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[29581] あずさが通る!
Name: antipas group◆e7e7618c ID:f11eb473
Date: 2011/09/05 18:41
あらすじ

人間観察が趣味というヘンな女の子、倉下梓に巻き込まれていく人々の数奇なストーリー。九州の片田舎は熊本県を舞台にして、無意味に繰り広げられる心理話。人なら誰しも考える…心の中の深いところにある不思議なコト、哲学的なコト、小難しいコトを残さず解き明かせっ!!


この小説は「小説家になろう」にも投稿されています。



[29581] 人間観察 編 vol.01
Name: antipas group◆e7e7618c ID:5d6e17dd
Date: 2011/09/03 20:00
人間観察 編



 高川千佳はいつも僕を無邪気な目で見てこう言う。

「なぁなぁ、なんか面白い話してー」

「もうなにもネタがない。どれだけ話させりゃ気が済むんだよ」

「だって、緒山の話はいつも面白いんだもん」

彼女は僕が誕生日にあげたピンクのスヌーピーのキャップを振って、宙を見ながらそう言った。

「帽子ありがと。着こなしが難しそうだけど」

「おう。昔同じ帽子を被ってるいい女がいてな。たまたま同じなのが売ってあったから、買ってきたんだよ。そいつは上手く着こなしてたよ」

「…は?」

彼女は一瞬だけ不機嫌な顔を見せると、すぐにニンマリな笑顔を取り戻しこう言った。

「じゃあその女の話聞かせて」

しまった、と思いつつももうすでに諦めている自分がいる。

なんたってこの高川ときたら、一度自分が興味を示した話は、なんとしてでも聞こうとするからだ。溜息をつきながら、

「話長い上にオチもないし、第一つまらないぜ」

と言う。そんなことはお構いなしに、彼女が目をキラキラさせて、大きくウンウンと頷くのもいつものことだった。


 昔、僕がまだ浪人してた時の事だ。予備校はたいてい駅の近くにある。僕が通う予備校は放任主義だったので、みながマイペースで勉強する。当然、ほとんどの人は予備校に行かず、近くの駅とその周辺のお店やゲームセンター、ファーストフード店や本屋さん、駅周辺に置いてあるベンチなど…いくらでもある人が居付きそうな場所で遊ぶことになる。


 「あかんやん」

即座に高川が突っ込みを入れる。

「でもまぁそんなものなんだよ。帰ってから勉強するんだわ」

「予備校の意味ないやん」

「もちろんたまには行くけどね。そんでな…」


 四月。JR熊本駅は、田舎の駅とはいえ県庁所在地、人通りは多い。二浪目が決定した春、いつものようにバカメンバーが群がる。全員が予備校の初日の講義登録に来た人間だ。実はほぼ全員が、そこそこ頭がいい。しかし、医大や有名国立・有名私大狙いの人間は現役時や一浪目の時に受かった大学を馬鹿にして、もう一年頑張ればもっといい所にいけるはずだ…と考えて、もう一年勉強する選択肢を選ぶのだ。もちろん予備校周辺で遊ぶライフスタイルが居心地いいから…という理由が全く無いわけではない。今が面白い上に、未来にも希望が溢れているから、この選択肢が最良のものだと考えるのであった。

 僕が通っていた予備校は超大手だから、県内各地から人が来る。予備校において、そこには学年というものは無い。先輩も後輩も同じ授業を受けることになる。高校は別でも、小学校や中学校の時の同級生、高校の時に一度きり遊んだだけの余所の学校の人、話にだけは聞いていた友人の友人…など、本人も予想だにしていない出会いや再開も少なくない。

 四月も半ばを過ぎて、大学に受かって抜けていった二浪の代のメンバーを、新しく入った一浪の代のメンバーが補充し、グループが形成される。紹介に紹介を重ねて誰かの友人、誰かの知り合いという伝手があって、普段つるむグループが出来上がる。そうして少しずつ対人関係がこなれていくのである。

 彼女を初めて見たのはそんな時…春の時期だった。

 駅に隣接するゲームセンターの二階には大きな窓があり、そこから駅前すべてを展望できるのだが、最近いつも駅のど真ん前の植え込みを背にして座っている女の子がいる。しかも可愛い…ということがグループの中で話題になっていた。年のころは同じくらいで、可愛いだけでなく、ファッションが奇抜なので、とにかく目立つ。茶髪の「ち」の字もないほどの透き通るような黒髪で、全くクセのないストレート、長さはセミショート。目はとても大きく、口は小さい、背丈は百六十センチくらいで、細身で色白、胸はそれほど無かった。


 「お前は巨乳が好きなのか?」

「別にどっちでもいい。胸の大きさで女性を判断したりはしない」

高川はホッとした表情で胸を撫で下ろす。わかりやすい奴…。


 ファッションは毎日くるくると変わる。ほっそりしたジーンズ、綿パンの時もあれば、スカートは丈が長い時も短い時もある。同じ服を着てるのを見ることはないってくらい、服装は毎日変わる。奇抜でお洒落、とにかくルックスで目立っていた。


 「同じ服着てるの、見たことないってのはお前も同じだが…」

高川を見ながら言う。高川は、自慢げな表情をしてフフンと鼻を鳴らす。彼女も異常なほどの衣装持ちだった。しかし、高川とその女の違う点、それはその女の方がジャンル・バラエティに飛んでいるという点である。普通ファッションには、その人のセンスや好みが出るものだ。高川だと、一発でこういうファッションが好きなんだな、とわかる。服は変われども高川のセンスで統一されているからだ。しかし、その女の毎日の服装からは、ファッションセンスは感じられるものの、あまりにもジャンルが飛びすぎていて…なんというか、異常だった。

 そんな中でも、いつも身につけているものもあった。カバン…赤い皮のランドセルや黒い編み上げブーツがそうである。これらはさすがに毎日とは言わないが、かなり高い確率でいつも身につけていた。赤いランドセルといっても、もちろん小学生が持つようなものではなく、ちゃんと大人用にデザインされたブランド物だったのだが…今までの人生の中でも、その女以外が身につけているのを見たことがないほど…稀少奇抜であった。彼女は名前を知られるまで「赤いランドセルの女」と皆から呼ばれていた。このことからも誰の目から見てもランドセルが一際目立ったパーツであったことがわかる。

 しかし、面白いというか…解せないのはルックスだけではない。赤いランドセルの女は一日中、駅前の植え込みのそばにしゃがみこんで、駅前を通る大勢の人々を見ている。じっと見ているのだった。誰かを待っている様子でもなければ、誰かを探している様子でもない。ただ見てるだけである。その姿をゲームセンターの二階から見ている僕らは、まったくもって何をしているのか予測することもできず、

「あのコは一体毎日毎日何をしてるんだろう?」

「なんであんなにコロコロ服装を変えるんだろう?」

「でも本当に可愛いなぁ、名前はなんだろう?」

・・などと、いろんな意味で注目の的になった。


 ゴールデンウィークも過ぎた五月の半ばあたり、いつも通り、好きな講義に顔を出したあとは、たまにはいいかと自習室に行き、そこそこの時間勉強した。退室して廊下に行って、連絡事項や成績上位者が張り出される掲示板を、何の気もなしに見てると…自習室で一緒になって連れ立っていた平沼君という一浪のメンバーがこう言った。

「こいつらは一日どれくらい勉強してるんだろうな…。家森君も入ってるわ。彼…全然勉強してないのに」

 笑いながら、少々嫌味ったらしくそう言う。家森君というのは、二浪メンバーとして予備校に在籍しているのに、ほとんど講義にも、その周辺の溜まり場にも顔を出さず、普段何をしているのかわからないという…メンバーの中でもなかなかレアな人だった。ラ・サール高校という国内でも上から数えて何番目という、超成績優秀進学校の落ちこぼれであった彼は、医学部狙いのため、少々成績上位者リストに貼り出される位では志望大学には受からない。

「腐ってもラ・サールだよな。高校で落ちこぼれて毎日遊び呆けててもセンターで七百取ってくるからなぁ…」

 あまり意味のない会話だな、と思って予備校を出ようと階段の方を向く。…目を疑う光景がそこにあった。赤いランドセルの女が、予備校の廊下を歩いてこっちに向かってくるのだった。




[29581] 人間観察 編 vol.02
Name: antipas group◆e7e7618c ID:d4e3b06c
Date: 2011/09/04 18:30
 本日の服装は、真っ白でフリフリが付いた少々ゴシックな感じのシャツに、黒いヴィジュアル系アーティストのようなロングスカート、黒の編み上げブーツと赤いランドセルはデフォルトのままで、今日はゴスロリ風の服装だろうか。まるで人形のようだった。漆黒でまっすぐのストレートの髪も合わせて様になっている。一瞬戸惑いながらも…話しかけるわけにもいかず、擦れ違うしかないと思った瞬間、また一つ驚くことが起きた。

「倉下じゃん。久しぶり、元気!??」

平沼君が、普通に赤いランドセルの女に話しかけるのである。あれあれ?と軽く動転しつつも平静を装い、その場に第三者としていようとすると、彼女は僕をチラッ見たあと、平沼君の言葉に、

「元気元気!沼ちゃんも元気そうじゃん!また一緒だね!あ、その髪型かっこいいねー」

と、かなりテンション高めの大声で返答した。

 植え込みのそばでしゃがんで、…どちらかというと暗めの表情で、そこを行く人を見続ける彼女からは、まるで想像できない言動だった。しかし、彼女が浪人生で同じ予備校生だったとは…まったく知らなかった。灯台下暗しとはよく言ったもんだ。全然予想できなかったなぁ…などと考えていると、

「最近どう?」

とか、

「ちゃんと勉強してる?」

とか、

「高校の時の友達と会ってる?」

など、差し障りのない会話を済ませた彼女は、平沼君にこう言った。

「この人、新しいお友達?早く紹介してよ」

赤いランドセルの女は、こっちを見てニコニコしながら、まだかまだかという感じで、頭を左右に小刻みに揺らしている。

「おぅおぅ、紹介するよ。こっちは緒山先輩。三巻先輩を通して予備校で知り合ったんだ。緒山君、こっちは倉下、高校の時の同級生で俺と同じ一浪」

「倉下梓です。よろしく」

と右手を差し出す。

イメージの違いからか、展開の早さからか、少々戸惑いながらも、

「よろしく」

と言うと、彼女は、笑ったまま、

「握手わぁ~~?」

と言い、こちらの手をつかんでブンブンと上下に振った。さらに戸惑いながらも…、

「はは、面白い人だ」

と笑って、なんとかコメントすると、彼女は、

「そうでしょう!わたし面白いの」

と、ニコニコしながら、

「面白い人だけど、今日は勉強すんの!二人ともまたね!」

と言って、自習室のほうへ歩いていった。

「変な女でしょ?」

笑いながら平沼君が言った。

「だなぁ、同級生だっけ?」

と、少々興味があったし、もう少し彼女の情報が欲しいと思った僕は、平沼君に話をさせようとさりげなく話題を振る。

「うん、中学も一緒。高校なんて三年間同じクラスだった。物怖じしないっていうか、男になら誰に対してもあんな感じで親しくしてさ、まったく人見知りなく話しかけるんだよね。でも女子からは…女子とはほとんど話しないからすげー嫌われてたわ。ま、でも当の本人はそんなの気にもしてないって感じだったけど」

「へぇ、ファッションは奇抜だけど可愛いじゃん。そんであの人なつっこい性格だったら、モテるでしょ?」

「中学や高校の時は制服しか見たことなかったから知らなかったけど…あいつ、ファッションもイってるねぇ…ていうか、緒山君ひょっとして惚れた?」

笑いながら彼はそう言う。そして、

「でもあの娘はやめといた方がいいよー、趣味もやばいからねぇ」

と続けた。

「別に惚れてはいないけど、趣味がやばいって??」

「そう、人間観察」

「ん??」

「だから趣味が人間観察」

「??…人間観察ってなに?」

「言葉そのまんまだよ。人を観察して、その人が何考えているかとかを予想して楽しむんだってさ。俺には全然理解できないんだけど、本人曰く最高に楽しいらしいよ」

「…なんだそれ。初めて聞いた」

「だしょ。だから変わった女だって言ってるじゃん」

 …そうか、じゃあ朝から夕方まで、駅前の植え込みにいたのはそのためだったのか。確かにここ、JR熊本駅は県内で最も多種多様な人々が行き交う場所のうちの一つだと言える。JR熊本駅は電車の乗り場だけではない。バスやタクシー、路面電車の乗り場も隣接している交通機関のターミナルだ。老若男女問わず、地元の人も外の人も、学生も社会人も、日本人も外国人も、みんなが利用して、様々な人がごった返す。人を観察するのならうってつけの場所だな、と思った。

「人間観察ねぇ…」


「なにそれ。この話、昔のあんたの女の自慢話になるわけ?人間観察とか意味わからん」

高川は一気に不機嫌な様相になり、そっぽを向きながらブツブツと言う。どこにも自慢はないでしょうが。と思いつつも、一応断りを入れる。

「結末その一、僕と梓は付き合ってない。付き合ってないどころか、デートすら一度もしてない」

「結末その二、梓とは何年も連絡を取ってない。今後会うこともないだろう」

こうして、結末を部分的にバラしておくと、人は最後まで話を聞きたがるものだ。僕に何かしらの好意を抱いていることから出るのだろう、高川の嫉妬の気持ちも、今は梓とは何の関係もないという安心感で抑えられる。高川は気持ちがすぐに表情や態度に出る。無邪気でとてもわかりやすい。案の定、

「ま、聞くまでもなくわかってたけど。あんたがそんなにモテるわけないもんね」

と、セリフとは正反対に、ホッと安心した表情になる。

「まぁそんな話だよ。その女…梓がその帽子を被ってたのさ」

「うえぇ~~そんな気持ち悪い女が付けてた変な帽子なんていりませんーー」

などと、憎まれ口を叩きながらも帽子を手放す様子は無い。本当にわかりやすい。梓とは正反対だ。…これで話を切り上げて帰りたいと思ったのだが。

「はよ続き話せ」

「……」

やはりこうなる。これもいつものことだ。


 梓は、僕や平沼君を通して、僕らがよくつるんでいるグループに仲間入りした。平沼君の言ったとおり、彼女は誰に対しても物怖じすることなく、積極的に親し気に話しかける。それに対する対応は人それぞれだが、趣味が人間観察だと言われると、その反応を見て楽しんでいるように見えなくもない。彼女はとてもアクティブに、気持ちを表情や態度に表しているように見える。そして、それに誰もが好意を抱いた。

 身につける服は奇抜で、行動はテンションが高くて、たまに意味不明。総合すると変な女だが、話をしていて面白いし、一緒にいて楽しい。

 あっけらかんとしてて、素直でいい奴で可愛い…というのが大方の人が持つ彼女の印象だった。

 彼女は誰にでも親しく話しかけ、本当に星の数ほどの男友達ができたが、その中の誰とも男女の付き合いはしていないし、親友と言えるほど深い話をした人もいない。かといって、上辺だけの付き合いだけというわけではなく、人といる時は本当に楽しそうに話して遊んでいるのだった。

 そうして一、二か月も経つと、彼女に付き合ってくれと告白した友人が数人出てきたが、彼女はいつも…、



[29581] 人間観察 編 vol.03
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/05 18:31
「あー、本当にごめん…あなたのことは好き。でも私…特定の人と男女のお付き合いはしないって決めてるの。それって…言えば、みんなが友人で恋人みたいなもの。とても変な考え方かもしれないけど、今の付き合いで満足して欲しいんだ。本当にごめんね…」

といった感じで、薄っすら涙を浮かべながら申し訳なさそうに謝る。

 いつものハイテンションな彼女からは想像できない表情とセリフを前にして、男には今の関係を壊したくはない、いつも天真爛漫にしている梓を泣かせたくない、という感情が生まれ、

「わかった。じゃあこれからも仲の良い友達でいよう。でも俺はいつまでも待ってるから…もし気が変わったら…」

といった風の台詞を残して、今まで通りの関係に戻るのである。

 何度かこういった話が噂として聞こえてきた。平沼君が彼女のことを色々と知っていたのは、ただ単に中学高校の六年間を一緒に過ごしたせいであり、特別に親しかったからではない。いわば僕らと同じレベルの付き合いだったのだが、知り合ってからの時が膨大だったことにより、彼女のいろんな面を見てきたせいである。

 僕らとつるむ時間も増えたが、駅前の植え込みのそばでしゃがんで人を見続けるという、彼女の特異な行動も以前と同じく行われていた。昔は一日中ずっとだったが、今でも毎日三時間以上はそうしている。これに対して、

「お前、なにやってんだ?」

と、駅前を通りかかった友人が話しかけると、彼女は決まって、

「人を見てるの!人を見るのっておもしろいんだよ。一緒にどう??」

と言うが、ご一緒すると、特に話もせずに本当にずっと人を見続けているだけなので、退屈さとその場の雰囲気に耐えられず、皆退散するのだった。従って駅前の植え込みにいる時はいつも彼女一人である。

 時が経つにつれて、僕は彼女に惹かれるようになった。男女としての付き合いが三割くらい、残りの七割は、なぜ彼女はこんなに変わってるんだ?なぜ毎日ファッションをくるくる変える?人間観察ってなんだ?その意味は?その目的は?といった、彼女に対する知的好奇心だった。


 先に結末を言ってしまったせいもあって、高川は大人しく話を聞いている。彼女ですら、梓の言動の意味が気になるらしい。


 梓のことを深く知るなら…当然、植え込みにいる時に話しかけたり、その様を観察するのが一番効率がいいだろう。二人っきりになれて、なにか話も聞けるかもしれない。

 夏期講習も始まり、まともな受験生ならそろそろ遊ぶのを止めて集中しないとやばくなるという時期のある日、ゲームセンターの二階の大窓から、植え込みのそばに彼女がいるのを確認して…彼女のところへ行った。

 今日の彼女の服装は、真っ白のワンピースにピンクの木製のサンダルと、これまた真っ白くて大きなつばの帽子、その帽子にはピンクの長いリボンが結んであり、余った端は風に揺れてヒラヒラしている。赤いランドセルはデフォのまま、毎日数時間も外に出ているためか、肌は少々日焼けしていた。彼女は僕を見るなり、

「あっぢぃ~~今日やばいねー、地面がじりじりしてるよ」

と、眉間にしわを寄せ舌を出して、手のひらで顔を仰ぎながら、ワンピースの胸元をパタパタさせている。僕は、

(丁度いいな、打ってつけだ…)

と思って、

「暑い。超暑い。ていうか、こんなにクソ暑いのにお前は外で何やってんだよ?自習室でも行こうぜ。涼しいし」

と、さりげなく彼女の目的を聞いてみる。回答はもちろんデフォルト通り。

「人を見てるんだよ。私、人を見るのが好きなの。自習室じゃなくてここにいない?暑いけど。滅茶苦茶」

と、本当に暑い暑いという表情でこっちを見る。…別にここで深く聞くのも変じゃないだろう。

「なんで人を見るのが好きなんだ?こんな暑い中で…何時間もやることじゃねーだろ」

彼女はうっすら微笑むと、

「人を見て考えるのが好きなの。面白くない?色んな人がいるんだよ。ここには!」

と言った。

「どこでも色んな人はいるよ。…でも、そんなに面白いなら僕も人を見てみようかな」

僕は彼女のことを知るため…、このクソ暑い世界の下、彼女と一緒に人を見ることにした。

「へっへ~~、きっとハマるよ~!」

彼女は「やった!」という表情で、植え込みのそばにしゃがみこむ。僕はすぐそばのコンクリの花壇の淵に腰掛けた。ちょうど右斜め上から、しゃがんだ彼女を見下ろす形になる。人を見出した彼女は、ほとんど話さない。こちらからの問いかけにもそっけなく答えるだけで、他の友人たちがこうしている彼女を放っておくのも無理もないと思った。

 数日間同じようなことを繰り返したが、そのうち彼女がいない間でもそこにいる機会を作り、彼女が何をしているのか、何が面白いのかを理解するため、彼女と同じく行き交う人を見続けた。そうしてると遠くから彼女がやってくる。

 今日の彼女の服装は、胸にantipas groupと書かれた白地のロックTシャツに、ベルボトムジーンズ、テンガロンハット…という相変わらず滅多に見ないような格好だ。両腕や首にはかなりの量のアクセサリが付いていて、動くたびにジャラジャラと音を立てている。もちろん黒い編み上げブーツと赤いランドセルはデフォルトのままだ。

「んん??緒山君、何やってるの??こんなに暑いのに」

彼女は微笑みながらそう言う。

「人を見てるんだよ。…人を見るのは楽しいんだ。良かったら一緒にどう?」

と笑いながら言うと、

「えー、どうしようかなぁ??なんか退屈そう………だからご一緒する!」

と、ニコニコしながら植え込みのそばにしゃがみこんだ。腰の辺りにもついている大量のアクセサリがジャラジャラと地面に当たる。


 それからさらに数日後を境目に、彼女との間にいくつか会話が出てくるようになった。

 今日の彼女は、真っ黒いタンクトップにいつもの赤いランドセルと編み上げブーツ、ブラックジーンズに、先日同様ブレスレットやネックレスを大量に付けたファッションで、まるで八十年代のロッカーか、バイク乗りという服装だ。

「ほら、あの人見て。あのおじさんスーツでしょ。昼にスーツで駅を歩いてるってことは…当然仕事中でしょ。旅行カバン持ってる…多分出張中ね。だから熊本の人じゃない。スーツはちょっと汚れてるし、ネクタイも少し曲がってるから、何泊かして帰るところかな。大荷物だったら送るだろうし…送らずに荷物を持ってるってことは二、三泊くらいかなぁ。指輪してるから結婚はしてるよね。こんな時間から帰るってことは、だいぶ遠方の人だと思うわ。飛行機使わないんだから、遠くても関東くらいね。暑さのせいかもしれないけど、不機嫌な感じ…。とぼとぼ歩いてるし、出張の成果はあまりなかったのかな。それとも家庭の問題かな?あのくらいの年代の人って大変そう。怪訝な評定して歩いてる人がほとんどなの。ちょっと早足なのは、電車に乗る為かなぁ?ちょうど特急が来る頃だし、そうだったら…やっぱり熊本の人じゃないなぁ」

そう言って、矢継ぎ早に続ける。俗に言うマシンガントークだ。

「人って言うのはね、心を外に映し出すものなの。そこにいるだけで心の情報を外に振りまいているわ。私はそれを汲み取って推測するのが好きなの。そこにいるだけでもたくさんの情報を振りまいてるんだから、面と向かって喋ったりしたらもう大変!ボロボロと自分の心をこぼしちゃう。当然、その人が知って欲しいと思ってれば、いっぱいいっぱい見えてくる。でも、逆に隠そうとすれば隠そうとするほどこぼれちゃうんだ」

「…じゃあ、どうすれば隠せるんだ?自分の気持ち」

「本気にならなければいい。人は本気になればなるほど、心の情報を外に振りまく。本気で嘘をつけばつくほど、その人の心情が見える。本気で行動すればするほど、外から心が見えやすくなるものだわ。当たり前だけど、九十九パーセントの人が普段から本気で生きているわ。どうでもいい事をしてる時、自分を偽る?偽らないでしょ?人は普段から正直にしているもの、本気で生きているものなの。都合が悪くなったり、自分が他人に心の情報を渡したくないと思ったときに嘘をつく。でも逆にそういう時こそ、危険を回避するために本気で必死になって嘘をついてるんだから、とてもわかりやすいんだ」

彼女は別にこちらを見ることもなく、しゃがんで背を向けたまま淡々と話す。

「本気でなかったらわかりにくい。例えば、薬やお酒で酔っ払ってる人は見えないわ。それが本気か嘘か、私にはわからない。お酒のせいで本音が出たのかもしれないし、酔った勢いで心にもないことを言ってるかもしれないしね。心に障害がある人や、認知症のお年寄りの人とかのことも見えないんだ。普通に一緒にお話してるようなんだけど…見えないんだ…。もちろん、わかる時もあるんだけど…。あ、じゃあ…」

彼女は台詞を中断すると、ほどよく遠くを歩く少年を控えめに指差して言った。

「じゃあ、あの子はどう見る?日焼けしてラケット背負ってるから、バトミントンでなくテニスよね。ジャージに熊本高校て書いてあるから、現役高校生でテニス部ね。夏休みだし、制服じゃないし、試合かなんかあるのかなぁ?でも一人で行って試合ってのはあまりないよね。ジャージ少し汚れてる…お昼だけど、もう帰るところかなぁ。家はどこだろう?学校を経由したとは限らないわ。熊本駅を利用するってことは、よほど遠いのね。ご苦労様だわ。表情が怪訝なのは暑さと疲れのせいねきっと」

予想、予測、推測、推理、空想、憶測、妄想…そう分類できるであろうことを、彼女はしゃべり続ける。彼女はその少年を五、六秒ほど見ただけだ。

「そうかもしれないけど…ほとんどが確認不可能じゃないか」

「そんなことないわよ~」

言うと、彼女はバッと立ち上がった。

「ね!ついてきて!早く!」

「???」

僕が戸惑って、

(なんだなんだ一体??)

と、思ってる隙に彼女は走り出す。かと思うと、五メーターほど先で急に立ち止まる。

「どうした?」

追いついて、彼女に話しかけると、彼女は額を押さえて、

「あ~やばい、立ち眩み…。ふふ…視界が真っ白だわ。倒れたら後よろしく!」

「なんだそりゃ、大丈夫か??」

「うー、意識が…」

と呟いて…十秒くらいたつや否や、

「戻った!!」

と言って走り出す。アクセサリがジャラジャラと音を立てる。駅の階段を翔け登って、駅構内の二階まで走る。それを遠く目にしながら、

「まったくもって変な女だ」

そう呟くと、僕も急いで彼女の後を追った。




[29581] 人間観察 編 vol.04
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/06 13:50
 二階に上がると、彼女は誰かと揉めているように見えた。ビュンビュン走っていたためエスカレーターを上がってきた人と衝突したらしい。小走りでそこまで行く。よく見るとぶつかった相手は、テニスラケットを背負った…先ほど見ていた少年だった。

「本当にごめんね、お姉さん急いでて…前見てなかったの」

少年は逆に申し訳なさそうに

「いえ、こちらこそぶつかってすいません」

と謝っている。

「あぁぁ、バトミントン?のラケット…かな?大丈夫?傷付いてない?」

「あ、テニスです。ぶつけてもないし、大丈夫だと思います」

わざと間違い、訂正させて回答させる。…上手いと思った。

「大丈夫だったらいいんだ、私もテニスやったことあるんだよ。難しいよねぇ。今日は試合かなんか?」

 彼女は少年とは目を合わせないで、自分の服装を直すような動作をしながら言う。とりあえずは自分の服装のことの方が大切だけども、自分のせいでぶつかったので、相手に気を使って相手に関する話題を振るという素振りをする。沈黙していては場が気まずくなるから、なにかしら喋らなくてはと思い、とっさにテニスの話題を振ったという感情を、焦った様子とともに表情に出しながら。……上手いと思った。

「いや、別に…ただの練習だったんすけど、ちょっと体調が優れなかったんで、早く帰らせてもらったんです」

「そっか、そんな時に…不注意でごめんね。家はどこ?近くだったらバイクで送るけど…」

バイクとか乗れるんかコイツ??と、心の中で呟きながらも、その服装と合わせてなんら違和感のない言葉である。家の大体の場所もわかるうえに、自然な流れでの質問だ。…上手いと思った。少年は彼女の言葉を遮って、

「いや、ちょっと当たっただけですし、平気です。家は八代で…少し距離あるんで…電車で帰ります。なんか気を使っていただいて…わざわざすみません」

「そっか、八代じゃ少し遠いかな。ごめんね、気をつけて帰ってね」

少年は一礼して、バッグから定期入れを出すと、改札の方へ小走りで去っていった。

「今のは結構当たりの方かな」

「…私の見方」

僕はただ…普通に感心して返答する。

「いや、たいしたもんだ。見方も聞き出し方も…なんというか自然だったし…ていうか、驚いた」

彼女は人差し指を立てて、得意げに話を始める。

「そんなに勢いよく当たったわけでもないのに、よろけて…その瞬間は怒った顔したの。だから体調が悪くて不機嫌だってのは本当だと見るわ。私がすぐに謝ったから、怒りも消えちゃったって感じ。もともと礼儀正しい子だと思う。家が八代で熊高てことは、かなりの高成績よ。それでいてスポーツまでやってるんだから、いいところのお家だと思うわ。擦れた感じもなかったし、言葉使いもしっかりしてるし、いわゆる優等生タイプね。それだけにプレッシャーもあるように感じたけど、疲れはそのせいもあるのかな。ラケットの可愛らしい感じのキーホルダー見た?バッグに付いてた…。あれってどうみてもプレゼントよねぇ。たぶん彼女さんか、彼を好きな女の子に貰ったんだと思うわ…。で、それバッグに付けてるってことは満更でもないってことよね!?新しかったし、青春真っ只中って感じ?」

彼女はそう言って、キャーと照れ笑いしながら頬を両手で押さえる。

「緒山君はどう見た?」

僕はただ呆けて傍観していただけで、何も見えていない。何もわからない。

「ていうかお前…、バイク乗れんの?」

彼女は僕の問いに答えず、とぼとぼと歩いて、下りのエスカレーターに乗った。下に着いて誰にと言うわけでもなく、ボソリと呟いた。

「わたしって……自転車も乗れないのよね」

そのままいつもの植え込みまで歩く、二人とも定位置に戻った。彼女の右上から言う。

「…練習しろ」


 数週間の間、彼女と似たようなことを繰り返した。彼女はたまに自分の見方が気になる人がいると、おじさんであろうが、お姉さんであろうが、子供であろうが構わずに、道を尋ねる振りをしたり、切符の値段を尋ねたり、いきなり目の前で倒れたり、知り合いと間違えた振りをしたり…、時には何の理由もなしに、唐突に話しかけたりもした。そうして自分の見方を確かめていたのだろうか。僕はただそれを見守るという感じの毎日が続いた。


 夏も終わりに差し掛かろうとしたある日、グループの中でも一際目立つ、プロレスラーのような体格を持つ九綱君に話しかけられた。なんでも彼は、進学校卒業ではあるが、ずいぶんと名の通った不良グループに属してたらしい。彼は僕に、

「緒山さんは、梓と付き合ってるんすかね?よく一緒にいますけど」

僕は笑いながら即座に返答する。もちろん彼も梓と面識はある。

「いやいや、付き合ってないし、そんな話もしたことない。ただ仲が良くてつるんでるだけなんだわ。本当に全然そんな関係じゃないよ」

僕がそう答えると、彼は改まって言う。

「いや、自分、梓にちょっと気があるんすけど、先輩と付き合ってるとかあったらアレなんで、一応話くらいはしとこうと思って確認しただけなんすよ。すんません」

不良というのは礼儀正しい。なにかと自分の考える筋を通して、物事にけじめをつける。彼が一浪目で年下で良かった、と思いつつ、

「梓と僕は…みんなと同じでただの友達だし、何も気にすることはないよ。なんて言えばいいのかわからないけど…、頑張ってね」

と、内心ビビってるのを悟られないようにしつつも、優しく相手の神経を逆撫でしない、かつ年上の立場を保てるであろう言葉をかける。

 心の中で思う。梓に恋すると大変だ…。今まで何人か…彼女に恋をした人を見てきたけど、つきあうことは不可能なんだ。彼女は誰に対しても、二人きりで遊ぶことやデートのお誘いにOKはくれる。とてもすんなりと。でも恋人関係やHは決して許さない。それは九綱君も僕も例外じゃない。今まで何人もの男が、同じ運命を辿ったことか。

東大合格間違いないという超成績優秀者も、バスケだかバレーだかで全国に名を馳せたようなスポーツマンも、流れるようにギターが弾けてインディーズデビューするから受験はやめるというバンドマンも、ものすごい男前な上に喧嘩が強いらしい元不良も…みんなダメだったという噂を聞いた。皆が皆、彼女との関係を、親友や恋人というレベルまで持っていくことは出来なかったそうだ。

「僕はどうだろう…?」

九綱君にはああいったものの、まったく恋心がないかというと、そうではない。日々二人で人を見ては話をすることを積み重ねた今、以前抱いていた彼女への思いは、恋心と知的好奇心が五分五分か、恋心が若干強いというものになっていることに気付いた。

「僕が告白したら…付き合ってくれたりするのだろうか。…そりゃ、デートくらいは受けてくれるだろう。デートは誰とでもしてるみたいだし」

九綱君と話をした日から、こうした思いが日に日に強くなっていった。


 …それから数日後くらいかな。その日、梓は透けるように白いシャツに、黒いネクタイ、黒いキュロット、頭にはシルクハットという出で立ちで現れた。もちろん編み上げブーツと赤いランドセルはデフォルトのままである。駅前の植え込み近くの定位置に、僕ら二人でいるのもいつも通り…。彼女は人を見ている。僕は彼女をデートに誘ってみようかと、ここ数日の間ずっと考えていて…言い出せてなかった。今もそのことばかり考えている。…しかし、今日は違った。人間誰しもなんか調子がいい日や、すんなりとしゃべれる日というものがあるものだ。僕にとっては、今日がちょうどそんな日だった。

 何の前置きもせずに、本当に唐突に、僕はいつもの定位置、彼女の右上…コンクリの花壇の淵に座ったままで、彼女に話しかけた。



[29581] 人間観察 編 vol.05
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/07 16:13
「ね……」

「うん、いいよ。いつにしようか?」

 彼女は、僕がしゃべり出した瞬間、本当に第一声を発した瞬間、こちらを振り向きもせずにこう言った。これは今でもはっきりと覚えている。僕は、

「ねぇ、梓、よかったら今度どこか遊びに行かない?…普段、土曜日とかは暇?」

と言うはずだった。が、それは遮られた。しかし、会話そのものは成立している。彼女は僕の問い掛けに返答している。まだこの世には存在していない、僕の心の中にだけある問い掛けに、彼女は返答した。面食らって、色んな考えと感情が頭を過ぎった。

(…そうか、彼女は駅前を通る人だけを見ていたわけじゃない…。僕も平沼君も、九綱君も他のグループの皆も…すべて見られていたんだ。…なんでこんな簡単なことに気付かなかったのだろう…。人の歩く様のみだけでも、その人の心情まで推理してしまう彼女だ…。これだけ一緒にいて、言葉も幾度となく交わした僕のことなど、完全にお見通しというわけだ。…ていうか、大体僕は彼女を見ていない。彼女を見てはいたが…彼女を見れてなかった。彼女の心の中は、何一つわかっていない……。っていうか、まずはこの場を収拾しなければ……)

焦っていたのは覚えているが…気が動転したのか、負けん気を起こしたのか、それは覚えていない。ハッと我に返り、彼女を認めまいとして、不思議な表情を作って…状況すべてを否定すべく返答をする。

「…ん?どうした?何を言ってる??」

「私、土曜日は空いてるよ」

彼女はまるでお構いなしといった感じで話を進める。…こいつ、曜日まで当ててきやがった。僕はさらにそれを否定する。

「土曜日?いったい何の話??僕はただ、そこを歩いているお婆さんの見方を…梓に尋ねたかっただけなんだけど…」

彼女はここで初めて、僕の方をを振り返った。その表情はいつも通り。薄っすらと笑って、首を傾げてこっちを見ている。

「なんだ~~!もう!私…全然間違っちゃった。あーもう!」

「な、何と勘違いしたんだ一体??」

 僕は冷や汗をかきながらも、できるだけ平静を装って、何事もなかった振りをした。しかし、そうしつつもたくさんのことを考えて、だんだん恐ろしくなってきた。人は基本的に、心の中を覗かれるのを嫌う。誰しも人に秘密にしておきたいことはあるし、知ってほしくないことがある。彼女と親しくなってしまえば、それはすべて見抜かれてしまう。…そう、すべてがだ。彼女は、

「私、てっきり緒山君が…えーと、その…、ほら…」

と、言いにくそうに・・もじもじしている。

 僕はこれだけ長い間彼女を見てきて、この時初めて彼女を見た。初めて本気で…彼女を推理した。こっちの行動と思いはすべてバレた。いや、すべてバレていた。それでいて彼女もこの場を収拾しようと動いている。僕が誤魔化したのを見抜いた上で…それに合わせてくれている…と、そう感じた。そう、彼女の今の台詞と態度は、この場を収拾させるための演技だ、…でも、もうこの演技に乗るしかない。…ていうか、今の僕が思っているこの思考からしてバレている。現在進行形で、僕は彼女に見られている。

(なんてこった…)

彼女は自分の感情を容易に隠すことが出来るし、僕は彼女ほど彼女を見ることが出来ない。逆に僕は感情を隠す術に長けていないうえに、彼女は僕を容易に見透かすことができる。現在進行形でこちらの考えが漏れている。…イヤだ。非常にイヤな気分だ。

「そういう時は、帰って休むといいよ…」

彼女は優しい表情と口調でそう言った。…冷や汗があふれる。

「なんか体調が悪そうに見えるよ、緒山君…」

僕はこれ以上何もしゃべれない…喋れば喋るほどボロが出て…見透かされる…。途端に恐ろしくなり、この場にいればいるほど、事態は悪くなり続けると考え、僕はろくに返答もせずにその場を立ち去った。…恋心などすべて塵のように一気に吹き飛んで…、あとには彼女を恐れる心と、彼女に負かされた、彼女に見透かされた…という気持ちが残った。
 そして、それ以来、彼女とは疎遠になった。


 「へ~~、不気味な女ね。不思議でもあるけど」

高川は、

「やっ」

と、買ったジュースを僕に放り投げる。

「いやー、生きてきてさー、あれほどなんと言うか…自分が考えてることを言い当てられたのは、後にも先にもないよ、ホント」

「人間観察恐るべしやな。ていうか、この帽子、気味が悪くなってきたんだけど!」

語尾を上げて、否定的に話すわりには付き返す素振りもない。

「まぁ、確かに…冒頭から言っている通り、変な女なんだわ。でも梓のファッションセンスは皆が認めたもんだし、その帽子は梓にも負けないファッションセンスの持ち主の高川さんにしか~、プレゼントできないね。ほんと、ある意味すごい賞賛の品だわ、それ」

彼女はデレデレして、

「えへへー」

という表情を満面に浮かべて、僕から目を逸らす。ホントわかりやすいなこの娘は…。梓と違って。

「まぁでもぶっちゃけ、千佳ちゃんの方が若いし、可愛いし、全然イケてるんだけどね」

これだけわざとらしい台詞でも、彼女は真っ赤になって照れながら上機嫌になる。

「あーもう、あんまりこっち見んといて。うざいからもうー!!」

彼女は恥ずかしさと照れのあまり、両手で顔を覆っているが、顔がニヤつきまくってるのがわかる。そうして顔をもっと赤くして指で前髪をくるくるといじっている。心と顔と動作がリンクしてやがる。…まぁ、普通は誰でもそうか。

「で、オチは?」

ジュースを飲み干して、彼女はそう言った。

「いや、だからこの話オチはないよ」

「じゃあ続き話せ」

「…はい」


 もう秋も半ばに差し掛かったかなという日、僕は平沼君と駅前を歩いていた。

「そう言えば…、九綱君、倉下に告白して振られたそうだぜ」

平沼君が言う。

「マジで?…あ、そういやあの人に相談っていうかさ。梓と付き合ってるのか?とか聞かれたことがあったよ」

「あれ、緒山、付き合ってた?」

「いや、全然。ただつるんでただけだよ。…あいつ、変わってるよなぁ」

平沼君は大笑いした。

「だしょ~、だから最初からそう言ってんじゃん。あいつは普通に話す分はいいんだけど、一線を越えて親密になるもんじゃないんだよ。緒山君も一時期親しげだったもんね、身に染みてわかったでしょ」

彼はまだ笑っている。

 例の一件からむこう、梓とはほとんどつるんでない。もちろん会えば普通に話すし、笑いもするが…駅前の植え込みのそばの定位置に行くことはなくなった。彼女は、今でも長時間に渡りそこにいる。そこで人を見続けている。…結局、彼女については何もわからず終いだったが、それは他の誰もが同じことだった。平沼君でさえ、今や彼女の思考については、僕よりも知らないだろう。たぶん…。

 あれから、僕も梓ほどではないが、人を見る…ようにしている。…幾分かは人が見えるようになった。その人の様子から、言動や思いを推理し、言葉の裏を探り、細かい行動の基点となる心を探ろうとする癖がついた。…それは、好奇心だとか、梓に負かされたという悔しさから来るものではなく、ただ単に自分の心の中のプライバシーを守りたいという自衛の心から来るものだった。…梓にはすべてがバレている。彼女を避けていることも、彼女を恐れていることも、そして…おそらく、僕がどれほど人のことを見えているのかということも…。

 彼女だったら、必要さえあれば…僕のことはいとも簡単に見透かせるだろう。今でも一度会うだけで…少し話すだけで、最新の僕の心を見透かせるはずだ。…なのに、こちらからは彼女の心を見透かすことはできない。 まるで起き抜けの寝ぼけた時に見る、深い霧がかかっている朝の風景のようだ…。彼女の存在は感じるのに、彼女の意図も感じるのに…、それが何かはっきりとわからないといった感じだった。

(…人を見る……か…)

現に今の平沼君の台詞も、かなりの情報を含んでいる。彼も先日の僕と同じくらい、梓と近くなった時期があったのだろう。経験からくる「身に染みて」だろう。梓に関しては、彼は僕の先輩であり…同類だ。賛辞と警告の感謝を込めて、

「まったくもって君の言うとおりだったよ。本当に身に染みた。変な奴で…まぁ、いい奴と言えば、いい奴なんだけどね」

と、言った。平沼君はまだ笑っている。今の言葉で…彼もまた、僕が見抜いたということを見抜いただろう。

 駅前の南側に差し掛かると、前からレアキャラが歩いてくる。ラ・サールの落ちこぼれの家森君だ。彼には夏前くらいから、大きな問題があった。彼は二浪目に入ってからは、三回ほどしか登校していない。家にもいないらしい。どこで何をやっているかは、僕の知るところではないが、三巻君や九綱君に聞くところによると、パチスロや麻雀にハマっては、友人勢に借金を重ねて、さらにギャンブルを行っているらしい。さらには会う度に、俺は空手の三段位を持っているだとか、ギターは十年やっていて、家にはヴィンテージのギブソンのレスポールが何本もあるだとか、入学時はラ・サールでもトップクラスの成績だっただとか、色々と前には聞いたこともないような大きいことを言う傾向にあった。特に一浪の人に対して、先輩風を吹かすかのように、そういう大ボラを吹いた。

 夏前くらいのある日、そういった大げさな話を聞くに堪えなくなって、三巻君や九綱君やその他のグループで中心的な存在になっている人たちが、彼を呼んで説教をしたのだった。



[29581] 人間観察 編 vol.06
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/08 13:00
 僕もその場にいた。はたから見れば、ちょっとしたいじめの現場に見えたかもしれない。しかし、内容はいたってシンプルで、

「ギャンブルは身を滅ぼすから程々にしろ」

「借りた金はちゃんと返せ」

「見え透いた嘘はつくな」

などといった、正当なものだった。

「空手三段だったら、今三巻と殴り合いやってみろ、三巻は中学から今まで空手やってて、全国の試合にも出たことがある経験者だが、それでも三段は持っていない。相手にとって不足はないし、三段を持ってるお前だったら、一方的に殴られることもないだろ?」

と、グループの中心的存在である山村君が言う。

「もちろん、どっちかが大怪我しそうになったり、危なくなったら止める。喧嘩じゃない」

と付け加える。三巻君が、

「よっしゃ来いッ」

とTシャツを脱ぎ捨て、ストレッチをしだすと、家森君は土下座して、
「ごめんなさい、嘘です。全部嘘です」

と言って謝った。

 こうしたことがあり、今でもグループ内で、多少煙たがられていた。だが、予備校生とはいえ、二十歳前後のいい大人である。その一件以来は、みな会えば普通に話すし、あいつはどうしようもない奴だとは口々言うものの、彼に対して表立って嫌がらせをしたり、文句を言う人はいなかった。お説教の前よりは、人付き合いはマシになっただろう。ラ・サール高校卒業は本当のことだし、昨年センターで七百超の点数を出したのも本当のことだ。

「生まれついてのエリートゆえ、高校時代に挫折したときに、大きく屈折してしまったんだろう。ある意味、可哀相なやつだ」

とは山村君の談だ。

「緒山君、平沼、おはよう、久しぶり!」

その一件は、数ヶ月前のことなので、家森君ももうギクシャクした感じは見せない。

「よぉ、ラサール、相変わらず余裕だな。今年は自信有りだな?」

僕がそう言うと、彼は、

「いや~、ダメだね。三浪街道まっしぐら」

と、笑いながらそう返す。

「ダメじゃん。先輩。気合入れろって!まだ間に合うから」

平沼君がすかさず突っ込む。

「いやいや、ダメだね。相変わらずパチスロやってるしね!スロットも受験も、勝ち目ないねぇ」

「ダメだって先輩。ていうか、借金返してしまったの?マジでやばいよ~スロットは~」

「とかこんなこと言っといて、センター七百以上普通に取るからなコイツは。ホント、嫌な奴だ」

今にして思うと、台詞には少々トゲがあるが、こういう口調が挨拶になるような間柄なのだ。言葉には裏もなく、みな会話を楽しんでいる。そこに誰かが、僕の後ろをドンと突き押した。

「やっほ~!!三人とも元気???」

「痛ったいな!!誰だ!ったく!?」

…梓だった。今日の彼女の服装は、薄いピンク色の中国の人民服のような上下、髪をアップにしている。もちろん編み上げブーツと赤いランドセルはいつも通りで、漆黒でストレートの黒髪も変わらないままだ。
「誰やねん。こいつ?」

