな誤魔化しなんかで引き下がるもんか。
「嘘だぁっ! ぜっっったい嘘だっ! なんでそうやって隠すのさ! わっけわかんないよッ!」
 とうとうゼテオさんもキレた。
「だぁぁぁもううるっせえっ! お前なんか知るかっ! ガキは家に帰ってクソして寝てろッ!」
「家なんかないもんっ! ク……なんてしないよオバカァ! 女の子に向かってなんてこと言うんだよぉ! 無神経! 恥知らず! ゼテオ・ジンデルー!」
「人の名前を悪口扱いするな!」
「だったら褒め言葉になるような行動すればいいじゃん!」
「俺は慈善事業はしねえんだよ!」
「それは助かります」
 最後の科白はボクのものではない。勿論、ゼテオさんのものでもない。
「へっ?」
「ぁあ?」
 透き通るような清々しい声。なんか聞き覚えがある。確かこの声は……
 脳天に電気が走ってボクは思わずその名前を口走った。
「アレスくん!?」
「見つけましたよ、マテリアさん」
 やたらと丁寧な喋り方。もう間違いない。なんて早さだろうか。もう見つかってしまった。
 ボクは路地裏の入り口に目を向ける。そこには逆光を背に立つ人影があった。そこにいるのは『水晶機関』に所属する三名の〈エクステンド〉の内の一人。
 アレス・フォルスター。
 虹色の脚を持つボクの元・友達。
「もういい加減にしてください。さあ、私と一緒に帰りましょう。みんな待っているんですよ?」
 逆光の中でもボクの目にはよく見える。
 白地に所々金をあしらった『水晶機関』の制服。まるで軍服のようなデザインだけど、すらりとした長身のアレスくんにはよく似合っている。癖のある跳ねっ返りな金髪に、森のエキスを抽出したような緑の瞳。
 予想通り、彼は天使のような微笑みを浮かべていた。でも、それが本当の笑顔じゃないって事は嫌ってほど知ってるよ。
 ラフティング・ブレイカー。
 それが君の異名だから。

 さっきの少年はアレス・フォルスターとか言うらしい。
 多分、大声で言い合っていたせいで見つかったんだろう。これはしょうがない。不可抗力という奴だ。だからまあ、
「お迎えが来たぞ、よかったな」
「ちょっ……!? なに笑顔で言っちゃってんだよぉ!? ほんっっっとに人の話聞いてたの!? ボケナス────────ッッ!」
 絶叫するな、やかましい。
 小娘は両の拳をぶんぶん上下させながら、
「相棒! 相棒っ! 相棒ッ!」
「だから誰が相棒だ! んなこと言ってるとあいつが勘違いするだろうが!」
「おや? 慈善事業でなければ友情ですか?」
 路地裏の入り口、逆光を背負った少年の声が言う。ほら見てみろ、今にも勘違いされそうになってるだろ。ったく冗談じゃない。
「ちがうちがう。さっきは悪かったな。でもあんな所で騒ぎ起こすお前も悪いんだぜ。だからそれでチャラな。こいつは好きにしろ。俺はもう関係ない」
「……随分と棒読みな言い方するんですね?」
「気にするな」
 俺は一歩退いて、道を譲る意志を見せる。小娘にはもう聞きたいことは聞いた。答えは得られなかった。だからもういいのだ。
「こいつを連れて帰るんだろ? 煮るなり焼くなり好きにしてくれ。こいつは俺の相棒でも何でもないからな」
 親指で小娘を示す。と、何を思ったのか小娘は激突するような勢いで、いきなり俺の腰に抱きついてきた。ああ鬱陶しい。俺はすぐにそれを、
「寝たよボク!」
 引っ剥がそうとしたら、小娘がそう叫んだ。
「は?」
「え?」
 俺とアレス少年の間抜けな声はほぼ同時に生まれた。
「抱いてもらったもんボク! この人に! だからアレスくんは帰ってよ!」
 ……ん? この人って、もしかして俺のことか? 待て、やばい、頭が展開についていけない。
 小娘が俺を見上げる。ご丁寧にも涙目で、
「ねえ、ボクを捨てないで! ボクも連れて行ってよ、ゼテオさん! ボクの体をあんなに可愛がってくれたじゃないか!」
「「……可愛がってくれた?」」
 期せずして俺とアレスの台詞が重なる。
 そして俺は気付く。これはまずい、と。この大根役者、くさい芝居で俺をはめようとしているのだ。っていうか誰がこんなガキに手を出すか!
「なるほど。あなたは万死に値しますね」
 俺が何か言うより早く、氷の剣のような声が俺の耳に突き刺さった。背筋に悪寒が走る。それは相手に対する恐怖から、ではない。とんでもない大嘘を事実として認識される恐ろしさからだ。
 ってか何で信じるんだ、こんな嘘を!?
 しかもアレスの声は冷え冷えとしているくせに、笑顔の抑揚がついていた。それだけに話し合いによる和解は絶望的に思えた。
 いや、まだ何とかなる。必死に弁解すれば奴もわかってくれるはずだ。そもそもこんな小娘に俺が手を出す道理がない。ギリギリの崖っぷちだが、まだ道はあるはずだ。
 だが俺の口が開くより先に、小娘が致命的なことを言い放ちやがった。
「何が万死に値するだよ! ボクとこのゼテオさんは愛し合っているんだから邪魔しないでよね!」
 全ての可能性が崖から真っ逆さまに落ちていった瞬間だった。
 俺はこの理不尽さを何かに叫びたくなった。何でもいいから殴りたくなった。だが現状ではどうしようもなかった。どうすればいいんだ、このジレンマは。
 小娘はわけのわからん嘘をつくし、少年はそれを頭から信じやがった。
 とりあえずお前ら二人が万死に値するわ!


 戦闘になれば嫌でもゼテオさんはエーテルストライカーとしての能力を使わざるを得ないはず。
 そう思ったから、ちょっと……いや、かなり恥ずかしかったけど、アレスくんを挑発してみた。彼はああ見えて直情的だからあっさり信じてくれるだろうし、優しそうに見えても暴力的だから間違いなくゼテオさんとの勝負になるはずだよ。
 アレスくんが動き出すのを感じたから、抱きついていたゼテオさんから離れる。にしても体硬かったなぁ。筋肉?
 先手を打ったのはもちろんアレスくん。逆光の中から彼は高速で飛び出す。彼のエーテルは〈エクステンド〉を示す七色。その発生源はボクと違って両脚だ。
 同じ〈エクステンド〉だからってその能力まで一緒というわけではない。ボクの場合は目において特化しているし、アレスくんは両脚に大きな変化が表れる。ここにはいないけど『水晶機関』に所属している他の〈エクステンド〉エルザリオンとベルゼリオンも、ボクとは全然違う能力を有しているのだ。
 アレスくんの能力は両脚を駆使した高速移動。目にも止まらない速度で動くことが出来る。今だって、ほら。
 もうゼテオさんの背後にいる。
「!?」
 やっぱり速い。そこに出てくるまで全然見えなかった。まるで瞬間移動だ。
 アレスくんはこんな時でも笑顔で、腰の鞘から抜いた片刃の剣を上段に構えている。本気でゼテオさんを殺す気だ。肝心のゼテオさんはまだ気付いていない様子。アレスくんは容赦なく剣を振り下ろして、血飛沫が、
「!」
 飛ばなかった。
「随分と速いな」
 そんな簡潔な感想を添えて、ゼテオさんは振り向きもせずに斬撃を避けた。するりと、自然な動作で。
 かと思ったらその長い足が伸び上がり、勢いよくアレスくんの剣の腹を横から蹴りつけた。アレスくんも剣を手放すようなことはしなかったけど、ゼテオさんはより上手だった。そのまま靴底と壁の間に刃を挟みこんで、完全に自由を奪ってしまったのだ。ちょうど壁に向かって剣を踏みつける形になる。
 ずん、とすごい音がした。何かと思ったら、刀身ごとゼテオさんの靴が壁にめり込んでいた。エーテルを使用しているわけでもないのに、とんでもない威力だ。
「おやおや?」
 だけどこれだけで諦めるような人なら、ボクもアレスくんに苦労したりなんかしない。武器としての価値を失った剣をあっさり捨てて、アレスくんはその両脚を駆使して高速移動。虹色の残像を残しながら彼は左右の壁を蹴って、縦横無尽に三次元空間を飛び回る。
「ちっ……」
 鬱陶しそうに舌打ちするゼテオさん。でも、それが蚊や蠅に対するような感じなので、やけに頼もしく思える。っていうか普通にすごい! アレスくんはエーテルストライカーの本領を発揮している。なのにゼテオさんは全くエーテルを使っていないのに攻撃を回避して、あまつさえ武器を封じたんだから。すごすぎる!
 と、この瞬間、ボクの〝フェアリーアイ〟に未来が映る。この両目、勿論その気になればいくらか制御できるし、そのおかげでゼテオさんの行き先を先読みしたり過去を視たり出来たんだけど、時折こうやって勝手に映像を見せる場合がある。その時は大抵が未来で、それが『めちゃくちゃ良い時』か『めちゃくちゃ悪い時』だ。まぁたまにどうでもいい映像とか過去もあるけれど。
 今回見えたのは、もちろん上等な未来。
 路地裏を跳弾のように飛び回っていたアレスくんが死角から蹴りを放つ。彼の蹴りは下手な斬撃よりたちが悪い。大量のエーテルが込められた一撃はそれだけで人体を木っ端微塵にする。
 ゼテオさんは背後からのそれを、見透かしたように片腕だけでガードする。エーテルも何も纏っていない、ただの腕でだ。瞬間、笑う壊し屋の顔から余裕が消える。久しぶりに視る、笑顔以外のアレスくんの表情。
 その時、脳裏に映っていた未来が消えて、現実と重なった。ボクが未来を視ている間に、現実が追いついてしまったのだ。
 ゼテオさんがつまらなさそうに言う。
「手ぇ抜きすぎだな。見た目で判断している内は傭兵としちゃまだまだだぜ?」
 防御した腕を巧みにアレスくんの脚に絡め、強く掴んだ。
 勢いよく振り回す。
「──ッ!?」
 動きに躊躇いも迷いもなかった。アレスくんは玩具の如く壁に叩き付けられた。
 肉が石を打つ鈍い音が響き、アレスくんの体は壁の中にめり込んだ。痛そう、なんてものじゃない。死んだかもしれない。っていうかボクなら間違いなく死ねる。
「ぐぅっ……!」
 それでもアレスくんが生きているのはちゃんと鍛えているからか、それともゼテオさんが手加減したからか。ぱっ、とゼテオさんがすぐに手を離したところを見ると、後者のおかげが強いと思う。にしたって、しつこいようだけどエーテルも無しでよくやるもんだよ。ゼテオさんの筋肉って何で出来てるんだろう。金属繊維?
 脚から手を離された瞬間、アレスくんはその場から弾かれたように飛び退いた。壁を何度か跳ねて、ゼテオさんとある程度の距離を置いて路地裏に立つ。
 顔の右側に大きな痣が見える。そりゃそうだろう。あんな勢いで壁に叩き付けられたんだから、痣で済んだだけでも幸運な方だと思う。
 アレスくんは真剣な瞳でゼテオさんを見つめている。彼を良く知っているボクだからわかることだけど、あれはほとんど睨んでいるようなものだ。アレスくんのあんな顔、本当に久しぶりに見る。
「あなたは、一体何者ですか」
 単刀直入にアレスくんが言った。もちろん、あなたとはゼテオさんのことだ。っていうかそれはボクも知りたい。〈エクステンド〉だと思っていたけど、もしかすると全然別のものかもしれない。
 それを何と言うことだろう、ゼテオさんはこう答えたのだ。
「ただの傭兵だ」
「うっそだぁ────────ッッ!?」
 思わず突っ込んでしまった。ゼテオさんが鬱陶しそうにボクを見る。いや、だってさ。それは嘘でしょ。エーテルストライカーと生身で向き合える人が『ただの傭兵』なわけないんだもん。
 ゼテオさんは再びアレスくんに視線を戻して、
「まぁ成り行きでこうなったがな、俺は目立つのと慈善事業と、もう一つ嫌いなものがある。何かわかるか?」
 いいえ、とアレスくんは首を振る。初対面の人間の好みなんてわかるはずなんてない。当たり前の反応。
 ゼテオさんはきっぱり言った。
「舐められることだ」
 アレスくんもボクもきょとんとする。舐められる……って、どういう意味だろう? ボクはわからなかったけど、アレスくんはすぐに理解したみたいだ。呆気にとられた表情から一変、ふっ、と口元を綻ばせる。
「わかりました。それではこれよりあなたを強敵として認識します」
 それは宣誓だった。背筋を伸ばして、片手を胸の前へ。目を閉じて、そっと呟く。
「私の名前はアレス・フォルスター。あなたの敵です」
 瞼を開く。森という聖域に流れる精髄を抽出して、凝り固めたような深い緑の瞳。静謐なその視線でゼテオさんの顔を優しく撫でると、
「今度は全力で行かせて頂きます」
 と微笑んだ。
 途端に全身から噴き出す虹色のエーテル。七色の強烈な輝きが全方向へ迸って、薄暗い路地裏を明るく染め上げる。
「手を抜いたことは謝罪します。ですが、マテリアさんの体を弄んだあなたを許すつもりは毛頭ありません」
 膨大な七色の光の中、その両脚から一際強い虹の輝きを放っているアレスくんは、しっかりした声でそう言った。
 その姿は、まるで稲妻を孕んだ竜巻だ。見ただけでもとんでもない量のエーテルがその場で渦を巻いているのがわかる。
 あれは本気だ。間違いなく本気の姿だ。これからは、今までとは比べ物にならない速度と威力でゼテオさんに襲いかかるつもりだ。
 にしても勘違いってすごい。嘘でも信じちゃったら、こんなにも凄い力が引き出せるんだから。
 それじゃあゼテオさんはどんな余裕の表情で迎え撃つのかな、と思って見てみれば、
「──ってなんで目を泳がせているんだよっ!?」
「ば、バカ言え! あんなの誰が予想するか! 今まで見たどのエーテルストライカーよりすごい勢いだぞ!」
「あったり前だよおっ! 聞いてなかったの!? アレスくんは『水晶機関』の人で、『水晶機関』はエーテルストライカーを捕まえて回ってるんだって! 並のエーテルストライカーより強いの当たり前! しかも〈エクステンド〉だし! っていうかアレスくん挑発したのゼテオさん本人じゃん!」
「知るか! 金も出ないのにあんなのマジで相手してられるか! 俺はもう降りる!」
「降りるってどうやって!? さっきはともかく、今のアレスくんから物理的に逃げるなんて不可能──!」
 その瞬間、ボクに天啓が下った。ぴん、と閃いたのだ。いける。この手なら絶対いける。
「──じゃないよ! このボクがいれば何とかなるけど! どうする!?」
「ってかお前が何とか出来るんなら何とかしてみせろ!」
 ずびし、と音が聞こえてくるぐらいの勢いでアレスくんを指差すゼテオさん。
「なら相棒の件、考えておいてよねっ!」
 返事を待たずにゼテオさんの前へ躍り出た。だってゼテオさんの答えなんて決まっているもの。それは駄目だ、とか、そんなの関係あるか、とか。だから先に既成事実を作って、それをネタに相棒話をもう一度ふっかける。これっきゃない!
「というわけでアレスくん! お話しがあるよ!」
「何でしょうか?」
 うっ、恐い。虹の閃光を放ち続けながら、彼はボクに微笑みかける。その状態で笑顔って何か裏がありそうで思いっきり恐いんだけど。
 それはともかく、ボクは、きっ、とアレスくんを睨んだ。そもそも彼だって悪いのだ。あんなに仲良くしていたっていうのに。ボクの希望を誰よりも近くにいて知っていたはずなのに。『水晶機関』にいるからって問答無用で連れ戻そうとするなんて。
「そろそろボク達を見逃さないと痛い目を見ることになるかもしれないよ!」
「とっくに受けていますよ? それにマテリアさんが一緒でなければ私も帰られませんし」
 そうやって話しながらボクは〝フェアリーアイ〟を使用する。
 〝フェアリーアイ〟は制御することによってボクの望む映像を視せてくれる。例えば、それは未来の可能性。ボクがそう望めば、アレスくんに連れて帰られる未来が視えるだろう。だが、今のボクはそれを望まない。だから、ボクが求めるのは彼から逃れる未来の映像。
 それは可能性の数だけある。だからボクはその中から一番簡単で、手早いものを選んだ。
「……あれ?」
 その未来を視た瞬間、ボクは笑ってしまった。だって、あんまりにも単純だったから。これなら別に〝フェアリーアイ〟を使うまでもなかったかな。いや、でもまあ、確実にするためにはきっと必要だったのだろう。
「? どうかしましたか?」
 突然くすっと笑ったボクに、アレスくんが小首を傾げる。いけない、いけない。彼はボクの力を知っているからね。妙な仕草を見せたら疑われてしまう。それは避けたい。
 何も未来を視るだけが〝フェアリーアイ〟の能力じゃない。その真髄はここからなのだ。
 この目に視た、いくつもの未来の可能性。その中でボクが望む未来を、現実へと呼び寄せる。
 それが〝フェアリーアイ〟の真の力。『水晶機関』がボクを確保しておこうとする理由。
 ボクはアレスくんに軽く首を振って見せた。
「ううん、こっちの話。それより、どうしてそんなにしつこいかなぁ? ボクはね、何も我が儘言ってるわけじゃないよ? 自由が欲しいって言ってるだけじゃないか」
 依然エーテル全開状態のアレスくんは、眉根を寄せて困ったような笑顔になった。ふぅ、と息をつく。
「それがいけないんですよ。私達〈エクステンド〉は存在そのものが世界を揺るがします。『水晶機関』で大人しくしているべきなんですよ」
「そんなの『水晶機関』のお偉方が勝手に言っている事じゃないか。ボクには関係ないよ。っていうか、ボクにとっては鬱陶しい束縛以外のなにものでもないね。アレスくんこそ、どうしてあいつらの言うことを全然疑わないの?」
 こんな何度交わしたかわからない会話を、今もまた繰り返すのには理由がある。ボクは待っているのだ。〝フェアリーアイ〟で呼び寄せた未来が、ここにやってくるのを。
 そのための時間稼ぎだ。そろそろ、近い。もう少し。後、ほんのもう少し。
「疑う余地がないからですよ。エーテルストライカーも我々も未だ解明されていない部分が多く、一説では世界を滅ぼす危険要因でもあるのだと、何度言えばマテリアさんは」
「来たっ!」
「え?」
 アレスくんの言葉を遮って叫んだ瞬間だった。
 ざっ、と。路地裏の入り口、つまりアレスくんの背後にいくつもの人影が突如として現れた。
「?」
 アレスくんは肩越しに振り返り、その姿を確認する。そこにいたのは近代的な鎧や武器などの装備に身を包んだ、屈強な男の人達だ。彼らはそれぞれ微妙に違う装備を身につけ、手にした武器も千差万別だが、共通点はある。胸に燦然と輝く、『零』という文字を意匠化させた紋章だ。アレスくんがその名を呟く。
「……刻零騎士団?」
 ビンゴ。見事ボクは望む未来を引き当てた。ボクは事態を加速させるための呪文を紡ぐ。
「どうするの、アレスくん? あの人達もボクら〈エクステンド〉を捕まえに来たんだよ。『水晶機関』としては戦うしかないよね? ボクを逃がすために」
「……! まさか、あなたが……!?」
 ようやく気付いたみたいだけど、もう遅いよ。〈エクステンド〉を狙っているのは何も『水晶機関』だけじゃない。世界各国の秘匿機関がボク達〈エクステンド〉を獲得しようと動いている。こうなったらアレスくんは『水晶機関』としてボクを刻零騎士団に渡すわけにはいかないし、〈エクステンド〉として捕まるわけにもいかなくなる。
 つまり、ボクらを放って刻零騎士団と戦わなくっちゃいけない、ってことだ。
「おい小娘、何がどうなってるんだ? お前何をした?」
 状況の流れがよくわからないのだろう。背後のゼテオさんがそう聞いてくる。だけど説明するのは面倒くさい、っていうか長くなるから無理。この場は適当に誤魔化して、後で詳しく説明することにしよう。
「えーとね、なんて言えばいいのやら」
 とか言っている内に刻零騎士団のお偉いさんと思しき人が、
「〈エクステンド〉を発見! これより確保に移る!」
 などと部下に指示を飛ばし始めた。まぁ正確に言えば彼らがここを嗅ぎ付けたのは、多分アレスくんのせいだろう。今なお派手にエーテルの飛沫を撒き散らしている彼は、どうあったって目立つ。〈エクステンド〉がここにいるぞーって大声で宣伝しているようなものだ。
「しかたありませんね」
 と、アレスくん。本人にもそれなりに自覚があったのだろう。仕方なさそうに刻零騎士団の方々へ向き直る。
「ここは譲ります。ですが、ここだけです。後、そこの方。お名前をお聞かせ下さい」
 そこの方、と言われたゼテオさんは即答しなかった。ほんの数秒、無言を通す。痺れを切らしたアレスくんが、
「あなたですよ。マテリアさんを手込めにした」
 わぁ、本気で信じてる。ゼテオさんを見るとこめかみの辺りが、ぴくん、と脈打っていた。あー、これは間違いなく後で怒られるなぁ。でも仕方ないじゃん。ああでも言わなきゃ絶対連れ戻されていたし。
 怒気を孕んだ恐い声が、
「マイケル・ジョンソン」
 と名乗った。って、誰それ?
 ゼテオさんの偽名を聞いたアレスくんは可笑しそうに、くすっ、と笑うと、
「わかりました。再会を楽しみにしていますよ、ゼテオさん」
 ちっ、とゼテオさんが悔しそうに舌打ちした。アレスくんはきっと、さっきボクがゼテオさんの名前を呼んだことを憶えていたのだ。ふーん、ああ見えて結構意地悪なんだなぁ。
 と、アレスくんの姿が掻き消えた。と思った次の瞬間には、轟音。
 いきなり、刻零騎士団の人達が枯れ葉のように宙を舞うのをボクは見た。……うっわー、相変わらず本気になったらすごいなぁ。
 弾ける怒号。刻零騎士団の人達はそれぞれが雄叫びを上げて武器を振り上げる。だけど、目にも止まらぬ速度で動くアレスくんを捉えられるはずがない。真新しい頑丈そうな鎧を着た人達が、路地裏に切り取られた狭い空を次々に吹っ飛んでいく。
 目眩がした。いや、これは修辞表現じゃなくて。ボクは真実、立ちくらみを憶えていた。〝フェアリーアイ〟の副作用だ。今回は意外と早い。
「あ……あれ……?」
 ボクはふらふらとよろめき、背後のゼテオさんにぶつかって、そのまま寄りかかった。
「……おい?」
 どっと疲労感が、急激にボクの全身を浸食する。あ、まずい。眠たい。っていうか寝る。意識が途切れる。
「ごめ……眠い……あと、よろしく……」
 そう言い残すのが精一杯だった。耳の向こうでゼテオさんが何か言っている。多分、怒っているんだろうな。でも聞こえない。っていうかわからない。
 本当に、後はゼテオさんに任せるしかない。置いていかれたらどうしよう……なんて考えながら、ボクの意識は暗闇に沈んでいった。







[30238] ■遺産世界のおとぎ話
Name: 仙戯◆97bdbc1a ID:d9a73d31
Date: 2011/10/24 01:51
■遺産世界のおとぎ話





 今日は厄日だ。
 俺はそのことを噛み締めながら走っている。背中に疫病神を担いで。
 言いたいことを言って、やりたいことをやったら気絶しやがった。まったく、どれだけ神経が図太いのか。あのまま放置して帰っても良かったが、そうするとあのアレス少年がどんな行動に出るかわかったものではない。無益な争いは俺の好むところじゃないんだよ、こう見えても。
 別に小娘が眠る直前「あとよろしく」と言い残して完全無防備に寝てしまったからといって、俺の良心が長い眠りから覚めたわけではない。
 これは打算だ。
 こいつがいなければアレスの誤解が解けない。こいつを相棒にするつもりはないが、働いた分の金を払ってもらわなければならない。
 それだけだ。それ以外に理由はない。これはあくまでも打算的行動なのだ。
 何故なら、俺にとって『他人』というものは何の価値も持たないからだ。俺ではない別の人間。ただそれだけ。それ以上もそれ以下もない。例えばそれは花瓶に等しく。例えばそれは路傍の石に等しい。
 何の得にもならない石を拾うのは、物好きのすることだ。俺は物好きではない。もし俺が石ころを拾う時は、それが金に化ける場合だけだ。
 これまでずっとそうして生きてきた。これからもずっとそうだろう。
 向かっているのは俺の部屋だ。国名と同じ名前の首都サーゲトワの片隅に、俺はアパートの一室を借りている。そこが俺の本拠地だ。
 玄関の扉を開けて、中に入る。カーテンを閉め切っているため、中は薄暗い。手探りで照明のスイッチを押す。
 明かりが灯ると、見えるのは簡素な室内だ。すっきりしているのが好きなので、あまり余計な物は置かないことにしている。フローリングの床にシングルベッド、冷蔵庫とテーブル、クローゼット、いくつかの本棚。ざっとそんな物だ。
 俺は背中に担いでいた小娘をベッドに横たわらせた。
「……ったく。何でこうなるんだか」
 小娘は気持ちよさそうに眠っている。あの奇妙な双眸が閉じていれば、こいつも普通のガキに見えるんだな。
 そう、何度見てもただの小娘にしか見えない。だが、こいつが世界に七人しかいないという貴重なエーテルストライカー、〈エクステンド〉なのだ。
 ぶっちゃけ、今でも少し信じられないぐらいだ。
 〈エクステンド〉については俺なりに調べていた。密かに『水晶機関』他、各国がその獲得にやっきになっていることも知っている。
 正直な話をしよう。自分自身が〈エクステンド〉かもしれないと、以前から考えてはいた。だがその確証はなかったし、これまで周囲の人間にもそう言われたこともない。というか、周りの奴らが〈エクステンド〉と判断していたなら、俺はとっくに『水晶機関』あたりに回収されていたことだろう。つまり俺を〈エクステンド〉とする証拠らしきものは、ほとんどなかったのだ。そう。俺自身の記憶以外には。
 だから思わず、俺のことを〈エクステンド〉扱いするこのガキに勢い込んで詰問なんぞしちまった。
 少し、いや、かなり後悔している。目立たない。他人に弱みを見せない。この二つが俺の信条だ。それなのに何だ、あの必死さは。少し前の俺自身を殴ってやりたい気分だ。
 俺の勘違いや妄想だというなら、それでいいんだ。〈エクステンド〉であっても良い事なんて何一つない。それがもし俺の正体だったとしても、気持ちがすっきりするだけで何の得にもならない。それどころか『水晶機関』や各国の秘匿機関に知られた日には、俺自身がこの小娘と同じく狙われる身になるだろう。理屈ではそうだ。理性ではわかっている。ああ、よくわかっている。
 だが気持ちは上手く落ち着いてくれやしない。
 俺は冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出した。栓を開け、一気に飲む。熱くなった頭と体を冷やしたかった。
 過去の記憶が俺を追い立てる。かつて、俺の体から溢れた虹色の光は何だったのか。そして、どうして今それが見えないのか。わからないことだらけの現実が、俺をわからなくさせる。俺自身すらも。
「ちっ……」
 口の端からこぼれる水を苛立たしげに拭う。さっきからずっとイライラしている。こんな事、ここしばらく考えていなかったってのに。
 俺はエーテルストライカーかもしれないし、そうではないかもしれない。俺は〈エクステンド〉かもしれないし、そうでないかもしれない。
 一般的には目立たない、中堅どころの傭兵。ただの傭兵。それだけだ。それでいいはずだ。どうすればいいんだ、このジレンマは。
「ん……う?」
 ベッドの小娘が身じろぎした。どうやら目を覚ましたらしい。
「んぁ……なにここ……?」
 俺は壁際のベッドの対角ある窓枠に腰を下ろした。ミネラルウォーターを片手に、寝ぼけ眼の小娘へこう言ってやる。
「なにここ、とはご挨拶だな。俺の部屋だ。文句あるか」
「へ?」
 がばり、と身を起こす。きょろきょろと、まるでそういう玩具か何かのように小娘は周辺を見回した。
「うっわ……何もないんだね」
「ほっとけ」
 もちろん小娘に飲み物をくれてやるほど俺は優しくない。
「で、ボク何でここに……はっ!?」
 何を思ったのか、小娘はいきなり自らの身を守るように抱きしめ、じとっとした目で俺を睨む。
「……変なこととか」
「するかッ!」
 不穏なことを言いかけたので怒声で叩き潰してやった。まったく何なんだこのガキは。
「お前みたいなガキに興味はない。起きたんならさっさとベッドから降りて、金を出せ」
「へ? 金? なにそれ?」
 目をぱちくりさせる小娘に、俺は金を受け取るための片手を差し出しながら、
「ボディガード料だ。あのアレスとかいう奴から助けてやっただろ」
「なっ!? 何だよそれぇ! 結局あれを切り抜けたのってボクの能力じゃないかぁ! 有り得ないし! っていうかお金ないから相棒にしてって言ってるのにまるでわかってないしっ!」
 小娘は猛然と立ち上がり、犬のようにギャンギャン喚く。甲高い声がやけに耳に痛い。とはいえ、言っていることはそれなりに正論なので俺は反撃の余地を失ってしまう。ベッドの使用料とでも言いなおすか?
 ふと俺は、小娘に聞こうと思っていたことがあるのを思い出した。
「そういえばお前、あの時何しやがったんだ? どさくさに紛れて逃げてきたが……あれは剣聖の国の刻零騎士団だろ。なんであいつらがあんな所に出てくるんだ」
 剣聖の国とは、その名の通り五百年ほど前に時の剣聖シュメルが建国したというエウリードのことだ。別にとりたてて剣術が盛んだとかそういうわけではないエウリードだが、建国の由来から『剣聖の国』と呼ばれることが多い。このサーゲトワが『塔の国』って呼ばれるのと同じだな。
「あ、うん。それはちゃんと後で説明しようと思ってたんだよ」
 再びベッドに腰を下ろす小娘。降りろ、と言ったはずなんだがな。
「刻零騎士団はあの国の精鋭中の精鋭ってのは知っているよね?」
 知っているに決まっている。俺のいる業界じゃトマトが赤いのと同じぐらいの常識だ。
「お前な、俺を何だと思ってるんだ?」
「理不尽で乱暴で横暴だけど、すごく強い傭兵」
 後半で気を良くしたわけではないが、何というか、色々あってもう訂正する気力が失せてしまった。もう勝手にしろ、と思う。
「……もういい。で、何で刻零騎士団が出てくる?」
 小娘は少し俯いて考え込んだようだったが、すぐに右手の指を二本立てて見せ、
「その質問に対しては二つ答えられるよ。一つ、刻零騎士団も『水晶機関』と一緒でボクみたいな〈エクステンド〉を狙っているから。もう一つは、ボクの〝フェアリーアイ〟が刻零騎士団があそこにくる未来を選んだから」
 前者はいい。それぐらいなら容易に推測出来た。〈エクステンド〉は数少ないエーテルストライカーの中でも、さらに希少種だ。その一人一人が世界を左右する力を持っている、という話なのだから、どこの国も欲しがるに決まっている。だが、後者は聞き捨てならない。
「未来を選んだ? どういうことだ?」
 小娘の〝フェアリーアイ〟とやらが俺の行き先を予測したというのは聞いている。つまり『未来予知』がその特色なのだと俺は思っていた。勿論、それだけでも十分驚愕に値する。だが、それはあくまで想像の範囲内に収まる話だ。〈エクステンド〉なのだからそれぐらいは出来るのだろう、と。しかし未来を選ぶってのはどういう意味なのか。額面通りに受け取るなら、それはとんでもないことじゃないのか?
 小娘の虹色の両目がくりんと動く。妙に嬉しそうだ。なにやら自慢げに笑みを浮かべると、
「よくぞ聞いてくれました! ああ、やっと説明出来る……! あのね、これ聞いたらゼテオさん絶対に協力してくれるよ。っていうか、ここまでくるのが長かったよ……なんでこんなに遠回りしちゃったのかなぁ、ゼテオさんの根性がひん曲がってるからだよねきっと」
 夢見る少女のような浮かれた声で、そんな事をのたまいやがった。遠回しに喧嘩売ってるのか、こいつは。
 いや、子供相手に本気になってどうする。もう慣れてきたぞ。ガキには何を言っても通用しないのだ。言いたいように言わせておけばいい。用事が済み、もらう物をもらったらそれでさよならだ。それが俺にとってより良い選択だろう。
 小娘の説明が始まる。
「まず、〈エクステンド〉は一人一人その特徴が違うんだよ。ボクとアレスくんを比べてみてくれたらわかると思うけど」
「お前は目で、あいつは脚か」
「そうそう。で、ボクの目。つまりはこの〝フェアリーアイ〟は、普通の目じゃ見えないものを視ることが出来るんだよ」
 今も七色に変化し続けている自分の双眸を指して、小娘は言う。が、それはもう聞いた話だ。
「それはもう知ってる」
「わーかってるって。そんな不機嫌な声出さないでよ。でも詳しいことはまだ話してないでしょ? それをこれから話すからさ」
 小娘は勿体ぶるように一拍の間を置く。
「この目はね、いわゆる『アカシックレコード』『賢者の石』『神の座』にアクセスする力があるんだよ」
 よくわからない単語が出た。何だそりゃ?
「って、全然わからなさそうな顔してるね……外の人ってみんなこういう事は知らないものなの?」
「それこそ知らん。どっかで名前だけは聞いたことがあるけどな」
「ふーん……ま、どれもみんな『世界を構成する情報集合体』って意味なんだけどね。もっとわかりやすく言うと……マニュアル? 攻略本? 情報誌? みたいな」
「フィーリングだけで喋ってるだろ、お前」
「とにかくそこには色んな情報がいっぱい詰まっているんだよ。っていうか、全ての情報はそこにあるのかな。過去の暗殺事件の犯人の名前もあれば、ある日のゼテオさんが起きてから寝るまでの間に何回呼吸したのかも載っているんだ」
「情報の大小軽重は関係なし、ってことか」
「うん。とんでもない事から、くだらない事まで。全部そこに詰まってるんだ。時間軸も関係ないんだよ? 過去も現在も未来も、みんな入ってるし」
 小娘は胸の前で両手を構え、何かを押し潰すような仕草をした。
「で、そんな無限の情報が詰まった塊に干渉するのが、ボクの〝フェアリーアイ〟の力。これでゼテオさんの行き先や、刻零騎士団があの路地裏に来ることを、そこから読み出したんだ」
 なるほど。全ての情報があるってことは、世界中の人間の行動予定も入っているわけだ。そこから俺の今日の予定を抜き出せば、行き先も簡単にわかるという寸法か。だが待て。すると、
「……今日、お前が俺に話しかけることもそこに入っていた未来の情報なのか?」
「うん? んー……それはなんて説明したらいいかなぁ」
 小娘は虚空を睨みつけて猫のように唸った。
「未来もそうなんだけど、現実も過去も実は流動的なんだよ。わけわからないと思うんだけど。それでまぁ、一つの行動から生まれる可能性っていうのはそれこそ無限にあって、無限の可能性を一つ選ぶとそこからまた無限の可能性が──ってそれだけで膨大な情報が連鎖しているんだよね。逆に過去を遡ると無限の可能性がそれこそ無限に連なっていてね?」
 何を言っているのかさっぱりだ。頼むからちゃんと人間の言語を使ってもらいたい。
「……その顔はやっぱりわかってないよね? うん、そうだろうね。ボクもそう思う。やっぱりこれは他人には説明出来ない感覚だよ」
 はーやれやれ、とひねくれた賢者のように肩を竦めて首を振る小娘。ただお前の説明能力が不足しているだけだと俺は思うんだがな。それを言ったところで何も始まらないから黙っておくが。
「とにかく。ボクが話しかけたのは無限の可能性の一つで。話しかけることでゼテオさんの未来にまた無限の可能性が生まれたわけで。ボクはその中の一つ一つを選択していたわけなんだよ。わかる? わかりる?」
「わかるか」
 俺の答えは簡潔を極めた。冗談抜きで全然理解出来ない。むしろ、もうどうでも良くなってきた。
「まぁいいや、ここはわからなくて。で、ここでさっきゼテオさんが聞いていた『未来を選択する』ってのが関係してくるんだけど」
「今度はわかりやすく説明しろよ」
「命令形っ!? 頑張ってはみるけど……」
 むぅ、と再度唸ってから小娘は説明を続けた。
「つまり要するに〝フェアリーアイ〟は無限を視るわけだよ。で、それじゃあ本当に未来なんか視れるの? ってなるじゃん。だからね〝フェアリーアイ〟にはそれを確定させる力もあるんだよ。それが『未来を選択する力』。つまり『アカシックレコード』『賢者の石』『神の座』に干渉して、無限の中の一つを選び取って、現実へ持ってこさせる力。これまた逆説的なんだけど、言い換えれば『ボクの視た未来が現実になる』って感じ。そのために必要な過去があれば、その過去さえも改竄されるよ。そのことは誰にも……ボク自身にも知覚できないけれどね」
 小娘の言葉を俺は頭の中で咀嚼する。もちろん浮かび上がってくるのは疑問ばかりだ。
「ちょっと待て。過去が変わったことを誰も理解出来ないなら、なんで変わってるってことがわかるんだ」
「うーん、そのことを説明するなら、また時間の流動性が関係してくるから……難しいなぁ。でもまあ、とにかくわかるんだよ。ボクには。例え話をするなら……さっきの刻零騎士団だけど、実はボクが未来を視る前まではこの国、この街にいなかったのだとしたら?」
「……だったら、この国にいたのはおかしいな」
「うん。でも、実際にはいた。で、あの路地裏に来た」
「……何が言いたい」
「刻零騎士団が本当にあの直前、ちゃんとこの街にいたのかどうかはわからないよね? もしかすると別の街にいたのかもしれない。でも、結果的にあの路地裏に来た。ってことは、過去が改竄された可能性が考えられるよね? 全然別の所にいた刻零騎士団が、ボクが未来を視ることによって、その過去が改竄されてこの街にいたことになった。だから、あの瞬間にボク達の前に現れた」
「……だが、別の街にいたという証拠もないだろ」
「ないね。だから、これは可能性の話。本当にこの街にいたのかもしれないし、いなかったかもしれない。それはもうわからない。でも、もう結果は出てるじゃん。結果があるから、不明な部分も適当に埋められるわけ。つまり難しく言うと因果律の逆転。結果があって、原因が生まれるんだ」
「……ふん、なるほどな」
 何となくだがわかってきた。例えば、ノートを机の引き出しに入れて閉じたとしよう。その瞬間、本当にノートは机の中にあるのか。それは誰にもわからない。だが、引き出しを開けるとやはりノートはそこにある。だからノートは引き出しにちゃんと入っていたことがわかる。
 結果があって、初めて経過が生まれる。つまりはそういう流れを現実にやってのけているのだ。まぁ、結果を出して経過を適当にこじつけている辺り、ノートの例よりも遙かに強引だがな。
 だが、ここで新たな疑問が生じる。
「ちょっと待て。それならお前、その〝フェアリーアイ〟で簡単に『水晶機関』から逃げ切れるだろう。さっきみたいに捕まらない未来を選び続けるだけで」
 未来を選択する力、とは言い換えれば、未来を好きにする力、とも言えるだろう。もし俺がそんな目を持っていたら間違いなくそうする。
 俺が問うと、小娘は腕を組んで難しい顔をした。
「それがねぇ、現実は厳しいっていうか、なかなかそうはいかないんだよ。ボクだって出来ることならそうしたいよ? でも無理なんだよ」
「何でだ」
「そんな都合の良い話はそうそう転がっていないし。っていうかいくら何でも〝フェアリーアイ〟にだって限界はあるんだよ。選べる未来の範囲は限られているし。選んだら選んだで、さっきみたいに急に疲れが出て倒れちゃうし。そもそも未来なんて可能性がひしめき合ってるんだから、ちょっとしたことで選んだ未来も遠ざかるし。逃げ切れる未来を選んだとしても、動けなくなっちゃったら別の未来に押し潰されちゃうし。そもそもほとんどの未来なんて自分の手で掴み取るものなんだから行動出来なくなるなんて有り得ないし。大体〝フェアリーアイ〟ってみんなが思うほど便利じゃないんだよ。ゴチャゴチャしてるし面倒くさいし目の色は普通じゃないから目立つし──」
 段々と愚痴になってきたぞコレ。つまらん話を聞いてやるほど聖人になったつもりはない。俺は小娘の言葉を遮断するように、
「で、どこらへんから俺がお前に協力する話に繋がるんだ?」
 と聞いてやった。少なくとも、これまでの中で俺が協力してやる気になるような要素はまるでない。
 小娘は脊髄に電流を流されたような反応をした。
「ええっ!? なにそれ!? ちょっと待って? えっと、あの、ボク〈エクステンド〉だよ?」
「ああ」
「未来が視えるし、それをある程度自由に選べるんだよ? もっと言うと過去だって視られるし、他にも盛り沢山だよ?」
「そうだな」
「『水晶機関』だけじゃなくて、世界中が喉から手が出るほどボクを欲しがってるんだよ? レア中のレアだよ?」
「それがどうした」
 小娘はいきなり爆発した。
「それがどうしたじゃないよんもぉ────────ッッ! どういう神経しちゃってるんだよオバカぁっ! おかしい! ゼテオさん絶対頭おかしいっ!」
 うるさい。頭のおかしいガキに言われる筋合いはない。俺は顔を背けて無視を決め込んだ。
「便利じゃないか! すごいじゃないか! 相棒にしたら役に立ちそうだとか思わないわけっ!?」
「思わない」
「きっぱり言ったねぇ────────ッ!?」
「騒ぐな。落ち着け。鬱陶しい」
 恫喝するような低い響きで言うと、小娘はぐっと口を噤んだ。が、顔ににじみ出す悔しさは抑えられないらしい。凄い形相で俺を睨んでいる。
「あのな、お前は未来が視えるんだろ? なら俺がお前に協力する未来が視えるか?」
「一応、見えてはいるもん。今必死にそれをたぐり寄せようとしているところ」
 ふー、ふー、とまるで猫のように肩をいからせる。やれやれ、すぐに熱くなるのがガキの悪いところだ。鬱陶しいこと限りない。
 とはいえ、これまでと同じ対応をしても進歩がない。ここは一つ、大人としてうまく説得してやるべきだろう。
「大体、お前『水晶機関』に保護されていたんだろ? 一緒に帰ろうとかあの〈エクステンド〉も言ってたしな。元いた場所に戻るだけだろ。何がそんなに嫌だってんだ」
 途端に小娘は肩を落として俯いてしまった。ベッドの上を後ずさり壁に背を預けると、両脚を胸にたたんで体を丸める。だから降りろと言うに。
「だって……つまらないんだもん。退屈だし。何より自由がないんだ」
 『水晶機関』の思想と目的は俺も知っている。エーテルストライカーの保護と教育。まぁ、そこには色々な側面があるだろうが、悪い話ではないはずだ。世の中にはエーテルストライカーを『異端』と呼んで殺そうとする連中だっている。その能力を利用しようと企む奴はそれ以上にいるだろう。それに、無駄に力を持て余しているエーテルストライカーは意図せず他者を傷つけることがよくある。『水晶機関』はそんなエーテルストライカーと一般人の間に起こる摩擦を無くそうとしているのだ。
「お前は〈エクステンド〉だからな。色々あるんだろうが」
「ありすぎるんだよ」
 ぽつり、と暗い声が俺の言葉を遮った。不機嫌そうな虹色がこっちを恨めしそうに見ている。よっぽど戻るのが嫌なんだろう。だが俺には関係ない。
「とにかく、俺には関係ないだろう。金がないならもういい。諦める。このままお前と付き合ってたら損するばっかりだ。もう帰れ。俺を巻き込むな」
「やだ」
 今度は激発しなかったものの、小娘は頑固な声を出した。短く言い切ることで、どんな理屈をも拒絶する姿勢を見せやがった。冗談じゃない。
「あのな」
「やだ」
「お前な」
「やだ」
「…………」
「やだ」
 小娘は頑なと言うか、もはや聞く耳を持たない状態だった。いっそ力尽くで追い出すか? いや、そんなことをしたら玄関の前で騒ぎ立てかねない。それは困る。どうしたもんか。
 と困り果てていると、
「関係なくないし」
「あ?」
 唇を尖らせて小娘が何事かをぼそりと呟いた。
「関係なくないもん。ゼテオさんだって〈エクステンド〉じゃないか。ボクの仲間だよ。無関係じゃないもん」
 心臓に小さな針が刺さったような感覚があった。ついで、胃の中に鉛がつまったような重さが生まれる。嫌な気分だ。俺はわざとらしく、ふぅ、と息を吐いて、
「悪いが俺は〈エクステンド〉じゃない。お前の勘違いだろ」
「そんなはずないもん。ボク視たもん。ゼテオさんに虹色の光。確かに視たもん。どうして嘘つくのさ」
 嘘。その単語が胸に突き刺さる。
 そう、嘘かもしれない。だがそれがどうした。俺が〈エクステンド〉である確証なんてどこにもないのだ。それこそ自分が〈エクステンド〉だと言ってみろ、そうでなかった時に恥ずかしい思いをするのはどこの誰だ。そんなのはゴメンだ。
「嘘じゃない。何度も言うが、俺はエーテルストライカーでもなければ〈エクステンド〉でもない。そんなのは全部お前の勘違いだ。バクテリアかお前は」
「……バクテリアじゃないもん。マテリア・オールブライトだもん。っていうか今バクテリア関係ないもん」
 駄目だ、完全に拗ねていやがる。一向にここを出て行く気配がない。思いっきり居座る気だ。
「ボクが視たゼテオさんのエーテルは七色だったんだよ? しかもこれって未来とか過去とか時間軸に関係ない、知識系の情報なんだよ? だから間違いなはずないんだもん」
「知らん。違うもんは違うとしか言いいようがないだろ」
「どうして? 昔、何かあったの? 言ってくれなきゃここでゼテオさんの過去を視てやる」
「!」
 その瞬間、俺の中の引き金がいきなり引かれた。
 ほとんど脊髄反射で手にしていたミネラルウォーターのボトルを投げつけた。しかも手加減無しで。
「!?」
 まだ中身の入ったボトルは小娘の顔のすぐ横に激突して、鈍い音を立てた。水が弾け、小娘の顔へ派手に飛び散る。
「──……!」
 突然の事で悲鳴も出なかったらしい。小娘は派手な瞳を思いっきり見開いて、驚愕の表情を浮かべている。驚きのあまり、呼吸さえ止まっているようだった。
 床に転がったボトルが、とくとくと水をこぼしていく。俺はそれを無視した。
 俺は溶鉱炉のように煮えたぎった胸の内から、声を絞り出す。
「いい加減にしろ」
 強く言い放つ。このガキは今、言ってはいけないことを言った。触れてはならない部分に触れてしまったのだ。
「お前は何様のつもりだ。他人の記憶に土足で踏み込めるほど〈エクステンド〉ってのは偉いのか。ふざけるな。どうしても視たいんなら勝手にしろ。その代わり即刻ここから出て行け」
 決して語気を荒げたわけじゃない。むしろ今までよりも静かに言ったぐらいだ。しかし、それが逆に俺の怒りを一層強く示すことになっただろう。
「ご、ごめ……ん、なさ……い……」
 生まれたての子鹿のように身を震わせながら、小娘は拙く謝罪を口にする。俺は今どんな顔をしているのか。間違いなく笑顔ではない。全く正反対の表情をしているはずだ。眉根のあたりに力が篭もっているのが、自分でもよくわかる。
 じわり、と小娘の目に涙がにじんだ。
 う。まずい。これは嫌な予感がする。例えるなら、決壊直前の堤防を見ているような気分。至る所に致命的な割れ目が発生して、今か今かと崩壊が起こるのを何も出来ずに見ているだけのような、そんな数瞬。
「ご……ごめん……な……ふぇ……っ!」
 ごめんなふぇって何だ。そう思ったが、それどころではなかった。止められそうになかった上に、俺には止められるはずもなかった。
 俺に出来たのは咄嗟に耳を塞ぐことだけだった。


 驚いたからって泣き出すなんて子供すぎる。
 けれどそうは思っても、勝手に出てくる涙と衝動は止まってはくれなかった。情けないことにボクは威嚇攻撃を前にしておいおいと泣いてしまった。
 恥ずかしい。
 泣きはらした目をごしごしと擦りながら、何とか誤魔化す方法はないものだろうか、とか考える。あるはずないし。思いっきり泣き顔を見られて、泣き声聞かれたし。アレスくんの前でも泣いたことなんてなかったのに。っていうかあんなの反則だ。いきなり投げつけてくるなんて。……そりゃボクが悪かったんだけどさ。
「汚された気分だよ……」
「……何か言ったか?」
「別に……」
 さっきから沈黙が痛い。理由はボクが泣いてしまったからなんだろうけど。ゼテオさん、まだ怒っているのかな。確かに我ながら無神経なことを言ってしまったと思う。過去を見るということは、心の中を覗くのと同じぐらい失礼なことだ。それを無自覚に口にしてしまうなんて。
「……何かあったのかと聞かれれば、何かあったのは確かだ。詳しくは言いたくないがな」
 突然、ゼテオさんがそう切り出した。一瞬、何のことかと思った。彼の過去のことだ、多分。話してくれる気になったのかな。
「……言いたくないんだ?」
「聞いて楽しいもんじゃない。ただまあ、あれだ。さっきのは大人げなかった。悪かったな」
「ううん。ボクの方が悪かったから……」
 微妙な沈黙。取っ掛かりがありそうでない、居心地の悪い静けさ。それを破ったのはゼテオさんの方だった。
「……昔な、確かにお前の言うとおり〈エクステンド〉みたいな虹色のエーテルが出た。俺の体からな」
「え……?」
 やっぱり、という思いよりも驚きの方が強かった。ゼテオさんが自分のことを語り出した。そのことに対して、すごく吃驚した。だって、これまでこの人はまったく自分のことを話さずにいたんだから。頑固にも程があるってもんだよ。人のこと言えないけど。
「だが、一度だけだ。それ以降ぱったり出なくなった。見ての通り、エーテルストライカーかってぐらい力はあるんだけどな。エーテルは出ない。全然な。だから俺はエーテルストライカーでもなければ〈エクステンド〉でもない」
 ゼテオさんの金色の目はどこか遠くを見ているようだった。きっと脳裏に焼き付いた過去の映像を眺めているのだろう。それがどんなものなのかは、表情からでは判断出来ないけど。
 でも、なんていうか。
「……もしかして、それだけ?」
 思わずきっぱりと言ってしまった。ゼテオさんが目を点にして振り向く。あ、ちょっとおもしろい顔。
「……それだけ、って言えば確かにそれだけだが……何だ。何かおかしいのか」
 真顔でゼテオさんは言う。表面上は狼狽えないように抑制しているみたいだけど、なんだか手に取るように彼の動揺が伝わってくる。
「おかしいよ。だってそれ、ボクの見解を否定する決定的な材料じゃないもん」
 ぐっ、と言葉に詰まるゼテオさん。だけど彼はすかさず、
「かと言って、俺が〈エクステンド〉だっていう確たる証拠もないだろ」
 と反論した。けど、全然甘いと思う。
「あるよ」
 ボクは即答した。唖然とするゼテオさんに、自分の目を指差して見せる。
「ボク自身が使い方を間違えることはあっても、〝フェアリーアイ〟は絶対に嘘を見せないからね。これが確証だよ。ゼテオ・ジンデルさんがエーテルストライカーで〈エクステンド〉っていうね」
 自信を持ってボクは断言した。にっこり微笑んで念押しだってしてあげる。だってこれは本当のことだから。〝フェアリーアイ〟で見たことと事実が反していたことは、いまだかつてない。〈エクステンド〉の肩書きは決して飾りなんかじゃないのだ。
 ゼテオさんは気難しそうな顔をしていたけど、やっぱり納得できないのか、
「じゃあ聞くが、お前ならわかるのか? 俺がどうしてエーテルを出せなくなったのか、その理由が? そんなにも俺が〈エクステンド〉だって言い張るんなら」
「うん」
 素で頷いた。再び呆気にとられるゼテオさん。
「でもさっき言ったように、その時はゼテオさんの過去を……その、見ちゃうことになるから。あんまり良くない、と思うけど……?」
 言っている内に段々気まずくなって、声が尻すぼみになってしまう。嫌だな、こういう自分は嫌いだよ。だからボクはそんな雰囲気を払拭するように、意識的に声を明るくして言葉を続けた。
「それに、エーテルが出なくなったエーテルストライカーの例がないわけじゃないしっ。いや、正確にはわからないんだけど、『水晶機関』にいた頃に聞いたことがあるような気がするよ? だから大丈夫だよ。気にすることないって」
 そう言うと、ゼテオさんはなにやら不機嫌そうな顔で、あらぬ方向を向いて溜息をついた。
 何だかよくわからないけど、面倒くさそうな空気が漂っている。何なんだろうか。一体何を考えているんだろう。すごく気になる。
 そもそも、だ。記憶を整理しよう。この人は最初、ボクの目を見た瞬間にはもの凄い勢いで「何だその目は。言わなきゃ殺す」なんて言ってきた。その次には「俺は本当にその〈エクステンド〉って奴なのか?」と聞いてきた。そんでもって「昔、一度だけ虹色のエーテルを出したことがある」とも言った。
 これらを総合して考えてみる。
 結論。この人はもしかすると、自分が何者かわからない不安をずっと抱え込んでいたんだろうか? などとボクは思うのだ。
 かつて一度だけその身から七色のエーテルが生み出されて、自分は〈エクステンド〉かもしれないと思ったんだろう。でもそれ以降は全然で。肝心のエーテルそのものが使えなくなって、自分が本当に〈エクステンド〉なのか自信が無くなってしまって。結局、自分は何なんだろう? って疑問に思っても答えてくれるような人は近くにいなくて。
 だからその糸口になるであろうボクの七色の瞳を見て、慌てて詰問した。確証が欲しくて、情報を求めた。その際、自分には詳しい知識がなく、そうである自信もなかったから、エーテルストライカーでも〈エクステンド〉でもないと言い張った。バカにされたくない、って気持ちもあったんじゃないかなとは思うけど。
 それで現在に至る、というわけだ。多分。
 何だそれは。もしかしなくても、ただの見栄って奴じゃん?
 急激に彼の行動原理を理解してしまったボクは、思いっきり呆れてしまった。
「……ゼテオさんって子供だよね」
 じとっとした目で見つめて、ボクはぼそりと言った。
「……なんだと?」
 険しい顔でゼテオさんは振り向いた。分別するのが面倒くさいゴミ袋を見るような目で、
「ふん、ガキにガキって言われる筋合いはないな。泣き虫バクテリアめ」
 えらい憎まれ口を叩かれた。むっかー! 何だよ泣き虫バクテリアってー!
 でも怒っちゃいけない。ついさっき無礼を働いたばっかりなんだから。ここは一つ我慢しなければいけない。
「だってさ、聞きたいことがあるなら率直に聞けばいいじゃん。言いたいことがあるなら素直に言えばいいじゃないか。そんな簡単なことが出来ないなんてガキだよガキ。見栄っ張りで意地っ張り。クールぶってハードボイルド気取ってもダサイだけだよまったく」
 と思ってもボクはそんなに我慢強い性格じゃなかった。言ってからそのことを思い出した。いやぁ、遅すぎるか。
 ボクの撃ち出した毒塗りの弾丸の連発に、ゼテオさんは一瞬だけ呆然とした。うん、我ながらすごい毒を吐いた気がする。知らないうちに溜まっていたんだろう。でも、それを溜め込ませたのは間違いなくゼテオさんだから、自業自得だといえるけれど。
 だけど彼はすぐに顔を引き締めて、もの凄く恐い顔でボクを睨む。いや、恐い顔っていうのはボクの錯覚かも。自分で作っておいて何だけど、空気が痛くてとてもゼテオさんの顔を直視出来なかった。もうなんて言うか、雰囲気が恐い。
 長い沈黙。それはきっと、ゼテオさんの心の葛藤を表しているんだろう。あそこまで直接的に言われたことに対して真っ向から言い返すのか。大人の余裕として聞き流すのか。どっちかで迷っているんだと思うんだけど。
 やがてゼテオさんは感情を押し殺した声で、
「……それよりお前、そろそろ出て行け」
 むっ、そう来たか。大人って状況が厳しくなるとすぐに相手の弱点を突こうとするから嫌いだなぁ。
 でもこれに対してはもう答えを用意している。
「なんで? ボク、ゼテオさんの過去を見てないよ?」
「あ? 何の話だ?」
「だってさっき言ったじゃん。過去を視たいなら好きにしろ。その代わり即刻出て行けーって。これって過去を視ないならここにいてもいいって意味でしょ?」
「な……」
 絶句。ゼテオさんはそんな題名の彫像と化した。何かを言う意志はあるのだけど、咄嗟に適切な言葉が出てこない。そんな顔。隙だらけだ。
 ボクは素早く立ち上がり、しゅたっと片手をあげて、極上の笑顔を咲かせる。
「それじゃあ相棒兼同居人ってことで! よろしくね!」
 固まっているゼテオさんをそのまま放っておいて、ベッドから足を降ろす。冷蔵庫に近づいて、扉を開けて中から水の入った容器を取り出した。栓を開けて、口をつける。
 一口飲んで喉を潤してから、ゼテオさんに向き直り、
「あ、そうだ。相棒なのにさん付けって何かよそよそしいから、これからはゼテオって呼ぶね? ボクのこともマテリアって呼び捨てにしていいから」
 で、また水を飲む。ゼテオさん──改め、ゼテオはボクに向かって口をぱくぱくさせている。まるで陸に揚がった魚みたい。
「あ、そうそう。後ね、アレスくんのことだけど。アレスくんって冗談が通じないし、意外としつこいんだよ。だから多分、本気でゼテオの命を狙いに来ると思う。災難だねぇ。ま、その時はボクの〝フェアリーアイ〟で助けてあげるからさっ! 持ちつ持たれつって感じの関係? 相棒っていいよねぇーあはははっ」
 けらけらと笑って、今度は一気に水を飲み干そうとボトルをあおった。
 そんな上機嫌なボクの耳に、ゼテオの忌々しげな呟きが聞こえてきた。
「厄日だ……」
 当然だけどボクは気にしないことにした。ご愁傷様。