家森君がボソボソと平沼君に耳打ちする。

「誰やねん。…て、なんで関西弁やねん!私のこと忘れたんかいな。しまいにゃおっこんでしっかし!!」

 相変わらずテンションは高い。もちろん、家森君と彼女は初めて話している。二人とも予備校へはほとんど来ていない…、会う筈もなかった。顔を合わせること自体、おそらくは初めてだろう。

「緒山君でしょ、沼ちゃんでしょ、う~~ん、あれれ?知らない誰かさん…?名前はなぁに?私はあずさ、倉下梓!」

「なんだこいつ…」

家森君は明らかに退いていた。僕はハッと我に返り、彼女を見た。…はっきり言って、ただのハイテンションのバカな女にしか見えない。彼女はこうしている今も、対象を見ているのだろうか…。平沼君が、

「はいはい…」

と、呆れ気味に紹介する。

「こっちは家森君、ラサール出の天才だけど…スロットにはまってる大バカさんだ。こっちは梓、俺の同級生で…あ~なんと言うか、ただのバカだ」

「…なにそれ!?…なんかムカつく紹介の仕方じゃん?沼ちゃんだけは私の味方だと思ってたのに!!」

彼女は両人差し指を口に入れ、左右に思いっきり広げて舌を出す。

「び~~~~~、ふーんだ!アホーー!!」

「変な女だ…」

家森君はストレートに本人の前で感想を言った。

「だろ?僕(俺)もそう思う」

僕と平沼君の台詞が被る。彼女は、

「ま、いいや。今日私、急ぎの用事があるの!三人ともまたね!!」

そう言って、瞬く間に市電の乗り場の方へと走り去っていく。

「超変な女だ」

家森君が彼女の評価を訂正する。

 僕らもそれに、うんうんと同意して頷いた。


 それからちょうど一週間。今度は予備校の階段で平沼君と一緒になった。

「よぉ緒山君、もう帰るところかい?」

「ああ。これ以上勉強するとどっかおかしくなっちまう。ミスドでお茶でも飲んで帰るよ」

「じゃあ、俺も帰ることにするよ」

「いいのかい?今追い込んどかないと、暮れに苦労するよ」

「まー、今日一日くらい大丈夫っしょ」

 連れ立ってミスタードーナツに入る。ここに来れば、いつもグループの中の誰かと会えるもんだが、今日はもう夕方も過ぎて、辺りも暗くなってることもあってか、誰もいない。みんなゲームセンターのほうへ移動したんだろう。平沼君がふと言う。

「そういや、こないだ家森君と梓会ったじゃん?あれから家森君大変らしいよ」

「たいふぇん??」

オールドファッションを食べながら返答する。

「おー、あの晩な、梓から電話がかかってきて、家森君の電話番号教えて欲しいって言うんだわ。別に男の番号だし…いいでしょって、何の考えなしに教えたのがダメだったんだな。それから家森君、梓に電話されっぱなしで、付きまとわれてるんだってよ」

「あのあじゅさが??そりゃふぇずりゃしいな。はれにへもほこかでいっしぇん引いふぇいるほにな。はいつは」

「…いや。何言ってるか全然わからん。…食べ終わってから話してよ。…そんで、家森君からさ、苦情と文句の電話がかかってきて大変だったよ。最近じゃ、夜の九時から朝の九時まで、文字通り一晩中電話してるらしい。かかってくるだけだから、電話代はかからないんだろうけど、そりゃもう怒ってたよ…。ったく俺、本当に悪いことしちゃったな」

 梓は自分から電話をかけることは滅多にない。用事があっても、なるべく会って話そうとする。誰かが彼女にかければ、時間の許す限りは喋ってるらしいが…。

「あの梓がねぇ…なんか、にわかには信じられない話だな。家森君の話だしな」

「でもメリットのない嘘だからな。俺はモテるんだぜって嘘?…でもないでしょ」

「だなぁ。初対面の時、本気で退いてたもんな」

グダグダと喋って、僕らはミスドを後にした。

「もし家森君に会うことがあったら、平沼が悪いことした、反省してたって伝えてよ」

「うん、わかった、言っておくよ」

 それ以来、駅前の植え込みのそばで、梓がしゃがんで人間観察をしている姿は見なくなった。



[29581] 人間観察 編 vol.07
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/09 20:20
 彼女は家森君と知り合ってからは、植え込みのそばには一切行ってないようだった。植え込みのそばにはいないが…、彼女を見る回数は一気に増えた。彼女は、ある日を境に、予備校に登校してくるようになった家森君と、いつも一緒にいた。

 彼女の今日の服装は、まるで喪服のように真っ黒なロングスカートとシャツである、ブレスレットやピアス、ネクタイまで黒い。たまにお洒落でかけている伊達メガネまで黒縁だ。いい加減…いちいち説明しなくてもわかるとは思うが、黒の編み上げブーツと、漆黒の髪はさらにブラックを統一させ、赤のランドセルのみ、黒以外の色で、点一色際立っていた。家森君とはいつも一緒で、片時も離れることがないという様子だった。僕や平沼君や他の皆と会えば、普通に話すが…、それも家森君がそこにいればの話で、彼がそこを立ち去ると、

「じゃあまたね!」

と言って、

「うきと~~待ってってば~!!」

と、家森君のそばまで走っていく。うきとは雨樹人、家森君の下の名前である。僕、そしておそらく平沼君も…この数日の間に、二人に何が起こったのか知りたいと思った。しかし、同時に…そこには立ち入ってはならないという予感もした。

「べったりだな。あれじゃ、家森君と話すことも出来ない。倉下に話しても何も話さんだろうしなぁ」

平沼君がそう言う。

「いいさ、二人の問題だし…僕らには関係ない。そして何より受験直前だぞ」

時は十一月末。センターまで一ヶ月半、私大受験まで二ヶ月半。受験生にとっては、人生を左右する…文字通り寝る間も惜しんで勉強する期間だ。

「夜に家森君に電話しても繋がらない。おそらく倉下と話してるんだろうが…まぁ、確かに俺らが関わることじゃないな」

平沼君はそう言った。

 ほど遠くに…黒の中の赤い点として、彼女の後姿が見える。…僕はその後姿を、いつまでも見据えていた。しかし、彼女の思想のほんの切れ端すら…読み取ることは出来なかった。


 数日後、少し遅れた昼食を取った後、予備校に行こうと駅前を歩いてると、家森君が現れた。後ろから走ってきたらしい。…梓は見当たらない。彼一人だ。彼は唐突に、

「緒山君、ちょっといいかな?」

と、息を切らしながら、焦った感じで問う。…彼の思惑が見える。…梓のことだ。梓のことで、何か僕に相談したいんだろう。…平沼君は自習室にいて捕まらなかった。彼女のことを相談するなら、僕か平沼君だと前から思っていたに違いない。…ここでやっとチャンスができたというわけか。梓のことを聞くチャンス…。

「別に…構わないけど、どうかしたか?」

「ここじゃまずい。電車に乗ろう。往復の切符代は出すし」

と言って、

「頼む。お願い。…まじで」

と、切符売り場の方へ…彼は立ち止まる暇も出さず、グイグイと僕を連行する。

 ずいぶん切羽詰ってるな、と思った。…知的好奇心はある。情報も欲しいと思い、僕は彼と銀水行きの普通列車に乗った。

「電車の中なら大丈夫だ…と思う。…あいつは異常だ。どこにいてもついてくるし、別れた瞬間に電話してくる。ミスドでトイレに行ってくると言って、窓から抜け出してきた。万札以外は…電話も、財布も、カバンも、持ち物全部テーブルに置いてきたから、電車に乗るまでくらいの時間は稼げたはずだ。君が通るのを見て、抜けてきたから…電車に乗るまでは二、三分しか経ってない。うまく撒けたはずだ…」

言いたいことだけ全部言ってもらって、後で疑問点をまとめて話すのが一番効率がいいな。僕は家森君の話に合わせて、しばらくはうんうん、と頷いていた。

 話を総合すると、


・梓は初めて会った日の晩に電話をかけてきて、それ以来ずっと付きまとわれている。

・梓は、夜は家に帰っているが、その間はほとんどの時間電話で話している。

・なぜか嘘がばれる、居留守もばれる、彼女の前ではまったく嘘がつけない。

・なぜ俺に対してだけこういう態度なのかわからない。尋ねても話をはぐらかして答えない。

・好きだから付き合ってくれと何度も言われたが、了承してない。

・最初こそ満更でもないと思ったが、今は恐ろしい。彼女も怖いが、九綱はもっと怖い。

・できることなら、彼女の相手を九綱にでも代わって欲しいくらいだ。

・彼女と離れたり、電話で俺の声を聞いていないと大泣きする。そうなると手が付けられない。

・いつも物凄い額のお金を持っている。駆け落ちしようとか何度も言われた。

・とにかく俺のことを聞いてくる、最初の数日間は一日十時間以上は質問攻めだ。

・気付いてみれば、俺自身はなにも彼女のことを知らない。


「あいつはいったい何者なんだ?俺と親密な関係になって、何がしたい??」

散々喋った後、吐き捨てるように彼は言った。そんなこと…はっきり言って、こっちが知りたい。

「いや、正直わからない。僕か平沼君が彼女について詳しいと思ったんだろうが、残念ながら、彼女について僕が知っていることと言えば、人間観察が趣味だから…感というか、推理が異常に鋭いということくらいだ。彼女の前では嘘がばれるというのは同意見だ。それに彼女については何もわからないというのは、僕らも同じなはず。…君なら身に染みてわかると思うけど…」

以前、平沼君に言われた言葉を引用する。家森君は変に納得した。そうだろう、そうだろう…梓のことを探れないのは、彼も同じに違いない。
僕は電車に揺られながら考える。はっきり言って、この接触や会話自体、彼女の予測の範囲内に違いない。家森君のこれだけ切羽詰った態度は、本気の中の本気だ。この彼の形相を見ていれば、いつか彼がどうにか逃げ出して、誰かに接触して相談するという予測なぞ、梓は当の昔に立てているはず。…彼女なら…あの時に、家森君に初めて会ったあの時に、僕か平沼君に接触すると予見していたとしても驚かない。ここでの会話ですら、大方の予測が付けられているだろう。…そして、相手が僕だと言うことも。彼女は今頃、予備校に行って、平沼君の所在と僕の不在を確認しているだろう。本気で家森君を捕まえたいのなら、僕に電話してくるはず。…泳がされてるな…きっと。ここは下手なことを言って、家森君に知恵を付けないほうがいい。彼女の目的がわからない限りは危険だ。係わり合いになるべきではない。…しかし、目の前で必死になっている家森君を放っておくのも気の毒な気が…。いや、僕では彼女を出し抜く…彼女を上回る手段を思いつけるとは、到底思えないな…。

 だが、ここで彼女と勝負したい気持ちが一気に吹き上がった。

「家森君は…このまま電車に乗っていって、どこか行く当てが無いか?高校は鹿児島だから、南だったらあったかもしれないけど…」

家森君は両手で抱えた頭を開放して、ジトリとこちらを見た。

「このままどこかへ逃げて、センターまで行方をくらませばあるいは…もちろん彼女が知る由もないところじゃないとダメだけど…」

「…長崎に叔父がいる。バレるかな?」

「なるべく遠い関係の方がいいな」

「遠い関係の親戚に、いきなり居候させてくれって言うのか?」
「仕方ないじゃん。金か心に余裕があんなら、カプセルホテルや野宿の方がいいんだけどね」

「あ、一つあった…お…」

家森君の顔がほころんで発した言葉、僕はそれを即座に制止する。

「わかるだろ?僕が行き先を知れば、明日の朝にでも彼女に見透かされる」

「…そうか、そ、そうだな…。なぁ、お前も一緒に逃げようぜ」

ようやく彼は笑顔を取り戻して、そう言った。

 電車はもう銀水に着こうとしている。普通電車なのに…随分話し込んだもんだ。

 電車はガタンガタンと揺れて、荒尾に着いて静かになった。小学生くらいの子供が数人乗り込んでくる。その子供を無意識に見てしまった。学校帰りの時間帯だ。でもランドセルは持ってない。学校にJRで通うのか?今日は平日…この時間帯に、荒尾から銀水行きの電車に乗るという子供達の状況を、僕は見透かすことが出来なかった。…梓なら言い当てるだろうか。

 まだ対抗策があるのか?と言いたげな表情をした家森君の顔が目に入る。…僕もいつの間にか随分と見えるようになったもんだ。僕は答えた。

「…無茶言うな。もう何もないよ」

家森君は、驚いた表情をして言った。

「いまお前、梓みたいだったぞ。…やめろや、びっくりするじゃねぇか!」

…イヤなことを言われてしまった。

 銀水で彼と別れる。彼の表情は明るく、笑顔で僕に礼を言う。察するに、かなり適切な行き先があるのだろう。僕は彼と別れて、そのまま銀水出の電車に乗ろうとして気付いた。

「……ちぇっ、帰りの電車代貰うの忘れた。…ったく」


 予想通りだ。次の日の朝、予備校の一時限目が始まる前に、教室で僕は梓に捕まった。

 今日の彼女の服装は、毎度お馴染み編み上げブーツと、今は教室の端に置いてある赤いランドセル、黒に黄色のラインが入ったアディダスのダボダボのジャージの上下に、金の太いアクセサリを腕や首に着けている。青黒の帽子もアディダスだ。詳しくは知らないが、ヒップホップとかラップをやってる黒人さんみたいな格好…といった感じだろうか。彼女は僕を見るなり駆けてきて、僕の胸倉を掴んで、目を見開いてこう言った。

「雨樹人はどこ!!!??」

…まるで喧嘩が始まりそうだ。他の予備校生の注目の的になっている。



[29581] 人間観察 編 vol.08
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/10 09:38
(…ったく、恥ずかしいな)

と思って、彼女を見る。彼女は何も偽っていない。本気で僕を問い質す裏表のない台詞…。彼女が言っていた見抜きやすい本気の姿…それがそこにはある。だが、彼女は見ている。僕を観察している。そこまでわかるようになった自分をクスリと笑った。

「何がおかしいの?」

 少々落ち着いて彼女はそう言った。こっちの目立つのが嫌だという意図を見透かした。さらに自分が見られて、心を読まれたのではないかという予測を立てたからか、彼女は十秒も立たないうちに冷静さを取り戻した。こうなってしまえば、僕が彼女に勝る要素は一つも無くなる。

「昨日…銀水行きの電車に乗って、銀水で別れた。その後、彼がどこへ行ったかは知らない」

僕は必要最低限の言葉を発した。嘘ではないから表情に違和感はないはずだ。いや、あったとしても、彼女なら今の台詞と表情から真偽はおろか、昨日何があったかを読み取り、すでにどうすれば家森君に会えるかを考えているだろう。

 彼女は振り返って、教室の端に置いてあるった赤いランドセルを持って、一番後ろの席に座った。すぐに教室を出て行くだろうと思った僕にとって、それは意外な行動だった。そして、

「あなた達に迷惑かけてごめん…、でもこれが私なの。私の人生なの」

と、泣きそうに…震える小声でボソっと言って、テキストを机の上に広げる。

 僕は瞬間彼女を見た。やはり…何も見えない…。そしてその次の瞬間、どう足掻いても僕の得になるような事は起こらないと判断して、即座に彼女を見るのを止めた。

一時間半の講義が終わり…チラリと後ろを見ると、彼女はすでにいなかった。おそらく彼女は…僕を後ろからずっと見ていただろう。そして、僕が持っている大方の情報を見抜いたか、若しくはなにかしらの手段を思いついて、予備校を後にした…そのどちらかだろう。

 僕が家森君に知恵を付けたこと、家森君が知る限りの彼女の情報を僕が持っていること、センターの前後まで行方をくらましていること…できれば、これらを知られたくないために正直に電車と銀水のことを言ったのだが…どこまで見抜かれたかを、あの時の彼女の表情から見ることはできなかった。見ようとすれば、かえって藪蛇になっただろうし、そうでなくとも見る自信はなかった。最初から教室にいた平沼君が話しかけてくる。

「一体、あいつどうしたんだい?大丈夫か?」

僕は無表情で答えた。

「家森君と会えなくてイラついているんだろ。…彼、遠くへ逃げたんだ」

「そりゃ、梓…逆上するな」

彼は納得した感じでそう言って、二時限目の教室へ向かった。


 それからしばらく経って、街がクリスマス一色になったある日、僕は九綱君に呼び出された。ゲームセンターの二階である。今や僕は…こういうわかりやすい人の行動は、手に取るように見えるようになっていた。梓と家森君の件で情報が欲しいのだろう。

(わかりやすいな。彼は…)

と、思ってゲームセンターの二階に行くと、案の定、

「わざわざ呼び出してすんません。用事ってわけでもないんですけど、先輩って、梓と家森さんのことなんか知ってますか?ちょっと前からべったりつるんでて…梓は周囲には付き合ってるって、言ってるみたいなんすけど」

と、彼は苛立たしい様子で、僕に問いかけた。

 あれから家森君の姿はもちろん、梓の姿も見ない。なんの情報も入って来てないし、どうなってるのか、皆目見当もつかない。梓が必死で探しまわっているか、すでに見つけて二人でどこかにいる可能性だって十分考えられる。…別にいちいち九綱君にすべて話す必要はない。

「いや、知らない。梓が付き合ってるって言いふらしていること自体、初めて聞いたよ」

「ちょっと…自分、梓や家森と話したいとか思ってるんですけど、そうしても別に先輩はどうもないっすよね?」

「僕は第三者だし、関係ない…冷たい言い方をするわけじゃないけど、好きにすればいいよ」

「三巻さんも山村さんもそう言ってました。俺は前に梓に…特定の人と、男女の付き合いはしないと心に固く決めてるって言われたんすよ。こっちも遊びで惚れてるわけじゃないんで…、とりあえず説明くらいしてもらっても、バチ当たらないっしょ?」

そう言って、

「とりあえず近日呼び出すつもりなんで。一応、緒山さんには話通しとこうと思って」

と続けた。僕は、

「うん、後悔しないようにすればいい」

と答える。…知的好奇心がないわけではない。どうなるのか見てみたいという気持ちと、関わるとロクな目に合わないな、という気持ちで半々だった。九綱君が梓に絡んでどうなるのかなんてまるで読めない。後日、平沼君に軽く話すと、

「いや~、それは係わり合いになりたくないねぇ。この切羽詰まった時期に」

と、笑いながら言っていた。彼は東京の有名私大を受けるから、センターの受験予定はない。センター組より余裕があるはずの彼でもこの発言だ。それが賢いのだろう。確かに関わってもなんの得もない。ただの厄介ごとにすぎない。

 数日後の晩、九綱君から電話がかかってきた。

「例の日、今月の二十七日っすから。梓を呼び出しました。ゲーセンの二階っす。講義も年内最後なんで、キリもいいかと思って。面倒ごとと気持ちの整理は全部片付けてから、新年迎えたいですしねぇ」
彼は笑いながらそう言った。

「先輩も梓に言いたい事とかないっすか?ぜんぜん居て構わないんで、よかったら来てくださいよ」

「気分次第かな…勉強が手につかないようだったら行くかなぁ」

「先輩、三浪でもいいじゃないっすか、俺と一緒に来年も遊びましょうよ」

「…馬鹿言うな。人生かかっとる」

と、反射的に言って口をつぐんだ。あぶねー、電話の相手は九綱君だぞ。言葉には気をつけなくちゃ。ブン殴られちまうよ。その後は言葉に注意して、煽てつつも先輩としての立場は守って…電話を切ったのだった。


 「あんたよう喋んなぁ~~関心するわ」

自分で話せつっといてこれだ…。

「自分で話せつっといてこれだ…ったくお前は…」

高川の前では気持ちを偽らない。梓とは正反対の意味で、気持ちを偽る必要がない。…人間関係とはこうありたいものだ。人間正直が一番、変な見栄も意地もはらないし、偽らない。これが一番だ。こういう人間関係が周囲と築ければ、きっと幸せを感じるだろう。

(梓…、お前は今どこでどうしている?幸せになっているのか?)

と、心に思うと、すかさず高川がニンマリ笑って突っ込む。

「あんたいま、その女のことと当時の思い出振り返って、思い耽ってたでしょ」

…こんなパッパラ娘に見られるとは…あいも変わらず、僕はガードが緩いなぁ。こりゃ、今でも梓には会えないな…と思う。

「今のところ七十点!!!」

「はぁ??」

またこのパッパラ娘は何を言い出した?

「話長いけど、そこそこおもろい。これでオチがおもろかったら九十点あげるょ!」

彼女はパラパラっぽいヘンな踊りを踊りながら話の続きを迫る。この娘はたまに意味もなく踊り出す。

「あのなぁ、お前は何度いったらわかるんだ??この話にオチはないって言ってるじゃんか」


 十二月二十七日。ここまで試験までの期日が迫ると、予備校の雰囲気も大きく変わる。自習室や講義室には人が溢れ、皆が真剣な眼差しで勉学に励む。最後の追い込みをしている人と、最後の足掻きをしている人に分かれる。

 今年の一浪の代で最も可愛いと言われる、熊高卒の朱里ちゃんも、いつもより十倍は真剣な眼差しで、自習に取り組んでいた。天地がひっくり返るほど可愛いみんなのアイドルである彼女を一目見ようと、自習室に行く取り巻き勢も、彼女の真剣な態度に触発されて勉強し始めるほど、受験生の勉学の様相が激しい時期である。

平沼はそこで勉強していた。が、緒山、倉下、家森、三巻、山村、九綱の姿はなかった。…まぁ、全員普段からたまにしか居ない。それでも、倉下と九綱以外の二浪メンバーは、去年の今頃はここで必死になっていたものだが…と思って、細身で長身、分厚いメガネをかけた自習室の監督は溜息をついた。

 彼は、数十年間に渡ってここで受験生を見続けてきた。…若者はいい。夢と希望から創られる明るい前途がある。願わくば皆が納得いく結末になるといいんだが…。

「…だが、そうはいかんのが、受験というものなんだな」




[29581] 人間観察 編 vol.09
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/11 11:23
 当時、ゲームセンターでは、スパイクアウトという四人で協力プレイして遊ぶゲームが流行っていた。そこでは、僕と山村君、三巻君が遊んでいた。

「緒山ちゃん、余裕じゃん?この時期にゲームとか」

山村君が言った。彼とは中学生の同級生で、高校に入ってからも幾度となく遊んでいたこともあり、今でもかなり親しい仲だ。

「君も人のこと言えないでしょ」

「まぁ、いまさらじたばたしたって変わらないしね。あとは運を天に任せてって感じかな。…三巻、なに死んでんだよ?」

「…今日はいかん。なんか調子悪い」

 三巻君はタバコを吹かしながら、ギャラリーになる。九綱君は、落ち着かない感じで辺りをウロウロしている。他にもグループの人間は何人もいた。梓とのやり取りを見に来た人もいれば、梓にふられた人もいる。何も知らずにただ遊んでいる人もいる。

 そんな中、彼女は一段飛ばし&スキップ気味で、階段を昇ってきた。特に変わった様子もない。テンションは若干低めだと感じたが、それもあえて言えばというレベルで、言わば普段どおりだ。

 今日の彼女の服装は、キラキラのラメの入ったサンダルに、細身のジーンズ、アルファベットの豪華なロゴが入った白いシャツに、茶色の毛皮のごついコートを着ている。アクセサリーも多く、サングラスをかけている。これまで愛用し続けていた赤いランドセルは見当たらないし、編み上げブーツも履いてない。いわゆるギャルと呼べるであろう格好で、頭にはピンクのスヌーピーのキャップを浅く被ってた。漆黒の髪と色白の肌は健在で、それだけはギャルっぽい服装とギャップがあった。

 僕と九綱君は緊張してただろう。固唾を呑んだ。彼女の表情は、キャップとサングラスのせいでよく見えない。トレードマークの赤いランドセルがないため、ひょっとして人違いかとも思ったが、その場にいる全員が、なぜか彼女を倉下梓だと判断した。場の雰囲気が、彼女を梓だと主張したからだった。

 一瞬場は沈黙した…が、沈黙を破って、第一声を発したのは意外な人物だった。

「ははっ、おめー絶対胸そんなに大きくねーだろ!??」

笑いながら、彼女にそう言ったのは三巻君だった。

彼女はサングラスをパッと外して言う。

「し、失礼じゃんっ!!成長期なの!!最近Cカップになったの!!!」

三巻君は返す刀で、

「ねーよ、それはねーよ。元はAくらいだろが。何詰めてんだよ」

と、笑いながら言う。梓は、

「はぁぁ!!???Bありましたーー!!高校の時からBありますぅぅ~~!!」

と、眉間にしわを寄せて、三巻君に詰め寄る。彼は、

「ぶはははは」

と笑いながら、スパイクの台に百円玉を投入した。

「…ったく、久しぶりに会ったってのに何よ!超失礼じゃない!? ねぇ九綱くん!??」

と、九綱君に話題をふる。僕と山村君は、ゲームしながらも少し聞き耳を立てた。

「いやいや、お前の胸なんかどうでもいいから」

彼も笑いながらそう言ったが、笑いは演技だろう。もちろん彼女が見逃すはずもない。

「調子いい時は本当にBカップなんだから…、なんだったら今度目の前で測ってみせるわよっ!!」

彼女はまだプンプンとしている。

「本題に入るぜ」

九綱君はそう言って続けた。

「家森について話して欲しい」

「…別に、あなたたちに話さなきゃいけない理由なんてないじゃん。私のプライベートなことじゃない?」

こっちのプライベートを散々見ておいてそれはないだろう…と思ったが、彼女は誰のプライベートも聞きたがってないし、聞いてもいない。彼女は人のプライベートを、自ら組み立てることができるのだ。…しかもとても正確に。

「俺が言いたいことは一つしかない。お前は俺に、誰とも付き合うつもりはない。一人の男には縛られないとか言ってたよな。それが家森とはどうだ?…説明くらいしてくれてもいいと思うんだが。家森とは付き合ってんのか?」

彼女にふられた人を初め、そこにいる全員がそれぞれの事をしながらも、聞き耳を立てる。ただ三巻君だけが本当に、我関せずとゲームに興じていた。

「わっかんないなぁ~~?そんなの知ってどうすんの?あなたたちが聞いてもつまんないよ。私と雨樹人の話なんて」

彼女は悪びれた様子もなく、冷たく言い放った。

「つまらないかどうかは聞いた側が判断する。いいから話せよ」

 女だろうと殴りかねないという表情だ。拳は固く握られ震えている。九綱君からは怒りが溢れている。家森君…あの嘘つきで、皆に迷惑をかけたラ・サールの落ちこぼれ…。九綱君が最も情けない人間だと、嫌いだと思う人間を、自分の最愛の女性が選んだ。それは怒り狂うだろう。自らにも家森君にも、そして梓にも。意思が強い人としてのプライドもあっただろう。また、こんな状況にもかかわらず、家森君を下の名前で親密に呼ぶ彼女の態度にも、彼は苛立たされていたに違いない。

「おい、あいつキレたら止めてやれや、三巻」

山村君が三巻君に小声で言う。

「キレたらて、おまえな、…俺じゃあいつ止められんよ」

「マジですか…。あずさちゃん、ピーンチ」

山村君は小声でそう囁く。ゲームの音や有線の音が入り乱れるゲームセンターの中だ。小声はおろか、普通の声ですら注意しないと聞こえない。…が、梓は山村君を見ながらこう言った。

「いやぁん~~なんか梓ちゃん大ピンチって感じ!??」

山村君は少々驚いた表情をしたが、すぐに薄っすら笑いながらスパイクに戻った。僕は我関せずの態度を終始貫いているつもりだが…彼女の瞳にどう移っているかは定かではない。彼女とはまだ目を合わせていない。

「う~~ん、私…自分の話するのって好きじゃない。正直嫌いなんだけど…ていうか、私のこと…そんなに知りたいんなら、私に聞くんじゃなくて、与えられた情報を基にしてさ、自分で知って欲しいワ。自力で悟って欲しいの。…でもそれって、あなたたちは無理なんでしょ?できたらそうしてるもんね。そっちの方が断然楽だもの」

「…………そこまで知りたいんなら教えてあげるワ」

彼女はハァ…と軽く溜息をつきながら、手すりにもたれていた体を解放して、こちらに近づいてきた。

「九綱君? あなた、私を好きだって言ったとき、自分の身に何が起こったって言った?」

「……」

九綱君は黙ったままだ。ただ怒りは幾分か収まり、彼女の話に耳を傾けているように見える。

「雷が身に落ちたように…私を好きになったって言ったよね??それが一目惚れだって」

言って…続ける。

「…私の場合それが雨樹人なの」

 彼女は薄っすら微笑んで、九綱君のすぐそばでそう言った。手を出せば拳が当たる距離。緊張感が一気に走る。三巻君ですら、固唾を呑んでその場を見ていた。

 少しの躊躇もせずに彼女は接近した。…近い。…本当に近い。彼女は九綱君の両頬を両手のひらで優しく包むと、静かで優しげな声でこう言った。

「あなたは経験したでしょう?だから解る。私の気持ちが…。あなたの身に起こったこととオナジコトが私の身に起こった。あなたは身を退かない。決して私から身を退かない。…私も同じ。決して雨樹人から身を退かない」

 オナジコト…そこで僕は彼女を見た。言葉の節に違和感があった。彼女が見えた。その一瞬、一瞬の表情の違和感も感じ取り、僕は初めて…おそらくは最初で最後になるだろう、彼女を確実に見透かせた。…それは嘘だ。今のは嘘だ。

「…それは嘘だ。今のは嘘だ」

一瞬のゲームセンターのBGMの継ぎ間にタイミングが合い、思ったよりも声が響く。

梓も九綱君も…そこにいるグループ全員の目線が…僕に注がれる。

「あ…うーん、今、僕ちょっと声大きすぎたかな?」


「あんたって、ほんまアホやな?」

真剣に話を聞き入っていた高川が、我慢できず突っ込む。

「もう、ホント…、つい口に出てしまってん。本当にキレイに見えたもんだからさ」

「あんた、なんかたまに滅茶苦茶間ぁ悪い時あるもんなぁ」

「せやねん、仕事でもあんねん。たまにやねんけどな…。あっ、そう言えばこないだな…」

「いやえぇから、取りあえずこの話最後までして。仕事の話はまた聞くから」

と言うと、高川は滅多に出ない真剣な眼差しモードの表情になった。



[29581] 人間観察 編 vol.10
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/12 11:35
 梓はまた溜息をついた。

「ハァ…、そっか…緒山君いたんだっけか」

と言いながら、一瞬視線を宙に移して…すぐに九綱君へと戻す。

「でも、あなた…納得したでしょ?そして解ったでしょ?どう頑張っても、この状況は変わらないってことが。もうゲームオーバーなのよ」

と言って、今度はこっちの方を見る。山村君も三巻君も僕も、彼女が九綱君に近づいた辺りからゲームを放ってしまっていたため、ゲームオーバーになってしまっていた。

「このバカチン、早よ言えや」

山村君が梓に突っ込む。

 九綱君は納得してしまっていた。彼は、自分自身の中で絶大であった…他の何者にも障られない、自らの気持ちと同質のものに敵対していると気付いたのだ。その比類なき硬質の気持ちは、決して破壊できない。自らのそれが破壊されないのと同じこと。いや、たとえ破壊できたとしても、そこに何が残るのか?悲しみと苦しみが残るだけで、得られるものは何一つない。彼は頭が切れ、理解が早い人間である。梓の言葉を理解して、もうどうしようもないと悟った。すんなりと自覚した。

 …九綱君は、僕が見抜けた彼女の嘘を見抜けていない。いや、彼だけではない。そこにいる皆が見抜けていない。僕はどうすべきだろうか。彼女と話をするのか。このまま傍観するのか…。

(どうする……?)

 彼女はサングラスを手にして、その場を立ち去ろうと、階段の方へ向かう。…僕は梓を後ろから呼び止めた。

「…梓」

 呼び止めてしまった…。彼女はピタリと足を止める。まだ疑問がある。…最大の疑問だ。それを聞かずにこのまま別れるわけにはいかない。至って真剣に、僕は彼女に問う。

「最後にいいかな?」

 僕は彼女と勝負をする。心の読み合い。単純にただの勝負を。彼女は言っていた。知りたいのなら、当人に聞くのではなく、与えられた情報を基に自分で知って欲しい、悟って欲しいと。…彼女は片足を少し上げると、トンと降ろして、くるりとその場で回転して振り返った。

「なぁに?緒山君?私と勝負事でもするつもり?」

 いきなり手痛いジャブだ。思いっきり喰らってしまった。彼女はあくまで冷静沈着。調子も良いと見える。ガードしていては…勝ち目は万に一つもない。

「教えて欲しい。家森君に何を見た?」

一目惚れは嘘だ。その嘘を僕は見破った。彼女はもう嘘は吐けない。演技はできない。どう出る?倉下梓…。

彼女は眉一つ動かさず、僕の目を一直線に見ている。少々の間をおいて…彼女はその小さな口を開いた。

「女の子の心は…海より深いものなの。それは深くて、深くて、深くて、深くて、遠くにある…男性には到底見ることが出来ないもの…」

言って、

「特に私の心はネ」

そう付け足した。

彼女の台詞に嘘はない。だが情報は入ってきていない。…はぐらかされた。もう一つの大きな疑問…。場の空気のプレッシャーに耐えられなくなり、それを口にする。

「お前の目的はなんだ?これからお前はどうなる?」

今度は、彼女は即答した。

「あなたは私を見ることは出来ない。あなたでは私を知ることは出来ない」

 完敗…か。なぜか今は…もう表情が読めない。まるで見えない。演技なのか本当なのかすらわからない。

(彼女…ここにきてもう一つレベルを上げた!?)

と、思うくらい…何もわからなくなった。

(やはり・・初めから勝ち目などなかったか)

と思えてくる。

(・…九綱君と話した際に見せた、明らかな演技すら計算されたものだったのではないか…、僕か誰かが見抜けるかどうかを試したものだったのではないか…)

と、疑わしくなってきたと同時に、たくさんの細かい問いが頭を過ぎった…。

(梓、お前はなんでそうファッションに統一性が無いんだ?)

(梓、あんなにコロコロと服装は変えていたのに、なぜ赤いランドセルだけは変えないんだよ?)

(梓、そんでそのトレードマークのランドセル…、なんで今日に限って持ってねーんだよ!)

(梓、今時の女の子は誰でも茶髪にしてるぜ。なんでお前は真っ黒なんだよ)

(梓、お前、受験はどうするんだ?どこ受ける?一応受験生だろが)

(梓、お前は普段なにしてんだ?ていうか、逃げた雨樹人と再会したのか?)

(梓、お前は今何を思っている?何を考えている?)

 そう思い終わった瞬間に、梓は階段の方向とは逆、つまり僕らがいる方へ、ゆっくりと歩いてきた。…ゆっくり…ゆっくりと。そして、僕らの間を通る。本当にゆっくり。僕と擦れ違う瞬間、彼女は僕の耳元近くにまで顔を近づけて、そっと呟いた。

「そんなにいっぱい悩まれても…いちいち答えてられないわ」

彼女はそのまま、ゆっくりと僕らの間を通り過ぎると、振り向くことも立ち止まることもなく、二階の出口から出て行った。僕はその後姿を目を皿のようにして見た。だが、何も見ることは出来なかった。何も知ることは出来なかった。何一つわかることは無かった。

 三巻君がスパイクに百円玉を投入すると、山村君が中指を立てた。

「はいはい~、九綱の失恋残念でした飲み会兼忘年会に来る人、この指止まれ~~」

と言いつつ、三巻君に続いて百円玉を投入する。

「時間は九時からね。で、九時まで」

「オールかよ。受験生に優しくねぇな」

三巻君が突っ込む。

ゲームをしている三巻君と、その場に突っ立っている九綱君と、呆けている僕以外は、みんな山村君の指をつかんで賛同した。

 ゲームセンターの二階出口は駅構内に繋がっている。そこから出てしばらく進むと、エスカレーターのところに出る。いつぞやか、彼女が少年にぶつかって話をしていた場所だ。そのエスカレーターを降りて少し進むと定位置がある。いつぞやの定位置だ。僕はゲームセンターの二階にある大窓へ走って行って外を見た。定位置を見た。外は雪が降っていて薄っすらと積もっている。植え込みのそば…彼女はいない。結局…ゲームセンターを出て行く後姿が、僕が彼女を見た最後の姿となった。

 それ以降、グループ内で彼女を見たものはいない。


「で、どうなったん?」

「いや、話これで終わり。マジで」

「オチないやん。複線も回収なしやん」

「いや、だから最初からオチないって言ってたやん」

「で、家森君てどうなったん?」

「あー、それが彼はね、その年のセンター受けたんよ。そんで、結果がえらい良くて、京大の医学部を受験したって聞いた。受かったかどうかは知らん」

「え、めっちゃ頭ええ子やん。その時、梓って女とは会ってんの?」

「う~ん、後日…受験とか全部終わった後、平沼君に聞いた話では、
会ってるみたいだったね。沼ちゃんはさすがに今も梓と付き合いあるんちゃうかな。幼馴染だしね。そんで、彼、家森君と会ったみたいなんだけど、彼は平沼君に、梓と付き合ってるって言ったらしい。でも、いつ家森君と再会したのかとか不明」

「ほんで、その梓の人間観察の目的ってなんだったん?」

「いやそれはもう本当に解らず終い…。こっちが教えて欲しいくらいだわ」

「…あと、可愛いみんなのアイドル朱里ちゃんてなんやねん!!???」

高川の声が荒くなる。

「朱里ちゃんはなぁ…僕の初恋の人なんや」

「はぁ、ふざけんな!!こんな帽子いらんわ!!」

そう言って、高川はピンクのキャップ、梓と会った最後の時に、彼女が被っていたキャップを地面に叩きつけた。

「どうせやったらそのアイドルが被ってたキャップ持ってこいや~~!!」

 一緒に人間観察をしてるとき、肩を叩けば振り向いてくれる距離に…梓はいた。最後に耳元で囁いたとき、ピンクのキャップのつばが僕の頭に触れるほど…彼女は近くにいた。でも今は遠い遠い場所にいる。住まいだけでなく心もそうだ。

 今にして思えば、彼女の動作一つ一つ、言動一つ一つに、彼女を理解できるヒントが隠されていたはずだ。彼女は自分を知って欲しいと言っていた。だが、僕が考える限り、彼女を理解できる人間、彼女を見ることができる人間は、そうそうはいないだろう。家森君はその数少ない人間だったのだろうか。僕には…いや、僕だけでなく、皆にとってもそうは見えなかったはずだ。・・・・僕は本当に何も見抜けなかった。あんなにそばにいて、話もしたってのに。

「っさんじゅって~~んっっっ!!!」

高川が僕の耳元で大声で叫ぶ。耳がキーンとする。…近所迷惑だろが。
「…っていうか点数低」

その後、僕は高川の機嫌を直すのにさんざん苦労した。なにが悲しゅうて、プレゼントあげて、一番だと褒めて、長い長い話して…、機嫌を損なわれなければいかんのか…。




[29581] 空気感と雰囲気 編 vol.01
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/13 10:06
 小さい頃から…薄々と思ってはいたのだが、人にはオーラというものがある。雰囲気というか、印象というか、とにかくそんな感じのものだ。芸能人オーラとか。見れば一発で…こりゃ一般人ではないな、と思える極道の人とか。うまく口では言えないけれど、とても直感的というか、感覚的というか…、そんなもの。

 人間は、大なり小なり何かしらの雰囲気を放っているんだと思う。普通の人であれば何も雰囲気を放っていないというわけではない。普通の人は普通の雰囲気を放っているのだ。だから普通であると、その人は一般人であると判断できる。

 今、僕には意中の人がいる。同じ学校で、同じクラスになって友達になった。一度知り合ってからはすぐに仲良くなった。今ではまるで、何年も昔から友人だったような間柄だ。こうなってしまえば、恋心を抱くのはごく自然のことだろう。

 彼女…僕が好きな女の子はもちろん普通の人だ。普通のオーラを発していることが…多い。おそらくはただの一般人だ。だけど、何かどこかが違っている…と思うことが多々あった。例えて言えば、真っ白の絵の具にほんの一滴の墨を垂らして混ぜ込んだくらいのもので…、純白の一般人ではない…そんな違和感の存在がはっきりと感じられる。そう…、彼女はたまに、普通とは些細に違う空気感と雰囲気を生み出す時があるのだ。


 熊本は市内の中心部に位置する私立知恩高校。熊本県と言えば、まま田舎であるとの印象が強いが、九州では福岡県に次いでの大都市である。人口も年々増え、現在に及んでは政令指定都市になるのも近いと言われている。この知恩高校は高成績の進学校だとはお世辞にも言えない。しかし、普通科特別進学コース…三十五人編成のこのクラスだけは別だと言える。このクラスの平均成績は市内トップクラスの私立高校のそれと同じレベルにあった。

 僕、藤田正志は、県内トップの成績を誇る熊本高校や、他の私立高校の受験に失敗し、滑り止めとして受けた知恩高校特別進学コースに入学した。

 三十五人の人が集まれば、そこには色々な人間がいる。勉強熱心な人、街に繰り出して遊ぶのが好きな人、体を動かすのが好きな人、テレビゲームが好きな人、異性に興味がある人…。趣向だけの話ではない。内向的な人、人見知りしない人、話しやすい人、とっつきにくい人、一緒にいて自然な人、波長が合わない人、好きな人、嫌いな人…色んな人がいる。違いこそ人それぞれだ。十人十色とはよく言ったもんだ。

 僕はその人それぞれの違いを、その人の印象やオーラなどと表現できるようなものから読み取り、自分と波長が合うか合わないかを判断するのが得意だった。波長が合う人と合わない人、それぞれに適した付き合い方がある。これを円滑に行うことによって、人間関係がギクシャクしたりするのを防ぐことができる。

そして、空気。よく場の空気、場の雰囲気を読むと言うが…、これを感じ取るのも僕の得意業だ。僕は他人と自分とその場が織り成す空気感を、容易に敏感に感じ取ることが出来た。この生まれ持った特技のおかげで、僕は人間関係においてのトラブルは、まるで経験したことが無かった。お父さんは僕に何度となく、

「正志は世渡り上手だから感心するよ。俺はいつも会社で揉めてる。がははは」

と、お酒を飲みながらよく言っていた。


 四月某日。入学してから数日。半分くらいのクラスメイトの顔と名前が一致してきた頃、僕は彼女と初めて話した。

 その日の二時間目の英語の授業中、窓ガラスがカタカタと音を立てる。一番後ろの席に座っていた僕のすぐそばの窓だ。何の音だ?と思って見ると、一人の女子生徒が、鍵のところを指差して、

(あ~け~て~~~)

と、声は出さずに口を動かした。気づいた僕にニッコリ微笑んで、鍵を指差した右手を激しく前後させる。左手には学校指定のカバンを持っていた。

(…おいおい、今頃登校かよ。見たことあるな…。うちのクラスの人だけど、なんという名前だったかな??)

などと思い、彼女の仕草と笑顔に負けたからか、気の毒に思ったからか、焦ったからか…よくわからないが、僕は鍵を開けてやった。

 彼女は少しずつ…静かにばれないようにと、難しい顔で窓を開ける作業に集中した。そして先生が板書している隙に、窓から音もなく教室に入ってきたのだった。後ろの席の何人かの生徒が気づく。抜き足差し足忍び足の動作を行いながらも、

(し~~~~~)

と、人差し指を立て、

(お願い見逃して!!!)

と、言わんばかりの表情を作る。後ろの生徒がクスクスと笑うと、教室の雰囲気が変わる。ザワザワした瞬間に先生が振り向いて、彼女を見つけるのだった。

「おいっ!なんだお前は!!?」

「ひっっ、なんでもありません!!」

「なんでもないわけがあるか!どこの誰だ?」

「帯山中三年の倉下です!」

「??? なんで中学生がここにいる!その制服はどうした!?」

「あ、違う。ここのクラスなんです!出席番号は二十六番の…」

「倉下、お前は二十三番だろうが…」

彼女のすぐ横にいた男子生徒が、立て肘で明後日の方向を向いたまま、口を挟む。彼は、入学式の日に話した…平沼幸浩君だ。話しやすい性格だが、どこか人との付き合いに一線を引いている。外見は同じ年と思えないほど大人びていて、パーマでうねった髪はそこそこに長く、雰囲気は熱いロックミュージシャンって感じだ。身長も高く、百七十センチはゆうに超えているように見える。

「あわわわ、二十三番の倉下梓です。遅刻しました!ごめんなさい!!」

と、大きく体を九十度に曲げてお辞儀する。クラス中に笑いがドッと沸く。

 先生は出席簿で名前と出席を確認したあと、溜息をついて、

「わかった、いいから席に着いて教科書を開きなさい。黒川先生には言っておくからな!」

と言い、生徒を黙らせて授業を再開させた。

 彼女はここの生徒で、今は学校にいるから当然制服を着ている。制服はグレーのブレザーとスカート、白シャツというスタンダードなもの。胸には青くて細いリボンが添えられている。彼女の髪型はセミショートで、本当に真っ直ぐの直毛、髪の毛の色は透き通るような黒で、肌は白い。目は大きく、体型は痩せ型細身、身長は百五十センチちょっとという感じかな。ルックスは一見どこにでもいそうな感じではあるが、よく見ると各パーツが際立っていて、とても可愛いらしい女の子だ。第一印象は、普通の人、おっちょこちょい、お寝坊さんといったところ。僕とも波長が合う気がした。友達になれれば上手くやっていけると感じた。

 その日のお昼休み、平沼君と二人でいた彼女に話しかける。



[29581] 空気感と雰囲気 編 vol.02
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/14 10:48
「やぁ、今朝は大変だったね。朝寝坊?」

「藤田君か。こいつは朝が弱いんだ。俺、中学も一緒だったんだけど…ほんといつもこんな調子さ」

平沼君は笑いながら言った。彼女は僕に目を合わせた。…この瞬間、ほんの一瞬なにかの違和感を感じた。その場の空気がかすかに揺れた気がした。次の瞬間、彼女は表情を変えて、

(……???)

といった感じで、少し呆けたような目で僕を見る。それに合わせて空気感も元に戻る。そしてすぐに、

「あ~~、さっきは鍵空けてくれてありがとう!!!も~中学の時は三回に二回は誤魔化せたもんなのよ!風の梓って言ってねぇ~、いつの間にかねぇ、ちゃ~んと席にいるの!!」

「まぁ、沼ちゃんが毎朝教室の後ろの扉の鍵を開けておいてくれてたおかげなんだけどね」

「この教室一階のくせに、ベランダが無いんだからっ!入るのに苦労するわよ!!沼ちゃんも鍵空けてくれてなかったし!!長い付き合いじゃない!私がいない時点で、鍵くらい開けときなさいよ!!!」

彼女は怒涛のマシンガントークをして、プンプンと口を膨らませ、怒ったような表情をする。

「…いや、また寝坊だなとは思ったけどさ。まさか窓から入ってくるとは思わなかった」

平沼君は呆れたように言う。

「じゃあ、今度からは僕が開けておいてあげるよ」

「藤田君、やっさしぃ~~!!!」

怒った表情から一転させて、上機嫌な笑顔になり、名乗ってもいない僕の名前を呼んだ。

「あれ、まだ名乗ってないのに…僕の名前??」

「え?だって初めの日に自己紹介したじゃん」

確かに自己紹介はしたけど…そんなの緊張もあって、半分すら覚えてない。

「こいつ、バカのくせにそういうことはすごい記憶力なんだ。中学の時なんて、全校生徒の顔と名前と性格をほぼ覚えてやがったからな。しかも先生のもだぜ。異常だろ?」

「全校生徒ってすごいなぁ!記憶力すごくいいんだ?実はIQ百八十とかあったりして」

僕がそう言うと、平沼君は、

「あー、でもこいつ高校受験まで曜日と月の英単語書けなかったよな。人の名前は大切だけど、最低限の受験単語くらい知っとけよ」

と、笑いながら言う。

「バカって言うな!!バカって!!しかもなに!??英単語ぉ?ちゃんと言えますぅ~~!!!マンデイサタデイチュ-ズデイ、ジャンニュアリーフェビュリュアリーマーチアイプリルジュライ!!!」

彼女は大声で捲し立てるが、突っ込みどころは多い…。ルックスからは大人しめの性格をイメージしたが…明るくてテンションがとても高い人だ、と思った。

「鍵は藤田君に頼むからいいもんねっ!ふ~~んだ!」

「いや、ていうかもう遅刻すんなよ」

平沼君の冷静な突っ込みに笑いが込み上がる。居心地が良かった。波長が合うってのはこの感覚のことだ。会ったばかりなのに不自然な感じがない。自然に話が出来る。この二人とは仲良くなれる、親友になれる予感がした。


 ゴールデンウィークも過ぎ、少し暖かくなってきたある日。クラスはすでに馴染んでいる。三十五人の人間が集まると、そこには二、三のグループの構図が見えるようになる。それに属さない人も数人はいるが、理由は様々である。単に人との接触が苦手なことによる、つまはじき者になっていることによる、部活の人や地元の友達と遊ぶのが主であることによる、わき目も振らず勉学に勤しんでいることによる…など、本当に理由は様々である。

 僕も沼ちゃんも梓ちゃんも、特にこれといったグループには属していない。いわば中立派といった立ち位置にいる。しかし、梓ちゃんだけは少し異質で、とにかく親しみやすくて人見知りしない性格のため、毎日少しずつ男友達が増える。今ではクラスの男子全員と話すし、特進コース以外にもたくさん友達が出来ている様子だ。この調子だと、卒業時には皆と友達になっていても全然おかしくない。沼ちゃんが言っていた中学校の生徒全員の名前を覚えていたというのは、この社交性の高さによるのかもしれない。その反面、女子と話している姿はそれほど見ない。誰かと話しているのは、きまって男子であった。でも、最も多くつるんでるのは僕と沼ちゃんの二人で、傍から見れば、この三人で一つの小さいグループに見えるかもしれない。それほどよく一緒にいてよく話した。

「だから、漢文の構図は英語の文体構図に似てるんだって。SVなになに、習ったでしょ?英語は主語があって述語があって、その後ろに細かい情報が出てくるようになってるじゃん。漢文も同じ構成なんだよ」

僕が声を張り上げると、

「本当だな。だったら簡単じゃん。漢文の単語覚えれば、白文でもだいたいは読めるじゃん。一、二点とかレ点がある分、もっと簡単」

沼ちゃんが同意する。肝心の梓ちゃんは、

「ちぃっとも簡単じゃないわよ!英語できない私はどうなるのさ!自動的に漢文もできないことになっちゃうじゃん!!やばい、やばいわ~。こんな調子じゃクラス落ちしちゃうわっ!」

と大変に嘆いている。

「あ、それ置き字だから読まないよ」

梓ちゃんが悩んでいるところを指摘して言うと、彼女は、

「なにさ!?ぉきじ!!?なにそれ???」

と、目を白黒とさせている。

「英単語の中にも発音しない文字が含まれてることがあるでしょ?pingpongのgとかさ。それと同じ。漢文の中にも読まない文字があるの」

「はぁ??なんで読まないものを入れる必要あんのよ!!法則も無いし、いちいち覚えろっての?こんな文字使ってる人頭どうかしてんじゃないの!??」

「これからは梓読みでピングポングて言うことにする!」

「世界はあたしに従いなさいっ!!」

梓ちゃんの頭はパンクしそうだ。

「それについては俺も同感だ。読まない文字なんて省けばいいじゃん」

沼ちゃんが冷静に同意する。

 ここ知恩高校特進コースは、一年通しての成績が芳しくないと、学年が上がる際に普通コースに格下げされてしまう。逆に成績が最も良い普通コースの生徒と入れ替わりになる。はっきり言って、特進コースと普通コースの成績には雲泥の差があり、前例は滅多に無いそうだが…数年に一度は、入れ替わりの例が実際あったそうだ。

「数年に一度出るバカになりたくなけりゃ…勉強しろ」

沼ちゃんが、厳しく言い放つ。

「ゔぅ~~~、もうやだぁ~~」

梓ちゃんは頭を抱えて、髪をわしゃわしゃする。まぁ誰しもが勉強の時、どうしても理解出来ないことに遭遇すると嫌になるし、ヒステリックにもなるもんだ。


 一緒に過ごす時間が増えるにつれて、淡い恋心が育つ。前々から自覚していたが、僕は梓ちゃんのことが好きらしい。それが決定的に自覚できたのは、ついこないだ…ついこないだの放課後のことだった。

 沼ちゃんは僕の予想通りバンドをやっているらしく、学校が終わればすぐに帰宅する。一人で楽器の練習をするか、スタジオでメンバーと練習するかのどちらかなのだろう。学校に居残っている姿はたまにしか見ない。僕も帰宅部だ。これと言って趣味が無い僕は、家に帰ってテレビを見て、夕食を食べて勉強するというパターンが多い。梓ちゃんも部活には所属していない。前に二人にクラブ活動の話をしたことがあったが、

「俺はバンドが忙しいから無理だなぁ」

「私、すごい運動音痴なのよねぇー…もう少し体が思い通りに動けば、部活だって楽しいんだろうけどなぁ…」

と、二人とも部活には興味が無い様子だった。

 梓ちゃんは放課後はいつも校舎の屋上に出て、日が沈むくらいまでそこに居る。つい最近放課後は屋上に行ってるなと気づいたのだが…そこで何をしてるのかはよくわからない。ただ、毎日結構な時間をそこで過ごしているので、何か明確な目的があるのだろう。だが、僕はそれを想像することは出来なかった。

 知恩高校の校舎は四階建てだがそう高さはない。屋上からグラウンドが見渡せる。放課後はそこでたくさんのクラブ活動の様子を目にすることが出来た。

野球、サッカー、ハンドボール、陸上、学校の先生やOBの監督さん、外部の指導者など、高校生以外の人も多くいるし、ここ知恩高校の周囲には軽く数えて十ほどの高校が乱立しているため、練習試合目的で他校の生徒も多く出入りする。つまり、放課後のグラウンドは、学内学外学生非学生問わず、様々な立場の人がそれぞれのことを行う場所になるわけだ。

 ゴールデンウィークに入る直前のある日、僕は放課後、梓ちゃんが屋上に行ったのを確認してから数十分後、屋上に行ってみた。その校舎…二号館の屋上は、誰でも行き来自由になっている。お昼休みも解放されており、昼食を屋上で取る生徒も多くいる。放課後も昼食時ほどでないにしろ、数人の生徒が遊んだり喋ったりして、授業から解放された一時を過ごしている。

「いたいた…」

梓ちゃんは一人で、手すりに両肘をかけて寄りかかり、グラウンドの方を眺めている。ちょうど出入り口の前にいるため、彼女の後姿が見える。放課後の屋上といういつもと違う空間のせいか、スカートや黒髪が風でなびいてる後姿のせいかはわからなかったが、何故かいつもと違う雰囲気を感じた。異質な空気感。…しかしそんなことはほんの些細なことだ。僕は、後ろからワッ!と梓ちゃんを驚かしてやろうと、抜き足、差し足、忍び足でソロソロと近づいた。



[29581] 空気感と雰囲気 編 vol.03
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/15 11:56
 …一歩、一歩と静かに忍び寄る。しかし、距離はあと一メートルと少し…といったところで、梓ちゃんは急にクルリとこちらを振り向いた。

「わっ!!!」

梓ちゃんは振り向くや否や、急に大声で僕を脅かす。僕はあまりに意外すぎて…尻餅をついて倒れてしまった。とたんに彼女が駆け寄ってくる。

「ごめん!大丈夫??ちょっと驚かしてやろうって…軽い悪戯のつもりだったんだけど…」

梓ちゃんは心配した表情で僕に謝る。

「う、うん…大丈夫大丈夫。それにしても驚いたなぁ…僕が来るのわかったの?」

梓ちゃんは僕を立ち上がらせるため、僕の両腕を掴んでエィ!と引っ張って言った。

「うん。コソコソしてるネズミさんがいたから、返り討ちにしてやろうと思ったの!」

梓ちゃんは僕の無事を確認すると、すぐに意地悪な笑みを浮かべてそう言った。

「ネズミとは酷い言い草だ。ここで何をしてるんだい?放課後はいつもここに居るじゃないか」

僕は何気なく聞いたつもりだったが、何故かその場の空気が真剣な空気になった気がした。

(おかしいな…普段の会話と同じようなものなのに…。何が違う?)

「放課後のグラウンドって…色んな人いるじゃない?私はここで、その人たちを見てるんだ」

梓ちゃんはニッコリ微笑んでそう言った。

「あ~、うちの高校、スポーツは有名だもんな。でもスポーツ観戦するのなら…もっと近くで見ればいいのに。マネージャーになるとかさ」

梓ちゃんはグラウンドを見ながら微笑する。

「ううん、ここでこうして見ているのが好きなの。藤田君も一緒に見ない?」

「う、うん。いいけど」

 時間は過ぎていく。梓ちゃんは本当にグラウンドを見ている。野球も、陸上も、サッカーも。何を、誰を、と言った見方でなく、全体を見ている。たまにその目線の対象を誰か個人に移しては…また全体を見る。生徒、先生、男性、女性、関係なしだ。僕には何がそんなに面白いのかわからない。たまに話しかけるが、梓ちゃんは空返事ばかり。いつもと違ってリアクションは薄い。

(前に運動音痴だって言ってたからなぁ…部活動の人らを見て羨ましがってるのかな…もっと近くで見れば楽しいのに…そうだ!!)

僕は彼女の手を掴んで、こう言った。

「こんな遠くで見ていても、何が起こってるかわからないさ。見るんならもっと近づかなきゃ!」

「え…?」

梓ちゃんは一瞬ハッしたような表情をしたが、すぐに戸惑った様子で僕を見た。僕はお構いなしに、梓ちゃんの手を引っ張って、出入り口まで連れて行こうとする。僕が急ぎすぎたため、五メートルほど進んだところで手が離れる。

 振り向くと梓ちゃんは、ちょうど夕日を左肩に置くような位置にいて…微笑んでいた。夕日は梓ちゃんの黒髪を赤く染めている。薄っすらと風が吹いて…梓ちゃんの髪の毛、スカート、胸元の青いリボンがなびく。彼女は…微笑を崩さずに、風になびくスカートと髪の毛を押さえる。…まるで高名な画家に描かれた絵画のようなシーンが、現実として目の前に創られて…僕は言葉を失った。

「そっか、距離か…」

梓ちゃんが呟く。よく意味はわからなかったが、僕は話を合わせる。

「そう!近い方がいいんだよ、観戦はね!近くないと、細かいところが見えないだろ!」

彼女は変に納得したような表情で、

「そっか…そうだね」

と言って、またニッコリと微笑んだ。

 その屈託の無い無邪気な笑顔を前にして、僕の心は梓ちゃんに根こそぎ持っていかれた。その日のその時、僕の世界観は変わった。今まで空虚であったピラミッドの頂点に、梓ちゃんへの想いが座位することになりましたとさ。


 想いは日に日に強くなっていく。梅雨も過ぎて、少々暑くなってきたある日。僕は沼ちゃんに梓ちゃんのことで話がある、と相談して気持ちを打ち明けた。どんどんと強くなる想いは、誰かに打ち明けるしかないほど僕の心から溢れ出しそうだった。彼は、

「そうだったのか、俺は全然気がつかなかったよ。中学の時のあいつは…今と同じで、周囲は男友達ばっかりだったけど、浮いた話は聞いたことないなぁ。倉下が恋愛に対してどういう考え方を持っているのか知らないから…ろくにアドバイスも出来ないけど、藤田君は中学時代を含めても、あいつとかなり親しくしてる方だと思うし、当然だけど悪い印象はないと思うぜ」

と、昼食のパンを頬張りながらそう言った。梓ちゃんは日々何度も繰り返す遅刻のせいで、担任の黒川先生に呼び出されていて不在だ。

ただ、僕の気持ちを言うばかりが相談の目的ではなかった。沼ちゃんは梓ちゃんのことをどう思ってるのか、逆に梓ちゃんは沼ちゃんのことをどう思っているのか。できればそれも知りたかった。

「ありがとう。それで、一つ聞いておきたいんだけど、沼ちゃんも梓ちゃんと親しいじゃん。もし、ほら、沼ちゃんが梓ちゃんのことを…あれだったら僕は…」

沼ちゃんはこっちの台詞の途中で笑って言った。

「ハハハ、無い無い」

彼は手のひらをヒラヒラさせた。

「あのな…、」

彼は小声で、耳を貸せという感じで、身を机の上に乗り出す。

「内緒だぜ…ていうか別に内緒じゃなくてもいいんだけど、俺…いま付き合ってる子がいるんだ。バンドの関係で知り合った子でさ、学院大学付属高校にいんだよ」

熊本学院大学付属高等学校。自由な校風で有名な、私立の進学校だ。学業成績は高く、普通のクラスからして、この特進コースに勝るとも劣らないほどの成績である。

「そうだったのか、全然知らなかった…。そんないいところのお嬢さんと付き合ってるなんて…やっぱバンドマンは一味違うねぇ」

と、僕はニタリと嫌味っぽくリアクションした。沼ちゃんは照れた表情で「クヌヤロゥ」と、僕にヘッドロックをかけて、頭をゲンコツでグリグリした。そこに、

「やっほ~~~!!ご飯食べちゃったの!!?んもうぅ、少しくらい待っててくれてもいいんじゃない??一人でご飯食べてもつまんないしぃ~!」

梓ちゃんである。彼女は、

「ようやく解放されたょ、まったくヤんなっちゃうワ」

と言って、ガサゴソとアルミを広げて中にあるおにぎりを手に取った。

「こってり絞られたか??遅刻女王」

沼ちゃんは、僕に、

(お互い内緒な?)

と、アイコンタクトを取る。

 …ほんの一瞬…なにか空気感が変わった??気がしたが、すぐに沼ちゃんと目を合わせて軽く頷く。

「なに見つめあっちゃってんの??ひょっとして二人、愛の告白でもしたの?もう付き合ってんの???」

『なわけねーだろ!気持ちわりぃ!』

二人の突っ込みがシンクロする。

「ステレオで否定するところがまた怪しいわねぇ~♪」

梓ちゃんは機嫌がいいと言葉尻が歌のようになる。

「ま、いいや。…二人でどうぞ見つめ合って頂戴。私はごはん食べるの!ごはん!」

と、おにぎりを口いっぱいに頬張った。


 夏の始まりの日。僕は前々からあることを考えていた。デート。梓ちゃんと二人でどこかへ行きたい。別に遊園地だとか、動物園だとか、そんないかにもなシチュエーションでなくても、必要なものがあるから買い物に一緒に行くとか、ちょっとした用事で出かけるのに二人で行くとか、そんな軽いもので十分だった。どこかで少し、二人だけの雰囲気になれば…僕はそれで十分、梓ちゃんに心を伝えることができると思っていた。

 生きていればチャンスは訪れるものだ。要はそれに気づくかどうかと、それを生かせるかどうかだ。今回は前者に関しては何の問題も無かった。

 その日のお昼休み、僕と梓ちゃんは黒川先生に呼ばれて職員室へと向かった。



[29581] 空気感と雰囲気 編 vol.04
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/16 11:33
「なんかやだなぁ~~…何か悪いことしたっけかなぁ??私たち…」

先生のお説教は大の苦手な梓ちゃんだ。呼び出されるとロクなことがないというのは、いつものことだった。僕は、

「いや、今日はお説教じゃないと思うよ。僕も一緒に呼び出されてるんだし」

「そっか、そっだよね!」

梓ちゃんは本当に「そうか!」という表情をして、手のひらをグーでぽんと叩いた。…いや、そんなに普通に納得されてもリアクションに困るんだけど…。

 職員室に着くと、黒川先生は何の変哲も無く、何のリアクションも見せず、自分の席に座っていた。黒川先生は、かなりのお爺ちゃん先生で、やばいのではないかと言うほど老けて見える。教師の定年は六十歳くらいなんだろうか。しかしながら…この先生の見た目は、八十歳と言われてもわからないほどである。動作はかなりスローリーで、声も小さい。すでにボケがきてるのではないか、と思うくらい物忘れが多く、一部の生徒からは裏でバカにされていたが、それを知ってもニコニコしているほど、優しく人がいい先生だ。

「あ、あ~…やっと来たな。ふたりとも」

「はい、何の用でしょうか?」

用事を聞く行為は手っ取り早く済ませたい。話によっては、この後梓ちゃんと一緒に何かを行えるようになるのかもしれない。梓ちゃんは先生に軽く会釈した後、職員室を見回している。

「あ、あ~…ふたりに頼みたいことがあってね…なんだったかなぁ…?たしかプリントが…」

そう言って、先生はゴソゴソと何かを探してるようだが…数分経っても出てこない。

「先生…?」

「あ、あ~…悪いねぇ、ちょっと待っとくれ」

と言うと、隣の女性教諭に話しかける。

「かねがわせんせ~い、ほれ、あの高校生優秀論文集の…プリントはどうしたかなあ??」

隣の机の金川先生は、美人でグラマラスな英語教師である。エロチックなオーラをプンプンと発している。このレベルのオーラだと、僕でなくとも誰でもわかるだろう。こういうオーラをフェロモンなどと表現するのだろうか。残念ながら特進コースだと授業での縁はないが、男子なら誰もが最初に顔と名前を覚えるであろう先生である。

「あ、それならほら、先生の机の一番上の引き出しにありますよ。今朝、生徒に頼むんだって仰ってたじゃありませんか。忘れたら困るって仰って…」

そう言って笑いながら、黒川先生の引き出しの一番上の引き出し空けて取り出してみせる。

「はい、もう先生ったら、ボケるには若すぎますわ」

「あ、あ~…悪いねぇ、すっかり忘れてたよ…。ありがとう金川先生」

(爺さん、その引き出しは一番最初に見てるだろうが!)

と、突っ込みを入れたかったが…さすがに先生に向かってそんなことは言えない。

「ありましたか?」

と、問うとすぐに説明してくれる。

「あ、あ~~…実は市内の私立高校の連盟で毎年論文を募集しててな…」

辺りを見回しつつも会話を聞いていたのだろう、梓ちゃんの眉間にしわがよる。

「…僕は編集の責任者でね。それを読んで受賞作品を選んで…優秀なものは本にして、毎年出版しているのだけれど…、」

(まさか論文を書けとか読めとか…)

僕の眉間にもしわがよっていたに違いない。

「…実は締め切り間近なのに、まだシャンパニア学園高校の原稿が来てないんだ。それで…、ふたりには悪いんだけど、今日学校が終わってから、シャンパニアまで取りに行ってくれないかな?」

聞くや否や、眉間のしわが取れて顔がほころぶのが自分でもわかる。

(黒川先生グッジョブ!)

と、心に思った。

(これって事実上デートになるじゃんっ!)

梓ちゃん並のハイテンションになりながらも、表面は冷静に受け答える。

「あ、わかりました。そういうことなら放課後に二人で行ってきます」

「あ、あ~~…悪いねぇ、ふたりとも。それじゃお願いするよ。向こうには電話してあるし、白藤先生という方に原稿を頂いたら、明日のホームルームの時に渡してくれればいいから」

先生はニッコリわらって「よろしく」と表情で言う。

「わかりました!」

僕は快く返事して、職員室を後にした。

「梓ちゃんは都合は良かった?なんか、僕が勝手に引き受けちゃったって感じになっちゃったけど」

思い返せば、梓ちゃんは一言も喋ってない。一人で先走ったかと心配になってきた。しかし彼女は、

「ん~~?大丈夫、大丈夫!私ってほら、放課後は屋上にいるだけだし、先生方への点数も稼いでおかないとね。遅刻魔で成績悪くて運動音痴じゃぁ、本当にクラス落ちしちゃうワ」

それは困る…。特進コースのクラスは三年間一緒なんだ。梓ちゃんがいなくなってしまったら、僕の学校生活は真っ暗になっちまう。

「そうだね、先生は責任者だって言ってたからね。その責任者に頼まれるくらいだし…信頼されてるみたいだから、ちゃんと仕事すれば点数大幅アップだよ、きっと!」

僕は嬉しくなって後々のことを考えた。その時、梓ちゃんは僕を食い入るように見てた。真剣な表情で…あまりにも鋭い目線を受けて我に帰る。我に返れば、空気の澱みにも気づいた。

「??どうかした?僕の顔に何かついてる???」

彼女はニッコリ微笑んで言った。

「いいえ、あんまり藤田君が嬉しそうだったから、ついつい見てただけ」

僕は急に恥ずかしくなった。顔が赤らんだのが自分でもわかった。


 シャンパニア学園高校は、知恩学園の南東に位置する。私立でも県内屈指の進学校で、先の学院大学付属高校などと並んでの成績優秀な男子校である。名前から連想されるようにキリスト系の学校で、僕ら知恩高校は仏教系の学校なので、同じ高校という括りでも随分と雰囲気に違いがある。知恩高校からはそれなりに距離があるが、熊本市内を走る路面電車を使えば、数十分で着いてしまい、そう歩かなくても済む。

 二人っきりで外のムードを楽しむにはうってつけの機会だ。もっと梓ちゃんのことを知りたいし…もしもチャンスがあれば…いい感じの雰囲気になれば気持ちを伝えたい。

 僕の特技は空気を読むことだ。その場の空気を読んだり、人が発するオーラを感じ取る。もしも…、もしも少しでも梓ちゃんが僕に気があるようなオーラを発すれば、見逃すことなくそれを感じ取る自信はあった。

 帰りのホームルームも終わる。沼ちゃんが、

「面倒なことを押し付けられたなぁ。しかも、シャンパニアとか…遠いじゃん。ま、でも…」

と言って、ニンマリと僕に笑みを送る。梓ちゃんはすでに校庭に出ている。僕は、

「そうなんだ、二人っきりでデートを楽しんでくるよ」

と、意地悪な笑みを直球のセリフで返す。沼ちゃんはフッと鼻で笑って、

「おーぅ、楽しんでらっしゃい。おいらは今日も練習だべー♪~~」

と、歌いながら教室を去っていった。僕は急いで校庭へ出た。

 梓ちゃんはカバンを両手で背中側に持って、水道のところに寄りかかって校庭を眺めていた。

「本当にグラウンドを見るのが好きなんだな」

目線を移さずに答える。

「うん、私見るの大好き。子供の頃からこうなの。ずっと、ずっと…こうしてた」

なんだ、小学生の頃から観てばっかだったのか。スポーツでもなんでも、観るよりやる方が楽しいだろうに。

「じゃあ、ぼちぼち行きますか」

靴紐を結び直してそう言う。梓ちゃんは、

「うん。シャンパニアなら市電だね。行こうかっ!!」

と言って走り出す。

「乗り場まで…競走~~!!」

五、六メーター先で叫ぶ。

「おいっ、そりゃずるいぞ!!」

僕は追いかける。ったく、運動音痴のくせに粋な真似を。



[29581] 空気感と雰囲気 編 vol.05
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/17 11:48
 乗り場へは僕のほうが早く着いた。梓ちゃんは全力疾走の果てに転んで、涙目になっていたからだ。

「…全力で走るからだ。ガキかお前は」

「だって抜かれそうだったんだもん!!」

僕は乗車券を二枚取って、一枚を梓ちゃんに手渡す。

 熊本市内において路面電車はかなり重要な交通機関だ。JR熊本駅より若干南に行ったところを始発駅として、熊本駅前、市内の中心街のど真ん中を経由して、僕らの学校の近くを通る。そしてそのまま水前寺公園を抜け、南東へと進む。健軍という地域を越えてしばらく行けば終点となる。シャンパニアは健軍にあるので僕らが乗った乗り場からは、近からず遠からずといった距離だ。時間的には数十分ほど掛かる。

 梓ちゃんはさっき転んだことも忘れたかのように、市電の中を見渡して、様子を見入っている。今気づいたが、梓ちゃんはなにか他のことに気を取られると、すごく真剣な眼差しになる。簡単に空気感が変わる。今まで幾度と無く感じた違和感は、彼女が何かに夢中になったときに現れたものなのかもしれないと思った。そう思った瞬間、梓ちゃんがニッコリ笑って手を差し出してきた。

「ん、これあげゆ」

と、コロコロとアメを口の中で転がしながら、僕にもアメをくれる。

「ありがとう」

アメを受け取って口の中に入れる。オレンジの味がする。

「藤田君は何か好きなこととかあるの?趣味とか、得意なこととか」

梓ちゃんは僕を覗き込むようにしてそう言った。

「う~~ん、特に無いなぁ。でも車が好きかな。三年生になったらすぐにでも免許を取りに行きたいよ。で、卒業したらすぐにでもバイトでもしてさ、自分の車が欲しいんだ」

梓ちゃんは目をキラキラさせて僕の話を聞いている。少し…ほんの少しだけ…梓ちゃんは僕に気があるのかな…と思った。

「…だから、今は勉強に集中かな。つまらない答えだけど、成績さえ良かったら、親も免許を取ることやバイトのことも許してくれそうだしね。もちろん、渋々だろうけど」

「そっかぁ~~、なんか立派だねぇ♪」

「梓ちゃんは、趣味は何かある?好きなこ…」

僕は彼女の趣味や昔のこと、家のこととか…プライベートなことは何も知らない。よければ何か知りたいなと思った矢先、感心した表情で話される梓ちゃんの台詞に、僕の言葉は遮られた。

「ほらほら、沼ちゃんも音楽やってるでしょ!?男の子っていいなぁ~~なんかやりたいことがあって、夢があって、それに向かって…って感じでさ!わたし中学生の時、一度だけ沼ちゃんのライブ観た事あるんだ!もうねぇ…凄かったんだ!!音もグワングワンに鳴っててね!ステージのライトとか、沼ちゃんの服とかもすっごいの!!!その場の人がみんな飛び跳ねたりしてて…私は怖くて入っていけなくて、後ろのほうで見てたんだけど、もう同じクラスの沼ちゃんだとは思えないくらいカッコ良くてさ!ライブ終わってから、観に来てくれてありがとうって声かけられたんだけど、沼ちゃんの回りのファンの女の子から、白い目で見られちゃったりしてさぁ~!そいでさ…」

 彼女のマシンガントークは延々と続く、その後は黒川先生や金川先生の話、試験の話、クラスメイトの話などしているうちに、あっという間に健軍に着いたのだった。

 往々にして、気心のしれた人と一緒にいたり、好きなことをしたり、極度に集中したりすると、あっという間に時は過ぎ去ってしまう。人間の感覚とは不思議なものだ。集中時なんて特にそうだ。帰って勉強して…たまにハマって集中してると、母さんが僕を呼ぶ声が聞こえなかったり、少し悩んで考えてただけなのに、四十分くらい過ぎていたりすることがよくある。時間の感覚は当てにならない。現に梓ちゃんと一緒にいると、時はまるで僕に嫌がらせをするかのように、早く過ぎてしまう。退屈な授業中と比べると、同じ経過時間だとは到底思えない。時間だけではない。人の感覚そのものが大して当てにならない。初めて通る道は長く感じたり、初対面の人から変に威圧感を感じたりしてしまうもんだ。…その場の空気を読むのは得意なつもりだが…これまでだって、誤解はたくさんあったんだろうなぁ。

 健軍で降りて、そんなことを考えていると、微かにだが…確かに空気感の澱みを感じた。ハッと我に返り、目の前に何かがあるのに気づく。…なんだ??目??気づくと、梓ちゃんの顔が目の前にあった。近い。数センチだ。いつかの屋上の時のように、尻餅をつきそうなほどの勢いで後退する。

「な、な、な…ビックリした!!!ど、どうしたんだ一体??」

「えぇ?だってだって、さっきから何度も呼んでるのに、藤田君てば全然返事してくれないんだもの。どうしたのかなって思っちゃうよ」

んん?呼ばれたのか?俺?全然気づかなかった…。これこそ集中ってやつだ…。あーでも、近かった…。でも…キスする時って、今くらい近づいて…、

「ふふ、でも藤田君の言うとおり」

梓ちゃんが上機嫌に言う。なんだ?なんのことだ?僕の言うとおりって…。そう思って、

「んん?何か言ったっけか…?僕…」

「あれあれれ、覚えてないの??ま、いいや。それより早く行こ行こ!日が暮れちゃうワ!!」

というと、またも彼女は走り出す。おいおい、さっき転んだばかりじゃないか。もう忘れたのか。

「おい!待てってば!そんなに急ぐとまた転んじまうぞ!!!」

彼女は五、六メートル先でピタリと足を止める。どうやら今、思い出したらしい。痛みとともに。


 シャンパニア学園高校は男子校だ。なぜか市外および県外の出身者が多く、その数は半分以上を満たす。九州全土はもとより、果ては広島や大阪などの大都市からも入学者が来る。僕は理由までは知らないが、毎年毎年そうなるらしい。一般にはキリスト教系私立で進学校ということもあって、いいとこのボンボンお坊ちゃまが集まる高校として知られているし、それは事実だった。

 …そこでの出来事は唐突に起こった。まぁ嫌なことが起こる…それはじわじわくるとは限らない。刹那、いきなり起こることだって多々ある。

 シャンパニアの校門まで行くと、そこで異様な二人組が目に入った。本当に唐突に。一人は…小さい。凄く小さい。身長は梓ちゃんと変わらないくらいの男で、丸坊主、目はくっきりとして大きく、服装は下から、靴はローファー、シャンパニアの制服のズボン、上は黒のノースリーブ一枚だった。金色のチェーンのようなネックレスと指輪をいくつかつけている。

 もう一人は、身長百七十センチくらいで細身、肩まである長髪、目は大きく、眉は細く整えられている。男だが、黒く長いスカート状のズボンをはいている。スカート下は派手な模様の入ったウエスタンブーツで、肩口から破けるようなデザインの白いシャツから、白くて細長い腕が伸びている。腕元や首の周りには、ジャラジャラとかなり多くのアクセサリが輝いていた。二人とも…まるでヤンキーマンガに出てくる悪役キャラみたいなルックスだった。

 見たらすぐに気づく。異様なのはルックスだけではない。空気感だ。ひどく澱んで歪んでいる。二人ともこっちを見てすらいないが、この二人は危険な人物であると、ルックス以外からも…そう、オーラが出ている。その場を飲み込んでしまうほどの威圧感とオーラ、それがその場に滲み出ていて、その空間を支配しているといった感じだ。

 …別に何も構うことは無い、彼らに用事は無いし、彼らだって僕らに用事はない。もう行こう…と梓ちゃんを振り返ると…彼女はいつもの真剣な眼差しの…数倍はあろうか、超真剣な眼差しで二人を凝視しているのであった。長髪の方が、梓ちゃんに気づいてこちらを見る。坊主の方は電話をしているようだ。こちらは見ていない。時間にして数分、距離にして十数メートル…梓ちゃんと長髪の男は、互いを凝視していた。

 …今更ながら気づいた。この異様な空気感と緊張感は、この二人が作り出しているのではない。梓ちゃんが大部分を作り出している。彼らが放つ威圧感とオーラは、その場の雰囲気とはまた別物であり、このとてつもなくイヤな雰囲気は、梓ちゃんが彼らを凝視していることによって作られているものだった。

「あ、梓ちゃん??」

はっきり言って、こんなにも連中を見ていては…彼らに敵意が無くても、こっちからケンカを売っているようなものだ。そう思われても仕方がないほど、梓ちゃんは長髪の彼を凝視していた。



[29581] 空気感と雰囲気 編 vol.06
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/18 12:08
坊主の方が電話を終えて、長髪に話しかける。

「先輩、新空予約取れたっす。今日は少し盛大にやりますか」

長髪の男は、梓ちゃんから目を逸らさずに、

「おお、そりゃ良かった。…もしよかったら少し動いてから行きたいな。みんなを呼んで、プレハブで遊んでから行かないか?九綱君が良ければそうしたい」

と言った。

「俺はどっちでもいいっすよ。でも、食事前は動いた方が、確か健康にいいっすよね?」

坊主は携帯電話をしまいながらそう返答して、初めてこっちに気づいた。こっちを見て、

「??…先輩の知り合いっすか?」

と、たずねる。

「いや、知らないな。…行こうか。運動と空腹は最大の調味料だと言うね。健康にもいいはずだよ」

長髪は坊主と会話しながらも、まだ梓ちゃんから目を離さない。僕は両者間から生まれるプレッシャーでどうにかなりそうだった。

「うっし、今日こそ少しは本気出しますよ」

と言った坊主頭の彼は、ゴツゴツッと拳と拳を胸の前で叩く。背丈こそないが、ノースリーブから見える腕の筋肉は凄まじいものだった。

「九綱君が本気出すなら、僕は見るだけにしておこうかな」

「それじゃ、俺お腹空かないっすよ」

 二人は話しながら校門の方、こちらのほうへ歩いてくる。長髪はまだ梓ちゃんから目を逸らしていない。梓ちゃんもずっと…ずっと長髪の彼を凝視したままだ。そのまま、距離がどんどんと詰まっていく。すごい重圧感だ。おかーちゃん、助けてって感じ…。

 二人が目の前に来る。長髪は梓ちゃんを見たまま、梓ちゃんは長髪を見たまま。坊主は僕と梓ちゃんをチラッと見たが、すぐに興味なさげに進行方向へと目線を戻す。…しかし、二人とも全く目を逸らさない…でも、不思議とガンつけるだとか、睨み合っているわけではないという感覚が伝わってくる。これは…互いに互いを観察しているという感じだ。観察という言葉が頭に浮かんだ瞬間、これは我ながらピッタリの表現だと思った。そうだ、この二人は互いを観察しあっている。お互いに、鋭く…。

 擦れ違うか、その直前か、というタイミングで、沈黙が破られた。
「私たち、用事があって、白藤先生に会いに来たんです!職員室はどっちでしょうか!??」

沈黙を破ったのは梓ちゃんだった。彼女は全くの緊張も怯えも無い様子で、ニッコリ笑って長髪から目を逸らさずに、大きな声で話しかけた。二人が足を止める。長髪はまだ梓ちゃんから目を逸らさずに静かに言った。

「僕はシャンパニアの生徒じゃない。…悪いけどわからないなぁ」

また沈黙が来る。二人は立ち止まったままだ。人生史上、最もイヤな空気感に…当事者として加わっている気がする。次の沈黙を破ったのは坊主頭だった。

「白藤ってのは知らないが…、職員室はあの建物の二階だ」

「ありがとう!!」

梓ちゃんはようやく長髪から目線を外して、坊主頭を見る。そしてニッコリ笑いながらそう言った。彼女のお礼が終わるか終わらないかというタイミングで、二人は立ち去る。擦れ違った後ろで、

「??マジで知り合いじゃないんすか?」

「いや、本当に知らないよ」

というやり取りが聞こえた。僕がホッと胸を撫で下ろすと、

「どうしたの??あの建物の二階だょ」

と、梓ちゃんが言った。本当に不思議そうな表情をしている。この時、僕は初めてはっきりと梓ちゃんの異常性を認識した。なぜああも人を凝視したのか。なぜこれだけのことをして…平気でいられるのか。なぜあのような雰囲気を作り出せるのか。恋心が消えたわけはない…が、僕の感、小さい頃から僕を支え続けた場の空気を読む感と、人のオーラを感じ取る感は、梓ちゃんに対して、盛大な緊急警報を鳴らしていた。当の本人は僕を見つめて、不思議そうな顔をしている。僕は気を取り直して、

「うん、行こうか…」

と言って、彼女の前を歩いた。

 そこからはスムーズに事は運んだ。坊主頭の言ったとおりの建物に職員室はあった。白藤先生は、黒川先生に負けず劣らずといった年齢のお婆ちゃん先生で、お茶とお菓子を出して僕らをもてなしてくれた。僕らはしばらく学校の話をして、無事に論文の原稿を受け取って、市電に乗った。帰りも何気ない世間話をして、梓ちゃんは家の最寄の降り場で降りて帰っていった。

 僕は自転車通学なので、学校まで戻る必要がある。帰途の折、今日のことを考えていた。いいムードは特になかったこと、男を凝視してた梓ちゃんのこと、気持ちを伝えることが出来なかったこと、梓ちゃんから異常性を強く感じ取ったこと。

 …正直、色々と戸惑ったけど、梓ちゃんへの想いは消えてはいない。誰だって、少しくらい変なところはあるだろう。なにより、梓ちゃんとはいい雰囲気なんだ。相性がいい。一緒にいると、時間は矢が飛び去るように過ぎる。僕は、梓ちゃんから感じ取った異常なオーラよりも、梓ちゃんと一緒にいる時の雰囲気の良さ、居心地の良さを選び取ることにした。今度は…今度こそは…たとえいい雰囲気にならなくても…想いを伝えたい。そう強く決心した。


 期末試験が終わり、もうしばらくすると夏休みに入る。もうじりじりと暑くなってきたその日。いつものごとく、三人でしょうもない話をしていた。

「でもさぁぁ??そんな格好だったら、風邪ひいちゃうじゃん??いくら夏でもそれは無いよぉぉ♪」

「でも、暑いんだぜ?だって、暑いんだぜ!?」

「いやいや、そりゃ無いよ沼ちゃん、朝起きて自分で鏡見てビックリするんじゃないの?」

「朝はいいんだよ。誰も一緒じゃなけりゃな!」

「な、な、何言ってんのよ!?バカ!!」

沼ちゃんが、梓ちゃんにドン!と押される。

「うぉっ、あぶねぇ!!」

沼ちゃんは椅子を後ろに倒し気味にして座っていたので、椅子が大きく揺れる。僕と梓ちゃんは目を合わせて二人して笑った。

 まるで何年も昔から友人だったような間柄だ。恋心も消えていないし…むしろ例の一件から少しの時を挟んで、また強くなる一方だ。もちろん、時折感じられる違和感…それは例えて言うなら、真っ白の絵の具にほんの一滴の墨を垂らして混ぜ込んだくらいのものだが、今もはっきりと存在する。消えてなんかいない。シャンパニアで男を凝視してた時に感じた警報と共に…色濃く脳裏と肌に感覚が刻まれている。

「あ、そういや二人とも、お願いがあるんだ」

沼ちゃんが改まって話を切り出す。

「なぁに♪??」

すかさず、梓ちゃんが返答する。今日も彼女は上機嫌だ。

「実は月末にライブやるんだ。すごい久しぶりなんだけど、新しい曲も何曲かできたし、今すごくバンドの調子いいんだ!それで、よかったら二人とも観に来て欲しいんだよ」

沼ちゃんは目を輝かせて、嬉々として語った。

「そうなんだ!? 行く行く、絶対行く~~!だって、前に見た時ものすごかったもん!私、今でもよく覚えてる!!音とかライトとかがね、すっごいの!!」

沼ちゃんの頼みだし、梓ちゃんが行くって言うのなら、僕は断る理由は無い。音楽についてはそれほど詳しくないし、当然ライブに行った事など無い。正直腰は引けたが、梓ちゃんが絶賛する沼ちゃんの勇姿というものを見てみたくもあった。

「もちろん僕も行くよ!梓ちゃんから噂は聞いていたしね。楽しみだ」

と、僕が言うと、沼ちゃんは嬉しそうに返答する。

「ありがとう!よっし、気合入れて頑張るぞ!!あ、これチケットね! …antipas groupってバンドが主催でさ、三つのバンドが出るんだけど、俺らは二番目でさ~~。六時半には会場は空くし、八時前くらいの出演になると思うし…」

沼ちゃんはさらに嬉しそうに、刷り上ったばかりの赤いチケットを僕と梓ちゃんに渡して、ライブの説明をする。確かに梓ちゃんが言ったとおり、なんだか羨ましい。やりたいことがあって、それに向かって一直線って感じだ。沼ちゃんの熱く真剣な眼差しが作り出す、この場の空気感は僕にそう伝えた。

 放課後…梓ちゃんはすぐに屋上に上がっていった。最近はグラウンドの水のみ場の傍でしゃがんで、じっとグラウンドを見てることも多い。僕が、近くで見たほうが面白いと言ったせいか、屋上が三割、水のみ場のそばが七割くらいの割合で、近くでの観戦が増えていた。男友達が異常に多い梓ちゃんは、水のみ場のそばからグラウンドを見てる時、今から帰宅するのであろう多くの男子から話しかけられていた。それに対して一つ一つ応対して話していたが、遊びに誘われたり、帰宅に誘われたりしても、決してその場を離れようとしない。少し話をしたら、またグラウンドを見る行為に戻るのだった。そのせいか、梓ちゃんの放課後のグラウンド観戦モードの時は一緒にいてもつまらない、という話は、梓ちゃんを知る人にとって常識となっていた。今では、放課後グラウンド観戦モードの梓ちゃんは、皆に帰りの挨拶程度しか話かけられない。したがって、水のみ場のそばでしゃがんでグラウンドを見ている梓ちゃんは、基本的に一人である。

 僕は梓ちゃんのそばに行く。水道の蛇口が設置されているコンクリ台に腰掛けた。ちょうど、しゃがみ込んでいる梓ちゃんの右上から、彼女を見下ろす形になる。梓ちゃんは振り向きもしていない。

「なに、」

その瞬間だった。梓ちゃんは僕の話を遮り言葉を発した。



[29581] 空気感と雰囲気 編 vol.07
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/19 11:51
「人を見てるんだ。私、人を見るのが好きなの!」

僕は驚いた。僕は、

「何を見てるの?毎日熱心だね!」

だとか、そんな感じで話しかけるつもりだったのに…でも、話は成立している。梓ちゃんは…僕のまだ発していない、まだ僕の心からこの世に出てきていないはずの問いに…しっかりと答えていた。僕は戸惑いつつも、

「なん…」

梓ちゃんはまた、僕の言葉を遮る。

「う~~ん。感かなぁ??自分でもよくわからないんだ。藤田君がなんか…人の雰囲気とか、その場の空気感読むのと同じかもね!!」

テンションが高い、いつもの梓ちゃんの声でそう言う。彼女はグラウンドを見たままで、僕のほうは振り返っていない。僕は梓ちゃんに自分の特技の話をしたことは無い。そんなことが特技だと言っても…理解されないか、理解されても気持ち悪いと思われるのがオチだと思っていたからだ。しかし、梓ちゃんはなんで…僕の言うことがわかったんだ??まるで、心の中を見透かされているようだ…。

 その時、僕ははっと気づいた。違和感の正体…澱んで歪む空気感の正体…それは梓ちゃんが、人の心の中を見透かす時に起こる現象なんだ、と。現に今の空気感は、初めて梓ちゃんと話した時に感じたもの、梓ちゃんが屋上にいた時に感じたもの、市電に乗って健軍で降りた時に感じたもの、そして何よりあの二人組に遭遇した時に感じたものと同質のものだ。彼女は人の心を見透かす。…その時に空気感が澱んで歪む。…今も澱んでいる…ということは、リアルタイムで僕の心を…。

「???どうしたの?藤田君」

梓ちゃんが目の前にいる。いつの間にか立って、僕のほうを向いて、目の前にいる…

「え?え?…いや考え事…し、してたんだ…」

色んな思考が頭を過ぎる。また僕は集中していたのかとか、梓ちゃんはいつの間に…振り返って僕の前に来たのかとか、今もまだ僕の心は見透かされているのかとか…。

「すごく難しい顔してたよ??悩み事???」

「い、いや…沼ちゃんのライブのことを考えてたんだ」

僕はとっさに言い訳した。別にやましいことをしてるわけではないのに、冷や汗がドッと噴出す。そして、言い訳を続ける。

「ほら、僕ってライブって行ったことなくてさ。ああいうのって、ちょっと怖いムードもあるじゃない??それで緊張しちゃってさ…」

僕は梓ちゃんとは目を合わせられずに…目線を泳がせてそう言った。彼女は、

(うん、わかるわかる、その気持ち!)