 マテリア・オールブライトという女と同居することになった。
 などと言えば聞こえは良いが、このマテリアというのは実は女と呼べる生き物ではない。むしろ珍獣と呼んだ方がしっくりくる。
 そう、女と言うよりはメスと言った方が良い。年齢は十六と言っているが本当かどうかわかったもんじゃない。女は嘘をつく。これは俺の経験則だ。いや、マテリアはメスだった。言い換えよう。メスは嘘をつく。
 とにもかくにも他人に自慢出来るような話じゃない。傭兵仲間にバレれば笑いものにされる類の話だ。何が悲しくて骨と皮だけで膨らみのまるでない生き物と、一つ屋根の下で暮らさなければならないのか。いやまあ、妙齢の美女なら喜んで受け入れたのか? と聞かれたら、もちろんそういうわけではない、と答えるが。
 別に女に興味がないわけではない。かといって男に興味があるわけでもない。ただ、俺にはもう誰かを受け入れるつもりがないのだ。そんなことはもう十分だ、と思っている。そう、あいつ以外には、もう。
 心の底から思う。あんなことはもうたくさんだ、と。
 だっていうのにこのマテリアとか言うバカは、
「どうも初めましてー! ボク、ゼテオの相棒のマテリア・オールブライトって言います! よろしくお願いしますね!」
 などと出会った傭兵仲間に片っ端から自分を売り込みやがる。突っ込みどころ満載だった。
 誰が相棒だ、勝手に名乗るな、ってか目立つな、ついてくるな、鬱陶しい。すぐ思いつくだけでもこれだけの言葉が出てくる。
 間違いなくあの日は厄日で、マテリアは疫病神だった。俺にとってマテリアという存在は、サングラスをかけた災厄そのものだったのだ。
 疲れることこの上ない。その上、傭兵仲間共にはロリコンが多いのか、喜んでマテリアを受け入れやがる。とことんツイてない。せめてあいつらが鬱陶しがってくれれば、俺としてもマテリアに「仕事についてくるな!」と強く言えるというのに。胃が痛い。
「お前さんも隅に置けないな」
 などとにやついた顔で言われたこともある。一緒にするな、と叫びたい。俺はほとんど脅迫に近い形でこいつと同棲させられているのだ。いや、マテリアが勝手に居着いたのだ。断じて俺の意志によるものではないのだ。
 しかも、だ。〈エクステンド〉という生き物は冗談抜きで多種多様な団体・人物から、様々な意味で狙われている。それを俺は体で感じ取った。というか強制的に実感させられた。
 マテリアが自称・俺の相棒になってから一週間。たった七日の間に、俺は何度も死線を潜り抜ける羽目となったのだ。
 刻零騎士団を始め、〈エクステンド〉を獲得しようとするいくつもの組織。どいつがどこの奴だか知れたものではない。この七日間で一体何人がいきなり襲いかかってきたのか。思い出す気にもなれん。それぐらい奴らは現れた。そして決まって奴らはこう言う。「〈エクステンド〉を確保せよ!」と。往々にして団体で出てくるから蹴散らすのが本気で面倒くさい。羽虫かお前らは。
 それだけじゃない。〈エクステンド〉の命を奪おうとする奴らも出てきた。目的はもちろんマテリアを殺すこと。何でこんな小娘を? 殺したところで何になる? そう疑問を呈すと、
「アレスくんが言ってたし、ゼテオも知ってるでしょ? ボク達〈エクステンド〉は世界を左右する力があるって。それはつまり、この遺産世界そのものを破滅させるかもしれない、ってことだよ。まあこれは抽象的すぎる話だけど……例えばボクがある国に捕まって〝フェアリーアイ〟を強制的に使わせられたら? 未来のことも含めて色んな情報が手に入るよね? 情報戦って言葉があるぐらいだから、情報のあるなしで国家の存亡が変わってくる時代なんだよ。つまり世界情勢が大きく変わっちゃう。それを嫌がる人、怖がる人がボクらの命を狙ってるんだと思う。他にも理由はあると思うけどね。単純にエーテルストライカーが殺したいほど嫌いな人だっているだろうし。あーうざっ」
 という答えがマテリアから返ってきた。となると巻き込まれた俺は何だ。お前がうざいと思うなら、俺はそれ以上の感情を得ているぞ。あー超うぜぇ。
 というわけで命を狙われることすら日常茶飯事だ。一緒にいるこっちの命まで危険にさらされるので、俺は戦わざるを得ない。そうなると結果的に俺の自衛がマテリアの防護になっているという寸法だ。世の中ムカツクほど良く出来ている。
 自衛と言えば、そういえばこんな事があった。
 マテリアが襲ってきた連中の一人を殺したのだ。
 俺は傭兵だ。命のやりとりなら日常茶飯事──とまでは言わないが、まぁそれなりにある。危険と背中合わせの仕事だからな。顔を見なくなった傭兵仲間だって何人もいる。
 だがマテリアは『水晶機関』に保護されていた自称十六歳の小娘だ。そいつのする殺人は、俺のとはまた意味合いが違うだろう。
 俺はいつも通り敵とあればナイフで喉を切り裂き、腕力に任せて頭を壁にぶつけ叩き潰す。そこに躊躇いはない。俺がかつて生き、今も生きているのはそういった世界だからだ。
 なのに、そうではない世界にいたはずのマテリアが、躊躇無く他者の命を絶つとはどういうことなのか。
 ある時、俺がとどめを刺し損ねた男が地面に転がって低いうめき声を吐いた。その瞬間、
「あっ、まず」
 と言ったのはマテリアで、俺ではなかった。マテリアは咄嗟の判断で動いたのだろう。足下に落ちていた敵の武器を拾い上げると、迷わずそれを男の喉に突き刺した。
 手際が良すぎて普通に見過ごしてしまった。味方の剣の切っ先を喉元に埋められた男は、がふ、と最後の息を血と共に吐き、事切れた。マテリアはそれを確認すると、
「ふぅ……危なかったぁ……」
 といかにも当たり前な顔でそんなことを言った。予想外の行動に俺は思わず、
「おい……お前、何やってんだ」
「へ?」
 たった今一人の人間の命を奪ったばかりの小娘は、いつものように振り返って、きょとんとした顔を見せた。
「何って……何が?」
 小首を傾げるマテリアに、俺は言葉に詰まった。一瞬、何を言えばいいのかわからなかったのだ。だが、言いたいことは表情になっていたのだろう。マテリアは急に不安そうな顔をして、自分の持つ剣と、死んだばかりの男の顔を見比べて、
「え? だって、ほら、この人だってボクのことを殺そうとしていたんだよ?」
 弁解するように喋り出した。
「だったら殺されても文句言えないじゃないか。……違うの?」
 違ってはいない。誰かを殺すということは、誰かに殺されるということだ。命を賭けた戦場に不平等はない。自然の法則に従って、弱い者が死に、強い者が生き残る。それだけだ。だから、殺されるところだったから返り討ちにした、それは間違ってなどいない。決して。そう、論理としては。あくまで理屈としては。
 だがそれを年端もいかない女子供が持っていること、それがおかしい。殺伐に過ぎるのだ。
「アレスくんも言ってたよ? ボク達を殺そうとする奴らは、生き残るとまた同じようにやってくるから、必ず仕留めないといけないって。じゃないといつかボク達の方が殺されてしまうから、って。そんなにおかしいの?」
 純真な目でそう聞かれても困る。おかしくないし、間違ってもない。実に現実的な考えだ。むしろマテリアのように命を狙われるのが日常茶飯事という人間なら、そういった考えを持っていなければそう遠くない内に死んでしまうだろう。ほぼ確実に。
 だがマテリアの問い方は、まるで「1+1は2でしょ? 何か違うの? どこかおかしいの?」と聞くような感じだったのだ。当たり前のように、自分の正しさを完璧に信じ切っている。そりゃそうだろう。それは全くの正論で、疑問を差し挟む余地などどこにもないのだから。1+1はどうやっても3にも4にもならない。複雑に計算しようにも、1+1という式にひねくれる余裕は微塵もなく、2という答えしか出しようがない。
 それはいい。
 でもこいつは、目の前で子猫の頭が踏み潰されたら絶対に泣くだろう。そういう奴だ。そこに「1+1」の論理は必ずと言っていいほど適用されていない。そうに決まっている。
 だから歪なのだ。
 人殺しを恐れない奴が、どうして水の入ったボトルを投げつけられたくらいで泣くというのだ。しかも直撃していないというのに。
 誰かを殺せば、誰かに殺される。その思考に必要なのは、その論理の理解ではない。
 自分が誰かに殺されるかもしれないという現実を呑み込む【覚悟】だ。
 傭兵ならば誰もが持っている覚悟。命を奪い奪われるという現象に慣れる感覚。そういったものを持ち合わせている奴なら、目の前で子猫が死のうが水のボトルを投げつけられようが、泣くわけがない。
 マテリア・オールブライトに覚悟はなく、それ故に感覚が歪なのだ。それは物心付いた頃にはもう命を狙われていたという特殊な環境が作り上げたものかもしれない。自分を殺そうとする者の命だけが塵芥に等しく、それ以外の感覚は一般人とそう変わらない。実にちぐはぐな人格。
 それを『水晶機関』の功罪、と言うべきか。それとも〈エクステンド〉の宿命と呼ぶべきか。
 歪んでいるマテリアにかけるべき言葉を俺は持たなかった。その時はただ適当に、
「いや、おかしくはないがな。お前はあんまり出てくるな。邪魔だ足手まといだバクテリアだ」
「邪魔と足手まといはわかるけどバクテリアってなぁんだよぉ────────ッ!」
 という風に誤魔化した。
 正直な話、驚いていたし恐ろしいとも思っていたのだ。マテリアに対してではなく、もっと漠然としたものに対して。
 これが〈エクステンド〉なのか、と。
 あるいは俺もそうなのかもしれない〈エクステンド〉の本当の姿がこれなのか、と。
 今までずっと聞きかじりの知識だけで〈エクステンド〉そのものに出会う機会などなかった。だから知らなかった。ある程度の苦難はあるのだろうと、朧気にそう思ってはいた。だが、ここまでとは。
 人格が、価値観が歪んでしまう程の生活。覚悟を持つ前に、殺し殺されが成立してしまう環境。年端もいかない女子供が傭兵以上に命のやりとりを当たり前とする、そんな宿命。
 あのアレス・フォルスターとかいう少年も、マテリアとそう変わらない年齢だろう。そのくせエーテルストライカーを探し出して保護……という名目で『刈る』のが奴の仕事だという。とんでもない話だ。俺の半分と少しぐらいしか生きていない連中がやる事じゃない、とまでは言わないが、やはり普通ではないだろう。
 まあ、それがどうした、と言える程度ではある。世の中にはもっと不幸な人間がごまんといる。少なくとも今のマテリアは毎日の生活の中で笑うことが出来ている。それを不幸とは呼べないだろう。
 というか俺の方が不幸だからな。別に普段から笑うことなど少ないが、マテリアが来てから一度も笑った記憶がない。こいつはどん底だ。
 何故かって? さっきも言ったように、昼夜関係なく馬鹿共が襲いかかってくるからだ。それはもう分別のないこと限りなしだ。なにせ仕事中にもやってくるんだからな。
 おかげでこっちの仕事のほとんどがおじゃんだ。目立ちたくもないのに目立ち、挙げ句には仕事に失敗してゼテオ・ジンデルの傭兵としての名声は地に落ちた。最悪だ。
 それもこれもみんなマテリアのせいだった。あの小娘が俺に取り憑かなければ。いや、あのアレスに「手込めにされた!」などと言わなければ。俺とてこんな疫病神などとうに放り出しているのだ。
 だがあのアレス・フォルスターはやばい。俺とて自分の実力にはそれなりの自信がある。並のエーテルストライカーになら勝てる、というか勝ったことがある。それぐらいの実力はあるのだ。しかし、あの時に見たアレスの姿と言ったら心底冗談ではない。手を抜いていた時のあいつは「〈エクステンド〉つってもこの程度か」と思っていたが、本気になったあの姿は本気で洒落にならない。何だあのエーテルの量と勢いは。あんな脚で蹴られてみろ。一瞬で肉体が原子に還元されるぞ。あんな怪物など相手にしてたまるものか。間違いなく死んでしまうわ。
 それを避けるためにはどうしてもマテリアが必要となる。制限や限界はあるだろうが、とにかくあいつの〝フェアリーアイ〟は窮地に陥った際、絶対に必要になる。あの場に刻零騎士団が現れたように、肝心な時にあれと同等の奇跡を起こしてもらわなければ、まず間違いなく俺の魂が昇天することになるだろう。ひでぶ、ってな。
 とはいえ、だ。そもそも今の俺は自分の行動に疑問を持っている。本当にそれだけか? と。本当にマテリアを傍に置いているのは、アレスという身の危険を防ぐためだけなのか、と。
 答えはノーだ。
 もう期待はしないと決めたはずだ。なのに、俺は一体何を期待しているのだろうか。
 マテリアに「ゼテオも〈エクステンド〉だよ」と言われて喜んでいる俺がどこかにいないだろうか? あいつの〝フェアリーアイ〟のような特別な力が自分にもあるかもしれない、そう考えている自分がいないだろうか? ぶっちゃけた話、そういった可能性を否定出来ないでいる自分がいるのだ。
 打算で部屋に連れてきたマテリアのはずだ。それがいつの間にか、俺が求めていた〈エクステンド〉という存在への道標へと変化している。実に情けない。それは、俺がまだ希望を捨てられずにいるという証明だったのだ。そのことを俺は自覚させられてしまった。自分は諦めが悪すぎるのだ、と。
 まだあいつの言葉に俺はこだわっているのか。本当に、情けなく思う。あの頃から俺は少しも成長していないのかもしれない。エーテルが全く出なくなった、あの頃から。
 いや、それはもう考えるな。思い出しても仕方のないことだ。俺は記憶を封印する。
 とにもかくにも、だ。
 一週間が過ぎた。何事もなく、というわけにはいかなかったがな。仕事斡旋所で見つけた五つの内、四つがマテリアを狙う連中の介入で台無しになった。サーゲトワ政府の要人の警護は途中で席を外したばっかりにクビになった。理由は勿論、マテリアへの襲撃に対応していたからだ。下手に巻き込んで損害賠償を請求されなかっただけましだった。ちなみにその時の襲撃犯の身元はマテリア曰く『積層国家シュヴァルツの隠密組織』らしい。
 他にも武闘派組織同士の抗争の助っ人や、中身を知ってはいけない物の運び屋などを請け負ったが、ことごとく邪魔が入って失敗に終わっている。階段王国ノルゼ、山岳帝国ローゼスライヒ、紫光城、その他諸々、とにかく色んな国の奴らが出てきた。よくもまあこれだけの連中が勝手に入り込んでいるもんだ、と感心するほどだ。よっぽどサーゲトワの国境警備はザルらしい。それ以上に各国の〈エクステンド〉への需要がここまで大きかったことに対して驚いたがな。
 やはり〈エクステンド〉は世界を左右する。実際に何をするでもなく、ただ存在するだけで無形の影響があるのだ。俺はそれを実感した。
 そんな奴と同居し、そんな奴に「マテリアさんを手込めにした万死に値する」と命を狙われ、俺自身もそんな奴かもしれないという。何なんだこの状況は。神様よ、これは気の利いた冗談のつもりか? ありがとう。憶えてろよ。
 ただこの一週間の間、意外にもアレスは姿を現さなかった。
「あいつ、結局あれから全然出てこないな」
「アレスくん? 彼は忙しい人だからねぇ。『水晶機関』でも超がつくほどの売れっ子だもん」
「何だそりゃ?」
「だって、速いし強いし優しいし。まさしく正義の味方だよね。まぁ本人もそういうのに憧れてるし、目指しているみたいだったし。幼なじみとしては彼の夢が叶って何よりだよ」
「で、あいつの正義がお前を連れ戻すことに繋がるわけだがな」
「いやぁもう最悪だね。夢なんてベッドの中で見るものだよ。現実に持って来ちゃいけないね。気持ち悪いったらありゃしないよ」
「手の平返すな」
 どうやら〈エクステンド〉アレス・フォルスターはその脚を以て世界各国を飛び回っているらしい。
 基本的に『水晶機関』のメンバーとはエーテルストライカーで構成されているそうだ。それはそうだろう。目には目を、歯には歯を、エーテルストライカーにはエーテルストライカーを、だ。
 自由要素であるエーテルを操るエーテルストライカーは十人十色の特殊能力を持つ。それはマテリアの〝フェアリーアイ〟であったり、アレスの両脚だったりする。中にはエーテルを火炎に変換する奴もいれば、水や空気などの流体を操作する奴もいる。昔で言う火炎能力者や風使いといった奴らだな。そんな奴らに一般人がどれだけ束になってもそうそう勝てやしない。だから『水晶機関』は保護すべきエーテルストライカーに、同じエーテルストライカーをぶつける。そうすることによってエーテルストライカーの保護を確実なものにしているのだ。そうして保護されたエーテルストライカーは教育を施され、今度はそいつが『保護する側』に回る、という仕組みだ。
 マテリアから聞く都度、俺は『水晶機関』や〈エクステンド〉の本当の姿を知っていく。不本意ながら、これがおもしろいのだ。
「実際のところ〈エクステンド〉って何なんだ? 俺が調べたところじゃ、大昔にどっかの誰かが作ったってあったが……」
 俺がもし〈エクステンド〉だったとしよう。だが、俺はそんなに長く生きてなどいない。マテリアもアレスもそうだろう。この時点でその話は嘘であることが判明しているが、もしかするとマテリアは何か知っているのかもしれないと思ったのだ。
「ああ、それ? 当たらずとも遠からじ、って感じかな。ボクも本当のところは知らないんだけど、『水晶機関』で聞いた話の中で一番の有力説はやっぱり〝転生説〟かな」
「転生だぁ? そいつも随分と臭いな」
「まぁね。でもあの人達は信じてるよ。〈エクステンド〉は大昔から何度も転生を繰り返して、この遺産世界に常に七人いるんだ──って」
「じゃあお前とアレスの前世はどんな奴だったんだよ。記録は残ってないのか」
「あのね、ゼテオの前世もいるんだよ? いい加減自分が〈エクステンド〉だって認めなよ。で、記録は全部抹消されてるらしいよ。『水晶機関』直々にね」
「抹消……わざわざか?」
「そう、わざわざ。理由は知らないよ? っていうか興味ないし。多分……っていうかどうせ嘘だろうし。どうでも良いことだと思うけど」
 そう言えるのはマテリアが強いからか、それとも何も考えていないからか。その時、どうやら俺は難しい顔をしていたらしい。マテリアはそんな俺を笑って、
「前から思ってたんだけど、ゼテオって結構細かい性格しているよね。ケチくさいっていうか、理屈っぽいっていうか。女の子にモテないタイプだよね」
「お前も胸が無くて尻が平たくて女に見られないタイプだよな」
「なっ、なんだとぉ────────ッ!?」
 こういった話は他にもある。例えば、この世界が何故『遺産世界』と呼ばれているのか。
「〈エクステンド〉に関係あるんだよ。ほら、ボク達〈エクステンド〉を創った創造主は、月の向こうの世界に行った──って説があるでしょ?」
「おとぎ話だろ、あれは」
「そうだけどね。昔の人はそう思ってなかったわけだよ。だからみんな月に行こうとした。この国にもあるでしょ? ほら、サーゲトワの真ん中にある大きな塔。あれだって月に行こうとした名残だよ。そういった時代の遺産が中心になって国家が形成されているから、遺産世界なんて言うんだよ」
 例えば積層国家シュヴァルツは街を何階層にも分けて重ねることで、街ごと月を目指した。例えば階段王国ノルゼは国全体を階段にすることで、山岳帝国ローゼスライヒは山岳地帯に国を興すことで、紫光城は巨大な城を建て続けることで、それぞれに月を目指した。
 誰もが月の向こうにある別世界を夢見て。
 そしてそれはとっくの昔におとぎ話だと判断され、全ての計画は中途で廃棄された。その名残が塔であり、積層型の都市であり、階段状の国であるわけだ。それらはかつて人々が夢を見た時代の遺産だ。それに寄り添って生きている現代は、なるほど、確かに遺産世界と言えるだろう。
 なら〈エクステンド〉も遺産と言えるんじゃないか? 例えば、そう、月に行こうとした奴らが人の身じゃ行けないことを知って作り上げた──とか。そう思ったが俺は敢えて口にはしなかった。学者でもない俺の、ただの思いつきだ。どうせ当たりっこない。
 しかし馬鹿馬鹿しい限りだ。結局、俺は自分の正体を求めているんじゃないか。益体もないことを考えたりする前に、するべき事があるだろうが。
 そう。今、俺がやるべき事はただ一つ。
 マテリアのせいで遠ざかってしまった仕事を見つけに行くことだった。


 ヴェイル・ハワードは冴えないエーテルストライカーだった。
 『水晶機関』に所属するエーテルストライカーは教育を受けた後に、別のエーテルストライカーを保護する『保護回収官』となる。ヴェイルはまさしくその『保護回収官』だった。
 ただし彼の現在の任務は、不本意ながら同じく『水晶機関』の所属員であり〈エクステンド〉でもある、とある双子の付き人であった。
「フォルスター保護官の話によるとこの街のどこかにオールブライトさんがいるらしいのですが……」
 短く整えられたダークブラウンの髪に、やや垂れ気味の瑠璃色の瞳。白地に金の装飾が施された『水晶機関』の制服に身を包んだ十九歳の彼は、資料を片手に街を歩きつつ背後の〝上司〟に声をかける。
 アレスやヴェイルが着用しているような正規のものではなく、黒地に銀という色合いの反転した制服に身を包んでいる幼子が二人。年の頃は十代に突入したかしてないか。長く伸ばした銀髪と、左右の目の色が異なる青と緑の金銀妖瞳が特徴的だった。
 〈エクステンド〉エルザリオンとベルゼリオン。
 対象を多少壊してでも保護回収する『笑う壊し屋』アレス・フォルスターと同じ〈エクステンド〉だが、その行動原理は全く異なる。この双子は保護回収をその旨としない『冷酷な殺し屋』だった。
 保護回収する価値がない。あるいは、破壊するべしと判断された。そんなエーテルストライカーを処分するために彼らはいる。
「ベルゼ、このガキはどうやら『だろう、らしい』だけであたし達を引きずり回すつもりらしいわよ?」
 エルザリオン、愛称はエルザ。幼い少女の姿をもつ彼女は、しかし見た目から受ける印象からはほど遠い声を出す。その口調は妖艶な女そのものだった。そんなちぐはぐな声をかけられたのは、隣を歩く少年、ベルゼことベルゼリオンだ。
「それは困った事じゃのう。エルザよ、一つ灸を据えてやった方が良いのではないか?」
 彼もまた少年の容貌とそぐわない嗄れた声と、老獪な口調で答える。
 二人とも性別は違うというのに、ひどく似通った顔をしていた。金銀妖瞳という猫のように右目が青、左目が緑という珍しい双眸を持っているため、長く透き通るような銀髪と相まって実に神秘的な雰囲気をまとっている。故に、口を開いた際に感じる落差は一層激しかった。
 見た目から判断すれば遙かに年下であるはずのエルザにガキ呼ばわりされたヴェイルは、双子の台詞に本気で慌てた。
「ええっ!? あ、いや、自分は別にそんなつもりで言ったんじゃ……」
「じゃあどういうつもりで言ったのかしらね? ベルゼ」
「さあて、裏のそのまた裏があるのかの? エルザよ」
 顔を合わせた時からそうだったが、この双子は決してヴェイルには話しかけない。双子同士で互いに言葉を交わし合い、それをヴェイルに聞かせるだけだ。ヴェイルとしては双子の会話を聞いて対応するしかない。直接的な対話ではなく、近くにいながら極めて間接的な交流方式をとらされていた。
 この双子は互いの関係だけで完結しているのだ、とヴェイルが気付くのにそう時間はいらなかった。
「えっと……それでは、お二人はホテルで待機されますか? オールブライトさんを発見し次第、自分がホテルに連絡をとりますので……?」
 ヴェイルは努めて腰を低くする。当たり前だがエーテルストライカー保護機構である『水晶機関』にも上下関係はある。見た目の年齢、所属を抜きにしてもこの二人は現在、ヴェイルの直属の上司なのだ。無礼な振る舞いはできない。
「全く、ここまで言わないとわからなかったのかしら? 今回の子は気が利かなくて嫌だわ。ねぇ、ベルゼ」
「そう言うてやるな、エルザ。こやつはまだ若いのじゃ。男という生き物は若い内は気が回らぬものでな。多目に見てやろうではないか」
 双子の辛辣な言い様に、ヴェイルは胃が締め付けられるような感覚を得た。口には出さないが、なんて嫌味な子供なんだろう、と思う。道理でお鉢が巡り巡って自分の所へ来るわけだ。きっと『水晶機関』の裏にも、この二人を飼い慣らすことの出来る人間はいなかったのだ。そのせいでお鉢が表に回ってきて、最終的には立場の弱いヴェイルのところへ来たのだ。そうだ、そうに違いない。結局、『水晶機関』にとって保護回収官なんて消耗品でしかないのだ。保護回収するべき者と同じエーテルストライカーだっていうのに。上層部は一体何を考えているのか。何のためにエーテルストライカーを保護して教育を施しているのか。全くもって何も考えちゃいない。
 憤りを全て表情筋の下に押さえ付けて、ヴェイルは笑顔で双子に言った。
「本当にすみません、気が利かなくて、自分はちょっとトロいところがあるんで、あはははっ」
 ヴェイルは頑張った。愛想笑いを完璧にしてのけた。だが、結果は残酷だった。
「自分でトロいとか言ってたらもうお終いね。ダメだわこの坊や。どうする? ベルゼ」
「可哀想な子じゃのう。後でわしらの手で終止符を打ってやった方がいいかもしれんな。世の中のためにも。のう、エルザ」
「い、いえっ! 滅相もありません! で、では、すぐにホテルに案内しますねっ!」
 何で『水晶機関』はこんな問題児を抱えているんだ、とヴェイルは心の中で毒づく。だが、そんなものが愚痴でしかないことをヴェイルは自覚していた。
 『水晶機関』はエーテルストライカーを保護し、教育し、新たな保護回収官とする。中にはこの双子やマテリア・オールブライトのような例外も存在するが、ほとんどのエーテルストライカーがアレス・フォルスターやヴェイル・ハワードのように保護回収官になる。〈エクステンド〉であるかないかは、この際は関係ない。
 『水晶機関』の目的は、今はまだ異端であるエーテルストライカーをいつかは社会の一部として組み込み、未来の世界をより良くすること、だという。そこに嘘は無いだろう。だがその本質が洗練潔白であるはずがない。少なくとも現時点では、『水晶機関』はただの『保護回収官の養成所』でしかない。そこには光り輝く部分もあれば、暗い闇を抱えている箇所もある。
 ヴェイルにしたところで、保護回収されたわけではなく、自分から『水晶機関』の扉を叩いたクチだ。こういったエーテルストライカーは意外と多い。全世界的にエーテルストライカーという存在はまだ受け入れられておらず、地方によっては化け物扱いする所もある。そんな状況では仕事にありつけるはずもなく、結果的に保護回収官しか道はないと悟ったエーテルストライカー達が自らの意志で『水晶機関』に保護を求めるのだ。実質的には保護と言うよりは、就職に近い。所詮、『水晶機関』の保護回収官が不幸なエーテルストライカー達を救い保護している──というのは宣伝の結果による錯覚でしかないのだ。
 このように、どんな組織にも表と裏の顔がある。そしてヴェイルの目の前にいるこの双子こそが、『水晶機関』の裏の暗い部分を司る存在だった。保護回収を断固拒否する危険なエーテルストライカーを、実害が出る前に処分する。そのための存在。目には目を、歯に歯を、危険人物には危険人物を。
 つまりこのエルザとベルゼは、『水晶機関』の必要悪なのだった。そしてヴェイルは悲しいことにその生け贄として選ばれたのである。彼のような下っ端にはどうしようもない話だった。
 同じ〈エクステンド〉と組むならアレス・フォルスターさんの方が良かった。そう心から思うが、口に出したら今度は何を言われるかわかったものではない。第一、双子の言うことは冗談には聞こえないのだ。下手に機嫌を損ねでもすれば、本当にこの任務が終わってから消されてしまうかもしれない。そうなっては堪らない。ヴェイルに出来ることは、ただひたすら双子に嫌われないよう慌てふためきながら付き従うことだけだった。
 ホテルへ向かう道すがら、ヴェイルの背後から双子の会話が聞こえてくる。
「にしても、あのマテリアが裏切るなんてねぇ。いずれはヤる子だと思っていたけれど。ねぇ、ベルゼ」
「そうじゃなぁ。あの子はあれで可哀想な子じゃ。〈エクステンド〉で、下手に余計な物が見えるだけに隔離されておったからの。あれじゃ友人も出来ん。逃げ出したくなるのもわかるわい。のう、エルザ」
「友達なんてアレス坊やぐらいだったかしら? うふふ、でもお馬鹿さんよね。逃げ出したらあたし達が来るって事ぐらいわかっていたでしょうに。そんなに自由が欲しかったのかしら。殺されるってことがわかっていても……ねぇ、ベルゼ?」
「不自由に細く長く生きるか、自由に太く短く生きるかの違いじゃ。選ぶのは人それぞれだからのう。まぁ、マテリアには申し訳ないが、組織のため、何よりわしらのために死んでもらわんとな。のう、エルザ」
 ヴェイルは背筋に走った悪寒が、何度も上下するのを感じた。子供の顔をして、大人の声で、なんて恐ろしいことを話しているのだろうか。この双子はマテリア・オールブライトを殺そうとしている。そのことはヴェイルも知っているし、理解もしている。それが今回の仕事なのだから。
 だが、この何気なさは何なのか。まるで昆虫を捕まえて標本に造りに行くかのような口振りではないか。双子とマテリアは顔見知りだというのに、毛ほどにも罪悪感を感じておらず、わずかにも躊躇いや戸惑いがない。
 あまりにぞっとしない話だった。
 だがやはり、ヴェイルも他人のことは言えない。彼はそんな双子をサポートする役割にある。つまり、マテリアを殺す片棒を担がなければならないのだ。そんな自分がどうして双子の言動を責められようか。ヴェイルは自覚せざるを得ない。
 エルザリオンとベルゼリオンは『水晶機関』の裏に潜む存在。『二人っきりの処刑者』の異名を持つ。そして自分はその補佐役。
 本質を見間違えてはいけない。自分達は、自分達こそがマテリア・オールブライトにとっての死神であることを。
 間違えてはいけない。自分達の目的は【殺害処分】であって【保護回収】ではないことを。自分はこれからエーテルストライカー、いや、〈エクステンド〉を殺すのだ、と。
 その事実の重さに、ヴェイルは双子に隠れて溜息をつく。
 どうしてこうなったのか。ヴェイルも双子も誰かの恣意によってここにいるわけではない。全ての任務は正式なものだった。
 そう。アレス・フォルスターの報告を受けた『水晶機関』が下した決断こそ、〈エクステンド〉マテリア・オールブライトの処分だったのだ。
「ホテルにはまだ着かないのかしら? ねぇ、ベルゼ」
「ほれ、サーゲトワの塔が見える。もう少しじゃろうて、エルザよ」
 意見ならある。言いたいことは無数にある。だがヴェイルにその権限はなかった。出来るのは〈エクステンド〉とはいえ、裏切って逃げたからとはいえ、年端もいかない少女を殺しても良いものか、と疑問を持つこと。ただそれだけだった。
 どうしようもないジレンマが、若いヴェイルの胸を苛むのだった。