と、言わんばかりに、目を閉じて首を上下にゆっくりと振る。目を開いて、

「でも、大丈夫だよ。沼ちゃんもいるし、二人で行くんだし、…ていうか、他にもうちのクラスの人や、うちの学校の人、何人も行くんじゃないかな!?そんなに心配しなくても…」

言って、大きく息を吸い込んだ。

「大丈夫だって!」

僕の背中をバンと叩いた。

「痛ってぇ!」

僕は今までの冷や汗がふっ飛ぶかのように、梓ちゃんと一緒に笑いこけた。いつの間にか澱んだ空気感は、爽やかな親友との間に生まれるハッピームードに切り替わっていた。  

 今まで幾度か感じた確かな違和感は、やはり心を見透かそうとする梓ちゃんから生まれるものだろう。それは間違いない。だが、彼女から生まれる不気味さを完全に自覚して受容した今でも…彼女への想いは少しも色褪せず、心の中心にふてぶてしく座位してるのだった。


 あいにく、その日は雨だった。それほど強い降りではないが、しとしとと朝からしつこく降っている。予報によると、明日も明後日も降り続けるようで、少しの間も止む気配は無い。土砂降りでないのがせめてもの救いか。雨の日のライブだと、お客さんが減って、盛り上がりに欠けたりしないのかな…などと、素人心配しながらもライブハウスへ向かう。

 ライブハウス「ギャング」は、新市街にある。ここへも市電で向かうことになる。新市街は、熊本県内でも最大の繁華街の中心部に位置している。周囲には、熊本城や上通り・下通りという名のだだっ広いアーケード、中央郵便局や市役所、大型デパート、県立美術館などが点在し、JRや航空の交通機関の要所を除いては、県内で最も人の行き交う場所だと言える。交通も発達していて、多くのバスやタクシーが行き交う。もちろん市電も熊本城を横目にして、アーケードの中心を突き抜ける形で路線が敷かれていて、ローカルなルックスの市電が一日に何度もそこを往復している。

 ライブハウスは地下にある。梓ちゃんとは現地集合だ。僕らはまだ携帯電話を持っていなかったので、頻繁に連絡を取り合うことは出来ない。事前に行った約束と言えば、開演する七時には現地に行くという程度の簡素なものだった。夏休みに入って一週間ほどたつが、もちろんその間は梓ちゃんとは会えていない。…今日、会って気持ちを伝える。そしてできれば、夏休み中も何度か遊びたい。改めてそう思うと、色んな意味で緊張してくる。

 六時四十分くらいか。僕は地下への階段を降り、重い扉を空けた。不健康な雰囲気…暗闇の狭間から、自然界ではけして見ることのできない色の光が僕の目を突く。雨降りの外よりも湿気を含んだ空気が僕を纏い、刺激的なサウンドから織り出される音楽は、僕の耳を鋭くつんざく。出入り口の扉の近くに座っているサングラスにパンチパーマで、くたびれたスーツを着ている男性から、チケットの半券と、ドリンクチケット、チラシなどが入ったビニール袋を手渡されて、ライブハウスの中へと歩いていった。すでにその空間の半分ほどは、人で埋まっている。かなりの大音量で音楽が鳴っているため、そこにいる人はみな大声で、耳と口を近づけて会話をする。初めてこんな場所に来たが…本当に異質な空間だ。正直ここにいるだけで疲れる。辺りを見回すと、梓ちゃんと沼ちゃんがいた。

 梓ちゃんは、上から白のカチューシャ、白くて薄地のブラウス、グレイのニットのスカートを履いている。靴は黒い編み上げブーツだ。彼女の私服姿は初めて見る。学校での梓ちゃんからは、まったく予想できなかった、清楚で大人しい感じ、お淑やかな女の子っぽい…。梓ちゃんの印象にも、ライブハウスという場にも合ってない気がした。梓ちゃんは僕に気づくと、胸元で小さく手を振ってニッコリ笑う。

「やぁ、早かったね!」

僕が二人の下へ駆け寄ると、沼ちゃんがそう言って言葉を続ける。

「あっちに中川君と小川さんがいるよ。山口さんも来てるし、あと西田さんと木村さんも来てるよ。遅れるけど石田君と矢部君も来るよ」

次々とクラスメイトの名を挙げる。

「そっか、雨が降ってて心配したけど、たくさん人来てるじゃん!良かったな!頑張ってよ!!」

と背中をはたく。沼ちゃんは、

「任しとけ!今日は楽しんでいってくれよ!!あ、あっちで飲み物もらえるし、ビールでもソフトドリンクでも好きなものもらって。飲み物のチケットもらったでしょ?」

僕は受付で手渡されたドリンクチケットを見せて、バッチリ!という表情で微笑んだ。

 沼ちゃんは、彼を呼びに来た赤毛でウェーブがかった髪型の女性と一緒に、控え室の方へ消えていった。梓ちゃんが僕に挨拶する。

「ご無沙汰!元気??」

梓ちゃんはこの異質な場の空気に呑まれることもなく、相も変わらずのハイテンションだ。

「うん、元気元気!梓ちゃんも元気そうだね!」

「私は元気が取り得だもん!!休みでしっかり寝れてるし、なぁ~~にも問題無いょ~~♪♪」

梓ちゃんは上機嫌になると、首を振って言葉尻に音程が付く。夏休みのおかげだろう。すこぶる上機嫌に見えた。

 しばらくクラスメイトの人らと話をしていると、室内の音楽と辺りの照明が消える。照明が残されたステージの方へ、自然と注目が集まる。そうしてライブは開演した。

 最初のバンドは僕らと同じ年齢くらいの人らで、数曲演奏した後、まだあまりオリジナルの曲が出来てないから、有名な曲のカバーをするとコメントして、次の曲を始める。よくラジオやテレビで流れていて耳にする、流行りの曲のメロディ聞こえてきて、カバー曲が何曲か演奏される。

 会場内はすでに八割くらいの人で埋め尽くされている。最前列の人らは波打つように、バンドが生み出すリズムに合わせて動いている。演奏者の熱気と観客の熱気が合わさって、互いが互いを牽制・牽引して相乗効果を生み出し、その場の雰囲気を更なる高みへと昇らせていった。いつか梓ちゃんが話してくれた光景と同じものが目の前にある。

「ねっっ!!私が言った通りでしょ!!?」

 一瞬僕はギョッとした。また心を見透かされた??…今は状況が状況だけに、空気の澱みを感じ取れない。それだけに何も嫌な気はしない。むしろ気分が高揚して楽しい感じだ。心の中を見透かされたからって…それが何だってんだ!と、会場の熱気に包まれて、彼女に対する違和感などまるで気にならなくなってしまう。そんなものはとても些細なものだ。本当にそう思った。

「うん、凄いね!上手く言葉では言えないけど、すごいエネルギーだ」

「でしょでしょ!!?」

梓ちゃんとの距離は近い。とにかく大音量なので、お互いの耳元まで口を持っていかないと話は出来ない。自然に…髪と額の辺りがわずかに触れる。僕はバンドの演奏も余所に、ドキドキしてままならなかった。



[29581] 空気感と雰囲気 編 vol.08
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/20 11:48
 梓ちゃんと僕は一番後ろでバンドと観客の一体になった姿を、第三者のような視点で見ている。その情景はとにかく凄まじく、教室や電車の中、街の風景と自分の家くらいしか知らない僕にとっては、まるで異世界のように感じるのだった。

 バンドの演奏が終わると、一気にその場のボルテージが下がる。ボクシングで第一ラウンドのゴングが鳴った後のように、選手同士も観客もクールダウンするため、一息入れるという感じだ。僕は飲み物をもらって、先ほどの位置まで戻ってきた。梓ちゃんは、

「あ~~、お酒なんて飲んで!フリョォだ。藤田君いけないんだ~~!!」

と、悪戯っぽい笑みを浮かべて、横から人差し指で僕の肩をつつく。僕はみんながビールを頼んでいるようだったから、合わせてそれを頼んだ。空気を読んだつもりだったんだが…。

「そういうところってば大人だよねぇ~~私、お酒って飲んだこと無いわ。…飲んでみたいけど、ルールは守らなくちゃね!!」

梓ちゃんは宙を見て、一人で勝手にウンウン!と頷いている。すぐさま、

「あ、沼ちゃんだ!もう始まるのかな???」

見ると、沼ちゃんがステージ袖から出てきて、なんか床に小さい箱みたいなものを並べて、コードで繋いでいる。色とりどりで綺麗な小箱だ。あれも音を出すための装置かなんかだろう。じきにそれも終わった様子で、

(用意できたのかな??)

と思った時に、また客席の照明が消えて、うるさく鳴っていたBGMがスッと消える。

(~~始まる!)

そう思った瞬間に、本日二度目の大音量がギターの弦からはじき出され、沼ちゃんのバンドのライブが始まった。つい先ほど目の前にしていた光景が、寸分の違いも無く再現される。すると梓ちゃんが、僕の耳元に口を持ってきた。

「行こ!」

そう言ったように聞こえた。が、意味が解らないので聞き返す。

「?いまなんて??」

梓ちゃんは、一段と声を張り上げて言った。

「ここで見てても、何が起こってるかわからないわ!!どうせ見るんならもっと近づかなきゃ!!!」

梓ちゃんはニッコリ笑って、僕の手を掴んで前に走り出す。

「もっと近くがいい!!後ろからじゃ見えても…わからない!!!」

いつか、僕が梓ちゃんに言った言葉。僕は嬉しくなって、梓ちゃんの手を握り返した。目の前に広がるのは圧縮された人と人の…海、まるで嵐で時化っている海だ。この大海原に二人して飛び込んだ。

 そこから先は細かいことは覚えていない。リズムに合わせて、跳ねて、体を動かし、踊って、気の向くままに動いて、そして暴れた。梓ちゃんなんて、クラスメイトから持ち上げられたが最後、その場に居た人みんなにリフティングされて、ステージ前の端から端まで跳ねるボールのように運ばれていた。他にも興奮した男がステージに上がって客席に飛び込んだり、そのまま後ろまでリフティングされて運ばれたり…僕らはここにきて初めて、演奏者や観客と一体化した。流れてくる水はただの水なのに、海に混じってしまえばたちまち塩水になるかのように、僕らはライブの空気と一体になって、うねり狂うボルテージをさらに下から押し上げてやった。

 この最狂のテンションは、沼ちゃんのバンドとそのあとのバンドまで、少しも緩むことなく続き、公演のすべての項目が終わった後は、まるで戦国時代の戦の後を想像させるほどだった。会場前とは変わって比較的目に優しい薄暗い照明と、幾分か音量が絞られた場内BGMをバックに、僕らは今体感した興奮について話していた。

「すごいすごい!!!前より全然楽しかった!!」

「なんか会場が揺れている感じだったね!なんで地下にあるかわかったよ!こんなの上の階でやったらビルが崩れちまう!」

クラスメイトも含めて、みんな矢継ぎ早にその感想を口にしている。沼ちゃんと彼のバンドメンバーも客席にお礼を言いに来た。

「みんな、今日は本当にありがとう!すごい盛り上がってくれて…こんなの俺も初めてだったよ!!単純に…興奮したし、嬉しかった!!」

沼ちゃんは本当にすべてを出し尽くして、至極満足という感じだ。バンドメンバーの人らも、わざわざ出てきてみんなに口々にお礼を言う。梓ちゃんは、

「沼ちゃん~~~良かったよぉ!!私なんて何度もみんなに持ち上げられて流されちゃって…少しチビっちゃったわょ!!!」

なんて言ってる。

 みなが帰り支度をしてると、沼ちゃんがこっそりと僕に耳打ちする。

「もう遅いし、倉下送ってけよ。さっきのであいつなんか足痛めたみたいだし。うってつけじゃん」

言って、

(チャンス到来だぜ!)

と、グッと親指を立てる。僕は笑って、

「ありがと。今度は僕が全力を出すよ」

と言い、親指を立てる仕草を返して、梓ちゃんのそばに行った。

「足痛めたんだって??大丈夫かい??」

梓ちゃんは少し辛そうな表情をした後、すぐに微笑んだ。

「うん、ちょっとね…さっきので挫いたみたい…。今は痛むけど、きっと二、三日で治ると思う!」

「二、三日って…これから帰るのが大変じゃないか。もう遅いし、家か…近所まで送るよ」

「あ、ありがとー…でも大丈夫だよ。藤田君に悪いし…」

沼ちゃんがそこで口を挟む。

「出来れば俺も一緒に送ってやりたいんだけどなぁ。俺はまだ料金清算とか、打ち上げとかあるし、ちょっと外せないんだ。藤田君、悪いけど倉下を頼むよ」

ナイスフォローだ。

「うん、もう遅いし。梓ちゃん、ほんと気使わないで。送っていくよ」

「…わかった、じゃあ藤田君お願い!ごめんね!!」

二人でクラスメイトや沼ちゃん、彼のバンドの関係者さんに軽く挨拶してライブハウスを出る。

 小雨の中、市電乗り場まで歩く。梓ちゃんは、少し歩き方がぎこちないけど一人で歩けるみたいだし、表情も暗くなく、歩く速さもそう遅くはない。確かにこれなら二、三日で治るだろう。市電の乗り場までも、市電の中でもライブの話ばかりだった。

 市電は雨の中を淡々と進んで行く。十五分か二十分ほどで僕らは降りる。

「ほんとごめんね藤田君、家まではもう少しあるんだ」

梓ちゃんは、僕に本当に申し訳無さそうな表情で謝った。

「いいよいいよ、気にしないで」

僕は梓ちゃんのすぐそばに立って、傘を広げる。少々歩みが遅い梓ちゃんと、しとしと雨の中、街灯で照らされた夜の住宅街を進んでいく。僕は一気に緊張感が高まっていった。雨が降っているのと、梓ちゃんが足を挫いてるおかげで、僕らは合合傘である。距離は近い。閑静な住宅街のおかげで話もしやすく、邪魔者はいない。夜の暗さと少々頼りない街頭のおかげで、告白のムードは完全に出ている。これはチャンスだ。これ以上ないってくらいのチャンスだ。僕はこの機を逃したら、一生梓ちゃんに気持ちを伝えることが出来ないような、そんな気がした。しばらく歩いて…僕は一気に話を切り出した。

「…梓ちゃん? 僕ね…君の…ことが好きなんだ」

空気感が変わった。と、思った次の瞬間また空気感が変わる。澱んで歪む。あの空気感だ。水のみ場のそばの時を思い出して、改めて自覚する。僕は今梓ちゃんに見られている。見透かされている。でも、それは当然のことかもしれない。僕は今、愛の告白っていう…大それたことを彼女にしたんだから。梓ちゃんが僕を見るのは当然だ。僕は今まで緊張のあまり、梓ちゃんと目を合わせていなかったが、やっと濡れた道路に合わせていた視線を上げて、彼女の瞳へと移す。刹那、空気が緩んだ。澱みと歪みが消えた気がした。梓ちゃんは静かに口を開いた。



[29581] 空気感と雰囲気 編 vol.09
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/21 17:27
「…本当にごめん…藤田君のことは好き。でも、私、特定の人と男女のお付き合いは考えていないの…。逆に言えば…みんなが友人だし、それでいて恋人みたいなもの…。とても…とても変な考え方かもしれないけど、今の私たちの付き合いで満足して欲しいんだ」

言って、

「本当にごめんね…」

と付け足した。梓ちゃんは薄っすら涙を浮かべながら、すごく申し訳なさそうに、僕の告白に返答した。

 いつものハイテンションの彼女からは、思い浮かべられなかった表情とセリフだ…。梓ちゃんはいたって真剣だった。真剣に茶化すことなく僕の気持ちに応えてくれた。…振られた。こうなる予想をまったくしていなかったわけではない。僕はなぜ、梓ちゃんが男女の付き合いを避けるのかが気になった。梓ちゃんに問おうとする。

「あず…」

その瞬間、澱む。また空気が澱んで歪む。

「本当にごめん、でもこれが私…、私の気持ちなの」

また心を見透かされた??梓ちゃんは、いつものハイテンションの時とは打って変わって冷たく、そして静かな声で言った。今もこの間の水飲み場の時と同じように、こちらの疑問を聞きもせずに答えていた。しかし、応答は成立している。一気にあの時の不気味さと不信感が脳裏によみがえる。同時に色々なことが頭を過ぎる。僕はどうすればいいのか、どうしたいのか、どうすべきなのか…少しの間だけ…考えて結論を出そうとする。梓ちゃんが…どんなにいびつな空気感を出そうが知ったことか!僕は…自分の梓ちゃんを想う気持ちの方がずっと大切だ。そう結論付けた。前々から何度となく思ってきたことだ。しかし、僕のその気持ちは、梓ちゃんに静かに拒絶されている。  

 …考えた挙句、僕は今までの関係…友人関係、沼ちゃんと三人で話す関係、クラスメイトとしての関係、二人で合合傘をして歩いても…何も違和感が無い関係、好きだと言葉を伝えるに至るほど親密になった関係…これこそを大切にしたい、崩したくない、決して失いたくないと考えた。幸いにも梓ちゃんはさっき、

「今の私たちの付き合いで満足して欲しい」

と、言った。僕さえ気持ちの整理ができれば、この関係…何物にも変えられないこの関係は、失わずに済むかもしれない。僕は意を決して、心に覚悟を作り上げて返答した。

「…わかった。じゃあこれからも仲の良い友達でいよう。でも僕は待ってる。…いつまでも待ってるから…もし気が変わったら…今度は君から…教えて欲しい」

僕は、雨音に消されそうなほど静かな声でそう言った。澱んで折れ曲がった空気感は、元に戻っている気がした。梓ちゃんは、

「うん、わかった。…ありがとう」

言って、少し微笑みを取り戻した。少し気分が明るくなる。そうだ…、僕は彼女の笑った顔が見たいんだ。梓ちゃんの笑顔を望んでいる。泣かせてどうする??泣かせちゃったんじゃ…全然、全然ダメじゃんか…。僕はそう心に強く思った。


 夏休みも中盤を過ぎた頃のクソ熱いその日。唐突に、本当に唐突に、父の転勤の話が家族の食卓に浮上した。

 父は大森組という、世間でも有名な上場一部の建築系の会社に勤務しているのだが、なんと北海道支社務めになるらしい。給与は一気に上がるし、これまでの貯金と転勤を承諾する際に発生するお金で、家を買うことも考えていると言う。北海道支社勤めになると、もう転勤はまず無いとのことだ。転校は大変だと思うけど、高校生活は始まったばかりだし、向こうで安定した生活を基盤に、新しい環境で勉学に勤めて欲しい。そう両親は言う。

 …心に引っかかることは一つしかない。梓ちゃんのことだ。しかし、両親はもうこの転勤を心に決めている。僕が今ここでどうこう言っても、転勤は覆らないだろう。恋心がおさまったわけではないが…このまままるで知らない土地に行って、まったく新しい人達と、梓ちゃん達と作ったような関係を築き上げていくのも一つの選択肢かもしれない。少し悩んだ末に…両親からしてみれば、以外にすんなりと…であろう、答えを出した。

「うん、わかった。…でも、北海道って雪が降るし、積もって大変なんじゃないの!?」

と、何も心残りが無いかように振舞った。父さんと母さんは、元々北陸の出身で雪には慣れ親しんでいる。

「なぁに、人間どこだろうと住めば都さ。雪もいいもんだよ。ダルマできるぞ、ダルマ!」

父さんは本当に嬉しそうだ。僕はついこないだ、ずっと欲しくて欲しくてたまらなかったものを手に入れることに失敗した。でも父さんは、長年働いてきた自分への評価と、その評価を受け入れてもよいという家族の了承を得た。きっと欲しかった物に違いない。本当に嬉しそうだ。思えば、僕は早急すぎたのかもしれない。もう少し時間をかけて…ゆっくりと二人の関係を成熟させていっていれば…あるいは梓ちゃんと…。

「ま、どっちにしろ転勤で不可能になるか」

「ん、なんだ?」

父さんが反応する。

「いや、こっちの話」

 自分の部屋に戻る。セミがジージーと鳴いている。まったくうるさくてしょうがない。同じうるさいって感覚でも、ライブハウスのあの空気感とはまるで違う。人間の感覚とは本当に不思議だ。思ったのは…人間の感覚に絶対はないということだ。僕は何度も何度も何度も…梓ちゃんが発する、澱んで歪んだ雰囲気を味わったが…今にして思えば、確信したはずのその感覚でさえも、錯角だったのではないかと思えてくる。だってあの…あの天真爛漫で、ハイテンションで、遅刻魔で、おっちょこちょいで…僕が恋心を抱いた梓ちゃんが、そんな奇妙な雰囲気を作り出すなんて…。そう思って、ふと僕は気づく。

「そう言えば、結局…僕は梓ちゃんのことを何も知らないままだな」

梓ちゃんとは本当に数多くの言葉を交わしたが、意外なほどに彼女は自分の話をしていないことに気づいた。趣味、特技、好きな食べ物、好きな本、好きなテレビ、好きな音楽、逆に嫌いなもの、家族構成、将来の夢、やりたいこと、なりたいもの、好きなタイプ、嫌いなタイプ、今まで生きてきて一番不思議だったこと、今まで生きてきて一番面白かったこと、一番悲しかったこと、誕生日、血液型…etc…今にして思えば、僕は梓ちゃんのことを何も知らなかった。

「やっぱり早急すぎたのかもなぁ。今度恋をするときは…もっとじっくり相手のことを聞いてから、告白しよう」

 夏休みは半ば過ぎ、僕がすんなりと了承したので、引越しは来週にも行われるそうだ。北海道は遠い。おそらくもう梓ちゃんや沼ちゃんと会う機会は無いだろう。電話くらいは…とも思ったが、急にそんなことを言っても二人を悩ませるだけだし、引越しを了承してしまった身としては気まずいし、何より悲しい。二人がどう思うかはわからないが、空気を読んでこのまま消えることにした。

 遠くにいるからといって、関係が崩れるとは限らない。近くにいるからといって、関係が続くとも限らない。梓ちゃんは手紙でもハイテンションなのかな…。手紙のやり取りだけでも、あるいは電話のやり取りだけでも僕の心を見透かすだろうか。異様な違和感を感じさせるだろうか。

「なんだ、やっぱり…まだまだ好きなんだなぁ」

そう独り言を言って…梓ちゃんのことを思い出すと…涙が出た。そして思った。梓ちゃんなら…梓ちゃんなら手紙の文字の筆圧や書き直し、電話の声のトーンや話し方で、僕の心を見透かすだろう。容易に。なんの造作も無く。そして、北海道にいるはずの僕の周囲の空気感を澱んで歪ませて、僕をビビらせる。だからこそ梓ちゃんなんだ。そう、それこそが梓ちゃんなんだ。

 そう気づいて、それでもやはり彼女を好きな自分に気づいた。だが、僕の感…僕をこれまで支え続けてくれた空気感と雰囲気を読み取る感は、

(これで良かった、あの女は君の手には負えない)

と、知らせている気がした。

 …ついこの間、シャンパニアの校門前で、僕の感は梓ちゃんに対して緊急警報を鳴らした。僕は梓ちゃんの心の深層に何があるのかはおろか、彼女の表面の部分すら知ることは出来なかった。それを知ることができてたなら…彼女とお付き合いできただろうか。それとも、僕の感の知らせる通り、彼女を持て余してしまっただろうか。…この答えを知る機会は失われた。おそらく…おそらくこれから先、梓ちゃんに接近するチャンスはもう二度とないだろう。…二回あったチャンスは、気づきこそしたが、生かせはしなかった。

そんなことを延々と考えていると、唐突に部屋の扉がガチャリと開く。

「も~~~、お兄ちゃん!何度呼んだら返事してくれるのよ!??起きてるんならちゃんと返事してよね!お母さんがご飯だって!!」

妹が顔を出す。

「ノックくらいしろよ!」

そう返すと、妹はさらに声を荒げて、

「何度もしたわよ!!!」

いかんいかん。また集中してしまっていたか。

「すまんすまん、ちょっと考え事してたんだ…」

すかさず怒号が飛ぶ。怒れる妹を尻目に、僕は逃げるようにリビングに走るのだった。



[29581] 人生の分岐点 編 vol.01
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/22 13:09
人生の分岐点


 ターニングポイント。人生には分岐点というものがある。人は何かをするにつけ、あらゆる行動の可能性の中から、たった一つの選択肢を選び取る。あるシーンで何かを選び取り、そしてまた次のシーンで何かを選び取る。それを繰り返す過程で、人格は形成されて行き、積み重ねられて初めて、人生と成り得る、そして、更なる果てには人間の終着点があるのだと…私は思う。

 この人生に用意されている私の選択肢…。選び捨てられた選択肢の先に…なにがあったかなぞ、当人はおろか、他の何者であろうとも知ることはできない。

 命が消えようとするとき、人はそれまでの人生を走馬灯のように思い返して、脳裏に張り巡らすという。幾度となくあった私のターニングポイントが次々と思い返される。…人生の選択肢。私は…どの分岐点を間違って進んでしまったのだろうか。


 コンビニは、その立地条件やオーナーの性格、お店の方針でその形態が決まる。店舗の持つ雰囲気は、場所、広さ、付近地域の特色、オーナー、そのオーナーによって選ばれるアルバイト、客層…こういったもので形作られるのだと思う。

 私が勤めるここ、セブンイレブン帯山店は、九州は熊本県熊本市の閑静な住宅街に位置する。熊本東バイパスという大きな通りが近くにあるが、直接面してはいないため、基本的には近隣住民がこの店の客層となる。

 交通機関の要所近くや、オフィス街の店舗だと、お客さんの顔ぶれは比較的ランダムで、流動的である。しかし、住宅街の店舗となると、客層は一軒家やマンションを購入して構えている方が対象となるため、お客さんは近所に新たに他のコンビニエンスストアが開店でもしない限りは、この店へ通い続けることになる。したがって、常連さんと呼ぶことが出来るお客さんは多く、特に話はしないものの、おそらくお互いに…顔は知っているという間柄になるのだ。

 コンビニで働いたことがある方ならわかるだろが、常連さんには誰がつけるわけでもなく、自然とあだ名が発生する。毎朝スポーツドリンクとおにぎりと新聞を買っていく太った中年男性は「太(ふとし)」、お昼にきまってパンと紅茶を買っていく美人のOLさんは「ビューティー」、深夜に立ち読みしてカップラーメンを店舗前で食べている不良少年の団体には、「ヤンキーA」「ヤンキーB」「焼きソバヤンキー」「から揚げヤンキー」、毎日メール便を持ってくる青年は「メール便の人」…などと、各人の身体的特徴や、当人がよく購入する物をもとに、大変安易にネーミングされる。そう呼んでいるということを知らないアルバイトが初耳で聞いても、「あー、あの人か!」とわかるほど、直球なネーミングがなされるのである。

 私、新城真理は二十九歳のコンビニアルバイトである。二浪の末、東京の有名私大文学部に合格して、そのまま大学院修士課程へ進学、その後博士課程に進んだのはよかったが、もう少しで博士号というところで、担当教授と反りが合わなくなり、単位取得退学という形で、実家の熊本市帯山に帰った。両親は優しく、

「真理ちゃんはずっと勉強して頑張ってきたから、少し休むといい。じっくり休んでから、今後の身の振り方をゆっくり考えなさい」

と言ってくれた。

 私のコンビニ店員歴は長い。もちろん店舗こそ幾度も変わってはいるが、浪人時代から通して、今までずっと続けている。熊本に帰ってきてからもやってきてることだし、働かないと精神衛生にも悪いから…と、とりあえず近所のセブンイレブンの面接を受けた次第だ。…それももう半年以上前の話になるが。

 コンビニに来るお客さんというのは、当然何らかの目的があって店内に入ってくる。食事を買いに来る人、飲み物を買いに来る人、タバコを買いに来る人、本を買いに来る人、お金を下ろしに来る人、宅配便を出しに来る人、トイレを借りに来た人、公共料金を支払いに来る人、万引きしに来る人…etc…最後のは冗談だけど、とにかく目的は様々である。

 私ほど店員暦が長くなると、そのお客さんと今の状況を見ただけで、その人が何を欲しているのかわかるようになる。極端な例だと、三十五℃を超えるような蒸し暑い日に、汗だくで入ってきて、メロンパン三個のみを買っていくような客はまずいない。そういう客は、二百円程度の大型ペッドボトルのスポーツ飲料を買っていく。また、小学生くらいの子供が来て、

「これくーださい!」

と、スポーツ新聞をレジに置いたりはしない。子供は、お菓子やマンガを買っていくのがほとんどだ。

 外見にこれといった特徴が無い人でも、何回か店に来れば、購入物の特徴を見ることができる。最も多いと思われる食べ物の買い物パターンですら、三、四パターン程度だ。

 十年の経験上言えるが、ほぼすべての人がそうである。…ここで「ほぼ」という表現を使ったのには理由がある。それは私が知らない客もこの世にはごまんといるだろうから、当然例外もあると思って…そう思って使ったわけではない。実際に例外として、ウチの常連客で心当たりがあったからだ。

 あだ名は「謎の女子」。彼女は、購入物はもちろん、現れる時間帯にも規則性がない。ついでに言えば、服装にも規則性が無い。来る度にコロコロと服装が変わるのだ。ほぼ毎日…私が働いている日だけでも毎回来店を確認するので、いない時間のことを考えたら、かなりの回数で店に来ていることが想像される。一日に一回は必ず来ている大常連さんである。わかることは、容姿から十四~十七歳だろうということ、これだけ頻繁に来るのだから、近所に住んでいるのだろうということくらいである。

 私が見る彼女は、推定年齢とは裏腹に大人びて見えた。髪の毛は、カラーは漆黒、髪型はボブ、長さはショート。色白で目は大きく、肌の白と黒目・黒髪によるコントラストがクッキリしている。はっきり言ってかなり可愛い。昨日は艶消しの黒いノースリーブに黒いロングスカート、履物も真っ黒の編み上げブーツを履いている。今日は全身黒尽くめだ…と思った。

 購入物は…とにかく規則性が無い。常連であれば、食べ物の好みは大方わかるものだが、彼女に至っては、棚に並んでいる順番で取っていってるのかと思うほどバラバラである。

 私は深夜バイトが主なのだが、謎の女子は現れる時間も様々で、深夜一時ごろに現れることもあれば、明け方の五時ごろ現れることもある。彼女の職業が皆目見当つかない。若い子だし、深夜徘徊しているところを見ると、フリーターかなんかで、夜は遊んでいるのかなとも思ったが…それにしては、複数人数で来店したことはなく、いつもきまって一人だった。

 印象は冷たい子供といった感じで…、一度だけ、それも一瞬だけだが、眼光が鋭く光るというか、異質な視線で他のお客さんを見ていることがあったので、そんな印象がある。ルックス、行動、印象…そう言った点で、一際目立つ女の子で…どこかしら一般人でない、普通の人ではないな、と思わせるお客さんだった。


 深夜のコンビニアルバイトというのはなかなか難儀なもので、昼間に比べると危険性が高い。熊本という田舎でもそれは同じことで、ここ最近、近所では若者の暴力事件が起きたり、お面を被った変質者が頻出したりと…なにかと物騒な話があった。しかし、東京でも深夜や早朝のバイトを行っていた私にとっては、

(…またか)

と、思えるほどありふれた話だった。その手の輩の話は幾度となく聞いたが、コンビニの店員が最も気をつけるのは強盗に対してで、当然ながら、勤務中に外を出歩いたりはしないため、店外で起きた暴力行為や変質者などの事件に絡んで、直接被害をこうむることはほとんど無い。これも経験上から自信を持って言えた。

 十月某日、深夜は少々肌寒くなると思った、そんな日。深夜三時。一般的にはこの時間を指して、草木も眠る丑三つ時だとする。お客さんも誰もいない。手持ち無沙汰なので、深夜は大体一緒にシフトに入っているオーナーさんに断って、外のゴミ箱の整理や店内清掃、書式業務をする。最近は家庭用ゴミも捨てられていることがあるので、夕方や夜にゴミ袋を換えていても、深夜にはすでにいっぱいになっていることが多々ある。そうして、いっぱいになっているゴミ袋の口を縛っていると、謎の女子が来店した。ここは店の外だが、

「いらっしゃいませー」

と声をかける。…事が起こったのはその瞬間だった。



[29581] 人生の分岐点 編 vol.02
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/23 08:36
 目の前の通りを挟んだ向こうで、叫び声と大声、物音が聞こえる。なにやら男女が揉めているらしい。店に入ろうと、扉に手をかけていた謎の女子も、声を聞いて通りのほうを振り向く。彼女の動作につられて通りのほうを向いた時だった。男性が女性を刃物で切りつけているという、とんでもない瞬間を目にする。私はあまりにもいきなりで驚いたからか、

「きゃぁっっ!!」

と、大きな声を出してしまった。刹那、男はこっちを見る。あれよあれよという間に、何の因果か、バッチリと男と目が合ってしまう。男は次に謎の女子のほうを見る。私もつられて彼女のほうを見ると…彼女はその男を凝視していた。当然ながら、彼女と男は目が合う。その様は異様だった。謎の女子は臆すどころか、眉一つ動かすことなく、男と襲われていた女性、そしてその周辺を見ている。そして、いったん状況を確認するかのようにそれらを見た後…また男を凝視する。男も謎の女子の異様さに気づいたからか、私達に目撃されたからか…こちらに今まで以上に強く注目した。その時、男が見せた一瞬の隙に…地面にへたり込んでいた女性はバッと立ち上がり、ヒールを捨てて走って逃げ出した。男は、

「待ちやがれっっ!!」

と、声を荒くして叫ぶが、視線は私達と逃げる女性の間を行き来している。女性は逃げ出してしまったし、思いっきり目撃されてしまった…。どうすればいいのかわからないという状態に陥って、パニックになっているように見えた。もちろん私自身もパニックである。とっさに、

「け、警察を…」

と言って、店に入ろうとすると、男は(クソッ!) と言わんばかりの表情をして、女性とは別の方向へ逃げていった。私はその後、少しの間ポカンと口を開けて呆けていたが、休憩室にいる店長に話をしようとして店内に入ると、謎の女子はすでに会計を済ませて出て行くところだった。

「あ、ありがとうございました…。帰り、気をつけて帰ってね…」

と言うと、彼女は一瞬私を見た後、特に気持ちを表情に出すこともなく、人形のような整った顔立ちのまま、

「…あなたもね」

と言って、足早に店を出て行ったのであった。

 その後、店長に事情を話して警察に通報した。警察の人は被害届けが出るまで事件としては取り扱えないが、最近色々と物騒な事件の報告を受けていることもあって、付近のパトロールを強化すると言った。そして女性が履き捨てたヒールを証拠品として持っていった。私は気分的にも精神的にも大丈夫だったのだが、オーナーさんは念のためにしばらくの間だけでも…、と深夜の時間帯を外してくれて、それからしばらくは夕方中心のシフトに入ることになった。


 それから数日後。夕方は六時ごろ。あれから別段変わった様子もなく日常は過ぎてゆく。しかし、先に起こっていた暴力事件の犯人や変質者、先日否応無しに目撃してしまった男が逮捕されたとの報せは受けていない。特に新聞等で知らされることもない。このまま風化してしまうのだろうか…。季節は秋口、外は爽やかな風が吹いているだろう。…などと思っていると、一人の女子高校生が店に入ってきた。

「いらっしゃいませー」

と言う。大人しくて真面目そうな子だ。すぐに雑誌が置いてあるコーナーへ行ったから、顔までは確認していない。白のハイソックスに、靴はローファー、グレーのブレザーとスカートに白シャツ、胸には青のリボンが付いていた。

(知恩高校の制服だ…)

知恩高校は、熊本市内にある仏教系の私立高校で、学力偏差値はそれほど高くないのだが、スポーツ、特にバレーボールは全国的にも有名な高校である。

(中学生の時、すごく仲がよい友人が知恩に進学した…彼女元気かな??)

などと考えていると、当のその子がレジにくる。

 おにぎりが数個とお茶…レジ打ちして、お金を受け取ってお釣りを渡す。特に何も考えずに、

「ありがとうございましたー」

と言うと、

「元気そう。夜間ではなくなったのね」

女子生徒はそう言った。

「???」

呆けて彼女をよく見ると、その子は深夜によく店に来ていた謎の女子だった。

「!!」

驚いた…高校生だったのか!いや、そのくらいの年だとは思っていたけどまさか…という感じだ。

「思いっきり目が合ってたもの…。できれば夜は避けたいわよね」

彼女は、こちらの驚いた表情をサラリと流して、言葉を続けた。

「でも気をつけて。あの人…きっとあなたと私に…もう一度接触する」

彼女はこれもまたサラリと…恐ろしいことを言った。

「え…?せ、接触って??」

もちろん意味はわかるのだけれど…会話の流れについていけない。そう問うと、彼女は、

「襲われるかもしれないってこと」

そう言って、足早に店を出て行く。私はポカン…と口を開けて、彼女の後姿を見続けた。

 彼女が何物かは知らないけど…。

(怖すぎるわっ!)

私は本当に怖くなった。黒髪の無表情女子高生の冷たく言い放つような口調での警告、そしてあの女性を刃物で切りつけた犯人がまた来るかもしれないという恐怖…。

(もう…、なんだって私は…子供の言うことにこんなに動揺してるわけ??)

でも、彼女の言うことは一理ある。あんなに現場を直に目撃してしまったんだ。口封じのため…とか。

(…でもそんなのあるんなら、事件の直後に来てるわよっ!あ~~、やだやだ、サスペンスドラマの観すぎよね…)

 事件からは数日経っている。その後は特に話は聞かないし…、犯人はもう懲りて自宅に引きこもりながら、

(…神様どうかバレませんように…)

などと、手を合わせて祈っているのかもしれない。…でも、謎の女子の台詞はいやに真に迫る感じだった。

(なんか根拠でもあるのかしら…自信ありげに接触するって言い切ってたけど…。それほど自信があるんだったら…私なんかより、あの子の方がよっぽど危険じゃない。私の数倍は男を直視してたわよっ!んもう…なんでこんなことになっちゃったんだろう。あの時ゴミ捨てに外になんて出なきゃ良かったわ!仕事とは言え…悪い選択しちゃった!!)

「あ~~、もうやんなるわ~~…」

そう言って、頭をグヮシグヮシ両手で掻き回すと、

「あ、あの…」

と、目の前に困惑した表情のお客さんがいた。

「す、すいませんっ!!」

私はすぐに仕事モードへと気持ちを切り替えた。


 さらに数日が経った。謎の女子が話しかけてきた時は少々怖くなったものの、実際に何も起こらない平和な日々が続くと、あれは取り越し苦労もいいところだったと感じてしまう。

 あの子が来た次の日はまだ少し恐ろしくて、万が一刃物で刺されるようなことがあってもいいようにと…弟のマンガ雑誌をお腹に入れて勤務したりもした。が、我ながらバカみたいだ。

(そう簡単に刺されたりしてたまるもんですかっ!)

なんて思って、一人でプンプンしていると、謎の女子が店に入ってきた。



[29581] 人生の分岐点 編 vol.03
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/24 17:42
彼女は日中夕勤帯も二日に一度くらいのペースでやってくる。

「いらっしゃいませー」

 あれからは口を利いていない。私は彼女のことが気になっていた。よく見てみると、彼女はなんか…異質だ。さすがに謎の女子と名付けられただけあって、彼女独特の雰囲気がある。人を見る目つきというか、ただ普通にそこに存在している態度が堂に入っている。

(まだ若いのに…そう、子供が持つ無邪気さや落ち着きの無さがないんだわ…)

疑問点も多い。高校生なのになぜ深夜徘徊しているのか、なぜ毎日毎日服装を極端に変えるのか、なぜ購入物が一定でないのか、なぜ暴力事件を冷静に見ていられたのか、なぜ自信ありげに犯人が接触してくるなどと言っていたのか、そして…なぜその犯人に会うかもしれないのに平然としていられるのか…私にはわからないことだらけだ。

 彼女は、今日も好みやパターンを推定できない物をいくつか手にとって、どさりとレジに置く。他にお客さんはいない。まったく知らない仲じゃない。むしろ犯罪の現場を同時に目撃したという、一般にはなかなか例がない稀有な間柄だ。私が彼女に何かを話しかけて…いや、質問しようとした瞬間…、彼女は私の言葉を遮って言った。

「十八番のタバコも貰えるかしら」

私の台詞の頭に被せるタイミングがあまりにきれいだったので、私は反射的に絶句した。一瞬言葉を詰まらせた後、息を飲んで気を取り直して答える。

「た、大変申し訳ありませんが、未成年の方には煙草はお売りできません」

言うと、彼女は微笑して、五千円札を出した。

「五千円お預かりいたしますー」

と言うと、

「お釣りはいらないわ」

と言って、いつものように足早にお店を出て行く。

(なんか…こっちの言葉…はぐらかされて逃げられちゃったって感じ??しかもお釣り要らないって…あなたの買い物、千円にも満たってないじゃない…。お金持ちなの?っていうか煙草なんか吸うわけ??子供のくせに…)

(もうっ!ほんっとうに……変な子ッ!)

と、思った瞬間、出口の扉を押そうとする彼女が、

「変な子」

と、呟いたのが薄っすらと聞こえた…。幻聴か???そう思えるほど、私が心に思ったタイミングとピッタリで…。静かですぐに立ち消えてしまうような声だ。彼女はそのまま、動作に何の不自然さやぎこちなさも見せずに、スッとお店を出て行った。

 …私は面食らいながらも…お金をレジにしまって、彼女に渡すはずだったお釣りの金額分のお金を出して、募金箱に入れた。オーナーさんの言いつけだった。ガサガサッと折り曲げられた四枚の千円札を募金箱に入れ、続けてチャリンチャリンと小銭を何枚か入れる。それが済んで、

「なんなのよあの子…。変な子」

今度は声に出して言った。


 それからさらに数日が経つ。もちろん平和なままだ。何も起こってない。私はすっかり安全を取り戻した気になっていた。オーナーさんの許可を得たうえで、また深夜にもポツポツと入るようにした。

(なんか深夜のほうが調子いいのよね…)

学生、研究生時代からそうだ。往々にして、大学生や院生は夜型になるものだ。長年繰り返したライフスタイルのせいか、夜中の十二時から四時頃が最も調子がよくなるような体になっていた。

 このお店は住宅街にあるが、深夜にもそれなりの数のお客さんが来店する。レジで暇そうにしている時間も多々あるが、平均すれば一時間に十~二十人ほどのお客さんが来ているだろう。客入りは決して悪くない。深夜に戻ることができた初日から…謎の女子は来た。夜の彼女は私服だった。

 今日は、赤い男物のようなジャンバー、下は地味な薄いベージュのブラウス、帯のようなベルトに、紫のロングスカート、靴はいつかも履いていた黒の編み上げブーツだった。あとは今日のポイントです、と言わんばかりに、頭に可愛らしいブラウスと同じ色のリボンを付けている。

「いらっしゃいませー」

言うと、彼女はこちらをチラリと見て、商品棚のほうへ歩いていった。いつものごとく、規則性の無い食品をさっさと選んでレジに置く。

(今日は何か言うかな…?)

とか思いながら、バーコードを読み取っていると、彼女はいつもの静かで落ち着いたトーンで、

「また夜に来てるんだ?」

と言った。私は彼女と目線を合わさずに、商品のバーコードを読み取りながら、

「はい。もうだいぶ経ちましたし、その間何もなかったので」

と、ほんの少々「何もなかった」を強調して、嫌味っぽく言う。すると彼女は、

「辞めたほうがいいわよ」

と言った。私はバーコードを通すのを中断して、

「…え???」

と、素になってそう答え、彼女を見た。何を言っているのかわからない。静かで冷たく言い放っているが、どこかこちらを心配しているような感じがしなくもない口調…。

「もう辞めたほうがいいわ。お仕事」

彼女は声のトーンをまったく変えることなく、そう言った。



[29581] 人生の分岐点 編 vol.04
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/25 16:23
「え…?な、なんでですか??」

(お仕事…?バイトのこと??)

唐突に…こっちがまったく予想だにしないことを言われれば、反射的に聞き返してしまうのも仕方がない。私は彼女に、なにか粗相でもあったかと思ったが、答えは違う。

「危険だからよ」

至って冷静に彼女は言う。彼女は千円札を右手に持って、「はい」という表情で私に手渡す。私は焦りながら、

「せ、千円お預かりいたしますー」

と言って、レジ打ちした。彼女は今度はお釣りを受け取ると、いつものごとく足早にお店を出て行く。その後姿を呆けて見ていると、彼女はドアの前でピタリと足を止めた。振り返らずに言う。

「よく考えて選ぶのよ」

言って、店の外の夜に消えていくのだった。私はまた呆けた顔をして、ぼんやりと彼女の後姿を見続けた。

 …まるで言っている意味がわからない。

(なんでわたしがあんな子供にタメ口で仕事辞めろとか言われなきゃいけないのよ!!…たとえ客と店員という関係でも、いい加減ムカツいてきちゃうわっ!ったくなんなのよあの子!自分だって同じシーン目撃して…、しかも凝視してたくせに!!あの子の方がよっぽど危険じゃない!!)

横のレジにいたオーナーさんは私を見て、

「し、新城さん??どうかしたのかい…??」

オーナーさんは恐る恐る私の顔色を伺って、そう言った。そんなに酷い顔してたのかしら…私…。

「いや…あの女の子ですよ。いつも夜は私服の変な服装で来て、お昼にもたまにくる知恩高校の…」

「あぁ、あの黒い髪の可愛らしいお嬢さんか」

オーナーさんもすぐにわかる。そう言って、

「あの子は、夜によく東バイパス沿いのバス停のベンチに座って、ずっとボーッと車が通るのを眺めてるよ。何度か警察にも補導されたりしたみたいで、近所では評判の子だ。もっとも座ってるだけで何もしてないからすぐ釈放だ。不良って感じじゃなくて、なんか不思議で変な子だよな。謎の女の子ってところだ、ははは」

さすがは私たちアルバイトのボス。ネーミングセンスまで阿吽の呼吸。…でもバス停でずっと道路見てるって…余計に意味不明で謎だわ。

「少し前まで帯山中学に通っている姿をよく見たよ。今は知恩に行ってるのか。子どもはすぐに大きくなるな。光陰矢のごとしだ」

と、オーナーさんは笑う。私はもう少し謎の女子について話が聞きたかったが、お客さんがレジに来たので、話はこれで終わった。


 久しぶりに旧友と会うのはいいものだ。高校の時に仲が良かった同級生の鈴本洋香は、

「帰って来てるのなら、何故連絡をよこさない?」

と、私を厳しく叱った。お叱りを丁重に受けて、二人して食事に行く。

 昔の話と仕事のグチ、どうしてもこれが話題の主になる。驚かれるのは…やはりコンビニのバイトである。

「マリ、それはないんじゃないか。中央大学の院を出て…なぜ高校生のアルバイトみたいなことをやっている?」

「だって慣れてるし、腰掛けなんだもん」

クイとグラスを煽って言う。

「そんなんじゃ、彼氏も出来てないだろ?ちゃんと就職すればよい。…んー、良かったら、私がクチ聞こうか?」

旧友の鈴本洋香は、熊本日々新聞社で編集の仕事をしている。男勝りのキャリアウーマンで、高校時代から成績は良く、クラスの中心人物で、カリスマ性もあった。

「洋香はいいとこだもんねぇ~~、私だってそんなとこで働きたいよ」

「マリ…お前、自分の学歴を知ってて…私をバカにしてるのか??今度ウチを受けてみるといい。私も推薦しておくし、絶対採用されると思うがな」

新聞の編集か…文学修士なんてなんの役にもたたないと思っていたけど…。ここまで文章に携われる仕事もそうそう無いかもしれない。それに何よりやりがいのある仕事だ。俄然興味が沸いてくる。

「ほんとに??できればお願いしたいわ。採用さえしてくれれば、身を粉にして働くわよ」

「お前、向いてると思うぞ。仕事は細かいけど、生活はガサツで…すぐ馴染んでやっていけそうだ」

「ガサツで悪かったわねぇ~」

そう言って焼酎をグイとあける。

「お酒もそんだけ飲めりゃ上等だ。絶対採用だな」

洋香は、

(こんなに飲む子だったのか…)

と、私を白い目で見つつも感心している。

 今日はお酒が進んだ。学生時代から飲むのは好きだったけど、こんなに飲んだのは久しぶりだ。正直、院を中退してからは落ち込んでいた。が、両親の支えと地元での落ち着いた生活と時間が、私を癒してくれた。そろそろ新しい生活を考えてもいい頃だ…。

 ふと思う。あの時大学院を退かなかったらどうなっていたかな。意地を張って地元に帰らずに東京で就職していたらどうなっていたかな。洋香のお酒の誘いを断ってアルバイトに行っていたらどうなっていたかな。

お酒のせいか…たらればを考える。サークルで仲が良かった先輩が言ってたっけ…。



[29581] 人生の分岐点 編 vol.05
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/26 23:11
「人生は選択肢の連続だ。僕らはあらゆる分岐点の中で出会い、別れ、一緒の時を過ごす。その分岐点の選択が一つでも違っていたら…僕らは出会わなかったかもしれないし、ここにある…なにもかもが狂ってしまっていたかもしれない。そして選択を繰り返した果てにある…その人間の終着点はどういうものなのか。なぜその終着点に行き着いたのか、どうやって行き着いたのか。…それは誰もが誰ものを知ることが出来ない」

…とかなんだかそんな感じのこと。…確かにそうよね。人は何気なく生きているけど、何気ない選択をひたすら繰り返してる。その何気ない選択が、未来を大きく変える可能性だって…大いにあるわ。…でも、そんなの…どうしたらどうなるかなんて、絶対にわかんないわよね。…などと、色々と思い耽ってると、すでにダウン気味の洋香がムクッと起き上がる。

「帰る~~。タク乗り場まで連れてってくれ!!」

と、言いながら…ゲロゲロと吐いていた…。

 夜の風は冷たく、もう秋の終わりを伝えていた。季節は巡って人々をやさしく諭す。それは母親が朝に子供を起こすかのように、父親が悪いことをした子供を叱るかのように、優しく、厳しく…人々に時の流れを知らせる。人生の中を連続して、必ず我が身に降りかかってくる分岐点…、それはまるで季節の変わり目のようなものだ。必ず来るとわかりきっているのに…それが何時だかは曖昧で…はっきりとはさせていない。

 洋香に肩を貸して、ユラユラと歩いていた私たちは、やっとタクシー乗り場に着いた。タクに洋香を乗せて、彼女の自宅の住所を運転手に告げる。彼女の家は私の家とは反対方向なので、彼女とはここで別れることになる。彼女は、

「わらしは意識あるから、らいじょーぶ。らいじょーぶらって。おまえぇ、気ぃをつけて…帰り…なさぁいよぉ…」

と、非常に心配な様相だが、自宅の前で降ろされることになるので大丈夫だろう。

 私は夜風に当たって酔いの大方は醒めていた。もちろん少々残ってはいるが、彼女に比べればなんてことはない。すぐに次のタクシーが来る。夜の一時も過ぎた頃、私は夜の景色を眺めながら、自宅に向かっていた。新聞の編集の仕事のこと、アルバイトのこと、謎の女子のこと、人生の分岐点のこと、女性を切りつけた男のこと…お酒が入ると色々と考え事をする。私の人生はどうなるんだろう…みんなこんなこと考えるのかなぁ…。

 少しウトウトとしていると…視界にバス停とベンチ…と、そこに座って佇んでいる少女が移る…。とっさに、

「すいませんっ、止めてください!」

と言う。もう家は近い。運転手さんにお金を支払う。

「酔っ払ってるし、少し歩いて酔いを醒まして帰ります」

言って、タクシーを降りた。そこから十メーターほど歩いて、少女の右後ろに立つ。少女はベンチに腰掛けているので、彼女の右上から見下ろす形になる。後ろから…頭に長く付けられている白のリボンと、白のワンピース、ベージュの服を羽織っている…それくらいが確認が出来る。…深夜二時前の東バイパス沿いのバス停、そこに私達はいた。私が話しかけようとすると、意外に…彼女が先に口を開いた。

「今日は仕事じゃないのね」

やはり謎の女子だ。彼女は私を見てもいないのに、私を私だと判断して話しかけた。

「よく私だってわかったわねぇ。隣いい?」

今日は店員とお客さんの関係ではない。敬語を使う必要もあるまいと思う。

(私はこの子より一回り以上年上なんだぞっ)

と、自分自身に言い聞かせつつ、親しげに話しかけた。

「よいしょっと」

私は彼女の返答を待たずに、バス停のベンチの彼女の隣に、少しの間を開けて座る。別に彼女が何をしてようと関係なかった。ここに来たのは酔っ払っているせいと、ただなんとなく誰かと話でもしたかったせいだろう。

「いい夜ね。少し冷たいけど」

私がそう言うと、彼女は空を見上げて返答する。どこまでも続く、抜けるような黒い空は雲一つなく、星も月もクッキリと夜に抱かれていた。

「うん、月もキレイ。おかげでよく見えるわ」

???一体何が見えるのだろうと思う。

「何が見えるの?」

彼女は静かに答える。

「人よ。車に乗っている人」

意外な返答だった。でもそんなことはどうでもいい。

「私、多分あのコンビニ辞めるわ。他にお仕事を探すことにしたの」

(別にあんたに言われたからじゃないけどね)

と、心の中で舌を出して付け足す。

これもまた意外なリアクション…。彼女は私と目を合わせて、真剣に話を聞いている様子だった。

「そう?…寂しくなるわ」

と、またも意外な事を言う。お酒のせいか突っ込みも厳しくなる。

「辞めろって言ったくせに。何言ってんのよ」

笑いながら言う。彼女はその言葉を聞くと微笑んで、

「そうね」

言って、

「でも、その選択は賢いわ」

と、付け足した。

選択という言葉を聞いて、最近よく考えることが頭に浮かぶ。人生の分岐点、選択肢の連続、人間の終着点…。こんなこと、あなたみたいな子供には難しすぎるわね。尋ねようとしたが、止めた。その時、彼女はこう言った。



[29581] 人生の分岐点 編 vol.06
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/27 18:32
「あなたはその決心で、大きく未来を変えたかもしれないわ」

私はドキッとしたが…返答した。

「そんなこと聞いてないわっ!子供の知ったかぶりになんて付き合ってらんない」

私は声を少し荒げて、きつめにそう言った。彼女は(???)といった表情をして、私を見ながら少し考え込むような仕草を見せた。そして、

「ふふ、今夜は飲みすぎたのかしら?…らしくないじゃない」

と、落ち着き払った声で言った。少し冷静になる。

(私ったら…子供相手になにムキになってるのよ。大人気ない。これじゃまるで…私のほうがてんで年下の子供みたいじゃない…)

そう思って、問う。

「じゃ…じゃあ、あなたは私があのコンビニのバイトを辞めたらどうなるって思うの?」

彼女は私に合わせていた目を伏せて、首を横に振った。

「それはわからない…誰にもわからない。ただ、」

「ただ…?」

自然と彼女の話に耳を傾ける。彼女は立ち上がって、私の前に立つ。幾台もの車が静かに通って、街頭やビルのネオン、車のライトや信号の光などが様々に混じりあって…彼女の背中のすぐ後ろを幻想的な光で鮮やかに照らす。車が風と共に通り過ぎる。その風は彼女のスカートと長く結ばれたリボンと黒髪とをなびかせて揺らす。…なんて美しい様だ。まるでポストカードか、モデルさんの写真みたいだ。彼女はニッコリと微笑んでいる。

「ただ…あなたは自分の未来を自らの意志で選択したわ」

そう言って、

「お腹空いちゃったワ」

「またね」

と続けて、夜の黒に薄っすらと消えていった。私はポカンと彼女の後姿を見続けた。…いつも彼女の去っていく様を見ている気がする。

 自らの選択。そういえば今まで私は行動をする時、断固とした決意など…それを持って行動したことは一度もなかった。私が決めたことであっても…どこか他人行儀でその場の流れに流されて、まぁこれでもいいかと思って…、そうして決めたことばかりだったように思える。確固たる信念を持って、人生の分岐点を曲がったことがあっただろうか。…いや、無くてもいい。問題はこれからだ…、これだ!とわかるような分岐点にある選択肢は、私の確固たる信念と決断を持って選び取られるべきだ。…そう、これからは自らの意思を持って、人生の分岐点を通っていくんだ。そうすれば…そうすれば、たとえ終着点にどのような結末が待っていたとしても、胸を張って受け止められるはずだ。

 私は何か胸のつかえが外れたかのように…心が軽くなった。お酒で酔っ払うよりもよっぽど気分がいい。私はベロベロに酔っ払うのとはまた別の心地良さを味わいながら、自宅への帰途を辿った。


 次の日、早速両親に就職の意志を打ち明けた。高校の友人の鈴本が、新聞社の仕事のクチをきいてくれるから、とりあえずそれを受けてみようと思う、と伝える。両親は笑顔で、

「真理ちゃんがそう決めたのだったら、私達は応援する他ないわ」

と、言ってくれた。その次の日には彼女に連絡して、再度確認を取る。彼女はお酒の席と同じ様子で、二つ返事で上司に話を通しておくと言ってくれた。

 …私は人生の分岐点を大きく曲がった気がした。目の前にずっとあったのだけれども、なかなか掴み取れなかった選択肢を…両腕に抱きかかえたような感じ。

それから一週間後、面接通知が来る。それから、ちょっとした一般教養の問題と論文、二度の集団面接、三度の個人面接を経て…採用通知が来た。

「職歴以外は何も申し分ない、しかしそれも若いので何の問題も無かった」

との上司のお言葉を、洋香を通して聞いた。

私が選び取った選択肢はすべて、トントン拍子で私が思い描いて想像した通りの図柄になっていく。アルバイト先のオーナーさんにも就職についての話を全部話す。オーナーさんはまるでわが娘のことのように喜んでくれた。…皆が皆、上手くいっているように思えた。

…しかし、その日は来た。誰しもの人生に嫌なことは起こる、それはじわじわくるとは限らない。刹那、いきなり起こることだって多々あるものなのだ。

 その日はコンビニ勤務、最後の夜勤の日だった。今回の勤務が終わって、夕シフトを二回こなせばアルバイトは卒業である。その週は月末と重なり、週明けと同時に十二月となり、新聞社勤めが始まる。

 時間は三時を回ったところか…別段変わった様子はなく、お客さんがいないことを除けば、いつも通りの夜である。就職のことや、寒さのせいか少し体調を崩したことがあって、あれからバイトは少し休みがちだった。そのせいもあって、謎の女子と会うことは少なく、彼女とはあのバス停の夜からろくに口を利いていない。

(なんだかんだ言って…彼女のおかげで今の状況になったって感じもある。機会があれば礼の一つでも言いたい)

私はそう思って、少し落ち着いて話が出来るといいな。と思った。偶然か神の悪戯か…丁度その時、謎の女子が店に入ってきた。私はなんだか可笑しくなって、いつもより少し上機嫌な声で、

「いらっしゃいませー」

と言った。

 今日の彼女は、黒い編み上げブーツに、ブラックレザーのズボン、上は青のスカジャンにニット帽という、相も変わらずファンキーで統一性のない格好だ。

(ほんと、何から何まで…最後の最後まで変な子だわ)

彼女はいつものごとく、適当に食べ物を選んでは、それをよく見もしないで手に取っている。そして私がいるレジのところに来るか否やというタイミングで…、いきなりサングラスで短髪、黒のロングコートの男が店に入ってきた。

「いらっしゃ…」

 私は異常を察知して、挨拶の声を止めた。



[29581] 人生の分岐点 編 vol.07
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/28 15:02
 男は余所を見向きもせずに、一直線にレジのほう早足で来る。出入り口はレジのすぐ横にある。奥のレジにいた私の前に、会計の台を挟んで謎の女子がいる。私が「???」と戸惑っているうちに、男はコートから刃物を出す。サバイバルナイフというのだろうか?刃渡りが数十センチはありそうな…ごついナイフだった。

 この時…やっと私は、数ヶ月前に店の前で見た、女性を切りつけていた犯人だ…と確信した。レジの前にいる謎の女子は、男の形相とナイフを見て後ずさって、レジの前横に設置しているお酒の棚に当たる。酒ビンがグラグラと揺れ、うちいくつかは床に落ちてきた。男が入ってきてここまで、その間十秒も経っていない。私はあまりにもいきなりだったせいか、ビックリして体が縮こまる。体が動かない…。声も出ない…。男は叫んだ。

「お前らの目撃が俺の人生を変えた!お前らがいたから俺は道を誤った!!」

と、狂うように叫びながら、ナイフを大きく振りかぶった。目の前にいる謎の女子は男を凝視している。男は、

「その目で…俺を見るなっ!!」

と、謎の女子に近づく。その間は最早二メートルも無い。

 この一瞬で、私は今ここが…この時こそが、また一つの人生の分岐点だと思った。選択肢は何がある?時間は無い…。その時、私は決心した。考えた中で、最も悔いの無い行動を選ぶ。

(私は自分で…自らの意志でこの分岐点を曲がるッッ!!)

…ナイフを大きく振りかぶった男は、謎の女子を狙っている。私はナイフと彼女の間にレジ越しで自分の腕を入れた。腕に熱さが走る。数秒遅れて鋭い痛みも走る。鮮血が散る前に、私は彼女に言った。

「はやく逃げてっ!!」

そして、男を睨み付ける。男は私と目線を合わせた瞬間、

「そ、その目でぇぇ…俺を見るなッ!!!!」

と、さっきよりも数倍はあろう大声で叫んで、私の血で赤く染まったナイフを、私の胸に突き立てようとする。ナイフが胸に触れる感触があるかないかというくらいに、男の体が後ずさりする…謎の女子が両手で体重をかけて、男を思いっきり突き飛ばしたのだ。

 彼女は私の方を、いつになく取り乱したような表情で凝視する。さすがにいつも冷静でクールな彼女でも、ここは焦らずにはいられなかったのだろう。冷や汗と涙と私の血が顔にかかって、異形の表情になっている。彼女は、レジに前のめりになって倒れようとする私をひしと抱きかかえる。なんで逃げないのよ…と思った。

「バカ…逃げなさいよっ…二人して殺されるわよ…!!」

 …私がそう言った瞬間、第ニの異変が起こる……。もう何がなんだかわからない…さっきまで私達を殺そうと憤って狂っていた男は、こちらに背を向けて後ずさりしてくる。何が起きたの…と思い、男の向こう側を見る。

 さ、猿…???猿のお面をつけた人が、男の前に立っていた。その姿はまるで中国の人のようで…テレビや映画で見るようなもので…派手だった。派手なお猿の面に、男性物の中国の衣装を身に纏っている。そう、確か京劇とかなんとか…。

(な、なによ?何が起こっているのよっ!)

と、思った瞬間、謎の女子がポツリと言った。

「…変質者」

わたしもピンと来る。そうだ…数ヶ月前から出没しているというお面を被った変質者…こいつだ、こいつに違いない。男は後退しながら小声で、

「た、助けてくれ…」

と、猿面に怯えて、誰にと言うわけでもなく嘆く…。私達に背を向けて後退してきているので、後ろ向きのまま私達との距離が縮まる。…謎の女子は猿面を凝視している…。すると彼女は、突然私を抱いて支えたまま、後ずさりする男の尻を思いきり、前に押し出すようにして蹴った。

 …何から何まで初体験だ。…私はその直後に凄まじいものを見ることになる。彼女が蹴った様ではなく、自分から滴り落ちる大量の血でもなく、ナイフを持った男の恐ろしさでもない…。謎の女子に蹴られた男は、勢いで足が前に出る。少女の蹴りだ…こんなものでは一のダメージを負わせることも出来ない。だが、男は反動で前によろけて進んでいく…その瞬間…その瞬間である。私は凄まじいものを見た。…猿面。猿面はまるでエプロンか前掛けのように下まで伸びている上衣から、上半身をほとんど動かすことなく右足で男の首元を横から蹴りこんだのだった。その動作があまりに美しくて…私は痛みも忘れて…その美しくて激しい蹴りに見入ってしまった。男は首を境に頭と体の上部が「く」の字に曲がり、そのままレジ前の棚に体ごと突っ込んでいく。

「ガラガラガラ…ッシャアアアァァ~~~ン!!」

棚が倒れる。その直後、猿面は懐から薄い札束を出してレジの前、私を抱きかかえる謎の女子の前に、万札をパラパラっと投げ捨て、男の髪を引っ掴んでそのまま引きずって出て行こうとする。ナイフ男は完全に意識を失っていた。男が店に入ってきてから、二分も経ってないだろう。たかだか二分程度の時間のくせに…人生で最も長い時間に感じる…。棚が倒れた音で異常を察知したオーナーさんが、店の奥から出てくる。猿面はオーナーさんの目の前を、男を引きずりながらゆっくり歩く。猿面はそのまま、なんの焦りも戸惑いの仕草も見せずに店を出て行った。

「け、け…警察を…!!」

と、叫ぶオーナーさんを見た謎の女子は、柄にもなく声を張り上げて言った。

「警察なんてどうでもいいわ!救急車を呼んで!」

言って、

「店員さんが刺されているの!!」

と付け加えた。私はその時初めて…自分の胸にナイフが突き立っていることに気づいた。



[29581] 人生の分岐点 編 vol.08
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/29 14:22
 男は、謎の少女に両腕で突き押される寸前に、私の胸にナイフを刺し込んでいたのだった。認識して、起こっていることを受け入れて初めて、気が遠くなってゆく。辺りがやたらと血だらけなのは…このせいだったのか…。視界が白くなり、謎の女子とオーナーさんの私を呼ぶ声が遠くなっていく…。

 …ターニングポイント。人生には分岐点というものがある。私はつい最近、この分岐点の大切さに気づいた。決して悔いの残らぬように、自分に課された分岐点に対して、自らの意志の判断を根拠として、模索された選択肢の中から自身の行動を選び出すという信念を得た。…わたしは自らの意志で悔いのない選択をした。…だがそれは間違っていたのだろうか…。

 命が消えようとするとき、人はそれまでの人生を走馬灯のように思い返して、脳裏に張り巡らすという。幾度となくあった私のターニングポイントが次々と思い返される。…人生の選択肢。私は…どの分岐点を間違って進んでしまったのだろうか。


 ……白い天井が見える。…点滴と看護婦さんが見える。病院かな…?…どうやら天国や地獄の類ではないらしい…。私がゆっくりと目を開けると、病室の風景が意識に飛び込んできた。両親とオーナーさんが涙を流して私を覗き込む。…一命を取り留めた?

 幸いながら、ナイフは深く刺さっていたものの、横から若干斜めに刺さっていたため傷は浅くなり、さらに急所は外れていたので、致命傷には至らなかった。

 なぜか事件直後に来た救急車(猿面が事前に呼んでいた??)に、即座に病院まで運ばれて、非常に迅速な処置を得たおかげで、実際の傷の具合の割には、軽傷で済んだとのことだった。数週間で退院できるし、胸には多少の傷痕は残るものの、腕の傷痕は、ほとんど目立たなくなるまで治癒するだろうとのことだった。

 私達を襲ったナイフ男は次の日、警察へ出頭したらしい。防犯カメラに残っていた…この事件の映像を男に見せるも、猿面に関しては、

「全然知らない、いきなり襲われた」

の一点張りだったという。彼は福岡に住所を持つ人間らしく、熊本には一人で遊びに来たと言っており、警察はさらに詳しく事情聴取しているそうだ。

 事件からずいぶん経った後に…新聞社の伝手で、とある情報を手に入れた。それによると、当時熊本市内には、若者を中心とした高利貸しの武闘派の団体があった。彼らは青少年にもお金を貸し出して、暴利を貪っていたため、摘発されてしまうのだが、商売敵や他県の同様のグループともよくいざこざを起こしていたという。

 彼らは猿面に変装することによって、中の人間を入れ替えては正体を隠し、アリバイを作るようにした。そうして、裏切り者や敵対グループの者を刈っていたという…。

 女性を切りつけた挙句、私と謎の少女を襲った男は、福岡から来た猿面の敵対グループに違いなかった…。


 入院した日から数日後には、両親とオーナーさんだけでなく、洋香と、なんと新聞社の上司さんも病室に来てくれた。洋香は泣きながら、

「無事でよかった!本当に無事でよかった!」

ばっかり。

「夜な夜な祈祷してた甲斐があったぞ!」

と、涙を拭いて変なことを言う。彼女には昔からオカルト好きという側面があった。上司さんは、

「災難だったね。事情が事情だし…もちろん採用を取り消したりはしない。しっかり休養を取って、元気になって出社して欲しい」

と言ってくれた。

 私の周りの人が、私を心配してくれて大切にしてくれる…。今の私の状況を見て、私は私が辿ってきた分岐点の先にあった今を見て…辿った選択肢は、その実は間違ってなかったと確信した。これはたとえ…それなりであろうとも、必死に生き抜いてきた結果得られたものだったと思う。

 これからも人生の分岐点は、大小問わず幾度となく私の前に現れるだろう。だが私はそれを軽視したり、怯えたり、遠慮したり、見逃したりは決してしない。…私は自分の意志で選択肢を選び取るという手段を選び取った。それは世の中にいくつもある、人生を懸命に生き抜く手段のうちの一つであろう。

 私は拳をグッと握りこみ…病室にいる両親とオーナーさん、洋香と上司さんに言った。心をこめて。

「みんな、ありがとう」


 退院後、私はその足で…ある場所に向かった。知恩高校。用件は一つである。名前も知らない少女に会いに行く。呼び出す手段もないので、学校が終わる時間を見計らって、校門の前で待つ。

 夕日をバックにたくさんの生徒が下校していく。グラウンドでは多くの生徒が部活動に勤しんでいる。小一時間は待っただろうか…。遠くから一人の女の子を中心にして、男の子が五、六人歩いてくる。…彼女だ!と一瞬思ったが、その子はあまりにも謎の女子とは印象が違いすぎる。

「だぁぁかぁらぁ、私がちょっと本気出して勉強したら!クラスでトップも狙えるんだってば~!!!」

「つまり~~学年トップ!!ってワ・ケ・!!!」

と、大声&ハイテンションで周囲の男の子たちと話している。

すぐ横の男の子が言う。

「ははっ、お前の本気っていつ出るんだよ!」

彼女は、

「ぅし、来年度本気出す!!」

と言って、胸元で両手をグーにして意気込む。

「いやいやいやいや、そこは今年出さんとさぁ!!」

何人かの男の子が台詞をシンクロさせて突っ込む。

「き、気合溜めんのに…時間かかっちゃうのよ!!わたしは!!」

そうして彼女は、満面の笑みを浮かべながら、飛び跳ねるようにしてグラウンドを横切って、校門のそばまでやってくる。私が知っている彼女とはあまりにも違う姿を近くで見て、ひょっとして謎の女子は私の夢だったのではないかと思えるほど、その存在が疑わしくなる。だが、もちろん…目の前にいる男の子を何人も引き連れて、こちらへ歩いてくる少女は、謎の女子本人である。見間違うことはない。そうして私とすれ違う瞬間がくる。

「あ…」

私が話しかけようとした瞬間、彼女は私を見た。一瞬だけど…いつもの謎の少女の表情で…そして彼女は声には出さず、表情でこう言った気がした。

「良かったわね」

と。そして擦れ違う。私は何故か涙が溢れ出て…またいつものように、彼女の後姿をずっとずっと…遠く消えてなくなるまで…見続けていた

 そして、…もう聞こえないだろうけど…心を込めて言った。

「ありがとうっ!」

と。



[29581] 人とは何か 編 vol.01
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/09/30 13:26
人とは何か


 諸君は、人間とはどういったものか…と考えたことはあるかのう。人とは何か。私は、ただそれだけを生れ落ちての九十六年間、ずっと考え続けてきた。この世には人間が生み出した学術というものが存在する。それは、人間を依代として、神か悪魔のようなものが世に出現したかと思わせるような才覚や、凡人でありながら、自らのすべてを賭して学問と研究に打ち込んだ人格によって形成された世界の遺産なのじゃ。

 宗教、科学、政治、道徳、倫理、文学、数学、芸術…この世にある、ありとあらゆるものを突き詰めた人間という生き物は、以上に挙げたような学術を極めに極めた。…にも拘らず、人はどのような立場の者であっても、体系的にそれを学べるようにシステム化されたこの現代に有りながら…おそらくは有史以前からあったであろう問いに、明確な答えを出せないでおる。人とは何か。ただその単純な問いの答えを明確に出すことができない存在なのじゃ。

 ピタゴラス、老子、釈尊、孔子、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、キリスト、…ガリレオガリレイ、シェイクスピア、デカルト、ニュートン、ライプニッツ、ショーペンハウアー、アインシュタイン…この世には、神か悪魔の如き才覚を持つ者が多分におり、その歴史に、足跡と共に讃えるべき記録が残されておる。彼らの残した軌跡は、今もなお夜の空の一等星の如く光り輝き、夜の闇に惑う旅人の足元を照らして導く。人間の存在がある限り、永遠に導き続けてくれるじゃろう。…しかし、まるでキラ星のような彼らの才知を持ってしても、この人間というものの存在意義については、誰しもが納得する明確な答えを出せなかったのじゃ。

 人とは何か。なんという深遠で尊大な問いであろうか。人間が誇る英知を持ってしても、未だ回答が見出せないでおる…。正直、私のような愚小な凡人の出る幕ではない。…しかし、それでも…それでも私は、その答えにずっと恋焦がれたままじゃった。


 「先生…お体に触ります…。どうかお部屋にお戻り下さい。いま、看護の者を呼びますので…」

門人の宮本君の泣きそうな声が聞こえる。私はその声を制して言った。

「今日は幾分か気分が良い。…庭に出て人と話したい。すまぬが…車椅子を押してはくれぬか?」

宮本君は無言で涙を拭っているのか。嗚咽の声が聞こえよる。…彼が泣くのも無理もないのう。彼との付き合いもかれこれ三十年を超えた。自分の親との時間よりも長い年月を同じくして過ごしている。それだけ近くで熱心に私を支えてくれた。彼はおそらく今も涙を流しておろう。泣きながら私の車椅子を押す。彼は私の嘘を見抜けていなかった。

「のう?宮本君…君と私は一緒に学問に時を注いでから、しばらく経つ。どうじゃの?なにか思うことはあるかね?」

「……」

彼は答えない。変わりに咽び泣く声が帰ってくる。

「どうじゃ?今日も空は青いかね?」

彼はようやく答える。

「…不肖の弟子で申し訳…ありません…。私は先生の御病状を思うあまり…何も…考えられません。空が晴れていますのも、先生の…言葉で気づいた次第です…」

私は答える。ゆっくりと穏やかに。

「宮本君…、死は恐れるべきものでも、忌むべきものでもない…。また退けようとするものでもない。天寿を全うして塵に帰る姿は美しくあるものじゃ。むしろ死は誇るべきことなのじゃ」

そう言って続けた。

「だから宮本君も悲しんではいかん。死に望む人が自らにとって、大切な人であればあるほど…喪に服す心持ちを持って、その人の臨終に臨むと良いのじゃ」

彼は泣く事を堪えられずに答える。

「わ…わかりました」

 そこに…おそらく北野君であろう人物が庭園に現れる。彼は、

「先生、今日こそは免状と印を頂きます。まさか…このまま潰えるおつもりではありますまいな」

彼の心上には一点の澱みも無い。彼は私の容体を気にした上で、私の死と同時に私の思想が消えて無くなってしまう事を大変に心配している。ゆえに、自らか他の誰かを後継者として、私の思想を守り抜く心構えなのだろう。宮本君がその言葉に反応して言った。

「北野君!今はその様なことを言うときではない。先生はきっと明日にでも回復されて…また以前と同じように教壇に立ってくださる。免状だの印だのは先生のお心積もりによってなされるもの。自分からそれを催促するとは、無礼にもほどがある!」

北野君はすぐに返答する。

「宮本さん、その考えは違います。人として生まれたものは、必ず天寿を全うして天に帰ります。その姿は悲しむべきことではなく、むしろ讃えるものであるべきだ、と先生自身が言っておられる。それに先生は、この数ヶ月間ずっとご健康を害していらっしゃる。一門人として、これ以上の激務を先生に担わせたくないという気持ちがわかりませぬか。多々ある業務は門人に任せてしまって、先生には静養なさってもらうのが最良の選択ではありませんか」

宮本君は黙り込む。ここまで見てもわかるとおり、彼はどうしても自らの感情が素直に前に出すぎて、こと学問や思想においては他の門人に一歩引けを取るようなことが多々あった。もちろん彼も北野君も両者ともに私欲は無い。ただただ私の容体を心配するがあまり、言い争っているのであった。

 瞬間、眩暈が起こる。私はここが時か…。…そう判断して、先ほどから庭にいながらも、黙って話を聞いていた大久保君を含めた高弟三人に言った。

「門人を部屋に集めて欲しい。皆に私から話がしたい」



[29581] 人とは何か 編 vol.02
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/01 13:33
 三人には私にいよいよ臨終が近づいていることが伝わったであろう。今後のことを考えても、北野君の言う通り、思想と言動と才覚とが最も優れている人物を見出して…後々に起こるであろう門人間の災いを避けるためにも、後継者を選出せねばならんのかのう。しかし…私は今いる門人をもってして…私を上回る人物という者は思い浮かばんわい。…いや、この生涯を通しても…その様な人物とは出会えなかったように思う。みな私のような小さき者にも及ばずであった。

 …そう考えて、ふと一人の女性のことを思い出す。そう言えば一人おったのう…凄まじい天賦の才を持ち合わせた人がおった。…彼女ほどの才覚なら、私の後継者どころか…世を救うか滅ぼすかというほどの人になったであろうに…。

「ああも若くして亡くなってしまうとは…」

言って、気付く。

「そうか…あの時の少女は…彼女の娘じゃ。…ははは、道理で会った事があると思ったはずじゃ。そうか、彼女の遺伝子は今も…しかも、より優れた存在となって、なおこの世に残っておるのだのう」

そう気付いて初めて、この世に残る未練に対して強気になれる。

 彼女は私の先輩じゃ。私も彼女を見習って、少しでも自らの教えが残るよう余生を送らねばならんのかもしれんのう…。…そう、私では理解ることのなかった…私の命題は門人の誰かが…私の学術の遺伝子を受け継いだ誰かが理解ってくれるかもしれんからのう…。

「のう…倉下君や…」


 …十年後。福岡は博多の大久保君の自宅にて、とある新聞社のインタビュアーが言う。

「聖君がお亡くなりになって…十年が経とうとしています。この度、私どもは聖君の高弟に当たるお三方、宮本先生と北野先生、大久保先生にお話を聞く機会を与えられました」

そう言って続ける。

「まず、聖君の生い立ちから、私のような無知な者にも簡単にお教え頂けると嬉しいのですが…。よろしくお願いいたします」

 先生が亡くなった後も、先生の教えを聞きたいという方や、先生について長く学問した方と話がしたい…という人は多かった。いや、むしろ増えている。これは先生の思想に普遍性があり、いかに優れていたかということを示唆しており、我々弟子としては光栄で大変に喜ばしいことだ。

 今回も地方の新聞社から、先生に関する記事を組みたいとの申し出があり、話をするために高弟である私たちが一堂に会しているのだった。

「これは僕が答えよう」

北野君や大久保君より、幾分か先に先生に師事した僕は、静かにそう言った。


 先生は明治の終わり、千九百年代頭に長野県で生まれた。先生の家はとても貧乏で、兄弟がとても多かったらしい。父親は足に障害があり、まともに動けなかったので、母親が農業や内職をして生計を立てていたと聞いた。先生が言うには、物心がついたときには母親は、日々の生活の苦しさのため、心身ともに磨耗していて…何かと病気がちだったという。

 当時はヨーロッパの国々が、その世相の頂点に席捲しており、バルカン戦争に第一次世界大戦の勃発や、中華民国の成立…と、世界的な国単位での動きも目まぐるしく、日本は、現代ほどに政治形態も科学技術も確立されておらず、何事も手探りで行われるような状態であったため、貧乏人は大変に虐げられたものであったそうだ。   

 先生はこの時期、母親と家計を支えながらも、幕末の際に世の流れを読み切れずに失墜して、田舎へと流れてきた老学者から学問を習っていた。そうして青年期になるまでに父と母を亡くし、兄弟のうちの何人かも流行り病で亡くしてしまう。この時に、先生は弱って死んでいく肉親を見ながら「…人間とは何ゆえにこのように苦しむ存在であるのか」という疑問を抱いたと聞いている。

 それは、必死でもがくように生き抜いてきたにもかかわらず、最後まで苦しみながら死んでいった母や、両足に重度の障害を背負って、真っ当に生きようとすることさえ否定されていた父親、人が通常送れるはずの人生のうちの幾割も生きていないのに、異形に変わりながら朽ちていった兄弟…。そしてそんな環境にありながらも、生き延びることができた自分…先生は自らの家族の惨状を目にしながら、そこに「なぜ?」という疑問を見出した。

「宮本君、君は先生の少年期について、とても重要なことを忘れているよ」

北野君が言う。僕は直ぐにそれに気づく。



[29581] 人とは何か 編 vol.03
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/02 08:29
「そうか、そうだった。先生はあまりにも不自由さをお出しになかったから、失念していた」

北野君と大久保君は「確かに」と僕に同意して笑う。僕は話を続けた。

 先生は全盲だった。とても強い刺激光を当てればわずかに感じられるそうなのだが…、この視覚障害は、兄弟を亡くした際に、看病していた自分も流行り病を患ってしまった。幸い一命は取り留めたものの、視覚を失うという後遺症が残ったと聞いている。

 十歳だかそのくらいの時に視覚を失ってしまったそうなのだが、当の本人は、

「いやいや、私とて昔は見えておったから、空の青も草木の緑も炎の赤も知っておる。それに君らがおるから、君らの言葉を通して、今でも情景を見ることが出来るんじゃよ」

…とかなんとか言って、普段から平然としていらっしゃった。事実、先生は異常に勘が鋭く、耳と鼻も一般人をはるかに陵駕するレベルで利いていた。記憶力も非常に良く、晩年でも一度聞いた話は決して忘れなかった。

 こういったことも、先生の非凡な才覚を話すに当たり、特筆すべきことだと思う。先生は目こそまったく見えていなかったが、その他の感覚器の異常な発達により、本来視覚から得られるべき情報は一切得られなくても、それを補って余りあるほどの情報を簡単に得ていた。

『わずかな足音や、微細に香るその人の匂いから、当人の姿がまったく見えぬうちに「おぉ、~~君が来た、~~君が来た」などと言って、周囲の人を驚かせていましたね』

大久保君が口を挟む。

「そうそう、これがねぇ…またちっとも外れなくてね。当たるんですよね」

北野君も懐かしむような表情でうんうんと頷く。

 勘が鋭いのも先生の特徴のうちの一つで、…実際は声のトーンや口調、話している内容で判断するらしいのだが、とにかく嘘やおべんちゃら、裏がある発言などは簡単に見破られてしまう。このことについてたずねたことがあったが、先生は、

「人というものはじゃな。自然とその心を外に映し出してしまうものじゃ。人は誰しもがそこにいるだけで…心の内を外に振りまいておる。私はそれを感じ取って、予測しているだけにすぎない。皆も心を静かに落ち着けて、その人がどのような振る舞いを行うのかを注意深く観察すれば、自然とわかるはずじゃ」

そう言っては…私が今朝何を食べたかまで言い当ててらっしゃった。これも良く当たった。七割くらいの確立で当ててらした。食事を言い当てるなど、ただの先生のお遊びだが、不思議なものだった。私のどういった情報をもとに、食べたものなぞ予測していたのか…未だに私には見当もつかない。

 ある時など、若い門弟にクラシックの楽団員の者がいて、

「せっかくですから、先生と皆様も是非コンサートにおいで下さい」

と誘うので、

「では、一つお呼ばれしようか」

と出かけたところ、席は関係者用の特別席だったが…あまりに大きいホールだったのでステージまでが遠かった。音響効果を優先したというその特別席からは、それなりの距離があったことや、楽団員はみな同じ服装をしていたこともあり、門人の彼がどこにいるのかわからない。先生にホールの説明も出来ず困っていると、当の先生は、

「なぁに、演奏さえ始まればすぐにわかることじゃよ」

と、笑って言った。私たちが(??)となっていると、じきに演奏が始まる。しばらく経つと先生が、

「右手の奥の方にいるのではないか」

と言う。さらに途中でとても素晴らしいセクションがあり、北野君や大久保君と、

「あの楽器はどの方が弾いて、どの楽器から演奏されていたものなのだろう…」

と話していると、先生が、

「左手前にいる女性が奏でているのではないか。オーボエという楽器だなぁ」

と言う。我々は半信半疑で、とりあえずは先生の言葉に頷いたのだった。

 演奏終了後に控え室に行って、門人の彼にそのことをたずねると、

「私は皆さんから見て、ステージの右手奥のほうにいました」

「あの楽器はオーボエですよ。左手前にいた白いドレスの女性が弾いていたんですよ」

と言い、

「いや、今日は先生や皆様がいらっしゃっていたことを意識しすぎたせいか、…とても緊張しました。でも、そのことを除けば、自分の中では満足いく演奏でした。今日は来て下さって、本当にありがとう御座いました」

と、感想とお礼を僕らに伝えた。楽屋には行かずに先に帰った先生にそのことを伝えると、先生は、

「ははは、そうじゃったか、そうじゃったか。…しかし、お前達は盲目の私よりも目が見えておらんのだのう」

と笑って言った。そして、

「彼は緊張していたせいか幾分か固い演奏じゃったの。が、素晴らしい演奏じゃった。彼自身も我々にいいところを見せることが出来て一安心しているだろう」

と、彼の感想をピタリと言い当てた。これには僕だけでなく、大久保君や北野君、他の門弟も大変に驚いた。


 先生は二十歳代半ばにおいては、高名な先生方の話を聞くよう、全国各地を放浪していていたらしい。先生はこれについて、

「私は目が見えないので、書より学ぶことが出来なかった。なので、世の中に響くほどの思想を持った人の噂を聞けば、その人を訪ね歩いて、話を聞いて自らの学識を養った。もちろん書を人に読んでもらって、それを吟味したりも随分と行ったが…やはり面と向かって話すのが一番良い。本や文章に比べ、随分と理解し得るものは増えて、誤解は減るものじゃ」

と言っていた。そしてブロック経済体制、軍国主義の台頭、犬養首相が暗殺された五・一五事件や、第二次世界大戦の勃発…激動の千九百三十年代の辺り…、先生は画家として過ごされた。

「絵に関しては、これもまた…先生について特筆すべき事柄のうちの一つだろうね」

北野君が言う。大久保君も頷き、

「当時は先生に絵を描いてもらいに、色んな人が来たらしいですね。軍人から官僚、経済において大成した人や、芸術家や武術家まで…果ては外国の女優まで来ていたそうです」

と言う。

 彼らは先生に絵を書いてもらう代わりに、寸志を渡していた。先生が絵描きを続けていると、次第に寸志の額も多くなっていき、この時代は多くの国民が貧窮していた時代であったにもかかわらず、食うには困らなかったらしい。また、先生はその人に「絵を描いてもらいました」という署名を、帳面に書いてもらっていたため、いつどこでなんという人物の絵を描いたのかということが、記憶と共に記録されていた。当時の世において、結構にご高名な方も署名されていた。これにより、当時の先生がそれなり注目された画家であったことがわかり、寸志も本人の言う通り、かなりの額があったのではないかと推測できる。インタビュアーが口を挟む、

「しかし…、聖君は全盲だったとお話されたばかりではないですか…。全盲の方が絵描きというのは、私には想像できません。聖君は一体どのような絵をお描きになっていたのでしょうか?」



[29581] 人とは何か 編 vol.04
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/03 04:39
私は笑って言った。

「人物画だよ」

インタビュアーは目を白黒させている。

 そう、面白いのはそこだ。先生の絵が、なぜあれほどに高名な方の間で評判になったかはそこにある。

 先生は、子供の頃は目が見えていたわけだから、当然ながら、人間の外見がどのようなものかというのは知っているし、その他でも大方の人が目にするような物は、現物を一通り目にしていた。そして、その後は盲人となり、何も見えていない。しかし先生は、その絶大なる感性で人を感じることが出来た。

 先生は人物を感じて、その印象を人物画として絵に描くのだ。まず依頼者と話をする。世間話から思想的なものまで、そして先生はその人物を判断し、キャンパスにその人の印象を描いた。先生の前では何人たりとも偽れない。偽ろうとも必ず暴かれる。極めて優れた人を見る目と判断力、感性や推理力によって描かれる、真実の絵がそこに描かれたのだ。

 先生の存在は、人間の真実の姿を描く絵描きとして、知る人ぞ知る存在になった。先生は寸志という形でお金を取っていたため、貧乏人であろうと権力者であろうと、望んだ者はみな、自らの姿を描いてもらうことが出来た。貧乏人で醜く小汚い格好の女性を絶世の美人のように描くこともあれば、社会的に成功して地位もありお金もあり…女性を何人も侍らせているような二枚目の男性を、化け物のように醜く弱々しく描いたこともあった。出来あがった絵は、人の様相を保っているのとは限らない。人外の姿に描かれることも少なからずあった。

 先生は「自らの真の姿を知りたい者は放浪している彼に会うといい。だが、その際はくれぐれも自分の心を磨いていくことを忘れてはならない。でないと、自分の本当の姿に直面して絶望してしまうだろう」などという評判を受けて、瞬く間に人の真実の姿を描く画家として、世間で評判になったのだった。

 千九百四十年代…激動の時代において、先生は政治家の助言役として活動なされた。俗に言う戦時中であったが、先生は全盲であり、絵を描いた際に知り合った、世の出世人と広く交流があったため、直接戦地に赴くようなことは無かった。

 当時の日本はよく知られているように、国民一丸となっての軍国主義体制を敷いており、何人たりとも、この軍国思想の正しさを信じて止まなかった。先生はここでもまた敵味方を問わず、多くの人間が消えていなくなってしまうのを目にして…いやもちろん見えてはいないのだが…「人とは何か」という、子供の時から持つ自らの命題について、深く自身に問いかけながら、政治家には人徳と道徳、倫理と人間としての在り方をくどくどと説いたという。

 もちろん先生も人間である。その人生において、間違われたことや驚かれたこともあったということを、我々は先生自身の口からお聞きしている。先生は人生最大の過ちとしてこの頃、政治家や人々に説いた「平和というものを手にしたいのなら、戦争の必要性を理解しなければならない」という思想を挙げている。先生は幾度となく、涙を流しながら…この時の自らの愚かさは、どれだけ拭いに拭っても消し去れないと言っては、悔やんでいらっしゃった。