[30238] ■二人っきりの処刑者
Name: 仙戯◆97bdbc1a ID:d9a73d31
Date: 2011/10/25 00:02
■二人っきりの処刑者






 やっぱりここの紅茶っておいしい。
 ボクは一週間前のゼテオのように、喫茶店を兼ねた仕事斡旋所でお茶しながら仕事情報誌に目を通していた。別にあの時飲んだミルクティーの味が忘れられなかった、というわけじゃないので悪しからず。っていうかその程度の理由ならむしろ良かったんだけどね。平和的でさ。
 何をしているのかって、そりゃもちろん仕事探し。困ったことに普通に仕事がないのだ。何でかって言えば、それは間違いなくボクのせいなんだけど。
 予想はしていたけど、案の定ボクがいるとゼテオの仕事は上手くいかなかった。そりゃそうだよね。『水晶機関』から逃げ出してもう二週間が経過しているし、ボクが『水晶機関』を抜け出したっていう情報はきっと世界中を飛び回っているんだろう。だからあんなにもボクの捕獲や殺害を目的とした人達が殺到してくるのだ。そうとしか考えられない。
 かと言ってボクがゼテオと離れて行動するなんて有り得ないことだ。彼がいなければボクはすぐに捕まるか殺されるかされるだろうし、逆に世話になっているからにはちゃんと恩返しがしたい。……まぁ、恩返しがしたいんなら仕事の邪魔をするな、ってゼテオが言うのは目に見えてるんだけどね。ジレンマだよ、まったく。それにボクはどれだけ未来を見通せると言っても、場合によってはその直後に倒れてしまう。だから〝フェアリーアイ〟を生かしつつ敵から逃げるためにはやはりゼテオが必要なんだ。言うなればボクが『目』で、ゼテオが『足』って感じ?
 それにしても、だよ。ボクは無感動に仕事情報誌をめくりながら思う。
 我が儘なようだけど、ボクとしてはもっと自由を満喫したいのだ。そりゃあ『水晶機関』にいた頃と比べたら天と地ほどの差があるよ? 自由万歳! シャバの空気はうまいなー! みたいな。シャバってどういう意味かよく知らないけど。とにかく昔の不自由さに比べたら、ここは天国だ。サングラスを忘れちゃいけないけど、外に出て見知らぬ人と言葉を交わすことができる。好きな時に食事をして、ジュースを飲んで、雑誌を読んで。気ままな生活を送ることが出来る。襲撃とか抜きにしたらね。まさか毎日のように来るとは予想だにしてなかったけど。あ、ちなみに〝フェアリーアイ〟でわからなかったのか、って突っ込みはなし。だって〝フェアリーアイ〟はボクが視たいと望んだもの以外は基本的に視せないものだから。だからボクが推測していないことは、余程のことじゃない限り〝フェアリーアイ〟も自動的には教えてくれないし、基本的に自分で思いついて調べなければならないんだよ。
 そういえばゼテオもこんな事を言っていたっけ。
「お前な、なんでその〝フェアリーアイ〟をもっと有効活用しないんだ。襲撃される未来を先読みしたら、前もって手が打てるだろうが。こう毎日続くんじゃやってらんねぇぞ。いつどこに誰が来るとか、そういうのはわかんねぇのか?」
 そういった事はいつか言われるかなー、とは思っていたけどね。やっぱりみんな同じようなこと考えるんだなぁ。世の中そんなに都合良く出来ていないんだってば。
「わかんない。無理。不可能。有り得ない」
 黒い毛並みの金目の狼さんは、むすっ、として、
「何でだ」
 と聞くもんだから、ボクはわかりやすく噛み砕いて説明することにした。
「あのね、『アカシックレコード』とか『賢者の石』って例えるなら百億ページ以上ある辞書か情報誌かって感じなんだよ? そりゃこの世の全てが書いてあるのかもしれないけど、ボクの頭蓋骨の中に入ってるのは残念ながら普通の脳みそなの。だからいくら何でも全部は読めないし、何かを読もうと思ったら百億ページって言うか無限にある情報の中から一生懸命探さないといけないの。それがどれだけ大変かわかってくれるよね?」
 そりゃたまに適当にパラパラめくっていたら目に入った、という感じで視える情報や未来もあるさ。でもそんなのは本当に稀だから、この場合は割愛してよし。
「それに、何もかも全部が視えるわけじゃないんだよ。ちゃんと制限だってあるし。視たくても視えないものだってあるんだよ。どういう法則になっているかはわからないんだけどね。つまり何が言いたいかって言うと、〝フェアリーアイ〟は万能じゃないって事。勘違いしちゃダメだよ。この力はボク自身にとっても未知の塊なんだ。出来ることはちゃんとやるけど、出来ないことは本当に出来ないから、悪いけど期待しすぎないで欲しい。というわけで襲撃の予想は基本的に無理。探してもいいけど多分、見つけるまでに襲われると思う。これって本末転倒でしょ?」
 ついでに言うと〝フェアリーアイ〟を多用したり、希望した未来を呼び寄せたりするとボクの脳は一時的に活動を停止する。つまり眠っちゃうってこと。今のところ戦闘中にそうなったことはないけど、実際なってしまったら本気で洒落にならない事態になると思う。足手まといっていうか、むしろそこでゲームオーバー? それぐらいのレベルだよね。
 だからまぁ、ボクとしては〝フェアリーアイ〟が本能的に教えてくれる警報を基本ベースにして。それ以外では、十秒後とか一分後とか短い間隔で未来の可能性を拾いつつ、ゼテオの補佐に徹する──ってのがいいかなと思ってたりするんだけど。……ダメかな?
 いや話がずれたけど、とにかくボクはもっともっと自由を楽しみたいのだ。これは多分……じゃなくて間違いなく『水晶機関』にずっと軟禁されていた反動だと思うんだけど。
 正直言うと、この街、この国を出て旅をしたい。でもゼテオは反対するんだよね。そりゃこれは我が儘だけど、なんでダメなのか理由ぐらい教えてくれたっていいと思う。
「ねえ、この国よりもっと住みやすい国ってないの?」
 とボクが言う。言外に、旅に出よう、と要求しているのだ。これに対してゼテオは鬱陶しそうに、
「知らん。知りたかったら自分で調べろ。行きたかったから勝手に行け」
 などと言う。ひどい話だよ。ボクなんてゼテオがいなきゃすぐアレスくんあたりに連れ戻されるって知っているくせに。最悪、誰かに殺されるかもしれないっていうのに。いや、わかって言ってるんだ、きっと。どうせボクは一人で行けないって知ってて冷たい態度をとっているんだ。有り得ないよ。
 やっぱりろくでもない男だと思う。ゼテオ・ジンデルという人は。だから恋人もいないんだよ。ふん。
 でも、どうもゼテオがこの国のこの街に住み続けているのは、何か理由があるみたいだった。本人は口にしないけど、何となく態度や雰囲気からわかる。まぁ、ボクの勘違いでなければ、だけど。
 時折、遠い目をするし、不意に黙り込むことがある。それは決まって〈エクステンド〉の話や、エーテルの話になった時だ。あるいは、街中で燃えるように赤い髪の女の人を見た時なんかも、妙な感じになる。咄嗟に何かを言いかけて──名前を呼びかけて、かも──でもやっぱり口を噤んで、溜息をついて、何でもない振りをしたり。
 すごく怪しい。きっと、あの時ボクに水の入ったボトルを投げつけるほど怒った『過去』と関係あるんだろうな。すごく興味はあるけど、やっぱり勝手に視ることは出来ないし。ちょっともやもやする感じだ。
 だって、すごくつらそうなんだもの。ゼテオは基本的に優しくないし、他人に全然心を開かない。傍にいればいるほど、彼が張り巡らせている心の壁がよくわかる。
 ゼテオは他人を拒絶する。
 ボクは仕事情報誌から顔を上げて、前方に視線を向けた。そこにはどんな私情もシャットダウンする、黒いジャケットの背中がある。
 この構図がお解りいただけるかな? つまりゼテオは今この瞬間も、ボクという相棒がいながら、違うテーブルに座っているのである。しかもボクに背を向けて。
 有り得ないでしょ。こんなの普通ないでしょ。もうね、アホかと。バカかと。お前はそんなにボクが恐いのかと。問い詰めたい。小一時間は問い詰めたい。ただ単にクールでハードボイルドなロンリーウルフを気取りたいだけじゃないのかと。
 出会った時からそうだったけど、何を考えているのかがさっぱりわからない。明らかに一般人とは感覚が違うんだよ。これって傭兵だから? ううん、違うはず。ゼテオが特別なんだよ。何があったのか知らないけどさ、ここまで徹底的に人間関係を遠ざける人って珍しくない? まぁボクだって『水晶機関』にずっと軟禁されていて、そんなに人付き合いが多い方じゃなかったけどさ。でもやっぱり異常だと思う。賭けてもいい。世界中どこを探したって、ここまで無愛想な人間はそうそう見つからないはず。単にボクの経験が足りないだけ、というのは関係無しでね。
 だってさ、もしこれがアレスくんだったとしようよ。きっと彼だったら、見知らぬ訳あり美少女が「助けて、相棒にして」とか言ってきたら、まず真っ先に事情を聞いてくれるに違いないんだ。でもって「それは大変でしたね。わかりました。お力になります」とかいう感じで話が進んでさ。これがアレスくんじゃなく他の人だったとしても、経過に多少の差はあれど全体の流れはそう変わらないと思う。最後には面倒見ちゃうでしょ、絶対。ここまでされて気にならない人っているの? っていうかボクなら絶対気になって眠れないね。だから助けちゃう。あくまで想像だけど。
 ゼテオのこれって、いわゆるトラウマという奴なんだろうか? 昔、たちの悪い女に騙されたとか、そんな感じだろうか? それなら〝フェアリーアイ〟で視られたくないのもわかる気がする。人付き合いが嫌いなのも理解できるさ。だって恥ずかしいし、恐いもんね。
 そう、人を遠ざける理由って何だろう。それを考えると、一つの答えが出てくる。
 裏切られるのが恐い。これだと思う。詳しいことはわからないけど、きっとゼテオは昔、誰かに裏切られたんだ。だから誰も信じないし、たぶん信じられないんだと思う。
 それが原因でエーテルが出なくなった、というのも考えられる。
 エーテルストライカーの操るエーテルはその心を表す、ってのはよくいう話だ。事実なのか迷信なのかはわからないけど。ただエーテルという元素はまだほとんど解明されていないから、しっかりした根拠はないと思う。でも、それを示唆する話が多いのもまた事実だ。
 好戦的なエーテルストライカーのエーテル色には赤っぽいのが多いし、物静かな人だったら青や緑が多い。もちろん例外はあるけど、基本的にはエーテルの色合いからその人の性格をある程度読み取れる傾向がある。
 ならエーテルが出なくなったゼテオの状態は、どういった心を反映しているっていうのか? つまりはそういうこと。
 エーテルが出ないって事は、心を開いていないってことじゃないだろうか。
 誰に対しても、何に対しても心を開かないから。心の毛穴という毛穴すら閉じて丸くなっているから。
 エーテルが出ないのだとすれば。
 それはとても悲しいことだと思う。なんでそこまで心を塞がないといけないのか、って思うから。尋常じゃない話だよ。病は気から、って言うけどさ。エーテルストライカーがエーテル出なくなるほど心を閉じてしまうなんて、どれだけ鬱屈した精神状態なんだろうか。
 ボクならそんなの耐えられそうにないと思う。
 今、ボクに背を向けて座りながらコーヒーをすすっている人は、体内に荒れ果てた砂漠を持っている。これっぽっちの潤いもなく、それを求めることもなく、いつもカラカラに乾いたままの心を。
 何とかしてあげたい、と思うのはボクの驕りだろう。だって今は、ボクの方がゼテオに助けてもらっている状況なのだから。
 ボクは無力だ。不意にそう痛感する。ボクは〝フェアリーアイ〟で未来も過去も視通し、場合によっては未来を選択することができる。本来なら知り得ないことを知ることができるし、不幸や危険を事前に察知することができる。
 だけど、それだけだ。
 自分は救えても、他の誰も救えない。
 この力は、そういうものなのだ。
「……はぁ……」
 胸の奥から込み上げてきた重い気分を溜息にして吐き出す。鉛のような吐息が仕事情報誌に落ちた。
 結局、ボクには何も出来ないのだ。願うだけは何も起こらないし、口先だけじゃ何も変えられない。そんなことでは、もっともっと自由を満喫したいなどと我が儘は言えないし、渇いた人の心を癒してやることも出来ない。結局、仕事情報誌からゼテオ向きの仕事を見つけ出して、せいぜい邪魔にならないようにすることぐらいなんだ。ボクに出来る事なんて。
 落ち込むなって言うのは無理な話。夢のない現実に、ボクは片肘をついて失望するしかない。
 マテリア・オールブライト、十六歳の春。何が悲しくてむさい男の背中を見せつけられながら、傭兵などという殺伐とした仕事の情報を探さなければならないのか。
 同じ年頃の普通の女の子は、もっときっと自由で楽しい生活を送っているんだろうなぁ。友達と他愛のないお喋りをしたり、一緒に買い物に行ったり、学校へ行ったり、男の子と遊びに行ったりなんかしちゃったりして、彼氏がどうとか好きとか嫌いとかキスとか、青春しちゃってんだろうなぁ。
 今度は羨望の溜息が生まれる。
 その時だった。

 エルザリオンとベルゼリオン。戦闘。火炎と雷撃。破壊された喫茶店の内部。

 一連の映像がボクの〝フェアリーアイ〟にフラッシュバックした。
「──!?」
 背筋に電流が走る。思わず息を呑むと、椅子を蹴って立ち上がった。
 突然沸き起こった音に、店内の人達が驚いて静まりかえる。視線の束がボクに集中した。一部の人達はなにやらヒソヒソと言っているようだけど、ボクの耳には入らない。早鐘のような心臓の鼓動が、ボクの頭の中を支配していたから。
「ん……?」
 他の人達より一拍遅れてゼテオが首を回してこちらに振り返った。なんだか面倒くさそうな顔付きだ。それどころじゃないっていうのに。
「まずい……!」
 ボクはその顔に向かって斬り付けるように言い切った。ぴくり、とゼテオの眉が跳ね上がる。ボクの緊迫感にようやく気付いてくれたらしい。ボクはすかさず追い打ちをかける。
「まずいよ、ゼテオ!」
「何か見えたのか?」
 鋭く聞き返してくるゼテオ。今度は身体ごと振り返った。周囲の人達は呆然とボク達を注視しているが、そんなのは無視だ。鬱陶しい。
 ボクの顔はきっと真っ青になっていただろう。それぐらい、今視た映像は衝撃的だった。
 よりによってあの双子。エルザとベルゼが来るなんて。
「最悪の奴らが来るんだ、もうすぐ! やばいよ、早く逃げた方がいい!」
 焦燥感で胸の内側を炙られているような気分だった。ボクが知る限り、『水晶機関』は最悪のカードを切ってきた。それをすぐに信じることは出来なかった。だって、こないだはアレスくんがボクを連れ戻そうとしていたはずでしょ!? 今だけは〝フェアリーアイ〟の力が信じられない、いや、信じたくなかった。
「どうして、こんな……!? 有り得ないよ……!」
「おい、落ち着け。場所変えるぞ。どこがいい?」
 ゼテオが椅子から立ってボクの所まで来た。ボクは驚きのあまりクラクラしてきた頭を支えながら、喉の渇きを覚えてティーカップを鷲掴みにした。少し冷めたミルクティーを一気に飲み干すと、少し気分が落ち着いた。
「……ここじゃない所。ここが一番まずいんだ」
「わかった。行くぞ」
 ゼテオは手にしていた仕事情報誌を丸めてジャケットのポケットに突っ込むと、そのまま出入り口へと歩き出した。ボクもついていこうと思ったけど、手に持ったままだった空のティーカップに気付いて、
「あ、食器返却……」
「それどころじゃねえだろ。ほっとけ。急ぐぞ」
「う、うんっ」
 ゼテオの声に手を引かれるようにしてボクも歩き出した。ティーカップはもちろんテーブルに置いて行く。セルフサービスだから本当は返却しないといけないんだけど、ゼテオの言うとおり今はそれどころじゃなかった。
 わずかな良心の呵責を得ながら喫茶店兼仕事斡旋所を出る。
 石畳の大通りをゼテオと並んで足早に歩きながら、
「で、何を視た?」
 ゼテオの質問に、ボクはいつの間にか口の中に溜まっていた唾を飲み下してから答えた。
「エルザリオンとベルゼリオンっていう双子の兄妹。『水晶機関』の〈エクステンド〉なんだけど……」
「またか。アレスの代わりか何かか、そいつらは」
「それどころじゃないよっ」
 溜息混じりのゼテオの台詞を、ボクはぴしゃりと叩き付けた。そう、冗談抜きでそれどころじゃないんだ。
「アレスくんがエーテルストライカーを保護する人なら、エルザとベルゼは……」
 口内の唾液を呑み込んだら、今度はからからに乾いてしまっていた。喉が張り付いて、ボクはちょっと咳き込む。それから、
「……エーテルストライカーを殺すのが仕事なんだ。だから、つまり、その」
 言い淀む。言ってしまえば確定してしまうような気がして、これ以上は舌が動いてくれなかった。それを、
「ってことは『水晶機関』はお前を殺すことにした、ってことか」
「うぐっ……」
 ゼテオが言っちゃった。どうしようもないことだけど、ボクは思わず拳をぐっと握る。
「人が折角敢えて言わなかったのに……! バカ、無神経、ゼテオ・ジンデル……!」
「お前な、人の名前を悪口扱いするのいい加減にしとけ」
 呆れ声のゼテオ。もう何度も同じやりとりをしているから当たり前なんだけど、それならそれで少しは自分の悪いところを見つめ直したらどうなんだよ、って感じだ。
「でも、有り得ないよ。だって、『水晶機関』はあんなにもボクを重宝していたんだよ? ミクロな観点からだったらさほど有効な力じゃないけど、マクロ的に見れば世界を揺るがすに足る力だって。だから回収するのにアレスくんまで出してたはずなんだ」
 〝フェアリーアイ〟はボク一人だけが使う分には、明日の天気を予知するとかそういうことでしか役に立たない。だけどこの力を国や組織のために使ったらどうなるか。前述したように、国の存亡といったスケールにまで効果が増大するんだ。使い方によっては〈エクステンド〉の中でも屈指の威力を誇る、まさしく情報兵器だ、って言っているのを聞いたことがある。
 そんな貴重な物をそう簡単に諦められるんだろうか?
「だからだろうが。何言ってんだお前は」
「え?」
 当たり前のように言うゼテオに、ボクは思わず振り向いた。ボクとゼテオは頭二つ……いや、三つ分ぐらい身長が違うから、自然と見上げる形になってしまう。ちょっと歩きづらい。
「お前の力はどう考えても危険だろ。そんなもの回収出来ずに放置しておいて、他の奴らに利用されたら大変だろうが。お前、強力な兵器が敵側の手に落ちようとしていたら普通どうする? 奪われるぐらいならいっそ、って思わないか?」
「あ……」
 その言葉は吸い込まれるようにボクの奥まで浸透した。ゼテオの言った意味を、あっさり理解してしまう。
 足が止まった。
「そっか……」
 そういうことだったんだ。
 奪われるぐらいなら、いっそ壊してしまえ。そういうことだったんだ。
 なるほど。理屈ではすごい納得できる話だ。
 あくまで、理屈では。
「そうだったんだ……」
 石畳の灰色が視界に入る。気が付けば、ボクは俯いていた。
 見捨てられた──そんな思いが胸の中を蚕食していた。
「……おい」
 前方からゼテオの声が聞こえたけど無視する。
 そりゃあ、勝手に出て行ったのはボクの方だ。文句を言う権利なんてどこにもない。自業自得もいいところだ。ボクはエーテルストライカーで〈エクステンド〉で、自分の能力がどれだけの価値を持っているかも十分理解している。だから、悪いのはボクの方だと思う。
 だけど。
「おい」
 再度ゼテオの声が聞こえたけどこれも無視する。
 だけど、何も殺そうとすることはないじゃないか。逃げ出す前は、あんなに良くしてくれたじゃないか。軟禁状態だったけど、それでも十分暖かくて、ボクも自分の家みたい思っていたのに。飛び出したボクが悪いにしても、これはちょっとひどすぎる。
「おいこら」
 ゼテオは無視。
 何なんだよ、急に手の平返しちゃってさ。あ、なんか普通に腹が立ってきた。そりゃ逃げ出したりしたさ、だって退屈だったんだから。そんなのあっちが悪いんじゃないか。第一、エーテルストライカーとか〈エクステンド〉とか言う前にボクはボクじゃないか。自由の権利があるじゃないか。それを何さ、大人しく従わない上に他の奴にとられたら困るから殺すって? ふざけてるにも程がある。
「聞いてんのか、おい」
 無視。
 しかも送られてくるのがエルザリオンとベルゼリオン、『二人っきりの処刑者』だなんてもう最低だ。当てつけとしか思えない。『水晶機関』にいる〈エクステンド〉はボクとアレスくんとエルザとベルゼの四人だけど、あの双子は随一の嫌われ者なのだ。しかもボクの天敵。見た目は子供のくせに歳だけは喰っていて喋り方は妙に老人臭い。二人だけでしか会話をしなくて、他人とは絶対に目を合わせて喋ったりしない。しかも言うことは嫌味ばっかりだ。その上、最凶最悪の殺し屋。もう何が嫌いかっていうと、ボクはその全てが嫌いだった。あの二人に関して良い思い出があった試しがないし、殺し屋っていう仕事を眉一つ動かさずにこなしている姿が心底気にくわない。それは『水晶機関』のお偉方もよく知っての通りだ。
 だから、絶対に負けない。負けてなんかやるものか。ボクを殺しに来るなら来てみろ。必ず返り討ちにしてくれる。
 ボクは思わず空に向かって叫んだ。
「くあ────────ッ! 腹立つ────────ッ!」
「やかましい」
 ごん、と頭が鈍く響いた。
「うべっ!?」
 いきなりの衝撃だったの思いっきり舌を噛んだ! うぐあっ! なにこれちょっ痛────────ッ!?
「──~っ! ったいなぁ! なぁにすんのさぁっ!」
 目尻に涙を浮かべて頭を抑えながら、ボクは猛然と抗議する。いつの間にかゼテオが目の前に立って、拳を握っていた。
「だったらさっさと返事しろ! 立ち止まってる場合じゃねえだろ何やってんだ!」
 いつの間に取り出したんだろうか、ゼテオの顔にはサングラスがかかっていた。一応は変装しているつもりらしい。意味ないと思うけど。
「うるさいなぁ! ボクにだって色々あるんだよ!」
 がー、と噛み付く。少しは年頃の女の子の、心の機微って奴を感じ取って欲しい。こう見えたって落ち込むことぐらいあるんだ。
「あーそうかいそうかい。じゃあ好きにしな。俺は部屋に帰る。回収されるなり殺されるなり勝手にしろ」
 ゼテオはそう言って、くるりと背を向けると、ひらひらと手を振った。もう、すぐこれだ。どっちが子供なんだか。
「むう! 何だよそれ! 本っ当に優しくないなぁゼテオは! そんなんだからエーテルだって出なくなるんだよーだっ!」
 あっかんべー、と言ってやる。すると彼は、ぴたり、と立ち止まり、肩越しに一瞥を投げかけてくる。っていうか睨んでくる。ああ、怒ってるなぁ。まったく短気だなぁもう。
 と、その目が不意に見開かれた。ここ数日間、生活を共にしていたからわかる。あれは微かだけど、驚愕の反応だ。何で?
 いや、ゼテオの視線が行き着く先はボクじゃない。ボクを越えてもっと……後ろ?
 振り返った。すると、ボクも思いっきり吃驚した。そこには『水晶機関』の保護回収官の制服を着た男の人が立っていたのだ。しかも知っている顔だった。
 短いダークブラウンの髪の毛と、穏やかそうなラピスラズリの目。どことなく幸薄そうな顔立ち。
「ヴェイル……!?」
「ハワードさん……!?」
 ボクとゼテオの声が重なる。
「「ん?」」
 瞬間、ボクとゼテオは互いの顔を見合わせた。
 ボクの場合は「見つかった!」という驚きによるものだったんだけど、何故かゼテオまで緊迫した声を出していた。どういうことだろう?
 ヴェイルさんがこちらに気付く。
「あれ? もしかして……ゼテオ兄さん? あ、しかもマテリアさん!?」
 ばったり、という感じだったんだろう。ボクに気付いた途端、ハワードさんは驚愕の声をあげた。相変わらずベタな反応する人だなー、と思いつつ、
「え? ゼテオ兄さん……?」
 ボクはゼテオとハワードさんの顔を見比べる。
「え? なに? 二人とも、知り合い……なの?」
 無名の傭兵と『水晶機関』の保護回収官が、どうして? っていうか名字が違うけどもしかして兄弟!?
「お前、なんでそんな格好……」
 肩越しに振り返っていたゼテオが、ハワードさんに向かって身体も反転させる。その顔にはやっぱり、意外なものを見た、という表情がある。一方ハワードさんも、
「ゼテオ兄さん、どうしてマテリアさんと一緒に……!?」
 と、こちらもかなり錯乱気味の様子だ。いや、ごめん、わけがわからないよ。そっちこそどうして知り合い同士なのさ?
 事情が知りたいんだけど、きっとゼテオの方から先に問いただすんだろうな。ボクかハワードさんのどちらかを。この状況ならそうするしかないだろうし。ゼテオってほら、無神経で人に気を遣うってこと知らないんだもん。どうしたものだろう、このジレンマは。
 ちょっと意識を向けると〝フェアリーアイ〟に数分後の未来が映った。
 喫茶店にいるボクとゼテオとハワードさん。はい決まり。