 先生は、その後も政治家の助言役として、数々の人物の元で、彼らの話を聞いては自らの思想についてのお話をされ、日本の各地を転々として、自らの学識を磨きつつ、政治家や経済の立役者を支えていたという。

 日本においての戦後復興には、目を見張るものがあった。元来、日本人は非常に勤勉な性質を持つ。軍国主義と植民地拡大に向けられていた官民一体のエネルギーの矛先は、戦地の復興と文化的発展へと向けられることになる。

 戦後しばらくして、先生は熊本の上益城郡という土地へ家を建てて、そこに根を下ろされた。上益城郡は熊本市の東南東に位置する。市内からは車であれば、一時間ほどで着く。

 世間的には熊本市というのは、田舎というイメージがあるかもしれないが、市内はそれなりに栄えている。しかし益城郡まで入ると、周囲は緑々とした山や畑が多く、住宅街どころか、民家も少なくなってくる。先生はここで、近所の子供達に勉強を教えながら、自らの見識を更なる深さへ持っていくようにと、研鑽の日々を送られていた。私が先生と出会ったのもこの上益城においてだった。

 先生がここに家屋敷を構えて、子供に学問を教えているという噂は、ポツポツと世間に広まっていった。たまに新聞や雑誌などで記事が取り上げられることもあり、先生の所在は世に知られるところとなり、益城のご自宅には、今まで関わった数多くの人、そして先生の見識に触れて、自分の思想を高めたいと望む人が多く集まってきた。彼らは多種多様で、大阪東京はもちろんのこと、北海道や沖縄の人も「是非とも一度お話を聞きたい」と、先生の元へ集ってくるのであった。大久保君や北野君もそうして先生の元を訪ねてきたクチだ。彼らほど熱心な者になると、自分が住んでいた家土地を処分して、熊本市内に職を見つけて、すぐに益城に行ける場所に住まいを構えるのだった。そして来る日も来る日も、先生や高弟達と論議の交流を深めて、各々が自らの学識を高めて行くのであった。

 先生は晩年までこのような生活を送った。たまには友人を訪ねたり、外の空気を吸いに行くと言って、フラッといなくなることはあったが、基本的には益城のご自宅にいらっしゃった。

「と、まぁ先生の人生について、私が知るところはこんなところですね」

私は一息ついて言った。インタビュアーが答える。

「貴重なお話ありがとう御座います。それでは、お三方には、それぞれ聖君についてたくさんの思い出がおありかと思いますが…、よろしければ面白いエピソードなどありましたら、お聞かせ下さい」

北野君が言う。

「僕が最も印象深いエピソードとして記憶しているのはあれだ。やっぱり、占師との一件だね」

「ああ、あれか。あれは面白かったな」

私は思わず同意した。彼は「あれはね…」と話し出す。



[29581] 人とは何か 編 vol.05
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/04 04:51
 あれは…僕が先生の弟子となって四、五年くらいだったかな。今からもう四十年以上前の話になる。先生の家の門の前を掃いていると、先生と同じか、少し若いくらいの男が尋ねてきてね。…先生の家には来客は多かったけど、その客には高貴な方もいらっしゃれば、一般の方もいらっしゃる。当然ながら、先生は人を社会的地位や成功の具合、外見の美醜、金銭を多く持っているか否か…などでは判断しない。それゆえ、老若男女問わず、色んな立場の方が訪ねて来ていた。それで…たまには変な方もいらっしゃる。その男は初対面から少々変だったね。

 その男は、

「自らは占師を職として、聖なる君子の人相を見に来た者だ。できればここを通して欲しい。聖なる君子と話をしたい。そして彼の人相を見せて頂きたい」

と、上段から被せてきた。僕だったらすぐに「お引き取りください」と言うところなんだけど…先生は違うんだねぇ。その話をすると、

「いやいや、遠くから私のようなものを訪ねてきて下さっているんだ、会いもせずに無下に断っては失礼じゃろう」

と、ニコニコしてその占い師と面会なさることを許可された。占い師に伝えると、彼は、「フム」

と、軽く頷いて屋敷に入っていった。そして先生と面会するのだけれど…先生を見るなり、

「ふむぅ…ふむぅ…」

と言って、挨拶はおろか名乗りもしない。僕が堪りかねて、

「君!失礼じゃないか、わざわざ尋ねてきて、そんな態度は無いだろう!!」

と言うと、…先生は僕を怒るんだよねぇ。

「北野君!君ほどあろうものが、何故彼の言動の真意を理解しない。挨拶や紹介をしないからと言って、私に敵意があるとは限らない。彼の佇まいと行動を意識すれば、すぐにでもわかる話じゃぞ」

とか言ってさ。するとそれを聞いた男は、

「さすが、世の中にその名を轟かせた大人物ですな」

と言う。先生は神妙な顔つきになって、男の方を向いて言う。

「時に…私の人相はいかがでしたかな?…よく男前だとは言われますが」

先生は笑う。男は微笑して、

「残念ながら…僕が探し求めているものではなかったのう。本当に残念じゃい」

と、言った。さすがに僕はもう堪えられなくなって、男に掴みかかろうと一歩踏み出す。と、

「北野君!」

先生は僕を制した後、男に静かに言った。

「御眼鏡に適わなくて残念ですな。しかし…私は自身のことを常々凡である、凡であると言い続けてきましたのに…世間は私を過大評価なさる」

言って、

「どうですか、遠路はるばるいらっしゃったのに…私は何の役にも立てずに申し訳ない。もしよろしければ、私とお酒の一杯でもお飲みになりませんか??」

そう続けた。当時の僕は先生が何故このような無礼な男にも下出下出に出るのかがわからなかった。男は、

「断る理由は無い。…遠慮なく馳走になりますか」

と言って、顎髭を撫で、初めて先生に一礼した。

 彼は名を藍老といい、日本各地をフラフラとしては人相を見て、自らの目に適う人物を探している占い師なのだという。

「変なのは言動だけじゃないな。…生きる目的もおかしな男だ」

と、宮本君が文句を言うと大久保君が、

「まぁまぁ、先生は相手がどんな方であろうとも、その人の心の奥底を見抜かれて、人物を判断致します。その先生がわざわざ我々と一緒にお酒を飲もうとお誘いになるほどですから。我々にはわかりませんが、おそらくは心は清い大人物なのでしょう」

彼がそう言うと、先生が言う。

「ふむ…。大久保君、よくそこに気がついた。自らが不明であるからといって、それを拒絶してしまえばそこには何も生まれない。そういう時は、一歩下がった視点で物事を見るのじゃ。そうすれば、自ずと物事の真のあり方が見えてくる。そうして初めて、自我を通していない物事のありのままの姿を見抜くことが出来る」

それを聞くと、今まで黙りこくってはお酒を飲み続けていた占い師が、僕のほうを見て言った。

「ふむ…。時に北野さんよ、世の中の自我はどのようなあり方をしていると思うか?」

占い師は続ける。

「自我というのは、他の干渉を受け付けてここに存在している。自我は発生した瞬間から外界からの影響を受けて育つ。それでは…自我というものは、外界からの影響で構成されているも同じではないか。…これをどう考えなさるかね?」

当時の僕は…何を問われているのかすらわからなかった。先生はニコニコして、僕を初めとして席に座している門人の反応を確かめているような素振りを見せる。僕が返答に困っていると、それを見た占い師は微笑して言う。

「…わかりませぬか」

言って、

「…聖なる君子よ、あなたは学識高くとも、人を見る目は御座いませんな。お弟子さんとはいえ、この程度の問いに答えられないのでは…、聖君の後々の苦労が簡単に目に浮かびますわい」

その場の空気が一気にまずくなる。僕は怒るよりも何より、返答できなかった自分の見識の低さで、先生の顔に泥を塗ってしまったことを痛く思った。すると先生は、



[29581] 人とは何か 編 vol.06
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/05 04:25
「いやいや、私は弟子には恵まれております。この者たちは皆が皆、人生の苦しみや疑問を見出して私のもとに参りました。言わば、生きるうえでの不明を私に尋ねに来たのです。そういう者たちが未だ不明であるというのは、その師である私が不明なだけ。もしも、もっと識のある師に就いておりましたなら、きっと満足ゆく答えが出てきましたでしょうに」

と占い師に応えた。僕らは口々にそれを否定する。占い師は言う。

「ご謙遜なさるな。…では聖なる君子よ。そなたは数多の政治家にもその学識と道徳を説いてまわっておられましたが、なぜそのようなことをなさる?もちろんあなたは先ほどの自我の話なぞ、当にご理解のことでしょう」

先生は黙ってうなずく。占い師は先生を見て続ける。

「ならば何故もがきなさる?自我の成り立ちの理屈を受け入れれば、やることは自ずと決まってくるでしょう。…拒絶ですな。このような辺境の地に家屋敷を建てられたのは、隠居するためだと思っていたのですが…。いやはや、曲がりなりにも聖なる君子とまで謳われたお方が…弟子なぞを集めて、未だに人徳を説いて世に未練をお持ちとは…。正直、私は失望しましたな」

男はそう言って、席を立とうとする。

「藍老さん」

先生が呼び止める。

「…自我の成り立ちを受け入れて、世からお隠れなさるのも…それはそれで一つの答えでしょう。だがしかし、拒絶するだけが答えではありません。それに感謝するものもいれば、異論を唱えるものもいます。さしずめ…私の場合は、それを受け入れてもなお…人との関わり…人と人の世への執着を持っていたい…。そう考えていましてな。以前は世の在り方に嫌気が差して、隠居でもしようと思いはしましたが…、所詮は俗物。私では執着を捨て切れませんでしたなぁ…」

と言って笑う。占い師は問う。

「それでは、そなたは自分で選択して、執着していると言うのですか?」

先生はうなずく。

「そうなりますな。私は一度捨てたものを、また拾いました。今度はもう二度と捨てますまい」

先生は毅然とした態度で、占い師の方を向く。占い師は笑った。笑って、

「そうでしたか…。いや…なるほど、それも選択肢のうちの一つですな。人が行うことはすべて他からの干渉に由縁される。それを自覚して、なお戦おうとするとは…ははは、あなたは聖君でありながら、大変に無謀…しかし、とても勇敢なお方だ」

と言って、席を立った。

 僕は占い師を門前まで見送った。占い師は来た時とは比べ物にならないくらいの丁寧な態度で、

「大変に無礼不躾な様を行い申し訳なかった。くれぐれも先生の下で学識を磨き、世の中のために役立てて欲しい」

言って、

「それでは、縁あらばまたお会いしましょう」

と言って、去っていった。


 「あのことは今でもよく考えます。当時も仏教の縁起思想や唯心論などを踏まえてよく議論したものです」

大久保君が言う。僕は、

「他からの干渉という表現が面白かった。確かに自我というものは、そういうものであろう。あの占い師の言うことはある視点では正しいとも思う」

と言う。宮本君も口を挟む。

「問題はそれを認めた後に…どうするかですね。先生はそれでも人と人の世を見ていたいとおっしゃっていましたが…」

僕は、

「そう。それが先生の特色だった。どんな時でも、人と人との関わりと世の中のあり方を考えてらした」

そう言って、この話を締めくくった。インタビュアーが言う。

「私達には少々難しい話でしたが…とても興味深いお話です。大久保先生もなにか一つエピソードをお話して頂けないでしょうか?」

彼は黙って頷く。

「私は…私は、先生が絵をお止めになった時の事が印象に残っていますね」

宮本君が言う。

「あぁ、例の妊婦の話か…。僕はその場には居合わせなかったが…」

これも門下では有名な話だ。大久保君が話し始める。



[29581] 人とは何か 編 vol.07
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/06 04:45
 先生は、絵で放浪の旅をされた後は政治家の相談役として、これまた全国を転々としておられましたが、絵自体はずっとお描きになっていました。益城にお住まいになってからもそれはお変わりなく、近所の子供達から、東京から訪ねてきた政治家、果てはアメリカの軍人さんにまで…喜んで絵を描いて渡しておりました。

 それで、ある時…あれは三十年ほど前だったと思いますが、熊本の市内のほうに大変に優しくて頭が良いと評判の女医さんがおりまして…、彼女は新婚さんで、その時は妊娠していらっしゃったのですが…先生の庵までいらっしゃいまして、門前にいた私に、

「予てから先生のお噂の数々を聞いております。私は市内の方で医者をやっている倉下と言う者ですが、この度結婚して子宝にも恵まれ、心から幸せが溢れるような気持ちで御座います。産休のこともありまして、まとまった時間が作れましたので、かくはと思い、先生に私の絵を描いていただけたら…と思って、本日足を運ばせてもらった次第です。もしよろしければ、先生にお取次ぎ頂けないでしょうか?」

と、言いました。このような礼儀正しい方なら取り次いでも問題無いであろうと、話を通すと、先生は少し考え込むような顔つきで、

「今日は朝から気分が優れない。大変に申し訳ないのじゃが、また後日にして欲しいと伝えてくれんかの」

と、おっしゃった。先生がそう言われてはそう伝えるしかありません。彼女に、

「本日先生は体調を崩しておられまして…大変申しわけありませんが、また後日にお願いできないでしょうか?」

と言いますと、彼女は、

「わかりました。わざわざありがとう御座います。くれぐれもお体は大切になさって下さい」

と言って、ペコリとお辞儀をして帰って行きました。その数日後に、

「先日は大変失礼致しました。先生の具合はいかがでしょうか?」

と言って、彼女はまたやってきました。同じように先生に取り次ぐと…先生はまたも難しい顔をして、

「今日も気分が優れない。すまないが、また後日にして欲しいのう」

とおっしゃる。こんな対応は先生にしては珍しい。それに体調が優れていないようにも見えない。しかし、逆らうわけにも問い質すわけにもいきませんので、彼女には先日と同じように対応しますと、これもまた同じように、非常に丁寧にお礼を言って帰っていく。…もちろんまた数日後に彼女はやってきまして、

「何度も申し訳ありません。今日は先生の具合はいかがでしょうか?」

と言います。先生に取り次ぐと、いやに神妙な顔つきで,


「ふむ…やっと準備ができよったわい。いつも通りこれへ通してくれい」

と言って、客室の一つを指差しました。

 その部屋は和室で、たまにしか使われません。畳敷きに襖と障子、天井は宮崎産の杉板で組まれ、欄間も…物事を見栄えさせることを好まない先生にしては、豪勢に装飾があしらわれており、床の間と広縁もあるという、家屋敷内で最も豪華なつくりの部屋でした。

 私が彼女を部屋に通すと、部屋には香が焚いてあり…普段と違う匂いが充満していまして…さすがに私ごときでも、先生の雰囲気が異質であることに気づきました。目が見えない先生にとって、嗅覚というのは大切な感覚の一つなのです。香を焚けば、その場は清浄な雰囲気になるのですが、先生の嗅覚が潰されてしまう可能性もありますので…通常先生の自宅で香が焚かれるということは少なかったのです。

 先生は絵をお描きになる時は。いつもその方と一時間から長い方であれば五、六時間ほどお話をされます。初対面の方であったらなおさらです。目が見えない先生は、そのお話の中で相手の姿を見極めていかれるのです。その話の中でで相手の真実の姿を心で見極めてゆくのですね。それが終わると、いよいよ絵を描くのを始められるのですが…その日はとても長くお話されていまして…一向に話が終わらない。すると、その女性が帰り支度をして出てくるので(??)と思い、話を聞くと、

「随分長くお話をさせて頂きました。絵を描いて下さらなかったのは残念ですが、私の人生でこれほど貴重だったと思える時間は他にありません。本日先生に教えて頂いた様々な考え方を自分の糧として、これからも頑張って生きていこうと思いました。お弟子さんの方々も、先生に負けないような偉人になってくださいね!」

と、ニッコリ笑って言います。彼女はすこぶる満足気なのですが…先生は何故絵をお描きにならなかったのだろう??と思っていますと、先生が和室から出てきて、

「大久保君、彼女は妊婦さんではないか。家まで車で送って差し上げなさい」

と言う。私は疑問をいったん横に置いて、彼女を車に乗せて、家まで送ることになりました。

 先生のご自宅から、熊本市内の彼女の自宅までは一時間ほどでして、車内で彼女と話しておりますと、先生は私どもにも話されないような難しい話を彼女にされたそうで…彼女は、

「中でも人物像の見分け方などは、大変ためになりました。先生はその方の趣味と恐れるものを聞いて、その方が何をもって心が安らぐのか、何をもって心を乱すのかを大きく参考にして…心が安らぐものと協調性のある言葉を特に選んで口にするのだそうです。私も職業柄、たくさんの病を抱えた方に出会いますので、彼らと話をする際には心したいと思います」

「先生は目前の人が嘘をつくと、その方からまるで鈴が鳴るかのようにわかるそうです。よくドラマかなんかで使われる嘘発見器ってあるじゃないですか?ひょっとすると、先生はお話される方の心音まで聞こえていらっしゃるのかもしれませんねぇ??」

「先生が言うには…お魚が住みつくには水がある程度は泥などで汚れていた方がよく、あまりにキレイな水だと魚はそこに居着かないそうです。人も同じらしく、あまりに厳しく潔癖であると…居辛いですものね。ある程度は人間臭いような環境の方がいいのですね」

「人が金銭や地位や名声を求めるのは、まるでお猿さんが池に移った月を見て、宝玉だと思って掴もうとするようなものらしいです。そんなことをしたら、お猿さんは池に溺れて苦しいばかり。私も医師としてのキャリアを考えないことはありません。しかし、それが自分に相応する立場かどうかを考えること…今後はよくよく心したいと思います」

「人の心というのは、日々のお天気のように変わるものだそうです。たとえある時は失礼な人間だと思ったことがあったとしても、また次に会えば違う心持ちでいらっしゃることもあるそうです。第一印象や思い込みでその人のことを決め付けてはいけないのですね…」

…などど、感動のせいか、かなり興奮されてひっきりなしにお話されていました。彼女はご自宅へ着くと、

「今日は本当にありがとう御座いました!くれぐれも先生によろしくお伝え下さい!!」

と言って、笑顔で深々とお辞儀をして、家の前で私を見送って下さいました。先生の家へ戻って、先生に、

「先ほどの女性を無事にご自宅までお送り致しました。ところで、何故にあの方の人物像を描いて差し上げなかったのです?」

とたずねると、先生は画材を庭へ放り、門弟に火で焼くように申し付けました。そして、

「私はもう絵は描かぬ」

とおっしゃる。



[29581] 人とは何か 編 vol.08
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/07 08:08
私は先生の表情を見て、

(これはただ事ではないな)

と思い、お話を聞いていますと、

「私はあの女性を見抜くことが出来なんだ。彼女は何故か霧がかかったような感じで…本心というか、姿形を心に描くことが出来なかったのじゃ。…こんなことは初めてじゃ」

そう言って、

「しかし、あれほどの才覚は生まれて初めて見たのう。打てば響く才能、一を聞いて十を知るなどの言葉は、まさしく彼女のためにある言葉であろう。磨かれてこそいなかったが…、私にもあれほどの才覚があったなら…永遠の命題を解けたかもしれぬのに…。天とは惨い仕打ちをするものじゃ。私にこれほどの命題を与えておきながら、才覚を与えずして、彼女には他なる命題を与えて、才覚をも与えるのだからのう。しかも、その二人を会わせるなど…惨すぎるわい…」

と、深く嘆き戸惑っておられました。先生のこのような姿をみたのは、これが最初で最後です。私には…その女性の持つ才覚というのはまったく見抜けませんでしたが、やはり先生ほどの方の視点から見て初めてわかるものなのでしょうねぇ…。

 それから二年ほどして、その女医さんが、

「近くに往診しに来たからご挨拶に…」

と言って、菓子折りを持って来たことがありまして…丁度、先生も外にいらっしゃったので、陽気にお話されていたのですが…その時は、彼女の姿がはっきりと見抜けたそうです。先生は笑って、

「あの時はなんだったのだろうのう。画材は全部焼き払ってしまったので、絵は描けぬ…まっこと残念じゃのう」

と、言っておりました。

 二年経って、彼女の何かが変わったのか…はたまた先生があの時たまたま不調だったのか…未だにわからず終いですね。しかし、先生があのように惑われるのも、誰かを指して自分の不明を恨むと言って嘆かれたことなども…見たのは本当に、それが最初で最後ですね。


「そうなのか?私は先生が驚かれたことをもう一つ知っている」

私は口を挟む。北野君と大久保君が揃って私を見る。

「そうか…、そう言えば、あの時は私しかいなかったのか。その後直ぐに先生は調子を崩されたので、皆には言う機会が無かった…。今考えると、とても異常な出来事だったのかもしれん…」

私の言葉を聞いた北野君が慌てて言う。

「??なんだそれは?良かったら教えてくれよ」

大久保君もインタビュアーも、北野君の言葉に同調するかのように、食い入るような顔で僕を見る。

「あれは確か…」

 あれは確か…先生が亡くなる半年ほど前だ。先生が大阪にいるお知り合いに会って、帰ってきたとの報せを受けたので、JRは熊本駅まで迎えに行った。確か六月か七月くらいだったと思うが…その日はまだ涼しくて、天気も良かった。少々暑いと言えなくもないが、清々しい春がまだ残っている…というような季節だったはずだ。それで、先生を改札まで迎えに行って…外に出たのはよかったが、先生の様子がどうもおかしい。まるで何かを探すかのような動作で、辺りをキョロキョロとしている。

「??どうか致しましたか?」

と聞くと、

「いや、誰かに見られている気がする。無礼があってはいかんのぅ。周囲に誰か…私を知っている方がいて、私を見てはおらぬか?」

とおっしゃる。

(??…誰だろう?)

と思って、辺りを見回していると、駅前のど真ん前にある植え込みの傍で、ちんまりとしゃがみこんで、こちらを見ている少女がいた。

 年のころは十五、六歳くらいだろうか、まだ少しあどけなさの残る顔立ちだ。目はパッチリと大きく、可愛らしい感じの女の子で、透き通るような黒髪でストレートヘア、長さはそう長くもなく、顎の辺りくらいまでだ。

 …ルックスはとても奇抜だ。その子は、靴は編み上げブーツ、真っ黒でフリルのついたワンピースを着ていて、胸元は大きく開いている。ブラジャーの紐が出ているのが遠目にもわかった。頭には黒いリボンをつけている。ゴシックな格好だ。彼女の傍らには赤い、まるでランドセルのような鞄がある。その赤は黒の衣装と離れて一点だけある…俗な世界の中に毅然とその存在を示しながらも、人からは離れたところにある真実…そんなことを連想させる。

 …どこからどう見ても、先生とは関わりがあるようには見えない。違う人種ではないかと思えるほど、先生とは背負っている世界観が違う。しかし、彼女は先生から目を離すことなく、私が彼女を見ていることに気づいてからは、微笑してこちらを見ている。…まさか先生の知り合いというわけでもあるまいが…一応確認してみなければと思って言う。

「…一通り見ましたが、それらしい方は…。ただ、先生の左手側に先生の事をじっと見ている少女がいます。…私は存じ上げておりませんが…先生は少女のお知り合いに心当たりはありますか?年のころは十五歳か十六歳かそこいらという感じで、本当にこっちをずっと見ていますが…」

先生は左手側を向いて、笑って言った。

「ははは、そんな若い娘は知り合いにはおらんのう…。どれ」

 先生はその少女の方へ歩いていく。多くの人が行き交う中だというのに、先生は誰とも当たることなくスイスイと、少女の前まで歩み行く。少女は笑いながら先生を見たまま座っている。その様を呆けて見ていた私は、あわてて先生の後を追いかけた。



[29581] 人とは何か 編 vol.09
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/08 04:34
 先生が少女の前に立つと…少女が口を開いた。

「なぁに?お爺ちゃん??私に何か用??」

表情はニッコリと笑ったままだ。先生は言う。

「…お嬢ちゃんが私を見ていたから…ひょっとして知り合いかもしれないと思って、話しかけたんじゃよ」

少女が返答する。

「??いいえ、知り合いではないワョ♪」

少女は台詞の語尾を、まるで歌うようにして言った。私も口を挟む。

「でも、君はずっとこちらを見ていたではないか」

 …まるでこちらの声が聞こえてないみたいだ。そう思えるほど彼女はこちらの問いかけにまったく反応していない。じっと先生を見ている。先生も少女の佇まいを気にしているようだった。先生が口を開く。

「いや…、私はあなたを知っている。どこかで会ったことがある。覚えがある…。名も姿も思い出せん…が、私はあなたの存在を過去に体感している」

少女は薄く笑いながら、先生をじっと見ている。馬鹿にするような笑いではなく、嫌味がない…どこか暖かい笑顔だった。

「でも私はお爺ちゃんを知らないワ。勘違いじゃないかしら?」

言うと、先生は、

「…」

と、絶句していた。表情は明らかに戸惑っている。先生のこういう姿は極めて珍しい。驚きを隠せずに私も戸惑っていると、彼女が口を開く。

「答えが出せなくて困っているのね」

言って、言葉を紡ぐ。

「わたしのことも…あなた自身のことも」

僕は彼女が何を言っているのかわからなかった。…すると先生が、ゆっくりと口を開く。

「…わたしは…この瞬間を生れ落ちて待ち望んでおった…。あなたが私に命題の答えを教えてくれるというのか」

言って、安堵の感情と共に言葉を付け足す。

「…いやはや…長い道のりであった。私の長かった旅もこれで終わる」

と、彼女の前にしゃがみ込む。そして、ゆっくりと彼女に問う。

「……人とは何かね?」

少女は先生から視線を外す。ぼうっと宙を見たまま微笑して…長い間をおいて言った。

「残念ね…それは説明しても、きっとあなたでは…理解らない」

私は、

(小娘が!!なんと無礼な!!!)

と、心に思ったのは確かだ。しかし、声には出なかった。その場の空気が私の発言を許さなかった。直感でわかる。この二人の会話には入ってはいけないと…。

「……そうか…薄々と思ってはおったが…やはり私では知り得ることは出来ぬか…。残念じゃのう…」

先生が泣いているように見えた。…私はもはや二人を見ていることしか出来なかった。先生は立ってフラフラと歩いていく。彼女は先生を呼び止めて言った。

「待って!」

そして、

「…でも、あなたは間違っていないワ♪」

 今度の笑顔は先ほどよりも、もっともっと暖かかった…。先ほどは人を観察するかのような感じが少なからずあった。が…今はそれはすべて消え失せ、まるで友人を見るかのような目になっている。間違いない。彼女は先生を知っている。先生が振り返ると、そこにはいつもの先生の毅然とした凛々しい姿があった。

「いやいや…、取り乱して失礼したの」

彼女は先生を見て言う。

「人は…自らと他が軋み合う歯車の中で、何かを気付き得る。何を知り得て何を知り得ないかは…その人それぞれョ。だってそうでしょ?…お爺ちゃんも私もそうなのョ」

言って、

「人は…不完全なものだからネッ♪」

彼女は右手の人差し指を立てて、少しだけ振りながらそう言った。仕草は若い女の子そのものだ。しかし言葉は、若い女の子のものとは思えないほど…卓越しているように感じた。正直言って、私には彼女の言う言葉の真相がわからなかった。先生は黙って、彼女の言葉を聞いている。そして先生は、

「人生の歯車…巡り合わせにこれほど感謝した日はないわい」

と言って、足早に歩いていった。彼女はその後姿をじぃっと見ている。私はなぜか呆けて、その場に突っ立ったままだ。年は同じくらいか、一人の少年がやってきて、彼女に話しかける。

「おぅ、相も変わらず…こんなとこで何やってんだ?いつもここにいるよな」

彼女が答える。

「あ、こんにちはっ!やっほーぃ♪」

言って、今度は静かに続ける。

「人ってさ。儚いよねぇ…悲しいよねぇ…。真実を目の前にしているのに、その実体に触れられない。触れるべき立場にある人なのに…触れない。私…あまりに切なくて泣きそうだわ~~っ♪」

と、語尾こそふざけているものの、悲しそうに遠くを見るような表情で言う。男の子は、

「???なんだお前、今日はいつもよりもさらに変だぞ。なんか悪いもんでも食ったか?」

と、両手のひらを天に向けて、腕をすくめて言った。彼女は静かに続ける。

「食べてないわよぅ~~。お昼から何も。お腹ぺこぺこ!緒山君、悪いものでもいいからなんか奢ってョ!!」

「お昼から何もって…まだ三時回ってないぜ。燃費悪いなぁ…」

男の子が答える。そうして彼女は男の子と一緒に、駅の南側へと歩いていった。…私は我に返って、あわてて先生を追いかける。

 その日の晩…先生は脳梗塞で倒れられ、大学病院へと運び込まれた。幸い三週間後には退院されて、心配するような後遺症も無かったが…皆が涙を流して心配した。


「…という話だ」

私が話し終わると、インタビュアーが言う。

「聖君が驚かされたのが、若い妊婦さんや女の子だったとは、それはとても意外で、興味深いエピソードですね。聖君は残念ながら、後継者を正式な形では選出されませんでしたが…それにはどういった理由が考えられるでしょうか?」

大久保君が答える。



[29581] 人とは何か 編 vol.10
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/09 04:49
「単に門人の中に、先生に匹敵するほどの人材がいなかったからでしょう」

北野君も答える。

「やはり、門弟間での不和を恐れてのことではないかな。今ではそういった後継者が選出されなくて、かえって良かったと思ってるよ。皆で対等に話できるしね」

私も答える。

「先生は、後継者を決めて教えを引き継いで云々~というほど、大仰に事を構えてはいなかったのかもしれないね。私達との会話自体、そう大それたものでなく、各人が各々先生の話を消化して、理解してくれればそれで良いと思っていたのかもしれない」

各人別々の答えが出てくる。この中に、先生が思ったものと符合するものはあるのだろうか。インタビュアーが、

「ありがとうございました。聖君がお亡くなりになって、十年の月日が流れましたが、実際に会う機会が無かった方でも、教えを聞くと言う形で、聖君の思想に触れることが出来ると思うんです。これはきっと、そういった方々へのメッセージとなってくれるはずです!」

と言って、この話を締め括る。さらにインタビュアーは、テープレコーダーやメモ用紙を片付けながら、

「先生方、本当にありがとうございました!お蔭様で素晴らしい記事が出来そうです」

と、目を輝かせて言った。


 帰りの車の中で…私は駅前で会った少女と先生の話を…また思い出していた。少女は男の子に、

(真実を目の前にしているのに、その実体に触れない)

と言った。先生がこれまでの人生の中で、真実を目の前にしていたかどうかなんて、おそらくは初対面であろう彼女にわかるはずも無い。…ということは、彼女は先生を見たあの時に、先生の近くに真実があると判断した…ということになる。

(人は…不完全なものだからネッ♪)

何故か…彼女のその言葉は、十年以上経った今でもはっきりと思い出される。…これこそが人とは何か?の答えなのではないだろうか…。人とは不完全だ、と言いたかったのでは…?先生も当時の私も気がつかなかったが…、それは彼女自身が、

(あなたでは…理解らない)

と、言っていた通りだ。

 …そう考えて私は頭を振った。まさか…まさかあんな年端も行かぬ少女に、先生が生涯を通して考えなさった命題の答えなぞわかるはずがない。そう、わかるはずがない!

車を運転している弟子が私を見て言う。

「先生、いやに真剣な顔つきでどうかなさいましたか?」

私は、今考えた事を脳裏から捨てて答える。

「いや、人とは何か…と考えていたんじゃよ」

先生への憧れのせいか、…弟子の前では先生のような口調になる。

 先生の教えという遺伝子は、確かな形で私や北野君や大久保君をはじめとする、万人の下へと受け継がれた。私や彼らは、先生の命題を解き明かすことが出来るだろうか…。それとも少女の言うとおり、真実を目の前にしながらも、それに触れることはできず…ただ佇んでいなければならないのだろうか。



[29581] すべてを取り払った後に残るもの 編 vol.01
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/10 04:54
すべてを取り払った後に残るもの


 初めは、それを知りたいという気持ちだけだった。秘密、隠し事、他人からは見えないこと、人に見られたくないもの、プライバシー…いつの時代でも、そういったものは人々の好奇心や興味をくすぐり、世の中のうちの幾人かに対しては、それを得ようとして…なんらかの行動までも起こさせる。それほど、人の秘密というものには神秘性がある。その人が頑なに隠していることも、別に隠しているわけではないけど…結果的に他人が知り得ないことも…俺はそのどちらであろうが、できることなら、知ってみたいと強く思う。

 俺はこういった知的欲求が人一倍強い。子供の頃に、お爺さんの家の物置を引っ掻きまわしたり、父さんの鍵付きの引き出しを開けて覗いたり、姉の日記を盗み見たりした。もちろんそうして知り得た秘密は、決して口外しない。単純にその秘密の内容を楽しんで、自分だけがそれを知っているという優越感に浸るだけである。もちろん、俺が知ったことを誰も知らない…という優越感もあった。

 俺は今までにたくさんの人間の秘密を知り得てきた。ストーカー、覗き、盗撮、盗聴も専門的レベルまではいかないが…試みたことは何度もある。俺の人間性はいわゆる変態という部類に入るだろうか。だがこの行為は誰にも気付かれていない。この世に俺の変態じみた趣向を知り得る人は、未だいない。

 俺が通う九州学園高校は、私立高校の中でも偏差値は高く、シャンパニア高校、熊本学院大学付属高校、熊本第二高校などと並んでの進学校である。俺は教育熱心な両親の期待を受け、日々勉学に勤しんでいる。テストの度に、

「お前は素直な優等生だ。その調子でがんがん勉強しろ!勉学の先にしか人生は無いんだからな」

と、両親から口を酸っぱくして言われる。事あるごとに。その期待に応えるため、放課後は熊本予備校という、熊本駅から少し東に行った所にある予備校に行き、さらに数時間の授業を受けて勉強していた。

 親のかけるプレッシャーや、本当は自分はこうありたいんだ!という気持ちの葛藤は、気になった誰かの秘密を知り得ることで解消されていた。とあるクラスメイトが、実は他のクラスの誰々を好きだとか、クラスで一番の美人の佐々木さんのお尻にはホクロがあるだとか、近所に住んでいる香波さんは、毎晩彼氏とイチャついてるだとか、担任の井守先生は男子学生と不倫しているだとか…、普段の俺との関係からは、決して見えることのない事実。それを知ることは何よりの興奮であり、何よりの喜び、何よりのストレス解消であった。

 相手の秘密を知ることで得られる爽快感と、彼らの内緒を握っているという立場は、逆に俺の脳内がキレておかしくなることを抑えていた。小さい罪を犯すことで、より大きい罪を犯すことを抑制していると言える。

 親や周囲からの期待を受ければ受けるほど、その行為はエスカレートしていく。が、まだ誰にもばれてないし、知り得た秘密を漏らしてどうこうしたいという欲求も無かった。…俺は純粋に、他人の内緒…それも性的なものを吟味するという快楽を求めているのだと自覚した。そして、それをひたかくしにするため、優等生の仮面を被っているという…本末転倒の思いも感じていた。つまり、優等生であるがゆえにストーカーの仮面を被って、誰かのプライバシーを知ろうとするのか、変態の犯罪者であるがゆえに、優等生の仮面を被って生活しているのか…本来の自分がどちらなのか、自分で自分を判断できない状態である。自分を最も知らないのは、案外自分自身なのかもしれない。自分の秘密を暴きえていない…あまりにも身近すぎて…。

 …人は皆、自分を偽るために仮面を被っている。俺は他人の秘密を知る度にそう思った。他人には絶対に見せない、見せたくない自分の姿…それを隠すために、人は仮面を被って、人前では本来の自分の素顔を晒さない。

 場面や状況に応じて、多種多様の仮面を使い分けて生き抜く姿は…人間なら誰しもが行う正当なものである。正当な欺瞞…人の習性とも言えるこの不可解な当たり前は、本人が意識しているしていないに関わらず、確かに存在する。俺にとって、その仮面を一枚ずつ剥ぎ取って、その人の持つ素顔を拝むという行為は、何よりの快楽の行為だった。


 予備校での授業が終わると、市電に乗って自宅のある出水まで帰る。市電というのは熊本市内を走る路面電車のことだ。JR熊本駅の少し南を始点として、終点の健軍というところまで、熊本市の中心を縦横に通っている。市内の主要箇所を結んでいるので、地元の人はもちろん、旅行者にも重宝されている。…俺が彼女を初めて見たのは、その市電の中だった。

 彼女を意識した初日。偶然居合わせた…世界のどこかの同一点で出会う見知らぬ女。その女は俺を惹きつける何かを持っていた。

 彼女の第一印象は、知的な女性だった。市電に乗りこむと、まず車内の乗客を一通り見渡して、あとは降車までずっと外を見ている。その彼女が何かを見ている様が、何と言うか…とても知的で美しく感じられた。

 細身のクールなお姉さんといった印象で…服装はお洒落で、一際目立っていた。センスは奇抜だが格好良く、着飾ることが好きなのだろうと予想できる。

 今日は、すごく細いジーンズ、ブルーのTシャツに、前が開いた白シャツ、だらしなく結ばれたブルーのネクタイ、編み上げブーツに、赤いランドセル型のカバンを背負っている。白と青の空間にある一点の赤が、彼女のセンスの奇抜さを醸し出している。大きい目に、真っ黒でストレートの髪の毛からは、清潔感と冷たさを感じた。

 彼女は市電に乗ると、まず乗客を見渡す。彼女の目立った服装を見ていた俺と目が合う。これが俺と彼女のファーストコンタクトだった。彼女は空いている席に座って、周囲や景色を見ている。俺が下車する国府停留所まで降りない。俺よりも遠いところから熊本駅まで通っていることがわかる。

 俺は毎回決まった時間…二十一時四十分か五十二分発の市電に乗り込むのだが、彼女とは必ずしも一緒ではない。三回に一回くらいの割合で一緒になるという感じだった。


 彼女を意識した二日目。定期的に利用していると、座る席というのはなんとなく決まってくるものだ。俺はいつも入って右側…車両のなるべく後ろに座る。しかし、彼女には定位置というものは無かった。いつも適当に好きなところへ座る。ひょっとしてわざと前に座ったところを避けているのではないか、と思うほどである。

 …ふと気付く。新しい場所に座ると、違った角度からものが見える…。それはどこか、俺が他人の秘密を知りたがる動機と似ている気がした。普段見ているその人の違った面を見たい…という気持ちと。

 彼女を見ながら、そんな他愛もないことを考えていた。当の本人はボーッとした感じで、外や途中の停留所から市電に乗ってくる客を見ている。ジーッと見ているのだった。

 彼女は両太股の下に手のひらを入れて、編み上げブーツのかかとをトントンと床の木片に当てて鳴らして、退屈そうに辺りを見渡している。具体的にどこがどうというわけではない。なのにどことなく、何故か…彼女に知的好奇心を擽られる自分がいた。


 彼女を意識した三日目。熊本駅前は乗客が多いため、市電が停留している時間は長い。数分間留まっていることもままある。彼女はいつも、発車間近に乗ってくるため、市電が停留所に到着した後すぐに乗り込む俺は、いつも彼女を待ち受ける形になる。その日はいつもより乗客は多めで、席は埋まっていた。

(今日は来ないかな…)

 そう思っていると、発車直前になってようやく彼女が乗り込んでくる。彼女はいつも通り乗客を一通り見渡した後、席が一杯なのを見て…俺の目の前に立った。

 今日の彼女の服装は、ピンクのワンピースに、腰周りに同じ色の大きいリボン(帯か?)を結んでいる。白のブラウスを羽織って、清楚な雰囲気を出しているのに、ごつい黒の編み上げブーツと濃い赤のランドセルは変えずに着用していたため、トータルではいびつなファッションとなっていた。

 ドアが閉まって、市電は熊本駅前を発車する。俺は心なしか緊張していた。少しとはいえ、好意を抱く女性がそばにいると…正直ドキドキする。彼女は俺の気持ちも知らずに、いつものように外を眺めている。

 最初の会話は意外だった。呉服町前で俺の隣に座っていた男性が席を立つ…その時、彼の鞄の端が俺の肩に当たる。

「おっ、兄ちゃん、ごめんな」

と謝って、彼は降り口へと歩いていく。彼の後姿を見ていると…目の前で声がした。

「はい、落ちたわよ」

前を向き直ると、彼女がしゃがみ込んで手を出している。



[29581] すべてを取り払った後に残るもの 編 vol.02
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/11 04:44
「乗車券」

手には乗車券がある。どうやら隣の男性の鞄が当たった際に落としてしまったらしい。

「あ、ありがとうございます…」

俺は慌ててお礼を言って、その乗車券を受け取る。その時に少しだけ触れた彼女の手は、抱いていた印象とは違って、とても暖かかったのを覚えている。

 彼女はニコニコ笑って、空席になった俺の隣にトスンと座った。彼女は俺に話しかけて…すぐ隣に座っている。…何か話しかければ仲良くなれるかも…と思った瞬間、意外に、そして唐突に彼女が口を開く。

「キミの服ってさ、それって九州学園の制服だよね??」

俺はまた慌てて答えた。

「は、はい…そうです。九学です」

彼女はニコニコ笑ったままで続ける。

「そっか、頭いいんだ??私は知恩高校卒業なんだ。九学だなんて尊敬しちゃうなぁ」

第一印象から…勝手に想像していた俺の彼女の像は見事に外れた。知的で冷たい感じだと思っていたのに、いざ口を開いた彼女は、とても暖かくて少し…バカっぽかった。

「いや、全然頭良くないですよ。ほんと…」

彼女はニッコリ笑って、

「あ~もう、その謙遜が優等生っぽいワ♪」

彼女は語尾を歌うように、少し音程をつけてそう言った。

 市電は中心街に差し掛かり、たくさんの人が乗ってくる。十時過ぎ。お酒を飲んだ人、遅番や残業で仕事上がりの人、街に遊びに出ていた学生…状況は様々だが、たくさんの人が乗車して、さらに電車内はいっぱいになる。そうして、市電は淡々と進んでいく。しばらく沈黙が続いて、俺が降りる国府停留所に近づく。

「次で俺降りるんです。遅いんで、気をつけて帰ってください」

と言う。彼女は俺のことを見て、ニッコリ笑って、

「ありがと♪キミもね♪」

と、上機嫌に言った。その屈託のない笑顔にドキリとする。

(まだ会ったばかりなのに…なんでドキドキしてんだ俺…)

などと考えながら、

「じゃ、失礼します…」

と、言って下車する。彼女は笑って…手を軽く振ってくれた。


 それからというもの…よく彼女のことを思う。彼女の事を考えていれば、プレッシャーや不快感が和らいで、落ち着いた心持ちで学校や予備校に行ける。俺は友達も少なく、学校や家での会話はほとんど無い。それだけに、先日彼女と交わしたほんの少しの会話は、クッキリと鮮やかに心に残っていた。

(人を好きになるというのはこういうことなのかな…)

などと思いながら、俺は学校の授業を終わらせ、予備校へ向かう。

 彼女を意識した四日目。今日はあいにくの雨…降り止む気配は無いが、降り自体はそう激しくもなく、ポツポツといった感じだ。十時前。辺りは暗い。数日振りに、彼女が市電に乗り込んでくる姿が目に入る。俺はそれに気付きながらも、わざと目線を外して知らない振りをした。横目でちらと見ると、彼女は黒のフリルが付いた傘を閉じて、トントンと床に当てて水を切っている。そして、編み上げブーツと床の木片とが当たる、ゴツゴツとした足音がこちらへ近づいてくると、

「よっ♪」

と言って、そこには片手を上げて俺に挨拶する彼女がいた。

「あ、こんばんは…」

と言って…素っ気無く挨拶を返すも、心の内はかなりテンションが上がっていた。彼女は俺の隣に座ると、傘をコツコツとさせて、

「もー、よく降るわよね…。少し歩いただけでも濡れちゃうわっ」

と、不機嫌模様なのにも関わらず、テンションは先日同様高い。

「降りますよね。梅雨ですしねー」

と、話を合わせる。

「今日も予備校なの??」

と、彼女が俺に言う。

(あれ?予備校のこと話したっけ??)

などと思いつつも、すぐに返事を返す。

「あ、はい、そうです」

「そっかー、大変だねぇぇぇ」

「でも、優等生なんだものね!頑張らなきゃね♪」

と、続ける。チクリと少しのプレッシャーを感じたが…彼女から言われるそれは、両親や先生から言われるそれの重圧感に比べて、何故かたいしたことはない。彼女は僕をジーッと見つめている。

「え、えーと…」

俺は何か彼女に話しかけようとしたが…彼女のことをなんと呼べばいいのかわからなかったので、いざ発音したものの…言葉が続かなかった。彼女はすぐにそれを察したかのように…笑って自己紹介した。

「梓よ。倉下梓。よろしくね!」

と、右手で僕の手を取り、ブンブンと上下させる。戸惑い慌てて答える。

「あ…、お、俺は高田隆です…」

「く、倉下さんは何やってたんですか?お仕事ですか??」

彼女は笑顔を崩さずに即答する。

「梓でいいわョ♪」

そう言って、

「私もお勉強かなぁ。ってもいい加減なものだけどね!」

と続けた。

(お勉強??浪人とかかな?)

年も気になるが、さすがに軽々しく女性に年は聞けない。でも、話した雰囲気や外見から察するに、俺のいくつか年上…二十歳前後だろう。

 俺は無難に学校のことや、テレビ、漫画や小説なんかの本の話…などを彼女に振る。彼女は何の話題にでも、適当に合わせて話を聞いてくれるのだった。時間はあっという間に過ぎる。国府停留所に着いて、俺は挨拶した。

「じゃ、俺ここですから。気をつけて帰ってくださいね」

彼女は笑顔で答える。

「うん、じゃね♪」

と、また手を振って俺を送ってくれた。

 俺がたくさん話を振ったおかげか、彼女が聞き上手なせいか…とても雰囲気よく話が出来た気がする。まるでしばらく前から友人同士であったかのような…そんな時間を過ごして。色々と変な人だけど…悪い人じゃないし、話していて楽しい人だな…と思った。

 俺は彼女の前でも、優等生で真面目な人柄の仮面を被っていた。もしも、この仮面の下にある…変態かつ犯罪者の本性を見られてしまったら…。彼女はなんと言うだろうか…などと考えながら、目を細くして俺は帰宅した。



[29581] すべてを取り払った後に残るもの 編 vol.03
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/12 04:35
 彼女を意識した五日目…六日目…七日目。彼女と一緒にいるという特別な空間。夜の十時前の市電の中。限られた数十分の時間。今や…これが現在の俺の生活の支柱となっていた。

 彼女はとても話しやすくて、かつ聞き上手だった。限られた時間の中で、俺は彼女に世間話から自分の話まで、そして深い人生についての話など…たくさんのことを話した。彼女は聞きながら、適当に相槌や質問、突っ込み、自分の意見などを挟むので、とても話しやすい。一緒にいて安心するし、何よりも自分をさらけ出すことで、こんなにも癒されるとは思っていなかった。よくドラマや漫画なんかで「話したらスッキリする」とか、そんなセリフを見るが…まさにその通りで、普段のストレスが、彼女と過ごす時間で洗い流されていくのが明らかに自覚できた。

「あははっ、でもそれってお父さんが悪いんじゃないの???」

「そうなんですよ、俺もそう思うんですけどね~やっぱり、言えないですね~」

彼女との会話はもうとても自然だ。彼女の親しみやすさのおかげで、知り合って数週間…話した回数もさほど多くないというのに、とても慣れ親しんだ親友か、兄弟のような間柄になっている気がした。

 ふとした流れから、好みの異性のタイプになる。彼女は、

「そっだねー、やっぱり私を理解ってくれる人かなぁ~~。私の心の奥底まで理解してくれる人がいいなぁ…でも、人を好きになるって、そんな単純じゃないもんね。お互い全然タイプでないのに、お互い惹かれて付き合ってさ、結婚までしちゃう人とかたくさんいるし…」

彼女が身振り手振りを踏まえて楽しそうに話す様を、俺はドキドキして見ていた。俺は彼女のことを理解るだろうか…俺は理想のタイプに当てはまるのだろうか…などと考えていると、彼女が言う。

「キミのタイプはどんな人??」

俺は気持ちを知られたくなかったから…彼女とは正反対のタイプの人間像を挙げる。

「そうですね、知的で冷静な感じで、胸が大きくて…大人っぽい感じの…」

彼女は俺の言葉を遮る。

「あーもう、やだやだ…」

彼女は両手をすくめて手のひらを上に向け、呆れたような表情を浮かべて言う。

「胸が大きいなんて…そんなものいらないわよっ」

どうやらバストに関しての発言が気に入らなかったらしい。確かに彼女の胸は、どうひいき目に見ても大きいとは言えなかった。顔立ちや雰囲気はお姉さんって感じなのだが…、この胸の無さが若干セクシー度を落として、親しみやすい要因になっているのかもしれない。異常にスタイルが良い、モデルさんみたいなルックスだったら、世の男は気が引けて、余計に話が出来なくなるものだ。彼女は、

「ちょっと!どこ見てんのよっっ!!」

と、大変におかんむりだ。俺は笑ってフォローする。

「いや、別に梓さんの胸がどうこうとは言ってないですよ…」

彼女は(キーーッ!)という感じで怒っている。そして、

「でもねっ!胸なんて余計なものよっ!!っていうか、むしろ…ち、小さい方がいいのよっ!!」

と言って、熱弁を続ける。

「…だってだって…、だ、抱き合ったときに余計なものが…ないほうが…心が近くなるでしょ…」

「そ、それで…心が近い方が…よりお互いが理解るじゃない…」

彼女はそう言って、ボッと顔を赤くする。

(…・か、かわいい…)

俺がそうこう思っていると、国府停留所が近づいてくる。俺は真っ赤な表情の彼女を見ていられなくて、

「…そう言われてみると、確かにそうですね」

と、話を合わせる。彼女は満面の笑みを浮かべて、

「でしょーー♪」

と、してやったりの表情を作った。その姿も可愛かった。

「じゃ、俺降りますので…梓さん、気をつけて帰ってくださいよ」

と話を切り上げる。

もっと話をしていたい…でも彼女に対する気持ちや、自分の仮面の下にある素顔を知られたくない気持ちも確かにあった。後ろ髪を引かれながら…市電を後にする。

 きっと…俺は彼女のことを好きになってしまっている。ひしひしと彼女のことを深く知りたいと思う自分がいる。心のことでも、プライベートなことでも…仮面の裏にある俺の欲求が。彼女を標的にして狙いを定めている。俺はそれを必死に打ち消した。彼女に対して、非人道的なことはしたくないという常識による正常な心と…、彼女は「私のことを理解ってくれる人が好き」と言っていた、彼女を暴いてしまえ!という欲望からくる好奇心とが…激しく互いにせめぎ合う。

 …今日のところは正常な心が勝った。俺は彼女の前では仮面を被り続けたい。この市電の中にある一時を失いたくなかった…。


 彼女と過ごす時間を何より楽しみにしている反面、深みにはまっていくのが恐ろしいという気持ちもあった。正直これほど人を好きになったのは初めてで、自分で自分がこの気持ちをどう処理すればいいのかがわからない。彼女と会えば会うほど、話せば話すほど、彼女を思う気持ちは大きくなっていった。

 彼女を意識した八日目…九日目…十日目。今日の彼女は、編み上げブーツに、ブルーのロングスカート、白のだぼっとしたトレーナーのような服、胸には十字架のペンダントが見える。赤いランドセル型の鞄を背負って、テクテクと停留所前を歩いてくるのが市電の窓から見える。市電の運転手はまだ外にいて煙草を吸っているので、もうしばらくは発車しないだろう。彼女が乗車券を取って乗り込んでくる。いつも通り乗客を一通り見渡して、俺の顔を見つけると、そばに来て隣に腰掛けた。



[29581] すべてを取り払った後に残るもの 編 vol.04
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/13 04:30
「今日は買い物してきたんだ♪」

と、彼女はご機嫌に言う。

 彼女と過ごす時間は、幸せと恐ろしさが同居する不思議な時間だ。好きな人と一緒に居られるという幸せ。その好きな人を暴いてしまいたい…という欲求に負けるかも、という恐ろしさ。そして、俺がそういった欲求を常抱いているということが露見するかもしれないという恐ろしさ。しかし、俺にこの時間を拒否するという思いは微塵もなかった。彼女と一緒に居たいという想いは、恐れよりも何よりも強かったのだ。

「へぇ…何買ったんですか??」

俺が言うと、彼女は、

「ん~~、服、洋服っ!安かったんだっ♪」

と、ニコニコして、膝の上に置いた赤いランドセルをポンポンと叩く。彼女はいつも前衛的なファッションで…その上、同じ服を着ているのを見たことがない…。家には相当な数の服を持っているんだろうなぁ…と思って言う。

「服とか、着飾るのが好きなんですね?梓さんってお洒落ですもん」

彼女は(???)という感じで俺を見る。そして、

「私ってお洒落??着飾るのが好きなように見えるの???」

真顔でそう言う。俺も(???)となる。これだけ毎日奇抜なファッションして、くるくると衣装を変えていれば…誰でもそう思うだろう。戸惑いながら、

「あ、いや、そう思うなって、そういう気がしただけです」

言うと、彼女は薄っすら笑って言う。

「ね、人ってなんのために服を着ると思う??」

何のためって…裸で歩くわけにはいかないだろう。着ないと恥ずかしいし、風邪引いちまうし…ていうか、着ないと捕まる。考え込みながらも、キョトンとした表情をしていると、彼女は、

「ブブーー!!」

と言って、口を尖らす。

「時間切れです♪」

と、人差し指を立てて言った。そして、

「人が服を着るのはね…それは自分を守るためよ」

と言う。俺は、

「そりゃ、裸で歩いてりゃ風邪を引きますし、怪我もしちゃいますからね」

言うと、彼女はまた薄く笑って、

「そうね…」

と言う。そして続ける。

「でもそれだけじゃない…。人は着飾ることで、心も守っているのよ。ただ単に…寒さをしのいで、外の刺激から身を守るだけなら、こんなに様々なデザインのものがある必要ないじゃない」

…それはそうだ。確かに身を守るためだけじゃない。彼女は続ける。

「人は服を着ることで、自分の心を飾り付けているのよ。…本当の性格はとても地味な子でも、服をキレイにして飾り立てれば、人はその子をとても派手で、明るい子だと思うわ。…逆に、性格がとても派手で元気な女の子でも、汚くてみすぼらしい格好になっちゃったら、その人の魅力は十分に伝わらない」

俺はなるほどと思った。

「いわゆる、第一印象とか…見た目で判断する…とか、そういうことですね」

うん、とうなずいて、彼女は話を続けた。

「…もちろん他人からの見た目だけじゃない。着飾った自分を自分で意識することで、その人は自信がついたり、演技できたり、生まれかわった気分になったりするワ」

彼女はとてもよく話す。ふと仮面のことが頭を過ぎる。そうか…、俺が人前で本性を出さずに、優等生を演技しているのも、心を着飾っていることになるのかもな。…たしかにこの学生服を脱いで、汚く、だらしない格好に着替えれば、優等生を演じることに少なからずもやりにくさを覚えるだろう。彼女はまだ喋り続けている。

「つまり…結果的に自分の心にも左右するってワケ…」

 俺はその時に、

(じゃあ、彼女がこれほど着飾るのは…心の奥底になにかを隠しているのだろうか…)

と、疑問を抱いた。

 一気に俺の仮面の下に潜んでいる…知的好奇心が大きくなってくる。彼女はこうクルクルと服装を変える…しかも奇抜なセンスで塗り固められたファッション…着飾ることで…彼女は自分の心をどのように偽り誤魔化しているというのか…。

 彼女のことをもっと知りたい…。その時…俺の目をじっと見ていた彼女は、話を切り上げてポツリと言う。

「ペルソナ」

俺はその言葉で我に帰り、キョトンとする。彼女は、

「舞台の用語で、仮面のこと」

言って、

「心理学では、人が他人と接するときに使う…表層的な人格のことらしいワ」

と、続けた。俺はドキッした…まさか俺が常々思っていた単語が、彼女の口から出てくるとは思わなかった…。まるで心の奥底まで見透かされたような感じになって、ビックリする。



[29581] すべてを取り払った後に残るもの 編 vol.05
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/14 04:38
「人は誰でも必ず…話す度…誰かと接する度にペルソナをつけるわ。何百枚も何千枚も何万枚も用意されたペルソナ。偽られた…自分を守るための心の動作。私もキミも他のみんなも…皆がペルソナをつけて生きているわ」

「たとえば私だったら…生まれた瞬間に女性というペルソナ、倉下梓というペルソナ、赤ん坊だというペルソナが与えられる。…そして生きていく過程を経て、様々なペルソナが増えていく。誰かの前では強さを演じるペルソナ、また誰かの前では可愛さを演出するペルソナ、賢く見られるペルソナ、その他…あらゆる感情を表すペルソナ…。それは多種多様。人が…時には無意識に、時には違和感を感じて、ペルソナを被って生きている…」

言って、

「人は愛し合えば…服は脱がすけど、…ペルソナまでは脱がせない…」

と、少し顔を赤くして続けた…どうも恋愛だとか、男女関係だとか、下ネタだとかの…そっち系の話は苦手らしい。
…彼女はその場を誤魔化そうとして、急にテンションを上げる。

「わかる??だから私がたくさん服を買うのは、自分の心を守って、健全で正しい心を保つための…とてもいいコトなのっ!!私が着飾りたい!っていう心の根本は、人なら誰でもやってる…ペルソナ被るっていう当たり前のことなのっ!!」

言って、

「それが理解ってない人が多すぎるんだもん…」

と、ブツブツ続ける。

 おそらく家族や友人から、服買いすぎだとかなんとかよく言われるのだろう。責められる自分を正当化するための長丁場演説だったらしい。…別に俺は責めたわけでもないのに…ここまで反応するってのは、よほど普段から言われてるんだろうなぁ…などと思った。

 俺は、人なら誰でも仮面を被るという彼女の意見を聞いて落ち着いていた。俺が異常だと思っていた本性を隠す行為、そして、内にある本性そのものも…本来誰もが持つものなのかもしれない。自分の心の中で、仮面の下に潜む異常性が正当化された気がした。彼女は前に「私のことを理解ってくれる人が好き」だと言っていたはず。

 そうか…だったら……。俺は、彼女のプライバシーを知り得てやろうと…この瞬間…決心したのだった。他人のプライバシーをのぞくという邪まな行為が、自分の心の中で正当化された瞬間だった。

 彼女を意識した十一日目。彼女の話では、彼女は俺が降りる国府停留所より、三つ先の商業高校前で降りる。予備校の授業を早退して、商業高校前の停留所が見える場所に先回りして、彼女を待つ。

 待つこと三時間くらいか…夜は十一時ごろ、彼女は姿を現した。停留所を降りて、北へテクテクと歩いていく。ここから服装までは確認できないが、トレードマークの赤いランドセルが見える。彼女の服のどこかにアクセサリか飾りとして付いているのだろうか…、鈴がチリンチリンと鳴っていて、辺りの夜の暗闇に、白い点をつけるかのように響いていた。鈴の音とランドセルの赤を目印にして、俺は出来る限りの距離を取って、彼女の後を追った。

 この辺りはまったくの田舎というわけではない。県庁や水前寺公園という、かなり大きい公的建築物もある。彼女はそれらを抜けて、まだ北へと歩いていく。…かなり歩くんだなぁ…と思っていると、彼女は古ぼけたワンルームマンションへ入っていった。すぐに一階の部屋に明かりが点く。…それ以外に明かりが点灯した部屋は無い…。

「あそこが梓さんの部屋か…」

 夜の街でボソッと独り言を発しながら思った。とりあえず場所はわかった。今度は家の中も見てみよう…。一階ならのぞくのも入るのも随分と楽になる。

 部屋の感じを見れば、その人の秘密の大部分を見たも同然である。家族構成、生活習慣、趣味、性格、収入、立場…いろんなことがわかる。部屋の中というのは、プライバシーの中でも大きな割合を占める。その人が心を落ち着ける場所から得られる情報は、あまりにも膨大で…魅力的だ。このマンションだと、一人暮らしだろう…男と一緒に住んでいたりすれば…それも面白いのだが。

 今のところ、俺は彼女を自分のものにするという欲求よりも、彼女のペルソナの下…プライバシーを知り得るという、知的好奇心への欲求の方がはるかに大きかった。…彼女を自分のものにするという欲求が、まったく無いというわけではない。できることなら…彼女のすべてを知り得た上で、永遠に自分のものにしておきたかった。

 …気が付けば彼女のことばかり考えている…まさかこれが愛というものだろうか。俺は様々な思いを胸にして、彼女のいるマンションを後にする。…そしてそのまま、ゆらゆらと歩いて…遠くの自宅へと帰途についたのだった。

 数日後、俺は学校が終わってから、彼女の家に行ってみた。今日はまだ明るさが残っているせいか、マンションの雰囲気は、この間見た時と少し違って見える。このマンションの一階には庭のようなスペースがあり、洗濯物が干せるようになっているが、彼女の部屋の庭には何も出ていない。

(平日の夕方だ…彼女が普段何をしているのかは知らないが、部屋にはいないだろう…)

と思って、周囲を見渡す。人通りも無い。…辺りは薄暗くなってきたが、彼女の部屋の明かりは点いていない。それを確認して、塀をよじ登り庭へ侵入した。べランダの扉まで近づく。カーテンは閉められてない、鍵もかかってない…本人もいない…。

「…なんて無用心な人なんだ」

ストーカー行為をしておいて言うのもなんだが…もっと用心したほうがいい。ガラガラとベランダの扉を開けて、部屋の中に入る。



[29581] すべてを取り払った後に残るもの 編 vol.06
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/15 04:32
 部屋の中は…無機質だった。今まで見たどの部屋よりも、人間臭さというものが無い。部屋は六畳程度で、玄関の方にお風呂とトイレがある。部屋はまったくと言っていいほど掃除されてなく、埃やゴミがたまっているが、生活感が極めて少ない。服や下着は部屋の端に積み上げられていて…家具はテーブルと冷蔵庫しかない。テーブルの上には本が何冊かあるだけ…あとはコンビニのパンやおにぎりの外袋、ルーズリーフの紙やプリントなどが散乱しているだけで、他に物は見当たらない。

「…こんな部屋…初めて見た」

 テレビはおろか、コンポも、洗濯機も、布団も、棚も、押入れも…ナベや食器すら無い。印象は無機質の一言に尽きる。薄暗さと合わせて、うら寂しげな悲壮感が漂う…。彼女の雰囲気から察するに…まったく予想できない部屋だった。これも彼女の素顔の一部分だという事に違いは無いのだが…正直言って、彼女の一面を知り得た喜びよりも、この部屋への驚きの方がずっと大きかった。

「…変な人だ」

これなら窓に鍵を掛けなくても何の問題も無い。服以外に盗まれそうな物はない。服なんて…いくら若くて可愛い女性のものとはいえ…ストーカー以外はわざわざ盗み出したりもしないだろう。服がなければ、女性の部屋だとは到底思えない…。

 玄関まで行くと…部屋の鍵と思しき物が置いてある。

「まさか…」

…玄関は開けっ放しだった。玄関には、何足かの靴やサンダルが無造作に置かれていた。トイレやお風呂ものぞく。トイレには本が数冊置いてある。

「これは…」

 本は聖書と、漢文で書かれているよくわからない本だ。聖書って…キリスト教?まったくもって意味不明だ。

 お風呂場には、石鹸とシャンプーが置いてあるだけだった。風呂場とトイレの前には台所がある。台所は使った形跡すらほとんどない。ここから部屋を見渡しても…雑然とした無個性な部屋だ…。

 テーブルの上の本は…これもまた漢文で書かれたよくわからない本と、論語、千夜一夜物語、ガリア戦記、言志録、巴里の憂鬱…と、あとは名前すら聞いたことないような本…。

 他には特に見るようなところもない。生活についてとてもガサツなこと、古くて難しい本を読んでいること、食事はコンビニのものばかり食べていること…などを知り得たが…やはり喜びよりも驚きが大きい。

 …俺はかなり不可解な心持ちで帰途につくこととなった。
 

 彼女を意識した十二日目。彼女はいたって普通だ。俺が部屋に侵入したなんて、微塵にも思っていない態度で俺に接する。…部屋の惨状をあまりに見かねて…少しゴミを片付けたりもしたのに…鈍感な人だ。と思うと、彼女がニコニコして話しかけてくる。

「ねぇねぇ、キミは趣味とか好きなこととかある??普段何してるのっ??」

その様はすごく可愛い…心が洗われるようだった。彼女がここまで鈍感だと、自分の仮面を少し外してみたくなって言う。

「人を知るのが好きかなぁ。趣味ってワケじゃないんですけど」

彼女は俺の顔を見ながら、興味深そうに聞き返してくる。

「知る?知るってどういうこと??」

答える。

「言葉通りっすよ。興味がある人がいたら…もっと知りたいなぁ…って思うんです」

彼女は妙に納得したような表情で、うんうんと頷きながら、

「わかるわかる。それって、私の好きなことと似てるワ♪」

(?)と思い、聞き返す。

「梓さんの趣味はなんです?読書とか??」

少々怪しいことを言っても、何も気付かないだろう…この調子なら。彼女はニッコリ笑って、

「読書??私、本は苦手。私は見るのが好きなの♪」

と、言う。まぁ本もたくさんあったわけじゃないしな…。あの部屋からは…趣味の予想など出来ない。無趣味でファッション以外には興味は無いというのが本当だろう。適当に返事をする。

「見る?映画かなんかっすか??」

彼女は微笑して答える。

「んーー、ま、そんなとこかな。ところでさ」

と、話題を変える。

 こうして彼女と時を過ごす度、彼女への思いは大きくなっていった。彼女を侵したい…。不可侵を破り、許可を得るどころか気づかれもせずに…彼女の領域へと入って行く。…彼女の服も、仮面も、全部取り払って…。そして、その後にただ一つ残る真実の彼女を…消してしまって…彼女の存在を、俺の中で永遠にしたい。

 最後の扉を開いたかのように…その欲望が生まれ出る。…この最終的な欲望は、俺に興味を持たせたその人に対して抱く、最高位の欲望である。それをかき消すために、今までその人のプライバシーを知り得てきた。それを代償行為として、この最高位の欲望を誤魔化してきた。…必死でその高位で最終的な欲望を抑え込む。

「この間の…ペルソナの話」

「わかった??」

彼女は、俺の顔をのぞきこむようにして言った。

「あ、はい。仮面の話ですよね。人は誰でも、誰かと接するときに仮面を被っているっていう…」

答えると、彼女は「そうそう、よく出来ました!」という表情で言う。

「そうそう、あの話ってさ、まだ続きがあるんだ♪」

言って、続ける。



[29581] すべてを取り払った後に残るもの 編 vol.07
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/16 05:08
「ペルソナを被ってるなんてことは、どうでもいいことなの。だってさ、そんなの誰でもやってる…自然で当たり前なことじゃなぃ?大切なのはさ、どうやって心の葛藤を取り除くかってことなの」

「心の葛藤??」

思わず…俺は素で聞き返した。

「心の葛藤っていうのはね、自分がペルソナを被るあまり…苦しくなってしまうことをいうの。例えば…私がキミの前で、すごく明るい人に見られたいと思って…振舞うでしょ?明るさを演出するペルソナを被って。それで…キミに明るい人だなって認められる。でも、心の中で自分は…本当はそんなに明るい子じゃないのに…なんて思って悩んじゃうワケ。毎回毎回会う度に、ペルソナを被ることに疲れるのね」

「性同一障害なんかは、この葛藤がすごく大きくなったものかもしれないわ。…だから自己主張は大切なの。自分が自分の心を明らかにして初めて…ペルソナを捨てていって初めて、本来あるべき自分に戻れるの。自分を自分として出して、そうやって人は落ち着く…」

 今日の彼女はよく喋る。…マシンガントークだ。しかし、俺の本当の自分…仮面を捨て去った自分。そこに残る物は一体なんだろう。

 彼女は僕の目を見て、ゆっくり言う。

『手段はかんたん。自分で自分の心に話しかけるの!まず、自分の心に挨拶してさ…「梓ちゃん、こんにちは」ってね!そして、たずねる。「いま、疲れてない?しんどくない?」って…そして、疲れてるようなら「何が疲れてる?どうしたい?どうしたら良くなる??」って、ゆっくりゆっくり順々に問うていく…』

「心の奥底に辿り着くまで…」

まるで、心理カウンセラーみたいだ。

「そうやってわかった原因がペルソナにあれば…無理しないで、そのペルソナは捨ててしまっていいの。そうして、すべてを取り払った後に残るもの…それこそが自分。その自分こそが自分なの。見つけなきゃ…それをさ」

「ペルソナは…無理してまで被るものではないワ。外せば外すほど楽になる…」

「もちろん、あんまり外しすぎると、周囲の人に敬遠されたりしちゃうけどっ…ふふ、それって私がそうなんだけどね♪♪」

と、最後は笑って言う。俺は呆ける様にして彼女を見る。彼女は、

「…キミって…いつも悩んでいるような顔してるから…」

と続けて、目線を外して外の景色を見る。…俺たちがまだ話していなかった頃…そうしていたように…。

 夜は十時過ぎ、市電は「ヴィーーーーーン…ガタガタ…ーーーィン」と、ゆるやかな低音を出して、車内には澄んだ女性の声で録音されたアナウンスが響き渡る。彼女は足を伸ばして、編み上げブーツを「トンッ…トン…トンットン」と、市電の床である…ささくれて古ぼけた木片に当て、微かな音を打刻する。そこに車掌さんの操る「キリキリリリリ…ガチッ、カチッ…」というハンドル音が混ざる。最後にこのBGMに彼女の声が加わる…とても澄んだ静かな…ゆったりとしたテンポの声。

「…正直になって…自分を見つけてみて」

 …どこぞのクラシックの演奏会なんかよりも、よほど美しいオーケストラの演奏を耳にしていると思えるほどの出来事だった。俺は彼女の言葉と、市電の音、その他の雑音を、いつまでもいつまでも反芻しながら、彼女への挨拶もそこそこに、ほろ酔いのオヤジのような千鳥足で…フラフラと家へ帰った。

 彼女への思い、自分への思い、他人への思い、そして自分がどうしたいか、どう在りたいか、どうすべきか…自分の存在はなんなのか…様々な思いが脳内を交錯する。そして、先ほどの印象的な出来事を思い出に変えながら…そして自分自身そのものの理想的な在り方を、薄っすらと脳内で構築しながら…。


 数日後の真夜中…俺は自らの心に話しかけてみた。彼女が言った通りに。俺は…ベッドの上で仰向けになり、両手をへその辺りに置いて、月明かりで薄っすらと照らされた天井を見ながら…瞑想するかのように話しかけた。

「よぉ。元気かい?」

「…元気だが、思うところもいくつかある…」

なんだ…本当に答えが出るじゃないか…そんな他愛もないことに驚く。

「そうか、何をそんなに思い煩う?」

質問の内容を吟味して…深く深く考えてみる。答えは、

「…梓さんのことだ…」

やはり…そうだったのか。両親や教師の期待からの重圧や、仮面や本性、異常性のことなんかよりも…俺は彼女のことで思い悩んでいた。

「彼女の…何に対して煩う?」

「…それは…関係だ。彼女との関係」

「関係をどうしたい?どうすれば煩いは解決する?」

少しの時間…深く思ってみる。

「…彼女を自分の物にしたい…。永遠に…」

今までにも何度か考えたことがあること…。最高位の欲望。やはり、それが俺の望み…。

「…すればいい。彼女を所有したらいい。どうすれば永遠に…彼女を抱いていられる?」

「告白して付き合って…一緒に…」

俺は即座に否定した。

「それは無理だな。彼女にとって、お前はただの知り合い程度だろ?不可能だ」

「でも…、彼女とはとても楽しく話できる…彼女といる時間は特別だ…」

「それはお前だけだろ?一人よがりで一方的な気持ちは、拒絶されると相場は決まっている。今までの関係を保つのが一番いいんじゃないか?」

「今までと同じじゃイヤだ…。もっと彼女に近づきたい。たとえそれが永遠でなくても…」

それには…やはり…一つの手段しかない…。ここまで来て、俺の本性が大きく自己主張する。

「……逝ってもらう…。…この手で」

俺の本性は答えを出した…。



[29581] すべてを取り払った後に残るもの 編 vol.08
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/17 05:04
「そうだ。それこそが俺の望みだ…それでいい。それでいいんだ」

俺はすべての仮面を取り払った…。俺のすべてを取り払った後に残るもの…それは彼女を瞬間的に…かつ永遠に、自分の物にするために…彼女を殺すという決意だった。

 人の寿命は有限、人の所有もまた有限。…ならばこの手で終わらせてしまえばいい。終われば、有限の世界からは消え失せる。…すなわちそれは永遠。永遠に失われること…それは逆に言えば、永遠の無を手にすること。これで彼女は…彼女に手をかける俺のものとなり、それ以後は他の誰のものにもならない。

 彼女はあの時…確かに言った。

「…正直になって…自分を見つけてみて」

あの時の彼女の静かなセリフと、市電の中の極上のオーケストラが脳内に再生される。…俺は今…正直になって自分を見つけた。すべてから解き放たれた。

「あっははっはっはははははっはははっはははーーーっっ!!!」

今の俺の心は、何よりも澄んでいる。台所の包丁を手にする。迷いと戸惑いの無い心情とは…こうも気持ちの良いものなのか。俺は家を飛び出て、裸足で…彼女の家へと走りだした。


 今夜は満月だ。クッキリと夜の空に映える月は、俺を祝福するかのように光り輝いている。俺の行く末を照らしてくれている。風が薄っすらと吹く。風に揺られる木々のざわめきすら、俺を祝福している。ほどよい夜の冷たさと静けさが俺を導き、彼女の家まで何も迷うことなく駆けていく。数十分で彼女のマンションに着く。マンションの塀の前に俺はいる。

「はぁ…はぁ…はぁ…」

息切れこそしているものの、頭の中はとても澄んでいる。先ほど自分の深層意識にあった本性に触れて、冷静に興奮したときの感情が保たれたままだ。走るのを止めた途端に体温が上がる。体温だけではない…逆手に持って袖の内に隠している包丁も、俺と同じく熱を持って盛っている。塀の向こうに見える彼女の部屋は、煌々と明かりがついていた。

「梓さん…そこに…いますね?」

言って、一気に塀に手を掛けた。バッと飛び上がり一、気に庭側に飛び降りる。

 …彼女はそこにいた…まるで俺を待っていたかのように…。ベランダの扉の前に立っていた。…たった今も…リアルタイムで本性に触れている俺は驚きもせず…、彼女が俺を待ち受けていたことを疑問にも思わない。…俺は息を整えて、彼女を見据えた。


 彼女を意識した十三日目。

「やっほ♪♪」

と、彼女は俺に挨拶した。「…サーー……」と、マンションの庭内に微風が吹く。月に群がっていた雲は徐々に流れて、満月の光を解放する。俺の顔と彼女の顔は。ほぼ同時に照らされた。

 彼女は白いワンピースに白いリボン、白いサンダル…全身白尽くめだが…、脇にはいつものあの赤いランドセルが置いてある。…まるで死に向かうための白装束だ。

(彼女の意思ですら、俺の本性を理解して、受け入れて…祝福してくれているんだ!)

俺はそう思った。俺は一寸の迷いもない澄んだ顔で…彼女はニッコリと微笑むいつもの表情で…お互いを見ている。彼女は、

「見つけたのねっ♪」

言って、

「あなたの本当」

と、続ける。俺は特に躊躇もせず、

「…はい」

と、答える。そして言う。

「俺はすべての仮面を取り払いました…。俺のすべてを取り払った後に残るもの…それは、梓さんを永遠に自分の物にするために殺すという決意っす。人の寿命は有限、人の所有もまた有限。…・それならこの手で終わらせてしまえばいい。…終われば有限の世界から消え失せます。…すなわちそれは永遠っ!永遠に失われることは、逆に言えば永遠の無を手にすること!これで梓さんは俺以外の誰のものにもならないっ!!」

言って、

「…梓さん…。俺は、あなたを永遠に奪います…」

と付け足す。

 彼女は微笑して、静かにゆっくりと…しかしテンションを高くして…言った。

「いま…キミって…最高にいい目してるワョ♪♪」

彼女の声は辺りに静かに響く。乱れがない湖の水面に小さい小さい石を投げたかのように、わずかに…その水面に立つ波紋のように…空間に響く。白の彼女は、両手を広げて言う。

「早く来て」

そして、左手で左胸を指差す。

「ここだョ♪」

すべての仮面を取り払った俺に迷いはない。この極めて異常な彼女の行動は、すべての仮面を取り払った俺の意向を認めて受容する行為だと…そう思った。逆手に持った包丁を順手に持ち変える。キラリと光る刃の表層は、月明かりを煌々と返している。ゆっくりと彼女に向かって歩く。

 彼女は両手を下げて、ジーッと俺を見つめていた。笑いを消して真剣な眼差しで…。距離が近づくごとに…この場の空気感が澱んで濁る気がした。本性を受諾して以来…、俺は初めて違和感を感じた。何かが歪む…。…だがそれとて、今の俺を止める理由にはならない。彼女との距離が近づく。…一メートル五十センチ、一メートル、八十センチ、六十センチ、三十センチ…。

 俺は…ゆっくりと…彼女の…指差した…胸に…包丁を…突き立てた。

「ズズズ…」

刃先が数センチ…彼女の白にめり込んで行く。白から赤が生まれる。俺は包丁を引かずに…さらに押し付ける。彼女はベランダの窓まで押されて…トンッと、体がガラスに当たる。

「ズッ…ズッ…」

赤が勢いを増す。彼女の血はとても…冷たい。…これも俺しか知らない秘密だ。血の温度など…おそらく本人すら知り得ていまい。俺は…狂喜した。さらに彼女との距離が近まる。二十センチ、十五センチ、十センチ…。

 その時、彼女は俺の体に両腕をまわして…俺をきつく抱き締めた。そして目と目の距離は七センチ…この距離で彼女は俺を見ていた。俺の目を…見ている。…直視。彼女の黒目に俺が写っている。今夜の空に映える満月のように、円満完全な本性を手にした俺の姿が写る。そう、彼女の目を通して…完全に迷いがない俺が見える。その瞬間…迷いがないはずの俺が歪む…歪んでいく…一気に迷いが…戸惑いが…生じて…正常な心が現れる…。

 …その瞬間、彼女が言葉を発す。俺をきつく抱いたままで、



[29581] すべてを取り払った後に残るもの 編 vol.09
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/18 08:02
「ダメッ!…もう少しそのままでいてっ!!」

強く発せられる言葉を聞いて、俺の心持ちはさらに正常な方へと振れる。彼女はもはや五、六センチというくらいの近間で俺の目を見ている。凝視。そして、言った…空にある月や星々よりも静かに。

「言ったでしょ…?」

俺が(???)としていると、彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「抱き合ったとき…余計なものが無いほうが…心が近くなるでしょ」

言って、

「私の心…理解る??」

と、聞く。今の彼女は顔を赤らめていない。月明かりのせいか…出血のせいか…衣装のせいか…青白くて頼りなく…儚げに見える。俺は、彼女の両腕からなる縛りを解く…彼女の両腕を完全に外して…半歩後ずさりした。彼女は俺が付き立てた包丁の柄を左手で拭い…指に付着したドロリとした血液をペロリと舐める。それを見た俺は…俺は彼女に背を向けて、塀をよじ登り…泣きながら逃げた。泣きに泣いて…来るときよりも速く走って家へ帰った。

 今夜は満月だ。クッキリと夜の空に映える月は、俺を嘲笑ってスポットライトを当てるかのように光り輝いている。俺の行く末を照らしてくれている。風が薄っすらと吹く。風に揺られる木々のざわめきすら、俺を批判して諫めているかのようで…。ほどよい夜の冷たさと静けさは、俺を失意のどん底へと落とし、…俺は自宅まで、様々な思いを交錯させながら駆けていった。

 彼女の眼球を通して、客観的に自分を見た俺は…間違いなく俺の本性のもう一つの側面を見た…。それは欲に塗れた外道の姿。…俺はこの自分を見て狂ってしまった…。すべてから解き放たれた俺は…もう一歩先の視点…もう一つ別の観点から、自らの本性を見て受容する。すべての仮面を外すべきではなかった…仮面の下の…本性の俺は…・やはり…異常だった。


 俺は家に帰って、自分を恐れ、行為を恐れ、逮捕を恐れ、未来を恐れ…彼女の死を恐れた。親には体調が悪いと言って、学校や予備校を休み、部屋に居続けた。

 …何日たっても、警察も、梓さんや関係者などの…訪問も連絡も無い。…まるで彼女を刺したのは夢だったのではないかと思えるほど…だんだんと遠い記憶のようになる。

 その間も、様々な思考が脳内を飛び交って…自分で自分の思考が管理できなくなる。俺の恐れは段々と大きくなり、俺は部屋の隅でガチガチと歯を鳴らして…寒くて震えるかのように、足を抱えて座り続けた。

 ついこないだ…薄暗い部屋のベッドの上で…俺は自分の本性を見た。パンドラの箱を開けてしまった…最初こそ極上の精神だと思ったが…一歩別の視点で見ればそれは…到底言葉では言い表せぬ、狂気そのものだった。これは常識という名の仮面を被っているからこそ、そう思うものだろうか…。

 彼女を意識した十三日目は、おそらくもう来ないだろう。このまま自分のしでかしたことを消化できるまで、部屋に居続けるであろう俺は…、薄汚れた天井を見ながら、彼女と過ごした時を回想していた。

 …彼女は一体何者だったのだろうか…。バストや服の話をしたかと思ったら…心理的な話をしたり、本性の知り方を教えてくれたり、…挙句俺に刺されたり…。なのに、警察にもどこにも行ってないなんて…

 彼女の印象は、最初は冷静で暗くてクールなお姉さん…でも話してみると、とても明るくて…いい意味で馬鹿っぽかった。今は…天使か悪魔か神か人かわからない…理解不能なモノという感じだ。

ベランダで待ち受けていた彼女。俺が来たことに驚きもたじろぎもしない彼女。俺に刺してと願う彼女。俺を抱きしめる彼女。…冷たい血をトクトクと流しながら…俺の目を至近距離で凝視し続けた彼女。

 どう思い返しても、あの晩の出来事はすべてが不可解だった…。まるで…彼女と出会って時を重ねたどこかの時点からずっと…夢か幻かの世界で過ごしているかのように…。どこかで倒れて、頭を打って感覚を失い…幻覚でも見続けているかのように…。まどろんでは、眠りこけ…現実ではないどこか別の場所に迷い込んだかのように…。

 色々と考え…思考に思考を重ねて…そうして俺は目を閉じる。もうぼやけた天井すら見えてこない…。

 そして…俺は俺の本性という、精神体から成る最後の仮面を脱ぎ捨てた。…いや、それは仮面とは言えない…。俺の素顔だ…。俺は仮面を脱ぎ捨てた末に…素顔までも取り払ってしまった。…その後に何が残るかは…すべてを取り払ってしまった俺では、もはや確認もできない。…確認する術がない。すべてを取り払った後に残るものとは…なんだろうか?という疑問が、俺の最後の意識となった…。

 JR熊本駅前。俺は予備校へ向かって歩いている。今日から夏期講習が始まる。…後ろからカッカッカッカッと、素早いテンポの足音が近づいてきて、俺の背中にドン!と当たる。



[29581] すべてを取り払った後に残るもの 編 vol.10
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/19 08:20
「痛ってぇぇ…っ…誰だ?何すんだ!??ったく!」

案の定、犯人は倉下だった。

「おっはよ~~~っっ♪お元気ぃ??」

俺は「よぉ」と、素っ気無い返事をして、トボトボと歩いていく。

 中学時代高校時代と一緒のクラスだったコイツは、俺とは腐れ縁の幼な馴染み。趣味は人間観察という…イカレてる変な女だ。スポーツも出来ないし、頭も悪い…救いようもないヤツ。…まぁ憎めないヤツではあるが…。

 すると…彼女は俺をジーと見て、笑って言った。

「沼ちゃん!!いま私のこと…バカにしてたでしょ??」

…人間観察が趣味だけあって、異常に勘が鋭い。これも彼女を変人だと思わせている一因だった。彼女は予備校前までついてくる。

「ん?倉下、お前…講義受けるのか??」

彼女はニンマリ笑って答える。

「受けるょ?さすがの私でも、夏期講習初日からサボれないワ♪」

機嫌がいいと、セリフの語尾にメロディがつく。このテンションの高さも一因して一部の人間や女子からはとても嫌われていた。

「そっか。珍しいな。せっかく梅雨が明けたってのに…また雨でも降らなきゃいいが…」

俺の嫌味を華麗にスルーして、彼女は言う。

「ほい。これ私の」

彼女の手にある登録された講義時間割表を見ると…、

「なんだ、…結構被ってんじゃん。げ…一限目から…」

予備校内に入り、二人で教室に行くと、緒山君という友人がいる。席に座って…退屈そうにペンを回している。

「おっ!緒山君、おはよう!」

声をかける。俺や倉下は彼とは予備校で知り合った。新しい友人だ。

「おっやま君っ!!おっはょょ~ん♪」

彼の顔を見た倉下も挨拶する。

「おはよ」

と、愛想なく挨拶した彼は、眠そうにペンを触っている。彼の眠気を覚ますために…俺は、彼が大好きな人の名前を挙げる。

「緒山君?ついさっき朱里ちゃん、売店のとこにいたぜ」

彼は目を見開いて、話に食いつく。

「マジで!??今日もう来てんの??」

一気にテンションが上がった彼は、

「ちょ、俺…売店行ってくるわ。ノート頼むな」

と言い残し、足早に去っていく。朱里ちゃんとは、今年の一浪メンバーで可愛さナンバーワンと言われる、みんなのアイドルのことだ。もちろん緒山君にとっても、それは例外ではない。一目見れば癒されて、二目見れば恋に落ちて、三度見れば告白を決意するという…天使の生まれ変わりのようなルックスを持つ女性だ。…倉下は、

「ふんっ!!私あの子きらーい。あんなちんちくりんのどこがいいのよ。胸なんてペッタンコだし、背も低いじゃない。…男ってさ、いっつもどいつもこいつも見る目ないのよねっっ!」

と、泣きそうな顔で怒りまくっている。自分だって胸はペッタンコのくせに…と思った瞬間、 ギロリと倉下に睨みつけられる。

(そうそう…。コイツは容易に…、しかも正確に人の心を読み取ってくるんだった…)

 俺は彼女に「すまんすまん」と謝って、席に座り、講義の用意をする。彼女も隣に座って、テキストやペンケースを取り出す。ふと彼女の持ち物を見ると…、テキストのど真ん中にはナイフかカッターかで突き刺したかのような…細くて荒い切れ目があって…表紙は赤く染まっていた。

「…なんなんだこれ?どうした?」

彼女は笑って言う。

「人ってさぁ、自分のことなんて知らない方が幸せよねぇ…」

はい、意味不明。

「はぁ?」

と、聞き返すと、

「テキストに包丁突き立てたら、中のケチャップが出てきたのょ♪ハンバーガーみたいな??」

と、またも意味不明なことを言う。長年の付き合いだけに…彼女が変人だということはわかっている。こういう意味不明な言葉を発することは今までにも多々あった。俺の気持ちも露知らず、倉下は平気の平左で続ける。

「…でも、とてもいいモノ見れちゃったワ♪」

倉下はニコニコ笑って言う。

「??…また人間観察か?」

俺がそう言うと、さらに顔をにこやかにさせて、

「ウン♪」

と、頷く。

 たった今、東京で講義をしている人気英語教師の姿が、大型スクリーンに映し出される。うちの予備校、代官山ゼミナール…通称代ゼミの特徴は、衛星を利用したサテラインの講義にある。これにより、地方在住の人間でも東京の第一線で活躍する講師の最新の講義を生で受けることが出来る。

講義が始まった。…倉下との話は中断されたが…

(また誰か倉下に深入りしたな…)

と、直感でわかる。なんたってコイツときたら…深く自分の心に立ち入った人間を…みなどうかさせちまうんだからなぁ…。犠牲者…は誰だか知らんが、気の毒になぁ。

「ある意味…朱里ちゃんよりスゴイわ…こいつ…」

ボソリと皮肉めいた独り言を言ったが…当の本人は、開始五分でとても眠そうに、コックリコックリと舟を漕いでいた。



[29581] 精神の交錯 編 vol.01
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/20 07:42
精神の交錯


 その日はとても寒かった。…まぁ丁度いい。暑いのより寒い方がいい。

「暑いのは辛抱たまらんけど…、寒いのは着て動けば、それで終いだからな」

独り言を言う。車を駐車場に停めて、助手席の鞄を取り肩にかける。迷い、戸惑い、恐ろしさなんかは微塵も無い。…あるのは少々の緊張と、多大な興奮と憤りだけだ。そうして、俺は銀行に入った。

 …辺りを見回す。

「いらっしゃいませー」

ここ、九ヶ星銀行熊本帯山支店は、熊本県は熊本市の中心街から、少々西に行ったところにある。店舗自体は大きく客も多い。午後二時、閉店前。今日は従業員が二十人ほど、客は十五人程度といったところか。

「チッ…」

舌打ちして、店の中央まで行く。肩の鞄を床に置き、中にある猟銃を取り出した。ほとんどの人間は、俺の行動に気付いてすらいない。異変に気付いた人間も、ハトが豆鉄砲を食らった様に「え?まさか?」と呆けている。俺はまず…天井に向けて、数発威嚇射撃した。

「バンバンバンッ!!」

ピシピシと音を立てて、天井が軋む。

 一瞬の間の後…その場にいた人間が、まちまちの行動を取る。腰が抜けてその場に倒れこむ者、とっさに逃げ出す者、両手を上げる者、大声で叫ぶ者、あまりの唐突さに呆けている者…反応は様々である。窓口にいた従業員の男が、隣の女子行員に、

「おい、警察に連絡を!!」

と言う。

「…アホウが」

…なぜこのように馬鹿げた行動を取る?…警察に連絡してどうなる?銃を持った強盗を挑発するかね普通?バカにも程があるぞ…。俺は銃口を従業員の男に向けて、容赦なく引き鉄を引いた。そして叫ぶ。