「ヴェイル・ハワードとは同じ孤児院出身のよしみだ」
 マテリアの奴がやけに知りたそうにしていたから、そう説明してやった。
 ヴェイルが相変わらず俺のことを「兄さん」などと呼ぶから、どうやら妙な勘違いをしていたらしい。
「なぁんだ……」
 と折角教えてやったのに残念そうな顔をしやがる。ぶん殴るぞ。
「ご無沙汰しています。ゼテオ兄さん。十年ぶりですね」
「ああ。もうそんなになるか」
 ゆっくり……というより、こっそりか。話をしたかったので、俺の知っている地味な喫茶店に場所を移した。裏街の片隅にある、ひどく目立たない古ぼけた店だ。そのためかメニューの値段は少々高いが、それだけに味も保証されている。
 マテリアの話だと「最悪の奴ら」が来るのはさっきの仕事斡旋所だったはずだから、ここにいれば問題はないだろう。まぁ、マテリアの話によれば、そういった対策すらも「未来は流動的だから絶対はないんだよ」となるらしいが。正味なところ、俺にはよくわからん。
 それより、ヴェイルにはいくつか聞きたいことがある上、逆に言わせてはならないことがある。あいつの名前をマテリアに聞かれたら、後で面倒なことになりかねないからな。
 だというのに、
「アシュリー姉さんが亡くなった後、すぐにゼテオ兄さんが失踪しましたからね。よく憶えているんですよ」
 早速この馬鹿野郎は言ってはならない名前を出しやがった。どうして俺の周りの奴はこうなんだ? 人が言って欲しくないことに限って速攻で喋りやがって。止める暇も無かったわ。
「アシュリー?」
 予想通りマテリアがその名前に食い付く。最悪だ。神様よ、お前が本当にいるなら今すぐここに出てこい。ぶっ殺してやる。
「誰それ? ゼテオのお姉さん?」
「違う。ってかお前は黙ってろ」
「ぶー、何でさー」
「話がややこしくなるからだ。おいヴェイル、お前いつから『水晶機関』に入ったんだ?」
 ヴェイルが身につけているのは、白地に金の装飾が散りばめられた立派な『水晶機関』の制服だ。マテリアもこいつの顔を知っていたんだから、ヴェイルが『水晶機関』の人間であることは間違いないだろう。
 俺のいた孤児院には、他にもエーテルストライカーが二人いた。その中の一人がこのヴェイルだ。しかし、俺の記憶に間違いがなければ、こいつが『水晶機関』にいるはずがないのだ。
「お前、ガキの頃は『水晶機関』のこと嫌っていただろ。どういった心境の変化なんだ?」
 『水晶機関』は無差別にエーテルストライカーを誘拐している集団、というのが当時のヴェイルの認識だったはずだ。友達が無理矢理連れて行かれたんだ、とひどく憤っていたのを憶えている。
 そう尋ねると、ヴェイルは照れくさそうに笑った。
「いやぁ、昔のことは勘弁して下さいよ。ただ単に、他の選択肢が無かっただけですよ。それに、あの頃の自分は『水晶機関』のことを誤解していましたしね。そんなに意外ですか?」
 いや全然。思わずそう言いかけて、俺は口を噤んだ。そうだ。別にこんな事が聞きたいんじゃない。だが、本当に聞きたいことはどうにも切り出しづらい。だから俺は取り繕うように、
「いや……ま、確かにそうだな。今の時代、エーテルストライカーがまともな生活をしようと思えば、『水晶機関』に保護されるのが一番だからな」
 これは俺の被害妄想だろうか。マテリアの視線が、ボクに教えてもらうまでそんなことも知らなかったくせに、と言っているように感じる。ほっとけ。
「いえいえ、ゼテオ兄さんみたいに『水晶機関』の保護を受けないで生活しているエーテルストライカーも多いんですよ? そっちの方が全然立派です。あ、そういえばゼテオ兄さんは、今は何を?」
 ヴェイルは俺がエーテルストライカーだった頃を知っている。その後、エーテルを扱えなくなったことは知らないが。
「しがない傭兵だ。大したもんじゃない」
 かといって別に教える必要がある事柄でもない。俺は嘘を言わずに、しかし適当に流した。マテリアの視線が気になるが、これは無視する。
「それより今日は、何だ、このクソガキを連れ戻しに来たのか? 子守が仕事なんざ『水晶機関』も大変だな」
 笑顔を取り繕って俺は言った。我ながら挙動不審な話の振り方だな、と苦々しく思う。だから違うんだ。俺が聞きたいのはこんな事ではない。
「え……?」
 だが意外にも、俺の質問に少し驚いたようにして、ヴェイルは俺の隣に座っているマテリアに目を向けた。その仕草と目の動きからは、妙な動揺が見て取れる。
「あ、ああ、そうですね。はい。実はマテリアさんを探しにこの街に戻ってきたんです。フォルスター保護官という方の情報を元手に」
「……そうか」
 こいつ、何か隠しているのか? まさか、こいつもマテリアの命を狙っているとか? いや、それにしては当のマテリア自身がまるで警戒していない。よほどヴェイルを信頼しているんだろう。フォルスター保護官──つまりアレス同様、そういう間柄というわけだ。まぁ確かに、こいつに女子供を殺すなんてこと出来るはずないと思うが。
 それより本題だ。そろそろ意を決して切り出さなければならないだろう。
「そういえばな、あれからどうだった?」
「あれから?」
 突然すぎただろうか。ヴェイルが要領を得ない顔をする。俺は言葉を選びながら、
「その……俺がいなくなってから、だ。黙って出て行っちまったからな。どうにも気まずくてよ、あれから全然戻ってねぇんだ。みんな、元気にしてるのか?」
 みんな、とはもちろん俺とヴェイルが幼少時代を過ごした孤児院の連中のことだ。確か施設の名前は、聖マルグレーヌ教会、だっただろうか。思い返せば、シスター達には随分と迷惑をかけてしまったものだ。我ながらあの頃はやんちゃだったからな。今では俺も丸くなったものだが。
 いや、シスター達だけじゃない。もっと世話をかけた奴がいる。
 アシュリー。長い、燃える炎のような赤毛の女。
 俺と同い年だった。だって言うのに年上ぶった物言いばかりする奴で、いつも俺に小言ばかり言っていた気がする。今ではもう、俺の方が遙かに年上なってしまったが。
 忘れられない女だ。他でもない、俺が虹色のエーテルを放ち、そしてエーテルストライカーでなくなる原因となった女なのだから。
 ヴェイルは俺の言葉に得心したように頷き、
「ああ、なるほど。いや、そりゃあもうグランマもシスター・ルイナもものすごく心配していましたよ? あんな事があった後でしたから、余計にね。あ、でもテイルズさんだけは『彼ももう十六歳だ。きっと哀しみを乗り越えて、強く生きていくだろう』とか言ってましたけど」
「へぇ、ゼテオって十六歳の時に飛び出したんだ。で、あんな事ってどんな事?」
「だからお前は黙ってろ」
 身を乗り出してきたマテリアの首根っこを押さえ付ける。しまった、やぶ蛇だったかもしれない。孤児院の連中の話になると、どうあってもアシュリーの名前が出てくるような気がする。
「それにしても、どうしてゼテオ兄さんは出て行ってしまったんですか? やっぱり……アシュリー姉さんのことが原因ですか……?」
 ほらな。一番聞かれたくないことを聞かれてしまう。我ながら墓穴を掘ってしまったものだ。仕方ない。ここも適当に流すか。
「そんなんじゃねえよ。アシュリーのことは別に関係ない。ただ単に、俺もあの頃は若かっただけって話だ。色々と煩わしかったし、口うるさい奴もいなくなって張り合いが無くなったからな。ついでに飛び出すか──ってな」
 大嘘だ。わかっている。これはわざとらしすぎる。それぐらい真っ赤な嘘だ。
 ヴェイルとてこんな嘘に騙されることはないだろう。俺とアシュリーのことはこいつだってよく知っているはずだからな。だが、騙されたふりをしてくれるだけでいい。それでいいんだ。
「ふぅぅぅん」
 だってのにこの小娘は。人の隣でやけに意味深な声を出しやがる。嫌がらせか? ったく、何も知らねぇくせに。
 じろり、と横目でマテリアを睨め付ける。余計なことは言うな、という合図だ。それに気付いたマテリアは、ぴょこ、と首を竦めてみせる。
 そんな俺たちのやりとりを見ていたヴェイルは、はは、と笑って、
「まぁ、ゼテオ兄さんもたまには顔を出してみたらどうですか? 自分も半年に一度はグランマやシスターに会っているんですが、今でもたまにゼテオ兄さんの名前が出てきますから、きっと会いたがっていると思いますよ?」
 そりゃありがたいことだ。だが、顔を合わせたら俺が口にするのは謝罪の言葉ばかりになりそうだな。それはあんまり好ましくない。遠慮しておこう。
「ま、その内にな。とりあえず元気そうで安心した。それが聞けただけでも十分だ」
 俺は適当に流した。昔なじみと久しぶりに会いたい気持ちもあるが、それ以上にばつの悪さを感じる。迷惑をかけた分、彼ら彼女らには今でも元気でやっていて欲しい。だが、会ったら会ったであれやこれやと昔の苦情をぶつけられそうで、それが恐い。
 それに未だ、俺はアシュリーの墓前に持って行く顔の持ち合わせがない。
 ジレンマだな、こりゃ。

 さて、自分は何をしているのか。
 ヴェイルは自問する。
 厄介なことになった、と思う。対象であるマテリアを発見したはいいが、一緒に懐かしい昔なじみのゼテオがくっついていた。
 本来ならばエルザリオンとベルゼリオンに連絡をとらなければならない。だが、そうするとゼテオまで巻き込んでしまう。だというのに、気が付けば喫茶店で一緒に茶を飲んでいるではないか。何をしているのだ、自分は。
 ゼテオに、古巣に戻ってみてはどうか、などと勧めている場合ではなかろうに。
 そもそも、どうしてこの二人が一緒にいるのか。それを聞かなければならない。大した関係でなければいいんだが。
「ところで、ゼテオ兄さんとマテリアさんはお知り合いだったんですか?」
 何気なさを装って探りを入れてみる。すると二人は互いに顔を見合わせ、一瞬、視線だけで会話した。
「えっとね、実は……」
 口を開いたのはマテリアだった。彼女は大雑把にだが、事情を説明してくれる。
 どうやら一週間ほど前から、たまたま偶然、この街で知り合ったゼテオの元で世話になっているらしい。しかも今となっては仕事上の相棒だという。
 これは厳しい。想像していたよりも随分と親密な仲ではないか。しかも何だ、さっきのアイコンタクトは。こうなると最悪、マテリアを処分した後、ゼテオがそのことで激高する可能性がある。そうなったらあの双子のことだ。遠慮無く邪魔者としてゼテオまで処分してしまうだろう。
「で、ハワードさんには悪いんだけど、ボク帰らないからね。アレスくんにも言ったんだけどさ」
 毅然とした声でマテリアが言う。サングラスで隠れているため表情はよくわからないが、どうにも怒っているように見えた。
 もしかすると、こちらの目的に気付いているのか? いや、落ち着け。今さっき彼女は「帰らない」と言ったばかりではないか。例え〝フェアリーアイ〟と言えど万能ではない。その事をヴェイルは知っている。まだ自分と『二人っきりの処刑者』がマテリアの命を狙っていることは、悟られていないはずだ。彼女は今でも自分を「連れ戻しに来た保護回収官」だと思っている。
 マテリアの言葉に、ヴェイルはいつものように困ったような笑みを浮かべ、片手で後頭部を掻きながら
「いやぁ、困りましたねぇ。どうしましょうか? あっはははっ」
 笑って誤魔化すのは得意だ。逆に言えば、こんな性格だからあの最悪な双子を押しつけられたのかもしれない。ヴェイルは頼まれ事を断るのが苦手だった。
「だからすぐに帰って、偉い人達にそう伝えてよ。ボクはただ自由に生きたいだけなんだ、って。エルザとベルゼなんて送ってこないでってさ」
「……!」
 ぎくり、と笑顔が凍り付いた。胸の内側に霜が降りる。
 しまった、もう既に〝フェアリーアイ〟で知っていたのか。とすると、さっきの「帰らないから」はフェイントだったのか。最悪だ、しくじってしまった。
「…………」
 マテリアがこちらを強く睨んでいるのがわかる。サングラスを越えて、怒りの視線がヴェイルの頬に突き刺さっていた。そんな彼女の隣では、ゼテオが悠然とコーヒーカップに口をつけながら、冷静な目でこちらを見ている。そうか、先程のアイコンタクトはそういう意味だったのか。
 こんな時、何と言えばいいのか。どうせ何を言っても言い訳にしかならないだろう。場合によっては、自分が今ここで殺される可能性だってある。こちらが命を狙っているのだ。あちらにもこちらを殺す権利と必要がある。そうしなければ、あちらも平穏を得ることが出来ないのだから。
 喉が干上がり、全身が熱くなって嫌な汗が噴き出した。頭の中が真っ白になって、何を言うべきか、何をするべきかがわからない。弾劾裁判の被告人席に座らされたような気分だった。
 しかし。
「実はもう来ているはずなんだ、エルザとベルゼがこの街に。ハワードさんは知らないと思うけど、ボクの〝フェアリーアイ〟で得た情報だから確実だよ。だからさ、ハワードさんがすぐに『水晶機関』に戻ってボクの言葉を伝えてくれない? 上層部から任務中止の命令が出たら、あの二人だって帰ると思うんだ」
 マテリアの言葉には、妙な違和感があった。ヴェイルは必死になってその特定を急いだ。そう、マテリアの言っていることには致命的な穴があいている。
 気付いた。
 マテリアの頭の中では、彼女を殺しに来た連中の中に自分が入っていないのだ。
 マテリアは、自分を『処分』しにやってきたのがエルザとベルゼの二人だけだと思っている。おそらく〝フェアリーアイ〟で視た未来の中に、自分が写っていなかったのだろう。だからこんな間抜けな願い事を自分にしているのだ。
 そうわかった途端、安堵するのと同時に、心臓に鋭い痛みが走った。
 この〈エクステンド〉の少女とは、以前からの顔見知りだ。雑用を任せられることが多いヴェイルは何度か彼女の部屋まで食事を運んでいったことがある。その際に会話を交わしたことがあり、彼女とは互いの名前、年齢ぐらいは知っている間柄だった。いや、逆に言えばただそれだけの関係でしかない。
 だが、信頼されている。その事実を受け止めた時、ヴェイルの心が確実に軋みをあげた。
 この街へ来るまでにさんざん自分へ言い聞かせてきたはずだった。自分は、〈エクステンド〉の少女を殺すのだと。いや、正確には殺すための補佐をするのがヴェイルの仕事だったが、そんな差異など関係なかった。間接的だろうが直接的だろうが、どちらにせよ自分はマテリアを殺すために動くのである。そんな細かな違いで罪の重さが変わるとは思えなかった。
「ハワードさんがボクを連れて帰らないと怒られるのはわかってるよ? でも、ボクとしても絶対戻るわけにはいかないんだ。だって折角手にした自由だもん。ハワードさんなら知ってるよね? ボクがどんな生活してたか」
 知っている。最高級ホテルのスイートルームより豪華な部屋に、しかし一人きりで閉じ込められていた。食事を持って行った際に、話し相手になって、と言葉を交わした少女は、明らかに他者との接触に飢えていた。そして『自由』に不自由していたのだ。
 異能の瞳を持つ〈エクステンド〉ゆえの境遇。何もしていないが、ただ『そういう存在』であるがために外の世界から隔離されていた。
 そんな少女を、自分は殺そうとしている。本人を目の前にしてそう考えた途端、精神が凄まじいまでの拒否反応をあげはじめた。
 正しいのか、それは。
 否。正しいはずがない。だが、自分にはそれを変えるだけの力も権限もない。エーテルストライカーとは言え、エルザリオンやベルゼリオン、アレス・フォルスターと比べれば自分の力など路傍の石ころも同然だった。何も出来るはずがない。
 だからといって、見過ごして良いのか。このままあの双子にマテリアの居場所を連絡して、殺させて良いのか。見過ごせば、マテリアは殺され、ヴェイルは心に重い罪を背負うことになるだろう。見過ごさなければ、任務放棄として『水晶機関』から処罰を受けるか、あるいは追放されるか。最悪、ヴェイル自身があの双子に殺されることになるだろう。
 どちらも嫌だった。選びようがない二者択一のジレンマに、ヴェイルは両手を握りしめる。
「……? どうしたヴェイル?」
「ハワードさん……? 変な顔してるよ?」
「えっ?」
 ゼテオとマテリアの声でヴェイルは我に返った。気付けば、返事もせずに硬直していたらしい。二人が怪訝そうにこちらを見ている。
「あ、いえ、大丈夫です。えー……そうですね」
 適当に言い繕いながら、なおも考える。何か方法はないだろうか。この少女が殺されずに済み、ゼテオを巻き込むことなく、ヴェイル自身も安泰でいられる方法が。
「自分は下っ端もいいところですから、多分、聞いてはもらえないと思うんですが……」
「そこを何とか! お願いっ!」
 両手を合わせて頭を下げるマテリア。必死な様子、こちらを微塵も疑っていないその姿が、燗に障るほど胸に来る。やめて欲しい、自分はそうやって頭を下げされるほど立派な人間ではない。そこまで真剣にあなたのことを考えていなかった。自分は保身を第一に考える臆病者なのだ。フォルスター保護官のような人格者ではない。
 ──いや、待て。そうだ。方法がある。誰も死なずに済む方法が、一つだけ。簡単な事だ。ヒントは今までマテリアが出し続けてくれていた。
 そうだ。フォルスター保護官だ。彼がいる。彼ならエルザリオンとベルゼリオンとも渡り合える。そしてマテリアを連れ帰ることが出来る。
 そう、連れて帰ればいいのだ。
 そもそも『水晶機関』はマテリア・オールブライトの回収を諦めたがゆえに、他者が彼女を利用することを恐れて『処分』を決定したのだ。なら、連れ戻せばいい。そうすれば何もかもがふりだしに戻る。マテリアはまたあの孤独な部屋に閉じ込められることになるが、死んでしまうより遙かにましなはずだ。
 神の思し召しのように閃いた名案に、ヴェイルは身を震わせた。
「……そうか、その手があった……!」
「ぁん?」
「へっ?」
 突然、訳のわからないことを言い出したヴェイルに、ゼテオとマテリアはそれぞれの反応をする。ゼテオは眉根を寄せてしかめっ面を作り、マテリアはサングラスの内側で目をぱちくりさせて、惚けたように口を開けた。
 いつの間にか俯いていた顔を上げて、ヴェイルは居住まいを正した。
「実は、重大なお話しがあります」
「「?」」
 二人は訝しげな様子を崩さない。当然のことだ。だから気にせずヴェイルは続ける。
「自分がここへ来た理由はマテリアさんを見つけるためです」
「? うん、わかってるよ? ハワードさん保護回収官なんだから当たり前じゃないか」
 今更何言ってるの、とマテリアは返す。だが、違う。それは違うのだ。ヴェイルは大きく首を横に振った。
「いいえ、保護回収が目的ではありません」
「「!?」」
 そう言った瞬間、戦慄が二人の顔を駆け抜けた。全てを話す前に彼らはヴェイルの言わんとしていることを察したのだ。
「ヴェイル、お前、まさか」
「はい……」
 頷く。それだけで十分だった。マテリアが息を呑む音が聞こえる。
「ボクを……殺しに……!?」
 呟くような、かすれた声でマテリアは言う。その表情がサングラスで隠れていることを、ヴェイルは神に感謝した。自分に今の彼女の顔が直視出来るとは思えなかった。
「……自分の役目はエルザリオン執行官、ベルゼリオン執行官の補佐です。あなたを見つけ次第、報告する義務があります……!」
 自らの罪咎を吐露するというのはこれが生まれて初めてかもしれない、とヴェイルは思う。こんなに苦々しく、つらいものだとは思わなかった。一言一言を放つごとに、針のむしろに座っているような感覚が強くなっていく。罪悪感で身体が破裂してしまいそうだった。
 重苦しい沈黙が降りる。だが、ヴェイルにはまだ言わなければならないことがあった。顔を上げ、真摯な瞳でマテリアを見据える。
「自分と一緒に戻って下さい、マテリアさん。そうすれば殺されることはありません。すぐに本部へ連絡を取り、両執行官には絶対に手出しさせません。この通りです! 自分と一緒に戻って下さい! 私はあなたを殺す手伝いはしたくない!」
 テーブルに額をぶつける勢いでヴェイルは頭を垂れた。額の肉と木のテーブルが接触し、がたん、と音を立てる。
 幸い、店内には店主以外に人はいなかったため、周囲の視線などは気にならなかった。
 マテリアは即答した。
「だめ」
 一瞬、彼女が何を言ったのかよくわからなかった。
「……は?」
 ばっ、と顔を上げて聞き返す。今、ヴェイルの望みを断ち切るような返答が聞こえたのだ。
 そこには真一文字に結ばれた、気の強い唇があった。
「だめ。戻らないし、帰らないし、引き返さない。ボクは絶対にもう保護って名目で閉じ込められたりしない。そのために殺されるかもしれなくても、それでもボクはもう不自由を選択したくないよ。ごめんね、ハワードさん。せっかくの申し出、気持ちは嬉しいんだけど……ボクは一緒には行けない」
 そして少女はサングラスを外す。現れた虹色のたゆたう不思議な瞳には、七つの色以外の輝きがあった。
 強い意志の光が宿っていた。
 それを見た瞬間にヴェイルは悟った。もうこの少女には微塵も未練がないのだ、と。むしろ、その代わりに不退転の意志が彼女を満たしているのだ、と。
 どれだけ言葉を重ねようとも揺らぎようのない意志を、ヴェイルは感じ取ってしまった。
「……!」
 自分の願いが拒絶されたことをヴェイルは知った。だが、それを理不尽だとは思わなかった。マテリアはその人生における重要な選択を、自らの意志を以て厳然と選び取ったのだ。何人がそれを責められるのか。例えいたとしても、それはヴェイル・ハワードではなかった。
 それでもなお、少女に降りかかる死を免れさせるため、ヴェイルは言葉を重ねようとした。ならばせめて、今からでも遠くの国へ逃げて欲しい、と。
 だが、それは叶わなかった。
 突然、マテリアが目を見開き、息を呑んだ。
 ゼテオの眼光が鋭く研ぎ澄まされ、その身体が椅子を蹴って立ち上がる。
 だが二人の視線はヴェイルではなく、その背後に注がれていた。
 刹那、嫌な予感がヴェイルの胸を貫く。
 マテリアがその名を口にした。
「エルザリオン、ベルゼリオン……!」

「マテリアと会うのは久しぶりね、ベルゼ。相変わらずバカっぽい顔をしているわ」
「そうじゃのう、エルザ。じゃが今はマテリアより前に処分するべき輩がおるじゃろう」
 一体いつの間に店へ入ってきたんだろうか。ハワードさんの背後に、幼い双子が立っていた。二人して長く伸ばした銀髪に、左右の目の色が異なる青と緑の金銀妖瞳が冷たく光る。『水晶機関』の制服の色を反転させたような、黒地に銀の装飾が所々に散りばめられた衣服。
 不吉なその姿はまさに『二人っきりの処刑者』の異名にふさわしいと思う。大っ嫌いだ。
 相変わらずお互い以外とは面と向かって話そうとしない双子に、ハワードさんが蒼白になった顔を振り向かせた。
「そんな、どうして……!?」
 声まで真っ青にしてハワードさんは呻くように言った。ボクも、どうして、と問いたい。どうやってここに来たというんだ、この二人は? 隣のゼテオからも刺々しい雰囲気が漂ってくる。彼も忽然と現れた二人に、並々ならぬ警戒心を抱いているようだった。
「どうしてもくそもないわよね、ベルゼ? あたし達、舐められてるのかしら。ただの付き人に心許すほど甘い態度を取っていたつもりはないんだけど」
「そういう問題ではないんじゃよ、エルザ。ただ、こやつはわしらを裏切っただけ。ただそれだけじゃ」
 エルザとベルゼは笑みを浮かべて、ボク達を爬虫類のような不気味な目で見つめている。その態度は子供としても、人としても異質なものだと思う。言葉をかけないということは、相手を認めないということだ。あの双子は、お互い以外の誰にも存在する価値を見いだしていないんだ。だから二人の間でしか会話が成り立たないのだ、きっと。いや、間違いない。
 不意にベルゼが右手を掲げた。その指先には小さな虹色の輝きがある。
「しかし、こやつも間が抜けておる。わしの文字に気付かんとはな。まぁ、そのためにバカを付き人にしてもらったんのだから、当然と言えば当然かのう、エルザ?」
 くくっ、と楽しげにベルゼは言う。
「……なっ!?」
 その台詞を聞いて、ハワードさんが慌てて立ち上がり、その場でぐるぐると回転しながら自分の身体を確かめた。
 ボクも詳しいことは知らないが、ベルゼの〈エクステンド〉としての特徴は『文字』だと聞いている。エーテルで文字を書き、それによって様々な事象を起こすらしいけど……
「あった……!」
 ハワードさんの上着の背中側、裾の裏側にその文字はあった。七色の光で、以心伝心、と書いてある。
「これは……!?」
「字も読めないバカみたいよ、ベルゼ?」
「こいつは救いようがないのう、エルザよ」
 双子は思いっきりハワードさんをバカにしている。そういう態度がボクは心底気にくわない。一体何様のつもりなんだろうか、こいつらは。
「つまり、ヴェイルの考えていたことが全部お前に筒抜けだったってことか?」
 ゼテオがいつものように無愛想な声でベルゼに話しかける。彼にはあの文字の意味がわかったらしい。ちなみにボクにはさっぱりわからない。勉強は嫌いだもん。
「以心伝心。確か、言葉にしなくても心が通じる……って意味だよな?」
 へぇ、そういう意味だったのか。ということは……どういうことだろう?
 ボクは〝フェアリーアイ〟を使う。『アカシックレコード』『賢者の石』と呼ばれる『情報の源泉』に働きかければ、ボクにわからないことはない。まあ、その知識を理解出来るかどうかはボク次第だが。
 情報はすぐに見つかった。知識が頭の中に染みこんだように、ボクはそのことを理解する。
 ベルゼの能力は、指先に灯る虹色の光で書いた『文字』の意味を、そのまま現実化させるというもの。
 例えば壁に『火』と書けば、その文字が燃え上がって炎になる──という感じだ。つまり『以心伝心』と書けば、書かれた人の心がベルゼの頭の中に流れ込む。なるほど、それなら納得だ。って、これってかなり厄介な能力じゃないのだろうか? もし身体に『死ね』って書かれたらどうなるんだろうか?
 さて勿論、あのベルゼがエルザ以外に返答するはずがないわけで。
「少しは賢しいサルがいるようじゃて。のぅ、エルザ」
「でも所詮はサルでしょう? 大したことないわよ、ベルゼ」
 あー、なんか自分の事じゃなくても腹立つなぁ。実際に言われてるゼテオはもっと……うっわ、これ、エーテルじゃないよね? なんかすごいオーラみたいなのが見えるんだけど。そう言えば、舐められるのが嫌い、って前に言ってたっけ。
「サルにサル呼ばわりされる憶えはねぇなぁ。チビ猿共」
 チビ猿。これが不覚にもボクのツボに入った。
「ぶふっ!」
 思わず吹き出す。だってチビ猿て! ハマりすぎだよ! この双子にぴったりすぎるし!
 けど、笑ったのがどうも双子の燗に障ったらしい。エルザとベルゼ、両者の顔から余裕の笑みが弾け飛び、殺気に満ちた険しい顔が取って代った。ま、そりゃそうか。
「気分が悪いわ、ベルゼ。殺していいわよね?」
「本来は目標以外は禁じられておるがの。幸い、マテリアがそこにおる。巻き込まれたということで良いじゃろ」
 あっさりと。仕事の打ち合わせでもするように、二人はそんな会話を交わした。人間をまるで物のように扱うその姿勢は実に当たり前すぎて、むしろ危険な匂いがしないほどだった。何だかこう、皿が割れたわベルゼどうしましょう、幸い別の皿があるからこれを使おうエルザ、みたいな。
「エルザリオン執行官、ベルゼリオン執行官、お話しがあります!」
 ハワードさんが青紫に変色した唇を震わせた。精神的に大分追いつめられているんだろう、いきなり土下座をして額を床に擦りつける。
「マテリア・オールブライトを連れて帰れるならば『処分』の必要はありません! 自分が必ず説得しますのでここはなにとぞ」
「お黙りなさい」
 エルザが遮断するように言った途端だった。本当にピタリとハワードさんは叫ぶような懇願を止めてしまった。え? 何で? いくらなんでも素直すぎやしないハワードさん? 一応ボクの命が懸かってるんですけど。連れ戻される気はないけどさ。
 と、ここで思い出す。そうだ、ベルゼの能力のキーワードが『文字』なら、エルザは『言葉』だった。おそらくベルゼと同じで、声にした言葉が現実化、あるいは何かしらの強制力を持つんだ。だから「黙れ」と言われたハワードさんは言葉通りに沈黙してしまったのだ。
 じゃあやっぱり「死ね」って言われたらどうなるんだろうか。そこまで強制力があるものなんだろうか。それが出来るっていうなら流石に反則だと思う。けど同時に、あの双子がどうして『二人っきりの処刑者』なんて呼ばれている所以もわかる気がした。
 例えばアレスくんは『笑う壊し屋』と呼ばれている。元々は穏やかな性格をしている彼だけど、抵抗するエーテルストライカーを柔和な笑みをたたえたまま、しかし力尽くでぶちのめして『水晶機関』に連れてくる所からそんな異名がついたんだそうだ。
 でもアレスくんは例えるなら万能ナイフとか鉄棒とか、そんなところだろう。これは何でもいい。武器にもなって、それ以外でも十分役に立つ存在であれば。
 アレスくんは普通に話し合いでエーテルストライカーを保護できるし、場合によっては実力行使に出られるだけの能力も持ち合わせている。特にあの並じゃない移動速度には『水晶機関』も頼っている部分が大きいと思う。だからこそ臨機応変に、場合によっては使うことなく終わる武器。それがアレスくんだ。その最大の特徴は『不殺』ということ。どれだけ反抗するエーテルストライカーをボコ殴りにしようとも、殺すことだけは決してしない。あくまで『保護回収』という目的の為の『実力行使』であって、それ以上でもそれ以下でもない。だって、殺してしまったらまったく意味がなく、本末転倒もいいところなのだから。
 けど、エルザとベルゼは違う。
 双子を例えるなら、それは毒塗りのナイフだ。よく考えてみよう。そんな物の用途なんて限られ過ぎている。毒が塗ってあるから、リンゴの皮を剥くことさえ出来ないのだ。出来ることはただ、何かを殺すだけ。ただそれだけ。それ以外に使い道はないし、それしか出来ない。静かに鞘に収まっているか、何かを傷つけるか、どちらかしか選べない存在。だから保護回収官に選ばれなかった。双子には殺すか、大人しくしているかのどちらかしか出来ないから。
 力を使えば相手を殺すしかないほど、強力な存在だから。
 さて、そんな奴らに今のハワードさんみたいな慈悲を請う行為が通じるだろうか? 答えは簡単、一瞬後。
 絶対に無理、っと。
「おぬしの考えておることは、全てわしに筒抜けと言っておったじゃろう。最近の若いもんは人の話を聞かんものだのぅ、エルザ」
「もういいでしょ、ベルゼ? 殺しましょうよ」
 救いようのない馬鹿を相手取るような口調で、二人は揃って、ボクとは違った意味で異色の瞳をハワードさんに向けた。
「……!?」
 ハワードさんは絶望に染まった顔を上げて、表情に恐怖を上塗りした。エルザの言霊に縛られているため、僅かな声さえ出せないようだった。
「わしらがするのは汚れ仕事。誰もが非協力的で否定的じゃからな。効率よく働いてもらうには、やはり騙すのが一番じゃのう、エルザ?」
 目線はハワードさんに注ぎながら、それでも話しかけるのは隣のエルザ。嫌味なのか、それとも癖なのか、はたまた何かしらの意図があるのか。わからないけど、すごく嫌な感じだ。
「使い終わった道具は片づけるのが、責任って奴よね、ベルゼ?」
 笑った。それは、それはとてつもなく厭らしい笑みだった。見た目が小学生の女の子がするような顔では、決してなかった。
 それが決定打になった、と思う。
 ハワードさんは一つの決断をした。
 まず、和解と説得の道を諦めた。そりゃそうだろう。殺し屋に「殺すな」が通用するはずなどなかったのだ。
 そして下克上を選び取った。彼だって歴としたエーテルストライカーだ。しかも保護回収官なんだから、戦闘の心得だってあるだろう。だけど、ボクからしたらそんなのは無謀を通り越して自殺行為だった。
 ハワードさんが双子に両腕を構える。彼のエーテルストライカーとしての特性は『風』だ。いわゆる風使いには『その場にある大気をエーテルで操作するタイプ』と『エーテルを大気に変換して操作するタイプ』という二つの種類があるが、ハワードさんは後者だった。
 ハワードさんの全身から深い緑のエーテルが立ちのぼった。揺らめく輝きは、生まれた次の瞬間から大気を唸らせる風魔へと変わっていく。
 喫茶店の中に、ハワードさんを中心とした小型の竜巻が発生した。テーブルや椅子が圧倒されてガタガタと動く。
「あらあら、この坊や、あたし達を相手に勝てると本気で思っているのかしら? ねぇ、ベルゼ」
「思っとるから、こうやって無駄な抵抗をするんじゃよ、エルザ」
 強い風に髪を乱されながらも、エルザとベルゼは酷薄な笑みを崩そうともしない。
 結果は火を見るに明らかだ。〝フェアリーアイ〟を使わなくてもボクにはわかる。ハワードさんじゃ双子の相手にならない。〈エクステンド〉の肩書きは伊達じゃないし、他ならぬ『二人っきりの処刑者』なんだから。
 保護回収官はエーテルストライカーを捕らえるエーテルストライカーだ。しかし、処分執行官はエーテルストライカーを殺すエーテルストライカーだ。
 どっちが強いかなんて、子供でもわかる。
 案の定、決着はすぐについてしまった。ボクも、ゼテオも何も出来なかった。ハワードさんを制止する暇すらなかった。それぐらい、あっさり。
 ハワードさんの風が刃と、砲弾と化す。それはきっと鉄をも切り裂く真空の剣と、どんな格闘家の拳よりも強力な圧縮空気の塊。だけど、
「大人しくしなさい」
 と、喉から虹色の光を発したエルザが、風に向かって傲然と言った。たったそれだけ。その一言だけで、全ての力が無力化された。
 風の刃も、圧縮空気の砲弾も、掻き消された。不意に風がやんで、不気味な静寂が一瞬だけ訪れた。
 ベルゼの右手が宙に文字を書いた。
 風刃、と。
 痛烈な皮肉だった。風を操るハワードさんを、同じ真空の剣で斬り殺すなんて。
「!」
 悲鳴はあがらなかった。代わりに血飛沫があがった。そんな一瞬の中で、ベルゼの嫌味は続く。彼はさらに文字を書いた。
 風弾。
 ズドン、と鈍い音がして大気が炸裂した。爆風のような勢いが吹き付けてきて、ボクは思わず目を閉じて顔を背けた。
 次に目を開けると、そこには壁に空いた大穴があった。喫茶店の壁が破壊され、外と繋がっていた。
 ハワードさんはいなかった。ボクは視線を彷徨わせて、彼の姿を求めた。
 赤く染まった『水晶機関』の制服が、糸の切れた操り人形のように外で転がっていた。
「……ッ!?」
 よく見ると形がどう考えてもおかしかった。関節が変な方向に曲がっているし、身体の下に何か赤黒いモノが飛び散っていた。そこからジワジワと、同じく赤黒い液体が染み出て、同心円状に広がっていく。
 生きているなんて到底思えなかった。ハワードさんはぴくりとも動かなかったし、見た感じからして人間というよりも、もはや肉の塊だった。微かな呼吸の気配すら、感じ取れなかったんだから。
「ハワードさんッ!」
 だからボクが叫んだのは、自分の内から衝き上がってくる何かが堪えきれなかっただけだ。呼んでも返事がないことぐらい、よくわかっていた。死体なんてこれまで何度も見てきたんだから。これはジレンマだ。もう死んでいるとわかっているのに、まだ生きていることをつい望んでしまうという。
 刹那、ボクの前にあったテーブルが跳ね上がった。
「!」
 ゼテオが蹴飛ばしたのだ。エルザとベルゼに向かって。
 ゼテオの蹴りはアレスくんほどでないにしろ、結構な威力を持つ。コンクリートの壁なら簡単に蹴り砕く。その足が蹴ったテーブルはもちろん弾丸のように高速で飛ぶ。
「来ないで」
 だけどエルザがそう言うだけでテーブルは見えない壁にぶつかったみたいに、何もないところで跳ね返った。あらぬ方向へ逸らされた勢いは、そのまま他のテーブルや椅子を巻き込んで吹っ飛んでいき、壁に激突して爆発した。
 だけどゼテオは、そんな事などお見通しだ、とばかりに既に飛び出していた。黒い疾風が双子に襲いかかる。
 エルザとベルゼの危険性はゼテオも察知していたんだろう。電光石火、先手必勝、一撃必殺という感じの動きだった。
 ゼテオ自身が目立つことを嫌ってなかなか本気を出さないけど、彼の身体能力は常人を遙かに超えている。そんなゼテオが、瞬時に間合いを詰めて問答無用で鳩尾に爪先をねじ込めば。
 今まさに、黒の革靴の先端がエルザの幼い身体に突き刺さろうとした瞬間。
 ベルゼの指が、反射空間、という文字が空中に描いていた。〝フェアリーアイ〟じゃなくて直感でボクは叫んでいた。
「危ないゼテオッ!」
「──!?」
 だからってどうなるものでもなかった。今更止められるわけなかった。
 ゼテオの蹴りがエルザの腹部に鋭く突き刺さった。
「ぐぶっ──!?」
 だけど、うめき声をこぼして吹っ飛んだのはむしろゼテオの方だった。
 どれだけの範囲があるのかはわからないけれど、ベルゼとエルザの周辺は文字通り『反射空間』だった。攻撃も何もかもが相手ではなく、自らに返ってきてしまうのだ。
 奇襲は失敗に終わった。タイミングもスピードも申し分なかった。ただエルザとベルゼが戦い慣れしすぎていたんだ。ベルゼはハワードさんにとどめを刺した直後、何かしらの攻撃を予測して最初から防御用の文字を書いていたに違いない。きっとこれまでも似たような戦術をとる敵がいたんだろう。全く無駄のない動きだった。
「──なろっ!」
 ゼテオは苦痛に顔を歪めながら、それでもその場に踏みとどまり手近にあった椅子を手に取った。片手で振り上げてエルザの頭に勢いよく叩き付ける。でも結果は変わらない。椅子は自身の破壊力に負けて砕け散った。勿論、エルザがそれを意に介した様子は全くない。
 木っ端微塵になった椅子の破片が舞う中で、双子は小馬鹿にしたように悠然とゼテオを見やる。
 ベルゼの指先から、反射空間、と言う文字がふっと風に吹かれたロウソクのように消えた。その隙を繋ぐようにエルザが右の人差し指をゼテオに向けた。ゲームを楽しむ子供のような顔の下、細く白い喉から虹色に揺らめく光が溢れ出す。
 青い瞳を閉じて、緑の目だけでゼテオを照準する。それは茶目っ気たっぷりなウインクのように見えた。
「バン♪」
 そんなのありかよと思うぐらい適当な言霊だった。だけど、威力は抜群だった。
 ゼテオの眼前の大気が爆発した。
「!」
 ぶっ飛ぶ。咄嗟に顔の前で両腕を交差させたゼテオの身体が、空き缶のように勢いよく宙を舞った。
 それはあんまりにもでたらめな光景だった。
 大の男が小さな子供二人に為す術もなく吹き飛ばされている。双子がエーテルストライカーであってもその光景は異常すぎた。いくらエーテルストライカーだって、すべからく普通の人間に対して優位というわけではない。エーテルを操るという特殊な能力を有していても、それ以外は他の人間とほとんど同じだ。アレスくんのように身体強化でもしていれば別だけど。だから、不意を打たれれば為す術もなく負けるし、速度だってその点で特化していない限りは全然普通だ。さっきの先制攻撃だって、並のエーテルストライカーが相手なら絶対成功していたはずなんだ。
 だけど、エルザリオンとベルゼリオンは並のエーテルストライカーじゃなくて、やっぱり〈エクステンド〉だった。しかもただでさえ強い双子が、これまでの戦闘経験をその小さな身体に収束して、類い希なる戦闘技術へと昇華させていた。弱いわけがない。
 そう、こういうのが〈エクステンド〉だ。ボクはそれをよく知っている。アレスくんの戦いを何度も見たことがあるから、ちゃんと理解出来る。エーテルストライカーとして何人たりとも寄せ付けない絶対の存在、それが〈エクステンド〉だ。そしてその中でもこの双子は、戦闘力だけをとれば確実に群を抜いている怪物だった。まさしくエーテルストライカーを殺すためだけに生まれてきたような、戦いの申し子。
 勝てるはずがない。
「──ってうわっ!?」
 頭上に影が差した、と思ったらゼテオの身体がボクの真上にまで飛んで来ていた。思わず即座に飛び退いて避けてしまう。
 とんでもなく痛そうな音を立てて、黒い塊と激突した椅子とテーブルが派手にひっくり返った。埃が浮かび上がる中でゼテオが叫ぶ。
「よっけんなぁ────────ッ!」
「ンな無茶だよぉ────────ッ!?」
 脊髄反射で叫び返してから、なんだ元気じゃん、と安心する。
「? あの猿、エーテルストライカーみたいね、ベルゼ?」
「お前の〝ラジカルヴォイス〟があまり効いておらんところを見ると、そのようじゃの。どれぐらいのもんじゃ、エルザ?」
「結構頑丈だわ、ベルゼ。少なくともさっきの坊やよりは……ね」
「なるほどのぅ。その程度か、エルザ」
 余裕で会話を交わすエルザとベルゼ。それはサンドバッグの硬さと重さを確かめているような、こちらにしてみれば嫌な感じの内容だった。
 エーテルストライカー同士の場合、互いがエーテルの加護を受けているから一般人よりもその能力が効きにくい、って話を聞いたことがある。二人が言っているのはきっとその事だろう。詳しい原理は調べてみないとよくわからないけど、要するに強いエーテルストライカーほど、エーテルによる攻撃は効きにくいらしい。
 けどハワードさんはあっさり殺された。その事実が、双子のエーテルの強さを如実に語っていた。
「おいおい……きょうびのガキはどいつもこいつも人を馬鹿にしくさりやがって……! 疫病神ぞろいだな、おい……!」
 ゴトゴト、と椅子やテーブルを押し退けてゼテオが立ち上がる。その唇の端には、少し血が滲んでいた。やっぱり無傷って訳にはいかなかったみたいだ。
 金色の瞳には、まるで太陽の輝きを閉じ込めたかのような怒りの光があった。
 当たり前だった。ゼテオは、ヴェイル・ハワードさんは同じ孤児院の出身だと言っていた。つまりは兄弟みたいなものだったんだろう。それを目の前であんな風に殺されて、怒らないわけがない。ゼテオの全身からビリビリくるほどの殺意が迸っていた。
 胸の中央を片手で押さえて、ゼテオは咳き込む。エルザの言霊で吹き飛ばされたことより、ベルゼの攻撃反射によるダメージの方が強いようだった。
 だめだ、ボクとゼテオじゃ双子に勝てない。ボクは率直にそう判断した。
 ゼテオは憎悪の眼差しを双子に突き刺している。だけど、もう奇襲は通用しない。それなら純粋にエーテルストライカーとして実力が劣るゼテオに勝機はない。エーテルを扱えないエーテルストライカーが、どうすれば〈エクステンド〉二人に勝てるっていうのか。そんなの絶対に有り得ないし。ボクはボクで彼らと同じ〈エクステンド〉だけど、明らかに戦闘向きじゃないし。あるいはボクの〝フェアリーアイ〟で未来を先読みすれば、とは思うけど、そんなのエルザもベルゼも予測しているに違いない。何かしらの対策を用意しているのは確実だった。そして、逃げるという選択肢もない。エルザが「逃げるな」と言うか、ベルゼが「結界」と書くだけで、ボク達は逃げ道を失う。戦うことも逃げることも許されない、最悪の状況だった。
 このままじゃ二人とも殺される。
 理不尽で我が儘なようだけど、ゼテオがちゃんと〈エクステンド〉の力を使えれば、と思う。だってボクの〝フェアリーアイ〟が確かならゼテオは絶対〈エクステンド〉なんだから。それにあの性格からして間違いなく戦闘向きの能力だと思うし。せめてアレスくんと同等の力があれば、現状を打破することは可能なはずだった。
 だけど、現実はそう都合良くいかない。ゼテオは身体能力が優れているとは言え、今なおエーテルを出せないただの人間だ。他の相手ならいざ知らず、『水晶機関』最強と呼んでいいあの二人には天地が逆さまになっても勝てるはずがない。一体どうしたらいいんだろうか、このジレンマは。
 このままじゃ二人とも殺される。
「──殺す」
 ぞっとするほど憎悪と殺意に満ちた声。そこには、傭兵として死線を潜り抜けた男だから出せる凄味があった。
 それにしてもこんな騒ぎになってるっていうのに、この喫茶店の人達はどうして何の文句も言わないんだろう。そう思って店内を見回すと、とっくに誰もいなくなっていた。流石はゼテオの選んだ喫茶店だ、と思う。誰か一人でもいいから、自警団ぐらい呼んでくれたっていいのに。最低だ。
 殺人予告をしたゼテオが再び床を蹴った。路地裏で見たアレスくん並の速度だ。瞬間移動のように一気に間合いを詰める。
 エルザとベルゼも身構えていた。ちなみに言っておくがボクはこと戦闘においては完全に置いてけぼりだ。目だけが特殊なボクには常軌を逸した戦いなど出来ないのである。
 ゼテオは再度エルザに掴みかかった。今度は打撃ではなく、両手で黒い制服の襟をとろうとする。なるほど、エルザの武器が『声』なら喉を絞め上げればいい。しかもそうすればベルゼの『反射空間』でもきっと反射されないはずだ。
 だけどそうは問屋が卸さない。百戦錬磨の戦闘巧者である双子が近接格闘で遅れを取るわけがなかった。子供のなりをしているくせに鋭い腕の動きでゼテオの手を払う。
「──!」
 ゼテオも馬鹿ではない。それならば、とそのまま打撃に切り替える。もちろん高速の連続攻撃だ。声を放つ暇など与えないようにと。それも長いリーチを生かしてすぐ傍のベルゼにも襲いかかる。けど、それをなんと二人の子供は難無く避けるか、あるいは腕や足をもって防御したのだ。いくら何でもゼテオの膂力を子供の身体で受け止められるはずがないのに。それもそのはず、ゼテオと双子の手足が触れ合うところには必ず虹色の輝きが発生していた。アレスくんと同じエーテルによる身体強化の証だった。
 立場が完全に逆転していた。子供のようにあしらわれているのは、むしろゼテオの方だった。
 このままじゃ二人とも殺される。
 正直、ボクの焦燥感は臨界に到達しようとしていた。
 だってこのままじゃ絶対にやばい。ゼテオの戦い方を見ていてもまるで希望の光明が見えやしない。ハワードさんを殺された怒りと憎しみだけで、見境無しに攻撃しているようにしか見えないからだ。そりゃボクだって悔しい。ジレンマがある。あの双子に対して怒りがあるし、顔を見るだけで殺意の衝動が湧き上がってくる。それは嘘じゃない。でも、それだけじゃダメなんだ。
 冷静でいなければならない。そうじゃなきゃ死ぬのは自分だ。考えろ、考えるんだ。何かこの状況をどうにかする打開策を。思いつけ、あの双子から逃げる、もしくは勝利する術を。
 と、その時だ。猛然と、それでも最小かつ鋭い動きで攻撃を繰り出すゼテオに向かって、エルザの声が響いた。
「凍り付きなさい」
 刹那、がぎん、と金属的な音を鳴らしてゼテオの動きが凝固した。
「!?」
 驚愕に染まる金色の目。その黒い背中にベルゼの指が触れ、文字を、
「──づァッ!」
 振り払った。硬直も一瞬のことで、ゼテオは言霊の拘束を力尽くで──ってそんな嘘ぉんっ!?
 いや本当に振り払ってる!
 流石の二人もこれには虚を突かれていた。エルザもベルゼも目を丸くしている。うわ、初めて見た二人のあんな顔!
 しかしそれもすぐに冷静な状況分析の表情に切り替わる。
 いや、だって普通に考えておかしい。エルザの力はさっきから見ての通りだ。ハワードさんは「黙れ」と言われただけで断末魔すら上げられなかった。高速で飛来したテーブルをあっさり跳ね返した。「バン」と言うだけで大人一人が空を飛んだ。しかもゼテオじゃなかったら多分死んでいる威力だった。
 それを力尽くで振りほどくなんて有り得ない。
 でも現実はこうして目の前にある。それは双子もわかっているようだった。
 双子は身軽にゼテオの攻撃をかいくぐり、軽いステップや宙返りで距離をとった。まるで雑伎団みたいな動きだった。
「ねぇベルゼ、この猿おかしいわよ」
「うむ。妙な奴じゃのう、エルザ」
 深刻な顔で言い合う双子に、ゼテオは怒声を浴びせかける。
「軽口叩いてんじゃねえぞ! かかってこいチビ猿ども!」
 双子はそれを無視した。
「不気味な奴ね。手を抜いているとこっちのエーテル破られる可能性があるわよ、ベルゼ」
「そうじゃのう。万が一ということもある。それに」
 ここでベルゼはボクを一瞥して、続ける。
「マテリアを逃したら間抜けじゃからの。そろそろ本気を出すとしよう、エルザ」
 双子は同時に肩に掛かる銀髪を手で払った。
 その瞬間、二人の全身から目が眩まんばかりの七色の光が迸る。
 虹色の波濤だ。アレスくんが竜巻なら、エルザとベルゼは逆流する瀑布だった。とんでもない量のエーテルが小さな身体から噴き出していた。
 威圧感だけならアレスくん以上だとボクは思った。アレスくんのあれは威嚇の意味もあったが、双子のは違う。溢れ出るエーテルは『その気』になった証なだけで、別に見せつけようとしている訳じゃない。だからこそ、どうしようもない圧迫感があった。
 それを前にしてボクは本能的に叫んだ。
「ゼテオ、逃げよう!」
 どうやって逃げるのかは見当はつかないけれど、そうするべきだった。あの状態になったエルザとベルゼの放つ言霊は、これまで以上の強制力を持つだろう。今の今まで苦戦していたってのに、どうして本気になった二人に勝てるというのか。ボク達が選ぶべきは逃げの一手だけだった。
 でもゼテオはボクを無視した。怒りに我を忘れているのか、それとも何か策があるのか。ボクにはわからない。
 このままじゃ二人とも殺される。
「──ふッ!」
 ゼテオが懐から細長い投擲ナイフを取り出した。ついで、流れるような動作で四本のナイフが稲妻の如く放たれた。速い。確かにあれなら声を出す暇も文字を書く余裕もない。先読みでもしていない限り避けられないだろう。
 二本は双子の頭、もう二本は腹を狙っていた。そして見事、ナイフは突き刺さる。
 双子の両腕に。
 咄嗟に防御されたのだ。いや、違う。双子の表情は全然変わっていない。全身から虹色の輝きを放ちながら、驚きも戸惑いもなく、真剣な表情でゼテオを見ている。当たり前のように両腕から投擲ナイフの握り部分を生やして。
 敢えてナイフを受けたのだ。そうとしか思えなかった。
 ベルゼがナイフの突き刺さった腕で、それでも中空に文字を描く。七色に輝く少年の中でも一際強烈な光を宿した指先が、妖精のように宙を舞う。
 雷火、と。
 そこにエルザの声が重なった。ベルゼ同様、喉から激しい輝きを撒き散らしている少女は、強い口調でこう言った。
「火炎よ」
 ベルゼがもう一方の腕も上げて、さらに文字を描く。
 貫通力、と。
 エルザの声が凛と響く。
「燃えさかれ」
 劇的な変化が起きた。
 はっきり言おう。ボクの生身の目ではその事象は観測出来なかった。だからこれから言うことは〝フェアリーアイ〟で視たものだ。
 双子の発していた膨大なエーテルが一気に変換された。
 紫電と炎に。
 その二つは互いを求め合うように空中で絡まり合うと、ベルゼの文字によって貫通力を与えられた。つまり撃ち出されたのだ。
 炎の鎖を身に纏った雷撃の槍、とでも言えばいいだろうか。しかも炎は途中で燃え広がり、雷撃の先端に覆い被さった。それは先端の鋭さを損なうどころか、むしろより危険なものへと変えてしまう。
 その行く先は言うまでもなくボクとゼテオ。
 この時、ボク自身は雷光で目を灼かれて何も見えなくなっていた。だから何もわからず、どうすることも出来なかった。サングラスを外すんじゃなかった、という後悔だけはしていたけれど。
 何か硬いものがいきなり身体にぶつかってきて、ボクは床に押し倒された。後でそれはゼテオがボクを庇うために無理矢理伏せさせたのだと知ったけど、この時はまだわからなかった。
 とにもかくにも訳がわからず、ボクは錯乱状態だった。
 もの凄い轟音が鳴り響いて耳が馬鹿になっていた。音が鼓膜が突き破り、脳を直接揺さぶったかのような酩酊感があった。
 気が付くと、真っ暗な闇の中にいることに気付いた。その後で、ゼテオの身体の下に組み敷かれているのだとわかった。
 庇ってくれたんだ、と悟ったのは彼の全身から嫌な煙が立ちのぼっているのを見た時。
「……ッ!?」
 息を呑んで、言葉を失った。
 ゼテオの身体の下から必死に這い出て、上体を起こして見たのは、倒れ臥している彼の背中。
 悲惨な状態だった。服なんて焼け焦げて消えてしまっていた。剥き出しになった背中一面を占めるのは、酷い火傷だった。人肉というのはこんなにも赤く、黒く、醜くなるのだと初めて知った。
「ゼテオ……ッ」
 吐き気を催すほど、それは凄惨な姿だった。
 ゼテオをこんな姿にした張本人達は、正反対に悠然としていた。
「ほう、生きておるか。しぶといのう。予想以上に頑丈じゃったな、エルザ」
「そうね、ベルゼ。でも、もう終わりよ。どこの誰だか知らなかったけれど、ちょっと楽しかったわね。怪我なんてしたの何年ぶりかしら?」
 痛覚をベッドに置き忘れてきたみたいに、エルザは両腕に突き刺さったナイフを無造作に引き抜いた。赤い血と脂の付いた銀色の刀身が現れる。エルザはそのナイフを手に持ったまま、
「それで、マテリアちゃんはどうやって殺されたいのかしら? あたしかベルゼか、それともお仲間のナイフ? ねぇ、どれがいいかしら、ベルゼ?」
 くすくす、と愉快げに、ボクではなくやっぱりベルゼに語りかける。それにしたって、なんて厭らしい言い方をするんだろうか。ただでさえ悪い気分が、さらに悪化する。
 同時、百匹の虫が背筋を這い上がるような恐怖を感じた。
 ゼテオは倒れているけど、まだ息はある。でも意識はない。気絶している。例え起きていたとしてもこの火傷じゃもう戦えない。なんてジレンマだ。
 このままじゃ二人とも殺される。
 何度も何度も感じたその事実が、ひたひたと足音を立てて、とうとう背後までやって来ていた。
 顔から血の気が引いていく。それが自分でもわかる。頭に血が上ってこなくて、思考力が弱まっていくのを感じる。手と足の指先から体温が失われていくような気がする。
 だめだ。もうだめなんだ。ボクはここで殺されるんだ。
 そう考えた途端、突然、動悸が始まった。胸の鼓動が不規則になって、息苦しさを覚える。頭の中が漂白されたみたいに空っぽになっていく。
「……はっ……はっ……はっ……!」
 呼吸が乱れる。身体の各所がボクの意思に同調して小刻みに震え始めた。まるで死にかけの子犬みたいだ、意識の片隅で思う。
「怯えておるな。可哀想ではないか、エルザ。覚醒していない小娘とはいえ、わしらと同じ〈エクステンド〉じゃ。せめてもの情けとして、楽に逝かせてやろうではないか」
 そんなベルゼの台詞に、金槌で頭を殴られたような衝撃を受ける。何だよ、その言い方。殺すのが仕方ない、みたいにさ。ボクはものじゃないんだぞ。死んだらもう二度と生き返らないんだぞ。
「……いやだ……」
 死にたくない。息が苦しい。何も考えられない。いやだ、しにたくない。
 美しい七色のエーテルをまとった双子が、こちらへ向かって足を踏み出す。近づいてくる。傍に来てボクを殺すつもりなのだ。
「くるな……」
 ボクは拒絶した。どうして。どうしてボクをころすの。わからない。くるな。ボクをころすな。あっちいけ。
「くるなっ……!」
 にげだしたい。でもからだがうごいてくれない。ふるえて、ちからがはいらない。せまってくるふたりは、死、そのもの。つかまったらころされる。だれもがもっているほんのうのこえ。あたりまえのせつり。じゃくにくきょうしょく。
 しにたくない。くるな。
「くるなっ! こっちにくるなぁっ!」
 できるのはさけぶことだけ。けどエルザもベルゼもまるでききやしない。こっちにあるいてくる。くるな。
 それでもふたりはこっちにくる。くるな。
 にやり、とエルザがわらった。やれやれ、とベルゼがつぶやいた。
 くるな。いや。こないで。
「こっちにくるっ」