「全員静まれッッ!!!!その場を動くなッッッ!!!!!」

言って、

「…死にたく無ければな」

と、静かに付け足すと、とりあえずの収拾はついた。その場に残された音は、静寂に浮かぶ子供の泣き声だけであった。出入り口付近にいた客数人が逃げているのが見える。

「チッ…」

 射殺した男の横にいる女子行員に言う。

「お金。一千万」

と、鞄をトスンと窓口に置く。彼女は先ほどの発砲の際に逸れた弾が腕に当たって、出血していた。彼女は絶句したまま…俺には見えない角度にある通報ボタンを押そうとする。

「はぁ…」

と、溜息をついて、銃のつかで女子行員の頭を殴り突き倒す。

「よく聞けッッ!!妙な動きをしたものは殺す。客は窓口の端に集まれ!!」

動きは悪いものの…客は各々そろそろと恐る恐る歩き、窓口の横のスペースに集まる。

「行員はこっちだ!!」

と、窓口の中央に向かって指を指す。そして、

「オイ、そこの老けたの」

と、年の頃は五十歳くらいか、その男を指差して、

「金を持って来い。一千万…いや、二千万円だ。急げ」

ゆっくりと落ち着いて言った。男はもじもじして、

「こ、ここには、…それほどの大金は置いて…いません…」

と言う。

「はぁ…。…だったらなお前?金庫から持ってくるしかないよな?…行員やってるんだったら、大学くらい出とるんだろ?…頭使えッ!!」

と叫び散らすと、その男はまだもじもじしている。その時、店内に警官が入ってくる。警官は一人だった。

「おいこら、お前大人しくしろっ!」

振り向きざまに発砲する。弾は銃を構えてすらいない警官の胸に直撃して…彼は倒れこむ。…あらら、ありゃ即死だ。今日はよく当たるな…と、冷静に思いつつも舌打ちする。

「チッ…」

おそらくは逃げ出した客が呼んだのであろう。この調子では…じき警官がぞろぞろと集まってくる。やつらときたら…上はただの税金泥棒や利権犯罪者のくせに、下は使い捨て雑巾のように補充が利くからな。

「早く金を用意しろッ!」

他の行員にも言う。先ほどの警官の連れであろう、また別の警官が二人、店の中に入ってくる。

「両手を上げろっ!!」

しかし、銃を構えるより先に撃つ。先ほどと同じ。二人片付ける間に、もう一人の警官が発砲した弾はまったくの外れで、俺の近くにいた客の首の辺りを打ち抜いている。客や行員が声とも言えない声を叫び上げる。

「…こりゃ助からんな。警官が民間人を撃つとは…、税金盗んだだけじゃ飽き足らず、身体的にも苦しめますか」

言って、警官に撃たれた男の腹の辺りを撃ちとどめをさす。

「…こんな状態で生かしとくやつは悪魔だ。苦しんでいる者は楽にさしてあげんといかん」

客と行員は、恐怖のどん底に落とされたという絶望の表情をしている。血の匂いと異常な空気感がこの異質な空間に充満する。行員の中には吐いている者もいる。泣きじゃくっている者もいる。

「シャッターを閉めろ!」

行員に言う。全面のシャッターが閉じられる。外の騒音が聞こえなくなり、ここ…機能を失った銀行の中に、完全に特異な空間が生まれた。

「支店長はどいつだ??」

俺は静かに言う、数人の行員の視線が集まったのは、先ほどの老けた男だった。

「なんで素直にお金を出さなかった?」

男はもじもじして喋らない。

「お前は自分の部下と金を天秤にかけて、金を選んだのか?」

男は恐る恐る答える。

「ち、違います」

「じゃあ、なんでだ?保身のためか?…金を盗られたら、責任問題だが…部下が死んでも被害者扱い、上手く生き残れば英雄だもんな…?」

「…アホウが」

と、言って彼を射殺する。血飛沫が舞う。

「お前がさっさと金を出していれば、俺は逃げて誰も死なず、それで済む話だろうが」

次に年を取っていると思われる男に、冷たく静かに話しかける。

「もう十分勉強したろ?…金だ。金を用意しろ」

言って、外の雰囲気に気づく…。外には百人はいるであろう大規模の警官隊が到着していた。窓からそれを確認する。

「はぁ…」

と、溜息をついて、言った。

「計画変更…だな。…とりあえずは…金は要らん」

俺はまず、第二の目的のために動くことにした。



[29581] 精神の交錯 編 vol.02
Name: antipas group◆e7e7618c ID:b5dd6933
Date: 2011/10/21 08:10
 警官隊を指揮している俺は、一般人だけでなく、警官にも犠牲者が出ているとの報告を受けて、ようやくコトの重要性を認識した。犯人の身元は特定できていない。どうにかして中の情報を得なければ…。人質は…数十人はいるだろう。…誰かとコンタクトを取って…いや、目撃者によると犯人は一人だ。時間を稼いで、心身共に弱ったところに突入した方が安全かもしれない。しかし…犯人は異常なほど強暴だ。下手に時間をおくと…人質を殺していく可能性は極めて高い。それに、数十時間の時間稼ぎともなると簡単なことではない…。かと言って…強行突破すれば、奴は何をするかわからない。報告によればなんの躊躇もなく発砲している。猟銃…。犯人はそれなりの発砲訓練を受けているのは間違いないだろう。

「…難しい」

思わず口にする。

 周囲一体は封鎖され、警官が行き交い、すでに数社のマスコミが到着している。現場の雰囲気は騒然としていた。

 それなのに…嫌味なほどに空は晴れていた。雲一つ無い…。天は人事なぞ興味ないと言わんばかりに、古くから変わることのない眩しき光をさんさんと世界に放っていた。

 散々考えた後、そこに出た結論はセオリーどおりだった。

「冷静に動いているのなら、話くらいはできるだろう。説得してみよう」

続けて命令を下す。

「犯人から外部に接触は無い…もう少し情報を集めて、銀行に電話を入れてみようか。店舗内から死角になる箇所を探して、見取り図に描いてくれ。包囲は崩さず、前方は犯人を刺激しないような言葉で呼びかけろ。マスコミが紛れ込まないように気をつけるんだ。あと…市内で猟銃所持の許可を受けていて、最近銃、弾、その他用具を購入してる人間をリストアップするんだ」

 目撃者情報から、犯人が三十歳程度の痩せ型男性だとはわかっている。シャッターが降りていて銀行の中は確認できない。まずは身元を特定しなければ、電話も出来ない。不幸中の幸いか…今のところ、犯人側に目立った動きは無い。今のうちに先手を取っておかなくては、後々動きにくくなる…。

 俄然、現場は慌しくなっていく。にもかかわらず、晴天の日は落ちる気配もない。俺は天を見上げた。陽は先刻と同じ。我関せずと言わんばかりに煌々としていた。


俺は人質全員を一列に並べさせて、自己紹介をさせる。

「名前と、年と、職業を言え…。こうなったのも何かの縁だ。お互いのことを知っていてもバチは当たらんだろう?」

そう言って、まず自分を紹介する。

「俺の名前は筧だ。筧光也、三十九歳だ。職業はなぁ…前まで公務員をやっとった。家族は母と姉がいるだけだ」

人質は恐る恐る震えながらも、俺の話を黙って聞いている。大概に長い時間泣いていた子供も今は泣き止んでいて、音といえばシャッターの向こう側から、警官が話す拡声器の音が聞こえているくらいだ。シャッター、壁やガラスを隔てて、世間から遠く隔離された異常で凄惨な空間に、俺の声が静かに響き渡った。

「金を要求したのは借金があるからだ。本来なら今頃金を返して…家でテレビでも見てる予定だったんだがな」

言って、

「…借りた物は何をしてでも返さんといかん。人としてのルールだ。けじめだ。…俺は中卒でろくに働き先も無かった。母や姉には迷惑を掛けたくなかったし、借金は多い。それだけじゃない。世の中に対して思うこともある…」

「チッ…」

舌打ちして、言う。

「お前、お前から順に自己紹介しろ」

一番手前にいた男性の行員に話しかける。

「おお、お、俺は近くに、すす、住んでいます、な、な、名前は…」

聞くにかねて口を挟む。

「アホウが…行員だったら喋るのも仕事のうちだろうが。シャキッとせんか!プロとしての気概を見せてみろ!」

彼は、

「は、はい…」

と、たどたどしく言葉を続ける。

「な、名前は田畑和寿です、三十歳です。職業は銀行員です…」

「…銀行員だってことは見たらわかるだろ。次!」

次は女性の行員だ。

「た、た、高島まどかです。二十二歳です。県庁の近くにす、住んでいます…」

「いいところに住んでるじゃないか。親と同居か??」

彼女は恐る恐る…俺とは目線を合わさずに言う。

「は、っはい…」

「そうか、…その若さであんなとこにはなかなか住めんわな。親孝行しなきゃいかんぞ。…次!」

「斉藤四郎で、です。年は四十六歳ですす…す。嫁と子供がいます…どうか命だけは…」

「アホウが…」

そう言って、俺は彼の太股を撃ち抜いた。彼は叫び声を上げて失神する。

「助かりたいのは皆同じじゃないか!自分だけ助かろうと思って…しかも嫁子供をダシに使うとは、お前はそれでも男かッッ!!」

叫ぶ。人質の悲痛な叫び声と、すすり泣く声が聞こえる。

「…若い娘さんでも命乞いなどしとらん。それでも年いった男か…アホウが」

言って続ける。

「お前らは平和に慣れすぎとるから恐ろしいんじゃ。信念を強く持たんで、流されるように生きとるからそうなるんだ!…次!」

自己紹介は進んで、一般人である客の番となる。先ほどまで泣きじゃくっていた子供を連れた女性が立つ。

「さ、佐田かおるで、です。子供は…こ、こっちが…が、徹で…こっちが智で、です…」

その目と表情から「子供だけは助けてください」と言いたいのがわかる。だが、そう言えば先ほどの行員のように撃たれるかもしれない。子供を助けたいが…何をどうすればいいのかわからない…という感情が伝わってくる。痛いほどに。俺は、兄と思われる体が大きい方の子供に話しかけた。

「徹ちゃんか…お前、怖いか?」

男の子は泣きそうになりながらも、黙ってうなずく。

「そうか、怖いか。…でもな、お兄ちゃんてのはな、心を強く持って、どんな状況でも弟やお母ちゃんを守らんといかん。わかるな?」

子供は黙って頷く。

「そうか、強い子だ」

そう言って、今度は母親に言う。

「おい、お前…、弟は逃がしてやる。シャッター開けて出してやれ。智ちゃんだっけか?逃がしたら戻ってこい。そのまま逃げたら…兄ちゃんの方は殺す」

母親はものすごく意外そうな顔をした後、

「あ、ありがとうございます!」

と言って、弟を連れてシャッターのほうへ走っていった。

「ありがとうって…人殺しに礼言ってどうすんじゃい」

ブツブツと言っていると、母親が戻ってくる。母親はまたお礼を言う。

「チッ…アホウが…、次!」

 人間、不思議なもので、どんなに異常な状況に身を晒されようとも、時間経過と共に慣れというものが生じてくる。後になればなるほど、自己紹介もスムーズになる。残る人数も少ない。さっきから俺のことをじっと見ている少女が立つ。彼女は、

「私は倉下梓です。十三歳、中学生です」

と、静かに落ち着いた声で言う。ガキだからこの事態が飲み込めないという訳でもあるまい。



[29581] 精神の交錯 編 vol.03
Name: antipas group◆e7e7618c ID:3ddf0398
Date: 2011/10/22 08:00
 しかし、その子はあまりにも冷静で、そして可愛かった。顔立ちはきれいに整っていて、目は大きく、鼻筋も通っている。真っ黒で透き通るようなストレートヘアで、髪型はショートボブ。身長は低く、最近の発育のいい外人顔のマセた子供とは違って、顔も体もまだまだあどけない子供だというルックスだった。制服は近所の帯山中学のもので、白の運動靴に白のハイソックス、紺のセーラー服だった。

「帯山中学か?姉の娘が昔通っとった。…ガキの割に、肝っ玉が据わってて立派だ。他のモンもこれくらい堂々と振舞わんといかんぞ」

他の人質全員に聞こえるようにそう言う。…ふと視線を感じ、女の子が俺の顔を凝視しているのに気付く。

「??梓ちゃん…だったか?…なんか俺の顔についてるか?」

彼女はニッコリと笑って。

「うん。筧のおじさん、お顔に血がついてる!」

と、明らかに場違いな声のトーンで言う。彼女の声により…この異常な場が、変に歪に入り組んで、奇妙になった。他の客が、この子が殺されないようにと祈っているのもわかる。このガキは俺のことが恐ろしくないのか。…などと考えながらも、ここにきて初めて、名前を呼ばれたことを喜んでいる自分もいた。

「血か?そりゃ怖かっただろ?悪かったな。…そこの行員、タオル持って来い」

と、ニタリと笑って言う。手渡されたタオルで顔を拭う…気分の高揚のせいか、今まで気がつかなかったが、俺はかなりの返り血を浴びていた。

 こうして自己紹介が済むと、少々リラックスしたムードにならなくもない。そこには行員は十三人、客は十一人、合計二十四人の人質がいた。こいつらは…まったく知らない仲から、人質へと…互いの関係が変わったことには気付いただろうか。

(フン…運が悪いな…。だがこれもまた人生よ)

俺はカウンター奥、一箇所に集めた人質に、

「大人しくしてれば殺さん。だが妙な動きをすれば殺す。何かやるんなら…ちゃんと死を覚悟して行動しろ!」

と言って、一時間ほどは警官や行員であった、死体をズルズルと引きずって、フロアの端に積む。あたりには血の匂いが充満していた。行員の一人が、先ほど太股を打ち抜かれた男を抱きかかえて言う。

「す、すいませんが…か、彼の手当てはダメ…でしょうか?」

「はぁ…」

と溜息をついて、銃口を上げる。少し緩んでいた場に、一気に緊張が走った。…その時、

「待って、外の様子がおかしい…」

先ほどの女子中学生のガキが声を上げる。俺は彼女に銃口を向けなおした。彼女はたじろぎも焦りもせず、

「テレビをつけて…確認した方がいいわ。筧さん」

と言う。彼女は表情や声のトーンこそ冷静なものの、ゴクリと生唾を飲み込む音が聞こえ、内心は相応に緊張してるのがわかった。しかし、彼女の言うことも考えなければいけない。内輪でゴタゴタとしている余裕なぞ無い。強盗限らずなんでもそうだ。

 警察に動きがあったか…勢いにまかせてシャッターを閉めさせてしまったが…、これでは外の様子がほとんどわからない。うむ…。

 慌てて行員にテレビを点けさせると、そこには完全に包囲されているこの建物の姿があった。

「…犯人の身元、行動、目的は一切不明です。一部で金銭目的と伝えられていますが、依然金銭の要求の連絡はなく、当局はテロの可能性も視野に入れて…」

チャンネルをいくら回しても…多くの局ですでに大事件として報道されている。それも大層に…大仰に…。

(はっはは、まぁそりゃそうか。こりゃ腹をくくるしかないな…)

改めてそう思う。

(う~ん、警察と連絡が取れないことには動けないな…こうなればもう…)


「真田さん!」

こちらへ走ってきた部下の一人が叫ぶ。

「猟銃所持者のリストアップできました!っていうか、もうコイツでしょう。最近、弾を大量に購入していて、前科が有ります。店主の情報と目撃者の言っていた風貌も一致します。筧光也という男です!」

手渡された書類にさっと目を通す。とにかく話をしないことには…もう少し情報が欲しいが…。情報が少ない状態で、下手に刺激すれば…やはりもうしばらくは情報収集したほうがいいか…。いや、あまり間を置いて人質に何かあれば…マスコミは初動の遅れが原因…だとか報道しかねない。…手っ取り早いのは、窓際に誘き寄せて射殺することだが…殺すと人権屋のマスコミや政治家が五月蝿い…すでに殺すなとの上層部からの圧力もある。発生から三時間くらいか…。もう少しは大丈夫だろうか。いや、どっちにしても叩かれるのならもう…。

「そいつと断定して話を進める。筧の情報を徹底的に集めて持って来るんだ。当たり前だが、確定しないうちは、マスコミには絶対に漏らすな」

部下に命令を下す。また別の警官がこちらへ来る。

「見取り図できました!」

俺はその図を見て、現場にいる警官に指示した。

「まず、マスコミのヘリとカメラをどけさせろ。犯人にこっちの動きが漏れれば、こっちは動きようがない。そしてシャッターに穴を開けて、カメラ仕込むぞ。ここと、ここ、ここ、ここもだ」

俺は見取り図を指差して、現場警官に言う。

「狙撃手とテロ対策班も呼んでくれ。位置関係次第ではガスを使う」

また他の警官が来て言う。

「真田さん、また上です。わかった範囲内でいいから、現状の報告をくれと言っています…。あとマスコミも、情報と今後の対応方針を聞きたいと言っています。会見を開けとか何とか…」

報告の途中で、また別の警官が駈けてくる。

「社会党の議員を名乗る者からも電話が入っています。現場の指揮官を出さなければ、本庁を通して連絡を取ることになると、言っておりますが…」

アホか…と思って言う。

「できる限り速やかに対応すると伝えろ」

現場はさらに慌しくなる。マスコミを抑え、重装備の警官がシャッターに穴を開けに行く。カメラは調達するまで、まだしばらくは時間がかかる。…情報が無いと、動くに動けん。人質が時間を稼いでくれていることを祈るしかない…。


 俺は上機嫌だった。この異質な空間を支配しているのは俺だ。ここでは俺が王様だ。望んで言えば…なんでも通る。俺は、女性行員二人にマッサージを言いつけ、体を揉み解してもらっていた。そして座り込んでいる人質全員と適当に話をする。そいつ個人の話、生活の話、社会の話、世間の話、日本の話、世界の話、教養や学問の話、人生の話…時間はたっぷりある。今、この場においては望んだもん勝ちだ。俺だけの話だがな。俺は一人の人質に言う。

「お前はどうやって生活してる?」

「はぁ、八百屋です」

最初の発砲から数時間は経過している。さすがに人質は落ち着き、この惨状の場にも少しは慣れた感があった。

「生活は大変か?」

「はい、輸入物の野菜と、大手のスーパーが出来てからは以前のように…いきません」

「そうか…、安くて安全が保障されてりゃ、客はどうしてもそっちを買っちまうもんな。十年、二十年先を考えて店の経営をしないといかんな」

「はぁ、その通りです」

「子供はいるのか?小さいか?」

「はい、上が十二歳、下は九歳です」

「じゃあまだ金が要るな。この不況じゃあ、再就職もままならんし、野菜が売れるといいんだがな…」

言って、横の女に話しかける。

「お前は、職業はなんだ?」

「しゅ、主婦です」

「結婚してるのか。旦那はなにしとる?」

「会社員です。ルート営業で…」

「営業か…だったらサービス残業や休日出勤が多いんじゃないのか?ちゃんと家に帰ってきてるか?労務環境はしっかりしてるか?子供はちゃんと育てられてるか?」

「い、忙しそうにしてます…おっしゃるとおり、残業や休日出勤は多いです。子供は…」

と言って、お腹を気にした仕草を見せる。

「なんだお前?…もしかして妊婦か」

「は、は、…はい。三ヶ月です…」

殺されるかもしれないという緊張のためか、目を固く瞑って祈るような表情で、女はそう答えた。俺は、

「…そりゃ悪かったな。気分は悪くないか?歩けるか?…流産でもしたら、気の毒な話だ。おい、お前!」

言って、行員の一人の男性を呼ぶ。

「は、はい…」

男は空ろな表情で答える。

「おまえ、この妊婦さんをここから連れて出してやれ。外へ出したら警官に救急車を呼べと伝えろ。…それが済んだら…お前は戻ってこい」

皆が驚くような表情を見せる。人を躊躇なく殺したかと思えば、子供や妊婦を解放したり、何を考えているか本当にわからないといった顔つきだ。



[29581] 精神の交錯 編 vol.04
Name: antipas group◆e7e7618c ID:3ddf0398
Date: 2011/10/23 05:05
「…鬼や悪魔じゃない。俺だって人間だ。妊婦だと知って、それを殺すようなヤツは人間じゃない」

女性は、

「あ、ありがとうございます…」

と言って、男性にもたれかかり、外へ出て行こうと歩く。

その姿を見守っていると、シャッターを上げた男性は、女性の前へ回り込み、彼女を盾にするようにして、自分だけ一目散に外へと走って逃げていった。女性はその場に倒れこみ、こっちを振り返る。困惑したような、どうしていいのかわからないような表情で俺の方を見る。

「アホウが…。おい」

一番手前にいた人物を見る。中学生のガキか。彼女は、今の出来事を食い入るように見ていた。…人間の最も汚らわしい部分を見たんだ。注目するのも当然だ。俺は、自己紹介の時の彼女の毅然とした態度を思い出した。

「ガキ、お前行けるか?」

彼女はこっちを見ずにコクリと頷いて、スクッと立ち上がり、妊婦の方へ駆けていった。

「大丈夫?立てる?」

妊婦に話しかけているのが聞こえる、妊婦は腰が抜けているように見えた。彼女は小さい体で妊婦を支えて、シャッターの向こう側へと消えていった。


 現場は騒然としていた。シャッターが上がり、男がこちらへ走って逃げてくる。服装から見て筧ではない。…行員だ。

「人質だっ!すぐに保護してやれ!!」

と叫ぶ。…これで情報が手に入る、動き易くなるぞ、と思っていると、今度は女性を横から支えて、ヨロヨロと出てくるセーラー服の子供が見える。負傷しているのか??

「おい!!彼女達も至急保護しろっ!医療班と救急車をここへ呼んでこいっ!!」

数人の警官が彼女達に駆け寄っていく。…子供の方が何かを話しているが、ここまでは聞こえない。女はぐったりしている。撃たれた??瀕死だから解放したのか?…それにしては出血も無いな、と思って見ていると、セーラー服の女児は、警官を振り払って…店舗内へと走って戻って行った。警官が戻ってきて報告する。

「真田さん、先の男性は何故解放されたのかわかりませんが、女性はどうも妊婦のようです。筧は彼女を哀れんで逃がしてやった模様です」

俺はセーラー服のほうが気になった。

「子供はなんで戻った?なぜ戻した?」

警官は眉をしかめて言う。

「犯人は逆上すると何をするかわからない。簡単に人を殺す。が、礼節や道理を通すことをわきまえている一面もあり、犯人の価値観にそぐう行動をとっていれば、今のところ殺される心配はないと…」

「…そして、中の方が面白いから戻る。戻らなければ他の人が殺される。とかなんとか言って、戻りました」

…面白いから戻る?戻らないと殺される?…子供の割に妙に冷静だな。しかし…ストックホルム症候群が出ている。人質が犯人側に協力すれば、解決は段違いに難解になる。しかし…下手に刺激できない状況には変わりない…。

「あとガスは使うな、とも言っていました」

警官が付け足す。

「…わかった。…どうしたものかな」

と腕組みして考える。


 ガキが扉を開けて、こちらへ戻ってくる。…戻ってくるとは思わなかった。ガキも解放するつもりで行かせたんだが…。

「なんで戻ってきた?」

ガキに問う。

「…見ておきたいものがあるから」

彼女はボソッと小声で言って、

「妊婦さん、筧さんにお礼を言っていたわ」

お礼なんてどうでもいい。俺は人質全員に言った。

「お前ら、今のを見てどう思う?」

続ける。

「大の男が自分だけ助かりたいがために、弱っている女性…しかも、妊娠している女性を盾にして逃げていく…」

皆黙って聞いている。

「…人間の醜さの最骨頂だ」

「…お前らは悔しくないのか?…一部の人間が得をする社会の搾取システム、公務員は民間人を小馬鹿にするように税金を無駄使いし、果ては裏金に、手当て不正受給、年を取れば勤務中には遊び呆け、身内中で犯罪が発覚しても内々に済ます。政治家は中韓に媚を売り、税金を垂れ流しては見返りを受ける。他国からは舐められて、延々とさもあらん名義を立てて金を要求され、領土の主張もろくにできず、国債を発行し続け、未来の国民にそれを背負わせ自分は楽をする。中韓の留学生などには大量の生活補助金を普及させておきながら、年金需給の高齢者にはスズメの涙ほどの金も出さん。挙句に外国人に参政権を与えるだとかの笑い話を真顔で平気でぬかす」

「そうこう言っている間にも、政治家や公務員はひたすら私腹を肥やす。当の一般の国民はというと、生活苦と就職難、就労意欲の減退、少子高齢化、結婚率の低下、デフレに円高…。汗水垂らして働いても、異常な労働時間と業務内容、トカゲの尻尾切り、責任の擦り付けにあい…やっと貰った安い給与では、結婚もできず、子供も作れず、車も持てず…。挙句の果てに…こんな場末の銀行で、恐怖のどん底に突き落とされ、妊婦を囮にして、自分だけは逃げおおせるという、無礼非道の行為を平気で行う。…そうまでして、生きていたい世の中か?」

「現代では泣いているのは…いつもおまえら一般の人間だ。…にも関わらず、何の行動も起こさずに、酒を飲んでは愚痴をこぼすのが関の山。唯一与えられた力である選挙権すら生かしもしない。恥ずかしいとは思わんか!?情けないとは思わんか!?欲に塗れた公務員や、売国政治家が憎いとは思わんのかッ!!?」

突然意味のわからない話をされて、人質はみな怯えていた。その様に反比例して、俺は話が続くにしたがって、みるみる興奮していくのが自分でもわかる。…その時、

「ルルルルルルッ、ルルルルルルッ、」

電話が鳴る。幾分か興奮をおさめて言う。

「そこの女…、いや…ガキがいい。ガキ、お前は使えるやつだ。電話を取れ。俺の言っていることを伝えるんだ」

電話口でどもられては会話にならん。落ち着いたガキの方が都合いい。ガキは無言で電話の傍まで行って、そっと電話を取った。



[29581] 精神の交錯 編 vol.05
Name: antipas group◆e7e7618c ID:3ddf0398
Date: 2011/10/24 07:53
 辺りは真っ暗になっている。情報は出揃った。やはり筧光也で間違いない。唯一の肉親である母と姉、昔の上司などの近しい人物も現場へ呼び寄せている。状況次第では、彼女達も電話に出てもらい、説得に当たってもらう。

 筧を知る人間が言う…彼の人間像も入手した。彼は、

「筧は普段は温厚だが、ちょっとしたことで癇癪を起こす。逆上すると、何をするかわからない。その反面、礼儀は正しく他の人間の面倒見も良く慕われていた…」

と話していた。先ほど銀行内に戻っていった子供の人質の証言とも一致する。俺は、

「…よし、これくらいの情報があれば話は出来るだろう。…電話して接触してみよう」

と言って、電話を手にする。電話をかけると、

「…はい」

女性の声だ。あきらかに筧ではない。

「…私は真田といって、今回の人質篭城事件の対策本部を指揮している者だ。君は人質の方か?筧はどうした?」

聞くと、女性は筧に話を伝えているようだ。

「筧さんは、電話に直接は出ません。あなたや親族と話をするのを嫌がっています」

説得や交渉はお見通しか…。

「現場の状況を話して欲しい」

言うと、また筧と話しているようだ。

「そちらからの問いかけに応じる気はないそうです。食事を持ってくるように、と言っています。三十分以内に用意しないと…私を殺すそうです」

銃口でも突きつけられているのだろうか。彼女は淡々と話す。俺は、

「食事の準備を…」

と、近くの部下に言う。

「…あとそちらの電話番号、他にドリンク剤や毛布、雑誌や新聞も用意して欲しいと言っています」

「わかった、用意しよう。096-×××-××××だ」

それだけ言うと、電話は一方的に切られる。…弱ったな。これでは誘き寄せる手や説得する手は使えない。ふん…なかなか用心深いじゃないか。


 しばらくすると、作業服を着た二人の男が、

「我々は食材を運び入れに来た」

と言って、夕飯となるべき食材を次々と運んでくる。しかし…

「なんだあれは??」

俺が目にしたのは、カップラーメンだった。お湯はポットで運び込まれてくる。俺は出入り口に運び込まれているカップラーメンを見ながら、行員の男に、

「…おい、あれを受け取って来い」

と指図する。行員の男が出入り口まで行ったのを確認してから、その他の人質に言う。

「お前ら、伏せてろ…」

そして、行員の男と、荷物を運び込んだ業者風の男…どうせ警官だろうが…に向けて、発砲した。二人ともに弾は数発命中する。同時に、

「動くなッ!!」

と叫んで、もう一人の作業服の男の動きを静止する。男はどこから出したのか、銃を手にしていた。

「おい、真田とかいうアホウに言っとけ」

「おまえら…警官は、世の中の人々が必死で払った税金で裏金を作っては…私腹を肥やしているというのに…。いざこんな犯罪が起こって、世の中のなんの罪も無い人間が腹を空かしてるのを前にして、カップラーメンなんぞ食わすのか??」

そして、少々の間をおいて言う。

「…さすが、公務員様は常識知らずだなぁ」

続ける。

「マヌケ警察がッ!!仲間が死んだのも、人質が死んだのも、全部お前らの職業意識の低さの表れだ。もちっと勉強して来いッッ!!」

そう言って、生き残った警官に、相方と行員の死体を運ばせる。被弾した業者の格好をした警官は、防弾チョッキを仕込んでいたのだろう、息も意識もあった。死んだのは行員だけ。まったく、仕事の出来ない警官だ。

「なぜこんな簡単なことを…まともに対応できんのだ??」

俺は呆れてそう呟く。しばらくすると、店屋物やサンドイッチ、ワイン、お茶、ジュース、ビタミン剤、医薬品、毛布、電気アンカ、雑誌、新聞紙などが銀行内に次々と運び込まれてくる。

「人が死なんとわからんのか…」

俺は再度呆れる。そして、客で一番年を取ってそうな男に話しかけた。

「…おい、お前は何歳だ?」

男はビックリしつつも、はきはきと答える。

「は、はい、七十七歳です」

なんだ…、年寄りだとは思っていたが。見た目はもっと若く見えた。最近の年よりは何かと頑張っているもんな。問題がある年よりも多いが。

「そうか、…その年じゃきつかったろう。悪かったな爺さん」

と言って、サンドイッチやビタミン剤を手渡す。

「これ飲んで、家帰りな」

ガキを呼ぶ。

「ガキ!爺さんをシャッターのところまで送ってやってくれ。…お前は戻って来いよ」

「はーい」

と、お茶をぐびぐび飲んでいた彼女は、気の抜けた返事をして、トテトテと爺さんのそばまで小走りに駈けていった。彼の手を取って、出入り口まで連れて行く。

「もう大丈夫だよ。ゆっくり歩こう」

ガキが爺さんに話しかける声が聞こえる。二人が、シャッターが腰の辺りまで上がっている出入り口まで行くと、警官がわらわらと群がってくる。しばらくすると、ガキはこちらへ駆けて戻ってきた。

「お前は…死ぬのは怖いか?」

戯れで銃口をガキに向けて言う。ガキはそれでも…顔色一つ変えないで返事した。

「怖いよ」

…怖そうには見えない。今気付いたが…こいつ、どこか達観している感じがあるな。目が怯えていないし、死んでいない…むしろ目は生き生きとしている。どこかしらに感じる違和感は…態度だけでなく、ガキの目線や考え方にもあるような気がした。

「いやに大人びたガキだ。…名前は?高倉あずさだったか?」

「倉下…、倉下あずさ」

ガキは飄々と答える。

「…飯食えよ。みんなも飯食え。食べないともたんぞ。…長い夜になりそうだからな…」

ガキに命令して、人質みんなに平等に食事や毛布などが行き渡るようにさせる。ガキは、一人一人に、

「食べたら元気出るわよ」

「きっと無事に解放されるわ」

「気分が悪いなら、横になるといいよ」

などと笑顔で話しかけて、元気付けてから食料や毛布、アンカを手渡す。その妙に余裕がある姿に一瞬イラついて銃口を上げたが…、女子供を殺しても後味が悪いだけだと考えて…止めた。普通でないガキだ…。当人は、俺の動作には気付かず、最後の一人に食事を配り終えると、初めに太股を打ち抜いた男性を指してこう言った。

「この人を外に出してあげて」

俺は、睨みつけて言う。

「…それはお前がどうこうと言うことじゃないな」

さすがにこの発言にはムカついて、銃口を男に向ける。男は失神したままだ。誰かが服を巻いていたのか、出血は止まっているようにも見えた。ガキが言う。

「…冷静になって。殺してもなんのメリットも無い。殺すくらいなら解放して…警察に条件を飲ませた方がましよ」

言って、

「それに…このままだったら邪魔よ」

冷たくそう付け加えた。俺はゾクッとして…笑った。

「ははははッ、邪魔と来たか。お前何様だ?」

俺は銃口をガキに向けて言った。



[29581] 精神の交錯 編 vol.06
Name: antipas group◆e7e7618c ID:3ddf0398
Date: 2011/10/25 08:00
彼女は目線を背けず、一歩も引かずに答える。

「私はただの人質。怪我した彼のおかげで、私たちはいつこうなるかと怯えてるわ。端に山積みになっている死体と一緒に、警察に引き渡した方がいいわ」

「筧さんだって、死体をあんなにしておくのは心が痛むでしょ?早く弔ってあげないと」

そして、また、

「そのうち…きっとすごく臭うわ」

と、冷酷に付け加えた。

確かに。最初に殺した行員や警官の死体は、かなりの血の異臭を放ち、見た目も凄惨な状態になっている。死体…弔い…臭い…。そうきたか。上手いことを言いやがる。

「チッ…」

俺は軽く舌打ちして、ガキに言った。

「その死にぞこないを連れていって警察に渡せ。死体も回収するように言え」

ガキは、ほっと一息ついて、男性を抱き起こす。隣に居た女性が、

「わ、私も手伝う」

と、ガキの反対側から男性を支える。待ってましたと言わんばかりに。

「…見え見えだな。アホウが…」

俺は、小声で誰にも聞こえぬように呟いた。そのままゆっくりと出入り口まで行って…シャッターを上げると、女はガキと男性を突き飛ばして、シャッターをくぐり抜けようとする。ガキが叫ぶ。

「伏せてっ!!」

もう遅い。俺の放った銃弾は、見事女性の頭部に命中して、彼女は息絶えた。警官が集まってくる。ガキは今にも泣き出しそうな顔で、警官に男性を引き渡す。そして、警官と一言二言話して、こちらにトボトボと帰ってきた。…血塗れの姿で。

「二度も通用すると思ったのか。…女にしては浅はかだ」

ガキは無言で床にへたり込んだ。無理もない。目の前で人の脳味噌が飛び散らかったんだ。PTSDってやつにでもなるのかね…。だがまぁそれも人生だ…。そんなことを思っていると、ガキは、

「…死体を回収するために警官が中に入るって…。二人で、武器は携帯せずに入って来てって伝えたわ」

と、目線を俺に合わせずに言う。それからすぐに警官が入ってくる。連中は約束どおり、死体を回収しただけで戻った。


 大腿部に怪我をした男性が解放され、死体を回収した数時間後の…明け方には小さい子供と、その母親を解放する代わりに食事を要求。それ以降、目立った動きは無い。その後、こちらはシャッターに穴を空け、カメラを仕込んだことにより、筧と人質の動きが確認できるようになった。解放された人質から、現場の細かい話や雰囲気を聞いたが…、筧はまだまだ疲れを見せていない様子だ。

 現場では、筧を誘き寄せて射殺しようとの案も出て…決定しかけたが…。上層部から「人権屋の政治家の強い圧力がある。射殺だけは避けろ」との絶対命令が出たことにより、却下された。前回の電話からこっち、筧はこちらの電話にも呼びかけにも対応しない。今のところ、向こうに動きが無い限り、こちらも動けない…正直、万策尽きて…こう着状態という感じだった。

 …電話が鳴る。

「真田さんっ!」

部下をはじめ、一同一気に緊張が走る。電話を取る。

「もしもし」

「もしもし、私は銀行内の人質です」

先ほどの女性だ。

「こちらでお金を用意しましたので、このお金を新市街の丸罰…?金融の小暮さん…?まで、届けて欲しいそうです」

所々を筧に確認しているのだろう。言葉を継いで話している。

「これが届けられたら、小暮さんからこちらへ電話するように伝えて下さい。確認が出来たら、人質を三人解放するそうです」

 彼女は、淡々と用件のみを言う。カメラで確認すると…電話の主は、さっきからなにかの度に出入り口を行き来している、セーラー服の子供だった。筧は電話口からは離れた所にいる。他の人質の傍にいるのが確認できた。電話口の傍にいれば、シャッターの穴から狙撃できるが…。現場の判断で強行して、後から言い訳しようか…とも思っていたが、これではその手段も取れない。

 射殺すれば…上から大目玉を食らって、一生窓際は間違いない。かと言って、このままこう着状態が続けば、マスコミや世論からの批判を受け、俺は責任者として処分される可能性は大だ。強引に踏み込んで…そりゃ、死者も出ず、筧を拘束して解決できればラクだが…。解決できなければ、結局バッシングを浴びてやられちまう。もちろん、まともな作戦もなく強引にやって…それで成功する確率なんて、砂粒ほども無い…。

(くそう…俺のキャリアもこう着状態じゃないかっ。どうせ干されるなら、一人でも多くの人質を救った方がマシだな…)

俺は苦虫を噛み潰したような表情で、銀行を仰ぎ見た。 

 全面のシャッターは五十センチ程度だが…下の方が開かれており、誰かが近寄ったら、すぐにわかるようになっていた。カメラの穴は、横の閉まりきっているシャッターや、背面の窓に取り付けられたものだ。横のシャッターは建物の前半分にしかないため、カウンター奥に行かれると、内部は若干見えにくくなる。カメラでさえそうなので、狙撃となるとほぼ不可能であった。

「…わかった。すぐに手配しよう」

と、電話口の彼女に返答すると、直ぐに電話は切られた。


「これで一つ肩の荷が下りるわい…」

俺はそう言って、皆にも酒を飲ませた。未成年は女のガキと、自己紹介の時に逃がしたガキの兄ちゃんだけだ。それ以外にはいない。ガキにはジュースを飲ませた。

 夜が明けてから、俺は残った行員にお金を片っ端から集めさせ、鞄に詰めて、借金返済の手配をした。またも女のガキに電話させる。…準備は整った。ほどなくして警官が入ってくる。

「おい、この鞄を警官に渡してこい」

ガキに言う。

「うん」

彼女は鞄を重そうに持って、よろよろと警官のところまで歩いていく。鞄を渡すと、すぐに戻ってくる。…逃げるチャンスは幾度もあっただろうに…。このガキは逃げない。確信と言えるほどの直感を俺は感じていた。このガキは何か目的があって、ここにいる。おそらくは…人質全員を助けようとでも、目論んでいるのだろうが。

(ガキのくせに健気なもんだ…)

と思って、ウイスキーをぐいと煽る。

 一時間ほど経つと、電話が掛かってきた。ガキに取らせると、

「小暮さんって人。お金…届いたって」

と言ってくる。

「そうか」

これで目的のうち一つは達成した。俺は人質三人を、適当に客の中から選んで解放した。

 あとは…。俺は、人質を完全に集めて「動いたら殺す」と言いつける。そして、鞄の中から、筆と墨、硯などを出して、おそらくは遺書となるであろう文章を書くことにした。墨を摺る音が寂しげに銀行内に響いて、音が届く分だけだが、その場の緊張を緩和させた。



[29581] 精神の交錯 編 vol.07
Name: antipas group◆e7e7618c ID:3ddf0398
Date: 2011/10/26 07:53
日本国民の諸君

現在の日本国を見るにその政治は腐りに腐り、国官の者も腐敗した姿をしている。

この因は日本の政治家の失策のみに非ず。敵国の策略であり、テロリズムに因る。

敵国は日本の政治家を金で抱き込み、自国民を日本国内に様々な形で入国させ、長い時間をかけて、日本公務の中枢に自国分子を配置する。これは、我が国の民主主義的手段に則り、我が国に不利かつ敵国に有利な法案や決まりごとを作って、然るべき機関に通し、日本を生ける屍とし、敵国の操り人形として、大量の金銭を奪い取るものを旨とするものなり。

この策すでに適度の成功の益を見せり。小子化の折で日本人は増えず、大量の支援金を受ける敵国民は多くの子供を生み、留学や企業研修と称して日本国内に入ってくる成人と合わせて、その数を着々と増やし、いずれは民主主義的手法をとって、国の形態を保ちながら、内部のみを奪い取る心積もりである。

大変に遺憾ながら我が国日本は、この術中に見事に嵌り、すでに抵抗することも逃亡する事も不可能な状態である。さらに断固抵抗すべき立場にある国民も日々の生活に疲れ、若者は政治に興味を持たず、成人はなんとか自分の身を守ろうと、なんの役にも立たない金銭を収拾することに終始する有様である。

我輩これを黙って見るに絶えずここに筆を取って見解を述べるに至る。皆もこれを理解すれば、各々自覚と愛国心を持って、敵国のテロリズムを打ち破るべく、真実の思想を基に戦い抜いて欲しいと心から願うばかりである。

一九××年一月某日 筧光也


 書き上げたばかりの文書を丁重に折りたたみ、銀行の中央の机に置く。こうしていれば警官が見つけて、お節介なマスコミがなんとかこれを盗み見て報道するであろう。

 よし、それでは…最大の目的を果すときが来る。俺はガキに食事を運び込むよう警察に連絡させた。英気を養うため、心を静かに置いて瞑想する。

(国を滅ぼすのに銃に爆弾、刃物はいらず。スパイを使い、合法的に長い時間をかけて弱らせ、ある日の選挙を持って民主的に国を乗っ取る。これこそ現代における静かなる戦争。この事実を国民に知らせるため、我は命を捨て他人の命をも犠牲として餌にし、マスコミをおびき寄せ、この事実を白日の下に晒しあげる)

「マスコミがあの文書を嗅ぎ付ければ…みな否が応でもわかるはずだ…」

俺は呟いて、宙を見た。

 食事が運び込まれて、俺は行員の人質を一人解放した。人質の精神状態は限界を超えていて、眠っている…いや、失神している者やグッタリしている者ばかりだ。会話もまるで無い。

 …ここまで強行突破や狙撃がないと言うことは、警察は俺を説得する策で対応する腹積もりでいるのだろう。人権家が裏にいるに違いない…しかし、それももう限界なはずだ。強行突破を含め、そろそろ事態を収拾すべく動くはずだ。やるなら早い方がいい。俺を説得させるのなら…アイツも来ているはずだ。

「おい」

俺はガキに話しかける。体操座りして顔を伏せていたガキは、パッと反応して、顔を起こしてこちらを見る。さすがに少々疲れている様子だが、他の人質に比べると、まだ目は生き生きとしている。…こいつとは色々あったが、精神の強さは人並み以上…群を抜いていると思った。

「なぁに?」

彼女は…少しくまが出来た目で、俺をじっと見ている。俺は静かに言った。

「電話を頼む」


 二晩目の夜が更ける。テレビ局の報道を通して、包囲の具合やこちらの人数等がリアルタイムで筧に流れている。あの男は…頭は狂っているが切れる。…もうすでにマスコミには「ただ犯人の言いなりに~」だとか「まったく手が出せず、今もこう着状態~」などと好き勝手に書かれて叩かれている。残りの人質だけでも救わなければ…などと考えていると、上層部の使いがやってくる。彼は、

「真田君、我々としては圧力も怖いが…このまま人質が殺され続ける方が恐ろしい。説得して隙を見て捕らえるというスタンスは崩さずに…だが、射殺も視野に入れて、作戦を練り直してくれ」

と、まだ悠長なことを言っている。

 筧は先ほど食事を差し入れた時、人質を一人解放している。人質の数も少なくなってきたし、栄養剤や酒を飲んでいても、体力的に限界近いだろう。…もちろん後で回収はするが、金は奴の指定した業者に届けた。目的を達成したと思っているならば、心も緩むはず…。射殺が許可されるのなら、早くコトを行って終わらせるべきだ…。唐突に電話が鳴る。…銀行の番号。またも一気に辺りの空気が変わる。

「もしもし」

いつもの女児だ。

「…どうかしたか?」

「筧さんに言われて掛けています。今から私が言う人と話がしたいと言っています」

話?なんでいまさら…。

「母と姉、そして昔の上司だった仲原さんという方です。彼女達を現場に呼んではくれませんか?」

彼女は淡々とした口調で言う。…その三人はすでに現場にいる。話をしたいと言うなら、筧本人が電話口に出るはずだ…ここで片をつける。彼らと話をさせるからと言っておびき寄せて、射殺。…無難な策だ。

「わかった、ではすぐに呼ぶよう手配するから、少し待っていてくれ」

「…わかりました」

電話は切れる。俺はその場にいる警官に言う。

「筧が、母と姉と上司と話をしたいと言ってきた。奴が電話のそばに来れば狙撃できる」

上司の顔を伺う。彼は止むを得ないという表情をして、

「細かい部分の報告は私の方でどうにかする。それで行こう」

と言う。どうやら、彼も個人的には人権家が嫌いなようだ。

「わかりました。…筧には手配すると言って時間を稼いである。今のうちに狙撃手は位置についてくれ。発砲と同時に突入する」

現場の緊張感はさらに上がって、最高潮に達しようとしていた。


「…ガキ」

俺は銃を拭きあげて、腹にサラシを巻く。

「母と姉はどうでもいい。むしろ話もしたくない。仲原という人間と話をするだけだ」

ガキは無言で俺の目を見ている。

「電話が掛かってきたら、彼に入り口まで来るように言ってくれ」

彼女は静かに答える。

「死ぬのね」

俺は驚いた。…その唐突な言葉に。

「…?どういうことだ?」

「あなた、死ぬわ」

彼女は静かにそう言った。確かに俺は死ににいくつもりだ。だが、何故…それがこいつにわかる?彼女は続ける…。

「三人はあの現場にいるわ。強行突破もしない、狙撃もしない。警察は最初から今までずっと筧さんを殺さずに説得しようとしてた。筧さんが会いたいと名前を上げるほどの人を現場に呼んでないわけない」

俺は答える。

「それがどうした?」

ガキは続ける。

「…なのに彼らは手配するから待てと言ったわ。時間を稼いで指揮を取って…今度は筧さんを殺すつもり…」

言って、

「…わかってるんでしょう?」

と、付け足す。

ガキのくせに…。思えば、俺は何度コイツをガキのくせにと思っただろう。異質で異常な空間にいるせいで…今まで気がつかなかったが…コイツこそ異常だ。何を見てもたじろがないし…戸惑わない。年齢やこの混沌の場にそぐわない冷静な判断力と行動力…。俺は言う。

「…お前はなんだ?…何者だ?」


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