 ぷつん、とボクの中で何かが切れた。







[30238] ■運命を操る妖精の瞳
Name: 仙戯◆97bdbc1a ID:d9a73d31
Date: 2011/10/26 02:40
■運命を操る妖精の瞳






 アシュリーは俺のために死んだ。
 いや、違うか。俺のせいで死んだんだ。
 これは、多分夢だ。懐かしい過去の記憶だ。
 十六歳の俺がいる。今とほとんど変わらない。何かに飢えているかのようにギラギラした金色の目に、痩せ狼みたいにいつでも臨戦態勢な身体。いつだって誰が相手だろうが無愛想で、寝る時さえ仏頂面だったような気がする。
 それはまだアシュリーが生きていて、俺がまだエーテルストライカーだった頃の話だ。
 この頃から俺の心は殺伐としていて、砂漠のように枯渇していた。何故だかはわからない。とにかく周囲にまとわりつく暖かい空気が、無性に鬱陶しかったのだけは憶えている。
 理由なんてなかった。強いていうなら、教会のグランマやシスターの優しさや思いやりが、生理的にだめだったんだろう。俺は、人の輪に溶け込むということができない人間だった。
 生まれつきの性格なのか、それとも親がいないせいなのか、はたまたエーテルストライカーだったからなのか。
 俺は周囲から浮いた存在だった。そして俺自身、そのことを自覚していた。
 だから自然と孤児院の皆から遠ざかり、一人で過ごす時間を多く持つようになった。ヴェイルや他の何人かがたまに話しかけてきたり用事を伝えにくることが何度かあったが、それも二言三言だけだ。しかも年下ばかり。俺の疎外感は全く薄れなかった。
 この頃の俺は、理由もなく、ただひたすらにむしゃくしゃしていた。だから気がついた頃には、街の荒くれ共と喧嘩する毎日を過ごしていた。もちろん、エーテルストライカーの俺に敵う奴などいなかった。血のように赤いエーテルを手足にまとわりつかせ、それで殴るなり蹴るなりすれば相手はすぐに倒れた。誰を敵に回しても俺は楽勝だった。
 それが悪いことだとは微塵も思わなかった。苛立ち紛れに誰かを殴るのは、俺にとって当たり前のことだったのだから。
 アシュリーはそんな俺に、毎日のように説教をしてくる女だった。
 鬱陶しい、と最初は思っていた。
「あんたまたケンカしてきたの!? もう、いい年してバッカじゃないの! あんたねぇ、いい加減にグランマやシスターに迷惑かけるのやめなさいよね!」
 とまぁ、毎度毎度こんな感じで小言を延々垂れ流すのだ。いや、今思い出してみたらやっぱりちょっと鬱陶しいな、こいつ。
 だが、この頃の俺は若かったんだろう。最初は煩わしく思っていたアシュリーの言葉を、いつしか楽しみにするようになっていた。そうやって誰かにかまってもらえるのが嬉しかったのかもしれない。俺はむしろ進んで説教の種を増やすような行動を取るようになった。そういう意味ではアシュリーの叱咤はむしろ逆効果だったと言えるだろう。
「うるせぇ」
 俺はいつもそうやってアシュリーをあしらっていた。いや、あしらったつもりになっていた。実際にあしらわれていたのは俺の方だったというのに。
 長い、炎のように赤い髪。陽光のように明るい琥珀色の瞳。誰がつけたか、あだ名は『ひまわり娘』。まぁ確かにそう言い表せるぐらい明るかったのは俺も認める。
 アシュリーが大声で俺の行動を非難する。俺は短い言葉でそれを遮断する。ただそれだけの行為に、俺は決して少なくない心地よさを覚えていた。
「あんたさぁ、せっかくエーテルストライカーに生まれたんだからもっとましな生き方しなさいよ。ねぇ、それに、もうちょっと心を開いてもいいんじゃない?」
「誰にだよ」
「あたしがいるじゃん。ほらほら、悩みがあるならこのアシュリーお姉さんに何でも話してごらん? 性的な意味じゃなければいくらでも一肌脱ぐよん?」
「うぜぇ。消えろ」
「なぁんですってぇ────────ッ!?」
 ノリ的にはどことなくマテリアに似ていたかもしれないな。どうでもいいが。
 とにかくアシュリーは何が楽しいのか、あるいはどこがそんなに気に喰わないのか、何度も何度もそうやって俺を説得しにかかった。やれ同じエーテルストライカーのヴェイルを見習ったらどうだ。やれ喧嘩ばかりしていたらろくな大人にならないぞ。やれ悩みがあるなら聞いてあげるから言いなさい。
 言いたいことを要約すると「素直になって喧嘩をやめて皆と仲良くしろ」ということだった。今なら、俺のことを心配してくれていたのだろう、と思えるが、この頃の俺にはそれがさっぱりわからなかった。
 ただ、ぎゃあぎゃあと文句を言ってくるアシュリーを見ているのが楽しかった。彼女の態度がどんな想いから発生しているのかなんて、全く考えもしなかった。
 俺は馬鹿だったんだ。
 だから不幸な事件が起こった。
 ある日のことだ。以前、俺に喧嘩で負けた奴が今度はエーテルストライカーを連れて報復にやって来たのだ。しかもどこで嗅ぎ付けたのか、俺の巣である聖マルグレーヌ教会まで。
 ガキの喧嘩なんてものは、馬鹿だけに熱くなりすぎると簡単に生き死にの領域まで行ってしまう。この日がそうだった。自分の領地にまで踏み込まれた俺は、巣を荒らされた獅子の如く怒り狂った。無差別に雑魚共を殴り、手加減無しで叩きのめした。力一杯やったせいか嫌な感じの痙攣をした後、動かなくなる奴が続出した。
 ならば相手もこちらを殺す気で来るのは当然だった。
 相手側のエーテルストライカーは現役の傭兵だった。エーテルを金属に変換し、生み出した鋼の刃を自由自在に操る能力を持つ男だった。今にして思えばこいつは弱かった。エーテルを使えない今の俺の方がむしろ強いんじゃないだろうか。だがこの時の俺は、今の俺ではなかった。
 対するこの時の俺は特にこれといった能力もなく、ただエーテルを使って肉体を強化するだけ。だがそれでも自身の破壊力には少なからぬ自信を持っていた。
 しかし、所詮この時の俺はガキ大将でしかなかった。そして、相手はまがりなりにも現役の傭兵だったのだ。
 今でこそ相手の実力を測るなんてことは造作もないが、この時の俺はまだ彼我の戦力差を分析することすら出来なかった。
 はっきり言って、分が悪すぎたのだ。客観的に見れば勝敗の結果など火を見るに明らかだったというのに。当時の俺はそんなことさえわからなかった。
 この後は、少しぐらい想像力のある人間なら容易に予想出来るだろう。
 圧倒的な実力差にあっさり追いつめられた俺は、今まさにとどめを刺されようとしていた。だがその瞬間、俺を庇った奴がいた。
 俺の代わりに全身を刃に貫かれたのは、あろうことかアシュリーだった。
 何が起こったのかすぐにはわからなかった。脳の許容範囲を超える現実が、俺の頭蓋に収まりきらなかったのだ。
 彼女の血を浴びた時、俺の中で何かが壊れた。
 あんなひどい悲鳴を上げたのは、後にも先にもあれ一度きりだ。
 その直後のことはよく覚えていない。
 ただ、俺のエーテルが血液の赤から、七色の輝きに変わったことだけ覚えている。
 それを用いて敵をどうしたのか。全く記憶にない。気が付けばいなくなっていたから、逃げたか、あるいは俺が跡形もなく消してしまったかのどちらかだろう。まぁ、おそらく前者だと思うが。
 だが、アシュリーの言葉だけは今も心に焼き付いている。
 彼女は激痛が全身を苛んでいるにも拘わらず、俺を見て笑ったのだ。
「なんだ……あんた、〈エクステンド〉だったんだね……すごいじゃない……あ、ははっ……助けて、ほんとによかったぁ……」
 それはもう嬉しそうに微笑んで。
 そう言って、アシュリーは事切れた。
 俺は、何の言葉もかけてやれなかった。
 この時の、よかったぁ、という一言が俺の精神を再起不能にしたのだと思う。
 一体何がよかったのか、俺には今でもよくわからない。
 俺が〈エクステンド〉だったからよかったのか。〈エクステンド〉を助けられたからよかったのか。それとも、〈エクステンド〉である俺を助けられたからよかったのか。
 わからないのだ。よかったという、その言葉の意味が。それは解釈によって、絶望にも希望にも変わる紙一重の言葉だった。俺は希望的観測をするほど楽観主義ではなかったし、絶望的な感覚を持つほど悲観主義者でもなかった。
 アシュリーは俺が貴重な〈エクステンド〉だったから助かって良かった、と俗物的な意味で言ったのだろうか。
 それとも、俺を助けられたことも、俺が〈エクステンド〉だったことも、両方喜んでいたんだろうか。
 わからない。
 俺が〈エクステンド〉だから良かったのか。〈エクステンド〉が俺だから良かったのか。そんなジレンマ。
 結局、俺は答えがわからないまま今に至っている。
 ただ、あいつは笑いながら逝った。そこだけは救われている、と思いたい。
 この事件以降、俺はエーテルを使えなくなった。原因はわからない。精神的なものかもしれない。心の傷によってエーテルを失ってしまったのかもしれない。ただ、そのことを考えるだけで頭がひどく痛むため、いつしか俺は、自分は実はエーテルストライカーではなかったのだ、と思うようになっていった。その方が気分が楽だったのだ。いや、実際にはそう思わなければ、やっていられなかったのかもしれない。
 いたたまれなさや居心地の悪さもあって、俺はこの後、ほとんど時を置かずに孤児院を出て行った。おそらく、今まで罪悪感というものを感じたことの無かった俺が初めて得た、それは罪の意識だったのだろう。
 親もない。兄弟もいない。友達と呼んでよかったかもしれない奴さえ失った。気が付けば、エーテルストライカーという自らを形成していた要素の一つまで無くしてしまっていた。
 その代わりに得たのは『自分の内から湧き出てきた虹色のエーテル』という謎。ただそれだけ。
 結果として、俺は自分という存在がわからなくなってしまった。
 エーテルの使えないエーテルストライカー。血のように赤かった俺のエーテル色が、何故に七色へ変化したのか。
 俺は一体どこの誰なんだろうか。ただのエーテルストライカーなのか。それとも伝説の〈エクステンド〉なのか。どちらであるにせよ、それならどうしてエーテルが出なくなってしまったのか。
 俺の身体に何が起こったのか。
 ひたすらに、自分の正体がわからなかった。
 それから、ただ時間だけが過ぎていき、俺はいつし


 ぶつり、と映像が途切れた。まるで繋がっていた線がちぎれてしまったように。
 なんだ今の? さっきまで見聞きしていたのは……?
 ゼテオの記憶? 過去? 心?
 それとも、ただの白昼夢?
 わからない。一体何がどうなっているのか。
 恐怖で気が触れてしまったんだろうか、ボクは。
 両目が熱い。
 一体いつからさっきの映像に囚われていたんだろうか。エルザとベルゼに視線を向けると、二人はろくにこっちに近づいていなかった。どういうことだろう。ほんの一瞬であれだけの映像を視たっていうんだろうか。
 そうだ、さっきのは〝フェアリーアイ〟による情報の映像だ。白昼夢なんかじゃない。
 だってほら、よく見ればボクの全身から大量に虹のエーテルが噴き出して……えっ?
 ボクは惚けたように自分の手足を見つめた。何ていうことだろうか。本気になったアレスくんや、エルザとベルゼみたいに、ボクの身体から〈エクステンド〉の証である七色のエーテルが煙のように溢れ出ている。
 なんだこれ。どうなっているんだろう。ボクはこんなこと、出来やしないはずなのに。だって、コレは戦闘系の能力じゃないと出ないモノじゃなかったんだろうか? しかも本気になった時しか。
 っていうかボクはこんなモノを出す気になってないし、こうやってエーテルを噴き出したところで出来ることなんて何一つないはずだ。

 名前も知らない男がエルザの頭を蹴り飛ばす。倒れた彼女にベルゼが駆け寄ると、エルザは額から血を流していた。ベルゼは憎悪の煮えたぎる瞳を男に向ける。

「──!?」
 なんだ、今の光景。違う、ボクはこんなのを視たいなんて思っていない。
 もしかして今のも過去なのだろうか。エルザとベルゼは今と違って、随分とみすぼらしい格好をしていた。
 だめだ、もう目が熱すぎる。瞼を開けていられない。どうなっているんだコレ。何がなにやら、わからないじゃないか。

 子供と大人じゃ勝負なんて見えている。エルザを庇ったベルゼはサンドバッグみたいにいいように嬲られた。目を開いたエルザが、撲殺されそうな勢いで殴打されるベルゼを見て息を呑む。「いや」と叫びが放たれ、殺気に満ちた金銀妖瞳が男に向けられる。そして彼女は虹色の声を放ったのだ。「お前なんか死んでしまえ」と。

「──~ッ!」
 まただ。目を閉じたら閉じたで視たくもない映像が視えてしまう。一体どうしてしまったんだ、ボクの目は。
 〝フェアリーアイ〟が暴走しているとしか思えなかった。
 ちょっとでも気を許すと──
 この喫茶店の名前は『ホンキィトンク』と言って、昼は喫茶店で、夜は酒屋を営んでいる。店主の名前はジャン・バッハマン。裏街に店を構えているだけあって脛に無数の傷を持っている。
 ──なんていう情報が勝手に頭の中へ入り込んでくる。うわあん、どうでもいいよこんなのーっ!
 目に、溶けてしまいそうな程の灼熱感がある。多分、〝フェアリーアイ〟の過剰な稼働による過負荷だ。知ってもしょうがない情報や、視るためには多量のエーテルを必要とする過去のことを無差別に取得しているから、眼球が悲鳴を上げているんだ。
 でもダメだ。制御がきかない。どんどん、変な情報が、過去の記憶が、ボクの中に、流れ込んで、くる。
「──~ッ!?」
 頭が割れるように痛い。誰かがボクの頭蓋骨の割れ目に指を突っ込んで、無理矢理開こうとしているかのようだった。あるいは、氷柱で何度も頭の奥を刺されているような激痛、と言ってもいい。
 頭痛だけで死にそうだ。このままこれが続くか、悪化するようなら冗談抜きでショック死するような気がする。
 だけど不思議なことに、頭に入ってくる情報は今のボクの周辺のモノに関することが多かった。きっとボクのエーテルがそれらに触れているからだろう。エーテルを伝って情報が伝播して、それがボクの〝フェアリーアイ〟を介して『知識の源泉』に干渉しているんだ。で、そこに収められた知識や回答がボクの中にフィードバックしている。
 エルザとベルゼの過去だってわかる。これまであの双子がどんな人生を送ってきたのか、その情報が頭に入ってくる。以前試した時は無理だったのに。双子のエーテルの方が強くて干渉出来なかったのに。今は出来る。
 本当は、二人はボクよりもゼテオよりも年上だった。子供なんかじゃなかった。見た目が幼いだけで、中身は老人と言っていい年齢だった。
 身寄りのない二人が本当の子供だった頃は、今よりもエーテルストライカーの扱いがひどい時代だった。二人はどこへ行ってもむごい虐待を受け続けた。それでも最初の頃は、他人を信じたい気持ちを持っていた。だけど、誰も双子に優しくしなかった。仲良くしたいのに、仲良くなれない。そんなジレンマ。そうしていつしか、双子の心は摩耗してしまった。
 結局、とうとう殺さなければ殺されてしまうかもしれないという極限の状況まで来てしまって、双子は他者を拒絶する道を選ぶしかなかった。その結果、大切な何かがすり切れてしまって、もうお互い以外の誰も信用出来なくなってしまったのだ。
 ついさっき視た映像も、その一場面だった。年端もいかない子供に対して悲惨すぎる、あの光景が。まぎれもなく現実にあったことだった。
 その後、紆余曲折を経て二人は新たに発足した『水晶機関』の保護を受けた。そして、力の性質と本人達の性格の関係から処分執行官に任命された。
 二人にとってそれは一つの転機だったし、一筋の光明だった。迫害され、忌み嫌われ続けてきた双子が初めて誰かに必要とされた瞬間だったんだ。
 その居場所が例え血と臓物にまみれた世界であっても。
 二人はもう、ジレンマを感じないで済むから。
「──ァッ!」
 いきなり頭痛が激しくなった。限界が近いんだ。何となくそれがわかる。
 ハワードさんのこと。この街のこと。この国のこと。この地に住む人々のこと。〝フェアリーアイ〟の対象範囲が加速度的に拡大していく。その結果、ボクは何もかもがわかってしまうから、逆に何もかもがわからなくなっていくという、矛盾した状態に陥った。
 情報の氾濫がボクの脳内を次々に侵略していく。もう何の情報が入ってきているのかすらわからない。処理しきれない膨大な量の情報が溢れかえって、神経が焼き切れそうだった。上書きをし続ける知識がそのうちボクの人格部分まで蹂躙しようとしていた。このままじゃ意識が『アカシックレコード』や『賢者の石』『神の座』に塗りつぶされて、ボクがボクでなくなってしまう。〝フェアリーアイ〟を介してボクからあちらへアクセスするはずが、逆に向こうからこちらを乗っ取られてしまうのだ。
 なら、せめて、そうなる前に、未来を。
 〝フェアリーアイ〟の暴走を逆手にとれば、普段なら絶対選べないような未来の可能性だって選択できるはずだ。
 だから、この状況を何とかする未来を、せんた、く、し──

 ぶつり、と意識が途切れた。


「こっちにくるっ……なァッ!」
 恐怖に怯え、絶望に満ちた絶叫。それはエルザとベルゼにとっては聞き慣れた類の声だった。
 だから意に介することはない。二人はマテリアの叫びを無視して歩を進めた。
 だが、それもたったの三歩で止まってしまう。
 小動物のように震えるマテリアから、突如、虹色の輝きが間欠泉の如く噴き出したのだ。
「「!?」」
 同じく虹の光を纏っている二人はすかさずその場を飛び退き、マテリアから距離を取った。未知の現象には迂闊に近寄らないこと、これは生き残る上での鉄則だった。
「これは……もしかして、アレかしら? ベルゼ」
「もしかしなくともそうじゃろう、エルザ。間抜けな話じゃ。窮鼠が獅子に化けおったわい。どうやら脅しすぎてしまったようじゃの」
 眉根を寄せるエルザに、ベルゼは苦虫を噛みつぶしたように答えた。エルザは肩に掛かる髪を振り払うと、つまらなさそうに息を吐く。
「まさか土壇場で『覚醒』するなんて。ベタすぎて笑えないわ、ベルゼ」
「わしとしてはこの現象を『覚醒』と呼ぶ連中の方がベタと思うんじゃがのう、エルザ」
「論点ずれてるわよ、ベルゼ」
 〈エクステンド〉には通常のエーテルストライカーにはない成長段階というものがある。
 第一段階が能力の発現。これはエルザで言う『声』、つまり〝ラジカルヴォイス〟にあたる。マテリアで言えば〝フェアリーアイ〟。ベルゼで言えば〝ラジカルライター〟。アレスなら〝ウラヌスブーツ〟となる。
 第二段階が『覚醒』と呼ばれている状態だ。全身から〈エクステンド〉の証である七色に変化するエーテルが放出され、第一段階の能力の精度と出力が飛躍的に向上する。
 記録によると第三段階もあるらしいが、エルザとベルゼはまだそこに到達していない。というより、そこまで成長している〈エクステンド〉は今の時代ではまだ確認されていなかった。
「──~ッ! ……ァッ!」
 体中から途切れることなく虹色に輝くエーテルを噴出し続けているマテリアは、どうやら明瞭な意識を持っていないようだった。うつろに目を開いていたかと思うと、急に瞼を強く閉じ、何かを堪えるようにうめき声を漏らす。
 『覚醒』はいつ起こるかわからない現象だ。〈エクステンド〉であればいつかは通らなければならない道だが、その時機は千差万別だった。例えばエルザとベルゼは齢三十を過ぎてから『覚醒』を果たしたが、アレスのそれは十四の時だった。
 精神的な衝撃が『覚醒』に関与しているという話は聞かない。よって、この瞬間にマテリアが『覚醒』したのはただの偶然か。あるいは、彼女の〝フェアリーアイ〟が故意的に呼び寄せた強制未来かのどちらかだった。自ら成長進化を促す〈エクステンド〉の能力など聞いたこともないが。
「まあ、多少手間が増えただけじゃ。封じるとするかの、エルザ」
「そうするしかないわね、ベルゼ。あの子の能力じゃ何が起こるかわからないし」
 〝ラジカルヴォイス〟と〝ラジカルライター〟は名前の通り、二つで一つとなる能力だ。先程の『雷火炎』のように組み合わせることで相乗効果を生み、強力無比な威力と無限の可能性を得ることが出来る。
 つまり、ベルゼが『封印』と記し、エルザがそれを読み上げれば、封印効果も数倍に跳ね上がるのだ。そうすればマテリアの『覚醒』を強制的に中断させることも可能だと思われた。
 既に狭い喫茶店の内部には七色の光に満ちている。飽和状態とすら言っていい。エルザとベルゼの双子の輝きに、マテリアから湧き出す巨大な奔流。むしろマテリアのエーテルは壁に空いた穴から外へ飛び出して、大気中に広がっていっていた。
 つまり、この時点で双子の思惑は手遅れだったということになる。
 マテリアの能力は〝フェアリーアイ〟。それは過去を見通し、未来を読み、『知識の源泉』と繋がって世界中の謎という謎を解明することが出来る神秘の瞳。
 だが、それだけではないのだ。
 その本領は、無限に広がる未来の可能性を選び取り、それに応じて流動的な過去を改竄して、希望する現実を呼び寄せること。
 つまり『アカシックレコード』『賢者の石』『神の座』と呼ばれるものに干渉し、書き換えることを指す。もっと端的に言おう。
 運命を操るのだ。
 〝フェアリーアイ〟の組み立てる時間の流れに組み込まれたが最後、何人たりともそれに逆らうことは出来ない。過去の事実を変え、記憶を上書きし、時系列を修正して、全てのつじつまが合わされるのだから。誰も彼も、過去と運命を修正されたことに気付くことは出来ない仕組みになっているのだ。
 エルザとベルゼが『覚醒』状態のマテリアを封印する直前。
 〝フェアリーアイ〟の過剰稼働による過負荷でマテリアが意識を失う直前。

 一瞬で運命は書き換えられた。

 出し抜けに轟音が響き、ベルゼの風弾が穴を開けた壁の反対側が爆裂した。
『──!?』
 封印するまでもなく気絶したマテリアを取り囲むように立っていたエルザとベルゼは、その音に鋭く振り向いた。
 遅れてやって来たヒーローのように登場したのは、両脚から極めて強い虹のエーテルを放つ少年だった。
 名前をアレス・フォルスターという。
「ベルゼリオン執行官、エルザリオン執行官!」
 『笑う壊し屋』と異名を持つ彼だったが、今だけは微笑んでなどいられなかっただろう。柳眉を逆立て、真剣な表情で処分執行官の双子を見据える。
 慌てて駆けつけてきた様子だった。エルザとベルゼは申し合わせたように、同時に舌打ちをした。
「ここへあなた方が派遣されたと聞いて……ッ!」
 〈エクステンド〉の少年は台詞の途中で、胸に矢を射込まれたかのように言葉を止め、息を呑んだ。
 アレスは見る。エルザとベルゼの間に倒れ臥しているマテリアを。その、うつぶせになっている彼女の背中が、酷いことになっていた。首筋から腰にかけて、服が燃え失せて肌が剥き出しになっている。しかも、露わになった皮膚が全て醜く焼け爛れていた。余程の高熱を浴びたのだろう。肌色は消え失せ、赤と黒と毒々しいピンクが彼女の背面を占領していた。青みがかった黒髪も燃えてしまったのだろう。長かった髪は、ちりちりと白くなった毛先をうなじあたりまで後退させていた。
「何て事を……!」
 絶望的なマテリアの姿だったが、幸いにも息はまだあった。弱々しく微かにだが、背中がゆっくりと上下している。そんな不幸中の幸いに、アレスは少しだけ安堵した。
 そのすぐ傍に、いつか見た黒髪の男が倒れているのを確認すると、彼はエルザとベルゼに視線を戻す。表情を引き締め、毅然と、
「ここは私が受け持ちます。お二方はどうぞ、本部へお帰り下さい」
 反駁を許さぬ口調で告げた。だが、そんな言葉だけですごすごと退くほど、『二人っきりの処刑者』は甘くなかった。
「いきなりやって来て、一体なにを言い出すのかしらアレス坊やは。ねぇ、ベルゼ?」
「うむ。わしらの領分に土足で踏み込んでくるとは、アレスも無粋な男になってしまったものじゃのう、エルザ」
 小馬鹿にしたような笑みを浮かべて、双子は横目でアレスを見やる。アレスも自覚してのことだったが、彼の行動は明らかな越権行為による横槍だった。いや、もはや逆ネジと言っていい。保護回収官と処分執行官の仕事は完全に区分されている。マテリア・オールブライトは『水晶機関』が正式に定めた処分対象だった。エルザとベルゼを制止出来るのは、『水晶機関』機関長その人しかいない。アレスに「ここは私が受け持ちます」と言う権限など、どこにもなかったのだ。むしろマテリアの『処分』を手伝うことこそが、今彼がするべきことだった。
 しかし、アレスにとってそんな選択肢など有り得なかった。彼の意思はマテリアを生きたまま連れ戻し、再び生活を共に送ることだった。自らの職務とのジレンマは確かにある。だがそれでも、アレスにはマテリアを見殺しにすることなど到底出来なかったのだ。
「無礼は承知しています。ですが、ここは私の顔に免じて退いていただけないでしょうか。マテリアさんは私が必ず説得して連れて帰ります。機関長への説明も私がきちんとします」
 アレスは理路整然と言葉を並べ立てる。彼としては絶対にマテリアを『処分』させるわけにはいかなかった。自分は何があろうと彼女を死守する、と覚悟を込めた瞳で双子を見つめる。
 それはエルザとベルゼにとってはおもしろくない態度だった。頼み事をするのなら頭の一つでも下げるべきだろう、と二人は思う。そうでなくとも譲るつもりがないというのに、このような気にくわない態度をとられては、より一層マテリアを渡すわけにはいかなかった。
 どんな汚れ仕事であろうと、双子は居場所と存在意義を与えてくれた『水晶機関』に感謝している。機関長には彼らなりに大恩を感じているのだ。だから、任務を放棄することは双子にとって有り得ないことだった。与えられた任務は、彼らの使命と同義だった。何人であろうとも、それを邪魔、妨害することは許されない。立ちふさがる全ての障害を、これまで幾度と無く実力で排除してきた二人だった。今更アレスが立ちはだかろうとも、止まるわけにはいかなかった。
 エルザは青と緑の瞳を不快げに細めて、アレスを睨む。
「面倒だわ、ベルゼ。アレス坊やもここで消しましょうよ」
 ベルゼはエルザと同じ金銀妖瞳に、氷のような冷ややかさを宿してアレスを一瞥した。ただし口角をやや吊り上げ、嗜虐的な笑みを浮かべて。
「仕方ないのう。まぁ、大義名分はわしらにあるのだから問題ないじゃろう。アレス・フォルスターは任務遂行の邪魔をした裏切り者だったので同様に『処分』した──ということでのう……どうじゃ、エルザ?」
「いいわね、ベルゼ。文句なしだわ」
 エルザとベルゼの身体から噴き出すエーテルの量が目に見えて増大した。少女は喉に一際強い光を、少年は両手の指先に強烈な輝きを宿す。
「どうしても、退いてもらえませんか?」
 低い声でアレスは繰り返した。じりじりとしたジレンマが彼の胸を苛む。戦いは彼の望むところでなかった。だが、マテリアを救うために避け得ない道であるのならば、押し通るしかなかった。何があろうと死守する、と覚悟を決めたのだから。
 アレスも虹色のエーテルを全身に纏い、〈エクステンド〉第二段階へ移行する。
「アレス坊やはいつからあんなにくどくなったのかしらね? ベルゼ」
「それほどマテリアに情が移ったんじゃろう。可哀想にのう。捨てずに済む命を、意味もなく失うことになるな。のう、エルザ」
 言外に、退くことは有り得ない、と二人は示していた。むしろ、遠慮無くかかってこい、とすら言っている。
 アレスは唇を噛み締める。ここが覚悟の決め時だった。
 少年は自らの能力〝ウラヌスブーツ〟に意識を込める。勝負はおそらく一瞬。双子が声を放つより、文字を書くより速くこちらの攻撃が決まればいい。そうしなければ、お互いに絶大な力量を有する〈エクステンド〉同士だ。最悪、しのぎを削り合う泥沼の長期戦へと突入することになるだろう。
 刹那、世界中から音が消えてしまったかのような静寂が満ちた。
 静謐な空気の中、エルザが唇を開き、ベルゼが片手を閃かせ、アレスが地を蹴った。
 世界に七人しかいない〈エクステンド〉の内、三人が激突するという史上類を見ない戦闘の火蓋が切って落とされた。


 目が覚めた時、俺は無傷のまま喫茶店の汚い床に倒れていた。
 ……生きているのか、俺は?
 気を失う直前、背中には言葉に出来ないほどの灼熱感があった。俺はマテリアを庇ってあのチビ猿共の雷撃と炎を浴びたはずだった。
 しかし今、背中には何の感覚もない。痛みがひどすぎて感覚が麻痺しているのかと思えば、そうではない。首を巡らして背中を見ても、傷も何もなかった。
 どういうことだ? 何があった? 俺の記憶違いか? それとも夢? それならそれで、どこまでが現実でどこからが夢だったんだ?
 わからない。
「くっ……!」
 頭の奥が鈍く痛む。何か得体の知れないものが頭の真ん中で蠢いているような感覚。一瞬だが、意識が朦朧とする。
 ──いや、違う、そうだ。俺がマテリアを庇ったんじゃない。逆に俺が庇われたんだ。
「!? マテリア!?」
 思い出した。奴らの攻撃が迫る中、あいつは俺の身代わりになりやがったんだ。どっかの誰かみたいに。
 俺は身体を起こして慌てて辺りを見回した。マテリアはすぐに見つかった。すぐ傍で、ズタズタに焼け爛れた背中をさらけ出して倒れていた。
「マ……」
 名前を呼ぼうとして、その醜悪なまでの火傷痕に俺は喉を詰まらせた。人肉の焼ける匂いが鼻孔をつく。
 胸の奥がかっと熱くなるのと、頭の中がさーっと冷たくなっていくのはほとんど同時だった。
 俺はマテリアの近くまで駆けずり寄った。長かった髪が焼失して短くなっていた。四つんばいになって床に顔をぶつけ、マテリアの顔に声をかける。
「マテリア! 大丈夫か!? マテリアッ!」
 返事などあるわけがない。完全に意識を失っている。マテリアは熱にうかされているような、苦しげな息づかいを繰り返していた。
「くそっ……! どうしてこんな……馬鹿が!」
 なんだって俺なんかを助けやがるんだ! どいつもこいつも! 身代わりになられる方の身にもなってみろって言うんだ! どれだけ気が狂いそうなほどの罪悪感に悩まされるか! あれをもう一度味わうぐらいなら背中に大火傷だろうが何だろうが負った方がまだましだ!
 ──いや、待て。そうだ、俺はアシュリーの件があってからずっとそう思ってきた。だから、さっきは俺がマテリアを庇ったはずだ。……いや違う、実際には俺は怪我一つ負っていないではないか。だからあれは気絶している間に見た夢……にしてはやけにリアルな激痛だった気がする。第一、マテリアに俺を押し倒すほどの力があるわけがない。双子の攻撃に反応する反射神経もなかったはずだ。大体、俺は何で気絶していたんだ?
 違う。今はそんなどうでもいいことを考えている場合じゃない。目の前に重傷人がいるんだ。
 とにかく病院だ。すぐに治療を受けさせなければならない。
 俺はもう一度周囲を見渡した。そういえばあの双子はどうなった。どこへ行った?
 喫茶店の内部はこれまた無惨な状態だった。まともに立っている椅子もテーブルもない。俺から見て左右の壁にはどちらも大穴が空いていて、見事な風の通り道になっていた。そして、右の穴の向こうにはヴェイルの死体が──ない。
「?」
 ちょっと待て、どうしてここでヴェイル・ハワードの名前が出てくる? あいつとはもう十年も会っていないはずだろう、俺は。しかも死体って何だ? なんでこんな突拍子も無いことを思いつく?
 ──違う、ヴェイルはここにいた。あいつはエーテルストライカーとして『水晶機関』に保護されて、保護回収官になっていただろ。そして、エルザとベルゼに殺された。だから穴の向こうの外にはあいつの死体が転がってなければならない。もっとよく見ろよ、俺。
 しかし、やはりヴェイルの死体はない。ただ、その痕跡はあった。土の上に赤黒い血の痕がある。間違いなく、誰かがそこで血を流した証だ。ということは誰かが死体を持って行ったということか。あの双子か? ふざけるな、そんなこと何の目的で──
「こっちです……!」
 その時、どこか遠くから聞き覚えのある声が耳に届いた。待て。待て待て。この声はどう聞いてもヴェイルのものじゃないのか?
 ったくさっきからどうなってるんだ? 俺の頭がおかしくなっちまったのか?
 さっきから記憶と現実が食い違っているように感じる瞬間がある。だが、その直後に「いや、記憶違いだ」と思っても、胸の中の違和感が少しも消えやしないのだ。すると段々、現実の方がおかしいような気になってくる。だが、現実はまぎれもない現実だ。間違っているはずはない。だからといって、自分の記憶を疑う気持ちにはどうしてもなれない。すると今度は、自分が何かものすごい勘違いをしているんじゃないか、と突発的な恐怖感が湧き上がってくるのだ。
 記憶の中の出来事と、現実に起こっている事とが違いすぎる。しかも、よく考えれば記憶の方が理屈としても合っているような気がするっていうのに、現実は変わりっこなく厳然とそこにある。
 どうなっているんだ?
 そんなもの凄いジレンマに頭を捻っていた俺は、こちらへ近づいてくる大量の足音によって意識を現実に引き戻された。
 馬鹿か俺は。今は余計な事を考えている場合じゃないだろうが!
 俺はマテリアの身体に手をかけて、抱き起こした。軽い。これなら問題なく運べる。
 火傷を負った背中に触れないようにして、マテリアの両腕を俺の首に回させて、身体を背負った。そこに、近づいてきていた足音の主達が現れる。
「ゼテオ兄さん!」
 半壊した喫茶店に現れたのは、俺の記憶の中ではベルゼに瞬殺されたはずのヴェイルだった。
 確かに傷は負っている。額に包帯を巻き、頬の至る所に絆創膏が貼られている。また制服の右肩から左脇腹にかけては赤い裂線が走っているし、左腕の袖が肘当たりから中身を失ったようにひらひらしている。圧縮空気の砲弾で腕を吹き飛ばされたんだろう。だが、生きている。制服の傷跡の下には包帯巻きの身体が見て取れた。
 やはり、どう考えても内臓を散らばらせて死んでいた奴には見えない。現実にこうやって生きているんだから、俺の記憶の方がおかしいのは確かだった。
 ──そうだ、思い出した。店の外まで吹っ飛ばされて半死半生だったヴェイルに、俺が「逃げろ」と言ったのだ。ついでに「自警団か傭兵を連れてこい」とも。だからヴェイルは最低限の怪我の治療を受けて、再びここに駆けつけたのだ。
 ──本当にそうだったか? 今、ふと思い出した記憶に俺はやはり疑問を持つ。
 本当にそうだったのか?
 だがこれ以上考えている余裕はない。マテリアの容態は一刻を争う。
「ヴェイル! 医者だ! マテリアがやばい! 病院に急ぐぞ!」
「エルザリオン・ベルゼリオン両執行官は!?」
「知るか! 気付いたらいなくなってた! それより医者は!? こんだけいて一人も連れて来てないのか!?」
「来ています! そこの表通りに車を待たせてありますので、そこで!」
「よし! 案内しろ!」
 ヴェイルの背後にわらわらと群がっている自警団の連中を押し退けて、俺は店を飛び出した。後からヴェイルもついてくる。
 耳元にマテリアの息づかいを感じる。荒くはない。心細くなるほど弱々しい。命の灯火が消えようとしているような、危うさを感じる。マテリアが呼吸する都度、その生命力が空気に溶けて消えて行っているかのようだった。
 ふざけるな。誰が死なせるものか。アシュリーの時の二の舞は絶対にごめんだ。こんな事が二度と起きないように俺は他人に関係なく生きてきたっていうのに。
 死なせなどしない。絶対に。目が覚めたらこのバカ小娘に文句という文句を全て怒鳴りつけてやる。
 だから、
「死ぬなよ……!」
「あの車です!」
 俺の呟きと被さるようにヴェイルが叫んだ。奴の指差す先に、白く四角い自動車が見える。星の裏側にある大国ならともかく、この国で車なんて代物は庶民の目にほとんど触れることが無いほどの貴重品だ。『水晶機関』のコネなのだろうか。何にせよ大いに助かる。
 車に乗っていた奴が俺達の姿を確認して、後部のドアを開く。俺はろくに速度を落とさずに車の中へ飛び込んだ。すぐさま衝撃を与えないよう、丁寧にマテリアを後部座席へうつぶせにして寝かせる。それが終わると俺は運転席に向かって肺活量の限り叫んだ。
「重傷だ! 病院へ急いでくれ! 頼む!」
 この時は気付かなかった。
 ここまで切実に、他人に対して頼み事を口にしたことなど、生まれて初めてだったということに。


 不幸中の幸い、と言えばいいのか。
 マテリアの怪我の具合は、どうにか命を無くすには至らないようだった。医者の話によると、マテリアは常人と比べて随分と生命力が強靱らしい。あいつの目を見て、すぐに医者もマテリアが〈エクステンド〉だってことに気付いたんだろう。流石は〈エクステンド〉ですね、助かりますよ──と、医者はそう結んだ。ゴキブリかあいつは。そう思うが、内心ほっとしたのも事実だった。
 とは言え重傷は重傷だ。皮膚移植手術が行われることになり、長期の入院が必要だと診断された。また、ヴェイルの手配で近日中にも『水晶機関』から治療系のエーテルストライカーが来るらしい。とにかく、マテリアは助かることになった。星の巡りが良いとはこの事だった。
 これで一安心だ──と言いたいところだったが、そうではなかった。
 治療のためにお抱えのエーテルストライカーを派遣するぐらいなのだから、『水晶機関』はもうマテリアを『処分』する気をなくしたのだと思っていたのだが、そうではなかった。
 ヴェイルが受けた指示は次のようなものだったらしい。
〝マテリア・オールブライトが完治後、自らの意志で『水晶機関』へ戻ってくるのならば良し。そうでない場合は『処分』もやむなし〟
 つまり、ちゃんと戻る気があるなら許してやるが、その気がないなら絶対に殺せ──そういうことらしい。ヴェイルとしてはそれでも十分な寛恕と思えたんだろう。奴は一も二もなく了解したという。単純すぎるだろう、それは。
 大体、あのマテリアが大人しく連れ戻されるタマだろうか。俺としては絶対、死をものともせずに抵抗すると思うんだが。でもって、その際に俺が巻き込まれるのはおそらく間違いなく決定事項だ。今の内なら逃げることも出来るのだろうが、その気にはなれなかった。少なくとも、今の俺はマテリアに本物の借りが出来てしまった。これを返すまでは、元の他人には戻れない。不本意なこと甚だしいが。
 不安要素はまだある。ヴェイルの話によると、『水晶機関』の方でも現在エルザリオンとベルゼリオンとは連絡が途絶している状態らしい。つまり、あの双子はまだマテリアの命を狙っている、ということだ。
 何故あいつらがあの場から姿を消したのかはわからない。マテリアは重傷だったし、俺も何が原因か憶えていないが気絶していた。マテリアを殺す機会としては十分なものだったはずだ。
 それがどうしてトドメも刺さずにいなくなったのか?
 俺とマテリアが気を失った後、一体何が起こったんだろうか? そういえば見覚えのない大穴が壁に空いていたな。別の誰かがやって来たのか? とすると、あの場に出てくる可能性が一番高いのは、マテリア達〈エクステンド〉の捕獲や殺害を目的とした連中だな。それがエルザとベルゼの双子と鉢合わせして、何かが起こった。それにより、そいつらと双子はあの場から離れていった。そう考えれば、なるほど、納得は出来る。
 いや、待て。それはそれで、やはりマテリアを放置していったことの説明は付かないぞ。捕獲にせよ殺害にせよ、絶好のチャンスだったんだ。ああいった奴らがそれを見逃すとは考えられない。それとも、エルザとベルゼが自ら手を下すために、敢えてマテリアを守ったとでもいうのか。有り得ないな。少なくとも俺の記憶の中じゃ、あいつらは何の躊躇もなくハワードを殺しやがった。いや、殺そうとしやがった、か。どちらにせよ、とんでもないガキ共だった。
 考えても埒が明かないことに俺はジレンマを感じる。とにかく、今はマテリアを動かすことは出来ない。エルザとベルゼがここへ来た場合、どうすることも出来ないだろう。最悪、ヴェイルに『水晶機関』へ連絡を取ってもらって、奴らと同じ〈エクステンド〉の奴を警護に──
 アレス・フォルスター。
 刹那、稲光のようにその名前が俺の脳裏に閃いた。そうだ、奴がいた。あの少年なら双子とも互角以上に渡り合えるはずだ。あの時に見たエーテルの量は尋常じゃなかった。それにあの速度。下手をすると、逆に双子を瞬殺できたかもしれない。……いや、それはないか。だったらマテリアを放置していかないわな。
 やはり考えるだけ無駄だったか。
 俺は真っ暗になった病院のロビーで、椅子に座ったまま伸びをした。とにかく、今日は疲れた。この病院に来てからもう何時間経過したんだろうか。マテリアの手術はもうそろそろ終わる頃じゃないか?
 一度様子を見に行くか。
 そう思って立ち上がった時だった。俺は不意に背後に人の気配を感じて、振り返った。病院の出入り口に、なにやらぼんやりと白い人影が立っている。
「誰だ?」
 俺は反射的にそう声をかけた。何か妙な感じがしたのだ。あれは、少なくとも医者や看護師ではないだろう。並々ならない気配がひしひしと感じられる。
 幽霊のような人影が少しずつこちらへ近づいてきて、ようやく俺はその正体に気付いた。
「……アレス・フォルスターか?」
 噂をすればなんとやらだった。
 こちらへ近づいてきたのは、癖のある金髪と深い緑の瞳を持つ〈エクステンド〉の少年だった。
 アレスはこちらに向かって微笑みを作り、
「お久しぶり、と言ったところでしょうか。ゼテオさん、でしたね? 私としてはつい先程もあなたをお見かけしたばかりなんですが」
 妙な言い方をする。とすると、本当にあの喫茶店にやって来てエルザとベルゼを何とかしたのはこいつだったというのか? だがそれ以前に聞くことがある。
「それよりもお前、どうしたんだその格好は。傷だらけじゃねぇか」
 言葉通りだった。アレスの制服は至る所が破れ、赤い血に染まっていた。中には黒い焦げ痕もある。満身創痍。誰がどう見ても戦闘後の出で立ちだった。だと言うのにアレスは危なげもなく立っていた。まるで、こんな傷など痛くも痒くもない、と言うように。
 俺はさらにアレスの返答に先んじて、
「お前か? 喫茶店でエルザとベルゼを追い払ったのは」
 と質問をぶつけた。
 これに対してアレスは、ふっ、と血の滲む口の端を吊り上げる。
「気絶しているようにも見えましたが、起きていたんですか? それともただのカマ掛けですか?」
「ただのカマ掛けだ」
 俺は率直に応じた。取り繕ったところで意味はない。
「でしょうね。それよりマテリアさんは無事なんですか?」
 アレスは質問には答えないまま、逆に尋ねてきた。と思ったら、その右手が急に伸び上がり俺の胸ぐらを掴む。
「……何のつもりだ」
 俺はアレスを見据え、低く押し殺した声を絞り出した。理由が何であれ、いきなり胸ぐらを掴まれて好意的に対応することなど出来るか。
 アレスはなおも笑顔を崩さず、穏やかに言う。
「手込めにされたというのは冗談でしょうから気にしていませんでした。ですが、マテリアさんがあんな目にあってしまったのでは話が別です」
 ここでアレスの顔付きが激変した。柔和な笑顔から一変、突然柳眉を逆立て、奥歯で苦虫を噛みつぶしたかの如き形相で俺を睨みつける。
「あなた、本気で万死に値しますよ? 何をしていたんですか。大の男が一緒にいて、どうしてマテリアさんがあんな状態になるっていうんです? 本気でなかったとは言え、あの時、私を軽々とあしらったあなたでしょう? どうして守れなかったんですか!」
 人気のないロビーにアレスの怒声が響き渡った。余韻が反響を繰り返して廊下の奥へと消えていく。
 俺は即答出来なかった。アレスの言うことはもっともすぎた。何をどう考えていたにせよ、結果的にマテリアが重傷を負い、俺が無傷であるのはどうしようもない事実だ。
 もしここで「いや、俺としてはちゃんと庇ったつもりだっんだが、気付けばあいつの方が大怪我をしていて、何故か俺は無傷だった」などと言い訳めいたことを言ってみろ。すかさず目の前の〈エクステンド〉は俺を本気で蹴り飛ばすだろう。下手な言い訳は絶対にできない。
 思えば路地裏のあの時、こいつは俺にマテリアを任せたのかもしれない。よく考えれてみれば、こいつなら刻零騎士団を蹴散らした後でもすぐに俺たちに追いつくことが可能だったはずだ。だがこいつは敢えてそうしなかった。
 そうなのだ。こいつは俺よりも遙かに『マテリアに近しい存在』だった。同じ〈エクステンド〉として共に長く『水晶機関』で過ごしてきたのだ。あいつの望むことなんて十分理解していたことだろう。
 だから敢えて見逃した。そういうことだ。
 その結果がコレだ。『水晶機関』はマテリアの『処分』を決定し、エルザとベルゼを派遣した。彼女が選んだ人間ならば、とマテリアを託した男は思っていたよりも遙かに無能で、肝心な時には何の役にも立たなかった。そして〝フェアリーアイ〟の少女は一歩間違えれば死んでいたような重傷を負った。
 そりゃ怒るしかない。信頼を裏切った俺に対しても憤りがあるのだろうが、何よりそんな低脳を信じた自分自身に腹が立っているに違いなかった。
 怒りの眼差しを突き刺してくるアレスに、俺は答える言葉を持たなかった。
 ぶっちゃけて言おう。正直、俺自身はさほど罪悪感を感じてはいない。俺の境遇も考えて欲しい。元々から理不尽な話だったのだ。俺に無理矢理くっついてきたのはマテリアで、今回の件もあいつの関係者が引き起こしたものだ。客観的に見れば、むしろ巻き込まれたのは俺の方なのだ。そうだろう? そもそもあの双子は『水晶機関』の処分執行官だろうが。悪いのはあっちで、どう間違っても俺じゃない。
 気持ちはわかる。だが言っては悪いが、俺に対するアレスの怒りはただの八つ当たりだ。自分の上司に噛み付けないから、こいつにとってはより立場の弱い俺に対して牙を剥いているだけだ。
 だから俺はこう言った。
「俺を殴って気が済むなら殴れ。そうでないなら、離せ」
 この行為が八つ当たりでしかないことはアレスも自覚していたのだろう。
「くっ……」
 と苦々しく吐き捨て、俺の胸ぐらから手を離した。本来ならば俺に掴みかかる道理はないことを知りながら、それでもそうせずにはいられなかったのだろう。
 俺は襟元を正しながら、淡々と事実のみを述べた。
「マテリアなら手術中だ。命に別状はないらしいから安心しろ。ただ、しばらく入院することになりそうだ。それより、お前も手当を受けた方がいいんじゃないか?」
「結構です。自分で済ませましたので」
 落ち着いているように見えて、こいつも結局は子供だったということだろう。やけにこちらを突き放すような態度を取りやがる。まぁ、こちらとしても仲良くするつもりは毛頭ないがな。
「で、俺の質問に答えろ。エルザとベルゼはどうした? お前なんだろ? 喫茶店の壁に大穴開けたのは」
「ええ。本部であの二人が派遣されたと聞いて飛んできました。そこで間抜けにも気絶していたあなたとマテリアさんを確認した後、両執行官をあの場から遠ざけるために戦闘を行いました」
 間抜けにも気絶していた、とは言ってくれる。とはいえ紛れもない事実だ。弁解のしようもない。怒るのも大人げないので、俺はその部分を聞き流すことにした。
「ってことは、あの二人は死んだのか?」
 それならマテリアが完治するまで心配事はなくなるのだが。予想通り、アレスは残念そうに目を伏せると、首を横に振った。
「……いいえ。殺してはいません。すんでの所で逃げられました」
「嘘つけ。殺せなかっただけだろ」
「!?」
 俺の舌鋒にアレスは驚愕の表情を浮かべた。深緑の瞳を見張って、俺の顔を見つめる。男に見つめられても全然嬉しくないがな。
「お前な、路地裏の時もそうだったが基本的に殺気を感じないんだよ。マテリアから聞いたが、正義の味方に憧れてるんだってな? 目指してる所は確かに立派だがな、それじゃ何にも守れないだろうが」
「…………」
 アレスは俺から視線を逸らし、眉根を寄せて押し黙る。
 マテリアの話を総合するに、アレス・フォルスターという人間は「自分とは正反対の人」となるらしい。
 極端な例で言えば、マテリアは自分のために他人を犠牲にできる人間だ。つまり貴重な少数のために無価値な大多数を切り捨てる性格を持つ。実際、自分を殺しに来た連中の一人を躊躇いなく殺していたことから、これは間違いない。
 だが、アレスはそうではない。アレスは逆に、圧倒的多数のために少数を切り捨てる派だ。つまり、他人のために自分を殺して動く人間なのだ。そんな奴だからこそ、正義の味方などというまやかしに憧れるのだろう。
 俺にしてみれば、甘い、としか言いようがない。路地裏でのこともそうだ。今になって文句を言うぐらいならば、あの時、無理矢理にでもマテリアを連れて帰っていれば良かったのだ。それを妙な情けを出して自由にさせるからこのような事になる。アレスに全ての責任があるとは言わないが、一端を担っていることは自覚してもらいたいものだ。
 正義の味方だろうが何だろうが、好きなものを目指せばいい。俺はそう思う。だがそれ故のジレンマに陥って、始末しなければならないものを始末出来ず、結果的に被害を拡大させるような真似は愚劣の極みだろう。反吐が出る。
「ヴェイルの話によると、あのクソガキ共はお前のとこの本部でも連絡がつかないらしい。間違いなく、またマテリアの奴を狙いにやって来るぞ?」
「……それなりの手傷は与えました。三日ほどは万が一を考えて両執行官も動かないでしょう。それに、私はそのためにここに来たのです。私が、マテリアさんを守ります」
 むっすりとした顔でアレスは言った。おいおい、それが『笑う殺し屋』なんていう異名で呼ばれている奴のする顔か?
「そうかい。それじゃ頑張ってくれ」
 延々と子供の相手をするほど俺は物好きではない。そうやって適当に話を切り上げると、俺はマテリアが入っているであろう手術室へ向かうことにした。
 と、その時だ。廊下の角から片腕のないヴェイルが姿を現した。
「あ、ゼテオ兄さん。ここにいたんですね」
 こちらの姿を確認して歩み寄ってくる。近づくにつれて、傍のアレスに気付いたのだろう。顔面を蒼白にして、
「フォ、フォルスター保護回収官……!?」
 『水晶機関』という組織内における上下関係の色々があるのだろうが、俺には興味がない。
「ヴェイル、マテリアは?」
 自分の上司に向かって吐き出す言葉を考えているヴェイルに、不意打ちのように質問を喰らわせる。
「えっ? あ、はい、今ちょうど手術が終わったところで、無事に」
「そうか」
 短く答えてその横を通りすぎる。少し歩くと背中にヴェイルとアレスの会話が届いてくる。細かい内容はよく聞こえなかったが、ただアレスの声が俺と相対した時とは打って変わって、やけに笑顔なのが気にくわなかった。ほほうそうか、俺には愛想振りまく必要は全く感じなかったというわけか。嫌味なガキだ。
 手術室の前へ行くと、ちょうど中から医者が出てくるところだった。話を聞くと、背中への皮膚移植は無事に済んだという。あとは回復を待つだけだが、あのお嬢さんならそれも早いでしょう、とのことだった。
 俺は儀礼的に礼を言って、医者の前を辞した。どうせ今から病室に行っても、マテリアは全身麻酔を受けているから話も出来ないだろう。俺はナースステーションに向かって、仮眠室を借りることにした。一度自分の部屋へ戻ることも考えたが、どうにもアレスの言う「双子は三日は動かない」という話を信用する気にはなれなかったのだ。もし部屋でのうのうと寝ている内にマテリアが殺されては、俺もかなり夢見が悪い。それに、マテリアをここへ運び込む前に俺は俺に誓ったのだ。
 もう誰も俺のために死なせやしない、と。
 だから今回、マテリアには傷が完治するまでは何があろうと絶対に生き残ってもらう。そのためなら俺は無償でボディーガードでも何でもしてやろうではないか。
 何度でも思う。アシュリーの時の二の舞はごめんだ、と。
 敵対関係にある奴ならともかく、俺なんかを庇うために誰かが死ぬなんて事は間違っているのだ。特に、女子供がそんなことのために死ぬなんてことは、絶対にあってはならないことだ。
 別段、今回マテリアを守りきったところでアシュリーが生き返るわけでもない。だが、俺自身があの頃からちゃんと変わっているのだと、そういう証が欲しかった。
 そうすれば何かが救われるような気がした。
 思えば俺はアシュリーが死んだあの瞬間から、ずっとある種のジレンマに囚われているのかもしれない。
 俺には生きている価値があるのだろうか。俺には誰かを身代わりにしてまで生きる価値があるのだろうか。そんな価値など微塵もないのではないか。アシュリーの死は無駄ではなかったのか──と。
 考えたってもうどうにもならない。あれはしょうがなかったのだ。何度もそう繰り返した。
 あの時、俺に向かって「よかった」と言って死んでいったアシュリーは、何が良かったと思っていたんだろうか。
 俺自身に対して何かしらの価値を見いだしていたから、身を挺して守ったのだろうか。そして俺の無事な姿を見て「よかった」と言ったのだろうか。
 あれはただ反射的に身を差し出してしまっただけで、その後で俺が〈エクステンド〉だとわかったから「よかった」と思ったのだろうか。
 どれだけ考えようともう答えは出ず、悩めば悩むほど何もかもがわからなくなっていく。そんな泥沼に、俺は今でも浸かり続けているのだ。
 俺は何を求めているのか。俺はどう救われたいのか。
 未だ答えはわからない。







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